静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

プリニウスの章(5)

2017-06-28 09:57:32 | 日記

  ソーンダイク『魔術と実験科学の歴史』の抄訳

 

  第三節 プリニウスの魔術についての記述              

 

 東洋起源の魔術

 プリニウスは、魔術の起源と伝播について若干の記述を補足している(1) 。だが、幾分困惑し、信じられそうもないものとして述べられている。というのは、彼は五千年ないし六千年の間隔をおいて二人のゾロアスターがいたと述べ、また、二人のオスタネスがいて、一人はクセルクセスの、一人はアレキサンドロスの、それぞれの遠征に従ったという。事実、かれは、ゾロアスターが一人いたのか二人いたのか、はっきりわからないといっている。いずれにしろ、魔術は幾世紀にもわたって世界の広い地域で栄えたが、それはゾロアスターがペルシアで始めたものである。メディアやバビロニアやアッシリアなどの若干の魔術師は、プリニウスにとっては名前だけのものに過ぎない。あとのところで彼は、アポロベックスやダルダヌスのような人たちをあげている(1 。彼はこのように魔術の源泉を東洋に求めたが、しかし見たところ、ほかの著者がペルシアのマギと通常の魔術師とを区別しているようには、彼は区別をしていない。だが彼は、彼よりももっと魔術を好意的に考えていた人たちがいるに違いないことを明らかにしている。

 (1)第三〇巻の最初の方で明確な事例をあげて述べている。<「デモクリトスはコプト人のアポロベックスとフェニキア人のダルダヌスを解説した」>三〇9

 

 そのギリシアへの普及

  プリニウスは次に、魔術のギリシアへの普及について追跡している。彼は、魔術についての記述が『イリアッド』には全くないのに、『オデュセイ』には溢れるほどあるのに驚いている<> 。彼には、オルフェウスを魔術師として位置付けるべきかどうか確信がない。そして少なくとも古くメナンドロスの時代にテッサリアが魔女で有名であったこと、そしてメナンドロスが自分の悲劇の一つにその名前をつけたことを書いている。<その悲劇の名は『テッサラ』>。だが彼は、クセルクセスに随伴してギリシア語世界に赴き、魔術をはじめて伝播し、そこにたちまち狂気をひきおこしたところのオスタネスに注目している。魔術をもっと勉強するために、ピュタゴラス、エンペドクレス、デモクリトス、プラトンなどの哲学者たちは海外に亡命し、帰ってきてから習ったことを教えた<三〇9>。プリニウスは、大変異常なこととして 、デモクリトスが魔術の教義を普及させる努力をしているのと同じころに、ヒポクラテスが医術を発展させる仕事をしていたことに注目している。デモクリトスの著とされる書物を偽物だとする人々がいるが、プリニウスはそれらを本物だと主張している

 <イ>「不審に堪えないのは、ホメロスがトロイア戦争を歌ったその詩において、魔術については何らの言及もしていないことである。そのくせ・・・」(三〇5f.)

 

 ギリシア・ローマ世界外縁への普及

  ギリシア語世界の外縁、もちろんそこからローマへ魔術が伝わったのだが、その地域ではプリニウスは、モーセ、ヤンネス、ロタペスによって代表されるユダヤの魔術について述べている。彼はまた、キプロスの魔術、つまりドルイドについても語っている。彼らは皇帝ティベリウスが鎮圧するまでは、ガリアで魔術師、予言者、祈祷師であったし、また遠く離れたブリタニアでそうである(一六249) 。このようにして、民族の不一致やお互いの存在を知らないことすらが、世界中に魔術への傾倒を許したのであった。プリニウスによると、スキタイ人以外の場所でも、ロシアの草原やトルキスタンの遊牧民たちが魔術に心酔しているということである。

 

 起源についての正しい理解の欠如

  プリニウスは、魔術は一人の元祖によって公式化された教義の塊であり、漸次的な社会発展の結果によるものではない、と見なしているように思える。あたかも、ギリシア人やローマ人の法律や慣習が、何か一人の立法者によってつくられたかのように。しかしながら彼は一方では、古代人が魔術それ自身を要求していたことを認めている。だが、ゾロアスターやダルダヌスのあのような膨大な言説が、どうしてかくも長いあいだ記録として残されてきたのか、疑問を投げている。このような意見は、魔術が、世代から世代へと一貫して恒常的一般的に続いてきた社会的習慣と態度の潮流であることを、彼がほとんど考えなかったことを再度示すものである。さらに、魔術がなんら交渉のない人々の間にも広く普及したと彼が述べていること自体が、このことを証明している。

 

  魔術と卜占

  プリニウスは当時としては、少なくとも魔術についての広範な視野と基本的特質について、明確な理解を持っていた。彼は、「その権威が非常に大きいことを誰も不思議がらないだろう。というのは、魔術の技術のみが人間精神に最高の魅力を発揮し、他の三つを抱き込み自分自身に合体させたのだから」と言う。三つというのは、医術・宗教・卜占の技術(artes mathematicasのことである(三〇1)。このartes mathematicasという言葉が占星術に関係あることは、この後に続く「というのは、自分の運命を知りたいと熱望しない人、また運命はもっとも正しく空に顕現すると考えない人はいない」という言葉で示されている。だがさらに魔術は、「水、球、空気、星、灯火、鉢、斧の刃などから、またその他たくさんの方法で未来を占うことができ、そのほか、下界の霊魂とも語りあうことができる。」という(三〇14)。それだから、プリニウスが各種の卜占の技術を魔術の一種と見なしたことは疑いない。

 

  魔術と宗教

 われわれはプリニウスが、通常魔術と宗教の親密な関係があることを断言するのを聞いてきたが、宗教の問題よりも自然の事を取り扱う Natural History の性格上、これ以上この問題の細部に彼は立ち入らなかったのである。しかしながら、彼が、その時代の宗教的慣習について時々記述している事柄は、ローマ古来の宗教が、魔術の力、規則、儀式から成っているという他の出典からの資料を裏付けてくれる。

