静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

ウェスウィウス噴火の日

2014-12-24 17:48:57 | 日記

前回の「コインとワイン―おお、それ見よ」の拙稿に対し、baru氏から懇切丁寧なコメントと数種類の資料の紹介をいただいた。未熟の私、コメントに対するコメントの仕方が未だ分からないので以下若干の感想を述べて謝辞とし、同時に前回の拙稿を読んでいただいた方へ、至らなかった考えの後始末をして、その報告をしようと思う。

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   (一)はじまり 

 ポンペイを滅ぼしたウェスウィウスの大噴火は西暦七九年の八月二四日というのが定説だったが、今年(2014)五月のテレビ番組(ネットで検索できる)で、「一枚の銀貨が発見されて、ポンペイの歴史が塗り替えられた」と報道された。私はこんな歴史を塗り替えるような発見が、どうしてその後マスコミなどで広く報道されないのかと訝しく思った。これがスタート地点である。

 しかし考えてみると、一般には、日本も火山国だからウェスウィウスの噴火には関心があっても、それが八月なのか一〇月なのか、それはどうでもいいことなのである。ポンペイは世界遺産ということでもあって人気があり、しばしばマスコミで取り上げられてはいるが噴火日などは気に留めない、それが常識だろう。しかし関係する学界・研究者の間では、とっくに一〇月説の存在は常識になっていたようだ。門外漢の私が知らなかっただけである。前回紹介したように、すでに青柳正規氏は二〇〇六年での講演で「従来八月二四日といわれてきたものが、実は一〇月半ばであったとする研究」の発表を行っているという。ネットで調べただけだから詳しい内容は分からない。

 この二〇〇六年がどういう意味をもつか、私はまったく知らなかった。だが、baru氏から教示いただいた資料The Inconvenient Coin: Dating the Destruction of Pompeii and Herculaneum(以下、Dating the Destruction of Pompeii and Herculaneumは略す)を見て初めて知った。それによると、一九七四年の六月七日、ポンペイの「金のブレスレットの家」で一八〇個の銀貨、四〇個の金貨が一群の人体とともに発見されたという。もう一つの資料Wikipediaでは、灰に埋まった一婦人の財布の中に、九月末に造られた記念のコインが発見されたとある。この両者は同じコインだと思われる。

  発見されたこの一群のコインは、そのままナポリの考古学博物館の倉庫に収納されたという。三〇年後、倉庫に眠っていたこれらのコインを調べた一研究家が、その中の一枚に注目した。それが上記話題のコインで、二〇〇六年のことである。これは驚くべき発見ということになった。おそらく世界の研究者が注目したであろう。青柳氏が講演で触れたのはこの年であった。今(二〇一四年)から八年前のことである。テレビ番組で「数年前発見」というのは一九七四年のことだろうか、あるいは二〇〇六年のことだろうか。遺跡の灰の中で発見されたのは数年前ではなく四〇年前のことである。

   (二)コインの謎

  最大の論点は、コインの刻字「IMP 15」と「Nonum Kal.Septembers」であった。 

「IMP15」については前回私に誤解があった。一年の任期などというのは大まちがい。そこで少し整理してみたい。インペラトルの称号の授与はいつかという問題である。前回紹介した『ローマ皇帝歴代誌』(クリス・カー著、青柳正規監修)によると、ティトゥスがインペラトルの称号を得たのは次ぎの通り。70年第1回、71年第2回、72年第3回~第4回、73年第5回、74年第6~第8回、75年なし、76年第9回~第12回、77年第13回、78年第14回、79年第15回、80年なし、81年第16~第17回。

 一年に四回も受けた年がある一方、受けなかった年もある。インペラトルは職務ではなく称号だから功績があったときなどに、その都度与えられたものと思える。だから称号を受ける月日は決まっていなかったのではないか。池上彰氏はティトゥスの即位記念として九月末に発行されたとしている。即位したのでインペラトルの称号が与えられたという認識らしい。即位したのは同年六月二四日、記念コインとしては発行が遅いのではないかという疑問は前回述べた。Wikipediaには理由を書かずに、九月末に鋳造されたものらしいと書いてある。一方、先の資料The Inconvenient Coinでは、多分ブリタニアでの功績によるものだろうと書いてある。だがこの頃、ブリタニアの遠征に係わったのはアグリコラである。彼は七八年から八四年までブリタニアに駐留し、七八年にドルイド人が堅守している土地を再度征服したこともあるが、最大の業績は八一年のスコットランドでの征服である。七九年には見るべきものはない。だからスコットランドでの軍功とティトゥスのインペラトル称号の受領とを結びつけるのはおかしい。とにかく、インペラトルの称号については、私などには分からぬことが多いし、考えても致し方ないことだ。

省略した表現の「Nonum Kal.Septembers」に関してはいろいろな解釈があるようだが、前回紹介したように普通に読めば八月二四日である。青柳氏はそのことを話していた。The Inconvenient Coin は、ほぼ一〇月説をとっていると言っていいが、一〇二四日とか一一月二三日とか言ったりして迷いがある。Wicipedia は「七九年のウェスウィウス山の噴火」という題字の下の囲みに、紀元七九年「八月二四日または一〇月二四日」と並べて書いてある。だが若干一〇月説に傾いているように見える。日本でも、一〇月中旬(青柳氏)と一〇月二四日(池上氏)と定まっていない。この日付の混乱に関しては、小プリニウスの手紙にある日付の誤写が原因だという見解が主流のようである。

   (三)一〇月説の補強

  一〇月説は以前から?

