静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

コインとワイン➖おお、それ見よ

2014-11-30 17:53:16 | 日記

   (一)  一枚のコイン

 イタリアのポンペイを滅ぼしたウェスウィウス火山の噴火は、七九年八月二四日というのが長い間の世界的な通説だった。だが、その通説を覆す新説が誕生したことを最近知った。天下を覆すような大事件ではないので、どうでもいいようなことだが、筆者としては少し驚いたのでメモしておきたい。興味や関心を持つ人はほとんどいないと思うが。

 二〇一四年五月十四日、TBSテレビは午後七時五八分から一〇時五四分まで「テレビ未来遺産 "巨大噴火“日本人へ古代ローマからの警告」という番組を放映した。(出演:池上彰・雨宮塔子・新道晶子、チーフプロデューサー:戸田郁夫、監修:青柳正規・藤井敏嗣)。要旨は以下のとおり。

 ポンペイの遺跡から数年前一枚の銀貨(大きなパネルで写真が示された)が発見された。一〇代皇帝ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(79-81)の即位記念として七九年九月末発行されたものという。それによってウェスウィウスの噴火は夏(八月二四日)だという通説は間違いで、七九年一〇月二四日であることが判明した。

 この新事実はこの番組の出演者池上彰氏によって繰り返し(五回ほど)きっぱりした口調で報告された。

 この番組の監修者の一人が青柳正規氏だったので、氏がどういう主張をされているかネットでみてみた。二〇〇六年一一月二九日に第四八回東工大現代講座「ポンペイの魅力とソンマ・ヴェスヴィアーナの発掘」と題する青柳氏の講演があったことがわかった。主催者(?)藤原英二氏のまとめの挨拶によると、最初に「青柳先生から、この噴火は従来八月二四日といわれていたものが、実は一〇月半ばであったとする研究のご紹介」があったとのこと。つまり、少なくとも二〇〇六年一一月には青柳氏がすでに噴火一〇月説を唱えておられたことがわかった。

 さらに、二〇一四年一〇月二五日、東京・上野の日本学士院で青柳正規氏による「イタリアでの発掘40年」と題する講演会が開かれた。この講演で氏は、ウェスウィウス噴火は八月ではなく一〇月中ごろだとの説を披露された。当日、会場のマイクの調子が良くなく聞き取りにくい点もあったが、それまでの疑問点の幾つかが判り有意義であった。

しかし、私が考察の材料とできるのは上記のようにごく僅かでしかない。その材料へ勝手な想像を加えながら若干の私見を述べてみたい。

 (二)  コインは語る

 a、 テレビで池上氏がパネルを使って示したコインは銀貨で、青柳氏がプロジェクターで示したのは金貨であった。池上氏は一枚の銀貨が発見されたとおっしゃった。青柳氏の金貨は別物であることがはっきりした。

b、 池上氏の銀貨の発見は二〇一四年の数年前ということである。青柳氏は二〇〇六年の講演会ですでに噴火一〇月説をとっておられる。両者間に若干の時間的な空きがある。おそらく別のコインだからだろう。

c、二つのコインの裏側のデザインは同じだと思う。テレビの画面で見たり遠くからプロジェクターで映された画像を見ただけだが。青柳氏は、IMP.15(インペラトール15)と刻字されていることを指摘した。池上氏と青柳氏の話を重ねてみると、これは九月末日発行のティトゥスの即位記念コインであり(池上)、九月にコインを発行したという記録が残っている(青柳)ということである。だが九月に発行したとしても、それが即位記念かどうかコインを見ただけでは素人にはわからない。

d、インペラトールには最高指揮官という意味と皇帝という意味二つある。この年(七九年)、ティトゥスは第一五回目のインペラトール(最高指揮官、一年間)であった(クリス・スカー著、青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』(98.11.20)参照)。ティトゥスは第一〇代目のローマ皇帝であり、六月二四日に即位している。だから九月末日に一五回目の最高指揮官と打刻されたコインはタイミングが外れているのではないか。第一〇目の皇帝と刻字されているなら若干時期が離れてはいるがわからなくもない。もし一五回目のインペラトールを祝賀するなら年頭にコインをつくるのが順当だと思うが。

    (三)語らないこともある

 『ローマ経済の考古学』の著者ケヴィン・グリーンは、ローマ貨幣の発行された目的には慎重な研究を必要とするとしたうえで、次のように述べている。「表面に置かれた統治者の肖像。そして裏面に記された印章と刻銘。これらはすべて人を欺くものである」。 なんとも恐れ入った見解ではないか? 偽造貨幣が多いということなのだろうか。その上でこういう「一つ一つの鋳貨(注:古代の貨幣はすべて打刻によって造られた)は、それが発行された時期以外のことはさほど多くを語らない・・・鋳貨発行年代は、皇帝の肖像が誰のものかを識別することによっておおよその決定は可能だが、さらに正確には、その皇帝が保持していたコンスルなどの職務への言及から推定できる」(池口・井上訳)。池上氏や青柳氏の示したコインは、そういう障碍を乗り越えて確定されたのだろう。

 さらにグリーン氏は、鋳貨が遺失した年を算出するのは困難な仕事だという。しかしポンペイ出土のコインは紛失時がはっきりしているのだからそれは問題にならない。だがグリーン氏はコインの摩滅を問題にしている。もちろん流通期間が短いコインは摩滅が少ない。池上氏がいうように、九月末に発行されて一〇月二四日に埋没したのなら、その間は一ヶ月足らずである。私は写真を拡大したものをテレビやスクリーン上で見ただけだから確たることは言えないが、コインの左側の文字がぼやけてよく判からなかった。相当摩滅が進んでいるように見ええるのだが。 

(四)写筆のミス?

  ポンペイを滅ぼしたウェスウィウス山の噴火は、プリニウスの甥の小プリニウスのタキトゥス宛の書簡で示した日付、つまり八月二四日であると信じられてきた。そこには Nonum kal. Septembres と記してある。これは ante(前) diem(日) nonum(九番目の)Kalendas(月の最初の日)September(九月)の略である。つまり九月の最初の日の九日前ということである。九月最初の日、つまり九月一日を含めて九日前というと、それが八月二四日になる。

 青柳氏はこの説明をした後、September(九月)とNovember(一一月)とはよく似ているので、小プリニウスの『書簡』の筆写人が写し間違えたのではないかと推測される。それが妥当となると、噴火は一〇月二四日ということになるのである。池上彰氏は繰り返して一〇月二四日とおっしゃったが、そのような計算にもとづいている。青柳氏は二四日と日を特定することなく、確か一〇月中頃とおっしゃっている。ここでも池上氏とは少し違う。どうして違うのか解らない。

 (五)ビンテージワイン

 青柳氏はブドウ酒の保存に関して重要な意味合いを持たせている。ウェスウィウス噴火の遺跡には、ブドウ酒を保存する甕に蓋がしてあった。ブドウの収穫は九月末から一〇月である。だから夏の八月は未収穫であり、ブドウ酒はない。甕に蓋がしてあったということは、すでにブドウ酒が出来て甕に保存してあったからである。つまり、ブドウ酒ができ上がった秋に噴火したことになる。だから八月ではない。この説は、空になった甕には蓋をしないということを前提としている。

 ブドウ酒の保存に関してはプリニウスに詳しい。いつの時代でもブドウ酒の保存には気を配るものだ。『博物誌』から抜粋する。

 アルプス山脈のあたりでは木樽に詰めてタイルで囲み、寒い冬には火を焚いて寒気から守る。温和な地方では、甕に入れてすっかり地中に、あるいは甕の肩の部分まで埋める。大気から守るためである。あるところではさらにその上に屋根を作って寒さから守る。そしてまた、酒蔵の一つの面、少なくともその窓は北東、あるいはともかくも東に向いていなければならないという。甕と甕の間は一定の空間を置かなければならない。そうしないと汚れが移る。ブドウ酒というものは非常に感染しやすいものだから。

 甕の形も大切だ。太鼓腹や幅の広いものなどはあまりよくない。またその手入れも大切。シリウス星出現の直後、甕にピッチ(樹脂)を塗り、その後海水あるいは塩を入れた水で洗い、粗朶の灰か陶土を振りかける。それから、こすってきれいにし、没薬でくすべる。甕だけでなく酒蔵も時々そうしなければならない。

 弱いブドウ酒は土の中に埋めた甕に入れて保存する。しかし強いブドウ酒を入れた甕は空気に晒しておく。甕はいっぱいにすることは禁物。そしてブドウ酒の表面から上の部分には樹脂ブドウ酒か、煮たブドウ酒液の中で叩いて潰したサフランあるいはアイリスを混ぜた煮詰めブドウ液を塗っておかなくてはならない。甕の蓋は乳香あるいはブルッティア・ピッチを加えて、同じようにしておく。蓋をしておいて、甕は仲冬には、晴天の日ではなくては開けない。そして南風が吹いているときとか、満月のときなどには開けないものと決まっている。 