 

  魔術と医術

  『博物誌』全編のほとんど半分は、全部または一部が病気にたいする医術にあてられている。従ってそれは魔術と自然科学の関係を扱っており、とくに魔術と医術の関係について詳しく、プリニウスは我々にきわめて詳細な情報を提供してくれる。実際彼は、魔術は「最初医術から起こったこと、そして高度なより神聖な医術として、健康を増進するという仮面のもとに忍び込んだことは誰も疑わないだろう」と断言している(三〇2)。 魔術と医術は互いに発展してきた。そして後者は今、植物がどんな医薬的効能を持つのか人々に疑問を持たせる魔術の愚行によって圧倒されるという、さしせまった危機に直面している。

 

 魔術と哲学

  しかしながら、多くの意見によると、魔術は健全で有益な技能であるという。古代において、またこの問題についてはほとんどすべての時代において、高い名声と栄光はそのような学問から得られた(三〇2)。エウドクソスは魔術を、哲学の諸学派のうちもっとも注目すべき、そしてもっとも有用なものとして認めようと欲した。エンペドクレスとプラトンはそれを学び、ピュタゴラスとデモクリトスは自分たちの著作で後世に伝えた。

                                                                                 

 魔術の欺瞞

 しかしプリニウス自身は、魔術についてのそれらの主張は、根拠のない、誇張された、虚偽のものであると感じていた。彼は繰り返しマギや魔術師たちを愚か者であり 欺師であると述べ、彼らの言っていることは、不合理かつ恥知らずなものであり、 嘘の塊であるときめつけている(1) Vanitas<空虚・虚栄・欺瞞>、ナンセンス は彼らの信念に対するプリニウスのお得意の言葉であった(2) 。彼の意見によると、彼らの著述のうちの若干は、人類に対する侮蔑と嘲笑の感情によって書かれたものだという(3) 。ネロはこの技術の 虚偽を立証した。というのは、彼は魔術を熱心に学び、彼の無限の富と権力とが熟練した実務家になるあらゆる機会を与えてくれたのだが、どんな驚異も起すことができなくて、その企てを断念した(4) 。このようにしてプリニウスは次 のような結論を下して いる。魔術は「根拠のない空疎なものである。だが何か真理の蔭とでもいうべきものを 持っている。しかしそれは、魔術によるものというより毒薬によるものである」(5)

(1)例えば、二五106  "Sed  magi utique circa hanc insaniunt" <マギどもはこれについて、このうえなく気違いじみたたわごとを言っている>。二九68  "magorum mendacia"<マギたちの欺瞞>。三七165 "magorum inpudentiae vel  manifestissimum ...exemplum"<マギたちのずうずうしさも極まった事例がある>。三七192 "diramendacia magorum."<マギたちの忌まわしい欺瞞>。

(2)次を見よ。二二<20<つまらないことがマギ僧の間のみならずピュタゴラス学徒の間にもあった>、二六20<アスクレピアデスによって発明されたこの医術の体系なるものは、マギ僧の たわごとよりもひどいものだ・・・>、二八85<あの嘘つきの集まりであるマギ僧どもの奸計>、二八94<マギ僧たちは、それらインチキな山師どもの言い逃れはかくも巧妙なのだが>、二九81<マギ僧たちの欺瞞のひとつの見本を省略したくはない>、三〇7<オルフェウスの迷信は・・・>、三七54<マギ僧どもの忌まわしい欺瞞をやっつけてやろう>。

 (3)三七124<わたしには彼らがこんな文句を書き物にしたのは、人類に対する彼らの嘲笑の表現だとしか考えられない> 。

(4)三〇14-18

(5)三〇17 "Proinde ita persuasum sit,intestabilem,inritam,inanemo   esse,habentem tamen quasdam veritatis umbras, sed in his veneficas  artis po llere,non magicas"                                                                  

 

魔術の犯罪                                                                      

  最後の批評は、悪い習慣を作った故をもって、魔術師たちを告発することをわれわれに提起する。とりわけその毒薬というのは媚薬と堕胎薬で代表されている(1) 。そして、そのうちの幾つかの作用は非人間的であるか、または卑猥で忌まわしいものである。彼らは、有害な魔法を試みたり、ある人の病気を他の人に移そうとした(2)。オスタネスそしてデモクリトスさえもが、人間の血を飲むとか、魔術の屋敷の中や儀式において、暴力的に殺された人間の死体の一部を利用することを提起している(3) 。人間を犠牲に供するような怪奇な儀式、つまり「人間を殺すことがもっとも信心深いことであり、さらに人間を食べることがいちばん健康によいとする」というような儀式を廃止するのに、人類はローマの政治に大きく恩恵を蒙っているとプリニウスは考える(4) 

(1)二五25<わたし個人としては堕胎薬についても、いや媚薬についてさえ述べない。・・・それからまたどんな他の罪深い魔術についても述べない>。                                                       

(2)二八86 <もし奴らが嘘をついているのなら何たる詐欺だ。もし病気を他人に移すのであれば何たる邪悪だ>。

(3)人体の一部を医薬に使うことについて(二八4-7)

(4)三〇13

                                                      

