静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

Z8 エッセネびととヤシの木ープリニウス随想(8)

2014-09-21 12:45:04 | 日記

 

                                                             (一)  死海のほとり

                                                             (二)  ユダヤ 戦争                                                             

                                                            (三)  ヤシの木だけを友として 

 

   (一)死海のほとり

 死海に浮かぶ

 ヨルダンにある死海は独特の魅力を持つ観光地だ。かつて死海に遊んだとき、同行のU氏は一冊の書とパラソルを携えて水辺に降りてきた。昔、教科書に、死海の水に浮かびながら本を読んでいる人の写真が載っていた、前からそれをやりたかったのだという。左手にパラソル右手に本を持ち、バランスを取るのに若干苦労したが見事成功。岸辺の観光客は拍手喝采。Uさんはほんとうに嬉しそうだった。その日は空も晴れて・・・晴れて当然だが、空気も澄み・・・これも当然、気分のいい日だった。湖面に浮かんで西の方を眺めると、ユダヤ人が城塞を築いて抵抗したマサダの峰が望見できる。クムラン洞窟(後出)のある丘も見える。昔、湖畔に繁茂していたヤシの樹影は見当たらない。今この地は、野菜や果物が豊富に採れる豊かな地だという。二千年前、この死海の様子はどうだったろう。

 ヨルダン河の水源は、後に述べるカエサレアがそのまたの名をそれからとっているパニアスの泉である。それは心地よい流れで、その地方の流れが許すかぎり蛇行して、両岸に住む人々のご用をつとめ、あたかも、あの陰鬱な湖、死海(アスファルティテス湖)へと進んで行くのがいやでたまらぬというふうであるが、ついにそれに呑み込まれ、そのいたく賞揚されたその水はその湖の有毒な水に混入して姿を消してしまう(『博物誌』)。

  さらに次のような記述が続いている・・・死海の唯一の産物は瀝青で、そのギリシア語が、この湖がアスファルティテスというギリシア名をもつ所以である。水中ではウシやラクダなどの動物も沈まない。沿岸にカリエロという医療価値のある温泉がある。死海の西側の沿岸の「毒気地帯」の外部に孤独な種族のエッセネ族が住んでいる。これは全世界の他のすべての種族以上に珍しい種族だ・・・。

濃い塩水が「有毒な水」であるというのも合点がいかないが、この「毒気地帯」が何を意味するかも不明で、今日でも議論がある。その死海の西海岸に沿って不毛の山岳地帯が連なっている。その北の方の湖岸から少し離れたところで”世紀の発見“という事件が起きた。

 クムランの洞窟 
 第二次大戦後、国連での、アメリカ合衆国主導のパレスチナ分割案の採択によって、この地でのユダヤ人による建国が承認された。一九四七年一一月のことである。欧米列強の新型支配の始まりである。第一次中東戦争が始まったのはこの直後であるが、その前からすでにユダヤ人とパレスチナ人の対立が激化していた。そういう情勢の中で、その年の春、死海西岸の断崖にある洞窟で、ベドウィン族の少年が偶然亜麻布にくるまれた巻物を発見した。この洞窟はそのあたりの地名クムランから、クムラン洞窟と呼ばれている。それ以後もこの近くの洞窟から写本が続々と発見された。

 一括して「死海文書」と呼ばれるようになったこれらの大量の写本は、聖書の各書、外典書、宗団の文書などであることが分かり、世界に大きな衝撃を与えた。聖書やキリスト教の由来について大論争を巻き起こすことになる。
 そしてさらに一九五一年、このクムラン洞窟のある断崖と死海の間の海岸で、埋もれていた古い石造建造物や墓地などが発掘されたのである。調査の結果、石造建造物の方はいわゆるエッセネの人々の住居跡であったことが判明した。

 その後遺跡の発掘も続けられ、それに伴い数多くの研究書も世に出た。発見された書類には未公開の部分もあって全貌が明らかになったとは言えないらしい。門外漢の筆者には深い霧の向うであり、言えることは何もない。このエッセネに関して伝えている人物は何人もいるが、主要な資料を残したのはユダヤの歴史家ヨセフス(23-79)、同じくユダヤ人哲学者フィロン(前30頃―後45頃)、そしてプリニウス(23<24>-79)である。

 ヨセフスによるエッセネ

ヨセフスは『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』でエッセネについて相当詳しく説明している。それによると、ユダヤ人の間には三つの形の哲学があり、第一の派の者はパリサイびと、第二の派の者はサドカイびと、第三の派の者はエッセネびとと呼ばれる。最後にあげた派はもっとも高い聖性のために訓練するという評判である。翻訳者の秦剛平氏によると「哲学」は宗派のことである。だから一般には「エッセネ派」というように呼ぶし、ユダヤ教の一宗派と見なされている。『ユダヤ戦記』の執筆は後七五年頃から八一年頃まで、『ユダヤ古代史』の完成は九三年から九四年頃、プリニウスの『博物誌』の完成(七七年)の後である。

 『戦記』では次のように書いている。エッセネびとはユダヤ民族の者である。快楽を悪として退け、自制につとめ、情欲に溺れないことを徳とする。結婚は軽蔑するが、他人の子を引き取り、自分たちの慣習で型にはめる。結婚やそれによる後継者作りを非難しないが、奔放な性から我が身を守ろうとする。富を軽蔑する。財産は共有である。自分の所有物を全員のものにする規定がある。エッセネびとは一つの町に住んでいるのではなく、どの町にも大勢いる・・・。そして、エッセネびとの一日の生活ぶりが丁寧に描かれている・・・たとえば用便のために各自のスコップで穴を掘ってそこで用を足すなど・・・だがそれは省略する。

 『古代誌』は『戦記』と少し違う。

いっさいのことを神の手に委ねる。霊魂を不滅のものと見なす。神の義に向って一歩でも近づくよう努力する。一般の人びととは異なる清めの儀式で犠牲を捧げる。ひたすら農事にのみ励む。財産は同志と共有する。その共同生活の中に妻を伴うことはなく、奴隷を所有することもない。手ずから働き、人のいやがる卑しい仕事も交代でおこなう。

