カンボジアだより シーライツ

国際子ども権利センターのカンボジアプロジェクト・スタッフによるカンボジアの子どもとプロジェクトについてのお便り

増え続ける子どものレイプその1

2005年11月08日 00時37分47秒 | カンボジアの子ども
みなさんこんにちは、平野です。
新記録、7日連続更新!と思いきや、時差2時間の罠で8日扱いですね…最近非常にブログに反響をいただいています。といっても私のオリジナルではなく翻訳や他の方の翻訳したものの紹介なのですが、でもいいんです。カンボジアの状況を伝え、そしてみなさんに関心を持って読んでいただけるものであれば、これからもさまざま記事や資料に当たります。

今日は4日付のカンボジアデイリー紙より、深刻化する子どものレイプ被害について、ある一人の少女に起きた出来事を軸に伝える記事の翻訳です。やりきれない内容ですが、これもまたカンボジアの子どもが置かれた現状です。2回に分けてお送りします。

原題:For Child Rape Victims, the Pain Goes On
By Whitney Kvasger and Thet Sambath

翻訳:平野 監訳:甲斐田

見出しは段落の第一文、太字は訳者

<レイプ被害を受けた子どもの苦悩は終わらない>

バンテアイ・ミエンチェイ州

【目を伏せ、額にしわを寄せ、12歳のプン・シークは自宅前の人垣の中心にいた。】

コー・ソウル村の隣人たちは腰をかがめ、2000年のある夜、彼女がわずか8歳だったとき、どのように彼女が男にレイプされ、殴りつけられたのかに耳を傾けた。プーン・シークは縁側に座りひざを抱え、ささやくように話した。長い髪が彼女の顔を隠していた。彼女の母親は座り込んですすり泣き、最も年長の子どもが母親の肩をさすっていた。「彼は私をレイプしました。彼は私が叫ばないよう葉っぱで口をふさぎました」12歳の彼女は言った。「彼は私の足をつかみ、木の根元に押し付けました」

それから犯人の19歳のシエン・モンは、彼女を丸太で殴った。それは明らかに被害者を殺して彼の犯行の唯一の目撃者を永遠に沈黙させようという試みだった。彼女が翌朝ついに発見されたとき、犯人が彼女の両目も無惨にえぐっていたことがわかった。そのため彼女は今片目が見えず、もう一方も常に感染症に悩まされている。カンボジアには、人が死んでも、目は永遠に最後に見たものを焼き付けたままである、という迷信がある。レイプ犯や殺人者にとっては恐ろしい話だ。

彼女がこの事件から生還したのは奇跡といっていいだろう。しかし、今彼女に与えられた人生は、そのような考えにそぐわない。彼女はさまざまな面で見捨てられた存在であり、悪夢や、目の痛みや、狭まっていく視界と闘わなくてはならないだけでなく、“スティグマ”(訳注:社会的に押されてしまう烙印)とも闘っているのだ

伝統的に、レイプの被害にあった女性は配偶者を見つけるのは困難であり、多くの女性が経済的に夫に頼っているカンボジアの農村部では、彼女の希望はかすかである。このような現実に直面するカンボジア人の少女が増えてきている、と政府役人やNGO関係者は言う。彼らは、全国的にレイプの件数が増えており、そして被害者の年齢が下がっていることに注目している。

小さな女の子たちは、HIV/AIDSや他の性感染症を患っている可能性が低く、そして娘の名誉を守るためならなんでもするであろう両親は、レイプの被害にあった後、脅迫して黙らせることができるからだ、と女性省のイン・クター・パビーは言う。

【「かつて、人々は恥と思ってレイプ被害を警察に届けませんでした」】

イン・クター・パビーは言う。「私たちは、意識啓発キャンペーンをしています。女性や子どもに対するすべての暴力は犯罪であると訴えています。これは彼女たちが助けを求められるよう、法意識を喚起するものです」この12ヶ月で、18歳未満の子どもに対するレイプ被害の報告は増えた、と女性省の役人やアドホック(ADHOC),カンボジア女性クライシスセンター(CWCC)、リカド(LICADHO)といったNGOの関係者は語る。

以上、次回へ続く。

本当におぞましく、激しい怒りを禁じえない事件ですが、第2回では、彼女の母親のコメントを交え、本当にやりきれない現実を突きつけられます。次回も心してご覧になってください。

※写真は本文とは関係ありませんが、ADHOCの報告書より、ギャングレイプの被害者です。

ムー・ソクアさんを囲む会直前企画<ソクアさんインタビュー第三回/折れない心>

2005年11月06日 23時13分01秒 | その他
みなさんこんにちは、平野です。
6日連続の投稿です。昨日引き続き、11月7日の元女性省大臣ムー・ソクアさん囲む会直前企画として、彼女の激動に満ちた半生のインタビューをお届けします。3回連載の最終回です。今回のシリーズは、これまであまり人身売買やカンボジアに縁がなかった若い人達にも広く宣伝したのですが、昨日いただいたコメントを含め、さまざまな方から熱い反響をいただいております。今回も、ソクアさんの強さと優しさに圧倒されます。

