静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

魔術と医術(4) ギリシアとローマの医者

2009-12-28 17:47:28 | 日記
 ギリシアの医者
 医術の草分けの人びとは神に並ぶ地位を与えられ、また天に住まいを与えられた。医神アイスクラピウスは死者を蘇らせたため、ゼウスの怒りを買い、その雷電に打たれて死んだが星になって昇天した・・・ギリシア神話の伝えるところである。
 みんなが知っている話なのだが、プリニウスは事の順序としてそれを書く。彼はそれを伝説だといっているにもかかわらず、後世の人たちは、プリニウスは神話と現実をごちゃ混ぜにするといって非難する。

 コス島生まれのヒッポクラテス(前四六〇ー三七五頃)は実在の人物らしい。名医とされている。いろんな言い伝えがあるが、はっきりはしない。その頃、治療の経過を神殿のどこかに書き込む習慣があったという。後の患者の治療に役立てるためである。ヒッポクラテスはそれを記録したが、プリニウスは医療技術の原則を初めて編集したと表現した。薬草の記述が多く、投薬に重点をおいたらしい。ヒッポクラテスに次ぐ何人もの医者がいるが、同じように医薬を重視したという。
 だが、医薬を求めて歩くには苦労がいるし経験も必要だ。プリニウスは、とりわけ医術にとってもっとも有能な教師は経験であるといっている。だが、山野に出かけて薬草を探すよりは、教室で講義をしたり聴講したりする方が快適なので、その経験がたんなるお話へと堕落していったというのが彼の主張である。

 アスクレピアデス(前一世紀頃)も著名なギリシアの医者であったが、後にローマに渡る。彼はヒッポクラテスと反対に投薬を好まなかった。プリニウスの伝える彼の医療五原則というのがある。「絶食」「禁酒」「マッサージ」「歩行」「乗り物を避ける」である。これを見ると医療というより健康法である。誰もが自分で出来ると思ったので、ずいぶん人気を博したらしい。ほとんどの人が彼の説になびいたという。
 彼はいろいろの療法を試みたらしい。ブドウ酒を与える、冷水を飲ませる、吊り床で揺する、その外に愉快で楽しい多くのことを案出した。それによって彼は大きな名声を博した。それだけではなく、従来の荒っぽい療法、身体を痛めつけるような方法を放逐したことも好評だった。 

 さらに、マギのひどい欺瞞がはびこっていたので、それとの対比でアスクレピアデスの名声は大いに助けられた。マギの欺瞞というのは例えばこうである。アエティオピス(サルビアか)という草は川や池を涸らし、オノトゥリス(セイヨウキョウチクトウ)が触るとすべて閉じられていたものが開き、アカエメニス(ヒメハギか)を敵の戦列に投げ込むと、その戦列は恐慌に陥って遁走する。ペルシア王は使者たちにラタケ(魔法の草)を与えたが、使者はどこへ行ってもその草によってあらゆるものをふんだんに入手できる。

プリニウスは問う。そんな草が何処にあるのか、その草を使えば何でも解決するのに、どうして使わないのかと。彼がマギの欺瞞を並べ立てたのは、実はアスクレピアデスによって発明された医術の体系というものが、マギのたわごとよりもっとひどいものだということを示すためだった。

 アスクレピアデスが創めた派にはテミソン、アントニウス・ムサ、そのほか何人もの後継者がいた。皇帝の治療に当たり莫大な年収にありついたりした。中でもネロの頃のテッサルには人びとが殺到した。マルセイユのクリナスが外出するときはかつてないほど多くの群集が彼の後について歩いた。医師の後を群集がついて歩くなど、今日ではとても考えられないことだ。

 これらの医師についてプリニウスは一括して次のように断ずる。これらの連中はすべてなにか新しいものによって人気を得ようとして、患者の命でその新しいものを購おうとしている。そのため患者のベッドの傍らで医者同士のはしたない喧嘩が始まる。どの医者も、異なった意見を言わなければ、他の医者の診察が優れていることを認めると思われることを恐れるからである。そのために墓碑に「わたしを殺したのは一群の医者だ」というような、縁起でもない銘が刻まれるようなことにもなる。


