黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 嫌な予感

2011年07月25日 23時39分53秒 | 日記

 或る日、I先輩が私の横に来て「今日から一緒に仕事をする事に成った厳しく扱くぞ」と言った。其の時は詳しくは言わなかったが次の日から向かい合った机でマンツーマンでの仕事が始まった。当時の私はトランジスターの修理は、経験と感覚で修理していたが一週間位すると「そんな事では何時までも通用しないぞ もっと理論を勉強しないと駄目だ!」と言われてトランジスターの基礎から教えてくれた。学生時代、学校や趣味の無線で真空管の動作や回路は勉強したがトランジスターの詳しい事は習わなかった。電気科と電子工学科では科目の配分が全然違うのだ。


 I先輩は電子工学科の卒業、当時学生で1アマを持ちメーカー製のリニヤが無い時代にセラミック球の自作リニヤで落成検査をパスするだけあって流石に博識で有った。3ヶ月くらい一緒に仕事をして色んな事を指導戴いたが先輩は先を見たのか?美人で一番性格の良い子と結婚、退社された。別れる時、TR-1000を記念に頂きその後大事に使った。


 その後、しばらくして専務室に呼ばれ「近い内に初めてFM付きの3バンドラジオの半完成品を作るラインを立ち上げる予定だ。大変だがやってみる気持はないか?」と打診された。工場が手狭で全ラインが作れないので完成品には別の工場を使う予定とか?色々説明を受けたが「海のもんとも山のもんとも解らないな?」と思ったし自信も無かったので明言を避けた。後で考えて、是はI先輩の予定で始まった計画だが退社してしまったので私に回って来たなと理解出来た。I先輩も其の事も有って前もって私を親切に指導してくれたのだと感じた。


 最終的には本人の意思には関係なく辞令が下った。50人位の部隊で基板からの組立て工程は問題なくスムーズに立ち上がったが出来上がった物の特性のバラツキが大きく修理担当者としては可也苦労した(この問題は修理の問題ではなく設計部門や部品の品質管理の問題なのだが彼らはプライドが高いので認めようとせず立証する事に苦労した。)3ヶ月程掛って変更や対策でラインが軌道に乗ると全ての工程が別工場に移動、部隊は解散した。


 私は元のラインの半完成品までの責任者に成ったが当時、労働組合運動が活発な時代でライン長辺りと会社側でトラブルが有り次々と製造ラインの年上の責任者が辞めた。運悪く私の所属するラインのライン長と完成工程の責任者が辞めてしまいトコロテン方式に私にライン長の大役が回って来てしまった。本来なら喜ぶべき事だが前任者は40歳位の人だったのにペイペイの21歳の私に此の重責が務まる筈が無い。この時に将来に不安を感じI先輩もこの辺を見抜いたのかな?と思った。


 


 社会人への旅立ち (1)

2011年07月25日 19時35分15秒 | 日記

 無線三昧の生活が終わり就職先の大阪に行くことに成った。就職先はテレビとラジオを生産する会社で私の配属された工場で従業員が400人位だった。同期入社は50人位い居たが何故か?九州の人(鹿児島県)が多かった。社員教育が終わり適正テストが有り最終的にラジオ部門の修理担当に成った。同期で最初から修理部門に入れたのは3人位で他は検査、調整やラインに入った 無線をやっていた御蔭で楽な部署だったがテレビ部門に配属かな?と思っていたので残念な気がしたが最終的にはラジオの配属でラッキーだった。


 テレビの製造ラインは真空管式の小型白黒テレビの生産をしていたが、ラジオの生産ラインはトランジスター式だったので新しい技術を学ぶ事が出来た(学校では真空管の勉強はしたがトランジスターの回路などは学んで居なかった)同期は(工業高校の電気関係の卒業生)50人も居たのにアマチュア無線の経験者は一人も居なかった。学問的に優秀な人も居たと思うが製造ラインは即、戦力に成る者を優先した様な気がした。


 修理部門はシャーシ完成(動作はするがケースに入っていない状態の半完成品)と完成品修理と2箇所有り私は前記の方の担当、ラジオが鳴るか鳴らないか?程度の故障修理なので楽勝だった。ただ私の前の30人位のラインの人が部品を差し違えたりすると流れてくるラジオは全て鳴らなくなるので 人為的なミスによる症状や設計に関わる(発信や音声のひずみ)問題点は早く見付けて対応しなければ大変に成るのでその意味では重要な場所であった。

 
 私の仕事で一番大変だったのはラインは一定の速度で流れるので製品の流れが一定になる様にしなければ成らない事で、最初はラインの子に同数の部品を持たすのですが其々に能力が違うので一定の流れをキープするには能力の有る子には負荷を掛け能力が劣る子には負荷を軽くして対応するのですが時として「えこひいき」と誤解される事だった。パートのおばさんは ハッキリと言うのだが若い子は「不協和音状態」でギクシャクした。出来るだけ能力の劣る子のレベルアップ図るのだが其れが達成出来るとラインのコンベアの速度を上げるので何処まで行っても際限の無い「鼬ごっこ」状態でした。
  

 入社して3ヶ月位したとき「君が日下君か?」とI先輩から呼び止められ「はい」と答えると「アマチュア無線をしていたんだって?」聞かれたので「はい」答えると「今晩 良かったら遊びに来ないか?」と誘って戴き夜、部屋に御邪魔した。佐賀県出身で私より3歳位年上だったが修理部門ではNo-1の実力の持主との噂の人だった。話を聞くと佐賀では500Wの局を開いていた様で大手家電メーカーのサービス・ステーションに勤務していたが仕事上の事で部長と喧嘩し相手を殴って会社を辞め大阪に出て来たとの事だった。

 

 其の時に無線談議に花が咲き、それ以後の御付き合いが始まった。社員寮は無線は御法度なのでI先輩はトリオのTR-1000を持って時々移動運用をしており比叡山移動に同行した事がある。出力は1W程度だったが高い山に上がると1や2エリヤとQSO出来た。先輩は頭の切れや技術力は抜群だが技術屋に有りがちな頑固さが有り女性にも人気が有ったが上司と時々衝突していた。