出所:アジア女性資料センター2005年3月カンボジアスタディーツアー資料
翻訳:裏川久美子、岩崎久美子

原文:
http://www.globalfundforwomen.org/work/trafficking/garden-of-evil.html

邪悪の園
発行所 O・オプラマガジン社  著者  Carol Mithers、2004

※小見出しは各パラグラフの最初の一文。太字は筆者。

【ソクアは、また地方の村に住む人々に直接この問題を持っていく。】

「田んぼ、穴だらけの道路、ほこりにまみれて移動して回ります」とソクアは語る。「ひとつの村はそれぞれ100家族ぐらいでしょう。村人たちは私たちが映画を上映するところまで歩いてきます。私は、いつも聴衆の中からひとりの老婦人を選びます。『おばあさん、あなたのイアリングはとてもきれいですね! そして古いですね! どこで手に入れたのですか?』にっこり笑っておばあさんは答えるでしょう。『これは、40年前結婚した時のものです』」
『値打ちはどのぐらいですか?』
『うーん、わかりません。売ろうと思ったことがないので。』
『どうしてですか? おばあさん、どうして戦争中でもどんなときでも手放さなかったのですか?』
『なぜって、これはとてもかけがえのないものだからですよ、おじょうさん』

「そこなんです。老婦人のことがわかりました。そこでわたしは尋ねます。『他にかけがえのないものはなんですか?』と。『あなたの子どもたちはかけがえのないものです。あなたの娘さんたちをよそに行くままにすれば、家族の財産を失うことになるでしょう。娘さんたちはあなたがたの宝物です。愛してあげてください。教育を受けさせてください。守ってあげてください』。私が行く先々で、女性たちがやって来て言います。『今、あなたのおっしゃる意味がわかりました。娘を探さなくては!』そんな時、私たちは、情報を流すよう努めます。おそらくその少女たちの10パーセントは私たちが見つけ出しています」

 【ソクアはまた官公庁内の汚職に対しはっきり異を唱えている。】

「商業省、労働省、法務省、警察の中の汚職に対してです。数千もの児童が事実上都会の真ん中で売春宿にいて、外国のマスコミがそれを記事に取り上げているとき、一国の首相が知らないということがあるでしょうか」。真実をありのままに言うと、人身売買業者は犯罪組織の一味である可能性があるから、多くの土地では地方警察や村長らが関係していて、権力者たちはそこから利益を得ている、とソクアは語る。[女性の人身売買反対連合(CATW) の共同代表Janice Raymond氏によれば、性的人身売買は世界全体で年間約100億ドルにのぼる。カンボジアの場合は確たる数字がないが、国際労働機関(ILO)の推定によると、マレーシアやタイのような国々では、性産業は国内総生産(GDP)の2~14%を占めている。]
ソクアは、カンボジアの売春宿の顧客であることが判明している外国人小児性愛者のリストを作った。その目的は、彼らの入国を阻むこと、すでに入国している場合は国外追放させることである。ソクアによると、国外退去の措置を取ったあるアメリカ人は、何百人ものカンボジア人の子どもを使ってポルノのウエブサイトを運営していたという。

 五月、ソクアはタイとの交渉に仲介の労をとり、人身売買されたカンボジア人を不法移
民として収監するよりむしろ故郷へ戻すことができるようにした。ソクアはベトナムとも同様の協定をかわしている。たとえ成果は小さく見えとも、家族にとっては小さくない。「つい最近、7人の少女たちを家へ戻すことができました。数人は16歳未満でした。私も空港へ行きました。そして母親たちと、その涙と痛みを目の当たりにしました。母親たちは自分の子をしっかり捕まえて放しません。私も母親ですからとてもつらいです。自責の念と純真さの喪失、何ものをもってしても元には戻せません。しかも、これで一件落着というわけではないのです。この少女たちは、どのような感情的や心理的サポートが得られるでしょうか? 何もありません。ゼロです。少女たちは強くなって人生を歩まなければなりません。ですから『女性はかけがえのない宝物』であるというところに立ち返るのです。たとえそういう悲劇が少女たちに起こった後でさえ、今まで通り少女たちはかけがえのないものなのですから

