静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

じゅげむじゅげむのポンポコピー

2015-10-27 21:20:33 | 日記

 ある日の新聞に、夏目漱石と火野葦平のことが並んで書いてあった(朝日、15.10.19)。

はじめこの二人についての感想を並べて書こうと思ったが、結局葦平だけにした。

  小学1年から2年間、M町の町外れに住んでいて、少し歩くとずっと田んぼが広がっていて、お百姓さんが、田んぼの中にある肥溜めから糞尿を長い長い大きな柄杓に汲み上げて、田植え前の田んぼに撒いていた。泥まみれ、糞尿まみれになって撒いていた。私は思った、われわれのオシッコやウンコが田んぼに撒かれて、それでお米ができて、そのお米をわれわれが食べて、それがオシッコやウンコになって、そしてそれがまたお米になる。そうやってぐるぐる回っているのだ。そうやって物ごとは回っているのだ、きっと。この頃のもう一つの思い出・・・浪人中の叔父が受験勉強のため借家の我が家に下宿していて、夕方になると散歩に連れて行ってくれた。暗くなってゆく大空を指差し、あの星々はみんなお日様やお月様よりずっと大きくて、遠くの大空を回っているのだよ。そんな話を聞いている私は、いつか天文学者になりたいと思った。

 3年生のときA町に転居、4年間も過ごした。このA町では、塩田が海まで広がっていた。海水浴には塩田のなかを通ってゆく。子どもの足にとっては遠い遠い道のりだった。褌一丁の男たちが、焼ける太陽と砂の中で、長い長い大きな柄杓で、塩田のあちこちにある囲いの中の海水を汲んで砂の上に力いっぱい撒くのだ。

 この米の田んぼと塩の田んぼの大きな柄杓の情景は、心の奥深くに沈殿していて忘れ去ることができない。

  火野葦平は、1937年に『糞尿譚』を、翌1938年に『麦と兵隊』を発表した。両書とも単行本で読んだ。『糞尿譚』は面白くて爽快、今でも思い出すと、思わず両頬の下のあたりが緩んでくる。読みながら、M町の田んぼで得た心象が、肥溜めと大きな柄杓が、頬のあたりをゆるませてくれたのだと思う。葦平は、ラブレーの愛読者だったのではないか、今はそう思う。『糞尿譚』の最後の箇所から抜き書きだが少し拝借する。

  「貴様たち、貴様たち、と彦太郎はなおも連呼し、狂気のごとく柄杓を壺につけては糞尿を撒き散らした。・・・糞尿は敵を追い払うとともに、彦太郎の頭上からも雨のごとく散乱した。・・・貴様たち、貴様たち、負けはしないぞ、もう負けはしないぞ、・・・誰でも来い、誰でも来い、・・・寄ってたかって俺を馬鹿扱いした奴共、もう俺は弱虫ではないぞ、馬鹿ではないぞ・・・寿限無寿限無五光摺りきれず・・・寝るところに住むところや油小路藪小路ぱいぽぱいぽのしゅうりん丸しゅうりん丸しゅうりん丸のぐうりんだいのぽんぽこぴいぽんぽこなの長久命の長助、さあ、誰でも来い、負けるもんか、と、憤怒の形相ものすごく、彦太郎がさんさんと降り来る糞尿のなかにすっくと立ちはだかり、昂然と絶叫するさまは、ここに彦太郎はあたかも一匹の黄金の鬼と化したごとくであった」

 この小太郎の長広舌、ここではいくらかカットしたが、これは当時、喧嘩相手に投げつける悪口の定番になっていたのかもしれない。筆者も小学生の頃、しばしばこのセリフの部分を口にして友人と掛けあったことを覚えている、意味も知らずに。当時、芥川賞の存在など露ほども知らなかった。ずっと後になって『糞尿譚』がこの受賞作品であることを知り驚いた。葦平が『麦と兵隊』を発表したのが、先ほども書いたように1938年。葦平は芥川賞受賞を機に陸軍の報道部勤務を命じられ、徐州作戦に従軍する。その経験をもとに『麦と兵隊』を書いて、当時としては大変なベストセラーになった。