プリニウスによるエッセネ族
 プリニウスはエッセネをgens=種族としていて、ロエブの英訳版でもtribe(種族・部族)と訳している。プリニウスはヨセフスと違って、エッセネをユダヤ民族に属するともユダヤ教の一宗派であるとも言っていない。人種・民族・宗教には全く触れていない。そしていう、
 

 「彼らは婦人というものをもたず、すべての性欲を絶ち、金銭を持たず、ただ椰子の木だけを友としている」「日々、人生に疲れ、運命の波によってそこに追いやられた人々が多数、彼らの生き方を生きようと加わってくるので住民が補充され、同じ数を保っている。このように、何千年という年月(こんなことを言っても信じ難いことだが)、一人も生まれてこないのに一種族が永久に存続するのだ」

 

  (二)ユダヤ戦争

 プリニウスとヨセフス
 ローマ皇帝ネロの統治の晩年の六六年にユダヤ人が反乱し、いわゆるユダヤ戦争が始まった。その原因や戦争の経緯についてはヨセフスの『ユダヤ戦記』に詳しい。『史記』や『三国志』を思い出させるところがある。ウェスパシアヌスは長子ティトゥスとともに六七年、大軍を率いてガリラヤに進軍してその地の反乱を鎮圧、六九年にウェスパシアヌスが帝位についてからはティトゥスが代わってローマ軍の指揮をとり、七〇年にはエルサレムを包囲し、半年の攻防戦のすえ攻略した。
 このイスラエル攻略の軍団にティベリウス・ユリウス・アレクサンデルという指揮官がおり、ドイツの歴史学者モムゼンによるとプリニウスはその副官であったという。
このアレクサンデルは、ユダヤの名門の出であり、先ほど述べたユダヤ人哲学者フィロンの甥で、ユダヤの皇帝代官、エジプトの総督を勤めた人物である。つまり、ローマの高官であったこの人物は、ユダヤ人でありながら、ローマのユダヤ反乱鎮圧軍の指揮官を勤めたことになる。彼はウェスパシアヌス帝の擁立にも功績があったといわれる。

このプリニウスに関するモムゼン説には異論があり、プリニウスがアレクサンデルの副官であったというのも確実ではない。プリニウスがティトゥスとテント仲間(戦友)であったことは知られているが、どこの戦場でであったかははっきりしない。ユダヤ戦争でと考えられないでもない。『博物誌』の中で、ユダヤに関する直接的経験に基づくと思われるような記述が多いことも、ユダヤ遠征に加わったことの裏づけとされている。だが彼は、ユダヤについて書いてはいるが、ユダヤ教やキリスト教についてはまったく触れていない。それなのに、エッセネ族については上掲のような短いが印象的な文章を残した。

一方ヨセフスの方だが、彼はユダヤ戦争のおりユダヤ方の指揮官としてガリラヤの町ヨタパタを死守しウェスパシニア軍を苦しめたが捕縛された。だが六九年ウェスパシアヌスが皇帝に推戴されるとすぐ釈放された。彼が、ウェスパシアヌスの即位を予言したからだという。以後ヨセフスはローマ軍に奉仕する。エルサレム攻撃のときに司令官ティトゥスに助言をしたり、エルサレム陥落の現場にも立ち会ったりしている。戦後もウェスパシアヌスやティトウスに保護・優遇され宮中に出入りしていたから、当然プリニウスとは面識はあっただろうし、語り合ったこともあろう。しかし『ユダヤ戦記』の完成はプリニウスの死後なのでプリニウスはそれを読んではいない。


プリニウスのあいまいさ

 ヨセフスはユダヤの名門の出だからユダヤに詳しいことは当然である。逆にプリニウスに曖昧さが残る。だが彼の記述にも有力な手がかりがある。それはエッセネ族の居住地である。先ほども述べたがそれは死海の西岸で、岸辺から少し離れたところにある。そして彼は以下のように述べている。そこから南へ行けば肥沃な土地とエンディゲの町があった。そこではエルサレムに次いで豊かにヤシが生い茂るところだったが、今はエルサレム同様死の灰の山にすぎない。そして、さらに南下すると岩の上の城砦マサダが死海から遠くないところにある。

共同生活

このプリニウスの叙述は、後世の人たちに深い印象・感慨を与えた。たとえば『ローマ帝国興亡史』の著者ギボンは、「プリニウスの哲学的な眼は、死海のほとり椰子の木々の間に住むこの孤独な人々を驚きの念で眺めた」(朱牟田夏雄訳)と記した。
 プリニウスの記述にはあいまいな点も多いのだが、後世の人が感銘を受けるのは、その事実よりも、プリニウスの人生観を反映したようなその文章のあいまいさであったかもしれない。「金銭をもたず、ただヤシの木だけを友とし(「socia palmarum」。sociaは女の友達もしくは女の仲間、そして女の配偶者)」という一節は特に印象深かったのだろう。西欧で生まれ日本で共産主義(注:不思議な言葉)と訳されたcommunismの思想が、プラトンやエッセネ派や空想的社会主義の人たちを源流とするとよく言われる。

 このように修道僧のような暮らしをしていたエッセネ族の人たちは、一切の私有財産・私物もない共同生活をしていたので、内部的には貨幣は必要なかったのだが、教団として外部と折衝するためには貨幣も必要だったのだろう。発見された貨幣と周囲の状況によって、この建物は紀元六八年に戦火に見舞われたと考えられている。つまり、エッセネの人々はこの年、ローマ軍と戦い敗れて消息を絶ったと考えられる。この年、ガリラヤに進軍したウェスパシアヌスが死海を訪れたという記録がある。したがってクムランにも来ている可能性がある。
 プリニウスが、岩の上に城砦があると記したマサダは、六六年に駐留ローマ軍を撃破してユダヤ人約千人が立てこもり、エルサレム陥落(七〇年)後も三年間ローマ軍に激しく抵抗し、ようやく七二年に滅ぼされたところである。だがプリニウスは城砦があると書いているだけである。


