(一)
最近『あたらしい憲法のはなし』(1947)を読んだという人が増えた気がする。
この書は出た当初から話題を呼んだ。私がいま所有しているのは1972年の日本平和委員会復刻版である。長谷川正安氏の「憲法を生んだ力、育てる力」と題する解説がついている。この解説は『あたらしい憲法のはなし』の内容の紹介や解説というより新憲法自体への評価になっている。氏は、たとえば、天皇の政治的権能を匂わせるような規定の存在、侵略戦争への反省の態度がないこと、基本的人権の規定が抽象的・形式的である点などを批判的に述べてはいるが、全体としては、この憲法が極めて優れた憲法であると称揚している。そして、この憲法をまもり育ててきた力として労働者・農民、青年・婦人、そして良心的な知識人や学者の協力があったことをあげている。
この『・・・はなし』は中学1年生の教科書として使われたという。それにしては、切れ込みの悪い、生ぬるい、戦前の天皇制の観念の残渣を感じるような文章であると私は思う。当時の文部省としてはこれが精一杯だったのかもしれない。
ところがこの書は、偏向教科書第1号として2・3年後には、製作者文部省自身の手で廃棄された。その背後にアメリカ占領軍がいたと考えるのは的外れではないだろう。朝鮮戦争勃発,日本の再軍備を企図するアメリカ、それに逆らえない日本政府・・・。「新しい憲法が出来ました。・・・私たち日本国民は、この憲法を守ってゆくことになりました」と書き出したこの『あたらしい憲法のはなし』の存在を政府は認めることが出来なかったし、それを学校で教えることなど、とんでもないことだったのだろう。また、長谷川正安氏のいうような労働者・農民、青年・婦人、良心的知識人・学者たちの、つまり広範な国民の憲法擁護の運動をも押さえなければならなかった。当時は、憲法を守る義務は天皇以下上級・下級の公務員だけにあり、国民には義務はない」などという巧妙な宣伝文句はまだ考え出されていなかった。
(二)
現代国家の法体系は、基本的に、西欧の法思想・理論・実践の過程から生まれたものの継承発展だといっても過言ではない。古典古代の法の成果はローマ法の体系として築きあげられた。ローマ法の根底にあるのは自然法思想である。それによれば、人類はひとつの普遍的な共同体または世界国家をなすものであり、法はその表現であるがゆえに真に普遍的であるという。その根底には、人間はすべて同じで平等であるという人間主義の思想がある。
キケロによれば、人は正義のために生まれたのであり、法は人間の考えによるものではなく自然に基くものである。法が正義のために存在するならば、その法を守ることは市民の義務である。キケロならこういうだろう.「日本国憲法が正義のために存在するのなら、日本市民は憲法を尊重し遵守する義務がある」と。ローマ法の基本思想は義務思想であって権利思想ではない。そしてその根底にあるのは自然法思想である。だから、「憲法は国民が国家(国家権力)を縛るためるもの、法律は国家が国民を縛るもの」などという、法律が誰かを縛るというような発想はなかった。
(四)
近世の入り口において欧州の一部の国における、王権を制限するための権利章典が近代的憲法へと発展したと教えられた。古代社会にはなかった社会契約説や権利思想が生まれてくる。国民の基本的人権を確認し、それを保障するような国家機構を構築するのが近代憲法の基本であることは当然である。それは近代的な自然法思想として熟成されてゆく。それはロックやマキャベリ、モンテスキュー、そしてジャン・ジャック・ルソー、カントなどの思想に継承されてゆく。日本国憲法前文の草案を誰が起草したか知らないが、これらの人たちの強い影響を読み取ることができる。
ここでマッカーサー憲法草案の憲法前文の最後の部分を載せておこう。英文と日本政府訳、および現行憲法の三者を並べる。
A(マ草案)
We hold that no people is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal ; and that obedience to such laws is incumbent upon all peoples who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other people.
