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黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

動物と過ごした幼少の頃

2015年07月27日 | その他


 私が幼少の頃は我家には沢山の動物が居ました。一番古い思い出はアヒル艦隊、多分私は5歳以下だったと思いますが我家にはアヒルが飼われて居て或る時間に成ると勝手に7~8羽が一列に並んで家の門から100m程離れた水門まで水浴びをする為に行進していた。そして自由な水浴びが終わると「ガァ~ガァ~」と鳴きながら一列縦隊を守って賑やかに我家に帰って来ていました。何の目的で飼って居たのか?良く解らなかったが其のアヒル達は行動が可愛かったので結構近所の人気物でした。一方、当時は我家に風呂が無い時代が有ったので親子が銭湯に行ったり映画館に行く時などは両親の後に私が其の後は歳の順序に最後は長男(JA5CHQ)の7名が一列縦隊に成って歩いて居たので隣近所の人達は此方の人間の方もアヒルの行進になぞらえて「アヒル艦隊」と言って居たそうです。


 其の他にウサギ、猫、牛、豚、鶏、変った所ではヤギも飼って居ました。ウサギは肉用か毛を利用するのか?良く解りませんでしたが定期的に業者の人が来て可愛いいウサギが金網の籠に入れられて連れられて行く度に悲しい思いをした記憶が有ります。それでも私が小学校に上がる頃には既に飼って居ませんでしたので期間は短かった様に思います。牛は爺さんが私が社会人に成るまで飼って居ましたが子供の頃は耕作用にも使って居ましたが耕運機が普及すると完全に肉牛に成り但馬牛の子供を買い取り3~4年位で出荷して居た様に思います。


 此れは農家にとっては大きな収入に成って居ました。私も幼い時に父親が操る牛の両方の角を両手で確り掴み興奮しながら首に跨った思い出が有ります。鶏は卵を生んで貰い食用に豚は父親が私達子供の修学旅行や高校入学時の特別な支出が有る時の財源の為に何時も計画的に飼って居ました。私達兄弟5人は全て学年が2年違いなので妙に兄弟が同じ年に大きな支出が重なって居たので此の豚さんの御蔭で事無きを得ました。


 猫は祖母が好きだったので何代も世代交代が有りましたが絶えず猫は居た記憶が有ります。子供達は皆犬の方が良かったのですが何故か申し出ても許可が下りなかったので親父が嫌いなのかと?思い込んで居ましたが祖父が亡くなったら親父が直ぐに犬を飼い始めたので聞いてみたら祖父が嫌いだったので飼えなかった様です。


 ヤギは近所では殆ど見掛けませんでしたが父親が子供達の栄養補給の為に飼って居り其の食事の世話と乳絞りは子供達の役目で結構楽しく遣って居ました。ヤギの乳は少し癖が有り生では飲めなかったので必ず暖めて飲んで居ましたが甘さを付けて飲み易いように当時「アマミゲン」と言う錠剤を入れて飲んで居ましたが後日、此れがチクロと言う発ガン性物質で有った事が大きく報道されましたが時既に遅し、それらが如何ほど私達の健康に影響が有るのか解りませんが後の祭りです。


 此の様に今振り返ると父親が子供の現状や将来を考えて日々の生活の中で如何に計画的に物事を進めて居たのかが良く解ります。御蔭さまで進学で困る事も無く私等は大病をする事無く此の年まで来ましたし、私の直ぐ上の兄は中学生の時、徳島県下の健康優良児コンクールで2位に成った事が有ります。此れはヤギの乳の御蔭かも知れません。

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我家のルーツ (其の2)母の思い出

2015年07月27日 | その他

 私の母親は隣町の那賀郡那賀川町に7人兄弟の一番上の長女として生まれた。生家は江戸時代に始まり伊勢の国に国学の勉強に行った人が先生の娘と夫婦に成り阿波に帰って国学者として寺子屋を開き奥さんは近在の娘に行儀見習いを教えて居たと言う。阿波藩内では其れ成りの知識人だったらしく苗字帯刀を許され、母の話に寄ると生家の二階には時代劇で見る様な駕籠や鎧兜に槍、刀が有ったと言う。此れだけを考えたら如何も我家との釣り合いが取れて居ない感じなのだが?父親の時代の結婚は殆どが見合い結婚で普通、女性は自分の生家より良い家に嫁げるが男側は自分の生家同等との婚儀が一般的で有ったと聞く、お互いの父親が酒飲みで、しかも隣町なので酒を飲んで遊ぶ所は同じ様な場所、私の爺さんが遊び呆けて居た時なので(母方の叔父さんの話では私の爺さんの遊びは旦那の遊びで豪快だったらしい)御互いが顔見知りだったのだろう。其処で御見合いと成って父が帰ろうとすると母の父親が「娘は如何な?」と聞いたらしく親父は「気に入るもいらんも一回では解らん」と答えたら「ハッキリ気に入らんと思わぬなら貰っとけ!」と押し切られたらしい。