(三)ヤシの木だけを友として

 唯一の友

ヤシはラテン語でpalmaである。シュロと訳している人も多い。樹形は似ているが実質は違う。日本ではヤシには二種類あるとされている。ココヤシとナツメヤシである。ココヤシは主に太平洋上の島嶼などに生育し、その果実は直径三〇センチほどにもなる。表皮は硬く海流に乗って漂流したりする。「遠き島より流れ寄る椰子の実一つ」のヤシがそれである。死海のほとりのヤシはナツメヤシである。その果実は、あの付近では昔から主要な食品とされてきた。聖書の生命の樹のモデルもこの木だという。その果実は今も世界中に輸出されている。

プリニウスのいうヤシはもちろんナツメヤシである。ココヤシでもなく、ましてシュロでありえない。シュロの生育地は中国とその周辺だという。日本ではシュロは珍しいものではない。英語ではpalmで、英和辞典でみると、palmにはココヤシもナツメヤシも、そしてシュロも含むようである。

『博物誌』の他の箇所で、彼はヤシ(ナツメヤシ)について詳述している。ヤシはヨーロッパ、イタリアやスパニアの沿岸部にもあるが、気温が低いので実がならないか、実を結んでも熟さない。本当に暑い国にだけ実を結ぶと指摘し、椰子の栽培法やその種類などを多岐にわたって説明している。だがここでは、なぜ「ヤシの木だけが友」であるとしたのか考察してみたい。

 まず木材としての用途は広く木炭の原料にもなる。葉は漆喰の代わりに壁の材料に、また編み物細工用などに用いられる。果汁は品種や栽培地などによって味も用途も多様である。酒造の原料にする地方ある。果汁の少ない椰子の実を乾燥させて粉に挽きパンを作たりする。もちろん果肉は食用である。プリニウスはヤシの種類は四九もあるという。中でも著名なのがユダヤのヤシで、香料のための軟膏作りに最適であり、また、果実がいちばん長持ちする種類だという。

ここに述べられているのは、物質的な、生活上の必要品としてのヤシであるが、前述のようにプリニウスは、socia(女友達、女の仲間、女の配偶者)とのべている。女性を容れないエッセネびとにとって、ヤシは彼らの心の癒しというにもなったとプリニウスは解釈したのだろうか? これは筆者の独断的解釈であるが。

ている。ローマ軍に降服したからといって信仰を変える必要はない。当時のローマでは人間の頭数ほどの神がいたとも言われた。人々は自分の好きな神々を礼拝する。 二千年ほど前のプリニウスは無神論者だと思われている。「人間にとって、人間を助けることが神である」という言葉はプリニウスよるものとしてよく知られている。彼は、神というものは人間の弱さや無知による産物に過ぎないといって、その論拠をいろいろ書き並べた。だから彼はローマの神々もユダヤ教の神もキリスト教の神も、そしてまた霊魂の存在も信ヨセフスとプリニウス

ヨセフスはユダヤ教の信者である。ローマ帝国は個人の信仰については自由に任せじなかった。彼が霊魂について語った一節はいろいろな書が引いているが、長いからその最後の方の一部を引く。「霊魂は天上界にあって感覚を保持しており、幽鬼は下界に留まるなどということが事実だとしたら、同時代の人びとにはどんな安息が得られるというのか。たしかに、この甘美ではあるが軽々しい想像は自然の主要な恵みである死を打ち壊し、死に臨んでいる人に、今後にも来るべき悲しみまで考えて悲哀を倍加させるのだ」。

このようにプリニウスは、ヨセフスが説明しているような、霊魂が永遠に存在するとか一切を神の手に委ねるというエッセネびとの思想は無視している。真正面から批判することもなかった。それだけでなくエッセネびとの種族・民族とのかかわりにも全く言及しなかった。述べていることは、私有財産はなく共同生活を送り、女性との交わりを拒否し、人生に疲れ運命に追いやられた人々が参入することによって構成員の数が維持されているということだけである。そこに焦点を合わせた記述である。彼は『博物誌』の真の主題は「生命」であるといっていた。特に人間の生命は最重要な主題だったろう。

彼はしばしば幻想的な話をする。たとえば、アフリカの内陸部に住む、人類の文明の水準以下に落ち込んでしまっているアトランテス族の話、言語も持たない穴居族の話など・・・これらはみな他人から聞いたいい加減な話ではある。いい加減な話だとわかっていてそれを書いたのだろう。
 黒海の北の極北に住むヒュペルボレア人といわれる人々のことも書いている。彼らは不和とか悲しみを知らず非常に長寿だ。生に飽きると最後のご馳走を食べ、高い岩から飛び下りる。これは古くからギリシアに伝わる伝説であり、プリニウスはその出典も示している。

彼は貨幣を持たず物々交換で暮らしているセレスの人たちのことを書いた。タプロバネ(スリランカ)については原始共同体の名残のある素朴な王政について描いた。
 また、北ドイツの北海に面した低地でささやかな漁業に従事するカウキ族というゲルマン人の生活を描いた。カウキ族ローマ帝国の支配に屈することを潔とせず、貧しくても誇り高い共同体の生活を送っている。これはプリニウス直接の見聞だ。
 エッセネ派についてのプリニウスの記述が相当あいまいだということは前にも述べた。だが故意に曖昧にしているのかもしれない。彼のように多くの情報源を持った人間にしては不可思議なことだ。彼はエッセネ人たちにベールを被せたのだろうか。日々の生活に疲れた人たち、運命にもてあそばされた人たちがやってきて、そのため何千年という年月にもわたって住民が補充されてきたなど誰が信じよう。プリニウス自身が、「こんなことを言っても信じがたいことだが」と書いていたように、ほんとうは彼自身が信じてはいなかったに違いない。だが、言いたいことを書こうと思ったのだ。

