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静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

神の国アメリカ(4)

2009-09-21 19:40:56 | 日記
 
 4 神によって特別に取りのけられていた土地

 「私たちのために、彼らは汗を流して懸命に働き、西部を開拓した。むち打ちに耐え、硬い土地を耕した」(就任演説)と称え、これが今日も続けられている旅だとオバマ氏はいう。西部開拓についてはいろいろの見方があろう。目の当たりにその情景を見ていたトクヴィルはそれを見事に表現した。
 「北米は、土地の自然的な富を利用しようとも考えなかった放浪部族<岩波文庫・松本訳=遊牧民族。アメリカインディアンは狩猟民族であった筈=筆者>によってのみ住まわれていた。北米は、本当のことをいえば、まだ住民の来るのを待っていた空っぽの大陸、見捨てられた土地であった」(岩波文庫・井伊訳、以下同じ)。「この北米は、原始時代の孤立した無知な、そして野蛮な人間にではなく、すでに自然の最も重要な秘密の鍵をにぎっていて、同胞たちと団結し、五千年の経験で訓育された人間に、提供されたのである。」。「このときに、一千三百万の文明的ヨーロッパ人が、正確には資源も広さも分かっていなかった肥沃な荒野に静かに拡散していった。彼等の前方では三千~四千の兵士たちが、放浪的原住民族を追いのけていった。武装した人々の背後には、森を切り開く樵夫たちが進み、猛獣をさけ、河の水路を探し、荒野を横切っての文明の勝ち誇った前進を準備した」。「この餌[土地のこと]を追いかけるためにアメリカ人はインディアンの矢と荒野の病気をものともせず立ち向かってゆく」。
 トクヴィルはさらにいう。移住民たちはより多くの利益を求めて、さらに西へ西へと歩くと。そして「今日では、この移住ということは彼らには一種の偶然な遊戯になっていて、その遊戯で勝ちがえられる限り、彼らは面白いと思っている」。そしてこう結ぶ、「人間の悪徳が、その美徳とほとんど同じく社会に有益である世界は、何と幸福な国であることよ」。悪徳と美徳が同様に有益であるとは! まことに奇妙な世界である。
 この西部開拓に当たっては、プリグラム・ファーザーたちが結んだ契約のことを思い起こさせる。次の文を参照してもらいたい。「西部へ幌馬車が出発するときには、出発前に憲法が全員一致で採択され、全員がこの憲法に署名するのがならわしであった。たとえば、1849年5月9日にゴールドラッシュに沸くカリフォルニアに向けて出発した一隊は、次のような文章で始まる憲法を採択している。『われら、グリーン・アンド・ジャージ・カリフォルニア移住団のメンバーは、われわれの人身と財産を有効に保護するため、かつ迅速で快適な旅行を確保する手段として、下記の憲法を規定し制定する』(阿部斉「アメリカ立憲主義の形成」『思想』No.761)。
 アメリカ大陸にやってきた西欧人たちは、インディアンを人間とは見ていなかったように思える。人間として見たとしても、土地は彼らのものではなく、白人のものであり、白人の到来を待っていた神が彼らに与えてくれたもの、つまり神の約束の地であった。イスラエルの地がユダヤ教徒にとって神の約束の地であるように。 白人征服者たちの言い分は、インディアンは狩猟を行っているだけであって労働を行わない民族なので土地の所有権はない、そこは空白の土地である、富や財産は耕作するという労働の対価としてだけ与えられるものである、と。
 オバマ氏の演説には、先住民インディアンについての言及は一行もない。

神の国アメリカ(3)

2009-09-20 18:37:58 | 日記
(本日のメモ;書評から。エマニュエル・トッド『デモクラシー以後』(石崎晴己訳、藤原書店)。母国フランスでの民主制の危機を警告。推測の前提1、教育の問題、2、家族の問題。ほとばしるのは「サルコジのごとき男が大統領になりえたのは何故か」という怒りにも似た感情。(毎日『今週の本棚』、松原隆一郎評)。

