静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

手づかみの味

2010-06-30 13:06:58 | 日記
 ①ソクラテスの瞑想

 プラトンの『饗宴』はとても有名な本なので、それに触れるのは気がひけるが、まあちょっと。
 ソクラテスとアリストデモスは連れ立ってアガトオンの家での宴会に出かける。が、隣家の前まで来るとソクラテスは突然立ち止まってしまい、アリストデモスに先に行くようにいう。ソクラテスがなかなか来ないのでアガトオンが奴僕を迎えにやらせるが、いくら呼んでもいらっしゃらないという。するとアリストデモスがいう。ソクラテスには時々このようにどこででも立ち止まる癖がある、邪魔をしないほうがいいと。

 
 実際、ソクラテスにはしばしばそういうことがあったらしい。その理由にはいろいろ言われている。私はこう思う。ソクラテスは天才だ。天才は宇宙からインスピレーションをうける、別の表現をすれば天から啓示を受ける。それを受けるために立ち止まる・・・。まことにお粗末な私見である。
 実は私も若い頃、突然頭の中で音楽が鳴り出したことがある。ほんの二三回だけ、それっきりである。モーツアルトは天才である。しょっちゅう天の啓示を受けていたのだろうな・・・。

 ギリシアの宴会は変わっている。食事が終わってから酒になる。ローマでもそうだったらしい。ソクラテスは宴会の食事の半ばごろになってやっとやってきた。アガトオンは食卓の端、というより臥台の端のほうに一人離れて横たわっていたが、ソクラテスに、どうぞ私の傍に座ってください、あなたの身に触れて、あなたが隣家の前庭での瞑想で得た結果のわけまえに預かりたい、という。

 言われるとおりソクラテスはアガトオン(著名な悲劇作家)の隣に横たわるが、「互いに体が触れることによって、知恵を充満したものから空虚なものに移すことができるようだったら、君の傍に座る特権を尊重しないではいられない。私の知恵は下等な、あやふやな、夢のようなものだ、だが君の知恵は華々しい」(生田春月訳参照)などと、いやみとも聞こえることを言う。だけど、いや待て、実際肌を通じて知恵が伝道することもあるかもしれないではないか!なんでも簡単に否定してはいけない。

 横たわって食べるのだからナイフやフォークを使うはずもない。手づかみである。あらかじめそのように調理されているか、食卓の傍で召使(奴隷)が食べやすいようにさばいてくれる。指を洗うための水、ナフキンなども用意されている。

 ②ナイフとフォーク

 ナイフとフォークがいつごろヨーロッパに普及したかは知らない。一説によると、フォークは11世紀のベネツィアの支配者の妻が初めて使ったとか。料理研究家の辻静雄氏は、フォークを使い出したのはコンスタンチノーブルあたりからだろうという(辻静雄『料理に「究極」なし』)。だがヨハン・ベックマンは「今でもトルコ人は誰もが指を使っている」(『西洋事物起源』)という。18世紀の話である。
 ベックマンはこうもいっている。「現在フォークは、文明国では食事のときになくてはならぬものであり、フォークを使わずに食べるということは嫌悪感を抱かせる」。 
 
 民俗学者の梅棹忠夫氏は、フィレンツェのカトリーヌ・ド・メディシスがパリのアンリ二世(後の)に嫁ぐとき(1533年)、一式のナイフとフォークを持参したと述べている。また梅棹氏は辻氏との対談で、カトリーヌ・ド・メディシス輿入れのときのフォーク持参に関して、「フランス人はそれまで手づかみで食べていた・・・フランス人というのはその頃はまだ無知蒙昧で・・・」と話している(辻、上掲書)。

 本多勝一氏は違ったことを言う。「この熊手みたいなものは、ハシ(箸)の文化が古い国では必要のない道具だった。ヨーロッパのように、ごく最近まで手づかみで食っていた地方で、ついこの100年か200年前になって拡がったものにすぎない。16世紀に来日したポルトガル人・ルイス=フロイスは『われわれはすべてのものを手を使って食べる。日本人は男も女も、子供のときから二本の棒を使って食べる』と書いている」(本多勝一『実践・日本語の作文技術』)。

 本多勝一氏以外は、ナイフとフォークは文明の証であり、手づかみは野蛮の証拠だというのだろうか。インド人は今でもカレーライスを指でつまんでたべる。野蛮! 東アジア、ベトナム・中国・韓国・朝鮮・日本などでは箸を使う。これも文明以下。ソクラテス、プラトン、アガトオン・・・手づかみでたべるだけでなく、寝転んで食べている!みんな野蛮! キケロもタキトゥスもマルクス・アウレリウスもみんな未開人!