アキレウスのウマ

 一九世紀の人ハイネはつぎのように述べているそうだ。「死ぬほうが生きるよりましであり、いちばんよいのは生まれてこなかったことである」と。だが、そう言うことを言った人はたくさんいるに違いない。まずプリニウスはこのようにいう。人間のたった一つの過ちは生まれてきたということである。だから、受罰をもってその生涯を始める。人間は裸のままで生まれてきて、生まれるやいなや大泣きする。他の動物にそんな泣き虫はいない。そして、手足を邪魔もの(衣類など)に包まれて泣きながら横たわっているだけだ。・・・こんな出発をしながら、自分たちは誇りある地位に生まれてきたのだなどと考える者がいるとは、なんたるたわけたことだろう!人間は教育によらなければ何一つ知らない。ものを言うすべも、歩くすべも、食べるすべも知らない。生まれながらできる本能といえば泣くことだけだ。従って、生まれてこなければよかったとか、できるだけ早くこの世からおさらばした方がいいと信じた人々も多かったのだ・・・と。

たしかに、生まれてこなければ死の恐怖もなく、病気もなく、貧困もなく、人生を悩んだり不幸と感じたりすることもないのだ・・・共感者の多いことも頷ける。

トロイア勢と戦って討ち死したアテナイの将パトロクロスの死を、涙を流して悲しむアキレイスの馬たちを見ながらゼウスは、この不老不死の馬たちを死ぬべき運命にあるペレウスに贈ってしまったといって嘆くのである。そして、この地上で呼吸し、うごめいているありとあらゆる生類の中でも、人間ほど哀れで惨めなものはないと思うのであった(『イリアス』一七―446)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Z7 『影の歴史』に寄せて-プリニウス随想(7)

2014-09-07 15:26:10 | 日記

                          (一)  影

                          (二)  プラトンの寓話

                          (三)  ブタデス伝説

                          (四)  影と気          

   序

 ヴィクトル・I・ストイキツァの著『影の歴史』(1997年、邦訳2008年、岡田・西田訳)を読んですぐ「『影の歴史』に寄せて」という題で投稿した。素人の無謀さであった。だが、訳者の「西洋文化における表象に関する言説の中心に、影に関する思想が占める場所を確立しようとする試み」というストイキツァ評に動かされて、もう一度素人談義を試みることにした。

   (一)プリニウスとストイキツァ

 『博物誌』における芸術論「

 この書の出発点はプリニウスが伝えるギリシアの伝説である。この伝説はこの書を基本的に性格付けている。ストイキツァは、古代ギリシア人の間では影と魂と分身とは互いに象徴的に結びついていたというエルヴィン・ローデ(ドイツの古典学者、1845-98)の研究を紹介している。これは興味ある指摘だ。それは影のない絵は魂のない絵ということになるという問題提起であり、その考えは絵画の起源から始まっている。そこでまず、プリニウスの絵画の起源についてのコメントを載せよう。

「絵画芸術の問題は定かでないし、本書の計画外である。エジプト人は、それは彼らの間で六、〇〇〇年前、それがまだギリシアに伝わらないうちに発明されたものだと断言する。これは確かにいい加減な断定である。ギリシア人について言えば、そのある人々は、それはシキオンで発見されたといいある人々はコリントスで発見されたという。しかしすべての人々が一致しているのは、人間の影の輪郭線をなぞることから始まったということ、したがって絵はもともとこういうふうにして描かれたものだということである」(『博物誌』)。 

 このあとで彼は彫塑について次のような興味ある物語を伝えている。 

粘土で肖像をつくることが、コリントスでシキオンの陶器師のブタデスによって発明されたのは、あの同じ土(注:不明)のお陰であった。彼は自分の娘のお陰でそれを発明した。その娘はある青年に恋をしていた。その青年が外国へ行くことになったとき、彼女はランプの光によって投げかけられた彼の顔の影の輪郭を壁の上に描いた。ブタデスはこれに粘土を押しつけて一種の浮き彫りをつくった。それを彼は、他の陶器類といっしょに火にあてて固めた。その似像は、ムンミウスによるコリントスの破壊までニンフたちの神殿に保存されていたという)。 

 プリニウスはこの文に続いて、ある権威者の言として異説も紹介している。しかし、後世においてもその異説については論議されることはなかったと思う。それほど、ブタデスとその娘の話は突出して「神話」になり、西欧の絵画史に伝わった。だがプリニウスは、ブタデス神話を絶対視して伝えているわけではない。またそれが歴史的真実であるとも言っていない。ただ、たんたんとその話を伝えているだけである。絵画の始まりに関して彼は、「すべての人々が一致しているのは、人間の影の輪郭線をなぞることから始まったということ」であるとしていて、自分の主張であると言っているわけでもない。だから、後世これだけ議論の種になったことを知れば驚くだろう。エジプトの説話からプリニウスが構成した話だという人もいるがそれは考えられない。プリニウスの性格には合わない。

しかし、後世の西洋の人たちは、この説話の中に絵画や彫塑の誕生にまつわるある種の真実味を感じていたに違いない。だからこそ、この伝説は今日まで西欧の絵画史の中に息づいてきたのであり、それが一個の精神として存在したということなのである。ストイキツァが言おうとしているのはそういうことだと思う。 

旅立つ若者

 ストイキツァの『影の歴史』の第1章は上掲のプリニウスの章句の解説と分析に始まる。そこでの彼の結論めいた言葉は次のようになる。それは、プリニウスの考えによれば「芸術の再現表象は一般に、もとをたどれば原始的な陰影段階にまでさかのぼることができるのだということであう」                                                                   

 そもそもブタデスとその娘の伝説は、きわめて古い時代の話で、おそらくプリニウスの時代をさかのぼること数百年にもなろう。あいまいな箇所が多いのも当然である。娘が恋した青年は外国に行こうとしたとあるが、どこへ、どういう目的で行こうとしたのか、青年は帰ってきたのか、なぜ似像を神殿に納めたのか、納めたのはいつか? プリニウスは何も書いていない。そこでストイキツァは、危険を冒しているのだがと断りながら大胆に推測する。このような大胆な推測は、そうそうできるものではない。