 医師への不信
 だがギリシア医術に真っ先に異議を申し立てたのはマルクス・カトー(前二三四ー一四九、ローマの政治家)であった。彼は、ギリシア人は無価値で手に負えない国民で、医者を送り込んできて何もかも腐敗させ、信用させておいてその医術ですべての外国人を殺戮しようと共謀する、それでいて、それによる報酬まで受け取る・・・などと言いたい放題である。そこでカトーは大のギリシア嫌いだという定評がある。

 それではカトーは、医薬それ自体を嫌ったのだろうかとプリニウスは問い、そうではなく、カトーが排斥したのは医者という商売であり、生命を救うということで暴利をむさぼる者たちを承認できなかったのだろうと推測する。その証拠に、カトーは自分の息子・召使・家族を治療し、自分自身と妻の生命を高齢にまで延ばした医療法や処方の覚書を持っていると主張していた。このようなカトーの生活ぶりは、プリニウスがギリシアの医術に疑問を抱き、ローマ古来の医療法の妥当性を確信する大きな理由になったような気がする。彼は『博物誌』においてカトーの記録を病気ごとに配列し直しているのだと説明している。

 プリニウスは「ギリシアの数多い技術のうち、われわれまじめなローマ人がまだ習熟していないのは医術だけだ」と慎重な発言をしている。にもかかわらず医術には大きな問題がある・・・つまり、医学書はギリシア語で書かれないと威信あるものにならない。そして、誰かが、自分は医者だと公言すれば直ちに信用される唯一の職業だ。彼らは人びとの生命の犠牲において実験を行い、人びとの危険を材料にして知識を得ている。全然とがめられずに人殺しができるのは医者だけである。それどころか、やられた者が責められる、節制を守らなかったといって。叱られるのは死んだ人間のほうだ。
 また、これほど毒殺や政治的陰謀の源になったものがあるだろうか。医者を通じた帝室の姦通事件が幾度もおきている。おまけに金儲けと名声のために、いいかげんな処方・治療法・薬の調合をおこなって蓄財をしている。そういう習慣がローマ帝国の退廃の原因をなしているのだ・・・。

魔術と医術(3) 医術の誕生

2009-12-27 16:57:21 | 日記
 憎悪と友愛の原理
 魔術の起源についてはっきりしたことが言えなかったプリニウスは、医術については多少確信ありげにいう。たとえば医術はトロイ戦争のときには用いられたと、ただし外科だけであるというようなこと。とにかく、彼は何でも「始まり」が好きなのだ。どこまでも始まりを追及しようという意欲に溢れている。しかし実際は医術の起源など分かるはずがないではないか。そういうと「下賎のものが何を言う」と叱られるかもしれないが。ただ、具体的な技術としての医術や医師の名前を明確にすることは出来なくても、医術を生み出した精神的土壌について彼が語っていることには一聴する価値があるかもしれない。
 
 プリニウスは、医術を事物の憎悪と友愛の原理から語り始める。
 その原理は極めて重要な自然の働きなのだ。それによれば、世界の事物はすべて自然が生み出したものであるが、そこには相和すものと敵対するもの、友愛(amicitia)と憎悪(odi)が存在しているが、この相対立する様相は人類のためにあるのだという。それをギリシア人は共感(sympathia)と反感(antipathia)という言葉で事物の基本原理に当てはめたという。こういう話は筆者の理解を越えるところなのであるが、そのまま承るしかない。
 多分これはストア主義の思想に基づくのだろう。すべての原因は物質的であり、どんな結果も非物質的な原因によっては生じない。すべての事物は相互作用のなかにある。全宇宙には宇宙的共感が存在する・・・。では相互作用には共感だけでなく、それと対立する反感が存在するというのか? しかしプリニウスはストアの思想をそのまま丸呑みしているわけではない。すぐ後で触れるが「自然」は抽象的存在だが、理性も感情も持っているのである。 

 彼が例にあげるのは次のようなものである。水は火を消す。太陽は水を吸収し、月は水を作り出す。この両天体は他者の侵害によって蝕を受ける。磁石は鉄を引きつけるが他の石ははねつける。ダイヤモンドはどんな力によっても砕いたりできないが、ヤギの血によって砕かれる・・・。「ヤギの血によって」なんて信じられようか。

