久しぶりに投稿します。
阿緱神社のあった屏東公園の体育館裏の順利路側にまわると鐘塔がある。この鐘塔は阿緱神社の社号碑である。以前の場所は、この位置から少し移ったようである。その奥に拝殿や本殿があった。
久しぶりに投稿します。
阿緱神社のあった屏東公園の体育館裏の順利路側にまわると鐘塔がある。この鐘塔は阿緱神社の社号碑である。以前の場所は、この位置から少し移ったようである。その奥に拝殿や本殿があった。
前回の第一代高雄神社であった金比羅神社を「高雄市鼓山区興国路12号にある法興禅寺一帯」と紹介しましたが、神社跡地の訂正をします。
これは、高雄での調査ではいつもお世話になっている文史研究家でもある廖宗さんによる考察です。廖さんは過去の金比羅神社の写真および古地図を基に地理的状況を克明に調査し、最終的に高雄市萬壽路100巷の第五海岸巡防総隊裏にあるバスケットボールコート一帯であることに間違いがないと判断しました。
早速、金比羅神社の跡地を訪問した写真を掲載しますので、ご覧下さい。また、コート傍の巨木も往時の神社写真に写っているものです。
廖徳宗さん(左)と郭吉清さん(右 高雄市旧城文化協会理事長)です
高雄神社の前身は打狗金刀比羅神社であり、明治43年(1911)10月31日、讃岐金刀比羅神社の分霊を迎え、鎮座した。氏子総代古賀三千人が中心となり、高雄に住む日本の漁民によって敷地面積22,300坪の壽山東麓に打狗金刀比羅神社が創建された。そして、大正9年(1920)5月8日、これまでの大物主神および崇徳天皇に能久親王を合祀することにより打狗金刀比羅神社を打狗神社と改称する。その後、同年12月14日に高雄神社と改称される。
昭和3年(1928)11月8日、現在の壽山の山腹に遷座するが、第一代高雄神社は、現在の高雄市鼓山区興国路12号にある法興禅寺一帯に造営された。遷座後、この地に金光教打狗布教所が建てられた。牌樓
唯一の遺跡は、壽山公園入口の牌楼から旧参道に続く空き地に宝珠が残っている。
法興禅寺 壽山公園入口
宝珠
今月のゴールデンウィークを利用して、短期間の取材旅行に出かけてきました。高雄では、高雄のIT関係の会社を経営する傍ら左営旧城の歴史研究を行っている廖徳宗さんおよび郭吉清さん(高雄市旧城文化協会顧問)と合流し、左営旧城内の西自助新村に残る震洋部隊の舎営所跡および営内神社(軍隊の敷地内に造営された神社の呼称)である震洋神社の遺蹟(基壇、手水鉢、石段)を確認してきました。これらが、震洋神社のものであるあることは、神奈川大学 海外神社研究会のメンバーである坂井久能先生の協力により、確証がとれており、海外にける営内神社としては非常に貴重な発見となりました。また、震洋部隊の実在が明確になり、更には第29部隊の格納壕も視察することができ、大きな収穫がありました。
今回の内容は、7月~8号の台湾協会報に掲載されますので、掲載後ブログにて紹介する予定です。お楽しみしてください。
スボン祠(屏東県春日郷士文村)
鎮座日:昭和15年5月15日、祭神:天照皇大神
大正9年の台湾地方改制の際、高雄州潮州郡の蕃地として10余のが形成された。昭和16年、台湾総督府は「スボン社」を現在の春日村西部へ移住させ、新集落に社名の「Kasuvongan」と音の近い和風地名「春日(かすが)社」と命名した。戦後は春日村を郷名として「春日郷」が設けられ高雄県の管轄とされ、1950年に屏東県に帰属するようになり現在に至っている。
屏146号を13㎞登りつめると、士文社のゲートに出会い、ここからがスボン社となる。古華国民小学士文分校で神社の情報を収集。昭和2年生まれの程中元(ツエンツオンユエン、日本名:中元一郎)さんにお会いし、士文路39の裏山に神社が建立されたことが判明した。神社が建立された場所は平地になっているとのことで、早速草木の茂る山中に入り込んだ。終戦後、日本人の手により、神社は取り壊されたが基壇のみは残っていたという。残念ながら、その基壇も1988年にブルドーザーにより整地され、神苑も今や山中の一部になっていた。
程さんによると、拝殿はないが、本殿と3基の鳥居からなる神社であったとのこと。そして、祭神は天照皇大神であった。
古華国民小学士文分校:
明治39年、率芒菜典公学校として設立。大正11年、率芒公学校に、そして昭和16年、須本国民学校と改称している。校庭に立派な「台湾二葉松」が2本ある。これは、日本人教師の大橋先生、小原先生、並びにパイワン族教師李清吉先生が当時の程中元(5年生)に植樹をさせたものであると案内板に書かれている。
写真12 手前の山中に神社が建立された
写真13 神社の位置を教えて頂いた程中元さん(中央)