 3 「神から与えられた約束」

 それは、すべての人は平等かつ自由で幸福を追求する機会に値するという、神から与えられた約束だ」とオバマ氏は言う(就任演説)。これが「アメリカ独立宣言」の一節からとられたことは明白である。そこにはすでに「造物主によって・・・天賦の権利が賦与され」とあった。フランスの「人および市民の権利宣言」には造物主とか神という文字はない。「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」とだけである。だがオバマ氏は、アメリカの偉大さは所与のものではない、米国の旅を担ってきたのはリスクを恐れぬ者、実行する者、生産者たちだという。「私たちのために、彼らはわずかな財産を荷物にまとめ、新しい生活を求めて海を越えてきた」。 
 オバマ氏が言う「新しい生活を求めて海を越えてきた」というのはメイフラワー号でニューイングランドの海岸に到着した清教徒のピルグリム・ファーザーズのことだろう。今はプリマスと呼ばれるその地は合衆国の聖地となり、ニューイングランドはアメリカ建国の地とされている。 
 ピルグリム・ファーザーズたちは船上で誓約を交わしていた。「神とお互い同士がいる前で、厳粛に約束を取り交わし,われら自身を互いに結び合わせて政治体となし・・・それによって、植民地の一般的善にもっともふさわしく有益であると思われるような正義にかないかつ平等な法、布告、条令,国制、公的職務をおりにふれて実施し、制定し、起草し、それにしかるべき服従と従順を約束する」(メイフラワー誓約)と。
 このニューイングランドには五つの州ができた。そのうちの一つコネチカット州が制定した刑法(1650年)は聖書に想を求めて制定された。最初に「主にあらざる神を崇める者は死刑に処す」とあった。(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第1巻上)。続いて同じような規定が10か条ほど聖書から採られた。トクヴィルは言う「最初の人間の中に人類のすべてがあるのと同じように、アメリカの運命のすべては、新大陸の岸辺に到着した最初の清教徒の中にすでにあったのを見る思いがする」。そしてさらに言う、「広大無辺の大陸を彼らに委ねて、自由と平等を長期にわたって守る手段を提供したのは、実に神ご自身である」(同書)。
 ギリシアの哲学者プラトンは「はじまりは、それがそれ自身の原理を含むゆえに、やはり神であり、その神は,人びとのなかに住み、人びとの行為を鼓舞するかぎり、すべてのものを救う」と言い、ボリュビオス(ギリシアの歴史家、前201頃ー120頃)は、「はじまりはただ全体の半分であるばかりではなく、終わりにまで到達しているものである」と述べていたそうである(上掲書)。プリグラム・ファーザーたちの神はやはり神であり、その約束は合衆国の終わりにまで到達するのだろうか。

神の国アメリカ(2)

2009-09-19 11:37:42 | 日記
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 2 大統領就任式