 母親は母親で父親が進める話は断れぬし何よりも私の父親が酒を飲まぬ事は唯一の母の結婚相手に対する望みだったので嫁いで来たと言う。其れに7人兄弟の一番上だったので少しでも早く嫁いで親を楽にさせたいとの思いも有った様だ。母親は口数の少ない女性で有ったが仕事だけは手早かった。私の祖母も仕事師で結構口煩かったが農作業を含め諸事一般で母には敵わ無かったので揉める事は無かったが母親の実家は神道、我家は仏教なので先祖のまつり方で慣れない母親に婆さんが愚痴る事が時々有った。


 私と母の思い出で一番古いのは母親の乳首に吸付いて母乳を飲んで居る情景、私は乳離れが遅かったらしく乳首に幼児が嫌がる様な味が有る物を塗り付けられ「此れは敵わんなぁ~?」と思った事はハッキリと憶えている。其の次に憶えて居るのが田んぼのあぜ道でむづがって居ると盥(たらい)の中に寝かされて盥に付けられたロープは母親の腰に結わえられ母親が田植をしながら移動すると引っ張られ水田の中を揺れながら移動する不思議な感覚が何処か記憶の片隅に残っていたが夢かも知れないと?或る日、母親に聞いたら「2歳位までは幾らむずかって居ても直ぐに機嫌が直るので良く遣っていた そんな事を憶えている?」と笑っていた。


 私の父親は母の望みの酒こそ飲まなかったが若い頃は結構尖って居た様に子供心に感じたので結構な気苦労が有ったのでは無いかと思う。当時の農家は機械化が遅れて居たので農家の長男は作付面積にも寄るが農繁期が長いので会社勤めをしながらの農業は無理で殆どが専業農家で有った。当時のお米は現在とは違い食糧難の時代で現在と比較すると格段に値打ちが有ったので父親も専業で農業を遣っていたが毎月の定期的な収入が有る訳でなく、しかも今では考えられない事だが農業での収入は全て爺さんの懐に入る封建的な社会で有った。


 普通で有れば世代交代の時期で有ったが財政を息子に任すと祖父としては息子から小遣いを貰う状態に成ると好きな酒を自由に飲めなくなる事情が有った様だが父親もよく辛抱して居たと思うし此処等の遣る瀬無さが生活上の尖りの根源でだった様に思う。しかし父親と祖父の争いは私の知る限り一度も無かった。其の様な事情により全て日常生活の費用は祖父から出るのだが両親は自分が自由に出来る収入は無い為に子供にして遣りたい事が有っても何も出来ないので先日に書いた様に両親は毎晩裸電球の元で夜遅くまで夜なべのムシロ作りに精を出していた。


 然し所詮此れ等の収入では子育てが出来ぬと感じた両親は可也大きい和船を作り近くの那賀川の川砂と砂利を取って販売と配達を始めた。此れは材料費が要らない為に先ず先ずの収入が有ったが荷車での配達で採取から配達までが全て人力に寄る物で大変な仕事で有った。しかし此の良い時代も長くは続かずやがて大手業者に寄る採取が河川の流れを変え洪水の原因に成ると河川による砂、砂利の採取が自由に出来なくなり廃業を余儀なくされ両親は考えた末に其の延長線上に有った砂、砂利を原料としたセメント二次商品を製造、販売する商売を始めた。


 此れは炎天下の作業でセメント練りも全て手作業、母親には大変な仕事で有ったが私が一番可哀想に思ったのは型枠に重油や廃油を塗り型枠とセメントの固着を和らげるのだがセメントを扱うと直ぐに手が荒れひび割れが入り其の傷口に黒い油が浸み込み手が汚れてしまい手を洗っても毎日の事なので汚れが落ちなく人前で手を見せられない事、其れは仕事人の証と思うのだが矢張り母は女性、学校の参観日等の公の場では手を出さない様に何時も手を隠して居た事が気持ちが解かるだけに子供心に悲しかった。子供が段々大きく成ると其の家業だけでは間に合わなく成り父親は40代から10年位は土木関係の出稼ぎに県外に母親は一人で家業を守った。親爺も単なる作業員では「うだつ」が上がらないと独学で勉強して制限の無いダイナマイトの資格と此れ又制限の無い起重機の最上の免許を取得している。此れ等は上の兄二人の高校の土木課への進学に繋がり私以外は土木の技術者に成った。


 私が社会人に成った頃、両親に漸く安定した生活が訪れやがて結婚50年の金婚式を無事向かえ二人で始まった所帯が5人の子供に其々の伴侶が決まり10人そして孫の数は12人に成った。両親は最後まで現役を貫き二人で始めた「巴商店」(母親の名前)は長男の手で小さいながらも株式会社に成り兄の計らいで親爺は初代の社長職に就任、嬉しそうに私に其の名刺を見せてくれた。母は不幸にも突然の交通事故で天国に召されたが父親は後に農業委員や地域の役員で地域に恩返しした後、90歳の天寿を全うして「お前には世話に成ったなぁ~」と兄に言って天国へと旅立って行った。


 
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