 さらにつけ加えよう。カシワ(柏)とオリーヴは相互に根深憎悪によって分かたれているので、もしその一方を他方のものを掘りあげた穴に植えると枯れてしまう。逆に親和力のある物質は相互作用でよい結果をもたらす。キャベツとブドウの木の間の憎悪も致命的である。年老いて切り倒されようとしている木はなかなか倒れない。オオウイキョウはロバにとっていい飼料だが、他の家畜にとっては毒である・・・などなどきりがないのでやめよう。
 プリニウスは言う、地上のいずこにおいても、あらゆるものの神聖な母つまり自然が、この共感と反発の原理に基づいて、人間の病を癒やすための医薬を配置しなかったところはない、砂漠のような所でさえもそうである。このような作用が医術発生の根源である。

 
 身の回りに医薬が
 したがって自然は、どこにでも存在し、容易に発見され、なんの費用もかからないようなものを医薬にするよう人びとに命じた。だが後になって、人間どもの欺瞞と狡猾な金儲け主義が、ヤブ医者の研究室で医薬を「発明」した。そしてどの顧客=患者も、金を出して命拾いの約束をとりつける。ややこしい処方と摩訶不思議な調剤が言葉巧みに繰り返され、アラビアやインドが薬の宝庫だと信じさせられるようになった。ちょっとした腫れものにも紅海からきた薬の経費を負担させられる。ところが、ほんとうの薬というものは、きわめて貧しい人びとでさえも毎日の食事でとっているのだ。

 これがプリニウスの医薬に関する基本的な考えであった。それは特別なものの中に探す必要はなく、われわれの身の回りのありふれた存在のなかに発見できるという。そして『博物誌』にはその「ありふれた存在」がいかに重要か、その事例を延々と重ねていく。そのありふれた存在というのは、たんに食物だけではなく、多様な動植物、鉱物などにも当然及ぶ。そのようにローマ人は古くから自分たちの周辺に医薬を求めてきたのに、そのローマ国民はその偉大さのためにかえって自分たちの習慣を失い、征服することによって征服されたのだという。
 
 征服されたのはどういう分野か。それはある一つの分野、一つの技術、つまり医術という技術においてである。外国人、つまりギリシア人がこの分野において、われわれ主人(ローマ人)をすら牛耳るようになったと嘆く。その上で、ギリシアから伝えられた医術の現状を告発していく。

    

魔術と医術(2) ローマの病気と魔術(その2)

2009-12-25 14:42:05 | 日記
 デモクリトスとマギ
 先に述べたゾロアスターは二万の詩句をつくったとか、ヘルミップスという人物がその解説者であったとか、それらはみんな失われてしまったとかプリニウスはいろいろ言う。また名前以外の記憶は何一つ残さなかった人もいる。
 そして、トロイ戦争を描いた『イリアス』には魔術への言及は全くないのに『オデュッセイ』は魔術に満ち溢れて、この作品の全背景をなしていると驚きの声を上げている。彼が事例としてあげているのは、プロテウスの挿話、セイレンの歌、キルケの挿話、冥府からの死者の呼び出しなどである。筆者もこのプリニウスの指摘がなければその違いに気がつかなかった。だがいまこの問題を追求している余裕はない。プリニウスが気にしたのはホメロスのこの二つの作品の間に何があったのかということだろう。
 そのほか彼は「テッサリア人」が魔術と結びつけられている話や、メナンドロスが「テッサラ」という題で悲劇を書いたことなどに触れている。こういうことも彼にとっては驚きだった。

 前述のオスタネスはギリシア人の間に魔術への研究欲を掻き立たせた。それは熱狂とも言えるものになった。当時のもっとも優れた思想家・哲学者たちが魔術に魅かれた。プリニウスはいう、「私は、文学上の卓越性と名声が、そのような知識(scientia)から求められたことに気づいている」と。ピュタゴラス、エンペドクレス、デモクリトス、プラトンも海外へ魔術を学びに行った。だがそれは旅行をしたというより亡命をしたのであり、彼らは帰ってきてからそれを教え、魔術を自分たちのもっとも貴重な秘儀と考えたと説明している。