 ソクアの作戦の仕上げは、女性たちに経済力を持たせて売買業者に対抗する力をつけようというものだ。「ほかに生きる道がなければ、人身売買はなくなりません」とソクアは言う。「現在およそ500万人の男性・女性・子どもたちが1日50セント足らずの稼ぎしかありません。そこで、若い女性と少女の85%が、仕事を求めて自分から村を出ていきます。おそらくそのうち15%は仕事を見つけるでしょう。では残りの人はどこに行くと思います?飢えに直面した女性たちは自分の子どもを性産業に売るのです」。ソクアはこうした人たちを断罪しようとはしない。「まず『娘を行かせたとき、親たちに選択の自由はあったのか』と自分に問いかける必要があります。選択の余地はなかったと思うのです。私たちは、小さいけれども優れたプログラムを村のレベルで立ち上げました。まず女性たちがカートを1台買うために100ドル借ります。次に地元で作った製品を旅行者に売ります。スローガンは『女性にチャンスを』です」。ソクアはためらいを見せる。「たまらなくなるのは、彼女たちが仕事を始めるのを助ける資金が十分作れないときです」

 【密売者や警察、自分の国の政府さえも批判しようとするソクアの意志は大きなリスクを伴う。】

まず、電話が盗聴される。渡米したときですら、絶えず振り返って警戒することになるという。自分の活動のために殺される可能性は「考えたくないもの」だ。絶えず人の悲惨さのただ中にいれば、精神的にも打撃を受ける。「そんなときは断ち切らなければ」とソクア。「荷が重すぎると感じるときはシャワーを浴びるのよ。うんと熱いお湯をどんどん流して、ものすごい冷水にして、また熱々のお湯にして、泣いて泣いて、泣くんです。人前で涙を見せるわけにはいきませんから。男性に泣き顔を見られたら言われますよ。『見てごらん、大臣だって女は泣くんだよ。女は本当に弱いねぇ』って。でも活動を続けなければ寝られません。子どもたちに会わせる顔がないと思うんです」(了)

※連載はこれで終了となります。明日のソクアさんを囲む会の模様は、近日国際子ども権利センターのホームページでお伝えする予定ですので、是非そちらもご覧下さい。 http//jicrc.org

写真出所:http://faculty.law.ubc.ca/cfls/files_cfls/pics/picture%20page.htm

ムー・ソクアさんを囲む会直前企画<ソクアさんインタビュー第二回/穏やさと鋼鉄のような強さ>

2005年11月05日 21時16分45秒 | Weblog
みなさんこんにちは、平野です。
5日連続の投稿です。昨日引き続き、11月7日の元女性省大臣ムー・ソクアさん囲む会直前企画として、彼女の激動に満ちた半生のインタビューをお届けします。3階連載の第2回です。最後までお見逃しなく。

出所:アジア女性資料センター2005年3月カンボジアスタディーツアー資料
翻訳:裏川久美子、岩崎久美子

原文:http://www.globalfundforwomen.org/work/trafficking/garden-of-evil.html

邪悪の園
発行所 O・オプラマガジン社  著者  Carol Mithers、2004

※小見出しは各パラグラフの最初の一文。太字は筆者。

 【カンボジアは世界で最もさかんに人身売買がおこなわれている中心地のひとつである。】

理論上は売春は違法である。しかし、実際問題として大多数のカンボジアの男性はしばしば女性を買う。1,300万の人口に対し8万人の性労働者がおり、その圧倒的多数は16歳未満である。わずか5歳の幼い子どもたちもベトナムからカンボジア、特にプノンペン郊外の村にこっそり連れてこられ、国内外の小児性愛者の欲望を満たしている。2002年『タイム』誌は、カンボジアを「性倒錯者たちの楽園」とする記事を掲載した。

 この地の人身売買の方法は他のどことも変わらない。誘拐された女性もいるし、仕事をやるからとだまされた女性も、売られて「借金」を返済しなければならないと聞かされた女性もいる。残りの家族を食べさせるためにひとりの娘を犠牲にせざるをえないほど死にものぐるいの親たちによって、子供たちが売られる場合も多い。その少女たちの多数は監禁され、なぐられ、毎日何十人もの客をとらされる。少女たちが外国に連れ去られ逃げようものなら、不法移民として収監されることもある。それどころか、なんとか家に戻れた少女たちは、たいてい家族から追い払われるのである。

 人身売買の最も気のめいる側面はその問題の根深さにあるが、ソクアはそれに対し断固闘う手ごわい闘士である。「ソクアは、この問題の根源へとせまる並外れた能力を持っている」と、サンフランシスコに事務所を置く「女性たちのためのグローバルファンド(Global Fund for Women)」 のプレジデント兼CEOのKavita Ramdas氏はこう語った。この団体はソクアのいくつかの活動に基金を提供している。問題の根源には、貧困や不十分な教育がある。「ソクアの持つ穏やかな資質が、鋼鉄のような内面の強さを包んでいる。一旦何かをすると決断すれば誰にも彼女を止められない。禅宗の仏教徒ならば彼女を水にたとえるだろう。水のように、きわめて穏やかに流れていても、何より堅い岩をもうがつ力があると。」

