カンボジアだより シーライツ

国際子ども権利センターのカンボジアプロジェクト・スタッフによるカンボジアの子どもとプロジェクトについてのお便り

カンボジアの教育制度と子どもの権利条約(その3) ー教育制度の歴史ー

2008年01月29日 13時15分33秒 | カンボジアの子ども


こんにちは。中川香須美です。今回は、カンボジアの教育制度について、どのような変遷をたどってきたのかについて歴史的な背景を紹介します。歴史的に見ると、カンボジアで行われていた教育は、仏教の伝統に従い、男子のみが対象となっていました。つまり、お寺で仏教典を通じて読み書きを学ぶ教育が中心でした。他方、「女子が文字を学べばラブレターを書くようになる(伝統的な“良いクメール人女性”に反する)」という理由から、女子には教育の機会が与えられないのが一般的でした。

政府が子どもたちに平等に教育の機会を提供しようとしたのは、フランス植民地時代の1917年です。フランスの教育制度に類似した小・中学校という9年間の教育制度が、初めてカンボジアに導入されました。とはいっても、第二次世界大戦期にはカンボジアは日本軍に占領され、日本が敗戦した後にはフランスからの独立のための闘いなど国内の政情が不安定だったことによって、1950年代後半までは教育制度が脆弱なままだったようです。

1960年代、シアヌーク元国王が政権を執っていた時代には、都市のエリートたちの子どもたちが男女を問わずレベルの高い教育を受ける機会があったそうです。カンボジアでは現在学校は全てが共学となっていますが、当時は女子のみが通う小・中学校があり、女子に対しても自立の精神を育てる教育がなされていたのです。わたしの友人エラは、内戦後にカナダに移住した女性ですが、60年代に女学校に通っていました。当時の先生はとても厳しく、算数の計算の回答を出すのが少しでも遅れると細い棒で背中をぴしゃっとたたかれたそうです。規律も厳守するよう教員が指導していたそうで、遅刻はご法度だったそうです。カンボジアでの教員生活がすでに5年になろうとしている個人的な経験からいうと、学生が遅刻してくることを指摘すれば逆に教員が厳しいと批判の的になって大変なので私は遅刻者にも寛容です(90分授業で60分以上遅刻して平気で教室に入ってくる生徒も珍しくないです)。当時、先生が教室に入る前には必ず机の前に座って教科書を開くよう指導され、教員の指導には絶対服従だったそうです。そのような60年代当時の話を聞いたのは、2006年1月にわたしがカナダに遊びに行った時、ちょうどカンボジアの女性の権利の状況についての本をまとめていたので、彼女がどんな教育を受けたかを聞いた時です。今は3人の子どもを一人で育てているエラは、内戦以前に大臣を務めた方の娘で、別荘が何軒もあり使用人に囲まれて育った女性です。シアヌーク元国王の時代に通った学校は、規律がとっても厳しかったけれど、とても楽しかったと目を輝かせて話してくれました。

1975年から1979年までのクメール・ルージュ(ポル・ポト)政権下では、教員を含め知識人がほぼ全員虐殺され、教育制度も一切廃止されました。農民による革命を目指す政府の方針によって、子どもたちは革命のスローガンを学ぶ以外の教育を受ける機会を剥奪されたのです。子どもたちは、親や保護者と一緒に生活することを許されず、少年・少女が集団で生活するキャンプで生活しなければなりませんでした。多くの子どもが少年兵となる以外の選択肢を与えられず、小さい体で銃を背負い、強制労働に従事する大人たちを監視する役割が子どもたちに与えられました。政府に反感を持つ大人の行動や発言を監視し、自分の親の行為をスパイするように訓練された子どもも少なくありません。わたしの親友リー・ビチュターも、当時10歳程度だったそうですが、真夜中に兵士に起こされて外に監視に出ることを命じられたり、丸一日寝ないで強制労働させられたり、とてもつらい思いをしたそうです。