 プリニウスはなかなか力を入れて書いている。彼はさらに保存中のブドウ酒の扱い方や、醸造過程や調整法、ブドウ酒との混合物など、またピッチの多様な種類やその性質など、詳しく述べているがそれはいいだろう。残念ながらプリニウスはブドウ酒の平均的な保存年数については書いていない。しかし、二〇年目まではこれほど大きく価格の上昇を経験するものは他にないと述べている。だから、何年も保存するのは一般的だったのだろう。プリニウスは、特に話題となった長期保存について報告している。「ローマ建都六三三年(前一二一年)のことだが、太陽の力のお蔭で、天候が晴朗であった(人々はそれをブドウの「煮沸」と呼んでいる)。そしてその年のブドウ酒は二〇〇年近くももって今日まだ残っている」。だが成熟がかちすぎて、それをじかに飲むことはできない。しかし、それをほんの少し加えるだけで全ての他のブドウ酒の味を良くするので価格が高騰したという。だから、「わが国の酒蔵に貯えられている金額はそんなにも大きいのだ」という。

また彼は、ガリアやヒスパニア諸州では穀物を水に浸して酒を造るが、これらの諸属州はローマ人に、こういう酒は長年月保存できることを教えてくれたという。エジプトでも同じ方法での酒造法を考案した。ギリシアやローマではブドウ酒を水や湯で薄めて飲むが、これらの地域ではその酒を生のままがぶ飲みしているといっている。だが、これらの地域にもブドウ酒が大量に出荷されるようになっていた。属州とはいえローマ帝国の一部だから輸出ではなく移出だろう。「わが国の酒蔵に貯えられている金額はそんなにも大きい」とプリニウスが言うときの「金額」は、直接国庫に入るわけではなく、生産・運搬・販売などブドウ酒産業に携わる人々の収入になった。ブドウ酒の貯蔵をバカにしてはいけないのだ。 

ローマ文化美術館蔵の、ボスコレアレ(ポンペイ北数キロ)出土の大きな農家の復元模型の写真を見た。中庭に四〇~五〇個の大きな甕が整然と並んで肩の辺まで埋めている。いずれもしっかり蓋がしてある。発掘当時どのような形で発見されたかは知らない。ポンペイ市内でも二メートル以上灰や軽石が積もったのである。それをイタリアの研究者たちは復元した。みんなきっちり蓋が閉められている。

 ローマ軍は戦場に赴くときもブドウ酒持参だった、安酒だろうけども。もちろん十分な食糧も。腹が減ったら戦はできないのだ。日本帝国陸軍は、南方の国や島々にろくに食糧をもたせずに兵士を送り込んだ。兵士たちは餓死した。戦死者より多かったというではないか。カルタゴのハンニバル軍もブドウ酒持参だったらしい.アルプス越えのとき大きな岩が行く手を阻んだ。その岩を火で熱し、そこに酢を振りかけて岩を砕いたという話は広く知られている。アルプス山中に酢などあったのか? そこで、軍隊が運搬するブドウ酒が途中で酢になったともいわれている。

 (六)「オー・ソレ・ミオ」

 青柳氏は、発掘の結果、ポンペイ市民が暖房の用意をしていた証拠があるので、噴火は夏ではなく秋だとおっしゃっている。暖房の用意がどういうもので、どんな形で発掘されたのか筆者にはわからない。だから何とも言えないのだが、ローマ史家のピエール・グリマル氏はこういっている。「イタリアの気候では本当に寒い日はさほど多くないので、つねに暖房を準備しておく必要はない。温暖でない時期も中庭に火のついた火鉢をいくつか並べておくだけで、なんとか過ごすことができた。ずっとのち、奢侈が浸透し、快適さが追及されるようになってからも、イタリアの住宅では、浴室以外、ほとんど暖房されることはなかった」(『古代ローマの日常生活』)と。これはおそらくローマ市でのことを述べているのだろうが、南イタリアのカンパニア地方はもっと暖かい。それこそ「オー・ソレ・ミオ(私の太陽)」の世界である。先の『ローマ経済の考古学』では、気象学の専門家の、地球上の気温変動の研究結果が紹介されている。それによると、ローマ帝国の初期の頃の気温は、温暖化が叫ばれている今日と同じくらい高かったという。

 小プリニウスはタキトゥス宛ての手紙には次のように書いた。「叔父はミセヌムにおいて、そこの駐留艦隊を本人自ら指揮していました。八月二四日第七時頃、私の母が叔父の所に来て、大きさも形も、これまで見たことのない雲が見えると告げました。叔父は日光浴の後で、冷水浴をすませ、横になって昼食を摂り、勉強をしていました」(国原吉之助訳)。

 小プリニウスが叔父の食事を摂る姿を見るのはこれが最後になった。ここでもやっぱり「横になって」食事をしたのだ。おそらく傍らで書記が何かの書を朗読していたのだろう。小プリニウスの書簡で、当日の気象に関連して書いた箇所はここだけである。もし池上氏の言うように噴火が一〇月二四日だとすると、いくら温暖の地といってもこの時期に日光浴のあとに冷水浴をするだろうか? 青柳氏の、暖房の準備をしていたという説とどう折り合いをつけるのだろうか。

   (七)ポンペイ漫歩

  もう何年も前のこと、Aさんと二人でポンペイに遊ぶ機会があった。Aさんは初めてだったので、まず一般の観光コースを歩いた。いやあ、大変な賑わいであった。これでは遺跡が傷んでしまう・・・それは事実らしい。入り口は西だが、今日の最終目的地は闘技場、これは東の端にある。この賑わいを少しはずれるともう人影はまばらになり、もう少し行くと前にも後にも誰もいなくなった。と思ったら、どこからともなく一人の小父さんが寄ってきた。ラフな服装で、もじゃもじゃの灰色の髪の毛、痩せ型である。一般の観光客には見せない発掘物をみせてやろうという。管理人という感じではあった。後ろについていくと大きな倉庫風の建物である。中央に五段ほどの大きい棚が二列に並んでいる。太いパイプで組んである。左右正面には壁まで届く棚。主に土器である。大小のアンフォラ、壷、食器など。これは驚いた。彼は一所懸命に説明してくれる。ふと、隙をぬすんで棚の小土器をそっとポケットにという誘惑に一瞬駆られたが、それはできなかった。

 帰りかけに、その小父さんが私たちを見ながら「大學に行っている息子がいる。学費がかかって生活が苦しい」という。思わずAさんと顔を見合わせた。何枚かの紙幣を手渡すと、彼は恐縮したような顔をして受け取った。一個くらいポケットに頂いてもよかったのかなと、ふと思ったがそれは思っただけ。あれはチップなんだ。

 少し行くと、Aさんが催してきたというので辺りを観察した。向こうに小さな木立がある。そこへ行ってぐるりと見渡したが人影はない。私も自然が呼ぶ声にお相伴した。これでポンペイに足跡を残すと同時に○跡も残したわけだ。

 目的地の闘技場に着いた。観光客はまばらで一〇人足らず。思ったよりこじんまりして、ローマのコロセウムと違って親しみやすい。Aさんはアレーナに下りて左腕を前に構え、右手を何回か振り上げ振り下ろして剣闘士の真似をした。そこに茶と黒のまだらの大きめの犬が一匹現れAさんと向き合った。いよいよ始まるのかなと一瞬思ったが思い違い。犬君はちょっと立ち止まっただけで行ってしまった。私は観覧席に座って写真に撮った。

 そこを出ると隣に広い原っぱがあった。草が生えているだけである。ふと見ると向こうに囲まれた一郭があり、石造建造物らしきものがある。眺めていると後で声がした。また別の小父さんだ。今度は上下揃いのスーツ・ネクタイ姿である。ニコニコして何処から来たと聞く。そして門の鍵を開けてくれた。コの字型で真ん中にテーブルらしきものがある。「トリクリニウム」(臥台、横たわって食事をした)かと聞いたら、そうだ、四人がけだという。それにしても大きい。周りにレンガで包んだ太い柱も立っている。しっかりした泉水もあった。夏の食堂の家の庭ということだったが、それは違った。その後、彼は別の小屋に案内してくれた。細長い質素な小屋である。噴火当時の砂や礫だろうか、その上に一〇体ほどの石膏で固められた「遺体」が並んでおり、その頭の方には石組みの壁が続いていた。写真でよく見るあれだ。だが突然目の前に現れ驚いた。この小父さんは「私に娘がいて大学に・・・」などとは言わなかった。この小父さんに別れを告げ、私たちは胸いっぱいになってポンペイを後にした。

    (八)おお、それ見よ!