To these high principles and purposes we,the japanese people, pledge our national honor, determined will and full resources.
B(マ草案・政府訳)
我等ハ如何ナル国民(people)モ単ニ自己ニ対シテノミ責任ヲ有スルニアラスシテ政治道徳ノ法則ハ普遍的ナリト信ス 而シテ斯ノ如キ法則ヲ遵奉スルコトハ自己ノ主権ヲ維持シ他国民(all peoples)トノ主権ニ基ク関係ヲ正義付ケントスル諸国民(other peoples)ノ義務(incumbent)ナリト信ス
我等日本国人民(japanese people)ハ此等ノ尊貴ナル主義及目的ヲ我等ノ国民的名誉(our national honor)、決意及総力ニ懸ケテ誓フモノナリ
C(日本国憲法)
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的とを達成することを誓う。
D(厚かましくも、筆者の試訳)
いかなる国民も自己のみで責任を負っているわけではなく、政治道徳の法は普遍的なものであることをわれわれは信ずる。そしてまた、この政治道徳の法に従い、自己の主権を維持するとともに、他国民のとの関係を正義にもとづくものとすることは諸国民の義務であると信ずる。
われら日本国民は、自己の名誉にかけて、これらの崇高な原理と目的の達成に総力をつくすことを誓う。
(五)
憲法前文は、「日本国民は・・・」と書き出される。マ草案は「we,the japanese people・・・」で、前文全体を支配する主語となっている。その和訳は「日本人民」である。その点では一貫している。
ところが日本国憲法前文では不思議なことが起きている。それまでpeopleを「国民」と訳していたものを、途中で突然「国家」と変更している。突然というのは、上記にひいた箇所、つまり前文の最後の2文節である。上記に掲げたA・B・Cを比べてみれば明らかである。A→B→Cの順でどう変ったか?
A B C
people → 国民 → 国家
it self alone → 自己に対して → 自国のこと
own sovereignty → 自己の主権 → 自国の主権
all people → 他国民 → 他国
other people → 諸国民 → 各国
we, the japanese people → 我等日本国人民 → 日本国民
かつてコイズミ元首相が、自衛隊のイラク出兵への口実に使った箇所であることはみんなが覚えている。
(六)
筆者は以前、上記の文節がキケロに代表される自然法思想、そして近代自然法思想にそれを受け継いだカントの影響が強いのではないかと書いた。拙訳を試みるなかで、そのような感想を一層強めたのである。前に書いたことだが、もう一度くり返そう。
カントは言う、各国家の安寧と幸福は、各国の国益から出発してはいけない。法的義務という純粋概念から出発せよ・・・。法的義務とは何か? そして「正義は成されよ、たとえ世界は滅ぶとも」という警句をあげ、これは正しい命題であると。そして言う「永遠平和は・・・単に物理的善ではなくて義務の承認から発現する状態として願望される」と。
マ草案はこうであった。
「斯ノ如キ法則ヲ遵奉スルコトハ・・・諸国民(other peoples)ノ義務(incumbent)ナリト信ス」
拙訳ではこのようにした。
「政治・道徳の法は万人のものであり・・・この法に従うことは各国人民の義務である」
日本国憲法では、マ草案の「人民」をすべて「国民」と言い換えているが、それはここでは置くとして、その「国民」をさえ「国家」に置き換えた大胆さには驚く。個人主義的精神が最後にきていきなり国家主義に変身した。日本政府がやりそうなことだったが、憲法草案を審議した国会もそれを黙認したことは記憶に留めておかなくてはならない。
そして、「国民には憲法を守る義務はない。あってもそれは精神的・倫理的なものに過ぎない」と嘯いている人たち。それらの人たちは、憲法条文(99条)には天皇はじめ高級・下級の公務員には憲法尊重・擁護義務があると主張するが、尊重も擁護もしない公務員を憲法違反で告発したことがあるのだろうか。安倍首相などは真っ先に告発・罷免されるべき人物だと思うのだが。