1979年にクメール・ルージュ政権が崩壊した後、1989年までは社会主義政権による支配が続きました。この社会主義の時代、政府はそれまでに徹底的に破壊された社会制度を再生するだけでなく、ジャングルから攻撃をかけてくるクメール・ルージュとの内戦が継続していました。したがって、政府予算の中では国防費に巨額の予算が割かれ、教育制度改革についてはほとんど対策がとられませんでした。当時、住民台帳などはまだ正確に整備されておらず、いったい村に何人の子どもがいるかについて正確に行政が把握していませんでした。したがって、6歳の子どもに就学の案内が届かなければ、保護者が自分たちの生活に手一杯で子どもを学校に送るという発想にすらならなかった場合も少なくありません。私の友人も、クメール・ルージュ時代に父親が殺害され、母親が一人で子どもを育てなければならなくなったので、小学校に入学したのは自分がすでに10歳になっていた1980年代後半だったそうです。

1993年にカンボジアで初めての総選挙が実施され、民主的な政権が発足しました。政府は教育制度改革にも熱心に取り組み、学校に通う子どもたちの数が飛躍的に増加しました。

(つづく)


写真は学校を拠点とした人身売買予防ネットワークのトレーニングに参加する子どもたち。撮影:甲斐田万智子

カンボジアの教育制度と子どもの権利条約(その2)

2008年01月22日 00時07分04秒 | カンボジアの子ども



こんにちは。中川香須美です。今回は、カンボジアの子どもたちが通っている小・中学校の様子について紹介します。わたしは2002年に中学2年生の国語の補習授業に参加して勉強したことがあるので、その時経験したことについて紹介します。

2002年当時、いつも食料品を買いに出かける中央市場で物売りをしている女性と仲良くなって話していると、その彼女の息子が中学2年生で、その子とも仲良く話す関係になりました。カンボジアの学校は半日なので、学校に行かない時間は母親の商売の手伝いをしていたのです。わたしはちょうどその頃クメール語を学ぶ毎日を送っていたので、「一緒に学校で国語の授業に参加できないかしら」と聞いてみると、「普通の授業は分からないけれど、補習なら朝6時から1時間やってるから、きっと大丈夫だと思う」とのこと。担任の先生に参加していいか聞いてもらうと、「1週間500リエルの補習料を他の生徒と同じように支払うなら参加してもいい」と許可がでたので、プノンペンの真ん中にある有名校に通うことになりました。カンボジアの学校は日本の学校と違ってとても開放的なので(子どもの安全面では問題ですが)、部外者でも簡単に校内に入れるのです。

その学校は小学校と中学校が同じ敷地内にあり、当時ですでに1000人近くが学ぶ学校でした(小・中学校ともに2部制)。通常授業は7時から始まるので、私が通う6時からの補習はお金を払って参加する生徒だけが出席します。担任の先生が開いている私塾といってもいいかもしれません。中学2年生といっても、最年長は19歳の女子、最年少は10歳、飛び級で小学校を4年間くらいしか行かなかった優秀な男子生徒と一緒に勉強しました。

都市部には優秀な先生が集まるとうわさには聞いていましたが、担任の先生は若いながらもベテランで、とても分かりやすい授業をしていました。先生から生徒に質問することはあまりなく、先生が文法を説明して黒板に板書する時間が圧倒的に多かったので、生徒が発言すると内容がちゃんと聞き取れなかった私にとってはとてもありがたい授業でした。有名校だったせいもあるかもしれませんが、生徒は皆まじめに授業を聞いていました。遅刻もほとんどなかったような気がします。

時々ですが、授業の最後10分くらいに突然国語から社会科の授業になって、問題が黒板に板書されることがありました。あまり覚えていませんが、「カンボジアで地雷がたくさん埋まっている州は、以下の4州のうちどれか」とか、「ビタミンCが多い果物は以下の4つのうちどれか」など、国語とはあまり関係のない内容でした。これらの問題は、月末の定期試験に出される内容だそうです。子どもたちがお金を払って参加する補習の時間に、次の試験の内容が提示されるのです。

この授業には、10月から12月中旬まで通いました。カンボジアでも12月は朝日が昇るのが遅くて、6時ではまだ暗いため、教室に行ってもろうそくを立てて授業をしていたのです。効率性も悪いし、朝は寒いし、と理由をつけて数日欠席が続き、そのまま行かなくなってしまいました。毎朝会っているうちに仲良くなった19歳の女の子は、わたしがやめた直後にポイ・ペトというタイとの国境の町へ出稼ぎに行くために退学したと聞きました。わたしが黒板の板書を書き取れないでいた時、いつもあとからノートを見せて助けてくれていたのです。今、彼女はどうしているでしょうか。