  わが家に帰ってきて、先にあげた『ローマ経済の考古学』という本をも一度眺めてみた。読んだがすっかり忘れていたか、いい加減にしか読んでいなかったことがわかった。この著の訳者木村凌二氏によると、著者のケヴィン・グリーは英国のニューカッスル大学の考古学講師、この書の出版は一九八六年である。邦訳は一九九九年。内容を少し長くなるが紹介する。

 あのネクタイを締めた小父さんが案内してくれた広場は、動物の骨が残されていたから以前は「フォルム・ポアリウム(こざっぱりとした牛の広場)と呼ばれていた。

だが、調査の結果、ここ一面にブドウの樹が整然と植えられていたことが判明した。そのほか、オリーヴやその他の果実樹もあった。先のトリクリニウム(臥台)は、闘技場を訪れた上流階級の食事客のためのものだったとのこと。そしてこの一角には、ブドウ搾取室と巨大な壷が地中に設置された酒蔵があった。ブドウの樹は焼失したが、火山灰・火山礫を取り除いた草原の下にブドウ樹の根の空洞が残っていた。考古学者ジャシェムスキは、空洞を発掘して空にした後、セメントを満たして針金で補強をした後、周りの土を除去して根の組織の形状を露出させた。この方法によって、大きな植物や木の種類を識別することができたという。ジャシェムスキは「考古学にとって幸いなことだが、ウェスウィウス火山は八月に噴火した。八月は、多くの植物が果実その他の収穫物をつける時期であって、それらの中にあるさまざまな形の種(種子、豆、種粒、仁、核など)が化石として残存し、植物の種類をいっそう正確に特定することを可能としている」と語っているという。

 私もあのとき、小さなシャベルを持っていき、穴を掘ってみればよかった。ひょっとしてコインが出てきたかもしれないではないか。だめだ、あのネクタイの小父さんが見ている。

 「おお、それ見よ」

 

 


コインとワイン➖おお、それ見よ

2014-11-30 17:53:16 | 日記

   (一)  一枚のコイン

 イタリアのポンペイを滅ぼしたウェスウィウス火山の噴火は、七九年八月二四日というのが長い間の世界的な通説だった。だが、その通説を覆す新説が誕生したことを最近知った。天下を覆すような大事件ではないので、どうでもいいようなことだが、筆者としては少し驚いたのでメモしておきたい。興味や関心を持つ人はほとんどいないと思うが。

 二〇一四年五月十四日、TBSテレビは午後七時五八分から一〇時五四分まで「テレビ未来遺産 "巨大噴火“日本人へ古代ローマからの警告」という番組を放映した。(出演:池上彰・雨宮塔子・新道晶子、チーフプロデューサー:戸田郁夫、監修:青柳正規・藤井敏嗣)。要旨は以下のとおり。

 ポンペイの遺跡から数年前一枚の銀貨(大きなパネルで写真が示された)が発見された。一〇代皇帝ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(79-81)の即位記念として七九年九月末発行されたものという。それによってウェスウィウスの噴火は夏(八月二四日)だという通説は間違いで、七九年一〇月二四日であることが判明した。

 この新事実はこの番組の出演者池上彰氏によって繰り返し(五回ほど)きっぱりした口調で報告された。

 この番組の監修者の一人が青柳正規氏だったので、氏がどういう主張をされているかネットでみてみた。二〇〇六年一一月二九日に第四八回東工大現代講座「ポンペイの魅力とソンマ・ヴェスヴィアーナの発掘」と題する青柳氏の講演があったことがわかった。主催者(?)藤原英二氏のまとめの挨拶によると、最初に「青柳先生から、この噴火は従来八月二四日といわれていたものが、実は一〇月半ばであったとする研究のご紹介」があったとのこと。つまり、少なくとも二〇〇六年一一月には青柳氏がすでに噴火一〇月説を唱えておられたことがわかった。

 さらに、二〇一四年一〇月二五日、東京・上野の日本学士院で青柳正規氏による「イタリアでの発掘40年」と題する講演会が開かれた。この講演で氏は、ウェスウィウス噴火は八月ではなく一〇月中ごろだとの説を披露された。当日、会場のマイクの調子が良くなく聞き取りにくい点もあったが、それまでの疑問点の幾つかが判り有意義であった。

しかし、私が考察の材料とできるのは上記のようにごく僅かでしかない。その材料へ勝手な想像を加えながら若干の私見を述べてみたい。

 (二)  コインは語る

 a、 テレビで池上氏がパネルを使って示したコインは銀貨で、青柳氏がプロジェクターで示したのは金貨であった。池上氏は一枚の銀貨が発見されたとおっしゃった。青柳氏の金貨は別物であることがはっきりした。

b、 池上氏の銀貨の発見は二〇一四年の数年前ということである。青柳氏は二〇〇六年の講演会ですでに噴火一〇月説をとっておられる。両者間に若干の時間的な空きがある。おそらく別のコインだからだろう。

c、二つのコインの裏側のデザインは同じだと思う。テレビの画面で見たり遠くからプロジェクターで映された画像を見ただけだが。青柳氏は、IMP.15(インペラトール15)と刻字されていることを指摘した。池上氏と青柳氏の話を重ねてみると、これは九月末日発行のティトゥスの即位記念コインであり(池上)、九月にコインを発行したという記録が残っている(青柳)ということである。だが九月に発行したとしても、それが即位記念かどうかコインを見ただけでは素人にはわからない。

d、インペラトールには最高指揮官という意味と皇帝という意味二つある。この年(七九年)、ティトゥスは第一五回目のインペラトール(最高指揮官、一年間)であった(クリス・スカー著、青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』(98.11.20)参照)。ティトゥスは第一〇代目のローマ皇帝であり、六月二四日に即位している。だから九月末日に一五回目の最高指揮官と打刻されたコインはタイミングが外れているのではないか。第一〇目の皇帝と刻字されているなら若干時期が離れてはいるがわからなくもない。もし一五回目のインペラトールを祝賀するなら年頭にコインをつくるのが順当だと思うが。

    (三)語らないこともある

 『ローマ経済の考古学』の著者ケヴィン・グリーンは、ローマ貨幣の発行された目的には慎重な研究を必要とするとしたうえで、次のように述べている。「表面に置かれた統治者の肖像。そして裏面に記された印章と刻銘。これらはすべて人を欺くものである」。 なんとも恐れ入った見解ではないか? 偽造貨幣が多いということなのだろうか。その上でこういう「一つ一つの鋳貨(注:古代の貨幣はすべて打刻によって造られた)は、それが発行された時期以外のことはさほど多くを語らない・・・鋳貨発行年代は、皇帝の肖像が誰のものかを識別することによっておおよその決定は可能だが、さらに正確には、その皇帝が保持していたコンスルなどの職務への言及から推定できる」(池口・井上訳)。池上氏や青柳氏の示したコインは、そういう障碍を乗り越えて確定されたのだろう。

 さらにグリーン氏は、鋳貨が遺失した年を算出するのは困難な仕事だという。しかしポンペイ出土のコインは紛失時がはっきりしているのだからそれは問題にならない。だがグリーン氏はコインの摩滅を問題にしている。もちろん流通期間が短いコインは摩滅が少ない。池上氏がいうように、九月末に発行されて一〇月二四日に埋没したのなら、その間は一ヶ月足らずである。私は写真を拡大したものをテレビやスクリーン上で見ただけだから確たることは言えないが、コインの左側の文字がぼやけてよく判からなかった。相当摩滅が進んでいるように見ええるのだが。 

(四)写筆のミス?