 江上トミさんという人の話。
 「私は料理を学ぶために、各地に出かけたのですから、指で食べることまで教えを受けました。たびたびこれをくり返しているうちに、指先が唇にふれて味わう感覚のよさをつくづくと知りました。これらの国の人びと(筆者注:インド・東南アジアの)が昔ながらの風習を、いまだに捨てきれない意味がよくわかりました。それとともに、金属製のもので食べる味のまずさ、その冷たい感触が、料理の味をもの寂しくすることに気づきました。こうして物を味わう点から見ると、指先が第一・・・これは口で感じる最初の一瞬にかかる、味の局地といえるでしょう」(江上トミ『世界の料理』)。

 私は学生時代友人に誘われて初めて握りずしを食べにいった。そのとき習った食べ方。三本の指でつまみ、ひっくり返してネタに少量の醤油をつけて食べる・・・。このごろは進化して、回転寿司屋さんにいくとみんな箸で食べている・・・まだ文明の域に達していない。ナイフと熊手みたいなものを使って食べなさい!

③お好きなように

 バートランド・ラッセルは古代ギリシアの悪口を言っているが、本当は敬愛の念を抱いていたし、西洋文明を鋭く批判しながらもそれに誇りをもっていたに違いない。
 古代ギリシアやローマ人が素手で食べようが、ヨーロッパ人が熊手様のもので食べようがそれはその民族・国民の勝手だ。そこに優劣・野蛮文明の証を見ようとする態度にこそ文明の明を欠くものだというべきだ。
 その国の国民が王政をとろうが立憲君主制をとろうが、共和制をとろうが、民主主義をとろうが、それはその国民の勝手だ、他人に迷惑をかけなければそれでいいじゃないか、どうぞお好きなように!そうしたければ相互批判は活発に行うがいい。

 「ドミノ理論」によって、共産主義になるかもと口実をつけて、他国を侵略した国があった。共産主義国家などこの地球上に一度も成立したことはないと私は思うのだが。
 今度は別の理由でベトナム戦争よりも長い戦争を仕掛けている。現地司令官が更迭されるなど大変だ。都合よく「北朝鮮の軍艦攻撃」や「ロシアのスパイ事件」などが起きてくれる。

 フランスの思想家レジス・ドゥブレはこのようなことをいった。「共和国(フランス)の学校は知性豊かな失業者を生み出す」「デモクラシー(アメリカ、日本も含む)の学校は競争力のある馬鹿者を育成している」と。悲しいね。

 ついでに言うと、「共産」の語が日本生まれなのに対し、「共和」は中国産である。『史記』によると紀元前841年、西周で、幼い太子に代わって周公と召公が共和して政治を行い、共和と号したことによるという。フランスの「共和」は「レス・プブリカ」からきていることは言うまでもない。古代ローマで「公のこと」、つまりローマの共同社会のことである。ローマ市民権を持つ人たちによって構成されるというのが建前であった。
  (支離滅裂なことを書いてしまった<いつものことだが>この辺で終わりにしよう)

 

ギリシアの警察

2010-06-26 10:38:10 | 日記
 けふのことば 
 「なるほどギリシア文明には、現在の私たちの文明より本当にまさっている点が一つあった。それは警察の無能力ということである」
       (B・ラッセル「西欧文明」『怠惰への賛歌』堀・柿村訳、角川文庫)

 ソクラテスは国法を犯したという廉で死刑を宣告された。その理由には多くの説があるが私にはよく分からない。戦前の小学校の教科書でも、ソクラテスは世界四聖人の一人として教えられ、悪法であっても法は法だから従わなければならないという教訓話だったように思うが、確信はない。 弟子たちはソクラテスに国外への脱出をすすめる。しかしソクラテスはその進言に従わず毒杯を仰いだ。

 ラッセルの発言の出所は私は知らない。ギリシアの警察はほんとうに無能だったのか、今日の西欧の警察は果たして有能なのか?ラッセルの言うとおりなら、ソクラテスがアテナイから脱出するのも容易だっただろう。だが私は、無能というより怠惰だったのではないかと思ったりする。ラッセルは「怠惰への賛歌」を書いているではないか。