徐州作戦というのは、葦平の説明によると、蒋介石が7か年を費やして構築した堅陣に結集されている約50万の敵軍を南北から一挙に殲滅する作戦で、数カ月前から攻略の軍を進めていたという。南からの作戦部隊に加わるため、葦平は兵士たちと軍用貨車に乗って北に向かう。漆黒の中をのろのろと走る貨車の中で誰かが、勝ってくるぞと勇ましくと「露営の歌」を歌い始めた。皆が和しはじめ、歌は「上海だより」「愛国行進曲」「戦友」へと続いた。葦平は「いつか兵隊たちと和している自分に気がついた時に、はっとして歌いやめ、その感傷を嗤(わら)うべきだと考えたが、しかも、これらの切実なる感傷をさえ反省することこそが、嗤うべき感傷なのではないか、と、ふと思った」と、自己嫌悪に陥っていた。

「露営の歌」は葦平が芥川賞を受賞した直後にできた歌である。悲しい歌である。「夢に出てきた父上に死んで帰れと励まされ」と続く。徐州作戦後に作られた「徐州徐州と軍馬も進む」とはじまる「麦と兵隊」も哀しい。いったいに、軍歌には哀調を帯びたものが多い。日露戦争のとき(1905年)つくられ、太平洋戦争の時には禁歌とされた「戦友」、「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の・・・」と続くあれだが、これはその最たるものである。葦平は、皆に和しながら「嗤うべき感傷」と自省するが、どういう種類の感傷か、それは書いてないので推測するしかない。だが、太平洋戦争も末期になると軍歌もやぶれかぶれになってくる。「出てこい、ニミッツ、マッカーサー」と猛々しい。そういう歌を作って歌わせた連中が、戦後エヘラエヘラ、ペコペコとマッカ―サーに頭を下げたのである。

たくさんの軍歌を学校で歌わされた。音楽の授業ででもないし家ででもない。全校の生徒が隊列を組んで校庭をグルグル回りながら、スピーカーから流れてくる軍歌に合わせるのである。「どこまで続く泥濘(ヌカルミ)ぞ」とか「泥水すすり草を喰み」などという歌詞が次から次へと出てくる。そして「明日の命を誰が知る」とか「死んで帰れと励まされ」ということになる。要するに「天皇陛下万歳」と死ぬことが兵隊の使命だと吹き込むための軍歌だった。だが私は、軍歌を歌うなかで、兵隊の苦しさ・哀しさを知った。そんなことは誰も教えてくれなかったことである。「絶対戦争には行きたくない、行かないぞ」という気持ちがだんだん膨らんでいった。さいわい校長も担任も、兵隊になれとか戦地に行けとか、そういうことは一言も言わなかった。あの行進は何だったのだろう?

 先に述べたように『麦と兵隊』が発刊されたのが1938年だった。評判になったことも述べた。何年生のとき読んだが覚えていない。だが、その評判の中で読んだことは間違いない。葦平は、これは小説ではなく従軍記だと言っているが、それはそうだろう。今、その中身を論じようとは思わない。ただ一点、前線に駐留している日本軍の、その一人の日本兵が「シナ」の若い娘と恋におちいる話が、この著を忘れ得ないものにしている。一年先輩の朝鮮人の生徒がいて、勉強でも運動でも抜群の成績であり、常日頃から尊敬していた。だが、中国人は一度も見たことがなかった。世間から自ずから入ってくる情報は、「シナ人」であり「チャンコロ」だった。写真や絵などで描かれた「シナ人」はみんな薄汚れたみすぼらしい格好をしていた。その「シナ」の女性と恋に陥るなんて! 田舎の小さい町に閉ざされて、ろくな情報も得られなかった小学生の子どもにとっては衝撃的な話であった。情けないことだが、そのとき、私は初めて「シナ人」も人間なんだ!と気づいたのである。今、思い起こしても悲しい話である。