 プリニウスの魔術に対する非難の大部分は知的であること

 にもかかわらず、魔術が真実に反し非科学的であるとして知的見地から反論を加えたのに比べて、道徳にかんする論議においては魔術が危険であり猥褻であるということについては、プリニウスはそれほど強調していない。実際、品位に関する限り、彼自身の医学は上品さからはほど遠いようにみえる。と同時に、彼は他の場所で、魔術師の不潔に対する警戒ぶりについて、いくつかの例を挙げている(1) 。そのうえさらに、彼がしばしば触れているところの魔術の利用法やその結果の中には、彼らが例外なく間違っているようにみえるにもかかわらず、非道徳的なものは比較的少ない。しかし病気を治すとかそのほか何らかの価値ある、あるいは少なくとも容認できる沢山の処方目的には異議を唱えている。ひょっとしたらプリニウスは、多少とも彼らの伝承を検閲し、すべての犯罪的秘密を追放しょうと試みているのかもしれない。しかし彼の非難は、道徳的というよりももっと知的なものである。たとえば彼は一つの長い章を、デモクリトスによるカメレオンとその身体の部分の効能についての話からの引用で埋めているが、彼はデモクリトスを魔術伝承の中心的調達者と見なしている。(2) その章の最初のところでプリニウスは、「ギリシア人の虚飾の欺瞞性」を暴露する機会を得たのは「大きな喜びで」あるとうたっている。しかしその章の最後で、彼は一つの願望を述べている。それは、デモクリトスは、ヤシの枝で触れられると節度のないおしゃべりが抑制されると述べているが、デモクリトス自身が触れられるべきであったと。そしていたわりの表現でプリニウスは、「他の点では賢明で人類にとってもっとも貢献した人でも、人間を助けることにあまり熱中すれば過ちを犯すものだ、ということは明らかである」とつけ加えている。

 (1)三〇13

(2)二八69、三〇17 、小便をたらすことについて(二八69)、「マギ僧たちは海に唾を吐いたり」( 三〇17)

(3)二八112-118    

                                                          

 プリニウスの無神論のあいまいさ

 プリニウス自身は魔術に対する一貫した無神論的態度を持続することに失敗している。彼の正確な態度を決定するのは多くの場合困難である。ちょうどデモクリトスについての記述の例に見るように、彼が冷静に大真面目に言っているのか、それとも軽い冗談や皮肉で言っているのか。他にも当惑することがある。魔術師たちを暴露し論駁するため、彼らの正確な断言の一覧表を作ろうとしたことについて、彼がしばしば弁明していることである。しかし実際のところ彼は、たいていは単純に彼らを公にしただけであり、彼らの固有・独特の不合理性が、彼らに対する十分な論駁を保証するだろうということを明らかに期待していた。まれに彼が不合理性を指し示そうと考えたときにのみ、彼の論拠はかろうじて科学的であり説得力がある。彼は次のように断言する。「彼らがすべての生物のうち、モグラをこのうえない畏敬の念をもって見るということが、そのいかさまのまたとない証拠であろう。モグラというものは非常に多くの点で自然に呪われた存在で、永久に目が見えず、あたかも埋葬されたかのように暗闇の中で土を掘っているものなのに」(1) 。また彼はマギたちの確信を攻撃して言う(2) 、ミミズクの卵が頭膚の病気によいというが、「いったい誰が、ミミズクの卵などを見ることができたというのだろう。この鳥そのものを見ただけでも凶兆だというのに」と。さらに彼は、ときどき魔術師の断言を、なんらの判断も弁解もまた疑惑の表明もなしに例としてあげている。そしてまた、沢山の記述があるが、実際には彼が魔術師を例として挙げているのかどうか見分けるのは困難である。ときどき彼は、章の中でずっと代名詞で言及することを明らかに意図しており、名前はまったくあげていない 。他の個所で彼は、それとなくマギを引用するのをやめようとしている。そしてすこしばかり間をおいて、ほとんど気づかれないようにしながら、ふたたび彼らの教義を引用しはじめている(3) 。それにまた、デモクリトスやピュタゴラスのような著述者がいつ魔術の代表者とみなされ、いつ彼らの主張がプリニウスによって正当派哲学として受け入れられたのであるか決定するのは困難である。

(1)三〇19

(2)二九82                                                            

(3)三七54 宝石についての記述の中で彼はこう言っている。「口にするの も忌まわしい魔術師たちの欺瞞」をやっつけてやろう、と。しかし三七118 の碧玉のところまで特別の引用はしていない。

 

魔術と科学の区別がつかないこと

 多分、折々に勇敢な努力をして魔術師の主張に逆らい、あるいはそれをあざけりさえもしたにもかかわらず、プリニウスはひそかに彼らに好意を抱いていただけでなく、半ば信じてさえいたのではなかろうか。いずれにしても、彼はそれとよく似たもの を信じている。そのうえさらに、自然に関するそれ以前の作品にはそのような素材に満ちていたし、彼の時代の読者もそれを大層好んでいたので、彼もそのような素 材を盛り込まなければならなかったのだろう。あるところで彼は、いくつかの事項はあまりまじめに取りあげることはできないが、昔から伝えられてきていることだから削除するわけにはいかない、と説明している    (1) 。ふたたび彼は似たような「ギリシア人の虚栄」につ いて、読者の寛容を乞うている。「彼らが伝えてくれた驚異をみん な知ることも、われわれにとって価値のあることだから

(2) 」。問題の本質は多分、プリニウスは魔術師の主張のある部分を拒絶しながらも、その他の部分は容認できるものと認めていたからではないだろうか。それだから彼は時折懐疑的な態度をとり、 ひと揃いの典拠による彼らの教義をあざ笑い、そしてまた彼が信頼している他の著者の言い分を疑うことなく受け入れている動機なのである。まったく同じように、どこまでがマギについての記述でどこまでがそうでないのか、彼が用いた書物の中においては、しばしば『博物誌』の中でよりも明瞭ではないのである。大変可能性のあることは、われわれにそう写るように、仕事全体を構想するうえで、彼自身の気持が混乱していたということで ある。哀れなディック氏が自分の本の外ではチャールズの「最初の頭」を把握出来ないのと同じように、彼は自分の『博物誌』の外で魔術を把握することが出来ない。ともかくも、一つの事実は明らかにきわ立っている。それは、彼の百科全書の中と当時の学問における魔術の卓越性である。

