今回は1/24の神社新報に掲載された記事を掲載します。
鄭成功を祀る廟から神社へ
もともとの開山神社は一般民衆の信仰対象である開山王廟で、台湾を占拠してゐたオランダ人を追放し、一六六二年に死去した鄭成功を祀る。その後、廟の規模を拡大して腹心の甘輝および萬禮将軍とともに鄭成功を祀る福州式建築廟となった。一八七四年、清朝で時の欽差大臣に任じられてゐた沈葆¥外字(946b)が台湾視察に渡台した際、鄭成功の遺勲に対して堂宇を改築し、延平郡王祠とした。
日本統治の開始から間もない明治三十年(一八九七)一月十三日、延平郡王祠は台湾における最初の県社に列格。同時に開山神社と改称したが、あくまでも従来と同じ福州式建築廟であった。
日本統治時代、開山神社は二度改築されてゐる。福州式建築廟となって以後、とくに大規模な修繕もおこなはれなかったために建物の老巧化が著しくなり、明治四十一年(一九〇八)、社殿の修繕と社務所の拡張が計画された。台南庁長の更迭やその他の事情により工期が大幅に遅れ、大正三年(一九一四)八月になって起工。大正四年(一九一五)、鄭成功の命日である五月八日に新装・開山神社にて遷座祭が執りおこなはれた。
遷座祭では京都で新調した神輿に御霊代が奉安され、渡御が執りおこなはれた。これが現在の延平郡王祠に残る神輿であらう。
純神社式の建築に移行
蟻害が甚だしくなり、また同時に皇民化運動により寺廟様式を純神社式の建築に改築すべく、昭和十一年(一九三六)、県社列格四十周年を機会に二度目の大改築が計画された。
総費用二十七万五千円を全島より募り、昭和十四年(一九三九)に着工。社殿は多少東南向きに変更し、昭和十六年(一九四一)四月二十六日に遷座式が執りおこなはれた。建築様式は流造が採用され、旧社殿は多少手が加へられたうへで記念物として元の場所に保存された。
再び福州式に母親も祀られ
開山神社は終戦後の昭和二十五年(一九五〇)に再度改築され鉄筋コンクリートの中国北方式建築となった。さらに、昭和六十年(一九八五)には開山王廟当時の福州式建築に改築され、名も延平郡王祠と改められた。この際に、鄭成功の母親である田川松が「翁太妃祠」として祀られた。
現在は年に一度、行政院(内閣)が主催する祭典が催される。鄭成功の出生地といふ縁があり、長崎県平戸市もこの祭典に人を派遣してゐる。
今も残る狛犬 鳥居の一部も
延平郡王祠の中門の両側には一対の中国式獅子が、今や鄭成功を加護する役目を授かるかのやうに見える。正殿に向かって、右側の祭器所には当時使用された「お神輿」が展示されてゐる。また、左側の祭器所には御神酒をあげるとっくり、皿および三方が展示されてゐる。
中庭には石灯籠の宝珠が三つ残ってゐる。また、文化資料館横には明神鳥居の笠木と島木の部分が何の説明もなく残されてゐるのは驚き以外の何物でもない。
改築前の開山神社
現在の延平郡王祠
鳥居の笠木と島木。全長約七メートル
とっくり、皿や三方も残されてゐる
開山神社
▼鎮座日=明治三十年一月十三日▼祭神=鄭成功▼例祭日=四月三十日▼沿革=明治三十年一月十三日県社列格▼鎮座地=台南市開山町▼現住所=台南市中西区開山路一五二号(延平郡王祠)
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