 現在のギリシアが財政難に陥り、EUをはじめ世界に衝撃を与えている。折から参議院選挙が行われている日本では総理大臣が、財政破綻すると「ギリシアみたいになっちゃうよ」と、消費税の増税主張の根拠に使っているとか。
 
 そのギリシアでは、公務員の削減や賃下げに抗議するデモが頻発したが、警察は深追いはしていないという報道を読んだ。これは警察の無能か?怠惰か? いや、正常な良識ある対応か?ヨーロッパではデモは日常的な行動である。パリでは数十万の学生を中心とするデモが、政府提案を撤回させるなどということは珍しいことではない。 

 その点、日本の学生は借りてきた猫のようにおとなしい。もっとも私は猫を借りたことがないので、その真実は分からない。わが国でも学生デモが盛んな時代があった。だが、かれらは警察・政府に泳がされているのだという見方もあった。浅間山荘事件あたりを境に学生運動はほぼ消滅し、それ以後「借りてきた猫」みたいになった。

 ところでラッセルがこのように書いたのは次のような文脈の中でである。ギリシアではいろいろな理由で一流の人たちの相当数が追放、投獄、死刑の憂き目を見た。迫害の理由の一つは民衆の嫉妬である。だが警察の無能によってかなりの人たちが逃げおおせた。よかった、ということになる。 

 それ以後の西欧の歴史は違うとラッセル言いたいのだ。彼は、ヨーロッパがアジアと違うのは、他を迫害する衝動であるという。日本や中国では、仏教は神道や儒教と共存し、回教世界でもキリスト教やユダヤ人は、貢物を払えば干渉されなかった。だが、キリスト教団を見ると、正統派信仰から少しでもそれると、普通死刑が下されるのだという。

 日本では昔から八百万(やおよろず)の神という。たくさんのという意。自分の好きな神や仏を拝めばいい・・・川崎大師だろうが成田山新勝寺だろうが明治神宮だろうが自由自在。梵天、帝釈天、天満天神、魔利支尊天、愛宕大権現いずれだろうとご利益があればそれでいい。数多く祈願すればそれだけ当たる確率が高い、宝くじみたいなものだ。

 古代ギリシアでもローマでも神は豊富である。哲学者キケロはローマには「人間の言語の数だけ神々の名がある」といったとか。プリニウスはローマの人口と同じくらいいるといった。すると100万くらいか。ユダヤ教では神はただ一人である。ローマ世界では異端。だがローマ政権はこのユダヤ教を特別あつかいにして優遇措置をとった。だがユダヤ教内部で教団間の激しい闘争があり、遂にはローマに弓を引く事態になった。

 『博物誌』は世俗社会の歴史書でないせいもあってか、その辺の経過は書かれていない。 ユダヤ人についてラッセルはこういっている。「ユダヤ人は、当初、唯一の宗教だけが真理の資格があるという考えをうちたてたのであるが、しかし全世界をその宗教に改宗させるつもりはなかったので、他のユダヤ人を迫害するだけであった」(前掲書)。

 さらに彼はいう「キリスト教徒は、ユダヤ人の特別な啓示に対する信仰を守り続けるとともに、それにローマ人の世界支配欲とギリシア人の精緻な形而上学を愛好する心とをつけ加えた。この三つは一緒に組み合わさったため、これまでの世界に知られているものの中で最も激しく他を迫害する宗教が生まれた」(前掲書)。

 彼は、人々は魔法の出来事を信じないかどで人々を死刑に処するような16世紀のヨーロッパに住みたいと思うだろうか、昔のニューイングランド(ブログ「神の国アメリカ・3」参照・信仰のない人を死刑にした)に辛抱できるだろうか、ピザロがインカを取り扱ったやり方を賛美できるだろうか、10万の魔女が一世紀の間に焼き殺されたルネサンス時代のドイツの生活を楽しむことができるだろうか・・・などと問いかける。 

 ヨーロッパはいかに知的であっても、1848年と1914年の間の短い時期を除いて、いつもどちらかといえば恐ろしいものではなかったか。そして、今や不幸にして、ヨーロッパ人はこのタイプに戻りつつある・・・。 

 ラッセルのいう1848年とはヨーロッパの革命の年であり「共産党宣言」が出た年でもある。1914年は第一次世界大戦が始まった年。一世紀に満たないこの期間を、彼はまともなヨーロッパであったと考えた。彼がこの文を書いてすでに70年は経つだろう。ふたたびヨーロッパは恐ろしいものになってきたのだろうか。レーニンは二十世紀を戦争と革命の世紀と表現したが、ファシズムとスターリン主義が猛威を振るった時代でもあった。 