 池上氏や青柳氏の発言その他からみて、一〇月説の最大の根拠はティトゥスのコインにあることがわかった。それ以外にもいろいろ一〇月説を裏付ける論点が並べられているが、どちらかというとそれらはコインによる一〇月説を補強するため、後から付け加えた理屈であるという印象もぬぐえなかった。前回参考資料としてあげた『ローマ経済の考古学』の著者ケヴィン・グリーン氏は従来の八月説を擁護しているように思えるが、この書の出版は一九八六年であり、上述の「金のブレスレットの家」のコインの発掘が一九七四年でその重要性に気づいた二〇〇六年であるから、コインの重要性をめぐっての議論はまだなかったと思う。それでもグリーン氏はコインの鋳造のこと、気象のこと、植物の種子などの化石のことなどをとりあげ、噴火は八月と断定した。八月説への疑問はすでにずっと前からあって、グリーン氏はそれに反論したかったのかもしれない。

 八月説を否定する根拠とされているものの要旨(コイン問題を除く)を下に掲げる。

1、 一〇月にはブドウの収穫とブドウ酒醸造の季節は完了している。

2、 噴火のときに多くの家庭では、薪を燃やす暖房を使用していた。

3、 市民は、季節はずれの暖かい衣類を着ていた(「だが噴火の時だけかもしれない」という注がある)。

4、 災害の日、店頭にあった新鮮な果物と野菜は八月としては季節外れのものであ       る。

5、 夏の果実と思われるものは保存のために乾燥してあった。

6、 当年の風向きについていろいろ述べているが、わたしにはよく理解できない。 

 異論と疑問

1、ブドウ酒の醸造以前には保存用の甕には蓋をしていないと前提されている。発掘された甕には蓋がしてあったから秋の収穫後であるという発想である。ワインの保存に関しては前回のブログで詳しく書いたのでここでは省略。

2、前回、これと反対の意見を紹介した。更に追加する。『ポンペイの滅んだ日』の著者金子史朗氏も、「当時、家々はほとんど暖房されることがなかった・・・、寒い日にはどうやってワインを温めたか・・・火鉢で炭を使って暖めた・・・」としている。余談だが、ローマ人は冬には日本酒のように燗をしてワインを飲んだらしい。水割りやお湯割りをしたことは知っていたが・・・私も試してみよう。

3、服装についてはよくわからない。論者自身も上記(  )内のように確信がない。

4と5、二千年前の店頭の新鮮な野菜や果物の種類が、どのようにして判明したか書いてない。前回のブログでは、熱い火山灰が覆いつくしたため乾燥状態になり、そのため果実、木の実、豆、種子などが化石化して残ったこと、腐敗したブドウの木の根の跡が空洞化してそれらの発掘に役立ったことの説明もあった。前回では触れなかったが、その化石の写真もある。地上の野菜や果物は熱風によって消滅したと思うのだが。干した夏の果実についても同様である。化石化したとも思えない。

6、 一〇月説の人はこの風向きにいちばん苦労しているようだ。噴火の被害はウェスウゥス山の東南方面が大きい。あの周辺の風は六月から八月までは西風、それ以外は東風だそうだが、もしその通りなら一〇月には東風で現実の被害の状況と食い違う。だから、その年は異常気象で西風が吹いたのだと説明している。Wiipediaの説明も苦しい。

  (四)ポンペイの春

 ポンペイの街の外れの、ほとんど人影のない草っ原(そこがかつてブドウ園だったことは知らなかった)に腰を下ろして、ウェスウゥスを眺める。今は煙もなく穏やかな姿である。

ウェスウィウス山は史上何回も大爆発をした。火山礫や火山灰が降り積って豊かな平野をつくり、ポンペイの繁栄をもたらした。当時は高層ビルも、ガソリンで走る車も、テレビも、スマホもない。人々は主に、穀物(麦・豆類など)、野菜、果実(イチジク、オリーヴ、ブドウなど)、今の人たちから見ればお粗末かもしれないが、それらを食し、日々の人生を楽しんでいたに相違ない。街の壁には沢山の落書きが残っているが、特に娼家の壁の落書きは興味深いという。だが、残念ながら七九年の八月二四日の噴火の落書きはなさそうだ。一〇月のも。

そういう生活の中にあって、ワインは単なる飲み物ではなく重要な食品の一つであったし、豊かさを支える商品でもあった。だが飲みすぎてはいけない。「真実はワインにあり」である。酔っ払うとつい本音を吐いてしまう。ウェスウゥス山の守護神バッカス(酒の神)も、あまりいい顔はしないだろう。

日の沈んでゆくころ、スタヴビアエの砂浜に座って、ナポリ湾の向こうにゆっくり紅色に染まってゆくウェスウィス山を見る。静かに教会の鐘の音が響いてくる。この山も、何時かまた大噴火するだろう。イタリアの火山観測体制は日本とは比較にならぬほど進んでいるそうだが、噴火を阻止することはできない。人間は自然の中で、自然のなすままに生きていくのだ。

だが、戦争は違う、人間の業だ。世界には今でも二万発に近い核弾頭があるという。第三次世界大戦が始まったら間違いなく核戦争だろう。そしてその戦争の気配は日々たかまり、現実味を帯びてきている。そうなれば生あるものは滅び、地球はただの岩石と化して、宇宙に漂う一つの小さな塊でしかなくなるだろう。そんなことを考えているうちに、ウェスウィウスは静かに闇の中に消えていった。