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JFK ケネディ大統領暗殺事件50年 以後にむけて その1 

2014年12月06日 | JFK ケネディをめぐる本・新聞記事

            ▲JFK ケネディ大統領暗殺事件 ダラスのパークランド病院の医師の証言録を中心に

 

JFK ケネディ大統領暗殺事件50年 以後の沈黙

JFK ケネディ大統領暗殺事件50年以後、世界を恐怖に陥れた白昼堂々暗殺事件はまるで何もなかったかのように、報道メディアは新しい事件や政局の動きを追いかけている。
2013年のケネディ暗殺事件報道については、すべてのテレビの特集を見たわけではないのだが、惨憺たる出来の番組ばかりだったのではないだろうか。アメリカで制作された作品を日本語化しただけのおざなりの作品ばかり。魔法の銃弾は存在したかのような下劣な実験を科学分析として披露していた局もあったなぁ。

古いニュース番組で、ダラス警察の取り調べの合間の移動で、記者が投げかけた言葉に、、オズワルドが反応していた言葉に注目しておく必要がある。

記者が、ケネディを殺したのかと聞くと、「え!と、以外な反応をする瞬間」が記録されている。

また、弁護士をつけてくれと記者団にむけて訴えているシーンもあった。

また、ダラス警察での短い時間、彼が話した一番重要で、記憶に残る言葉があった。記者団に向かって、哀願するように見える表情で 「私は嵌められたんだ」 と言っていることである。アメリカのケネディ事件の評論家諸氏の解釈ではなく、ニュース番組を繰り返し注意深く聞くと、オズワルドのことばが聞こえる。

仲晃 の『ケネディはなぜ暗殺されたか』 1995年 NHK出版の本文最後の頁(280頁)にこの言葉が刻まれている。

「I am a patsy ! I am a patsy !」 (私は身代わりですよ、はめられたんですよ!」

ぜひ、1963年のニュース記録から、オズワルドのほんとうに数少ない肉声を聞き届ける必要があると思う。

これこそオーラル・ヒストリーの極点。

ケネディ暗殺事件の解明は、まず、オズワルドのこの言葉から出発しなければならないように思う。

自分が何で逮捕されたのか知らず、記者に聞いて、はっとし、ようやく、自分が騙されていたのではないかと気がつき、上のような同じ言葉が2度繰り返され思わず口にあふれ出たのではないのか。

これに対するに、1964年 ウォーレン委員会報告書では、こう結論を導きだしている。

結論」

「彼(オズワルド)は自分のための歴史上の地位・・・・・彼の時代の先駆者として認められるような ”偉大な人物”としての役割・・・・を求めた。」 

大森実 監修 毎日新聞社外信部 訳 『ケネディ暗殺の真相  ウォーレン報告』 1964年10月15日 弘文堂

 記者団に向かって、自分がケネディ暗殺の犯人とされてていることに気がつき、はじめて、自分のおかれてしまった境遇に恐れおののき

「I am a patsy ! I am a patsy !」 (私は身代わりですよ、はめられたんですよ!」

と、言葉したのじゃないのか。!

メリカ政府公式のケネディ暗殺事件の調査検証の結論のように

オズワルドは

偉大な人物として振るまおうとした、誇大妄想家のマルクス主義者・共産主義者だったのだろうか?もし狂信的な妄想家・凶暴な共産主義運動家だったのなら、正々堂々と記者たちの前で演説していたことだろうに そんなことはない。ある些末な仕事をさせた上で濡れ衣をきせられるべく教科書ビル6階に配置されたのではないのか(ブログ主のひとりごと)

 

それにしても、ダラス警察は、2日間、尋問記録をなぜ残さなかったのだろう。国民にはケネディ暗殺容疑で拘束して、大々的に報道機関に発表させておきながら、ケネディ暗殺については拘束したオズワルドには質問していないのだ。わずかな時間の記者団に向けた質疑応答で、そのような取り調べは受けていないとオズワルドは話しているのだ。ダラス警察には、取り調べ記録室もあり、音声記録も残せるのにだ。