 そして日本でいえばこの間は、ペリーの来航に始まる開国と幕府の滅亡で「徳川の平和」は崩壊し、新しい宗教「天皇主義」のもと、かつてヨーロッパが犯してきた「恐ろしい時代」に突入していき、そのまま破滅へと突き進む。

 バートランド・ラッセルはプラトンを語った箇所でこう述べている。
 プラトンは新しい神話を二世代以降の人々になら信じさせることができるといったが、その意見は正しい。1868年(明治元年)以降の日本人たちは「ミカド」が太陽女神の後裔であり、また日本が世界のいずれよりも昔に建国されたのだ、と教えこまれてきた。大学の教授がその学問的著作においてさえ、このような教条に疑いを投げかけると、いかなる者もその非日本的活動のゆえに職を解かれるのである(『西洋哲学史』1、一井三郎訳参照)。 
 

 日本の警察は無能でも怠惰でもない。治安警察法、治安維持法のもと、多数の「臣民」を拷問、投獄、獄死させ、そして多喜二のように虐殺し、国民を恐怖の中に落とし入れ戦争反対の声を圧殺した。1943年、当時13歳の石崎さんという少女は与謝野晶子の『乱れ髪』を読んだというだけで特攻と憲兵から死ぬほどの拷問を受けた。日本の特高警察の有能ぶりを遺憾なく発揮した事例である。(ラッセルの同書は1946年に上梓されたものだが、まだまだ認識が浅い。仕方ない事だが)。
 
 挙句の果て、幾百万の人々を戦禍にさらし、異国の草ばねのもとに白骨化させ、大海の荒波のモズクと化せしめた。沖縄で25万人の生命を奪い、広島・長崎で、また東京大空襲を始め全国の都市で国民の生命と財産を奪った。そしてこの国の権力者は、今でもアジア大陸で犯した罪を認めようとしない。口先だけでもぐもぐ言っている人はいるが。

エッセネ派の人々とプリニウス(つづき)

2010-06-23 14:49:45 | 日記


 ④クムランの洞窟 
 
 プリニウスの上記の文章は、ある意味では不思議である。彼がティトゥスの遠征軍に加わってユダヤに行ったとするなら、あまりにもあいまいで無責任な叙述である。しかも簡単すぎる。プリニウスがエッセネ族と呼んでいるのは、ユダヤ教の一宗派であるエッセネ派であることは通説になっている。

 このエッセネ派については、先にあげたようにヨセフスとフィロンが書いている。ヨセフスは若い頃エッセネ派に見習いとして入っていたことがあるらしく、詳しく精確である。ヨセフスはウェスパシアヌスに降伏した後、ローマ軍のエルサレム攻撃のときに司令官ティトゥスに助言をしたり、エルサレム陥落の現場にも立ち会っている。だからプリニウスはヨセフスと顔を合わせていたかも知れないのである。

 また最初にアラム語で書かれたヨセフスの『ユダヤ戦記』が、ギリシア語で出版されたのが79年から81年の間であるから、プリニウスの眼に触れることはなかった。もっとも、プリニウスが仮に『ユダヤ戦記』を読んだとしてもそれを典拠としたかどうかはわからない。プリニウスは自分と同時代の著作者の作品はほとんど用いていないし、当時の傾向として、ローの著作者たちは一般的にユダヤ人の著作をそんなに評価していなかったらしいから。 

 ところでプリニウスは、そのエッセネ族の住むところを比較的正確に特定している。それは、死海の西岸で、岸辺から少し離れたところにある。その箇所から南へ行けば、土地が肥沃でエルサレムに次いで椰子が豊かに茂っていたが、今はエルサレム同様死灰の山に過ぎないエンディゲの町、さらに南下すれば岩の上の城砦マサダが死海から遠くないところにあるという。 

 ⑤完全な共同生活
 
 第二次大戦後、国連での、アメリカ合衆国主導のパレスチナ分割案の採択によって、この地でのユダヤ人による建国が承認されたのが1947年11月である。いわゆる第一次中東戦争が始まったのはこの直後であるが、その前からすでにユダヤ人とパレスチナ人の対立が激化していた。そういう情勢の中で、その年の春、死海西岸の断崖にある洞窟で、ベドウィン族の少年が偶然亜麻布でくるんだ巻物を発見した。この洞窟はそのあたりの地名クムランから、クムラン洞窟と呼ばれている。それ以後もこの近くの洞窟から写本が続々と発見された。 

