ある日の新聞に、夏目漱石と火野葦平のことが並んで書いてあった(朝日、15.10.19)。
はじめこの二人についての感想を並べて書こうと思ったが、結局葦平だけにした。
小学1年から2年間、M町の町外れに住んでいて、少し歩くとずっと田んぼが広がっていて、お百姓さんが、田んぼの中にある肥溜めから糞尿を長い長い大きな柄杓に汲み上げて、田植え前の田んぼに撒いていた。泥まみれ、糞尿まみれになって撒いていた。私は思った、われわれのオシッコやウンコが田んぼに撒かれて、それでお米ができて、そのお米をわれわれが食べて、それがオシッコやウンコになって、そしてそれがまたお米になる。そうやってぐるぐる回っているのだ。そうやって物ごとは回っているのだ、きっと。この頃のもう一つの思い出・・・浪人中の叔父が受験勉強のため借家の我が家に下宿していて、夕方になると散歩に連れて行ってくれた。暗くなってゆく大空を指差し、あの星々はみんなお日様やお月様よりずっと大きくて、遠くの大空を回っているのだよ。そんな話を聞いている私は、いつか天文学者になりたいと思った。
3年生のときA町に転居、4年間も過ごした。このA町では、塩田が海まで広がっていた。海水浴には塩田のなかを通ってゆく。子どもの足にとっては遠い遠い道のりだった。褌一丁の男たちが、焼ける太陽と砂の中で、長い長い大きな柄杓で、塩田のあちこちにある囲いの中の海水を汲んで砂の上に力いっぱい撒くのだ。
この米の田んぼと塩の田んぼの大きな柄杓の情景は、心の奥深くに沈殿していて忘れ去ることができない。
火野葦平は、1937年に『糞尿譚』を、翌1938年に『麦と兵隊』を発表した。両書とも単行本で読んだ。『糞尿譚』は面白くて爽快、今でも思い出すと、思わず両頬の下のあたりが緩んでくる。読みながら、M町の田んぼで得た心象が、肥溜めと大きな柄杓が、頬のあたりをゆるませてくれたのだと思う。葦平は、ラブレーの愛読者だったのではないか、今はそう思う。『糞尿譚』の最後の箇所から抜き書きだが少し拝借する。
「貴様たち、貴様たち、と彦太郎はなおも連呼し、狂気のごとく柄杓を壺につけては糞尿を撒き散らした。・・・糞尿は敵を追い払うとともに、彦太郎の頭上からも雨のごとく散乱した。・・・貴様たち、貴様たち、負けはしないぞ、もう負けはしないぞ、・・・誰でも来い、誰でも来い、・・・寄ってたかって俺を馬鹿扱いした奴共、もう俺は弱虫ではないぞ、馬鹿ではないぞ・・・寿限無寿限無五光摺りきれず・・・寝るところに住むところや油小路藪小路ぱいぽぱいぽのしゅうりん丸しゅうりん丸しゅうりん丸のぐうりんだいのぽんぽこぴいぽんぽこなの長久命の長助、さあ、誰でも来い、負けるもんか、と、憤怒の形相ものすごく、彦太郎がさんさんと降り来る糞尿のなかにすっくと立ちはだかり、昂然と絶叫するさまは、ここに彦太郎はあたかも一匹の黄金の鬼と化したごとくであった」
この小太郎の長広舌、ここではいくらかカットしたが、これは当時、喧嘩相手に投げつける悪口の定番になっていたのかもしれない。筆者も小学生の頃、しばしばこのセリフの部分を口にして友人と掛けあったことを覚えている、意味も知らずに。当時、芥川賞の存在など露ほども知らなかった。ずっと後になって『糞尿譚』がこの受賞作品であることを知り驚いた。葦平が『麦と兵隊』を発表したのが、先ほども書いたように1938年。葦平は芥川賞受賞を機に陸軍の報道部勤務を命じられ、徐州作戦に従軍する。その経験をもとに『麦と兵隊』を書いて、当時としては大変なベストセラーになった。