  ポンペイを滅ぼしたウェスウィウス山の噴火は、プリニウスの甥の小プリニウスのタキトゥス宛の書簡で示した日付、つまり八月二四日であると信じられてきた。そこには Nonum kal. Septembres と記してある。これは ante(前) diem(日) nonum(九番目の)Kalendas(月の最初の日)September(九月)の略である。つまり九月の最初の日の九日前ということである。九月最初の日、つまり九月一日を含めて九日前というと、それが八月二四日になる。

 青柳氏はこの説明をした後、September(九月)とNovember(一一月)とはよく似ているので、小プリニウスの『書簡』の筆写人が写し間違えたのではないかと推測される。それが妥当となると、噴火は一〇月二四日ということになるのである。池上彰氏は繰り返して一〇月二四日とおっしゃったが、そのような計算にもとづいている。青柳氏は二四日と日を特定することなく、確か一〇月中頃とおっしゃっている。ここでも池上氏とは少し違う。どうして違うのか解らない。

 (五)ビンテージワイン

 青柳氏はブドウ酒の保存に関して重要な意味合いを持たせている。ウェスウィウス噴火の遺跡には、ブドウ酒を保存する甕に蓋がしてあった。ブドウの収穫は九月末から一〇月である。だから夏の八月は未収穫であり、ブドウ酒はない。甕に蓋がしてあったということは、すでにブドウ酒が出来て甕に保存してあったからである。つまり、ブドウ酒ができ上がった秋に噴火したことになる。だから八月ではない。この説は、空になった甕には蓋をしないということを前提としている。

 ブドウ酒の保存に関してはプリニウスに詳しい。いつの時代でもブドウ酒の保存には気を配るものだ。『博物誌』から抜粋する。

 アルプス山脈のあたりでは木樽に詰めてタイルで囲み、寒い冬には火を焚いて寒気から守る。温和な地方では、甕に入れてすっかり地中に、あるいは甕の肩の部分まで埋める。大気から守るためである。あるところではさらにその上に屋根を作って寒さから守る。そしてまた、酒蔵の一つの面、少なくともその窓は北東、あるいはともかくも東に向いていなければならないという。甕と甕の間は一定の空間を置かなければならない。そうしないと汚れが移る。ブドウ酒というものは非常に感染しやすいものだから。

 甕の形も大切だ。太鼓腹や幅の広いものなどはあまりよくない。またその手入れも大切。シリウス星出現の直後、甕にピッチ(樹脂)を塗り、その後海水あるいは塩を入れた水で洗い、粗朶の灰か陶土を振りかける。それから、こすってきれいにし、没薬でくすべる。甕だけでなく酒蔵も時々そうしなければならない。

 弱いブドウ酒は土の中に埋めた甕に入れて保存する。しかし強いブドウ酒を入れた甕は空気に晒しておく。甕はいっぱいにすることは禁物。そしてブドウ酒の表面から上の部分には樹脂ブドウ酒か、煮たブドウ酒液の中で叩いて潰したサフランあるいはアイリスを混ぜた煮詰めブドウ液を塗っておかなくてはならない。甕の蓋は乳香あるいはブルッティア・ピッチを加えて、同じようにしておく。蓋をしておいて、甕は仲冬には、晴天の日ではなくては開けない。そして南風が吹いているときとか、満月のときなどには開けないものと決まっている。 

 プリニウスはなかなか力を入れて書いている。彼はさらに保存中のブドウ酒の扱い方や、醸造過程や調整法、ブドウ酒との混合物など、またピッチの多様な種類やその性質など、詳しく述べているがそれはいいだろう。残念ながらプリニウスはブドウ酒の平均的な保存年数については書いていない。しかし、二〇年目まではこれほど大きく価格の上昇を経験するものは他にないと述べている。だから、何年も保存するのは一般的だったのだろう。プリニウスは、特に話題となった長期保存について報告している。「ローマ建都六三三年(前一二一年)のことだが、太陽の力のお蔭で、天候が晴朗であった(人々はそれをブドウの「煮沸」と呼んでいる)。そしてその年のブドウ酒は二〇〇年近くももって今日まだ残っている」。だが成熟がかちすぎて、それをじかに飲むことはできない。しかし、それをほんの少し加えるだけで全ての他のブドウ酒の味を良くするので価格が高騰したという。だから、「わが国の酒蔵に貯えられている金額はそんなにも大きいのだ」という。

また彼は、ガリアやヒスパニア諸州では穀物を水に浸して酒を造るが、これらの諸属州はローマ人に、こういう酒は長年月保存できることを教えてくれたという。エジプトでも同じ方法での酒造法を考案した。ギリシアやローマではブドウ酒を水や湯で薄めて飲むが、これらの地域ではその酒を生のままがぶ飲みしているといっている。だが、これらの地域にもブドウ酒が大量に出荷されるようになっていた。属州とはいえローマ帝国の一部だから輸出ではなく移出だろう。「わが国の酒蔵に貯えられている金額はそんなにも大きい」とプリニウスが言うときの「金額」は、直接国庫に入るわけではなく、生産・運搬・販売などブドウ酒産業に携わる人々の収入になった。ブドウ酒の貯蔵をバカにしてはいけないのだ。 

ローマ文化美術館蔵の、ボスコレアレ(ポンペイ北数キロ)出土の大きな農家の復元模型の写真を見た。中庭に四〇~五〇個の大きな甕が整然と並んで肩の辺まで埋めている。いずれもしっかり蓋がしてある。発掘当時どのような形で発見されたかは知らない。ポンペイ市内でも二メートル以上灰や軽石が積もったのである。それをイタリアの研究者たちは復元した。みんなきっちり蓋が閉められている。

 ローマ軍は戦場に赴くときもブドウ酒持参だった、安酒だろうけども。もちろん十分な食糧も。腹が減ったら戦はできないのだ。日本帝国陸軍は、南方の国や島々にろくに食糧をもたせずに兵士を送り込んだ。兵士たちは餓死した。戦死者より多かったというではないか。カルタゴのハンニバル軍もブドウ酒持参だったらしい.アルプス越えのとき大きな岩が行く手を阻んだ。その岩を火で熱し、そこに酢を振りかけて岩を砕いたという話は広く知られている。アルプス山中に酢などあったのか? そこで、軍隊が運搬するブドウ酒が途中で酢になったともいわれている。

 (六)「オー・ソレ・ミオ」

 青柳氏は、発掘の結果、ポンペイ市民が暖房の用意をしていた証拠があるので、噴火は夏ではなく秋だとおっしゃっている。暖房の用意がどういうもので、どんな形で発掘されたのか筆者にはわからない。だから何とも言えないのだが、ローマ史家のピエール・グリマル氏はこういっている。「イタリアの気候では本当に寒い日はさほど多くないので、つねに暖房を準備しておく必要はない。温暖でない時期も中庭に火のついた火鉢をいくつか並べておくだけで、なんとか過ごすことができた。ずっとのち、奢侈が浸透し、快適さが追及されるようになってからも、イタリアの住宅では、浴室以外、ほとんど暖房されることはなかった」(『古代ローマの日常生活』)と。これはおそらくローマ市でのことを述べているのだろうが、南イタリアのカンパニア地方はもっと暖かい。それこそ「オー・ソレ・ミオ(私の太陽)」の世界である。先の『ローマ経済の考古学』では、気象学の専門家の、地球上の気温変動の研究結果が紹介されている。それによると、ローマ帝国の初期の頃の気温は、温暖化が叫ばれている今日と同じくらい高かったという。

 小プリニウスはタキトゥス宛ての手紙には次のように書いた。「叔父はミセヌムにおいて、そこの駐留艦隊を本人自ら指揮していました。八月二四日第七時頃、私の母が叔父の所に来て、大きさも形も、これまで見たことのない雲が見えると告げました。叔父は日光浴の後で、冷水浴をすませ、横になって昼食を摂り、勉強をしていました」(国原吉之助訳)。

 小プリニウスが叔父の食事を摂る姿を見るのはこれが最後になった。ここでもやっぱり「横になって」食事をしたのだ。おそらく傍らで書記が何かの書を朗読していたのだろう。小プリニウスの書簡で、当日の気象に関連して書いた箇所はここだけである。もし池上氏の言うように噴火が一〇月二四日だとすると、いくら温暖の地といってもこの時期に日光浴のあとに冷水浴をするだろうか? 青柳氏の、暖房の準備をしていたという説とどう折り合いをつけるのだろうか。

   (七)ポンペイ漫歩

  もう何年も前のこと、Aさんと二人でポンペイに遊ぶ機会があった。Aさんは初めてだったので、まず一般の観光コースを歩いた。いやあ、大変な賑わいであった。これでは遺跡が傷んでしまう・・・それは事実らしい。入り口は西だが、今日の最終目的地は闘技場、これは東の端にある。この賑わいを少しはずれるともう人影はまばらになり、もう少し行くと前にも後にも誰もいなくなった。と思ったら、どこからともなく一人の小父さんが寄ってきた。ラフな服装で、もじゃもじゃの灰色の髪の毛、痩せ型である。一般の観光客には見せない発掘物をみせてやろうという。管理人という感じではあった。後ろについていくと大きな倉庫風の建物である。中央に五段ほどの大きい棚が二列に並んでいる。太いパイプで組んである。左右正面には壁まで届く棚。主に土器である。大小のアンフォラ、壷、食器など。これは驚いた。彼は一所懸命に説明してくれる。ふと、隙をぬすんで棚の小土器をそっとポケットにという誘惑に一瞬駆られたが、それはできなかった。