 ストイキツァの解釈は、青年は戦地へ赴く、である。今日の多くの評者は最初から戦場に赴くことを前提としているが、それは違う。ストイキツァも最初からそう決めているわけでもない。大胆な推測だというのである。推測だが合理性がある。娘はその青年と永遠の離別になる可能性が高い・・・。

 ギリシアでは優れた卓越した青年は若くして死ぬのである。ギリシア神話では数多くの卓越した青年たちが死を免れ得なかった。そして、とくに初期においては、戦死した戦士は英雄神(ヘロス)として祀られることが普通だった。ペリクレスは、サモス遠征において戦死した戦士たちは神々のように不死になったと称えた(プルタルコス『英雄伝』「ペリクレス」8)。もしそういうことならば、娘の恋人は英雄神となって娘の所には帰ってこない存在なのである。父親のブタデスの作った塑像は最初から神殿に奉納する意図を含んでいたと考えてもいいだろう。

 娘が恋人の面影を壁に描くにあたっては、そのようなせつない思いが込められていたに違いないし、父親はその娘の気持ちを忖度してやるほかはなかったのだ。二一世紀のわれわれ、とくに東洋人であるわれわれには、そこまで思いを巡らせることはなかなかできない。だが、プリニウスの生きた世界は、まだギリシアとローマの神話が混交し、伝説や言い伝えが人々の心の中に浸透していた時代だった。

 少し離れた所に置かれた灯火、壁ぎわに立つ若者、壁に写る影をなぞる乙女、傍らでそれを悲しげに眺める父親、多分母親も。こういう構図が思い浮かぶ。プリニウスの説明はいたって簡潔である。そもそも言い伝え自体が簡潔だったからでもあろう。だからその情景も推測する以外ない。

 上述の、神殿に奉納するというプリニウスの記述への異論は前から(和訳が出る前から)わが国にもあった。一例を挙げれば、プリニウスの時代には、プリニウス自身がいうように、絵画は爛熟期を過ぎて凋落の気配が生まれ、芸術作品は金持ちに私物化され、それを神殿に奉納して公開するのは富の誇示のためという風潮が生まれていた・・・そういう中でプリニウスが青年の像の奉納という行為に絶大な賛辞を贈ったのは、礼拝対象ではなく、美術品として一般公開したことに対しての評価に過ぎない・・・ストイキツァのような解釈はプリニウスの趣旨とは違う、という異論である。 

 だがプリニウスの記述を静かに読んでみると、彼は、聞き取った話を客観的に冷静に述べているだけで、絶大な賛辞などは贈っていない。彼の記述は「その似像は、ムンミウスによるコリントスの破壊までニンフたちの神殿に保存されていたという」・・・ただそれだけである。つまりプリニウスは、彼の時代、ローマ帝国の時代の風潮を基盤に書いているわけでなく、古いギリシア人の行為を言い伝えのまま書き記したにすぎない。しかもそれは伝承だということを明白にしている。それにストイキツァが大胆な解釈を加えたということである。 

   (ニ)プラトンの寓話 

洞窟の影

 ストイキツアーはここで、よく知られているプラトンの『国家』における洞窟の影の話を持ち出す。プラトンの設定の大略は次のとおり。

地下の洞窟に、子どものときから手足も首も縛られたままの囚人たちがいる。首は後ろに廻せないので洞窟の奥の方しか見ることができない。彼らの後ろに火が燃えていて、囚人たちと火の間に、あらゆる道具とか石や木、人間・動物の像などがあってそれが運ばれて行ったり来たりする。囚人たちは洞窟の奥の壁に映るそれらの像の影だけを見て生きてきた。あるとき囚人の一人が縄を解かれ、立ち上がって火のある方を見よと強制される。だが彼は、以前見ていたもの(影)の方が真実であると考えるだろう・・・。

ストイキツァは、プラトンのこの寓話以来、影は常に否定的な要素がつきまとい、それは西洋のイメージに関する歴史の中で払拭されることはなかったと述べているし、それを例証する事実もいろいろ挙げている。それはそれで説得力がある。 

 ストイキツァは両者を較べて、プリニウスの場合は、イメージ(影、絵画、彫刻)は同一物の別のものであるが、プラトンの場合はイメージ(鏡、反射像、絵画、彫刻)は写しの状態にある同一物、或いは分身という身分での同一物ということにあると評している。その通りだ。ストイキツァは、プラトンがプリニウスの寓話にみるような古来の伝統に気づいていなかったとも思えないと注釈している。プリニウスがプラトンを読んでいたことは間違いない。つまり両者の芸術観に違いがあるということ。 

 鏡と影の違いをストイキツァはナルキッソスの神話で説明しようとする。確かにそれは有効である。池の面に映るのは自分の似姿であり、黒い影ではない。鏡の中の姿には色がある。プラトンが影より鏡に上位を与えたのは当然である。だが、鏡にうつる映像が絵画の起源であるという伝説は生まれなかった。       

古代芸術の価値                                                                     

 そもそも古代ギリシアでは哲学と芸術はしばしば敵対関係に入る。芸術は神々を称え顕彰しようとしたが、哲学は人間の意識・認識をその神話から解放しようとしていた。哲学は人間の美的感情や具象性を敵視する傾向があった。プラトンはその典型である。だから彼の『国家』には詩歌も芸術も存在しない。

 プラトンは先の洞窟の話の直前で、人間の知の領域を四つに分けている。知的思惟(直接知)、悟性的思惟(間接知)、実物(確信・直接的知覚)、そして影像知覚(間接知覚)である。彼はこのうち最後のものを「下位のもの」としている。囚人たちが見たものはその最下位の影像に過ぎないのだ。

 そしてその後の方で、「絵画とは・・・実際にあるものをあるがままに真似て写すことか、それとも、見える姿を見えるがままに真似て写すことか? つまり、見かけを真似る描写なのか、実際を真似る描写なのか」と問い、「見かけを真似する描写なのです」という答を得て、「真似(描写)の技術というものは真実から遠く離れたところにあることになる」と述べる。                        

