静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

法的義務

2013-06-23 11:43:13 | 日記

(一)

 最近『あたらしい憲法のはなし』(1947)を読んだという人が増えた気がする。

 この書は出た当初から話題を呼んだ。私がいま所有しているのは1972年の日本平和委員会復刻版である。長谷川正安氏の「憲法を生んだ力、育てる力」と題する解説がついている。この解説は『あたらしい憲法のはなし』の内容の紹介や解説というより新憲法自体への評価になっている。氏は、たとえば、天皇の政治的権能を匂わせるような規定の存在、侵略戦争への反省の態度がないこと、基本的人権の規定が抽象的・形式的である点などを批判的に述べてはいるが、全体としては、この憲法が極めて優れた憲法であると称揚している。そして、この憲法をまもり育ててきた力として労働者・農民、青年・婦人、そして良心的な知識人や学者の協力があったことをあげている。

 この『・・・はなし』は中学1年生の教科書として使われたという。それにしては、切れ込みの悪い、生ぬるい、戦前の天皇制の観念の残渣を感じるような文章であると私は思う。当時の文部省としてはこれが精一杯だったのかもしれない。

ところがこの書は、偏向教科書第1号として2・3年後には、製作者文部省自身の手で廃棄された。その背後にアメリカ占領軍がいたと考えるのは的外れではないだろう。朝鮮戦争勃発,日本の再軍備を企図するアメリカ、それに逆らえない日本政府・・・。「新しい憲法が出来ました。・・・私たち日本国民は、この憲法を守ってゆくことになりました」と書き出したこの『あたらしい憲法のはなし』の存在を政府は認めることが出来なかったし、それを学校で教えることなど、とんでもないことだったのだろう。また、長谷川正安氏のいうような労働者・農民、青年・婦人、良心的知識人・学者たちの、つまり広範な国民の憲法擁護の運動をも押さえなければならなかった。当時は、憲法を守る義務は天皇以下上級・下級の公務員だけにあり、国民には義務はない」などという巧妙な宣伝文句はまだ考え出されていなかった。

 (二)

現代国家の法体系は、基本的に、西欧の法思想・理論・実践の過程から生まれたものの継承発展だといっても過言ではない。古典古代の法の成果はローマ法の体系として築きあげられた。ローマ法の根底にあるのは自然法思想である。それによれば、人類はひとつの普遍的な共同体または世界国家をなすものであり、法はその表現であるがゆえに真に普遍的であるという。その根底には、人間はすべて同じで平等であるという人間主義の思想がある。

キケロによれば、人は正義のために生まれたのであり、法は人間の考えによるものではなく自然に基くものである。法が正義のために存在するならば、その法を守ることは市民の義務である。キケロならこういうだろう.「日本国憲法が正義のために存在するのなら、日本市民は憲法を尊重し遵守する義務がある」と。ローマ法の基本思想は義務思想であって権利思想ではない。そしてその根底にあるのは自然法思想である。だから、「憲法は国民が国家(国家権力)を縛るためるもの、法律は国家が国民を縛るもの」などという、法律が誰かを縛るというような発想はなかった。

 (四)

近世の入り口において欧州の一部の国における、王権を制限するための権利章典が近代的憲法へと発展したと教えられた。古代社会にはなかった社会契約説や権利思想が生まれてくる。国民の基本的人権を確認し、それを保障するような国家機構を構築するのが近代憲法の基本であることは当然である。それは近代的な自然法思想として熟成されてゆく。それはロックやマキャベリ、モンテスキュー、そしてジャン・ジャック・ルソー、カントなどの思想に継承されてゆく。日本国憲法前文の草案を誰が起草したか知らないが、これらの人たちの強い影響を読み取ることができる。

ここでマッカーサー憲法草案の憲法前文の最後の部分を載せておこう。英文と日本政府訳、および現行憲法の三者を並べる。

A(マ草案)

We hold that no people is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal ; and that obedience to such laws is incumbent upon all peoples who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other people.

To these high principles and purposes we,the japanese people, pledge our national honor, determined will and full resources.