 帰りかけに、その小父さんが私たちを見ながら「大學に行っている息子がいる。学費がかかって生活が苦しい」という。思わずAさんと顔を見合わせた。何枚かの紙幣を手渡すと、彼は恐縮したような顔をして受け取った。一個くらいポケットに頂いてもよかったのかなと、ふと思ったがそれは思っただけ。あれはチップなんだ。

 少し行くと、Aさんが催してきたというので辺りを観察した。向こうに小さな木立がある。そこへ行ってぐるりと見渡したが人影はない。私も自然が呼ぶ声にお相伴した。これでポンペイに足跡を残すと同時に○跡も残したわけだ。

 目的地の闘技場に着いた。観光客はまばらで一〇人足らず。思ったよりこじんまりして、ローマのコロセウムと違って親しみやすい。Aさんはアレーナに下りて左腕を前に構え、右手を何回か振り上げ振り下ろして剣闘士の真似をした。そこに茶と黒のまだらの大きめの犬が一匹現れAさんと向き合った。いよいよ始まるのかなと一瞬思ったが思い違い。犬君はちょっと立ち止まっただけで行ってしまった。私は観覧席に座って写真に撮った。

 そこを出ると隣に広い原っぱがあった。草が生えているだけである。ふと見ると向こうに囲まれた一郭があり、石造建造物らしきものがある。眺めていると後で声がした。また別の小父さんだ。今度は上下揃いのスーツ・ネクタイ姿である。ニコニコして何処から来たと聞く。そして門の鍵を開けてくれた。コの字型で真ん中にテーブルらしきものがある。「トリクリニウム」(臥台、横たわって食事をした)かと聞いたら、そうだ、四人がけだという。それにしても大きい。周りにレンガで包んだ太い柱も立っている。しっかりした泉水もあった。夏の食堂の家の庭ということだったが、それは違った。その後、彼は別の小屋に案内してくれた。細長い質素な小屋である。噴火当時の砂や礫だろうか、その上に一〇体ほどの石膏で固められた「遺体」が並んでおり、その頭の方には石組みの壁が続いていた。写真でよく見るあれだ。だが突然目の前に現れ驚いた。この小父さんは「私に娘がいて大学に・・・」などとは言わなかった。この小父さんに別れを告げ、私たちは胸いっぱいになってポンペイを後にした。

    (八)おお、それ見よ!

  わが家に帰ってきて、先にあげた『ローマ経済の考古学』という本をも一度眺めてみた。読んだがすっかり忘れていたか、いい加減にしか読んでいなかったことがわかった。この著の訳者木村凌二氏によると、著者のケヴィン・グリーは英国のニューカッスル大学の考古学講師、この書の出版は一九八六年である。邦訳は一九九九年。内容を少し長くなるが紹介する。

 あのネクタイを締めた小父さんが案内してくれた広場は、動物の骨が残されていたから以前は「フォルム・ポアリウム(こざっぱりとした牛の広場)と呼ばれていた。

だが、調査の結果、ここ一面にブドウの樹が整然と植えられていたことが判明した。そのほか、オリーヴやその他の果実樹もあった。先のトリクリニウム(臥台)は、闘技場を訪れた上流階級の食事客のためのものだったとのこと。そしてこの一角には、ブドウ搾取室と巨大な壷が地中に設置された酒蔵があった。ブドウの樹は焼失したが、火山灰・火山礫を取り除いた草原の下にブドウ樹の根の空洞が残っていた。考古学者ジャシェムスキは、空洞を発掘して空にした後、セメントを満たして針金で補強をした後、周りの土を除去して根の組織の形状を露出させた。この方法によって、大きな植物や木の種類を識別することができたという。ジャシェムスキは「考古学にとって幸いなことだが、ウェスウィウス火山は八月に噴火した。八月は、多くの植物が果実その他の収穫物をつける時期であって、それらの中にあるさまざまな形の種(種子、豆、種粒、仁、核など)が化石として残存し、植物の種類をいっそう正確に特定することを可能としている」と語っているという。

 私もあのとき、小さなシャベルを持っていき、穴を掘ってみればよかった。ひょっとしてコインが出てきたかもしれないではないか。だめだ、あのネクタイの小父さんが見ている。

 「おお、それ見よ」

 

 


チェンジできない神の国

2014-11-23 21:20:57 | 日記

  (一)ノーカット

 Thank you. God bless you. And God bless the United States of America( ありがとう。皆さんに神のご加護がありますように。そして、神のご加護がアメリカ合衆国にありますように)。

オバマ大統領の就任演説を締めくくった言葉である。もう六年近く前のこと。就任演説の全文を掲載すると謳いながらこの部分をカットした新聞があった(複数、後に追加して再掲載した新聞もあったが)。理由を聞くと、「常套句だから」とあいまいな返事が戻ってきたりした。筆者はこの「常套句」には慣れている。一番印象にあるのはブッシュ大統領が、イラクに出征する兵士を励ますために用いたことばである。インディアンとの戦いに最終的に勝利したとき、時の大統領がやはりこの言葉を使ったと聞いたことがあるが、これはちょっと記憶が薄れている。

 オバマ氏が「チェンジ」を実行したかったら、まず演説の形式からチェンジすべきだった。チェンジできない奥深い事情があったのだろうか。また、ノーカット版といいながらカットした新聞社にも深いふかーい事情があったのだろうか。全文でなかったことへの詫びや理由説明は一切なかった。

   (二)ニッポンも神の国

 さて日本のことである。2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会で、森嘉朗総理大臣が「日本の国はまさに天皇を中心としている神の国であることを国民の皆さんにしっかりと承知戴く」と発言し、森首相は撤回しなかったが烈しく批判され衆議院解散になった。「無党派層は寝ていてくれればいい」発言なども加わり、「神の国解散」と呼ばれた。

わが国の公教育の場では、宗教について学んでもいいが、宗教教育は禁じられ、また学校として生徒を宗教行事に参加させることも禁じられている。総理大臣が就任式でオバマ氏のような発言をすることは考えられない。オバマ氏は「私たちの国はキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、そして無宗教者からなる国家だ」と言っているが奇妙に限定的だ。だが彼は聖書に手を置いて宣誓した。演説の最期は「神のご加護がありますように」であったが、その神はキリスト教の神であることにまちがいはない。誰かが、オバマ大統領もだんだんイエス・キリストに似てきたと言っていた。イエスの顔を見たこともないくせによく言うよ。

自衛隊の海外派兵も考慮に入れねばならぬとき、時の首相は何と言って送り出すのだろう。「靖国が待っている」と励ますのだろうか。靖国の「英霊」は「ここで逢おうぜ、待っているぞ」というのだろうか。

 (三)研究費の半分は軍から・・中村修二氏語る

  ノーベル物理学賞受賞の中村修二氏が新聞のインタビューで次のように語った(「LED『さらに効率的に』、特許法『改正には猛反対』」『朝日』14.10.18)。

  ○米国の研究環境は?

「自由です。責任はもちろんついてきますけどね。非常に自由、何をやっても良いという感じです。工学部の教授だったら、みんなコンサルティングやベンチャーをやっている」

 ○ほかに日本へのメッセージは?

「日本はグローバリゼーションで失敗していますね。携帯電話も日本国内でガラパコス化している。太陽電池も国内だけです。言語の問題が大きい。第一言語を英語、第二言語を日本語にするぐらいの大改革をやらないといけない」

○  なぜ米国籍を取られたのですか?

「米国の大学教授の仕事は研究費を集めること。私のところは年間一億円くらいかかる。その研究費の半分は軍から来る。軍の研究費は機密だから米国人でないともらえない。米国で教授として生きるなら、国籍を得ないといけない」

  要するに、米国籍があれば軍から研究費が沢山支給される。学者は自由に何をやってもよい。ベンチャーなどをやって金儲けに励んでいる。米国化に遅れをとってはならない。日本も早く英語を国語にしなさい。

 日の丸をやめて星条旗にしなさい、アメリカの一つの州にしなさいとまでは言っていないが、かつてのハワイやフィリピンみたいになればいいとおっしゃっているように見受ける。

   (四)ノーベル経済学賞

 ジャーナリストの森 健氏の「ノーベル賞・日本の科学の底力」(毎日新聞)というのを読んだ。氏は、優秀な人材が集る地域は経済にも影響があり、経済が活性化するという米経済学者エンリコ・モレッティ氏の言葉を紹介している。そして、日本のノーベル賞の中で唯一経済学賞受賞者がいないのはなぜだろうと、疑問を投げかけている。

 経済学賞の二〇〇一年から一四年までの受賞者は総計で二二人、うちアメリカ一五人、イギリス人とイスラエル人が二名ずつ、圧倒的にアメリカ人だ。イギリスやイスラエルはアメリカの親戚だから併せると一九人、残り三人がそれ以外の国。これこそ森氏に分析してもらいたかった。日本人がいないということではなく、ほとんどアメリカ人だという認識を持つべきだ。そして、その背景に、ノーベル賞とはなにものか? という考察が必要だろう。