 さらにこうも言っている。「絵画および一般に真似の術は、真理から遠く離れたところに自分の作品を作り上げるというだけでなく、他方ではわれわれの内の、思慮(知)から遠く離れた部分と交わるものであり・・・」「真似の術とは、それ自身も低劣、交わる相手も低劣、そして産み落とす子供も低劣、というわけだ・・・」と際限ない。もっとも、絵画や造形美術を軽視し、無視したのはプラトンだけではない。古代の著作家はほぼ押並べてそういう傾向があったが、それに触れる必要はないだろう。

 それに反してプリニウスは、ギリシアからローマ時代の美術史を肯定的に、克明に描いて後世に遺した。ストイキツァはプラトンの『国家』から検討材料を引き出しているのだが、『博物誌』と『国家』では物差しの基準が異なる。プラトンに関するストイキツァのプラトン論は、初めの方で精彩を放つだけである。だからストイキツァはこういう。プラトンとプリニウスは異なったことがらについて語っていて、両者はともに起源にまつわる神話を扱っており、プリニウスは芸術の起源を、プラトンは知の起源にまつわる神話を取り扱っている。ともにその中心にあるのは投射というモチーフであり、芸術(真の芸術)と知(真の知)は、ともに影を超えたところにあるということだ、と論じている。つまりストイキツァはこの書では知(真の知)の方は取り扱っていないということなのだろう。このようにブタペス伝説は神話に格上げされていく、プリニウスの知らぬところで。 

   (三)  ブタデス伝説の伝承 

愛の伝説に 

このプリニウスの説話は、その後の西欧絵画に大きな影響を与えたという著者の論拠は、豊富な資料や絵画の紹介や分析によって示される。 プリニウスの物語では屋内での燈火による影絵であったが、それが屋外での、あるいは太陽光での影に変えられたり、男性が女性を描くことになったり、とくに中世ではキリスト教の説話の題材に用いられたり、果てはソビエト連邦で、壁際に座るスターリンの影を一人の女性が描く「社会主義リアリズム」のパロディーに使われたり、影絵が観相学に用いられたり。画面中央に巨大に描かれた黒い影・・・ピカソの「影」という作品など・・・とてつもなく広がっていく。

 そういうわけで、この著には、プリニウスの絵画の起源に関する説話や西欧人の影に対する多様な発想が紹介されているわけだが、それはあるいは宗教的信仰に伴うものであったり、邪悪や悪魔を象徴するものでもあったりした。だがストイキツァはそれが愛の伝説であると見なされたとも言う。その例として、ルソー(一七一二-七八)の『言語起源論』から一節を紹介している。以下はその孫引きである。                               

 愛は素描の発明者だといわれている。愛は言葉を使って話すことも発明したかもしれないが、不幸にも愛はそれに満足せず、それを軽蔑している。なぜなら、自分自身を表現するにあたっては、しゃべることよりももっといきいきした方法があるからだ。恋人の影の輪郭を愛情込めてたどった女性は、まさに彼に多くのことを語っていた。ストイキツァは、これはプリニウスの神話が愛の伝説であるとはっきり見なされた最初の例であり、輪郭をたどった影が最初期の絵画表現ではなく、愛を表現する最初期の言語として見なされた最初の例でもあるという。これは一つの解釈である。なるほど、そういう理解の仕方もあるのか。そういう理解の仕方は西欧の絵画観に変容を与えていったのかもしれない。 

ゲーテの色彩論から 

 ゲーテの最も重要作品ともいわれる『色彩論』の「歴史篇」に、かれは友人のヨハン・ハインリヒ・マイヤー(宮廷顧問官・画家)の著作の一部を挿入した。それはプリニウスに関する部分である。ゲーテはウァイマール図書館からプリニウス『博物誌』のドイツ語版を借り出しているが(一八〇六年)、ゲーテはプリニウスの部分を自分で書かずにマイヤーの論文に依拠した。それは歴史編第二部「ローマ人」のなかに“彩色の仮説的歴史―特にギリシアの画家に関して、主としてプリニウスの報告による”と題されて掲載された。彩色論としてではあるが、立派なプリニウス絵画論となっていて、歴史的に見て卓越した論考である。

 マイヤーは最初に意味深長なことを述べている。彼は、この論文に「仮説的歴史」と名づけたのは、プリニウスによる報告が多くの点で実に曖昧で不完全であり、推測による説明や補足が必要だったからであるという。推測というものは、自然に無理なく生まれてくることもあれば、事柄の成り行きからどうしてもそうしなくてはならないこともある。だから、こうした推測によって補われたものは、芸術の本質にほとんど、或いは、全く馴染まない報告書よりも、遙かに信用のおけるものになる・・・と(南大路・嶋田・中島訳参照)。もしこれが真実ならば、ストイキツァの「青年は戦場に赴いた」という大胆な推測も肯定できることになる。だがマイヤーはこの伝説には言及せず「我々が本物の人間の影や影絵ではなく、平面上に形態を記録しようとして初めて線描画を試みたのだとしたら、これは信憑性のある説である。というのも、線描画を描くことこそ絵画の基本なのだから」という。そして、「絵画の最初の試みはきわめて古い時代にまで遡る。これくらいが確実に言える唯一のことだろう」と書いて、直ちにブタデス伝説を肯定してはいない。その代わり次のように言っている。 

  古代の人々の作った作品がたとえ子どもたちの努力と比べられる程度のものであったとしても、古代の芸術の創始者を稚拙な精神や未熟な精神の持ち主だと非難するわけにはゆかない。平面上に置かれた球形状の物体を描写するようになった契機、絵画へといたる最初の契機は彼らから生まれたのだから。そして最初の一歩というものはいかなるものであっても、偉大にして大事な一歩とみなしうるのである(南大路・嶋田・中島訳)。 

マイヤーも最初の一歩を探ろうとしている。もちろん最初に絵画とは何かという問題が立ちはだかっている。それを追求すれば困難な問題にぶつかる。原始人が洞窟に描いた狩の図を絵画と呼んでいいのかそれも疑問だ。平面に置かれた球形状の物体を描写しようとする意識の発達までには、遠い道のりがあったことも間違いないだろう。『影の歴史』は、そういう問いにある解答を示す貴重な書になった。プリニウス自身が絵画における影の役割に気づいていたわけではない。マイヤーもそうである。ストイキツァ自身がいうように、西欧においても、学問や芸術の起源に関する表象としての影の系統的な研究はほとんどなかったのである。

