カンボジアだより シーライツ

国際子ども権利センターのカンボジアプロジェクト・スタッフによるカンボジアの子どもとプロジェクトについてのお便り

ムー・ソクアさんを囲む会直前企画<ソクアさんインタビュー第二回/穏やさと鋼鉄のような強さ>

2005年11月05日 21時16分45秒 | Weblog
みなさんこんにちは、平野です。
5日連続の投稿です。昨日引き続き、11月7日の元女性省大臣ムー・ソクアさん囲む会直前企画として、彼女の激動に満ちた半生のインタビューをお届けします。3階連載の第2回です。最後までお見逃しなく。

出所:アジア女性資料センター2005年3月カンボジアスタディーツアー資料
翻訳:裏川久美子、岩崎久美子

原文:http://www.globalfundforwomen.org/work/trafficking/garden-of-evil.html

邪悪の園
発行所 O・オプラマガジン社  著者  Carol Mithers、2004

※小見出しは各パラグラフの最初の一文。太字は筆者。

 【カンボジアは世界で最もさかんに人身売買がおこなわれている中心地のひとつである。】

理論上は売春は違法である。しかし、実際問題として大多数のカンボジアの男性はしばしば女性を買う。1,300万の人口に対し8万人の性労働者がおり、その圧倒的多数は16歳未満である。わずか5歳の幼い子どもたちもベトナムからカンボジア、特にプノンペン郊外の村にこっそり連れてこられ、国内外の小児性愛者の欲望を満たしている。2002年『タイム』誌は、カンボジアを「性倒錯者たちの楽園」とする記事を掲載した。

 この地の人身売買の方法は他のどことも変わらない。誘拐された女性もいるし、仕事をやるからとだまされた女性も、売られて「借金」を返済しなければならないと聞かされた女性もいる。残りの家族を食べさせるためにひとりの娘を犠牲にせざるをえないほど死にものぐるいの親たちによって、子供たちが売られる場合も多い。その少女たちの多数は監禁され、なぐられ、毎日何十人もの客をとらされる。少女たちが外国に連れ去られ逃げようものなら、不法移民として収監されることもある。それどころか、なんとか家に戻れた少女たちは、たいてい家族から追い払われるのである。

 人身売買の最も気のめいる側面はその問題の根深さにあるが、ソクアはそれに対し断固闘う手ごわい闘士である。「ソクアは、この問題の根源へとせまる並外れた能力を持っている」と、サンフランシスコに事務所を置く「女性たちのためのグローバルファンド(Global Fund for Women)」 のプレジデント兼CEOのKavita Ramdas氏はこう語った。この団体はソクアのいくつかの活動に基金を提供している。問題の根源には、貧困や不十分な教育がある。「ソクアの持つ穏やかな資質が、鋼鉄のような内面の強さを包んでいる。一旦何かをすると決断すれば誰にも彼女を止められない。禅宗の仏教徒ならば彼女を水にたとえるだろう。水のように、きわめて穏やかに流れていても、何より堅い岩をもうがつ力があると。」

 【ソクアの不屈の精神は痛みから生まれた。】

ソクアは比較的裕福なプノンペンの家庭で育った。記憶に残る子ども時代は、愛情に包まれて、庇護され、安全だった。しかし、18歳を迎えた1972年までに、ベトナムにおけるアメリカの戦争がカンボジアにも拡がってきた。米軍の約50万トンもの爆弾が地方を爆撃するようになり、疎開させる余裕のある人々は子どもたちを国外へ出した。その年の6月、ソクアと姉にはパリへ向かう飛行機の最後の席を確保した。(兄弟はすでにカンボジアを離れていた。)「両親は飛行場にいました」とソクアは語る。その声は途切れがちだ。自らの人生の中でこの時期のことはいつもなら決して口にしないからである。「私たちは、さよならも言いませんでした。別れがあまりにつらかったのです」。その後二度と父や母と会えなかったために、別れをかわしていないことが絶えずソクアを悩ませている。1975年に急進的な共産主義者クメール・ルージュが権力を掌握し、そして両親は死と破壊の地獄のるつぼへと消えてしまった。カンボジアの人口のおおよそ四分の一が、処刑、拷問、過重労働、飢餓のために非業の死を遂げた。後に父親が飢えのために亡くなったことをソクアは聞かされた。母親の最期はなぞである。「知りたいと思いますが・・・」とささやくようにかすかな声で語る。「人はあきらめることを学ぶのですね。」