 【ソクアの不屈の精神は痛みから生まれた。】

ソクアは比較的裕福なプノンペンの家庭で育った。記憶に残る子ども時代は、愛情に包まれて、庇護され、安全だった。しかし、18歳を迎えた1972年までに、ベトナムにおけるアメリカの戦争がカンボジアにも拡がってきた。米軍の約50万トンもの爆弾が地方を爆撃するようになり、疎開させる余裕のある人々は子どもたちを国外へ出した。その年の6月、ソクアと姉にはパリへ向かう飛行機の最後の席を確保した。(兄弟はすでにカンボジアを離れていた。)「両親は飛行場にいました」とソクアは語る。その声は途切れがちだ。自らの人生の中でこの時期のことはいつもなら決して口にしないからである。「私たちは、さよならも言いませんでした。別れがあまりにつらかったのです」。その後二度と父や母と会えなかったために、別れをかわしていないことが絶えずソクアを悩ませている。1975年に急進的な共産主義者クメール・ルージュが権力を掌握し、そして両親は死と破壊の地獄のるつぼへと消えてしまった。カンボジアの人口のおおよそ四分の一が、処刑、拷問、過重労働、飢餓のために非業の死を遂げた。後に父親が飢えのために亡くなったことをソクアは聞かされた。母親の最期はなぞである。「知りたいと思いますが・・・」とささやくようにかすかな声で語る。「人はあきらめることを学ぶのですね。」

 18カ月パリで過ごした後、ソクアはカリフォルニアへと向かった。そこは兄の落ち着き場所で、ソクアはサンフランシスコ州立大学へ通った。家族の財産をすべて失なっていたので、ソクアは生活保護を受けて生活した。その後、ソクアはベイエリアに到着したカンボジア難民の再定住を支援する仕事を見つけた。「しかし、私はいつでも母国に帰りたかったのです。その夢を持ちつづけてきました。」と述べる。1979年、ベトナムのカンボジア侵攻がクメール・ルージュを敗北させた。1981年ソクアは、カリフォルニア大学バークレー校大学院から修士号を受けた。「それから、アメリカでの9年間の生活をひとつのスーツケースに詰めこんでアメリカを離れました」と述べた。

 【初めは、タイの国境沿いのみすぼらしい危険な難民キャンプで働いた。】

そこでソクアは、世界食糧計画(WFP)職員として働いていたアメリカ人で、夫となったScott Leiperと出会った。1983年に結婚し、一年後に長女Deviが生まれた。「私は子どもをタイにおいて、車で30分かけてカンボジアへ出かけました。砲撃の最中であれ、マラリアや結核患者であふれる病院の中であれ、どこにいようと数時間ごとにお乳をしぼるために仕事を中断したものです。それで私は授乳できました。持てるものはすべて娘に与えることがとても大切なことだったのです」。ソクアは回想する。1986年、Scottの仕事のため一家はイタリアへ渡った。そこで次女のThidaが生まれた。ソクアは1989年になって初めてプノンペンへ戻った。「私の育った家を探しに出かけました。」涙があふれてくる。「何もありませんでした。みんななくなっていました。しかし、私は再び戻れてとても運が良いのだと自分に言い聞かせました。子ども時代のことは忘れよう。私の子どもたちが自分のふるさとを見つけたのだから。」

 1991年、ソクアの三女Malikaが生まれてまもなくして、貸付プログラム(credit program)とドメスティックバイオレンス被害者のシェルター、地元の仏教の僧侶・尼僧たちと手を携えて開いた平和運動をひとつにまとめた女性団体をスタートさせた。その7年後、国民議会の候補者に立候補して当選した。その後まもなく、女性・退役軍人省の大臣に任じられた。それまでは常に男性が占めていたポストである。最初に取り組んだ仕事は、カンボジアの古い諺を書き変える国民運動であった。「その諺は『男は金、女は一枚の白い布きれ』というものです」。ソクアは言う。「考えてごらんなさい。泥の中に金のかけらを落としても洗えばきれいにできますよね。むしろ前よりきれいに輝くでしょう。でも白い布が汚れたらだいなしになります。もしあなたが純潔を失ったら、あるいはもしあなたが暴力で痛めつけられた女性なら、元の一枚の白い布には戻れません。それから一週間もしないうちに、私のスタッフの一員が『男は金、女はかけがえのない宝物』はどうかと提案してくれたのです」