 B(マ草案・政府訳)

我等ハ如何ナル国民(people)モ単ニ自己ニ対シテノミ責任ヲ有スルニアラスシテ政治道徳ノ法則ハ普遍的ナリト信ス 而シテ斯ノ如キ法則ヲ遵奉スルコトハ自己ノ主権ヲ維持シ他国民(all peoples)トノ主権ニ基ク関係ヲ正義付ケントスル諸国民(other peoples)ノ義務(incumbent)ナリト信ス

我等日本国人民(japanese people)ハ此等ノ尊貴ナル主義及目的ヲ我等ノ国民的名誉(our national honor)、決意及総力ニ懸ケテ誓フモノナリ

 C(日本国憲法)

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的とを達成することを誓う。

D(厚かましくも、筆者の試訳)

いかなる国民も自己のみで責任を負っているわけではなく、政治道徳の法は普遍的なものであることをわれわれは信ずる。そしてまた、この政治道徳の法に従い、自己の主権を維持するとともに、他国民のとの関係を正義にもとづくものとすることは諸国民の義務であると信ずる。

われら日本国民は、自己の名誉にかけて、これらの崇高な原理と目的の達成に総力をつくすことを誓う。

 (五)

 憲法前文は、「日本国民は・・・」と書き出される。マ草案は「we,the japanese people・・・」で、前文全体を支配する主語となっている。その和訳は「日本人民」である。その点では一貫している。

ところが日本国憲法前文では不思議なことが起きている。それまでpeopleを「国民」と訳していたものを、途中で突然「国家」と変更している。突然というのは、上記にひいた箇所、つまり前文の最後の2文節である。上記に掲げたA・B・Cを比べてみれば明らかである。A→B→Cの順でどう変ったか?

   A            B            C

people      →            国民      →       国家

it self alone      →      自己に対して   →   自国のこと

own sovereignty  →     自己の主権    →    自国の主権

all people       →      他国民     →     他国

other people    →      諸国民     →     各国

we, the japanese people →  我等日本国人民  →    日本国民    

 

かつてコイズミ元首相が、自衛隊のイラク出兵への口実に使った箇所であることはみんなが覚えている。

 (六)

 筆者は以前、上記の文節がキケロに代表される自然法思想、そして近代自然法思想にそれを受け継いだカントの影響が強いのではないかと書いた。拙訳を試みるなかで、そのような感想を一層強めたのである。前に書いたことだが、もう一度くり返そう。

 カントは言う、各国家の安寧と幸福は、各国の国益から出発してはいけない。法的義務という純粋概念から出発せよ・・・。法的義務とは何か? そして「正義は成されよ、たとえ世界は滅ぶとも」という警句をあげ、これは正しい命題であると。そして言う「永遠平和は・・・単に物理的善ではなくて義務の承認から発現する状態として願望される」と。   

マ草案はこうであった。

「斯ノ如キ法則ヲ遵奉スルコトハ・・・諸国民(other peoples)ノ義務(incumbent)ナリト信ス」

拙訳ではこのようにした。

「政治・道徳の法は万人のものであり・・・この法に従うことは各国人民の義務である」 

 日本国憲法では、マ草案の「人民」をすべて「国民」と言い換えているが、それはここでは置くとして、その「国民」をさえ「国家」に置き換えた大胆さには驚く。個人主義的精神が最後にきていきなり国家主義に変身した。日本政府がやりそうなことだったが、憲法草案を審議した国会もそれを黙認したことは記憶に留めておかなくてはならない。

そして、「国民には憲法を守る義務はない。あってもそれは精神的・倫理的なものに過ぎない」と嘯いている人たち。それらの人たちは、憲法条文(99条)には天皇はじめ高級・下級の公務員には憲法尊重・擁護義務があると主張するが、尊重も擁護もしない公務員を憲法違反で告発したことがあるのだろうか。安倍首相などは真っ先に告発・罷免されるべき人物だと思うのだが。

 


憲法を実行する

2013-06-06 20:25:56 | 日記

(一)

