1月18日、午後1時。
定刻より15分ほど遅れつつも、1両編成の列車は終点の「増毛」駅に到着した。
ご覧のように、線路はここで完全に途切れる事となる。いかにも「終着駅」といった味わい深い風景だが、これを見られるのも来年3月のダイヤ改正までとなりそうだ。
列車が到着した駅構内は、しばし記念撮影の人々で振るわう。皆さん15分後に折り返す深川行きですぐ戻ってしまうのか、限られた時間で忙しく動き回っている印象を受ける。
案の定、ホームで撮影していた人々は次第に列車の中に戻っていき、列車の発車時刻に構内に残るのは僕と数人の観光客のみとなった。静寂が訪れたホームで折り返しの列車を静かに見守る。
やはり多くの乗客は「留萌本線乗車」が一番の目的だったようである。
さて、ようやく辿り着いた増毛駅の駅舎。それほど古そうには見えないが、それでも終着駅にふさわしい素朴なたたずまいだ。
小さな待合室には増毛周辺の風景写真が飾られており、壁や床には港町らしくガラス製の浮き玉がたくさん。新しそうな蕎麦屋が併設していたが、お客さんはおらず若い店員さんが暇そうにしていた。
駅舎の見物もそこそこに、静かな駅前広場へと出てみる。
すると、そこに佇んでいた建物に思わず息を呑んでしまった。
……これは凄い。昭和8(1933)年に建てられたという高級旅館「旅館 富田屋」の建物だ。
残念ながら20年以上も前に閉館し、現在は中に立ち入る事は出来ないという。
色がくすんで年季の入ったガラス戸、そして建物自体のどっしりとした重厚感のあるたたずまいが、もはや遠い過去のものとなってしまった増毛町の繁栄を静かに証明する。
折り返しの列車ですぐに引き返さなくて本当によかったと心から思った。
増毛町におけるニシン漁のピークは昭和21(1946)年の50,748トンであったという。
大正初期から「道内有数のニシン漁場」として注目を集めていた増毛町には、ニシンが訪れる春先ともなると道内外から出稼ぎ労働者や行商人などが集結し、道内有数の港町として大いに賑わった。
昭和初期まで、増毛を含む道内の日本海沿岸地域ではビックリするぐらいに、笑ってしまうほどニシンが獲れた。
かつて、羽幌の辺りでニシン漁の網元(漁師の雇い人)をやっていたという父の曽祖父の話を聞いた事がある。
当時は余剰に水揚げされるニシンの如く「腐るほど」金が舞い込んで来たらしく、父の曽祖父は札束を押し入れに放り込んでいたらしい。押し入れの中は札束まみれ。
冗談みたいな話だが、当時の道北地方はそれほどニシンの恩恵を受けていたのである。
昭和30年の1481トンを最後に、日本海沿岸へのニシンの群来は突然止んでしまう。
乱獲が原因とも言われているが、詳しくはよく分かっていない。
全盛期は2万人近くが住んでいた(※昭和31年)という増毛町であるが、ニシンが消えてからは町は衰退するばかりである。
平成28年2月現在、増毛町の人口は4700人ほどで、現在も減り続けているという。
さて、駅前からは小さな通りが伸びており、大正~昭和期の年季の入った建物がいくつも連なっている。
昭和7年の建物だという「旅館 増毛館」、かつて歯科医院であった「海栄館」などはいずれも個人所有であるが、いずれもニシン漁による繁栄を偲ぶ建物として重要視されている。
その他、「増毛駅前観光案内所」として活用されている「多田商店(昭和8年建築)」が目を引くが、こちらは後ほど紹介する。
こちらの建物は、国の重要文化財にも指定されている「旧商家丸一本間家」である。
かつて増毛町で呉服商、ニシン漁の網元、海運業、酒造業などあらゆる事業を展開していた本間家(屋号:丸一本間、初代:本間泰蔵)の旧宅および各店舗で、明治35年建築の石造りの蔵がほぼそのまま残っている。
こちらも増毛の過去を偲ぶ貴重な遺産だ。
丸一本間家の角を曲がると、閑散とした道の向こう側に海が見えた。
寒々しい真冬の曇り空の下、まるで町全体が冬籠りしているかのような雰囲気が漂う。
黒ずんだ日本海の向こう側に、苫前、羽幌、稚内へと続く沿岸地域を望む事が出来た。
2年前、あの海岸線沿いを自転車で延々走った事を考えるとゾッとしてしまう。
沿岸にニシンが押し寄せると、海面は瞬く間に乳白色に変化したという。これはニシンの群れが一斉に産卵を行うために起こる現象であり、沿岸の人々はこれを「群来(くき)」と呼んでいた。