 オバマ大統領は選挙中の自己の主張を引っ込めることによって、有力新聞のコラムニスト、マイケル・ガーソン氏のような人たちの支持をも取り付けられたように見える 
 就任式は、開会宣言に続いてキリスト教福音派の牧師による祈りが捧げられた。この牧師は、同性愛や妊娠中絶に厳しい、オバマ氏の主張とかけ離れた「右派」の牧師であった。そして式典の最後は公民権運動を支えた黒人牧師の祈りで締めくくられたとのことである。
 オバマ氏の大統領就任の宣誓は、合衆国の伝統にならい聖書に左手を置いてなされた。しかもその聖書がかつてリンカーン大統領が用いたものであったと、日本のジャーナリズムは押しなべて好意的に伝えた。続いて行われた就任演説でオバマ氏は「神」や「聖書」について次のように言及した(1月22日朝日新聞朝刊の訳による。訳によっては意味が違ってくるものもある)。
 a.「聖書の言葉を借りれば、子供じみたことはやめる時がきた」。
 b.「すべての人は平等かつ自由で幸福を最大限に追求する機会<毎日新聞の訳は「価値」>に値するという、神から与えられた約束だ」。
 c,「これが<注:米国人が引き受けねばならない自分自身や自国、世界に対るる責務の事を指す>、不確かな行き先をはっきりさせることを神が私たちに求めているという、私たちの自身の源でもある」。
 d.「地平線と神の恵みをしっかり見据えて自由という偉大な贈り物を受け継ぎ」。
 e.[ありがとう。皆さんに神のご加護がありますように。そして、神のご加護がアメリカ合衆国にありますように。(Thank you.Good blees you.And Good blees the United States of America.)」。
 以上の5箇所である。
 ここで彼が神というとき、それがキリスト教の神であることは自明である。彼はバイブルに手を置いた。だが彼は言う、「私たちの国は、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒,ヒンドゥー教徒、そして無宗教徒からなる国家だ」と。ならばなぜキリスト教のバイブルに誓った? しかもこの表現は非常に不正確だ。ちなみにフランス大統領は就任に当たってフランス憲法に誓い、その後別室(国会の図書館)でモンテーニュの『エセー』を片手に記念写真を撮るそうである。
 なぜモンテーニュなのか、いろんな答えがあるだろうが、ソビエト科学アカデミー版『世界史・中世、6』も参考になるだろう。懐疑論など嫌いなソビエトでの評価である。少し長くなるが引用する。
  「モンテニュが人間の理性に対してもある程度の不信を抱いていたことは事実であるが、しかし全体として、この懐疑的態度の思想的本質は究めて進歩的なものである。かれはまず第一に宗教的な迷信や狂信を暴露し、観念的な偏見を論駁し、経験的知識に達する道を清めようとする批判的な機能を果たすことを使命としている。自然を人間の教師として賛美し、庶民の知恵を証明して、モンテーニュは新しい歴史的環境のなかで、16世紀前半の ヒューマニストたちの思想を受け継ぎ、またいっそう発展させたのである。モンテーニュの『随想録』は、ベーコンに始まり18世紀の啓蒙主義者たちに終わる先進的な西ヨーロッパ哲学思想のその後の発展に、極めていちじるしい感化を与えたのである」。
 ここでいう「西ヨーロッパ哲学思想」は、合衆国では受け継がれなかったらしい。
 いずれにせよ、宗教的儀式かと見紛うような就任式であった。その就任演説は何種類もの日本文に翻訳された。そのうち毎日新聞は日本語訳と英文で「全文」を、朝日新聞は日を改めて2種類の日本語訳と英文をともに「全文」として発表した。だが毎日の2種類と朝日のはじめに出た「全文」には、「Thank you. Good bless you. And God bless the United States of America」に当たる箇所がなかった。筆者は、この文句は就任式での定型かと思っていたので、はじめは、オバマ大統領がチェンジを実行したのかなと思ったほどである。だが朝日のもう一つの1日遅れの「全文」では、ちゃんとこの一句が入っていたので納得・・・つまり最初の三種類は「全文」ではなかったのである。朝日新聞社と毎日新聞社に電話でなぜそうなったのか問い合わせたが、明確な返事はもらえなかった。

 

神の国アメリカ(1)

2009-09-18 10:38:21 | 日記
  (本日のメモ・・・今朝の新聞報道;米医療保険改革を巡るオバマ大統領への議会などでの厳しい批判について、カーター元大統領が背景に「人種差別がある」と指摘・・・。オバマ政権側は、「考え方の違い」としている)。