 プリニウスはデモクリトスの挿話を書いている。デモクリトスは、アポロベックスという人とダルダヌスという人の著書を入手しようとして、後者の墓にまで入り込んだが、こういうことは徹頭徹尾信頼性にも品位にも欠けると批判する。また彼は、デモクリトスが『キロクメタ』(「手で作られたもの」「手による処方」という意味)という書物の著者であるのは明らかであるといっている。だが、それがその品性に欠ける書によるものであるか否かは述べていない。デモクリトスの作品の愛好者たちはデモクリトスの名誉を慮ってこの著書を贋作としたが、本物だとプリニウスは主張している。この真贋問題は今日まで続いている。
 
 プリニウスは、デモクリトスが人心に魔術の甘美さをしみこませたのだと批判し、魔術的植物が注目されるようになったのはピュタゴラスとデモクリトスのせいで、二人はマギを権威としてそれに従ったのだという。
 彼はこのようにデモクリトスに批判的であったが、『魔術から科学へ』の著者パウロ・ロッシは、デモクリトスは自然への接近という点で、他のいかなる哲学者よりもすすんでおり、そのため、コルメラ(一世紀中ごろのローマの著述家)やプリニウスから正しくも魔術師といわれたのだという。ロッシは、当時魔術は科学であったと示唆しているのである。

 プリニウスはデモクリトスの医薬について多数の例を述べている。ほんの一・二挙げる。アグラオポディス(明るい光)という植物があって、マギたちは神々を呼び出したいときにそれを用いる。ある病気には罪人の頭蓋骨がよく効き、他の病気には友人や客人の頭蓋骨がよく効く。アカエメニスとう植物を入れたブドウ酒を犯罪者が飲むとすっかり自白する。アダマンティスという植物をライオンの近くに置くとライオンは仰向けに寝転んで疲れたように欠伸をする・・・もうこれはきりがない。

 彼は、それ以外にもモーゼやエホバも魔術の一派であるとしている。聖書にでてくる東方の三博士もマギであったことはよく知られている。また彼はイタリアでも一二表法のなかに魔術の痕跡があったし、元老院が人身御供を禁止する(紀元九七年)までは、忌まわしい儀式が行われていたとしている。
  
 魔術はガリアの属州において、ドルイド教の妖術という形でその住処を見出した。ティベリウス帝がこのドルイドの僧侶・預言者・祈祷師たちを追放したが、依然としてブリタニアでは隆盛を誇り盛大に魔術の儀式が行われているという。そこではまだローマ帝国の威令が及んでいないのである。プリニウスは、「人間を殺すことが最高の宗教的儀式であり、さらにそれを食べることが健康によいとされたような奇怪な儀式を一掃したローマに負う恩義が、いかに大きいものか、はかり知り得るものではない」と「ドルイドの妖術」追放に賛意を表し、言外にローマの平和の意義を強調しているように見える。

  
 ネロとマギ
 皇帝ネロは、自分が芸術的な天才であると本当に信じていたらしい。しばしば俳優気取りで舞台に立ったり、歌ったりした。戦車競技にも熱中した。声を良くするためといってネギを好んで食べたり、胸の上に鉛の板を載せて寝たりしたという。それだけでなく、科学的実験らしいことをやったことをプリニウスは伝えている。ネロは、水をいっそう冷たくするために、一度沸かした水をガラスの器に入れ、それを雪の中に差し込んで冷やすという方法を発見したという。沸騰させていない水に較べて良く冷えるのだそうだ。その実験が正しいかどうか、筆者には分からないが、ネロにしては上出来ではないか。スエトニウスはこの水を「ネロの蒸留水」と呼んでいたらしい。そんな程度ならご愛嬌ということにもなろうが、ネロの考えることは少し違う。