 一括して「死海文書」と呼ばれるようになったこれらの大量の写本は、聖書の各書、外典書、宗団の文書などであることが分かり、世界に大きな衝撃を与えた。聖書やキリスト教の由来について大論争を巻き起こすことになる。

 そしてさらに、1951年に、このクムラン洞窟のある断崖と死海の間の海岸で、埋もれていた古い石造建造物や墓地などが発掘されたのである。調査の結果、石造建造物のほうは、これこそエッセネ派の人々、プリニウスのいうエッセネ族の住居であったことが判明した。プリニウスは、「金銭を持たず、ただ椰子のみを友として」と書いていた。これはなつめ椰子だと思う。なつめ椰子は、昔から砂漠地帯の重要な栽培植物である。だが、この遺跡が発掘された時代にはもう椰子などは生えていなかった。そして数百枚の貨幣が発見された。

 このように修道僧のような暮らしをしていたエッセネ派の人たちは、一切の私有財産・私物もない完全な共同生活をしていたので、内部的には貨幣は必要なかったのだが、宗団として外部と折衝するためには貨幣も必要だったのだろう。発見された貨幣と周囲の状況によって、この建物は、紀元68に戦火に見舞われたことが推測されている。つまり、エッセネ派の人々はこの年、ローマ軍と戦い敗れて消息を絶ったと考えられる。この年、ガラリアに進軍したウェスパシアヌスが死海を訪れたという記録がある。したがってクムランにも来ている可能性がある。

 ティトゥスやプリニウスがこの地を訪れたかかどうか、それは分からない。
 プリニウスが、岩の上に城砦があるとしたマサダは、66年に駐留ローマ軍を撃滅してユダヤ人約千人が立てこもり、エルサレム陥落後も三年間ローマ軍に激しく抵抗し、ようやく73年に滅ぼされたところである。だがプリニウスは城砦があると書いているだけである。 
 また、エッセネ派の集団居住地は68年には破壊されたようだがこのことにも一切触れていない。

 ⑥幻想の民

 このようなわけで、プリニウスがユダヤやエッセネ派についてどれほどの知識があったのかはよく分からない。だが彼はしばしば幻想的な話をする。
 たとえば、アフリカの内陸部に住む人類の文明の水準以下に落ち込んでしまっているアトランテス族の話、言語も持たない穴居族の話など・・・これらはみな他人から聞いたいい加減な話だ。

 黒海の北の極北に住むヒュペルボレア人といわれる人々のことも書いている。彼らは不和とか悲しみを知らず非常に長寿だ。生に飽きると最後のご馳走を食べ、高い岩から飛び下りる。これは古くからギリシアに伝わる伝説であり、プリニウスはその出典も示している。

 彼はまた、北ドイツの北海に面した低地でささやかな漁業に従事するカウキ族というゲルマン人の生活を描いた。かれらはローマ帝国の支配に屈することを潔しとせず、貧しくても誇り高い原始共同体の生活を送っている。これはプリニウス直接の見聞だ。

 エッセネ派についてのプリニウスの記述が相当あいまいだということは前にも述べた。日々の生活に疲れた人たち、運命にもてあそばされた人たちがやってきて、そのため何千年という年月にもわたって住民が補充されてきたなど誰が信じよう。プリニウス自身が、「こんなことを言っても信じがたいことだが」と書いていたように、本当は彼自身が信じてはいなかったに違いない。
 ヒュペルボレイア人のことにしても、もちろん単なる伝説だということは分かっていた。カウキ族のことだけは精確である。

 常にローマの奢侈を批判してやまなかったプリニウス自身は、ローマ帝国の高官として望めばどんな贅沢な生活も送れただろうに、毎日精励の日々に明け暮れた。睡眠時間を削り、食事中も、入浴中も読書や執筆に励んだと伝えられる。架空の話にせよ、現実の話にせよ、『博物誌』にしばしば現れるこのような叙述は、後世のヨーロッパ人に色々な感慨を与えた。空想的社会主義の思想を生み出した一つの母体であったともいえよう。  