 新聞報道によると(6/1)、全国の労働局に寄せられた労働相談で、「いじめ、嫌がらせ(パワハラ)が約5万2000件にも上ったという。もちろんこれは実際の一部であろう。学校やスポーツ界での「体罰」の話題も絶えない。今年の2月に実施した毎日新聞の世論調査では、返答の42%が体罰を「一定の範囲で認めてもよい」と答えたそうである。日本の社会は、そういう社会になってしまった。戦後新憲法が制定された当初は、「それは憲法違反だ」といって、お互いに戒めあう雰囲気があった。そのことは前にも述べた。これは私の狭い実体験での話だけではないのである。

 たまたま先日、長谷川正安『日本の憲法』(岩波新書、1957)を見ていたら、こんな記事があった。

 「わたしたちの日常生活にも一寸した憲法論は気軽に顔をだす・・・週刊誌のトップ記事に『職場のセックス』というのがあり、その前書きに、『新時代の恋愛憲法を探ってみよう』と書いてあった」「憲法はずいぶん妙なところに顔をだす。教員組合主催の座談会などで、中年以上の母親がこんなことをいう。新憲法のせいで、娘が女らしくなくなった。子供が反抗的になったのは、新憲法に原因があるのではないでしょうか、などなど」「娘は、なにをしても、新憲法のもとでは男女同権なのよ、お母さん、とか、子供は子供で、新憲法になってから親孝行なんかしなくてもよくなったんだ、などと本当にいうらしいのである」

 長谷川氏は「憲法という言葉は、いつとはなしに、ずいぶんわたしたちの身近なものになってしまった」といい、「子供の親不孝まで憲法のせいにしてしまう戦後の憲法の大衆化も・・・きょくたんすぎることは、だれの目にもあきらかであろう」と批評している。

 さすが憲法学者の見解はきびしい。だが私などは、「まあ、いいじゃないか」と、むしろほほえましく思ったりするから、ダメなのだろう。前にも書いたことだが、このようにすぐ憲法を口にするような風潮をマスコミが攻撃し、急速に消滅していった。その背後に何があったのか、そこまでは知らない。

 (二)

 国民一人ひとりが「すべて国民は個人として尊重される」という精神を守ろうと努力するならば、今日のような状態にはならなかっただろう。戦後新制高校ができたとき、学校によっては、生徒が先生を呼ぶのに「○○先生」ではなく「○○さん」と呼ぶ慣わしが出来た学校もあった。そういう学校では、教師による生徒への体罰など考えられもしない。

後になって、テレビドラマで、熱血先生とかいうのが出てきて、生徒を呼び捨てにするのはあたり前、生徒に向かって「お前ら」といってはばからない。これには驚いた。この熱血先生は立派な教師として描かれていた。民間会社では、上司は部下を「○○」と呼び捨てにする。一年上の先輩社員が、後輩を同じく「○○」と呼び棄てるらしい(公務員社会でもそうか?)。これでは軍隊ではないか? だが、以前、軍隊生活を描いたアメリカ映画を見たとき、部下の兵士が上官に平気で意見を述べたり、あるいは反論をしているのを見て感心したことがある。こんな軍隊と戦ったのでは負けるに決まっている。そのアメリカ軍はベトナム軍に敗れた。ベトナム軍には階級がなかったと聞いている。作戦は皆の合議で決めるとも・・・(今はどうなっているかしらない・・・近代化して?階級もあるのだろう)。

学校や職場で、国民が(本来はすべての人が)個人として尊重されれば、そして尊重すれば、体罰やパワハラは生じない。国家権力が介入しなくても、国民一人ひとりが憲法の精神を守って行動すればいいことだ。国家権力の介入、たとえば刑法や刑事訴訟法による救済を待つまでもないだろう。憲法を守るのは公務員の仕事だ、といって嘯いているだけが能ではない。

 日本国憲法24条第1項には次のようにある。

① 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

②                配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

①     は、国民すべてに課せられた義務であり、国民みんなして守らなければいけないものである。

②     は、①の精神を具現化するための法制化を国会に要請したものである。当然、行政や司法も尊重しなければならない。

  憲法には、国家権力や公務員が為さねばならぬこと、逆に為してはならぬことを具体的に書いてある箇所がある。上記の②項のような場合がそうだ。

 次のような場合はどうか?