 人間の幸運の絶頂に昇りつめたネロは、ついに神々に命令を下すという野望を抱いた。ネロは、未来を占ったり霊界や下界の人間と話ができるという魔術師オスタネスにその野望を託した。おそらく、先ほど述べた「魔術について現存する最初の論文」でも読んで学習したのだろう。だがやがてそれが欺瞞でいんちきであることに気づかされた。そこでネロは魔術を見限ったが、その見限ったことが魔術のいかさまぶりを最高度に証明しているとプリニウスは言う。神々に命令を下すためには、地獄の神であろうとその他どんな神であろうとかまわないが、ネロは何かの神の知恵を借りるべきであったとプリニウスは痛烈に揶揄している。彼が嫌ったのはマギたちが自然界を支配できると考えたり、人生を助けるどころかその邪魔をしたり害を加えたりすることへの嫌悪であった。

 プリニウスのマギへの批判は当時の医学への批判につながっていく。彼はマギたちの膨大な治療法を紹介しながら批判を加える。それは、民衆にそのようなごまかしの医療に引っかからないように忠告を与えているように見える。いまここで彼が暴露しようとしたマギの療法を列挙することはあまり意味のないことだが、二・三の例をあげておく。

 ナトリックスという植物の根を引き抜くとファトゥイ(悪夢のことか)というものを追い払う。まだ動いているモグラの心臓を食べると占いと予言の能力が与えられる。生きたモグラから抜いた歯をお守りにすると歯痛が治る。気が変になっている人には、ネズミの脳を水に入れて飲ましたり、イタチの灰を飲ます、さらにハリネズミの干し肉を食べされる・・・。膨大なこのような事例をあげたのち、こんなことがどうして信じられようかとプリニウス自身は言うのだが・・・。

魔術と医術(1) ローマの病気と魔術(その1)

2009-12-24 15:00:05 | 日記
  
 ローマの病気
 『博物誌』がいわば「生命に」関するものであり、人類を助けることが「自然」のもっとも大切な仕事であるというプリニウスの考えに基づけば、医術や医薬に最大の力点が置かれたのは当然であろう。薬園の野菜はもっとも身近な医薬でありえたが、それ以外の植物を含めて彼はその薬効の叙述に最大の力を注いだ。それに動物や鉱物などの薬効をも加えたものがのちに『プリニウス医学』として編集され、ヨーロッパ中世で広く普及した。今で言えば『家庭医学』とでもいうような本になって流布したのだろう。

 人生にとって病気はいつも恐るべき存在であり、人間の幸福と生命を奪うものであった。そして新しい病気は、いつの時代にもやってくるものだが、プリニウスの時代もそうであった。
 ローマ世界に新しい病気が拡がっていた。たとえばギリシア語でレイケン、ローマ語ではメンタグラなどと呼ばれる極めて悪質の皮膚病は、目だけを残して顔面全体を冒し、さらに顔、胸、両手へと下に広がり、それは焼灼剤で骨まで焼かなければ完治しないほどの、かつてローマ人が知らない病気であった。また、かかると三日であの世行きになる恐るべき「ちょう」、あるいはまたエジプトからもたらされたというハンセン病、だがこれは急速にイタリアから消滅したという。
 新しい病気が初めて現れると、誰彼なしにまず大衆に伝播した。ある病気は出し抜けにある地域に現れ、それが人間の特定の手足、あるいは特定の年齢、あるいは特定の社会的地位の人びとを、まるで厄病がその犠牲者を選択してでもいるかのように冒した。ある病気は子どもを、他のものは成人を冒し、ある病気は貴族が特別にかかりやすく、あるものは貧乏人がかかりやすい。さらに、ある病気は消滅したのに、他の病気は地方的に残っていたり、ある病気はある地域にだけ流行する・・・。そして現に三〇〇以上の病気があるのに、さらににこのような新しい病気が加わるのだ。

 
 マギの欺瞞
 このように、プリニウスは当時の医療状況に危機感を抱いた。彼は、その危機の一端がマギ(注)たちの呪術的・欺瞞的な医療法にあると考えた、。そして、その欺瞞を具体的に暴くとともに、アスクレピアデス(前一世紀頃のギリシアの医者、ギリシア医学をローマに移植)の医学体系もまた、マギのたわごとよりもひどいものだと告発するのである。プリニウスの、当時の医学や医薬に対しての数々の疑問と批判は、ます医術と魔術の親密性へ向けられた。
  (注)マギは、元来古代メディア<ペルシアの北東>の自然崇拝の祭司のことだったが、やがてゾロアスター教の祭司階級を意味するようになった。