 今や宝物として広く認知されている女性のイメージが、ソクアの人身売買禁止運動の中核となる考えになっている。ジェンダー不平等は、カンボジアでは今に始まったことではない。伝統的に女子は男子に比べ、教育を受ける可能性がはるかに低かった。ソクアが2003年にドメスティックバイオレンスを対処する法案を提案するまで、規制する法律はなかった。(その法案は事実上棚上げである。)広報もソクアの活動に非常に重要であり、そしてソクアはためらわずに勇気を持って外へ出て行く。一連のビデオ・テレビ広告のひとつでは、少女が家から売春宿へ連れて行かれて泣いているシーンと、首を切ってされる豚がキーキー悲鳴を上げるシーンを並べている。広告のエンディングは、男性に次々に強かんされる少女の叫び声、続いて厳しい警告が流れる。「女性も子供も人間です。動物ではありません」。

※明日で最終回、そして明後日が囲む会となります。囲む会のご案内はこちらです。http://blog.goo.ne.jp/jicrc-jp/

※なお、性労働者の人数や、子どもの占める割合については、様々なデータ、説が存在する事を念のため書き添えておきます。

写真の出所:http://www.rockmekong.org/photo/kmara_9/pages/02.htm

ムー・ソクアさんを囲む会直前企画<ソクアさんインタビュー第一回/夜の街に立つ大臣>

2005年11月04日 12時57分49秒 | その他
みなさんこんにちは、平野です。
4日連続の投稿です。これまでに引き続き、11月7日の元女性省大臣ムー・ソクアさん囲む会直前企画として、今回から3日連続で、彼女の激動に満ちた半生のインタビューをお届けしますのでお見逃しなく。

出所:アジア女性資料センター2005年3月カンボジアスタディーツアー資料
翻訳:裏川久美子、岩崎久美子

原文:http://www.globalfundforwomen.org/work/trafficking/garden-of-evil.html

邪悪の園
発行所 O・オプラマガジン社  著者  Carol Mithers、2004

※小見出しは各パラグラフの最初の一文。太字は筆者。

【カンボジアでは、少女たちの体は安価である。】

多くは16歳に満たない少女たちが、たびたび一晩に何十人もの客をとり、その売春行為に対しわずかな代償を得ている。なぜいまだにこんな状態が続いているのだろうか? その責任は貧困や汚職、女性を使い捨ての資源とみなす社会にある。Carol Mithersは、際立った人権活動家ムー・ソクアさんに、この悲劇をくいとめるための闘いについて話を聞いた。

深夜―カンボジア、プノンペン発 
蒸し暑い夜、セックスを求める男たちは、この優美な首都プノンペンの公園のはずれに群がる女たちのグループを漁る。その出会いは概して野卑で荒々しい。カンボジア首相官邸からほぼ見わたせる辺り、大木の下で男は女の胸を乱暴につかみ、セックスのため芝生に押し倒す。男は数分でことを済ませる。それから女は再びグループへと戻る。夜が更けるにつれてこのような光景は何度も何度も繰り広げられる。この陽気な買春者たちは、おそらく少女たちのほとんどが売買されて、強制的に、あるいはだまされて売春婦にさせられたことを知っている。男たちはそんなことはどうでもいいように見える。貧しい子供時代の苦労話など聞きたくもないし、生きるだけで精一杯なあまり、見知らぬ者から娘に都会で「仕事」があるといいかげんな約束をされて二つ返事をしてしまった親の話など、聞く耳を持たないのである。

 【しかし、そのような話こそが、少女たちの中に立つひとりの女性を悩ませる。】

他の女性たちよりだいぶ年上だが、スリムな体に厚化粧しぴっちりしたセクシーな服をまとったこの女性は闇の中で紛れている。客があらわれると、少女たちは守るようにその女性の前に立ちはだかる。女性は証人になるためにそこにいるのである。ムー・ソクア(50歳)はカンボジアの「女性・退役軍人省」の大臣を務めるかたわら、この公園での仕事を始めた。昨年夏、ムー・ソクアは、大臣の職を辞して野党入りした。売春をする少女たちと共に歩むことで厳しい現実を学び続けている。「公園の夜は怖くてたまりません。しかし、私は、暴力や虐待、あの少女たちの現実を感じとりたかったのです」と、ムー・ソクアは抑制のきいた熱情を込めて静かに語った。ソクアの物腰は無駄がなく落ち着いていた。「報告書を読むだけではこの現実を知ることはできないのです」

 街の通りで、ソクアは、警官が逮捕した女性にわいろを強要したり強かんしたりするという話を聞かされる。富裕層の若者たちが売春婦を輪姦することで結束を固めるというあばら屋の噂も耳にする。また貧しい女性や子供が性産業へとからめとられていく経路についても話を聞く。街の通りこそが、ソクアが売春生活の残酷で詳細な現実を吸収する場所である。公園でのセックスは、1米ドル相当の金額と交換される。しかも午後10時以降はさらに安くなり、ポン引きに半分は搾取される。ソクアが数えた少女は何百人もいる。多くはHIVに感染しており、ソクアの末娘と同じ13歳の少女たちもいる。「私はいつも涙をこらえています。全力を出し切ってこの現状をくい止められないわけがありません」とソクアは語る。