子どもの頃、天文学者になりたいという気持は中学2年の頃までで終わり。3年になると勤労動員がはじまり、やがて学校には一度も行かなくなった。天文学など夢のまた夢。戦争が終って、生きて帰ることはできたが街は丸焼け、学校も丸焼け。食べるために毎日毎日あくせく、あくせく。

いま、若者たちを戦場に送りたがっている勢力・政治家がたくさんいる。『糞尿譚』の小太郎のように、「じゅげむじゅげむのポンポコピー」を投げつけてやりたい。

 

 


投票が済めば国民はドレイになる

2015-10-04 17:58:51 | 日記

私は5年前(2010・9)、「人民の代表」と題する一文を投稿した。その文の前後に若干補筆し、タイトルも改めて再度投稿する。

(一)「グッ・モー、アベちゃん」

 凶作で食糧不足が続いていた時、ローマ皇帝クラウディウスはフォルム・ロマヌムで群衆に取り囲まれてしまった。市民たちは、その責任を追求してありったけの悪口を言って罵った。挙げ句の果て、パン屑まで投げつけた。ローマのパンは日本のものと違って、固く焼かれている。食べ屑だから相当固くなっているだろう。それではたまらない。クラウディウスは、ほうほうの体で裏道から宫殿に逃げ帰ったと伝えられている。その二代前のティベリウス帝は、毎朝フォルム・ロマヌム正面の演壇に止まっている一羽のワタリカラスと挨拶を交わすのが常だった。カラスは「おはよう、ティベリウス」とラテン語でいうと、お供の人たちにも名前を呼びかけて挨拶した。

 日本の都市にはこのような広場はないから比較は難しいが、あえて言えば銀座四丁目の交差点あたりか。そのあたりで、一羽のカラスが「グッ・モー、アベちゃん」と米・日語で挨拶する図を思い浮かべればよい。あるいは群衆に取り囲まれて「お前が戦争に行け」などと怒声を浴びせられ、古い生卵とか半腐れのトマトを投げつけられる図を思い起こすべきか。そして、ほうほうの体で官邸まで高級自家用車を飛ばして逃げ帰る図を思い起こすべきか。いや、そんなことはありえない・・・みんなそう思う。高級車で、夜な夜な高級料亭に通うアベちゃんの姿なら思い浮かべることも可能だが。

 (二)人民の代表

 「共和国の原理は、人民の、人民による、人民のための政治である」とフランス憲法は定めてある。(フランス共和国憲法<1958>、有信堂『世界の憲法集』。ちなみに岩波文庫の『世界憲法集』<1972年版>には「人民の、人民のための、人民による」とある)。

 リンカーン大統領の演説として知られているこの有名な文言は、合衆国憲法には用いられていない。ただし、「およそ人権宣言の先駆」ともいわれるヴァージニア権利章典(1776))には「すべて権力は人民に存し、したがって人民に由来するものである。行政官は人民の受託者でありかつ公僕であって、常に人民に対して責任を負うものである」(『世界人権宣言集』岩波文庫)とある。

 リンカーン大統領はゲッティスバーグ演説で、of the people で一呼吸おき、それからby the people, for the peopleと続けたと、その演説を聞いたことのある人が言っていたそうだ。of the peopleを単純に「人民の」と和訳することには以前から疑問が持たれていた。ofにはいろいろの意味があり、最初の訳者が安易な訳をしてそれが定訳化したのだという。

そうだとしても、この訳語にはもう長い歴史が積み上がり日本語化しているのでどうしようもない。意味としては、ヴァージニア権利章典のいう「すべての権力は人民に存し、人民に由来する」というのが妥当だろう。

この考えは多分、日本国憲法前文の「その権威は国民に由来し」に反映していると思われる。憲法はそのあとに「その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と続く。