 大統領就任早々、オバマ氏はノーベル平和賞を受賞した。茶番ではないか? 佐藤栄作氏の受賞のときもカリカチュア化された。もちろん茶番ばかりではノーベル賞の権威に傷がつく。マララさんの受賞にはみんな喜んでいる。しかしその影に、批判する人もいることを見逃してもいけない。

 私はアメリカの経済学賞受者の理論や主張は知らない。しかし少し前、経済学者宇沢弘文氏を悼む記事を読んだ(「市場原理主義に怒り続けた巨人,宇沢弘文さん『心を持った経済学』とは」、『毎日』14.10.15)。氏は、フリードマンらが集う新古典学派の中心シカゴ大学の教授で「ノーベル経済学賞に最も近い日本人学者」と見なされたそうだが、ベトナム戦争を進めるアメリカに嫌気がさし帰国した。チリのクーデターでアジェンデ大統領が殺されピノチェットが大統領になったとき、シカゴのパーティで、フリードマンの流れを汲む市場原理主義者たちが一斉に拍手と歓声を上げた。それを聞いた宇沢氏は、一切シカゴ大学と縁を切ったそうである。ノーベル賞も新自由主義にどっぷり浸かっているのだろうか。

   (五)傭兵と核兵器

  ニューヨーク・タイムスによると、米国の核兵器を大量に増やしたのはアイゼンハワー大統領で、一万八千発以上。ブッシュ父大統領は九千発以上減らし、ブッシュ子大統領は五千発以上減らした。ノーベル賞を貰ったオバマ大統領は五百発の減少だそうだ。さらにオバマ政権の今後の方針としては、核兵器の近代化のために今後三十年間で一兆ドルを予定しているとも言われていると。

 このニュースは米国科学者連盟のリポートに基くものだというが、上っ面だけのもので、あまり信用しないほうがいいと思うが、それにしてもオバマ大統領も建国以来の流れからチェンジはできないのである。いや、その気もなく、むしろ「神の国」を堅持し強化する道を歩んでいる。イラク戦争やアフガン戦争で膨大な軍費をつかってきた。多大な兵士を失った。それでまた戦争をやっている。しかし、今までの戦術・戦略を繰り返すのは困難になってきている。そこで登場するのが傭兵と無人兵器である。

 今日戦争はその国の軍隊だけによって戦われるわけではない。最上敏樹氏の「総力戦-終わりと始まり」(『UP』505号)によると、今日では戦争は私的ビジネスとなって、多くの軍隊機能が民間軍事警備会社(PMSC)などと呼ばれる企業によって請け負われているという。ある調査によると、そういう企業体を抱える国が約百カ国、千社、人員は百万人、取引高は二千億ドルにのぼると。米国の場合、アフガニスタンでは、駐留米軍兵士は約十万人、契約兵士もほぼそれに近い数字だったという(2011

年)。つまり約半数が契約兵士ということ。今日ではその比率はもっと高まっていることだろう。ブッシュ政権がイラクに侵攻しようとしているとき、あるシンクタンクが世論調査を行った。それによると、賛成が六八%反対二五%だったが、それに「その結果米軍に数千人の犠牲者がでたとしても」という条件を加えると、賛成四三%反対四八%だったという(14,11,21,「毎日」コラム)。自国の兵士の犠牲がすくないとなれば、それだけ戦争が容易になる。国民も、戦争をしているという実感が薄くなる。だから傭兵を外注することは極めて有効な手段となる。もう一つが外国の兵力を使うことである。日本の自衛隊は訓練も行き届いているし装備も整っているので、これほど頼もしい友軍はない。沖縄の軍事基地も、テンから撤去する気はない。無人戦闘機や爆撃機、ロボット兵器も活躍している。

しかしそれだけではアメリカ合衆国の世界戦略の達成は困難である。新しい世界情勢・国内情勢にもとづく新しい戦略が必要になってくる。そしてアメリカはその戦略を着々と進めているように見える。そして最終的な兵器は核兵器である。性能よく小型化された核弾頭を仮想敵国の周辺に手際よく緻密に配置し、一挙に相手を倒す。それは狂気の仕業だと思うかも知れないが、人類は過去においてもしばしば狂気の業を為してきたのだ。

 

 

 


神の国アメリカ(再録)

2014-11-09 20:23:04 | 日記

                 

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2009年9月、「神の国アメリカ」と題し七回にわたって少しずつ投稿した。今回、2014年11月の合衆国の中間選挙の結果を眺めながら、この投稿をまとめてみた。若干の訂正をおこなったが、基本的にはそのままである。

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      神の国アメリカ

            目次 (一)はじめに

             (二)大統領就任式

             (三)「神から与えられた約束」

             (四)神によって特別に取り除けられた土地

             (五)建国の父たち

             (六)自由という偉大な贈り物

             (七)神の恵みのもとアメリカは世界の指導者になる    

    (一)はじめに

  2009年1月20日、アメリカではオバマ大統領の就任式が行われ200万人が参列したといわれる。

 その就任にあたってマイケル・ハーシュという人が米紙ニューズ・ウィーク上で、オバマ時代は主戦論や宗教的熱狂・反知性主義が敗北する時代だと断言し「オバマ氏は信仰を本来あるべき位置、つまり教会の信者席にとどめておく人物だ」と書いたらしい。それに対しワシントン・ポストのコラムニスト、マイケル・ガーソン氏は次のような反論を毎日新聞に寄せている(毎日新聞、09・2・5)。

 ガーソン氏は「アフリカ系米国人の信仰が教会の中にとどまっていたら、公民権運動は盛り上がっただろうか(キング牧師の公民権運動などが念頭にあったと思われる)」と問い、オバマ氏は選挙期間中「銃や信仰にしがみつく」人々を批判する立場に立ったが、このような思想的な偏狭さが、米国の団結が必要なときにオバマ氏の最大の障壁になるだろうという。しかしその後オバマ氏は選挙中にこのような主張を消し去ったとガーソンシ氏は評価し、この文の最後を「私も祈りをささげよう。神よ、オバマ大統領に祝福を。そして(宗教や信仰を軽視する)一部の支持者からも、オバマ氏を救いたまえ」と締めくくった。

 一読してわかるように、この文自体がすでに神がかっている。ここにはオバマ氏が置かれた立場が象徴的に現れている。オバマ氏個人がどうあれ、この合衆国屈指の極めて影響力のある新聞のコラムニストのような考え、それはオバマ氏のもとに圧力となって押し寄せているのだと思うが、その力を撥ね退けることは至難の業であろう。「チェンジ」は決して容易ではない。              

   (二)大統領就任式

  オバマ大統領は選挙中の自己の主張を引っ込めることによって、有力新聞のコラムニスト、マイケル・ガーソン氏のような人たちの支持をも取り付けられたように見える。

 就任式は、開会宣言に続いてキリスト教福音派の牧師による祈りが捧げられた。この牧師は、同性愛や妊娠中絶に厳しいオバマ氏の主張とかけ離れた「右派」の牧師であった。そして式典の最後は公民権運動を支えた黒人牧師の祈りで締めくくられたとのことである。

 オバマ氏の大統領就任の宣誓は、合衆国の伝統にならい聖書に左手を置いてなされた。しかもその聖書はかつてリンカーン大統領が用いたものであったと、日本のジャーナリズムは押しなべて好意的に伝えた。続いて行われた就任演説でオバマ氏は「神」や「聖書」について次のように言及した(1月22日朝日新聞朝刊の訳による。訳によっては意味が違ってくるものもある)。

 a「聖書の言葉を借りれば、子供じみたことはやめる時がきた」

 b「すべての人は平等かつ自由で幸福を最大限に追求する機会(毎日新聞の訳は価値)に値するという、神から与えられた約束だ」

 c「これが(注:米国人が引き受けねばならない自分自身や自国、世界に対する責務の事を指す)不確かな行き先をはっきりさせることを神が私たちに求めているという、私たちの自身の源でもある」

 d「地平線と神の恵みをしっかり見据えて自由という偉大な贈り物を受け継ぎ」

 e「ありがとう。皆さんに神のご加護がありますように。そして、神のご加護がアメリカ合衆国にありますように(Thank you. God bless you. And God bless the United States of America.)」