 【20年以上前、ソクアは米国の大学院を修了した。】                 

そのまま残って、社会福祉方面で比較的条件のよいキャリアを積むこともできただろう。だがその代わりカンボジアに帰国して、少女や女性たちのために情熱的に闘う闘士となったのである。戦争でこなごなに打ち砕かれた社会を公正で平等な社会に変えていこうというソクアの意欲が原動力になって、これまで彼女は現代の最悪の人権問題のひとつ、人身売買の問題にとりくんできたのである。

 セックスのための人身売買は何百万人もの犠牲者をだす世界的な人権蹂躙である。ネパールの女性はインドへ売られ、サブサハラ・アフリカ(サハラ砂漠以南のアフリカ)のアフリカ人はベルギーへ、ナイジェリア人はイタリア、ドイツ、フランスへ、フィリピン人は北米を始め世界中のどこへでも、そして旧ソ連圏諸国の女性はヨーロッパ中へ売られていく。2000年米国は、人身売買および暴力被害者保護法(VTVPA)を可決した。それは、100カ国以上の国々を対象に年一回ごとの評価を求めている。2003年には、子ども買春目的で海外を旅行する米国民の起訴が容易になった。にもかかわらず、主に東アジアや太平洋沿岸諸国出身のおおよそ一万人の少女や若い女性たちが、米国のストリップクラブ、マッサージパーラーや売春宿で働いているのである。

明日の第2回に続く(計3回)

写真の出所:http://www.womynsagenda.org/images/Programs/SexWorkerProgram/

ムーソクアさんを囲む会直前企画<民主主義への願いを込めたTシャツ>

2005年11月03日 19時19分04秒 | カンボジアの人権状況
みなさんこんにちは、平野です。
一昨日、昨日に続きまして、元女性省大臣ムー・ソクアさんを囲む会直前企画として、ソクアさんの娘さんであるティダさんがデザインした、民主主義への願いのこもったTシャツについてご本人のメッセージをお届けします。※小見出しと太字は訳者

【ティダさんの紹介】

私の名前はティダ・レイパーです。父はアメリカ人、母はカンボジア人です。16年をプノンペンで過ごした後、最近ロンドンに移りました。カンボジアではプノンペン・インターナショナルスクールに通っており、私が芸術を学んだのもそこでした。これからも芸術に取り組んでいきたいと思っていますが、ロンドン大学東洋アフリカ学学院で学ぶことを選びました。いつかカンボジアの発展に貢献したいと願っています。

【作品について】

カンボジアにおいては、民主主義は複雑で論議の的となる題材であり、私の作品の対象も、当初とは変わってきました。私ははじめ、カンボジアの民主主義のために戦い、不当にも死んでいった人たちを描いた芸術作品を目指しました。それから、私の活動を、今現在戦っている人たちに対する敬意を示すものにしたいとも思うようになりました。そして、民主主義のため戦ってきた人たちへの私の敬意を示すため、私が重大だと感じた出来事のイメージを取り入れました。それは、1997年の民主主義を求めるデモ行進に対する手榴弾攻撃(註1)、2004年の労働組合の委員長チア・ヴィチア氏のいまだ解明されない殺人事件(註2)、2003年の女性歌手トゥーッチ・スレイネ氏の襲撃事件(註3)、娘たちをレイプされて殺された母親たちです。

【希望をこめて】

私は作品の中でカンボジアの政治に存在する暴力や不正義を提示したいと思う一方で、希望のメッセージも表現したいと思っています。私は小型武器を解体した部品で作られた鳩のオブジェの絵と、野党サム・レンシー党の党首の演説「我々の夢は実現する」の引用を作品に取り入れました。私がこれらを取り入れたのは、カンボジアには暴力や闘争があるけれども、現政権内に存在する不正義や不処罰(註4)、腐敗に私たちが屈することはないという希望もまたある、というメッセージを描きたかったからです。

【訳者注】
(註1)1997年3月30日、サム・レンシー(以下SR)(現在SR党党首)が当時率いていた野党クメール国民党の党員約170人が、プノンペン市内で行ったデモ行進に4発の手榴弾が投げ込まれ、13才を含む15人が死亡した事件。SR党首は事件の陰に与党人民党のフン・セン第二首相(現首相)がいると発言したため、名誉毀損で訴えられている。