徐州作戦というのは、葦平の説明によると、蒋介石が7か年を費やして構築した堅陣に結集されている約50万の敵軍を南北から一挙に殲滅する作戦で、数カ月前から攻略の軍を進めていたという。南からの作戦部隊に加わるため、葦平は兵士たちと軍用貨車に乗って北に向かう。漆黒の中をのろのろと走る貨車の中で誰かが、勝ってくるぞと勇ましくと「露営の歌」を歌い始めた。皆が和しはじめ、歌は「上海だより」「愛国行進曲」「戦友」へと続いた。葦平は「いつか兵隊たちと和している自分に気がついた時に、はっとして歌いやめ、その感傷を嗤(わら)うべきだと考えたが、しかも、これらの切実なる感傷をさえ反省することこそが、嗤うべき感傷なのではないか、と、ふと思った」と、自己嫌悪に陥っていた。
「露営の歌」は葦平が芥川賞を受賞した直後にできた歌である。悲しい歌である。「夢に出てきた父上に死んで帰れと励まされ」と続く。徐州作戦後に作られた「徐州徐州と軍馬も進む」とはじまる「麦と兵隊」も哀しい。いったいに、軍歌には哀調を帯びたものが多い。日露戦争のとき(1905年)つくられ、太平洋戦争の時には禁歌とされた「戦友」、「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の・・・」と続くあれだが、これはその最たるものである。葦平は、皆に和しながら「嗤うべき感傷」と自省するが、どういう種類の感傷か、それは書いてないので推測するしかない。だが、太平洋戦争も末期になると軍歌もやぶれかぶれになってくる。「出てこい、ニミッツ、マッカーサー」と猛々しい。そういう歌を作って歌わせた連中が、戦後エヘラエヘラ、ペコペコとマッカ―サーに頭を下げたのである。
たくさんの軍歌を学校で歌わされた。音楽の授業ででもないし家ででもない。全校の生徒が隊列を組んで校庭をグルグル回りながら、スピーカーから流れてくる軍歌に合わせるのである。「どこまで続く泥濘(ヌカルミ)ぞ」とか「泥水すすり草を喰み」などという歌詞が次から次へと出てくる。そして「明日の命を誰が知る」とか「死んで帰れと励まされ」ということになる。要するに「天皇陛下万歳」と死ぬことが兵隊の使命だと吹き込むための軍歌だった。だが私は、軍歌を歌うなかで、兵隊の苦しさ・哀しさを知った。そんなことは誰も教えてくれなかったことである。「絶対戦争には行きたくない、行かないぞ」という気持ちがだんだん膨らんでいった。さいわい校長も担任も、兵隊になれとか戦地に行けとか、そういうことは一言も言わなかった。あの行進は何だったのだろう?
先に述べたように『麦と兵隊』が発刊されたのが1938年だった。評判になったことも述べた。何年生のとき読んだが覚えていない。だが、その評判の中で読んだことは間違いない。葦平は、これは小説ではなく従軍記だと言っているが、それはそうだろう。今、その中身を論じようとは思わない。ただ一点、前線に駐留している日本軍の、その一人の日本兵が「シナ」の若い娘と恋におちいる話が、この著を忘れ得ないものにしている。一年先輩の朝鮮人の生徒がいて、勉強でも運動でも抜群の成績であり、常日頃から尊敬していた。だが、中国人は一度も見たことがなかった。世間から自ずから入ってくる情報は、「シナ人」であり「チャンコロ」だった。写真や絵などで描かれた「シナ人」はみんな薄汚れたみすぼらしい格好をしていた。その「シナ」の女性と恋に陥るなんて! 田舎の小さい町に閉ざされて、ろくな情報も得られなかった小学生の子どもにとっては衝撃的な話であった。情けないことだが、そのとき、私は初めて「シナ人」も人間なんだ!と気づいたのである。今、思い起こしても悲しい話である。
子どもの頃、天文学者になりたいという気持は中学2年の頃までで終わり。3年になると勤労動員がはじまり、やがて学校には一度も行かなくなった。天文学など夢のまた夢。戦争が終って、生きて帰ることはできたが街は丸焼け、学校も丸焼け。食べるために毎日毎日あくせく、あくせく。
いま、若者たちを戦場に送りたがっている勢力・政治家がたくさんいる。『糞尿譚』の小太郎のように、「じゅげむじゅげむのポンポコピー」を投げつけてやりたい。