 ストイキツァはこの問題に関して、ドイツの画家・美術史家のザントラルト(Sandrart、1606-88)の言葉を紹介している。ザントラルトは、中国人の絵は何ら陰影をもたない輪郭だけしか再現しない、量感を生み出そうともしない、空間の奥行きを表現する方法をしらない・・・と述べている。ザントラルトは中国清朝の康熙帝の頃の人であり、ドイツ人としては初めて美術史を著した人だという。彼が中国絵画に陰影がないことを指摘したことは、大きな問題提起をしたことにはなるだろう。

 このザントラルトの評に対しストイキツァは「西洋美術と比べれば、中国美術は『その他の美術である』、中国美術が『異なっている』理由は、それがヨーロッパの規範を無視しているからだ」と反論している。これは重要な指摘であるし、十分検討すべき問題だろう。だがストイキツァは、その主張の根拠を明確には示し得ていない。だが、無視するとかしないとかの問題ではないと思う。そうではなくて、別の世界に、違った価値観の世界を築いてきたのだと思う。 

  (四)  影と気 

美術史の流れ

ザントラルトにせよストイキツァにせよ、果して彼らが中国の絵画史や絵画にどれほどの造詣があったのかはわからない。どうしても西欧中心的な見方に陥ることは避け得ないだろう。アジア史家の宮崎市定は『中国文明論集』での次のように論じている。

 世界史上絵画の技術は最初に東洋において完成の域に達した。それがイスラム世界に入り、さらにこれとほとんど同時に西洋にも入って、ルネサンス期の絵画に影響を与えた。その東洋画の初期において、つまり六朝から唐にわたる頃、ペルシア世界、特にササン朝ペルシアの末期は文化の爛熟時代で、絵画も中央アジア・インドから中国に影響を与えた・・・このように推測できる。さらに、ヨーロッパ中世の絵画は聖母や聖徒の画像であって、異端的な裸体画などは一五世紀以後になって盛んに現れるに過ぎないという。そして彼らが芸術眼を開き、芸術的霊感を受けたとすれば、それは東方との交通によってもたらされたものだと断じている。

文芸復興期のイタリア絵画史は二期に分けられ、前期の一四世紀ではジオットなどが清新な画風を吹き込んだが後継者が模倣に堕し、後期の一五世紀に入ってマサッチオ、フラ・アンジェリコなどによって清新さを取り戻し、やがてレオナルド・ダ・ヴィンチにつながってゆくのだという。そして宮崎は、この一五世紀前半にはチムール王朝の君主シャハ・ルクのもとにいわゆるヘラット絵画といわれるイスラム密画の黄金時代が築かれ、それがイタリアの文芸復興期の時代と重なり、両者が並行して継起したと論じている。

このように宮崎市定は美術の起源を東洋に求めている。東洋の美術に精通していない西洋人からみると承認できない主張だろう。これに関する研究も進んでいるのだろうが、筆者にはわからない。ただ、宮崎のような考えがあることは知っておかなければならない。 

気とプネウマ

 西洋の絵画と中国の絵画の違いは一目瞭然である。中国の絵に影がない、陰影が描かれていないことはザントラルトの言うとおりである。しかし中国の人は何ら違和感を抱かないだろうし、日本人もそうである。ストイキツァは「ヨーロッパの規範を無視している」というが、絵画の規範をヨーロッパ人がつくるものでもない。宮崎市定によれば、むしろ規範は中央アジアに生まれたのである。だから「その他の美術」が西洋の美術であるのか中国の美術であるのか、容易に判断できるものでもない。

西洋のギリシア・ローマの哲学、特にローマに影響を与えたストア哲学ではプネウマという概念がある。日本語に訳し難い。気息などとも訳されたりするが、日本語にある気息は息(いき)や呼吸のことであって、同じではない。無理に訳さないでプネウマとそのままにした方がわかり易いということになる。ではプネウマとは何か。ある哲学者はこういう。ストア学派によると、それは内在的なものであり世界の根源的な力である。また根源火・根源のプネウマ・世界霊とも呼ばれ、同時に世界理性(ロゴス)、世界法則(ノモス)、予見(プロノイア)、運命(ヘイマルメネ)といい表わされる。プネウマによって質料に形が与えられ、軌範と法則にしたがう運動が起こされる。もう少しわかりやすく表現すれば、プネウマは、無機的自然においてはただ存在するだけ、植物界では成長の段階に高まり、動物界では魂として現れ、人間においては理性として現れる。だが、根本的にはプネウマは至るところにあり、それは物体的なものの側面に他ならない。すべては物質であり、いわゆる生命力も物質である・・・ということになる(ヒルシュベルガー『西洋哲学史』1古代、高橋憲一訳より)。

これは、ヒルシュベルガーがプリニウスの世界観を説明するために充てた文章の一部である。見るように中国の気とは異なる。だがプネウマと気がどこかで繋がっているような感じもする。 

気を描く

 旧来、中国絵画は「気」を描くのが主眼だったことを、宇佐美文理氏の『中国絵画入門』で学んだ。気は日本人にも馴染み深い。元気、気力、気分、天気、生気・・・など。だからわかったような気になりやすい。

 中国絵画は気を描くことから始まったというが、気は目に見えるものではない。当初はそれを具象化して絵のなかに現そうとした。しかしやがて、見えないものは見えないとして描くようになった。見えないものをどうやって描くのか。それは見えない気の周りに、見えるものを描いて取り囲むとによって気を描くのである。西洋の都市には広場がある。本当は広場でもなく公園でもない。広場は道路も兼ねているから広場の周囲に道路はない。周囲には直接建造物があり、通常広場と称するものは建造物と建造物の間の隙間である。中国絵画に表される気は、たとえば周囲の山水のはざまにある空間で示される。建造物のはざまに広場を作った西洋人が、山と山とのはざまにある空間に気があることに気づかない不思議である。