 それはそれとして、日本国憲法の特徴は見てわかるように、直接「人民による」のではなくて中間に「国民の代表者」をおいて、その「代表者」が「権力を行使する」ことにある。

この「代表者」については、有名なルソーの批判がある(ルソー『社会契約論』桑原・前川訳、岩波文庫)。

 「主権は譲りわたされえない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意思のなかに存する。しかも、一般意思は決して代表されるものではない。一般意思はそれ自体であるか、それとも、別のものであるからであって、決してそこには中間はない。人民の代議士は、だから一般意思の代表者ではないし、代表者たりえない。彼らは、人民の使用人でしかない。彼らは何ひとつとして決定的な取りきめをなしえない。人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」

「立法権において、人民が代表されえないことは明らかである。しかし、執行権においては、代表されうるし、またそうでなければならない」

「人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民は存在しなくなる」

 それならば、議員を選出している日本人民(いや、日本国民)はすべてドレイ状態だということになる。もちろん日本だけではないが。マッカーサー憲法草案にはすでに、 representatives of the people(人民の代表者)と明記してあった。これもちょっと不思議な気がする。

 ルソーが頭に描いていたのは古代の共和制、とくにローマの共和制であったことは注釈として加えておく必要があるだろう。彼は、代表者という考えは近世のもので、封建時代に人間が堕落し、政治が不正でバカげたものになったことに由来するという。

 しばらくまたルソーの言うことを聞いてみたい。

政治体の生命のもとは、主権にある。立法権は国家の心臓であり、執行権は脳髄である。心臓が機能を停止すれば動物は死んでしまうように国家も死滅する。国家は法律によって存続しているのではなく、立法権によって存続している。

 主権者は立法権以外の何らの力を持たないので、法によってしか行動できない。人民は集会したときにだけ、主権者として行動できる。人民の集会なんてとんでもないと思うかもしれないが、二千年前にはそうでなかった。

 ローマとその周辺の人民がしばしば集会するのは困難だと思うかもしれないが、ローマの人民が集会しなかった週はほとんどない。それどころか、週に数回も集会した。彼らは政府の諸権利の一部をも行使した。人民全体が、公共の広場では、市民であると同時に行政官だった。

 それだけではまだ十分とはいえない。特別の集会以外に、何ものも廃止したり延期したりできない定期の集会が必要である。人民が一定の日に、法によって合法的に召集される。招集日だけ決めれば合法で、あとはどんな手続きをも必要としない集会である。非合法な集会でなされたことはすべて無効である。集会そのものが法に由来すべきであるから。

 このような趣旨を述べたあと、彼は国家の規模について論ずる。彼は国家を適当な限界まで縮小することがいいと考えているようだ。だが、それができなければ、首府を認めない、つまり、政府を各都市に交互に置き、国家の会議を順番にそこで開くことを提案している。

 私は、ルソーの言い分に深入りし過ぎたかもしれない。彼のローマ史に関する知識に誤りがあるかもしれない。そしてこの彼の提案は空想的・非現実的のようにみえる。だが、その理念・思想はいまなお私たちに深い印象を与える。

 わが国では、国会で決めたことは決定的で、それが唯一と言わんばかり。国民の代表が決めたのだから国民は異議を唱えてはいけない、反対してはいけない、反対すれば犯罪である・・・そういう風にみられがちである。念を押すが、ルソーは、人民が直接決めた法以外は無効であるといっているのである。

 ルソーはこうもいっている。ドレイは自由というものを知らず、それを欲しがりもしないと。これは、ドレイというものは常に自由を求めて闘うものだという通念とは異なる。つまり、国民は投票が済めばドレイになるのに、それに気づかない。

 沖縄の米軍基地の是非も国会で決めればいい、国民の代表が決めたことだから沖縄県民もそれに従うべきだ・・・それが彼らのいう民主主義だ! そういう論理でものごとをすすめる。国民一般は、自分の自由が奪われていることに気づかない。主権が奪われていることにも。