 (1)三〇137

(2)三七31

                                          


プリニウスの章(4)

2017-06-17 09:54:12 | 日記

         プリニウスの章(4)

 

     ソーンダイク『魔術と実験科学の歴史』の抄訳

 

  第二節 実験的傾向

 

観察と経験の重要性

中世の二つの写本が(1) 最後の巻の七六章の真ん中で "Experimentapluribusmodis  constant・・・・Primum pondere" (「実験は多くの尺度から成り立つ・・・・第一のものは重さである」)という言葉で『博物誌』を終りにしているのは、たぶん、単なる偶然の一致だろう。著作の性質からプリニウスは膨大な書物を利用しているが、彼はしばしば、自然の事実を取り扱う人は、真理へ到達する方法として観察と経験の重要性を認識することが必要である、ということをはっきり述べている。遠くアトラス山まで兵器を運ばなければならなかったローマの多くの高官たちの主張について、プリニウスは経験上、それは嘘であるとくり返し言明している。さらに彼は、権威ある著者が間違った記述を保証したものを信用することほど、軽信的な誤りはないという意見を述べている(2) 。他の個所で彼は、経験はあらゆるものの最良の教師であると呼んでいる(3)。そして荒れ地へ出かけて行っていろいろな植物をその適当な季節に探し求める代りに、おしゃべりや教室での聴講に頼っている、と批判している。地球の上の大地は完全に水によって囲まれていることは論議による研究の必要はない、すでに経験によって確かめられているから、と彼は言う(4) 。そして、もしサンショウウオが実際に火を消すなら、ローマではとっくの昔に実験されていたはずだと(5)。 他面、われわれは『博物誌』で断言しているもので、プリニウス自身が容易に実験して誤りを発見することができたに違いないものをいくつか見出す。たとへば、卵の殻は力やどんな重量でもってしても、少しばかり傾けない限り破ることができないと述べている(6) 。ときどき彼は彼個人の経験を加えているが(7) その他の多くのことに関連した経験についても述べている。

 (1)  Escorial Q-I-4  とR-I-5 .両方とも一四世紀。

   (2)五4<「ギリシア人が言いふらした驚くべき虚誕を聞いても」>、五12<「この判断 の基準の大部分はきわめて虚妄であることがわかる。というのは、高い地位にある人々というものは、実を求める気もないくせに知らないと言いたがらないからだ。従って平気で嘘を言う」>。

(3)二六11." usu efficacissimo rerum omnium magistro"; 一七 2,12, "quare  

experimenti optimecreditur."<3>「すべてのことについての、とりわけ医術についてのもっとも有能な教師である経験」(二六11)。「経験によって私の信ずるところでは」(一七13)              

(4)二166  <「理論的調査の必要はなく、すでに経験によって確かめられたこと」> 

(5)二九76<「ローマは実験によってすでにそのことを発見していた筈だ」>    

  (6)二九46<「卵殻はひじょうに強力だからどんな力も重みも、卵が立っているときにはそれを砕くことはできない」>

(7)二五54."coramque nobis"(「私の目の前でも」);二五169."nos eam Romanis experimentis per usus digeremus."(「私はそれについてローマ人が実験によってその用途を発見したものにかぎって述べよう。」)二五98<「カンパニアの漁夫たちはその丸い根<ウマノスズクサの>を『土地の毒』と呼んでいる。わたしは彼らがそれを潰して石灰と混ぜたものを海に散らすのを見た」>。

 

「実験(experimentum)」という用語の使用                               

経験という語を示すためにプリニウスがもっとも多く使用した用語はexperimentumで ある (1) 。多くの文節においてこの言葉は何か目的のある、前もって意味づけられた、われわれの言語感覚で言うところの科学的経験というようなことを意味するものではなくて、単に、日常生活における通常の経験を意味しているのである(2)。 われわれはまた、経験があって助言してくれる人を意味するexperti(3)という語を見出す。しかしながら、ある文節においては、experimentumという語が、われわれの「実験」という語に大変近い意味に使われている。たとば、一つの卵が新鮮か否かを調べるのに、それを水に入れてみ て、浮くか沈むかを観察することをexperimentumと呼んでいる(4)。 他の画家の絵ではなくアペレスの描いた馬の絵を見て馬がいなないたということが、illius experimentum artis  つまり、芸術家の技量を試す、あるいは立証する、と言われたことなのである(5)。religionis experimento という表現は、クラウディアの貞淑が立証された宗教テストまたは試練にあてている (6)。 この言葉はまた、軟膏の良し悪しを見分ける方法や(7) ブドウ酒のいたみが始まっているかどうか(8)、 薬や宝石や土壌や金属などの真贋をテストする方法を現すのに用いられている(9)。 また二度、大きな酒樽の中と井戸の中に火をともしたランプを入れて底のほうに有毒な蒸気の危険がないかどうかを調べるときに、この語が用いられている(10)。もしランプが消えれば人間の命が危ないしるしだ。さらにプリニウスは、地下水(11)を発見するためや接木(12)するためというような目的をもった実験をすることを示唆している。                                                                                                        