 18カ月パリで過ごした後、ソクアはカリフォルニアへと向かった。そこは兄の落ち着き場所で、ソクアはサンフランシスコ州立大学へ通った。家族の財産をすべて失なっていたので、ソクアは生活保護を受けて生活した。その後、ソクアはベイエリアに到着したカンボジア難民の再定住を支援する仕事を見つけた。「しかし、私はいつでも母国に帰りたかったのです。その夢を持ちつづけてきました。」と述べる。1979年、ベトナムのカンボジア侵攻がクメール・ルージュを敗北させた。1981年ソクアは、カリフォルニア大学バークレー校大学院から修士号を受けた。「それから、アメリカでの9年間の生活をひとつのスーツケースに詰めこんでアメリカを離れました」と述べた。

 【初めは、タイの国境沿いのみすぼらしい危険な難民キャンプで働いた。】

そこでソクアは、世界食糧計画(WFP)職員として働いていたアメリカ人で、夫となったScott Leiperと出会った。1983年に結婚し、一年後に長女Deviが生まれた。「私は子どもをタイにおいて、車で30分かけてカンボジアへ出かけました。砲撃の最中であれ、マラリアや結核患者であふれる病院の中であれ、どこにいようと数時間ごとにお乳をしぼるために仕事を中断したものです。それで私は授乳できました。持てるものはすべて娘に与えることがとても大切なことだったのです」。ソクアは回想する。1986年、Scottの仕事のため一家はイタリアへ渡った。そこで次女のThidaが生まれた。ソクアは1989年になって初めてプノンペンへ戻った。「私の育った家を探しに出かけました。」涙があふれてくる。「何もありませんでした。みんななくなっていました。しかし、私は再び戻れてとても運が良いのだと自分に言い聞かせました。子ども時代のことは忘れよう。私の子どもたちが自分のふるさとを見つけたのだから。」

 1991年、ソクアの三女Malikaが生まれてまもなくして、貸付プログラム(credit program)とドメスティックバイオレンス被害者のシェルター、地元の仏教の僧侶・尼僧たちと手を携えて開いた平和運動をひとつにまとめた女性団体をスタートさせた。その7年後、国民議会の候補者に立候補して当選した。その後まもなく、女性・退役軍人省の大臣に任じられた。それまでは常に男性が占めていたポストである。最初に取り組んだ仕事は、カンボジアの古い諺を書き変える国民運動であった。「その諺は『男は金、女は一枚の白い布きれ』というものです」。ソクアは言う。「考えてごらんなさい。泥の中に金のかけらを落としても洗えばきれいにできますよね。むしろ前よりきれいに輝くでしょう。でも白い布が汚れたらだいなしになります。もしあなたが純潔を失ったら、あるいはもしあなたが暴力で痛めつけられた女性なら、元の一枚の白い布には戻れません。それから一週間もしないうちに、私のスタッフの一員が『男は金、女はかけがえのない宝物』はどうかと提案してくれたのです」

 今や宝物として広く認知されている女性のイメージが、ソクアの人身売買禁止運動の中核となる考えになっている。ジェンダー不平等は、カンボジアでは今に始まったことではない。伝統的に女子は男子に比べ、教育を受ける可能性がはるかに低かった。ソクアが2003年にドメスティックバイオレンスを対処する法案を提案するまで、規制する法律はなかった。(その法案は事実上棚上げである。)広報もソクアの活動に非常に重要であり、そしてソクアはためらわずに勇気を持って外へ出て行く。一連のビデオ・テレビ広告のひとつでは、少女が家から売春宿へ連れて行かれて泣いているシーンと、首を切ってされる豚がキーキー悲鳴を上げるシーンを並べている。広告のエンディングは、男性に次々に強かんされる少女の叫び声、続いて厳しい警告が流れる。「女性も子供も人間です。動物ではありません」。

※明日で最終回、そして明後日が囲む会となります。囲む会のご案内はこちらです。http://blog.goo.ne.jp/jicrc-jp/

※なお、性労働者の人数や、子どもの占める割合については、様々なデータ、説が存在する事を念のため書き添えておきます。

写真の出所:http://www.rockmekong.org/photo/kmara_9/pages/02.htm

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
感想 (minami)
2005-11-06 16:12:49
ピースチャイルド東京のminamiといいます。先日はHPに遊びに来てくれてありがとうございます!!

ソクアさんの1回目の記事読ませて頂きました。現状に驚くと同時に、ソクアさんの行動力というか、日本にはこんな政治家がいるのだろうか??皆口だけだよなぁ。。。と感じずにはいられませんでした。2回目以降も楽しみに(楽しいって言葉は的確じゃないですね)してます!!
返信する
ありがとうございます! (JICRC平野)
2005-11-07 12:58:41
minamiさん、コメントありがとうございます。そうですね、日本にこれだけ真摯に、それこそ命を張って不正と闘っている政治家はいるのかな?と思ってしまいますね。昨日でインタビューは終わりましたが、今後も是非ご愛読ください!
返信する