 1 はじめに

 2009年1月20日、アメリカではオバマ大統領の就任式が行われ200万人が参列したといわれる。
 その就任にあたってマイケル・ハーシュという人が米紙ニューズ・ウィーク上で、オバマ時代は主戦論や宗教的熱狂・反知性主義が敗北する時代だと断言し「オバマ氏は信仰を本来あるべき位置、つまり教会の信者席にとどめておく人物だ」と書いたらしい。それに対しワシントンポストのコラムニスト、マイケル・ガーソン氏は次のような反論を毎日新聞に寄せている(毎日新聞、09・2・5)。
 ガーソン氏は「アフリカ系米国人の信仰が教会の中にとどまっていたら、公民権運動は盛り上がっただろうか(キング牧師の公民権運動などが念頭にあったと思われる)」と問い、オバマ氏は選挙期間中「銃や信仰にしがみつく」人々を批判する立場に立ったが、このような思想的な偏狭さが、米国の団結が必要なときにオバマ氏の最大の障壁になるだろうという。しかしその後オバマ氏は選挙中にこのような主張を消し去ったとガーソンシ氏は評価し、この文の最後を「私も祈りをささげよう。神よ、オバマ大統領に祝福を。そして(宗教や信仰を軽視する)一部の支持者からも、オバマ氏を救いたまえ」と締めくくった。
 一読してわかるように、この文自体がすでに神がかっている。ここにはオバマ氏が置かれた立場が象徴的に現れている。オバマ氏個人がどうあれ、この合衆国屈指の極めて影響力のある新聞のコラムニストのような考え、それはオバマ氏のもとに圧力となって押し寄せているのだと思うが、その力を撥ね退けることは至難の業であろう。「チェンジ」は決して容易ではない。

友愛について

2009-09-17 10:57:07 | 日記

 「友愛」で思い出したことがある。7・8年前の話である。呉智英氏が言っていたこと・・・。学校や書物やマスコミでフランス革命の理念の三つ目を「博愛」と教えているが原語では博愛ではない。フラテルニテ(兄弟のように仲よくする)である。他人同士なのに仲よくすることを日本語では義兄弟という。売春や麻薬に手を染める犯罪集団の閉鎖的で独善的な組織原則「義兄弟」こそ、まさしく民主主義の三理念の一つである。意図的に誤訳されて「博愛」として定着した・・・。これが呉氏の論旨でる。(02・04・01、毎日新聞)。
 松葉祥一氏の意見。ギリシア・ローマ時代以来、友愛は一貫して人間関係のモデルとされてきた。フランス革命以来のスローガン、自由・平等・友愛のうち、友愛と訳されている語(フラテルニテ)も、実は兄弟愛という意味だ。これは当然、女性と血縁でないものを排除している。さらに理想的な友愛・・・兄弟愛は、言語、文化、民族、思想などを異にする者を排除していく。だからこそこの概念は、国民国家という、排除に基づく共同体を支える理念となりえたのである。(「エコノミスト」2002.4.9)。
 手近の辞典(クラウン仏和辞典)でみると、fraternite 兄弟愛、友愛、同胞愛とある。呉氏の、「博愛」として意図的に誤訳されて定着してきた・・とはどういうことなのか。手元の古い教科書数冊を見たが、「友愛」とした教科書はあっても「博愛」はなかった。松葉氏は、友愛は実は兄弟愛だ、と断言する。理由は書いてない.呉氏は義兄弟愛のことで犯罪者集団の愛であるという。
 この当時このような論調がはやった。おそらく一部の講壇で流布されたのであろう。一般的に、このような論調は、フランス革命への批判・非難・否定につながってゆく。呉氏は「ヴァンデの虐殺」を博愛精神のかけらもない義兄弟集団による暴虐であり、この暴虐こそ民主主義の第一歩であったと主張してその裏づけとする。そのような主張は明治初期の自由民権運動への批判、やがては日本国憲法への否定へとつながってゆく。ここにあげた二人とも日本語への翻訳をもとに論理を展開している。相当苦しい展開である。松葉氏の「ギリシア・ローマ以来友愛が一貫して人間関係のモデルとされてきた」という説には一行の説明もないし、説得力はない。
 鳩山氏の「友愛」についてはすでに批判も出ている。大方は雰囲気的な批評である。だがこれからは「学問」を装った批判が現れることも覚悟しなければならない。鳩山氏の「友愛」が何らかの政治思想・哲学に基づくように見えないだけに危うさを伴う。                      (今日はここまで)