 以上の5箇所である。

 ここで彼が神というとき、それがキリスト教の神であることは自明である。彼はバイブルに手を置いた。だが彼は言う、「私たちの国は、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒,ヒンドゥー教徒、そして無宗教徒からなる国家だ」と。ならばなぜキリスト教のバイブルだけに誓ったのか? ちなみにフランス大統領は就任に当たってフランス憲法に誓い、その後別室(国会の図書館)でモンテーニュの『エセー』を片手に記念写真を撮るそうである。

 なぜモンテーニュなのか、いろんな答えがあるだろうが一例を挙げる。

  「かれ(モンテーニュ)はまず第一に宗教的な迷信や狂信を暴露し、観念的な偏見を論駁し、経験的知識に達する道を清めようとする批判的な機能を果たすことを使命としている。自然を人間の教師として賛美し、庶民の知恵を証明して、モンテーニュは新しい歴史的環境のなかで、16世紀前半の ヒューマニストたちの思想を受け継ぎ、またいっそう発展させたのである。モンテーニュの『随想録』は、ベーコンに始まり18世紀の啓蒙主義者たちに終わる先進的な西ヨーロッパ哲学思想のその後の発展に、極めていちじるしい感化を与えたのである」(ソビエト科学アカデミー『世界史・中世・6』)。

 ここでいう「西ヨーロッパ哲学思想」を合衆国は受け継がなかったらしい。

 いずれにせよ、宗教的儀式かと見紛うような就任式であった。その就任演説は何種類もの日本文に翻訳された。そのうち毎日新聞は日本語訳と英文で「全文」を、朝日新聞は日を改めて2種類の日本語訳と英文をともに「全文」として発表した。だが毎日の2種類と朝日のはじめに出た「全文」には、「Thank you. God bless you. And God bless the United States of America」に当たる箇所がなかった。筆者は、この文句は就任式での定型かと思っていたので、はじめは、オバマ大統領はここでまず「チェンジ」を実行したのかなと思ったほどである。だが朝日のもう一つの1日遅れの「全文」では、ちゃんとこの一句が入っていたので納得・・・つまり最初の三種類は「全文」ではなかったのである。朝日新聞社と毎日新聞社に電話でなぜそうなったのか問い合わせたが、明確な返事はもらえなかった。

   (三)「神から与えられた約束」

  「それは、すべての人は平等かつ自由で幸福を追求する機会に値するという、神から与えられた約束だ」とオバマ氏は言う(就任演説)。これが「アメリカ独立宣言」の一節からとられたことは明白である。そこにはすでに「造物主によって・・・天賦の権利が賦与され」とあった。フランスの「人および市民の権利宣言」には造物主とか神という文字はない。「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」とだけである。だがオバマ氏は、アメリカの偉大さは所与のものではない、米国の旅を担ってきたのはリスクを恐れぬ者、実行する者、生産者たちだという。「私たちのために、彼らはわずかな財産を荷物にまとめ、新しい生活を求めて海を越えてきた」 

 オバマ氏が言う「新しい生活を求めて海を越えてきた」というのはメイフラワー号でニューイングランドの海岸に到着した清教徒のピルグリム・ファーザーズのことだろう。今はプリマスと呼ばれるその地は合衆国の聖地となり、ニューイングランドはアメリカ建国の地とされている。 

 ピルグリム・ファーザーズたちは船上で誓約を交わしていた。「神とお互い同士がいる前で、厳粛に約束を取り交わし,われら自身を互いに結び合わせて政治体となし・・・それによって、植民地の一般的善にもっともふさわしく有益であると思われるような正義にかないかつ平等な法、布告、条令,国制、公的職務をおりにふれて実施し、制定し、起草し、それにしかるべき服従と従順を約束する」(メイフラワー誓約)と。

 このニューイングランドには五つの州ができた。そのうちの一つコネチカット州が制定した刑法(1650年)は聖書に想を求めて制定された。最初に「主にあらざる神を崇める者は死刑に処す」とあった。(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第1巻上)。続いて同じような規定が10か条ほど聖書から採られた。トクヴィルは言う「最初の人間の中に人類のすべてがあるのと同じように、アメリカの運命のすべては、新大陸の岸辺に到着した最初の清教徒の中にすでにあったのを見る思いがする」。そしてさらに言う、「広大無辺の大陸を彼らに委ねて、自由と平等を長期にわたって守る手段を提供したのは、実に神ご自身である」(同書)。

 ギリシアの哲学者プラトンは「はじまりは、それがそれ自身の原理を含むゆえに、やはり神であり、その神は,人びとのなかに住み、人びとの行為を鼓舞するかぎり、すべてのものを救う」と言い、ボリュビオス(ギリシアの歴史家、前201頃-120頃)は、「はじまりはただ全体の半分であるばかりではなく、終わりにまで到達しているものである」と述べていたそうである(上掲書)。プリグラム・ファーザーたちの神はやはり神であり、その約束は合衆国の終わりにまで到達するのだろうか。

   (四)神によって特別に取りのけられていた土地

  「私たちのために、彼らは汗を流して懸命に働き、西部を開拓した。むち打ちに耐え、硬い土地を耕した」(就任演説)と称え、これが今日も続けられている旅だとオバマ氏はいう。西部開拓についてはいろいろの見方があろう。目の当たりにその情景を見ていたトクヴィルはそれを見事に表現した。(井伊訳『アメリカの民主政治』)

 「北米は、土地の自然的な富を利用しようとも考えなかった放浪部族(第2部、第1部では狩猟民族)によってのみ住まわれていた。本当のことをいえば、まだ住民の来るのを待っていた空っぽの大陸、見捨てられた土地であった」「この北米は、原始時代の孤立した無知な、そして野蛮な人間にではなく、すでに自然の最も重要な秘密の鍵をにぎっていて、同胞たちと団結し、五千年の経験で訓育された人間に、提供されたのである。」「このときに、一千三百万の文明的ヨーロッパ人が、正確には資源も広さも分かっていなかった肥沃な荒野に静かに拡散していった。彼等の前方では三千~四千の兵士たちが、放浪的原住民族を追いのけていった。武装した人々の背後には、森を切り開く樵夫たちが進み、猛獣をさけ、河の水路を探し、荒野を横切っての文明の勝ち誇った前進を準備した」「この餌(地のこと)を追いかけるためにアメリカ人はインディアンの矢と荒野の病気をものともせず立ち向かってゆく」

 トクヴィルはさらにいう。移住民たちはより多くの利益を求めて、さらに西へ西へと歩くと。そして「今日では、この移住ということは彼らには一種の偶然な遊戯になっていて、その遊戯で勝ちがえられる限り、彼らは面白いと思っている」。そしてこう結ぶ、「人間の悪徳が、その美徳とほとんど同じく社会に有益である世界は、何と幸福な国であることよ」。悪徳と美徳が同様に有益であるとは! まことに奇妙な世界である。

 この西部開拓に当たっては、プリグラム・ファーザーたちが結んだ契約のことを思い起こさせる。次の文を参照してもらいたい。「西部へ幌馬車が出発するときには、出発前に憲法が全員一致で採択され、全員がこの憲法に署名するのがならわしであった。たとえば、1849年5月9日にゴールドラッシュに沸くカリフォルニアに向けて出発した一隊は、次のような文章で始まる憲法を採択している。『われら、グリーン・アンド・ジャージ・カリフォルニア移住団のメンバーは、われわれの人身と財産を有効に保護するため、かつ迅速で快適な旅行を確保する手段として、下記の憲法を規定し制定する』(阿部斉「アメリカ立憲主義の形成」『思想』No.761)。

 アメリカ大陸にやってきた西欧人たちは、インディアンを人間とは見ていなかったように思える。人間として見たとしても、土地は彼らのものではなく、白人のものであり、白人の到来を待っていた神が彼らに与えてくれたもの、つまり神の約束の地であった。イスラエルの地がユダヤ教徒にとって神の約束の地であるように。白人征服者たちの言い分は、インディアンは狩猟を行っているだけであって労働を行わない民族なので土地の所有権はない、そこは空白の土地である、富や財産は耕作するという労働の対価としてだけ与えられるものである、と。

 オバマ氏の演説には、先住民インディアンについての言及は一行もない。

     (五)建国の父たち

 「建国の年、もっとも寒い季節に、いてついた川の岸辺で消えそうなたき火をしながら、愛国者の小さな集団が身を寄せ合っていた」「建国の父たちは・・・法の支配と人権を保障する憲章を起草した。これは、何世代もが血を流す犠牲を払って発展(expand、毎日は「拡大」)してきた。この理想はいまも世界を照らしている(就任演説)。

 「建国の父たち」というのはおそらくワシントン、ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリン、ハミルトン、マディソンたちのことだろう。