 (1)ときどき他の言葉、たとえば usus という言葉を使っている。

 (2)次の例を見よ。

*二109に「日常の経験で気がつかなかった人は、ヘリオトロープという一種の植物は太陽が通るときいつもその方向に向いていて、日中のどんな時刻にも太陽とともに回り、太陽が雲に隠れているときもそうだということに驚くであろう。」とある。*二235「実験<経験>によると土によってだけそれを消すことができることが わかった。」とある。*八18<「ピュロス王との戦いの経験で、ゾウの鼻を切り落とすことはごくたやすいと いうことが明らかになった」>。*一四61<彼に続いた皇帝たちも多くは、この酒を飲んでも、有害な不消化の発作は容易に起こらないという経験に基いて愛用した」>*一六3<「経験されたいちばんの高潮よりも高い台を築き、そのようにして選んだ敷地につくった小屋に住んでいる」>。*一六156< 「葦は経験上、戦争遂行にも平和時にも欠かせないもの・・・・」*一七13>。*一七163<以前は刈り込みをしないツゲの木からそういう枝を切り取るのが習いであって、そうしなければ活着しないと信じられていたが、経験によってそういう考えは捨てられた」>。 * 一7,163<「以前は刈り込みをしないツゲの木からそういう枝を切り取るのが習いであって、そうしなければ活着しないと信じられていたが、経験によってそういう考えは捨てられた」>。*二二1 <「食物として、香料として、あるいは装飾用としての優秀性のゆえに実験が繰り返されてきたのであり・・・・」>。*二二87<「すなわち、彼は実験によって、その嫌な匂いが脇の下から消えることを証明したというのだ」>。*二二106<「そういうことをした結果高い所から身投げをした人が現われるという大変な経験をしたからだ」>。*二二111われわれの誰もが試みることができる」>。

*二五23<「今迄の経験からもっとも激しい苦悩をひきおこす病気は、膀胱結石による排尿困難であるという結論がでている」>。

経験というのはまた、二つの次の文節の 中にある観念でもある。だが experimentum という語は、それを字義どおり "experience" と、ただちには訳するわけにはいかない。三四139<「鉄を無害なものにしようという実験がいくつもおこなわれてきた」。三四171< 「このことは、物質の残渣やもっとも嫌らしい残物をも、放置せず、いろいろな方法で人々が実験した結果の、その驚嘆すべき効能に注目しなければならないことを暗示している」>。

(3)一六64<「経験のある人たちはこういっている。火と蛇をとりまいてトネリコの葉の輪 が置かれると・・・・」>。二二121<「経験をつんだ経験者たちはまた小麦あるいは大麦の 籾殻を暖めて・・・・」。二六93<「経験をもつ人々はわれわれにこう断言した」>。

(4)一〇151<「また卵は水の中で検査( experimentum ) してもよい)」>。

(5)三五95<「数頭の馬を連れてこらせ、それらに順々にその馬の絵を見させたのだ。すると馬どもは描かれた自分たちの姿を見ていななき始めた。その後はいつもそういう方法がおこなわれ、それが芸術家の技量を試す正しい方法であることを証明した」>。

 (6)七120 < ローマの貴婦人クラウディア・クインタは不貞の非難をうけた。キベラの像がペッシヌスからローマへ運ばれてきたが船がティベル河口で座礁したとき、占い師は、貞淑な婦人だけがそれを動かすことができると告げた。クラウディアが進み出て綱を握り、すぐさま船を引き出した。プリニウスは、謙虚な婦人を選ぶ投票の第二回目にクラウディアが選ばれたことを述べている。「第二回目には、『神々の母』がローマもってこられた際、敬虔さが試されたクラウディアが選ばれた」>。

(7) 一三19<それを試験するときは、肉質の部分の暖かみによって損なわれないように、手の背につける>。

(8)一四130<鉛板をその中へ入れてみてそれが変色するなら、ブドウ酒がいたみはじめた 証拠である>。

(9)四43<あらいものと滑らかなもので、そのどちらも握った手触りで見分けられる>。

(10)二〇5<そのエラテリウム(純粋さの試金石)はそれを当てると炎が消える前に上下にちらちら揺れるかどうかにある>。

(11)二〇203<さらに純粋の阿片の識別法は水によるもので・・・・>。

(12)二二49<これが<アンクサ>が純粋であるかどうかの目安である>。

(13)二九52<純粋な卵の目安は、それを金に結び付けておいても、水流に逆らって浮んで いることだ>。

(14)三三59<金は火に焼かれるほど質が良くなり、火はその良否を試験するのに役立つのだ>。

(15)三三126<試金石をヤスリのように用いて、ある鉱石からテスト用に削りくずをこすり取った場合・・・・>。

(16)三三127<だがインチキはこのテストにもはいりこんだ>。<また磨いた銀に人間の 息をかけてテストする方法がある>。

(17)三三164<商品の標準的な価値の観念を与えるために、ローマでの一般的価格について述べる・・・・>。

(18)三四112<緑青の良否は熱した十能にのせてみるとわかる>。

(19)三四163<「白鉛の良質の目安は、それを溶解してパピルスの上に注いだとき・・・・>。 

(19)三六147<それ(アンドロダマス)を試験する方法は、それをバサニテス石にこすりつけることである>。

(20)三六177<大理石化粧漆喰が適当な濃度になったことを確かめる目安はそれがもう鏝にくっつかないことであり・・・・>。

(21)三七83<本物と見分け難いことこの石<オパール>以上のものはない。唯一の鑑定方法は、日光によってである>。

  (22)「<宝石の>試験はいろいろ違った方法でおこなわれる」(三七・198)、「 もっとも有効な試験の方法は、その石の一片を欠いて鉄板の上で焼いてみることだが・・・・」(三七・200)

(23)二三63<ブドウ酒の滓はひじょうに強力だから、大桶の中へ下りていったら生命が危ない。下したランプがよい信号である>。

(24)三一49<井戸が深くなったとき、良い掘り手でも硫黄またはミョウバンの気に出会うと死ぬ。この危険があるかどうか調べるためには点火したランプを下げて、それが消えるかどうか見ることだ>。

(25)三一46<(水を探す)「この緊張を避けるために、彼らは他の検査の方法に訴える。彼らは五フィートほどの深さの穴を掘り・・・>。

(26)一七127<とはいえわれわれは実験によって自然界に存在するあらゆるものに到達することはできない>。

 