続く。
定刻より15分ほど遅れつつも、1両編成の列車は終点の「増毛」駅に到着した。
ご覧のように、線路はここで完全に途切れる事となる。いかにも「終着駅」といった味わい深い風景だが、これを見られるのも来年3月のダイヤ改正までとなりそうだ。
列車が到着した駅構内は、しばし記念撮影の人々で振るわう。皆さん15分後に折り返す深川行きですぐ戻ってしまうのか、限られた時間で忙しく動き回っている印象を受ける。
案の定、ホームで撮影していた人々は次第に列車の中に戻っていき、列車の発車時刻に構内に残るのは僕と数人の観光客のみとなった。静寂が訪れたホームで折り返しの列車を静かに見守る。
やはり多くの乗客は「留萌本線乗車」が一番の目的だったようである。
さて、ようやく辿り着いた増毛駅の駅舎。それほど古そうには見えないが、それでも終着駅にふさわしい素朴なたたずまいだ。
小さな待合室には増毛周辺の風景写真が飾られており、壁や床には港町らしくガラス製の浮き玉がたくさん。新しそうな蕎麦屋が併設していたが、お客さんはおらず若い店員さんが暇そうにしていた。
駅舎の見物もそこそこに、静かな駅前広場へと出てみる。
すると、そこに佇んでいた建物に思わず息を呑んでしまった。
……これは凄い。昭和8(1933)年に建てられたという高級旅館「旅館 富田屋」の建物だ。
残念ながら20年以上も前に閉館し、現在は中に立ち入る事は出来ないという。
色がくすんで年季の入ったガラス戸、そして建物自体のどっしりとした重厚感のあるたたずまいが、もはや遠い過去のものとなってしまった増毛町の繁栄を静かに証明する。
折り返しの列車ですぐに引き返さなくて本当によかったと心から思った。
増毛町におけるニシン漁のピークは昭和21(1946)年の50,748トンであったという。
大正初期から「道内有数のニシン漁場」として注目を集めていた増毛町には、ニシンが訪れる春先ともなると道内外から出稼ぎ労働者や行商人などが集結し、道内有数の港町として大いに賑わった。
昭和初期まで、増毛を含む道内の日本海沿岸地域ではビックリするぐらいに、笑ってしまうほどニシンが獲れた。
かつて、羽幌の辺りでニシン漁の網元(漁師の雇い人)をやっていたという父の曽祖父の話を聞いた事がある。
当時は余剰に水揚げされるニシンの如く「腐るほど」金が舞い込んで来たらしく、父の曽祖父は札束を押し入れに放り込んでいたらしい。押し入れの中は札束まみれ。
冗談みたいな話だが、当時の道北地方はそれほどニシンの恩恵を受けていたのである。
昭和30年の1481トンを最後に、日本海沿岸へのニシンの群来は突然止んでしまう。
乱獲が原因とも言われているが、詳しくはよく分かっていない。
全盛期は2万人近くが住んでいた(※昭和31年)という増毛町であるが、ニシンが消えてからは町は衰退するばかりである。
平成28年2月現在、増毛町の人口は4700人ほどで、現在も減り続けているという。
さて、駅前からは小さな通りが伸びており、大正~昭和期の年季の入った建物がいくつも連なっている。
昭和7年の建物だという「旅館 増毛館」、かつて歯科医院であった「海栄館」などはいずれも個人所有であるが、いずれもニシン漁による繁栄を偲ぶ建物として重要視されている。
その他、「増毛駅前観光案内所」として活用されている「多田商店(昭和8年建築)」が目を引くが、こちらは後ほど紹介する。
こちらの建物は、国の重要文化財にも指定されている「旧商家丸一本間家」である。
かつて増毛町で呉服商、ニシン漁の網元、海運業、酒造業などあらゆる事業を展開していた本間家(屋号:丸一本間、初代:本間泰蔵)の旧宅および各店舗で、明治35年建築の石造りの蔵がほぼそのまま残っている。
こちらも増毛の過去を偲ぶ貴重な遺産だ。
丸一本間家の角を曲がると、閑散とした道の向こう側に海が見えた。
寒々しい真冬の曇り空の下、まるで町全体が冬籠りしているかのような雰囲気が漂う。
黒ずんだ日本海の向こう側に、苫前、羽幌、稚内へと続く沿岸地域を望む事が出来た。
2年前、あの海岸線沿いを自転車で延々走った事を考えるとゾッとしてしまう。
沿岸にニシンが押し寄せると、海面は瞬く間に乳白色に変化したという。これはニシンの群れが一斉に産卵を行うために起こる現象であり、沿岸の人々はこれを「群来(くき)」と呼んでいた。
続く。