(つづく)

カンボジアの義務教育制度と子どもの権利条約(その1)―教育制度の概要―

2008年01月15日 15時11分30秒 | 子どもの権利の普及
こんにちは。中川香須美です。今回から、4回シリーズでカンボジアの学校教育における子どもの権利教育について紹介します。このシリーズは、2007年12月22日に国際子ども権利センター主催により開催された勉強会「カンボジアの義務教育におけるジェンダー問題と子どもの権利教育」の内容について、参加者の皆様のご意見やご質問などを踏まえ、改めてブログで詳細にわたって紹介するものです。勉強会に参加してくださった数多くの皆様、貴重なご意見をいただき、ありがとうございました。

まず、カンボジアの教育制度について紹介します。他の多くの途上国と状況は似ていて、教育制度そのものがまだまだ発展途上の段階にあります。1993年で内戦は終了し、カンボジアは戦後復興から経済発展段階へと移行しているものの、さまざまな面で内戦の弊害が見られます。人的資源・財政的資源、両方ともにかなり限られた状況で教育制度を整備しているのが現状です。わたしの個人的な意見では、教育に従事する優秀な人材は育ってきているにもかかわらず、その人たちの希望に見合うための予算手当てがなされていないことが、教育制度を整備・改善するための大きな障害となっていると思います。若手の教員の多くは、出来るだけレベルの高い教育を子どもたちに提供したいと考えていると私は思っています。問題は、予算がなくてなかなか前進できないことです。

現在のカンボジアの教育制度は、小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年(医学部および教育学部は6年)となっています。カンボジア王国憲法68条(1993年施行)によって、全ての国民は9年間の義務教育を無料で受けることが保障されています。現在国会に提出されるべく検討中の教育法草案においても、「親が子どもを学校に通わせる義務」が明言されています(ただし学校に通わせる年数および就学年齢については言及なし)。ところが、子どもが学校に通う機会を得るという基本的人権の保障については、さまざまな理由から、政府も保護者も十分に対応が出来ていません。「義務教育」を提供する義務については、政府も保護者もまだまだ努力が必要です。特に、カンボジアの人口の8割以上が生活する農村では、多くの子どもたちが小学校を終える前に退学しています。

農村に出かけた際に私が出会った子どもたちは、学校に行くことを義務などとは考えず、「学校に行きたい!」と希望する子どもたちが大多数です。また同時に、学校に行きたくても家が貧しいから両親を困らせたくない、だから自分からは学校に行きたいとは言えない子どもたちにも数多く出会いました。農村では、テレビや雑誌などの娯楽を楽しむ機会が極めて限られていて、学校で友達や先生と遊んだり勉強することが、子どもたちにとっては一番の楽しみなのです。

義務教育レベルでは、いじめの問題もそれほど悪質ではありません。貧しい子どもたちなどが差別されている点は問題だと思いますが、制服や文具が買えない子どもの数は多くいるので、個人が対象となっていじめの被害にあうことはあまりありません。そもそも問題の根本は大人側にあって、保護者側に貧しい人たちへの差別の意識があるために子どもたちが影響を受けているのです。高校レベルになると、麻薬の問題や年長の生徒からのゆすり(たいていが麻薬を買うため)、あるいは「援助交際」などが現在深刻な問題となっています。麻薬は入手が簡単なので、農村部・都市部を問わず、高校の教員にとっては生徒指導の中で一番頭を抱える問題だそうです。

都市に住み、ある程度恵まれた家庭で育つ子どもたちの中には、大学に進学する子どもも数多くいます。最近の都市部での流行のひとつは、大学に通うことなのです。私立大学が都市部で雨後の竹の子のように続々と設立されています。国立大学と違って入試もないので入学は簡単です。大学は3部制なので(午前・午後・夜間)、わたしが日常的に接している学生の中でも、3つの大学に通っている学生も少なくありません。「忙しくて宿題が出来ない」と直訴に来る学生の話をよくよく聞いてみると、他の大学で受講している自分の専門科目の宿題が大変なので、一般教養の「ジェンダー学」の宿題は後回しになっていることが判明したりするのです。

(つづく)

写真は、スバイリエン州で実施ししいる学校を拠点とした人身売買予防ネットワークのメンバーたちが子どもの権利について学んでいる様子。