 科学的好奇心からの実験

 今までずっと挙げてきた試験や経験のほとんどは、農業や工業と関係した実用的作業で あった。だがプリニウスは、科学的好奇心だけに基づく若干の事例を挙げている。プリニウスは experimenta  を次のように区分けしている(1) 。底まで完全に光が達することによって、夏至の正午には太陽が蔭をつくらないことを証明するための井戸を掘る例、イルカの寿命を調べるために尾に印をつける実験、いつかふたたび捕えると思っていたのだが、実際は三百年後になってしまったー これは記録された中で、もっとも長く続けられた実験だろう(2) 、それから、ほんとうに蛇の咬傷に免疫になっているかどうか調べるために、ローマで、毒蛇を入れた穴に投げ込まれた人のことを述べた例。                                                                                                                                                            

 (1) 七五183<シエネの町では、夏至の正午には全然蔭がない。そしてこれを    試験するためにつくられた井戸では、光がその底に届き・・・・>。

 (2)九22<実験用標本<イルカの>の尾を切断して確かめたところ、三 十年も生きることがわかった>。

 (3)二八30<こういう氏族から派遣されたエウァゴンという名の使節が、ロー マで執政官によって試しに蛇を入れてある樽の中へ投げ込まれた>

                                                                    

 医学上の実験

 Experimentum  という語はプリニウスによって医学的意味に用いられ、それは中世においてきわめて一般的なものになった。彼は歯痛や目の充血のためのある種の治療を certaexperimentumー 確かな経験(1) 、と呼んだ。のちに experimentum はほとんどの他の処方箋や治療にも用いられるようになった。実際、プリニウスは、われわれの危険やわれわれの死による経験から医者たちが教訓を得ていることを語っている(2)。他の個所で彼はもっと好意的に「あらゆる事物を実験するためには終りを知らず、毒さえもわれわれの治療に利用しようとする」と述べている(3) 。より詳しくはガレノスのところで説明するが、プリニウスは簡潔に経験医学派のことを述べている。彼らは経験に頼ったので自分たちを経験派と呼び(4)、アクロンとエンペドクレスの保護のもとで、シチリアのアグリゲントゥムで創始したとプリニウスはいっている 。                                     

(1)二八56<経験は・・・・歯痛を防ぐためには、朝奇数回だけ冷水で口をすすぐのがよいこと、酢を入れた水に目をひたすと眼炎を防ぐこと、一般の健康は自然な種類の摂生法によって促進ささることをはっきりと教えている>。                                                              (2)二九8. "Discunt  periculis  nostris  experimenta  per  mortis agunt ."ここのあとの文節を BostockとRiley は「そしてわれわれを死に至らしめることによって実験し」と、他の人たちは「そして彼らの実験は人命を代価とした」と訳している。中野訳は<医者たちは、われわれの生命の犠牲において実験を行ない、われわれ の危険を材料にしてその知識を得るのだ>。

(3)二五37 "・・・・adeo  nullo  omunia experimendi  fine ut cogeretur etiam  venera  prodesse." ローブ版中野訳は「あらゆる可能な実験をする探究はまことに疲れることを知らず、毒を強いて有用な薬たらしめることすらあるのだ」。                                                                   

 

 偶然的経験と神の摘発

 プリニウスは、いままでに経験に学んだ筈の「賢いことで有名な著述家たち」の言っていることの中のいくつかの事柄に当惑している。たとえば、ヒトデが非常な高熱をもっていて、海のなかでそれに触れるものはなんでも焼き焦がし、すべての食物をたちまち消化してしまうということ(1) 。堅硬石<1> が山羊の血によってのみ砕かれるということは神の摂理によるものに違いない、と彼は考える。というのは、どんなはずみであろうとそんなことを発見することは困難だし、誰であろうとこんなにとんでもない高価な物質に、不潔な動物の一種の流動物でテストしてみようと思いついたなどと、とても想像できないのだ(2) 。いくつかのほかの個所で彼は、幸運・偶然・ 夢(3)もしくは神の啓示が、ある種の薬草の医薬的効用が発見される契機であることを示唆している。たとえば最近、野バラの根が狂犬病の薬であることが、親衛隊の一兵士の母親によって発見された。彼女は夢の中で息子にこの根を送るよう警告を受け、それによって息子を助けたのである。それ以来多くの人たちがそれを用いた(4) 。また、ポンペイウス時代に一人の兵士が、恥ずかしがってある種のハッカの葉で顔を隠したとき、偶然にも象皮病の治療法を発見した(5) 。ある葉が脾臓の薬であることを偶然発見したが、それは犠牲の内臓がたまたまその葉の上に投げられたとき、その葉が脾臓を完全に食い尽くしてしまったからである(6) 。エジプトコプラに咬まれたとき酢が治癒の特性を持っていることが次のような機会に発見された。それは、ある男が酢の入った皮袋を運んでいるとき、エジプトコプラに咬まれたが、皮袋を下したときにだけ痛みを感じた(7) 。そこで彼はその液体を飲んでみて効果を試そうと決心し、そして完全に治癒した(8) 。その他の薬効は田舎の無学な人々の経験に学んだり、また動物が自分で自分の病気を直すのを観察したりして発見した。プリニウスの意見では、それらの動物は偶然の機会に見つけたのだという。

(1)九183<内部に非常な高熱をもっていて・・・なんでも焼き焦がし・・・たちまち消化してしまうという。どんな実験によってこれが確かめられたのか、私にはどうも分からない>。

(2)三七59<アダマス(主にダイヤモンドか)がヤギの血によって砕かれるという発見が、誰の研究により、どんな弾みでなされたのかとプリニウスは問い、このような発明や利益は神に負っている。また、「われわれは自然の中のどこかに理由を発見しようと期待するのではなく、意志の証明を期待しなければならない」>(三)と述べている。

