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岩波講座 『天皇と王権を考える 2 統治と権力』 2002 岩波書店 その2

2013年04月17日 | 王権

樺山紘一の序論も入れて13本の論考。「王権の地位と権力は、現実の統治行為のなかで、どのように観念され、実際に機能するのか」 その2では、和田 萃 の 「神器論ー戦う王、統治する王」 のピックアップ。
 和田 萃  「神器論ー戦う王、統治する王」 1 戦う王、統治する王  2八咫鏡と草薙剣  3 小結

和田 萃 は日本古代の戦う王として、代表的な人物として伝承の中のヤマトタケル(倭建命・日本武尊)及び、ワカタケル(雄略天皇)、大海人皇子(天武天皇)を挙げる。

ヤマトタケル

和田によれば、ヤマトタケルの原伝承は、最初につくられたのは、5世紀末頃ではないかとする。古事記だけに見える伝承では、ヤマトタケルがオトタチバナ姫との間にワカタケル王を儲けている。雄略(ワカタケル大王)と同じ名で、ワカタケル像が、投影されていると見る。伝承上のワカタケルと倭王武の違いは、伝説上のワカタケルは東征の途中で悲劇的死を遂げたこと。王権の伸張の過程で没することがあった事実を反映していると見る。

ワカタケル (倭王武 雄略天皇)

倭王武の上表文では武の先祖・祖先が自ら甲冑をつけ、山野を跋渉して王権の版図を拡げ、倭国王武の時代に立ち至ったことを述べているとして、戦う王は武の先祖で、武はむしろ統治する王であったと考える。

ヲホト(継体)大王

武烈の死により崇神以来の王統は絶え、近江・越前を基盤とする継体が擁立され大王位につく。応神五世孫とされるが、事実であったとしても、前王統の血縁関係は薄い。「上宮記」逸文によれば、允恭の皇后オシサカオホナカツヒメ王(践坂大中比弥王) の兄であったオオホト王(意富々等王)がヲホト(継体)の曾祖父であった。両者の名はオオ(大)ホト王とヲ(小)ホト王と対になっていて、両者が強く意識されていたことが注目される。ヲホト王(継体)が大王に擁立される「に至った最大の理由はこの点にあったと指摘する。

オオホト王(意富々等王)は湖北に拠点を置き、琵琶湖水運のみならず、淀川水系をも支配下においていたらしいとしている。

 和田萃は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市太田)228mの被葬者を允恭天皇の皇后オシサカオホナカツヒメ王(践坂大中比弥王) の兄のオオホト王(意富々等王)王に擬している。

また、継体の真の陵墓を今城塚古墳(大阪府高槻市郡家本町)全長186mとし、これは、ほぼ確定とみる。

上記の二つの古墳に埴輪を供給していた新池埴輪窯の調査が行われ、考古地磁気による測定で、A群窯を利用していた太田茶臼山古墳では、A群窯 1号窯 450年プラス・マイナス10年 、2号窯 440年プラス・マイナス30年、3号窯 430年プラス・マイナス40年と判定されている。

C群窯は今城塚古墳古墳に供給していて、このうちのC群18号窯は考古地磁気による測定で520年プラス・マイナス40年と判明していて、継体の没したとされる531(継体25年)年によく合致するとしている。

古墳の被葬者を、文献資料の分析によって、比定するのは、過去にも研究者はいたが、最近の考古学年代成果と、考古学研究者があまり利用していない、「上宮記」逸文を使い、太田茶臼山古墳の被葬者の可能性を指摘しているのは注目に値する。

 

八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉 三種の神器

「古くは八咫鏡と草薙剣の二種の神器とされていたものが、九世紀頃になって三種の神器観が成立した。八咫鏡は伊勢神宮、草薙剣は尾張の熱田神宮、八尺瓊勾玉は宮中に奉安されてきた」

「八咫鏡は歴代の王・大王・天皇による国家統治の正当性を示すレガリア(宝器)であり、草薙剣は大和政権が東国を王化した際ののレガリア、八尺瓊勾玉は王・大王・天皇の正身(むざね・身体)を護るレガリアであったといってよい」

 「八咫鏡は皇祖神たる天照大神御魂を依り憑けた御魂代であり、草薙剣は、スサノヲ神が、ヤマタノヲロチを退治してその尾の中から見だした神剣と観念されていた」

「草薙剣を身に帯びている間は、その霊力によって不死身であり、王化のための戦いには常に勝利することが出来た。しかし草薙剣を手放すと只の人となり、病を得、最後には能褒野で亡くなってしまう。草薙剣が、王化のシンボルであったことがよく示されている」 

「天の岩屋の件に、鏡作連等の祖のイシゴリドメノミコトに命じて、八咫鏡を作らせたとの伝承は、八咫鏡が舶載鏡ではなく、倭国で製作された仿製鏡であることを示す。またその経の規模は、「延喜式」の伊勢太神宮式に、八咫鏡を収める御樋代の(みひしろ)の寸法を「高さ二尺一寸、深さ一尺四寸、内径一尺六寸三分、外径二尺」としているところから、径48.5センチ弱の大型鏡と推定できる。」

継体即位にみる新王朝の即位儀礼

「ヲホト王(継体)の即位は大伴金村大連が物部麁鹿火大連や許勢男人大臣をはじめ、群臣に諮って実現した。樟葉宮で、金村は跪いて「天子鏡剣璽符」をヲホト王に捧呈し、再拝した。ヲホト王は固辞したが、大伴大連らによる再度の要請で、即位したとする」 (継体紀元年二月甲午条)

「天子鏡剣璽符」は、アマツミコノ鏡ト剣ノミシルシ と読むべきもので、捧呈されたのは鏡と剣の二種であった。継体即位とともに、従来の登壇即位の形式に、群臣らが宝器たる鏡と剣を捧呈する儀式がくわえられたことが重要である」

「この鏡と剣を、大伴金村大連が群臣を代表してヲホト王に捧呈したことは、いみじくもヲホト王が従来の王朝とは全く異なる家系の出身者であったことを示している。ここに継体新王朝が成立したと理解される」   

としている。

続く

岩波講座 『天皇と王権を考える 』 2002 岩波書店 の 全巻内容の目次構成は2012年12月2日の当ブログへ

 

 

 

 

 

 



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