エッセネ派の人々とプリニウス

2010-06-19 18:35:57 | 日記
  
 
 ①はじめに

 西欧で生まれ、さらに日本においては今日「共産主義」と訳されているcommunismの思想が、プラトンやエッセネ派や空想的社会主義者の人たちの思想を源流としていることは前回のブログ(『日本輸出の「共産主義」)で触れた。このうちプラトンや空想的社会主義者については比較的よく知られているが、エッセネ派についてはそれほどではない。
 エッセネ派に関してはユダヤの歴史家ヨセフス(23-79)、同じくユダヤ人哲学者フィロン(前30頃ー後45頃)、そしてプリニウス(23<24>-79)が記録を残している。それぞれ有益な資料であるがプリニウスの『博物誌』が広く普及したので、プリニウスを通して知られたことが多い。後で触れるが、ギボンなどもそうであった。
 今日、エッセネについては遺跡も発掘され、数多くの研究書なども世に出ている。ここで私がエッセネ派について何かを論ずるなどということはできない。ただ、プリニウスの叙述に関連して思うことを少し述べたい。

 ②ユダヤ戦争とプリニウス

 ネロの統治の晩年には、国費の乱費による財政困難やその他の内政危機に直面した。同時に外政でも各地での反乱に遭遇する。なかでも66年に始まったユダヤ人の反乱はパクス・ロマーナに対する最大の挑戦となった。ウェスパシアヌスは長子ティトゥスとともに67年大軍を率いてガリラヤに進軍してその地の反乱を鎮圧、69年に彼が帝位についてからはティトゥスが代わってローマ軍の指揮をとり、70年にはエルサレムを包囲し、半年の攻防戦のすえエルサレムを攻略した。ローマ軍はユダヤのシンボル七枝の燭台とラッパ、そのほかの宝物などを奪って凱旋した。ここにユダヤ人は国土を失って四散し、ローマの平和は確固としたものになった。

 このいわゆるユダヤ戦争にプリニウスがかかわっていたと思われる節がある。
 フェニキアのアラドス(現、レバノンのルアド、トリポリの北にある海岸の町)で、プリニウスの経歴を書いたと思われるギリシア語の碑文が発見され、ドイツの歴史学者モムゼンが、欠けた箇所を補って解読した。そのなかに、ユダヤにおいて、プリニウスがアレクサンデルの副官であったと読める一節がある。

 69・70年、イスラエル攻略のローマ軍は先に述べたように後の皇帝ティトゥスに指揮されていたが、その軍団にティベリウス・ユリウス・アレクサンデルという指揮官がおり、モムゼンの解読によると、プリニウスはその副官であったと説明される。
 このアレクサンデルは、ユダヤの名門の出であり、先ほど述べたアレクサンドレイアのユダヤ人哲学者フィロンの甥で、ユダヤの皇帝代官、エジプトの総督を勤めた人物である。つまり、ローマの高官であったこの人物は、ユダヤ人でありながら、ローマのユダヤ反乱鎮圧軍の指揮官を勤めたのである。
 彼はウェスパシアヌス帝の擁立にも功績があったといわれる。このアラドスの碑文によれば、プリニウスはこのアレクサンデルの副官時代にティトゥスと知りあいテント仲間(戦友)になったという解釈が生まれてくるのである。

このモムゼンの解釈については異論もあり、プリニウスがアレクサンデルの副官であったという説も確実とはいえない。しかし、有力な説ではある。プリニウス自身は、ティトゥスと戦場で共同生活を送り、戦友であったことを明確に述べている。しかし、どこの戦場であったかは述べていない。彼は若い頃から長いあいだゲルマニアで軍務についていた。一方ティトゥスは57・58年頃ゲルマニアで指揮をしているのでこの時期にプリニウスと戦友になったのかもしれない。したがって、ユダヤ戦争で、あるいはゲルマニアで、あるいその両方でとも考えられる。

 『博物誌』の中で、ユダヤに関する直接的経験に基づくと思われるような記述が多いことも、彼がユダヤ遠征に加わったことの裏づけとされている。だがプリニウスは、ユダヤ教それ自体やキリスト教についてはまったく触れていない。だがエッセネ派については以下のような叙述がある。それは地理に関する編のなかで、あっさりとさりげなく書かれている。

 ③椰子のみを友とするエッセネ人

 彼は死海についてヨルダン川の水源パニアスの泉から書き始める。この川は心地よく流れ、流域の住民にとって大切な川だが、このとても称揚さえた水も、最後には死海の有毒な水に混入して姿を消す。その途中でゲネサレス海(ガリラヤ湖)と呼ばれる湖を作っているが、その岸辺には温泉のあるチベリアスなどの気持ちのいい都市がある。