1980年代から、1990年代、そして、2003年の暗殺事件40年後頃までの著作・研究の方がすぐれていたように思う。

アメリカの大手テレビ・新聞は、いまや軍産官報複合体にほぼ一体化しているし、アメリカ国家自体、公共自治体すら民間企業に乗っ取られつつある。
2013年のケネディ暗殺50年前後を中心にいくつか、ケネディ暗殺事件に関わる日本語で読める本や、事件直後の新聞記事など当ブログで紹介したことがあった。

2009年に始まる当ブログはケネディ暗殺事件についての日本語で読める文献や、下山・三鷹・松川事件のリスト作りから始まった。いつのころだったかは思い出せないのだが、田舎暮らしで、ひょっとしたことから、1冊。2冊と読みすすめるうち、あれも疑問、これも変?といっているうちに、ケネディ没後25年あたりから、図書館で探しては、さらに本の巻末にある参考文献を読むことになった。

 


去年のうちに紹介したかったのだが、我が家の書庫の地殻断層の探索で、ようやく、別な本を探している間に見つけだした本をいくつか紹介したい。
今回は、ケネディ大統領が運び込まれ、必死の蘇生を試みたパークランド病院の医師の証言や、検屍官の言説をメモする。

 

 

  

 ▲ デイビット・リフトン 土田宏 訳 『ベスト エヴィデンス』 上巻・下巻 1985-1986 彩流社 

 

 ▲ デイビット・リフトン 土田宏 訳 『ベスト エヴィデンス』 彩流社  目次

この本は、致命傷となった、ケネディへの銃撃は、オズワルドのいたテキサス教科書会社の6階から撃たれたものではなく、ケネディの前方から撃たれたもので、その前方から撃たれた、弾丸が入った射入孔を後ろから撃たれた射出孔へと方向を真逆にするため、ダラスのパークランド病院から、ケネディの遺体を運び出し、遺体変造処置をして、また、残った銃弾の破片を、除去し、3発の空薬莢が残されたテキサス教科書会社からの銃撃数と一致するようにし、陰謀の明白な証拠を隠滅し、偽りの検視記録を作ったとするもの。パークランド病院の医師たちや、遺体を運び出した職員関係者に広く取材し、1979年の下院暗殺委員会での新たな資料も考察の対象にしている。原著は1980年に発刊。著者はアポロ宇宙開発に関わっていた物理工学部出身の科学者。それ故と言おうか、理詰めの最善の証拠を探しもとめ、並の探偵小説では決して味わえない、恐怖と隣合わせの知的探求心の熱情に深く心を揺さぶられる。結果として、原著者は宇宙開発の科学者から、すぐれたアメリカ現代史研究者となった。

銃弾は3発以上で、グラシノールの方から聞こえたとする証言者に向かって、ある政府関係者は、3発以外にはあり得ないと、決めてかかってきて、自分の記憶を恐怖のため撤回せざるを得ない人もいたのである。

オズワルドのいたとされる教科書ビル6階のいわゆる狙撃者の巣からは、窓から追っても、次第に標的は遠ざかるのである。性能の優れた最新の軍用ライフルを用いて専門の狙撃手が撃てば、あたるかもしれないが、厳重に管理されている最新兵器入手経路の工作ではかえって足がついてしまうだろう。オズワルドは、事件のちょっと前に教科書ビルに雇われたアルバイト生活者なのである。家族も子供もいる。収支決算があわないのだが、どうもこのあたりの探求も納得できるものではないはず。

射撃位置は、どんどん標的が近づいてくるグラシノールや、鉄道陸橋の方角の方がいいに決まっている。

日本では翻訳をアメリカ政治・ケネディ研究者の土田宏が1985-1986年に初版を出した。私が持っているものは1992年4-5月の3刷のものである。2003年に出版された土田の『秘密工作 ケネディ暗殺』 の巻末参考文献案内では、1992年に改訂版が出ていると記している。まだ改訂版のものは日本で出版されたと聞かない。

この本一巻の本体定価2500円で2冊なので、本体だけで5000円もする。初版のときはもっと安かったのかもしれないが、なかなかの出費である。私も最初は公共図書館で借り出していた。