(註2)2004年1月の労働者の、特に縫製工場で働く女性たちの待遇改善のために熱心に闘ったことで知られ、SR氏の友人でもある労働組合委員長の殺害事件。新聞ばを買うところを、公衆の面前で殺害された。多くの支持者が追悼行進に参加し、世界各国からも怒りの声が挙がった。犯人と目される2人は逮捕されたが、冤罪説、身代わり説が根強い

詳しくはコチラ→http://jicrc.org/pc/material/chea/review.html

(註3)2003年10月25日、プノンペンで、SR党支持の人気女性歌手とその母親が襲われ、母親が死亡、歌手は顔面に銃弾2発を受けるひん死の重傷を負った事件。この事件の3日前にも、SR党支持者のラジオ番組ホストが殺害されている。当時、連立政権樹立問題をめぐり政情が緊迫しており、政争絡みと見られている。現在はアメリカで療養中。

(註4)不処罰…権力者や有力者、その親族等が犯罪に関っている場合、事件がうやむやにされてしまうことを指す。カンボジアに根強くある文化。


ムー・ソクアさんを囲む会直前企画<カンボジアの人権状況の今その2>

2005年11月02日 20時24分06秒 | カンボジアの人権状況
みなさんこんにちは、平野です。
昨日に引き続き、元女性省大臣ムー・ソクアさん囲む会を11月7日に控え、直前企画として、まさしく今のカンボジアの人権の状況についてお伝えしたいと思います。昨日と同じく、Human Rights Watch(ヒューマン・ライツ・ウォッチ、アメリカの大手人権NGO)の10月18日付のプレスりリースをもとに、10月17日に国営放送TVKで2時間に渡って放送されたフン・セン首相の演説の抜粋要約をお伝えします。

【元国王を侮辱し、軍を動かす、と示唆 】

10月17日のTVKの放送では、苛立ちながらのフン・セン首相の演説が2時間に渡った。彼は過去に遡り、ポルポト以前、シハヌークが国を率いていたときに様々な問題があった、歴史は変えられない、そして過去の事実に対する報いは、自分ではなく、シハヌークが受けるべきと元国王を皮肉り、クメールルージュと共闘した過去などもあげつらい、シハヌークを攻撃した。そして国境協定合意に対する反対者は許されぬと断じ、2人は既に逮捕したと述べ、他の4人についても名指しを避けつつ、それぞれの居所を示し、逮捕状は出ており、タイとは犯罪人引渡し協定がある、と述べた。また首相に批判的なトミコ殿下の名を挙げ、王族も起訴されうるとし、これは口だけではないと強く言った。

そして、NGOなど5人いれば設立できる、とNGOを軽んじた上で、他国に土地を譲渡した過去の王族の名を挙げ、シハヌークがそれでも王族を擁護するならば、自分にも自分を擁護する権利がある、とし、過去の経緯に基づく国境線に合意することで非難されるのが妥当だというのなら、国会議員を辞して裁判を受けてもいいと強調した。

さらに、これまで寛容すぎた、限界だ、法が許す限りの措置をとるし、法の枠を超えるのであれば軍を動かしてもいい、たとえ将軍であっても、従わなければ更迭する、と複数の将軍の実名を挙げて言い放った。

【自己正当化と国際社会へのけん制】

そして、NGOやラジオや新聞を閉鎖や廃刊や閉鎖に追い込んだわけではない、個人を逮捕しただけである、そしてそれも、間違った事を言ったからだ、と自分を正当化しつつ、自分は国を率いる者であり、自分や政府を擁護する権利があるし、議案を下院の審議に送ることもできる、そして下院を通ればそれが答えだ、上院にも、自分にも、王にも棄却はできない、なぜなら力は民にあるからだ、と延べ、国境協定には国家元首のサインが必要だが、下院を通ればそれが最後の行程であるべきであり、国王がサインできないというのであれば、共和制にすべきか考えるべきだ、と王政廃止に言及した

そして、人はフン・センが烈火の勢いで喋ったと言うだろうが、自分は長いこと我慢してきたのだ、NGOはどうぞ自分の業務を続けてください、外国人の方々はどうぞ干渉しないでください、と国際社会の介入を拒否し、(逮捕された人物は)国境を越えようとしていたが、UNHCR(国連高等難民弁務官)ではなく監獄が待っていた、タイのUNHCRは他の4人のうち2人を保護しているようだが、タイ政府に連絡して送還してもらおう、犯罪人引渡し協定があるのだから、と最後は国連機関にも言及しつつ述べた。

以上要約終了です。いかがでしょうか、この王をも恐れぬ物言いには、さすがにフンセン首相支持の市民などからも困惑の声が挙がっています。そして「議会制民主主義」を盾にし、NGOや国連機関に対する皮肉まで交え、自らを擁護すフン・セン首相。これまでも国連やアメリカに噛み付くことはありましたが、ここまでの怒りっぷりは記憶にありません。そしてこの首相の怒りに満ちた姿勢が、カンボジアを恐怖で覆っています。


