私がアマチュア無線の交信を初めて聞いたのは中学2年生の夏休みの事で有った。当時社会人に成って居た長兄が2バンド5球スーパーラジオで7MHz帯のAMモードのアマチュア無線の交信を聞いて居たのを横で同時に聞いたのが初めてのアマチュア無線との出会いであった。当時我家に白黒テレビが有ったかどうかは定かでは無い時代に個人局が7MHz帯の電波を使い全国の局と交信している会話を聞いて此の様な世界が有る事を知って子供心に可也興奮した事を覚えて居る。
確か私のあやふやな記憶の中で小学校低学年の頃に「冒険ダン吉」と云う漫画(題材も不確かだが?)の中で南の島か何かと?無線で交信するコマ画部分でST管の無線機らしい物が描かれて居た事をハッキリと憶えて居て此れがアマチュア無線の事を描いて居たのだと気付いたのは随分後の事で有ったが此の漫画の影響で私はマイクを前に喋ったりシーメンスキースイッチで放送のオン・オフする放送部に憧れ小学校の放送部に入った。入部当時は放送室はボロの小部屋で有ったが5年生時には県下でも珍しいスタジオが新設され完全遮断された治外法権の場所でレコードは聞き放題だし何より新しい放送設備を操作して昼の給食時間帯の15分程を在校生にとっては迷惑な話だが自分で書いた原稿を読み好き勝手な音楽を流して悦に入っていた。然し此の時代にも武勇伝は多々有り、時には脱線し過ぎて大失敗し放送部担当の怖い女先生に眼を三角にして気合を入れられた事も数度、最悪は校長の校庭での訓話中にスイッチを切替忘れ話を邪魔する内々の話を同時放送し(そりゃスピィーカーの音量が校長の肉声に負ける筈が無い)校長室に呼付けられ髭面の怖い校長にも気合を入れられた事があるHi
中学時代も放送部に2年生の終わりまで在籍したが担当の先生は民放に在籍した本物のアナウンサー出身の方で部活は可也本格的な訓練が多く私の様な遊び気分(レコードや放送機器に興味が有る者)の部員は一寸、門外漢の感じで最上級生に成ると運動部のテニスに集中する為に疎遠に成ってしまったが小、中と放送部に在籍した事はマイクに向かって喋る事が苦に成らない事は私がアマチュア無線を長く継続する事が出来た一番の要因で有った様に思える。
中学時代にSWLとしてアマチュア無線に興味を持つと如何してもアマチュア無線を始めたく成ったが其れにはアマチュア無線の国家試験に合格せねば成らず当時の試験に合格する為には素人知識では難しく其れゆえに高校への進学は電気への道に進む事にしたが本心は電気部門が好きと言う寄りは何処かにアマチュア無線の免許を取る事が目標で有った様に思えて成らない。工業高校の電気科に進むと先輩や同級生にも「無線の虫」が沢山居て其の中で私は劣等生で資格取得も開局も少し出遅れてしまったが人よりは全ての面で遅れて居た事が幸いしたのだろうか?未だにアマチュア無線に対する達成感を感ずる事無く煩悩の世界をさ迷い続けて居る。
念願のアマチュア無線局の開局は高校三年生の8月15日で驚くハプニングで始まるコール・サインはJA5CBB、此れには参ったHi半年後には就職先の関西へ移住したがアマチュア無線が出来ない環境に若気の至りから3年後に退社し徳島に帰りJH5AVMのコール・サインで開局し現在に至って居る。
最初の開局日は終戦記念日と重なり可也記憶力の悪い私でも絶対忘れる事が無く本日、漸く満50周年を無事迎える事が出来た。アマチュア無線に於ける実績は余り大した事は無いが此の50年間でQRTが有ったのは関西に移住した最初の1年間と結婚をして徳島市内のアパート住まいをした1年間の合計の2年間だけで交信数は最低でも年間1500~2000交信は継続して来たので総交信数は20万を軽く超えて居る事くらいだろうか?然し50年間継続しても未だに達成感の無いアマチュア無線の世界の奥行きの深さに驚くと同時に命ある限り挑戦を続けようと51年目に入る本日に思いを強くした。