 

 

 ▲ チャールズ・A・クレンショー / 共同執筆 ジェンス・ハンセン/ J・ゲアリー・ショー

 岩瀬孝雄訳 『JFK暗殺 医師たちの沈黙』 1992 早川書房 

(画像は中表紙です。 カバーは紛失中なので中表紙代用です。ご容赦願う。カバー見つかった時には訂正してカバー付きのものに差し替えします)  

チャールズ・A・クレンショー は、銃弾を受けたケネディ大統領一行が、直ちにダラス市内のパークランド病院に運ばれ緊急治療が行われた際、この病院にいた研修医。手術室にいて治療にあたった。コナリー知事や、またのちにオズワルドも銃弾を受け運ばれてきたため、その医療も行っている。

病院での出来事は一切口外してはならない箝口令が敷かれたので、若い研修医だった彼は、(手術室にまで撃鉄起こした銃をもったシークレットサービスがいて見張られていた)口外すれば、医者の資格どころか、生命の危険も察知して、長期に渡って沈黙を守り続けていたのである。この本で著者がこの著書をなぜまとめて世に公開する気になったかといえば以下のような証言を読むと明らかになる。

「ケネディ大統領が救急センターに運び込まれたときから、オリヴァー・ストーンがダラスで映画「JFK」を撮影したときまで、ケネディ大統領の死を目撃した医師たちは沈黙の共同謀議というべきものを守りつづける必要を感じてきた。最近も、サウスウエスタン医科分校が、今もそこで働いている医師たちにたいして、パークランド病院に運びこまれた際の大統領の状況をオリヴァー・ストーンに明かしてはならないという箝口令を出した。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これまで何度となく、大声で世間に訴えたい衝動に駆られてきた。ー私が調べたケネディの頭部と頸部の傷は、世間が信じこまされてきたように後方からではなく、、前方からの銃撃によるものであると。テキサス教科書倉庫の6階にいたオズワルドの単独犯行だという説を耳にするたびに、テレビ局に電話をかけてありのままを訴えようかと思った。しかし結局は自分を抑えざるを得なかったのである。」 『JFK暗殺 医師たちの沈黙』 23-24頁

「1963年から今日にいたるまで、私は銃撃による同様の損傷を数多く目にし、処置してきた。その経験からも、ケネディ大統領の傷に関しては正しく理解しているつもりだ。なぜウォーレン委員会がケネディ大統領の救急処置室にいた医師一人ひとりを調べなかったのか、いまだに私は理解することができない。」『JFK暗殺 医師たちの沈黙』 24頁

「ウォーレン委員会は、自分たちが耳にしたかったこと、あるいは耳にするよう求められていたことに耳を傾けたにすぎない。そして、自分たちが報告したいと思ったこと、あるいは報告するよう求められていたことを報告したにすぎない。」 『JFK暗殺 医師たちの沈黙』 24-25頁

「もし証言を許されたら、私はケネディ大統領の生命を奪った銃弾は、グラシ・ノール(草のしげった丘)から発砲されたと確信していると発言しただろう。」 25頁

「私はまた、リー・ハーヴェイ・オズワルドの手術を行っている最中にリンドン・ジョンソンから電話を受けたことも、ウォーレン委員会に告げただろう。ジョンソン大統領は、手術室にいるある人物がオズワルドの最後の告白を聞き取ることになっていると言ったのだ。どうにも腑に落ちない話だ。アメリカ大統領が暗殺事件の捜査に個人的関わるとはどういうわけなのか。テキサス州当局の捜査の権限に介入するとはどういうわけなのか。」  25頁

ブログに掲載しようと今回この本を読み返してみて、あらためて、ダラスのパークランド病院の医師たちが必死になってケネディを蘇生させようと奮闘していた姿を思い浮かべた。

