こんにちは、カンボジアの中川かすみです。前回に引き続き、エイズで父親を失ったマリーの紹介です。マリーはすでにエイズで倒れた母親と、幼い妹・弟を経済的に支えるため、お菓子を売って生計をたてていました。マリーはそんな困難な状況の中、小学校のときの先輩と再会し、彼とデートをする仲になりました。
彼は、ぜひマリーと恋人になって将来結婚したいと言い、彼の両親に正式にマリーを紹介しました。結婚前の男女がデートしている様子は、都市部では見られるようになってきましたが、それでもまだ多くの両親はいい顔をしません。田舎ではお見合い結婚がまだ普通であり、結婚前の男女が二人でどこかに行くのは「不良」のすることだと思われています。彼がマリーを両親に紹介したとき、マリーの両親がエイズに感染していることは黙っていました。きっと両親が差別するだろうと彼が配慮したのです。ところが、彼の両親は、マリーが豊かな家庭の娘でないことを理由に、息子がマリーと関係を続けることを禁止しました。彼は裕福な家庭の息子だったので、結婚相手も裕福な家庭でないと両親が主張したのです。彼はとても残念がりましたが、カンボジアの伝統では、両親の命令に背くことは社会的な制裁を受けることにつながるかもしれません。彼はしばらくは隠れてマリーに会っていましたが、だんだんその回数も減り、最後には彼がマリーと会うことはなくなりました。
マリーの母親も、二年ほど病床にあっただけで、あっけなく亡くなりました。マリーは妹と弟の四人だけで生きていかなければなりません。母親が死んだ時、近所の人たちはマリーたちを差別しました。ほんの小さなお葬式しか出せなかったものの、近所からは誰も参列してくれませんでした。マリーたちと話そうとする人もいませんでした。幸いマリーの妹の担任の先生はとても理解があって、クラスメートにエイズで生きる人たちを差別しないように教育してくれました。そのおかげで、妹たちが学校でいじめにあうことはほとんどありませんでした。これは非常に珍しいことで、エイズで両親を亡くした子どもがいじめのターゲットになって学校をやめる場合が少なくありません。両親が二人だけで地方から出てきたため、親戚ともほとんど付き合いはありません。
マリーは、妹たちと弟の三人を育てる義務を負ってしまいました。 お菓子を売る仕事だけでは妹たちを学校に送ることができなくなり、縫製工場で働くことにしました。マリーは、まだ十八歳になっていませんでした。カンボジアでは数え年で年齢を数えるので、まだ十七歳の時に縫製工場で働き始めたのです。一ヶ月五千円程の給料でしたが、家は自分たちの所有だったので、なんとか生活できました。でも、マリーは縫製工場の仕事が嫌いでした。工場の中の空気はどんよりと濁っていて、時々仕事中に倒れる従業員(ほとんどが女性)もいました。このまま仕事を続けて健康に害がないか、マリーは心配でした。また、男性の従業員がセクシャルハラスメントをすることも珍しくなく、体を触られたりして、マリーは不快な思いをしていました。
結局、友達の紹介でマリーはプノンペンでサービス業に就くことができ、今はその仕事に満足しています。以前恋人だった男性は、すでに裕福な家庭の娘と婚約したそうです。わたしは時々マリーに会いますが、数ヶ月前からは早朝に英語学校にも通うようになり、新しい知識を得ることを楽しんでいる様子です。上の妹は、レストランで働きながら料理を学んでいます。マリーが恥ずかしそうに笑いながら前向きに生きている姿勢は、わたしにとっても大きな励みになっています。
マリーは、何万にもいると推定されているエイズ孤児の一人でしかありません。今後、エイズ孤児の数はさらに増加すると考えられています。孤児たちが、安全かつ幸せに生活できるように、社会保障制度を整えていく必要があります。わたしたちに何ができるか、考えていく必要があるとも思います。
少女たちのエンパワーメントのため、
ぜひ国際こども権利センターの会員になってください。