 プリニウスは死海についてこう語る。死海の唯一の産物は瀝青で、そのギリシア語が、この湖にアスファルティテスというギリシア名を与えている。水中ではウシやラクダなどの動物も沈まない。沿岸にカリエロという医療価値のある温泉がある、などなど。
 そして死海の西側の沿岸の「毒気地帯」の外部に孤独な種族のエッセネ族がいるという。この「毒気地帯」な何を意味するかは、今日でも議論がある。これは全世界の他のすべての種族以上に珍しい種族だ。

 プリニウスはエッセネ派とはいわない。種族の一種とみなしている。ユダヤ民族の一員だとも、ユダヤ教に関係しているとも言っていない。
 「彼らは婦人というものをもたず、すべての性欲を絶ち、金銭を持たず、ただ椰子の木のみを友としている」。(注:原文は socia palmarum。 palma を棕櫚と訳すことも多いが、ここは椰子、しかもなつめ椰子のことだろう。socia は仲間(女)あるいは女友達)。
 「日々、人生に疲れ、運命の波によってそこに追いやられた人々が多数、彼らの生き方を採用するために加わることによって補充され、同じ数を保っている。かくして何千年という年月(こんなことを言っても信じ難いことだが)、一人も生まれてこないのに一種族が永久に存続するのだ」。
 
 このプリニウスの叙述は、後世の人たちに深い印象・感慨を与えた。たとえば、『ローマ帝国興亡史』の著者ギボンは、「プリニウスの哲学的な眼は、死海のほとり椰子の木々の間に住むこの孤独な人々を驚きの念で眺めた」(朱牟田夏雄訳)と記した。
 プリニウスの記述にはあいまいな点も多いのだが、後世の人が感銘を受けるのは、その事実よりも、プリニウスの人生観を反映したようなその文章である。(つづく)


 
 
 



 
 

日本輸出の「共産主義」

2010-06-14 19:55:40 | 日記
 ①ともに生む

 少し前、10日ほど前だったか、「共産主義」という語は日本で生まれて、世界に輸出された言葉であるという記事が載った。新聞か何かだったがメモするのを忘れて残念。

 実は何年も前、共産主義という言葉は日本生まれなのか中国生まれなのか、またどういう具合に誕生したのか気になって調べてみたいという気持ちになったことがある。そこで知人のAさんに頼んでみた。Aさんは膨大な資料・書籍を蓄積していることで友人間では知られている。ついでにいうと、Bさんも大変な蔵書家で、玄関から廊下・階段まで本だらけ、Cさんは新築時は応接間はガラガラだったが、今は本で溢れて踏み場もないくらい。以前、井上ひさしさん宅へ所用で伺ったことがあるが、これはもう大変、本に埋もれている。私の家といえば、小さい家で、小さい部屋で、小さい本棚で、そこで、部屋の真ん中で、手足を伸ばしてゆっくり昼寝ができるのは幸せ、幸せ。
 Aさんが送ってくださった資料の話は少し後回しにして、「共産」の解釈について。

 共産を、「共に産する(生む)」と読む。すると、多様な表現が生まれる。言葉の多様化だ。
ア、共に米を産する・・・中国の人民公社のことかな?
イ、共に綿花を産する・・・中央アジアのコルホーズのことかな?
ウ、共にテレビを産する・・・日本の巨大なテレビ組立工場のことだろう。分業と協業、アダム・ミスが得意なところだな。
エ、共に幸せを生む・・・いいな。
オ、共に平和を生む・・・これもすばらしい。
カ、共に貧困を生む・・・困る。
キ、共に戦争を生む・・・ブッシュのイラク戦争、オバマのアフガン戦争のことだな。
ク、共に赤ちゃんを産む・・・これはもっともすばらしい。  

 ②ラテン語の強み

 ラテン語が次から次へと派生語を「産する」言葉だということは先(前回のブログ)で触れた。小林標氏はag-という語幹を例として、それが豊富な派生語を生み出してきたこと、また生み出しつつあることを分かりやすく説明している(『ラテン語の世界』)。言語の多様化だ。

 先の話の続き。Aさんからは、雑誌の2段組み19ページの堂々たる論文のコピーが送られてきた。著者名は小林太郎、いろいろ面白いことが書いてあるが、いまの焦点は「共産主義」の語源について。はじめに私の愚かな思考。
共産主義は英語で言えば communism であるが、語源はラテン語。その語幹はcom. comはcumに同じ。cumは・・・「と一緒に」「ともに」「と共同に」・・・の意。英語の派生語にはコンビネーション、コンバイン、コミュニケーション、コミュニティー、コンパニオン、カンパニー・・・などときりがない。ラテン語には次のような言葉がある。(研究社『羅輪辞典』による)
 ア、communis ・・・ 1、共有の、共通の、共同の 2、一般の、通常の、日常の、公共の
 イ、commune ・・・ 1、共有財産、2、共同体、自治団体
 ウ、communitas ・・・ 1、共同、共有、2、公共心