 後に第三代大統領になったジェファーソンは、独立宣言やヴァージニア州憲法の起草者として知られており、歴代第一のアメリカ大統領との評価も高い.彼は奴隷解放論者であったともいわれるが、自分の奴隷を解放したのは最晩年になってからである。彼の農園には常時150ないし200人の奴隷がいた。ジェファーソンはその女奴隷に子どもを生ませたとも言われている。ジェファーソンの独立宣言は人権論者ジョン・ロックの影響を受けているが、このジョン・ロックは植民地に黒人を供給する王立アフリカ会社(1663年)の株主であった。ちなみに、オバマ氏が尊敬するリンカーン大統領は終生黒人に選挙権を与えることに反対であったといわれる。

 建国の功労者たちの主要な関心は国家の組織、権力の構成にあり、人種差別や奴隷制には無関心であった。フェデラリストとアンチフェデラリストの激しい抗争は権力のあり方をめぐって燃え上がったが、人権問題は顧みられなかった。

 合衆国の建国者たちが定めた憲法は次のような性質を含んでいた。最初に制定された合衆国憲法(1788年)は、その7か条すべてが国家の組織や機構についての規定であった。だがアンチ・フェレラリストの批判を受け、1791年、「権利章典」として修正第1条から第10条までが追加された。その第1条の冒頭は「連邦議会は、国教を樹立し、または宗教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない」であった。ちなみに第2条は「人民が武器を保有し、および携帯する権利は、これを侵してはならい」であった。

 フランス共和国憲法(第五共和国憲法)は第1条の冒頭で「フランスは、不可分の非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である」としている。

 合衆国憲法の「宗教上の自由な行為」の主体と範囲がどこまで許されるのかあいまいである。この信教に関する条項はその後も修正されず今日も効力を持つ。この規定によって国家主催の宗教行事も是認されると考えていいだろう。大統領就任式は一種の国家的宗教儀式であるともみなしうる。

 (六)自由という偉大な贈り物

  「地平線と神の恵みをしっかり見据えて、自由という偉大な贈り物を受け継ぎ、未来の世代にそれを確実に引き継いだ、と語られるようにしよう」(就任演説)。

 「(一)はじめに」で紹介したワシントン・ポスト紙のマイケル・ガーソン氏の発言のような思想はアメリカ史を通じて見ることができる。られる。トクヴィルはすでに「アメリカでは宗教こそ開明への導き手であり、神の法の遵守が人を自由の下に赴かせる」と語っていた(トクヴィル前掲書第1巻上)。

 「二十世紀哲学界の最高峰」と評されることもあるヤスパースはこう言っている。「信仰は何処からくるのでしょうか・・・人間の自由から出てくるのであります。自己の自由を本当に悟る人間が、同時に神を確認するのです。自由と神は不可分のものであります」(ヤスパース『哲学入門』草薙正夫訳、新潮文庫)。

 欧米では、ヤスパースのこのような思想が普遍化しているらしい。この場合信仰とはもちろんキリスト教の信仰である。つまり、キリスト教の信仰のないところ、その国には自由が生まれない、あるいは存在しないということなのだろうか。さらにまた、キリスト教徒は選ばれた民であるという思想も存在するらしい。『神の歴史』の著者カレン・アームストロングはいう、「西欧のキリスト教徒たちは特に、自らを神に選ばれた者たちだという彼らを喜ばせる信念を持ちやすかった。十二、十三世紀の十字軍は、自らをユダヤ教徒が見失ってしまった使命を担う『新しい選民』であると称し、ユダヤ教徒やムスリームにたいする『聖戦』を正当化しようとした。カルヴァン主義的『選びの神学』は、アメリカ人たちに自国が神の国であると信じるように仕向けるのに大いに役立った」(カレン・アームストロング『神の歴史』高尾利数訳、柏書房)。同じくアームストロングによると、アメリカ合衆国においては、全人口の99%が神を信じると主張しているそうである。

 また、フランスの思想家レジス・ドゥブレは次のように述べている。

 「デモクラシー<ここでいうデモクラシーとは、アメリカの新自由主義のようなものを指す>は、『われわれは神を信じる』がこころの底から湧き上がるスローガンなので(実際、ドル紙幣の一枚一枚にこの言葉が印刷されている)、個別主義の増殖を放置し、各コミュニケーションのエゴイズムの爆発的な増長を促してしまう。神のもとにあるひとつのネーションは、神がよきまとめ役を引き受けているので、ばらばらになってしまう心配はない。デモクラシーは心ゆくまで物質主義的で、徹底的に個人主義的になってもだいじょうぶだ。なぜなら、コミュニティ間のコンセンサスは、宗教がどれほど多様なものであっても、最終的にはアブラハム<ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの聖典の民の始祖のこと>のメッセージ(アメリカのホテルのどの部屋のナイト・テーブルにもこれが置かれている)によってしっかりと保障されているからである」(レジス・ドゥブレ他『思想としての共和国』みすず書房)。

 オバマ氏は「私たちの国はキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、そして無宗教徒からなる国家だ」といったが、ドゥブレによれば、神がまとめてくれるので「だいじょうぶ」なのである。神を政治の主題から外すことはできないのである。

   (七)神の恵みのもとアメリカは世界の指導者になる

  オバマ氏が大統領就任演説の原稿を自身で書いたか否かは知らない。彼がその全文を全く自分の言葉で語りえたかどうか、それは疑問である。選挙中の演説に比べても、内容・口調とも迫力に欠けていた。最初の方で率直に近年のアメリカ政治の失政を指摘したことは当然至極。一方で、自国の歴史の美化も多かった。だがベトナム戦争でのケサンの戦死者をも称えようとする姿勢はどこから出てくるのだろうか。ファシズムと共産主義を同列に扱う杜撰さ。イスラムの”指導者”たちに対するお説教じみた言説、「握りこぶしをほどくならば、我々も手を差し伸べる」というような世界の”指導者”ぶり。

 演説の結語はこうだった。「地平線と神の恵みをしっかり見据えて、自由という偉大な贈り物を受け継ぎ、未来の世代にそれを確実に引き継いだ、と語られるようにしよう」。自由は神の恵み、贈り物なのだ・・・そういう考えを自分たちが持つことは自由だろう。だが、そういう思想を他に押しつけることはやめにしてもらいたい。自由はかちとるものだという考えもある。神からのプレゼントだなどという安易な考えはごめんこうむる。辺見庸氏がかつてアメリカのアフガン攻撃を批判して言った言葉がある。「建国以来、200回以上もの対外出兵を繰り返し、原爆投下を含む、ほとんどの戦闘行為に国家的反省というものをしたことのないこの戦争超大国に、世界の裁定権を、こうまでゆだねていいものだろうか」。オバマ大統領は原爆投下にいくらかの反省を示したようにも見える。だが基本的には辺見氏のいうとおりである。オバマ氏はアフガン攻撃を止めるどころか更に規模を拡大し、民主党新政権誕生に配慮は示しながらも「同盟国」日本にも協力を強制しようとする姿勢に変わりはない。

 アメリカ西海岸の町サンディエゴに「創造と地球史博物館」があり、全地球の歴史を一万年足らずとして展示している。館長は「生物は進化で生まれたのか、神が造ったのか、誰も見たものはいない。私たちは創造論が正しいと思って、科学として研究している」と言ったという。先に紹介したアームストロロングの99%という説が正しいかどうかはわからないが、高等教育を受けた人びとでも多くがそのように信じているという。こういうアメリカの実情はしばしば伝わってくる。

 元コロンビア大学教授のエルヴィン・シャルガフ氏は大なる皮肉屋である。アメリカ大統領(多分レーガン大統領)が「私たちアメリカ人は、この世の罪と悪に立ち向かうよう聖書と主イエスに命じられている」と述べたという。そこでシャルガフ氏は自分の欽定訳聖書を調べてみたが、その聖書の中にはアメリカに関することは何も書かれていなかったという(シャルガフ『重大な疑問』)。おそらくブッシュ氏もそれに輪をかけたようなことを言っていたのだろう。オバマ氏が左手を置いたリンカーン愛用の聖書にもおそらくそんなことは書いてなかっただろうし、オバマ氏はそれほど無知厚顔(厚顔無恥の変形)ではないと思う。シャルガフ氏は、アメリカはマニ教的二元論の国だという。また、カルヴァン主義の遺産がそれと何らかの関係があるかもしれないという。ピューリタンはカルヴァン主義と密接な関係がある。善と悪、正義の味方とならず者国家。

 オバマ大統領は保守主義者のみならず民主党内からも批判・非難を浴び、支持率が低下しつつあるという。「はじめに」で述べたように、彼は「銃や信仰にしがみつく」人たちへの批判を引っ込めた。だが前途は容易ではない。

(オバマ大統領の就任式と就任演説を巡ってつたない感想を述べた。ひとまずこの項を終わりにしたい)