ムー・ソクアさんを囲む会直前企画<カンボジアの人権状況の今>

2005年11月01日 18時02分44秒 | カンボジアの人権状況
みなさんこんにちは、平野です。
号外としてサラーンさんの紹介を一回挟み、今回から再度アフェシップの保育サービスについてお届けする予定でしたが、元女性省大臣ムー・ソクアさん囲む会を11月7日に控え、今回は直前企画として、Human Rights Watch(ヒューマン・ライツ・ウォッチ、アメリカの大手人権NGO)のプレスりリースをもとに、まさしく今のカンボジアの人権の状況についてお伝えしたいと思います。10月18日のものを抜粋して要約しています。http://hrw.org/english/docs/2005/10/18/cambod11892.htm


囲む会についてのご案内はこちらをご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/jicrc-jp/e/4579a2e61dafe14bb8b703773a7a8dcc

【首相は反対派の弾圧を始めた 活動家は逮捕を逃れようと試みている 言論の自由に対する新たなる攻撃である】
フン・セン首相は、政府に批判的な言動をしたというかどで最近逮捕した活動家を釈放し、活動家に対する全ての逮捕状をを取り下げ、彼がここ数日間で生み出した恐怖に満ちた情勢に終止符を打つべきである。フン・セン首相は、ベトナムとの国境についての協定に対する批判に対して、教職員組合のトップや、カンボジアで唯一の独立した(政党によるものでない)ラジオのディレクター、モム・ソノンドー氏を逮捕し、他にも市民活動家を逮捕しようと狙っている。

これは97年のフンセンによるクーデター以来最悪の弾圧である。国際社会は、この10年での基本的人権における進歩を逆行させるような行為は許されないことを首相にはっきり示さなくてはならない」とヒューマン・ライツ・ウォッチのブラッドアダムス、アジア局長は発表した。

モム・ソノンドー氏は、国境協定に批判的なフランス在住ののカンボジア人活動家をインタビューした理由で、逮捕された。やはり批判的な声明を出したNGO、the Cambodia Watchdog Council(CWC)の4人にも逮捕の手続きを取っており、「国土をベトナムに売った」などと批判する人間は反逆罪にあたり、すべて逮捕すると発表した。CWCの4人のうち1人である、カンボジア独立教職員組合の委員長、ロン・チュン氏は、亡命を求めてタイ国境を越えようとしたところを、逮捕状もないままに逮捕された。扇動罪なら最高5年の刑、名誉毀損罪なら最高1年の刑と2500ドルの罰金が科せられる。他には、カンボジア自由労働組合の委員長、民主主義のための学生運動の代表、そして公務員組合の委員長も訴えられている。

「反対派を黙らせるために法の執行がなされるべきではない。民主主義の社会では,議論を呼ぶような政治的決断をすれば、批判されることもあるという事をフン・セン首相は受け入れなくてはならない」とアダムスは語る。

フン・セン首相は、10月17日に放送されたテレビ演説の中で、王制の廃止に言及し、自分に従わないものは将軍でもクビにすると脅し、国際社会には不干渉を、タイ政府には、カンボジアからの亡命者の送還を要求した。

「タイ政府は、平和的なやり方で自分の政治信条を表明しただけで告訴された人たちの返還を検討することさえしてはいけない。そうすれば表現の自由弾圧の共謀になる」とアダムスは語る。

【国境策定問題~平野補足~】

国境策定問題は今カンボジアで最も議論を呼んでいる問題です。今回のベトナムとの合意自体は、1985年に結ばれた国境線規定協定の追加条項への合意という形になりますが、反対派にとっては、追加条項の合意は占領下の協定である1985年の協定自体を認めることになり、また、フランス統治時代に策定された国境線(the Brevie line)を、正式に国境線として認定することになります。これは、当時フランスの「保護領」だったカンボジアから、「直轄領」であったコーチシナに有利なようにフランスが引いた海上の国境線です。

コーチシナとは、カンボジア人には「カンプチア・クロム(下のほうのカンボジア)」と呼ばれるメコンデルタに位置するベトナムの南部3州で、ここは、ベトナムがクメール王朝の内紛に際して手に入れ、そして1862年フランスの侵攻に屈して差し出した地域です。この地域はメコンの恵みを受けた非常に肥沃な土地であり、今でも多くのクメール人が住んでいます。

※写真はパトカーに乗せられるその瞬間にも言論の自由を訴えるロン・チュン氏。次回はその10月17日の、フンセン首相の2時間に渡る火の出るような演説の抜粋要約をお届けします。