 彼は、技術も数ある中で、このうえなくいかさまな技術が長期にわたって世界を支配してきた、それが魔術であるという。多くの技術のうち魔術のみが人間精神に至上の支配権を握り、他の三つの技術を抱き込んで自分に従属させた。他の三つというのは医術・宗教・占星術である。
 魔術は医術から起こったのだが、健康を増進するという仮面のもとに人びとの間に忍び込み、さらにその魅惑的な約束に、今でも蒙昧状態にある宗教を、そしてさらに占星術をも付け加えた。自分の運命を知りたいと熱望しない人はいないのだから・・・。このことは誰も疑わないであろうとプリニウスはいう。

 だがこの問題を論ずるのは容易ではない。彼は魔術が医術から起こったというが、逆に魔術から医術が起こったという主張も確かにあるのである。原始社会以来、医術の未発達のなかで魔術は唯一の治療法であった可能性は強い。そして、近代医学が発達した後も、病気治療に宗教や占いが果たしている役割も軽くはない。だがプリニウスの分析は魔術から始まる。そして、このプリニウスの魔術の歴史に関する記述は、ソーンダイクのいうように(『魔術と実験科学の歴史』)、魔術に関するあらゆる著作の中で、最も重要なものの一つといえよう。

 プリニウスは魔術の起源をペルシアのゾロアスターに帰している。今日ゾロアスターは紀元前七世紀の人といわれているが、プリニウスは、プラトンの死の六千年前というアリストテレスの説を採用している。ゾロアスターについては古来いろいろ異説があり、不明な点が多いし、プリニウスは、前五世紀頃に、プロポンネソスの住人といわれるもう一人のゾロアスターがいたという説も紹介していて、彼自身確信がもてないでいる。彼はゾロアスターの後継者の系統が失われていると指摘しているが、オルフェウス(ギリシア神話にでてくるアポロンとカリオペとの子)が彼の郷土のトラキアに最初の魔法をもたらしたとか、魔術について現存する最初の論文を書いたのはオスタネスであると述べている。このオスタネスは紀元前五世紀後半のペルシアのマギであり、ペルシア王クセルクセスがギリシアに侵入したとき随伴したといわれ、オリエントの魔術に関する著述の多くが彼に帰せられている。また、もう一人のオスタネスがいて、アレクサンドロス大王に使えてその遠征に加わったとされている。
 結局プリニウス自身にもマギについての正確な知識はなく、当時の一般的な認識の範囲に止まっていたように思える。

偉大な酢の力

2009-12-20 18:37:55 | 日記
 古代において、真珠が酢に溶けるとされていたのは、酢に特別な力があると思われていたからでしょう。
 食用や食材保存用以外に、薬用としても高く評価されたことはもちろんですが、そのほかに、意外な事柄に使用していました。たとえば、航行中に嵐にあった場合、心細いながら遭難から逃れる唯一の方法は、海に酢を流すことだといわれていました。また、酢を地上に注ぐと地が沸騰すると考えられました。あるいは、火で割ろうとしたが駄目だった岩が、酢を注ぐことによって砕けたり、金の採掘現場で硬い火打石にぶつかったら、酢を用いて砕いたりしたということです。

 火打石に関しては、すでに新石器時代からフリント(火打石)鉱山で、手ごろな大きさの岩石片を得るためにこの方法が用いられていたといわれています。だから、酢によって岩を砕いたり溶かすというのは,そんなに突飛な話しではありません。前一世紀の建築家ウィトゥルウィウスも、硬石は火だけでは溶けないが、火で十分焼いて酢を注ぐと分解して解けてしまうといっています。

 カルタゴの将軍ハンニバルがローマ攻略のためにアルプス越えをしているとき、岩石で塞がれた道路に出くわしました。そこで木を燃やして岩を熱し、それに酢を振りかけて砕いたと伝えられています。一六世紀のドイツの鉱山学者アグリコラは、非常に硬い岩も火によってぼろぼろになることがあると書き、ハンニバルがスペインの鉱山師に見習ってアルプスの岩石を酢で爆破したといっています。
 近年、イギリスの地質学者ロバート・シェパードがこの事実を実験で確かめ、酢酸四~六パーセントのビネガーがもっとも効果があったと報告しているそうです。