36条は「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずると」定めている。では・・・公務員以外の国民には許されるのか? 例えば、警察機関から委託された民間会社の従業員ならいいのか? 国民には憲法擁護義務は課されていないという論者に聞きたい。

5月25日(2013年)の朝日社説も「いま、憲法の尊重擁護義務は天皇や国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員にのみ課せられている」と明言している。つまり国民一般にはその義務はないと明白に論じているのである。 

 (三)

 前々回、99条の憲法尊重擁護義務についての小林直樹氏の見解を紹介したが、もう一箇所あるのを失念したので載せる。(『憲法講義』(改訂版)1967年、東大出版会)

 「第99条の憲法尊重擁護義務は、およそ立憲秩序が存在する以上、当然に憲法が予定する義務であって、詳しい説明を要しないだろう。この義務は、個々の実定法的義務にもまして原理的・包括的かつ道徳的なものであって、実際には同時に民主主義秩序への忠誠義務をも意味するものである。第99条が、国民について何も語らず、天皇および公務員だけに擁護義務を示していることが、国民の憲法尊重擁護を当然としているということは第1章第3節(前々回のブログ参照)で述べたところである。この高次の原理的義務は、それへの違反に対する法的サンクション(=制裁:筆者)は直接にはともなわないものであるが、それを不断に政治の場で確かめることによって、国民がその実効性を担保してゆくことが肝要であろう」

 明快ではないか。当時の憲法理論の通説であったといっていいだろう。

 以前、「職場に憲法なし」という言葉がよく使われた。今はあまり聞かない。憲法がないのが常態になってしまったのか? 家庭にはあるのか? 学校には? 地域には? われわれの身の周辺で憲法は失われてゆく。生存権も労働基本権も・・・法律はあってもそれが人権を守る武器にはならない。『女工哀史』や『職工事情』の時代の劣悪な労働条件よりもっと厳しい状況に耐え忍んでいる人たちがいる。日常的な、身近な憲法違反に敏感に対応し、それに対処してゆく努力の中で憲法感覚が育つ。

 地方自治体は民主主義の学校であるといわれて久しい。一方で、憲法は国を縛るものであるだとか、国民が出す国への命令書であるとかいろいろ言われる。憲法は自治体を縛るものという解説は聞いたことがない。思想・言論の自由にしても、生存権にしても、労働権にしても、自治体が拘わることが非常に多い。その自治体が、自分は憲法に関係ないとうそぶいておれるだろうか。人権無視を平気で主張する人物を首長に据えても憲法違反にはならないとは、これいかに。 

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 ここまで書いたところで「守るより実行すべきだ」と題する医師・中村哲氏へのインタービュ記事を見た(毎日新聞、6/6、夕刊)。

 中村氏はアフガニスタンで26キロに及ぶ水路を作り、75万本の植樹をし、3500ヘクタールの耕地をよみがえらせた。米英による爆撃でアフガンの人たちの憎悪はつのり、治安は悪化、しかし彼らは原爆で被爆し、憲法第9条を守り、一度も戦争せず戦後復興を成し遂げた国民として日本人には銃口を向けない・・・9条が守ってくれている・・・。

 「憲法は我々の理想です。理想は守るものじゃない。実行すべきものです。この国は憲法を常にないがしろにしてきた・・・国益のためなら武力行使もやむなし、それが正常な国家だなどと政治家は言う。これまで本気で守ろうとしなかった憲法を変えようだなんて。私はこの国に言いたい。憲法を実行せよ、と」

本当に9条が変えられてしまったら?・・・「僕はもう日本国籍なんかいらないです」・・・ああ!

憲法は、(政府や国家に)守らせればいいというものでもなく、国民が守ればいいというものでもなく、国民みんなが実行すべきものなのだ! 憲法学者の理論を越えている!