(3)後に述べるように、ガレノスによれば、経験医学派の人たちは多くを幸運と経験と夢に頼っている。

(4)二五17<母親が神のお告げによって、キュノドロン(バラの一種)の根を息子に送って狂犬病にかかった息子(兵士)の命を救った話>。

(5)二二144

(6)二五45                                  

 

(7)二三56

(8)酢の他の効能で、岩を砕く性質があるとされていること以外に、プリニウス は、口に酢をすこし含んでいれば入浴中熱さを防ぐことができると述べている。       

 

 経験によって証明された驚異

 プリニウスは、多くの驚異や、またわれわれにとって信じ難いような事物を、経験によって証明されたとして述べている。例えば、雷による占いは、公私にわたる数えきれないほどの経験によって裏づけされている。experiti とい

う言葉について私が前にあげた三つ事例のうち二つにおいては、経験者たちは明らかに一種の魔術の手順に従っている(1)。もう一つの個所での「多くの経験」という言葉は、つぼみを摘むときの「奇妙な風習」によって証拠づけられている<2>。魔術的手順の四つめについては、「驚くべきことだが、 容易に試される」と書かれている<3>。このようにして、『博物誌』のなかの経験科学の 徴候から次の話題、プリニウスの魔術の評価へ移行することは容易である。

 (1)二六93<ヘビとトネリコの関係について、「実際に実験したことのある人たちはこう言っている」(一六64)。裸処女の手による膿腫治療について「経験をもつ人々はわれわれ にこう断言した>。

(2)二三110<キュティヌス(ザクロのつぼみ)から採れる目の薬について「多くの研究者の注目の的になった>。

 (3)二八36<人間の唾液が、怨憎を和らげるが「容易に試されうる」>。

                                (第二節了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


プリニウスの章(3) 

2017-06-08 12:03:47 | 日記

               ソーンダイク『魔術と実験科学の歴史』の抄訳                 

序文

第二章 プリニウスの博物誌

    1、科学史に占める地位

    2、実験的傾向

    3、プリニウスの魔術についての記述

    4、マギの科学

    5、プリニウスの魔術的科学

 

         第一巻 ローマ帝国                                                                                         

 

序文 

三人の偉人プリニウス、ガレヌス、プトレマイオスという偉大な三人の名は、ローマ帝国の科学の歴史の中で、きわだった地位を占めている。

彼らは、彼らに先立つ著作家や研究者の成果を利用したり批判したりしているために、われわれにとってこれらの先人がまた、その前のヘレニズム時代の科学研究のための主要な資料源となっている。彼らの多作性、広範な分野を網羅する豊かな視野、そのとらわれない自由な個性的視野によって、彼らの時代の科学的な精神や業績、その大部分は不滅であるのだが、それらについての広範な調査結果をいきいきと記述している。プリニウスは自然科学だけではなく同時に政治に携わり文学をも研究した。プトレマイオスは数学者であると同時に天文学者であり物理学者であり地理学者であった。ガレノスは医学のみならず哲学の知識があった。そのうえ、あとの二人は、科学の知識と方法のうえで最高級の独創的貢献をなした。これら三人の分野はそれぞれ異なってそれにもかかわらず、地中海をとり囲む三大陸の自然についての科学という点で共通しているということは、均質的に広がったローマ帝国の文化の特質を現すものである。

  プリニウスはアルプスの向こうのイタリアの境界にあるコモで生れた。プトレマイオスは、エジプトのどこかで生まれアレキサンドリアで仕事をした。ガレノスは小ジアのペルガモンンからやってきた。最後につけ加えるとこの三人は、アリストテレス以後、直接間接に中世にもっとも強大な影響を与えた古代の科学者だった。このように、彼らは過去・現在にわたって名声を高めているのである                                                                                                                         

 

この巻の計画 

それではわれわれの研究の最初の巻を、年代順を考えながらプリニウス、プトレマイオス、ガレノスの順にはじめよう。だが、プトレマイオスの考察では、自然科学と自然の予兆について同じような結び付きを明らかにしたセネカの『自然の問題について』<1> という著作と関連させながらすすめよう。つぎに、若干の古代応用科学とその魔術との関係についてさらにプルタルコス、アプレイウスのより多様な著作またフィロストラトゥスの『テュアナのアポロニウスの生涯』について考察しよう。魔術と神秘学に好意的な態度を示しているこれら後者の著作家たちから最後のローマ帝国における疑似神秘主義的著作、新プラトンン主義とその天文学および神秘的秘術との関係そして Aelian,Solinus,Hollapollたちの著作へとすすめる前に、迷信に対する文学的・哲学的批判についての若干の考察をおこないたい。                                                                                                                                                                                                                                                                                              

 

 

第二章 プリニウスの博物誌 

目次 

第一節科学史に占める地位

 多様な情報の集積として、古代自然科学の宝庫として、魔術のための源泉としてのわれわれの研究における重要性。プリニウスの生涯、著作、『博物誌』についての彼自身の説明。自然科学への傾倒について。科学と宗教との葛藤。プリニウスは練達した博物学者ではないこと。典拠の利用について。整理と分類の不足。無神論<懐疑論>と軽信性。古代科学の案内人。中世への影響。初期の印刷本。

第二節  実験的傾向

観察と経験の重要性「 実験(expelimentum )という用語の使用。科学的好奇心からの実験。医学上の実験。偶然的経験と神の摘発。経験によって証明された驚異。 

第三節 プリニウスの魔術についての記述

 東洋起源の魔術そのギリシアへの普及。ギリシア・ローマ世界外縁への普及、その真の源泉への理解の欠落。魔術と卜占。魔術と宗教。魔術と医学。魔術の欺瞞。魔術の犯罪。プリニウスの魔術にたいする非難の大部分は知的であること。プリニウスの無神論<懐疑論>の曖昧さ、魔術と科学の区別のつかないこと。