 アルプスの岩石を砕くには相当量の酢が必要でしょうが、それはどうしたのでしょうか。シェパードは、ハンニバル軍団は兵士たちに支給するためのワインを相当量運んでいたが、ワインの質が悪くて醗酵し酢(ビネガー)になったと推測しているそうです(金子史朗『科学が明かす古代文明』)。だが、ハンニバルがワインを兵士たちに支給していたかどうか、断定することは難しいことです。

 戦闘に赴く兵士にワインが支給されていたなどということは、アジア太平洋戦争で戦闘員の半数もが餓死者であったといわれる日本陸海軍兵士にとって信じられるでしょうか。二三日分の食料しか与えられず、以後は自分で算段せよと放り出される・・・現地の住民からの略奪によるしか食料が手に入らない・・・あとは草を食んだり蛇やかえるを捕って食べたり泥水を飲んだり・・・。

 ローマの兵士たちも平素とてもバラエティーに富んだ食事を摂っていたようです。安物ですが、ワインも欠かせませんでした。ローマの兵士に支給される飲料にアケトゥムというものがあったことは知られています。アケトゥムは酢ですが、先ほども述べたように、ぶどう酒の保存状態が悪いと自然に酢酸醗酵して酢になります。だから途中で酸っぱいぶどう酒になったりします。それらも含めアケトゥムと呼んでいたようです。このアケトゥムと水を混ぜたものはポスカと言い、お金のない人はワインの代わりにこれを飲んだということで、一般的な飲み物だったようです。これを飲むとスキッとして気分がよくなるともいわれています。

 したがって、航海に出かけるときや軍隊の遠征には濃いアケトゥムをたくさん携えていき、水で薄めて飲んだりしたと思われます。だからハンニバルの兵士たちも、ワインではなくアケトゥムを持参した可能性のほうが高いのではないでしょうか。アルプス山中で用いたのが、このアケトゥムであったとすると説明がしやすくなります。

 酢ではなく、ただたんに水を熱した岩石に注いで砕く話なら東洋にもありました。中国四川省の成都郊外に都江堰という灌漑施設があります。先年、この地方を震源地とする大地震があったので広く知られることになりました。 
 前三世紀、戦国時代末期の秦の蜀郡太守李ひょうが、長江の支流みん江の氾濫を防ぐと同時に灌漑用水を確保する目的で大土木工事を行いました。みん江の流れを二つに分けて制御しようと、巨大な岩石を砕いて新しい水路を開いたのです。
 そこで用いられたのが、岩石の上で木を燃やして熱し、それに水をかけて砕くという方法でした。これは優れた手法であるとして後世にも語りつがれたそうです。この灌漑用水で広大な耕地が造成され、秦の経済力の拡大に大きな貢献をしたといわれています。

 しかし岩を砕くというのは特殊な例で、一般的には食用ですが、広く薬用にも使われました。『博物誌』には膨大な事例が載っていますが、もちろん今でいえば民間療法といったところでしょうか。ほんの少し例をあげます。
 酢は、強い解熱の性質をもつ。吐き気を止め、しゃっくりを抑え、水を割って飲めば消化を助ける。日射病になったら水割り酢でうがいをすると有効である・・・などなど。酢の入った袋を運んでいた男がエジプトコブラに咬まれたが、酢を飲んだら治った・・・、眉唾ものですがね。

 パンテオンを造ったり水道施設を整備したりしたことで知られているマルクス・アグリッパは、晩年ひどい痛風に悩まされました。あるとき、あまりの痛さに耐え切れず、医者のすすめにより、足が駄目になる怖れも顧みず、熱い酢の中に両足を突っ込んだそうです。今日でも、ビニール袋に酢を湯で薄めたものを入れ、そこに足を浸すという療法が流行っているとの報道もありました。酢の健康に及ぼす効能については、二一世紀の今日でもますます盛んに喧伝されており、日常の飲料の分野にまで及んでいることは誰もが知るところです。
 たわいない話を書いてしまいました。