 今日、ルソーの時代とも、まして古代ローマの時代とも違う。交通手段・通信手段などの発達は比較を絶する。代表などによらず、人民が直接に法を定め執行できる可能性は高まっている。いまや世襲的な職業政治家、金権・カンバン・地盤に頼る選挙、利益誘導型選挙に基づく議会は清算するときがきた、真の「人民による」政治を求めて・・・ルソーならばそういうだろう。

 (三)改めて思う

 (二)の「人民の代表」は少し舌足らずだったが、そのまま掲載した。5年経ったが、今なお有効だと思う。それに少し感想を加える。

 有権者の20%前後(小選挙区制約25%、比例代表制約16%)の得票でしかないのに、圧倒的な議席を獲得できるという仕組みが正々堂々と存在し、それが生み出した政治権力が法治主義の原則を全く無視して政治を独断的になしうる・・・それは多くの人が民主主義の破壊だという。だが、これも民主主義なのだと思わざるを得ない。民主主義の師匠を自他共に?任ずるアメリカ合衆国の政権は今回の「戦争法」の強行採決に拍手喝采を送っている。民主主義の先生であり、憲法第九条の提案者である米国のお墨付きなのである。”民主主義万歳!” ルソー先生は、投票日が過ぎれば国民はドレイだとおっしゃるが、わが国では投票日も、投票日以前もドレイなのである。日本の総理大臣も、有力な政治家もその先生のご機嫌を損ねれば政治生命を絶たれたと同然である。歴史が示している。

 戦時中、政府は産めよ殖(ふ)やせよと国民にハッパをかけた。多子家庭には奨励金までつけた。そして一億総動員。挙げ句の果て消耗品として特攻隊に若者を死に追いやった。鉄砲はおろか、食料も持たず、ボロ服みたいなものを着せられて、徴兵された多くの男たちが、フィリピン戦線などに、餓死するために、異国の地に屍を晒されるために送られた。女達は強制労働に徴用され、米軍上陸に備えて竹槍で訓練・・・みんな”お国のために”戦えよと。今度は”アメリカのために”戦うのだ。産めよ殖やせよ、みな励めよ、一億玉砕するまで、ご主人のために! 

 アメリカは地上最大の好戦国だ。戦争のなかった年は数えるほどしかない。戦後もひどい。戦争がなくなれば新しく戦争を作りだす。ベトナム戦争で国民の不満を買った米政府は、新しい戦略を生み出すために汲々としてきた。9・11というまことに不可解な事件が拍車をかけた。誰が拍車をかけたか、いまだもって正確な発表はない。米国が悪の帝国と認定した国には容赦無い仕打ちをする。経済封鎖と簡単にいうが、封鎖された国にとっては致命的な打撃になることもある。「アラブの春」とか「オレンジ革命」とか美々しく名付けて、気に食わない政権を打倒する工作を行う、自分の手を汚さないようにカムフラージュしながら。そしてその度に軍需産業は大儲けをする。自分の都合がいいように異国の地にパイプラインを敷こうとする。

 オバマ大統領は、その就任演説で先人の偉業を4つあげた。「コンコード(独立戦争)やゲッティスバーグ(南北戦争)、ノルマンディー(第2次大戦)やケサンで戦い、死んだ人たちだ」。ケサンと言うのはベトナムのケサンである。トンキン湾事件というあのでっち上げで北爆を開始し、ベトナムを原始時代に戻してやると豪語し、空から枯れ葉剤をばらまき、多くの人たちがいまでも苦しんでいるあの枯れ葉剤である。オバマ大統領にとってこれは正義の戦いであり偉業なのである。当時の日本政府は朝鮮戦争やベトナム戦争への参加を、第九条を盾に断った。いま、オバマ氏は心から愉悦に耽っているだろう。第九条があっても日本軍(自衛隊)は米軍の下で戦ってくれる、これこそ民主主義だ!

 だが考えてみよう。建国以後戦争のなかった年を探すのが困難な国と、徳川の270年や戦後の70年を平和に生きてきた日本とを。