「私は、血まみれになって取り乱しているジャクリーン・ケネディの前を通って、第一救急処置室に入る。ケネディ大統領に懸命の処置を施しているジム・カリコ医師とマルコム・ペリー医師に歩み寄る。足からはじまって、大統領の毛の一本一本、ほくろ、皺が私の脳裏によみがえる。・・・・・・・・しだいに弱まっていく彼の心臓の音が私を苦しめる。・・・・・・・・ついにその時がやってきた。マルコム・ペリー医師、ロバート・マクレランド医師、ロナルド・ジョーンズ医師の沈痛な表情。チャールズ・バクスター医師ジャクリーン・ケネディに、彼女の夫が死亡したこと無言のままに告げ、私が彼女の肩に手をまわす。それら過酷な瞬間が私の脳裏を駈けめぐる。」 27-28頁

「私はシークレット・サーヴィスのエージェントたちの脅しの手段も思い出した。私たちが「スーツを着た男たち」と呼んでいたそのエージェントたちはパークランド病院の人々に恐怖感を抱かせる存在だった。彼らの警護と配慮は、大統領が生きていたときよりも、死亡してからのほうがゆきとどいている感じだった。ケネディ大統領の柩に納められて、パークランド病院から運び出されるときも、武装したシークレット・サーヴィスがとりまいていた。」 28頁

この本は、チャールズ・A・クレンショーが医師としてのキャリアも終わり、また、オリヴァーーストーンの映画制作にも勇気をもらいながら、28年間の沈黙を破り、共同執筆したダラスパークランド病院1963年11月22日~24日の日々の再現である。

著者はこの執筆で恐怖感から怒りに変わっていったと述懐しているのだ。

アメリカは自由の国、民主主義の国であると世界に声高に触れ回っているのだが、本国アメリカでは彼のように、四半世紀以上もの間、恐怖に苛まれながら沈黙を強いられている人がいるのである。

これより先当ブログ2012年の6月9日に

ケネディ暗殺事件 1964年6月発行のトーマス・ブキャナンの本『誰がケネディを殺したか』

という記事を書いているのだが、そこで、著者は ダラス市長が、ケネディの葬儀にいくならお前も殺すぞと脅迫を受けていると、記者団に訴えている話を書いていた。参照していただきたい。

え!何! まさか? 

自分が市長をしている都市で白昼堂々大統領が暗殺され、重い責任を感じ、弔問に公的にいくことすら記者団に訴え支援を得なければならない影の恐怖政治がダラスには存在していたのである。トーマス・ブキャナンの本はウォーレン委員会報告書を出す前に一人で書き上げた本 アメリカの裏社会の非道ぶりにあきれ、ヨーロッパに逆亡命したようなニュアンスの人。1964年の6月では、死の恐怖を克服した人でなければ、ケネディ暗殺に関わる疑問の書は刊行できなかったのである。

▲ クレンショー  『JFK暗殺 医師たちの沈黙』 目次1992

 

 

 ▲ シリル・ウェクト 北澤和彦 訳 『大統領の検屍官』1994年11月30日 徳間書店

 

 ▲ シリル・ウェクト 北澤和彦 訳 『大統領の検屍官』 目次の一部 

 

 

 ▲ ウィリアム・レモン ビリー・ソル・エステス 廣田明子 訳 『JFK暗殺40年目の衝撃の証言』2004年 原書房 1800円+税

 

 ▲ バー・マクレラン 赤根洋子 訳 『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』 2005年 文藝春秋

 

 

▲土田宏 『秘密工作 ケネディ暗殺』 2003年11月22日 彩流社 定価本体2500円+税

 

 

▲ 土田宏 『秘密工作 ケネディ暗殺』 目次

 

 

 

   

  ▲ 落合信彦のケネディ暗殺をめぐる著書2冊 

左は『20世紀最大の謀略 ケネディ暗殺の真実 』2013年 小学館 右は『決定版 2039年の真実』 集英社

『20世紀最大の謀略 ケネディ暗殺の真実 』2014年 の前書きは新稿なのだが、その後の章立てなどをみるとほとんど変更がないと思われる。1993年に元版の『決定版 2039年の真実』 小学館 が、先祖帰りして元の小学館に版元が変更しただけなのか。

 

 

 近日中 JFK ケネディ大統領暗殺事件50年 以後にむけて その2 UP予定

 

 



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