http://jicrc.org/pc/member/index.html
写真は、プノンペンのスラムで踊りの練習をする少女たち(本文とは関係がありません。©甲斐田万智子)
彼は、ぜひマリーと恋人になって将来結婚したいと言い、彼の両親に正式にマリーを紹介しました。結婚前の男女がデートしている様子は、都市部では見られるようになってきましたが、それでもまだ多くの両親はいい顔をしません。田舎ではお見合い結婚がまだ普通であり、結婚前の男女が二人でどこかに行くのは「不良」のすることだと思われています。彼がマリーを両親に紹介したとき、マリーの両親がエイズに感染していることは黙っていました。きっと両親が差別するだろうと彼が配慮したのです。ところが、彼の両親は、マリーが豊かな家庭の娘でないことを理由に、息子がマリーと関係を続けることを禁止しました。彼は裕福な家庭の息子だったので、結婚相手も裕福な家庭でないと両親が主張したのです。彼はとても残念がりましたが、カンボジアの伝統では、両親の命令に背くことは社会的な制裁を受けることにつながるかもしれません。彼はしばらくは隠れてマリーに会っていましたが、だんだんその回数も減り、最後には彼がマリーと会うことはなくなりました。
マリーの母親も、二年ほど病床にあっただけで、あっけなく亡くなりました。マリーは妹と弟の四人だけで生きていかなければなりません。母親が死んだ時、近所の人たちはマリーたちを差別しました。ほんの小さなお葬式しか出せなかったものの、近所からは誰も参列してくれませんでした。マリーたちと話そうとする人もいませんでした。幸いマリーの妹の担任の先生はとても理解があって、クラスメートにエイズで生きる人たちを差別しないように教育してくれました。そのおかげで、妹たちが学校でいじめにあうことはほとんどありませんでした。これは非常に珍しいことで、エイズで両親を亡くした子どもがいじめのターゲットになって学校をやめる場合が少なくありません。両親が二人だけで地方から出てきたため、親戚ともほとんど付き合いはありません。
マリーは、妹たちと弟の三人を育てる義務を負ってしまいました。 お菓子を売る仕事だけでは妹たちを学校に送ることができなくなり、縫製工場で働くことにしました。マリーは、まだ十八歳になっていませんでした。カンボジアでは数え年で年齢を数えるので、まだ十七歳の時に縫製工場で働き始めたのです。一ヶ月五千円程の給料でしたが、家は自分たちの所有だったので、なんとか生活できました。でも、マリーは縫製工場の仕事が嫌いでした。工場の中の空気はどんよりと濁っていて、時々仕事中に倒れる従業員(ほとんどが女性)もいました。このまま仕事を続けて健康に害がないか、マリーは心配でした。また、男性の従業員がセクシャルハラスメントをすることも珍しくなく、体を触られたりして、マリーは不快な思いをしていました。
結局、友達の紹介でマリーはプノンペンでサービス業に就くことができ、今はその仕事に満足しています。以前恋人だった男性は、すでに裕福な家庭の娘と婚約したそうです。わたしは時々マリーに会いますが、数ヶ月前からは早朝に英語学校にも通うようになり、新しい知識を得ることを楽しんでいる様子です。上の妹は、レストランで働きながら料理を学んでいます。マリーが恥ずかしそうに笑いながら前向きに生きている姿勢は、わたしにとっても大きな励みになっています。
マリーは、何万にもいると推定されているエイズ孤児の一人でしかありません。今後、エイズ孤児の数はさらに増加すると考えられています。孤児たちが、安全かつ幸せに生活できるように、社会保障制度を整えていく必要があります。わたしたちに何ができるか、考えていく必要があるとも思います。
少女たちのエンパワーメントのため、
ぜひ国際こども権利センターの会員になってください。
http://jicrc.org/pc/member/index.html
写真は、プノンペンのスラムで踊りの練習をする少女たち(本文とは関係がありません。©甲斐田万智子)