 西洋画はなるべくものに似せて描こうとする。プリニウスはある絵の競技会の様子を伝えている。ウマを描く競技会で、アペレスはその審判員を人間からウマに変えることを要求した。競争相手の陰謀を察知したからである。数頭のウマが連れてこられた。ウマたちはアペレスの描いたウマの絵を見て嘶き始めた。その後、その方法がとられるようになった。それが芸術家の技量を試す正しい方法であることが証明されたからだという。それに似た話は他にもある。ただしその方法が正しいとプリニウス自身が言っているわけでもない。彼はこのウマの絵を見たことがあるのだろうか? 彼はこういっている「ある絵の競技会で彼が描いたウマの絵がある。或いはもう失われたかも知れないが」。ある絵の競技会というのは、上記の競技会のことである。

ところが中国人にとって大切なことは、先述のように気を描くことであった。だから絵の対象物は、必ずしも実存物に似せて描く必要性を感じなかった。山水画を見ても、ありえない山容を描きそこに気を漂わせる。人物を描けば、その形ではなくその人物の気品あるいはその精神性を描こうとした。

山水画を例としてもう少し考えてみよう。西洋人は描く人(画家)の目で、その本人の視点で得た情景を描くが、中国人は違う。近景、向こうの山、そして遠く山、それぞれを異なった眼で眺めたように描く。西洋画は一個のレンズで写した絵だ。中国画は標準レンズ、望遠レンズ、そして超望遠レンズを使ってそれぞれの山を別々に写し、それらを一つの画面に上下あるいは左右に繋いだような絵を描く。繋ぐといってもぴったり繋ぐことはできない、だからそれぞれの山景間にすきまができる。どのように隙間をとるか、それは画家の手腕である。そこに白く霞を描くか、淡い霧を描くか・・・それもある。それが気を象徴する。気は本来物質ではないから表すことはできないのだが、絵の鑑賞者はその無の中に気を感じ取ることはできる。その空間に讃を書いたりする。画と書が一体となって一個の思想を形成する。画面の隅々まで絵の具を塗りたがる西洋の絵画とは大違い。だからザントラルのいう「その他の美術」ということになり、西洋人の精神とは違ったところに存在することになる。 

 西洋人が絵のなかにプネウマを描こうとしたとは思えない。プリニウスもそんなことは書いていない。その代わりに西洋人は影を描いた。プリニウスはブタデス伝説を伝えたが、ギリシア・ローマの絵画での影の役割などは書いていない。ギリシアの絵は多くが失われて壷絵ぐらいしか残っていないが、ローマの絵はある程度残っている。それらの絵を見ると、巧まずして影が描かれている。たとえば、先のマイヤーは「アルドブランディーニの婚礼」(ヴァチカーノ図書館蔵)を高く評価しているが、そこでの見事な陰影についてもマイヤーは言及している。だが、特別な精神的な何かを与えるというようなことはしていない。

 しかし宇佐美文理氏がいうように、「世界は気でできており、その気のはたらきによって、花が咲き葉が色づく。人間もまた気からできている。人間の心もまた気の働きにすぎない」というのが中国人の思想ならば、プネウマの思想とそう変りないのではないか。さらに氏は、中国の自然観では、現代の我々がいう自然観、つまり自然は人間に対立するものという自然観とは違い、自然の中に人間もすっぽり含まれると説明しているが、これはプリニウスの思想そのものである。では、プネウマと気はどう違うのか。「影」は鑑賞者の誰にでも見えるが、「気」は士大夫・文人でないと見てとれない、感じとれないともいわれるではないか。 

現代の考察

 中国でも清時代の後半になれば西洋絵画の手法が導入され、影、陰影、遠近法などを用いた絵が生まれた。気を描くという思想も徐々に下火になったのだろう。だが、それを中国絵画の発展とか進歩とかに結びつけることはできない。そもそも芸術に進歩というものが存在するのかという疑問は以前からあった。

 「古代の人々の作った作品がたとえ子どもたちの努力と比べられる程度のものであったとしても、古代の芸術の創始者を稚拙な精神や未熟な精神の持ち主だと非難するわけにはゆかない」というマイヤーの言葉を思い返してみよう。そこには、ゲーテが信頼して任せただけあって真実の香がする。

一方マルクスはつぎのように発言している。

「人類がもっともすばらしく発育したその歴史的幼年時代は、二度とかえらぬ一つの段階として、なぜ永遠の魅力を与えてはならないだろうか? わんぱくな子供もいればませた子供もいる。古代民族の多くはこの範疇にぞくしている。正常な子どもはギリシア人であった。彼らの芸術が吾われにたいしてもつ魅力は、それが生い立つ基礎をなした未発展な社会段階の結果であって、むしろ芸術がそのもとで発生し、しかもそのもとだけで発生しえた未熟な社会的条件がけっしてふたたびかえってこないということと、不可分に結合しているのである」(マルクス『経済学批判』)。

 マルクスは進歩史観の持ち主だったと思う。その彼にしても、芸術には特別の思いがあったに違いない。だが、未発達な社会段階、ふたたびかえってこない未熟な社会的条件といわれるといろいろな感情が沸き起こる。ホメロスの時代も、史記の時代も、源氏の時代もかえってこない。影で陰影を深めた近代西洋絵画の時代も役割が終わったかのように退いてゆく。大きなキャンバスに白の絵の具をただ塗っただけの近代絵画、そこには影も形もない。クラシック音楽と名乗りながら少しもクラシックではなくて、ただ騒音だけが響く現代音楽。「できごとの一つの周期が終わると、世界火はすべてのできあがったものをふたたび消し去り、それを莫大な量の燃える霧にして根源火に返し、次いで根源火は新たにもう一度それを自己の許から解き放つ」(ヒルシュベルガー前掲書)。このストア学派の理論を肯定するわけでも信ずるわけでもないが、人類にとって、一つの周期が終わりつつあると思わせるものがあることも事実である。