 この三つのうちのどれかが語源だと思われる。イのcommuneはフランス式にいえばコミューンだがラテン語ではコムーネ。このイは外れで、アかウか、アかな?。そして最大公約数でいえば「共同」「共有」「公共」の順か。いまなら「共産主義」ではなく「共同主義」と名づけるだろう。そうすれば「共に同する」などという言い方にはならないだろう。

 ③明治の言語名人

 以下は小林論文から「communism」,「communist」の訳語の出所だけを抜き書きしたもの。説明文は割愛して後にまとめを。小林氏も断っているが,ここの事例がすべてではない。
ア、「コミュニスメ」・・・加藤弘之『真政大意』(1870)
イ、「通有党(コミュニスト)」・・・西周『百学連環』(1870-71)
ウ、「共同党(コムミュニスム)」・・・福地源一郎「僻説の害」(「東京日日新聞」1878)
エ、「コムムニスト党」「カムムニズム」・・・(「東京新聞」社説、1879)
オ、「貧富平均党(コンミニスト)」・・・「闘邪論」(「朝野新聞」論説、1879)
カ、「共産党」「共産同業」など・・・小崎弘道「近世社会党の原因を論ず」(『六合雑誌』1881)
   マルクスの名と断片的主張を初めて紹介した文献。「共産」という語の初出か? これ以後頻出、その他の訳語急速に減少。
キ、「コミュニスム(共産説)」・・・福地源一郎「東洋社会党」(「東京日日新聞」1882)
ク、「共有主義」・・・保木利用「制度論」(「東京日日新聞」1882)
ケ、「共産党」・・・村上浩「東洋社会党」(「東京日日新聞」1882)
コ、「共産党」「共産説」・・・大井憲太郎『時事要論』(1886)


 ④communismが「共産主義」とされた理由

 その理由についての小林論文の説明文を我流にまとめてみた。
 a 、明治初期にcommunismを紹介した人たちにとっては、それは多くの場合、プラトン、エッセネ派や空想的社会主義者たちの思想を指した。したがってマルクス・エンゲルスの学説は視野に入っていない。ほとんどはアメリカのウィールセイ『古今社会党沿革説』(宍戸訳)などの説を介して間接的に不正確に、断片的にしか伝わっていない。

 b 、そのため、ほとんどの紹介者が、communismを「生産の共同」ではなく「財産の共有」というニュアンスでとらえ、1881年頃を境に「共産主義」という訳語がそういう意味に使われるようになって定着していった。
 
 c 、日本人民がマルクス・エンゲルスの学説を自分達の解放の羅針盤として受容するようになったのは、日清戦争(1894-95)後に本格的展開を見せた労働組合運動と社会主義運動のなかにおいてである。
 
 d 、このときすでに、communismの訳語は「共産主義」に定着していた。幸徳秋水、堺利彦は「共産党宣言」(『平民新聞』1094)を訳すとき訳語に苦労したが、「共産」はそのまま使った。この時点で「communism」は以前と違ってマルクス・エンゲルスの学説をさす言葉として使われ始めている。

 ⑤中国の共産主義

 冒頭に「世界に輸出」という記事があったと書いたが、これは少しオーバーな表現だ。もっとも中国では共産党が政権を握っているので、13億の民が「共産」という言葉を使う頻度は極めて高く、その使用頻度から言えば世界一かもしれない。
 中国ではまさか「共産」を「共に○○を生む」などとは解さないだろ。やはり「産を共にす」だろう。
 小林論文で「共産主義」が日本で生まれだということは推測できたが、明確には言明されていなかった。先の記事でもやもやした疑問も晴れたような気がする。まだ安心はできないが。それにしても、なぜ漢字の母国中国ですんなり?「共産主義」の語を受容したのか、私には分からない。もっと違う中国語であってよかったとも思うのだが・・・。
 ついでに私見を一つ。現今の中人民共和国は共産主義社会ではなく、資本主義社会の亜種である。しかも今まで一度も共産主義社会であったこともない。中国人は看板など気にしないのかもしれない。