 第四節 マギの科学

自然の研究者としての魔術師。薬草とマギ。薬草の驚くべき効能。動物と動物の部分。その例。動物と動物の部分による魔術の儀式。動物の部分で作られた驚くべきもの。医師におけるマギ。それ以外の魔術の処方。魔術の宣言の要約。

 第五節 プリニウスの魔術的科学

 マギ僧からプリニウスの科学へ。動物の習癖。動物によって発見された薬剤。動物の嫉妬<警戒>。動物の超自然的効能。草の効能。摘み取った草。農業の魔術。石の効能。その他の鉱物・金属。人体の部分の効能。人間の唾液の効能。人間の手術<者>。医薬調合の欠如。交感魔術。動物の反感。無生物間の愛情と憎悪。生物と無生物との間の共感。治療に似たようなもの。群衆の原理。病気の魔術的転移。護符。位置と方向。時間の要素。数に関しての習慣。手術者と患者の関係。呪文。恋の魔力<魅力>と産児制限にたいする態度。プリニウスと天文学。天空による前兆。自然界における星と地球。天文学的医術。結論、プリニウスの迷信の魔術的統一。

 

『博物誌』の巻末の言葉より

   "Salve, parens rerum omnium Natura, teque nobis Qquiritium solis celebratam esse numeris omunibus tuis fave!"

 (さようなら、万物の母なる自然よ、 ローマ市民の中でただひとりあなたを賞賛 したこの私に、あなたの限りない豊かさをもって祝福を与えたまえ。)

   

 

    第一節 科学に占める位置

 

れわれの研究における重要性

 ローマ帝国の科学と結合した魔術についての考察のための、また、その結合が中世に及ぼした影響についてのよりすぐれた出発点を発見するためには、とっくの昔にわれわれはプリニウの『博物誌』を研究すべきであった。このことは、何年か前、私がローマ帝国における知性の歴史の中での魔術に関する簡単な予備的研究のために、大プリニウスの『博物誌』のある章を開いたときに、かつてなく真実に思えたのである。そこには、魔術と科学とのかなりの混乱がみられるが、プリニウスの著作の内容のより精密な分析を含めなくては、わたしの当面する仕事を包括的に、そして完全に仕上げることはできないと考える。

 プリニウスの『博物誌』は多分紀元後77年に出版され、ティトゥス帝に献呈されている。これはおそらく、古代文明に関して現存する資料のうちで、もっとも重要な唯一のものであろう。たいへん簡潔な文体で書かれたこの三七巻の書物は、きわめて多彩な情報の膨大な集積である。古代における絵画・彫刻をはじめとする各種のすばらしい芸術について、また、ローマ帝国の地理について、ローマの凱旋式、剣闘士の試合、劇場の見世物について、また古代産業における製造法、地中海での貿易、イタリアの農業、古代スペインの鉱山、ローマの貨幣鋳造、古代における物価の変動、ローマ人の高利についての考え方、不道徳に対する異教的対応、古代の飲料、古代ローマ人の宗教上の習慣、そのほかさまざまな話題について、プリニウスのそれらのすべてのなかに、人々はなにらかの興味あるものを発見することができるだろう。

 彼は、同時代の様子を描くとともに、それらの起源にさかのぼって描くという両方の傾向があった、さらにまた彼は、古代の経済的・社会的・芸術的・宗教的生活の研究者のみならず、ローマの政治的・物語り的歴史家にとっても興味ある数多くのこまごました出来事を繰りかえし述べている。多分ただひとつの項目も、研究者によって価値をおとしめられる余地は将来ともありそうにない。ただ残念なことは、この著作の、すぐ役にたつ網羅的・分析的な索引が無いことである。この作品は多分事実の集積だろうが、プリニウスはさらに、堕落したローマ社会を描いたエウナリウスの絵と彼自身の高潔な道徳規範を呈示しながら、彼の時代の奢侈と悪徳・没知性的特質にたいする鋭い指摘、おおくの道徳的考察を企図していたことをつけ加えたい。

 

古代の自然科学の宝庫として

 事実、プリニウスの題名 Naturalis  Historia  あるいはすくなくとも一般的な英訳の Natural History  は、あまりにも限られた範囲のものとしてしか批評されてこなかった。だがこの作品は「むしろ、知られているほとんどすべての存在についての、古代の知識と信念を盛り込んだ広範な百科全書である。」(1)

 プリニウス自身、序文のなかでギリシア語の encyclopedia という語でその範囲を説明している。にもかかわらず、彼の作品は基本的には文明よりは自然についての記述であり、その情報の多くは、芸術や仕事(art and bussines )は附随的なものという立場で考察されている。この書物のほとんどは、水生動物、外国の樹木、森林の樹木からとれる薬剤、金属の性質といったような題がつけられている。

 序文とそれ以後の各巻の内容の一覧と典拠した著作家の名簿を含む導入的な第一巻につづく第二巻は、宇宙・天体・気象そして地震や潮汐のような、地表を形成している陸や海における主要な運動を記述している。地理にあてられた四つの巻のあと、第七巻は人間と人類による発明を扱っている。それにつづく四つの巻は・陸棲・水棲動物、鳥類、昆虫、そのあとの十六の巻は草木、樹木、ブドウ酒その他の植物、そしてそれらからつくられた薬剤に関するものである。五つの巻は、人体の部分を含めて動物から得られた薬剤について論じ、最後の五巻は金属、鉱物、そしてそれを用いた芸術を扱っている。このように、プリニウスの主要部分は自然科学に関するものであり、したがって、もし彼の著作がひとつの豊富な歴史的情報の宝庫だとすれば、                    ドミティウス・ピソが言うように、書物というよりは宝庫というべきである。そして                                    われわれのように直接科学史にたずさわっているものにとっては、この書が豊かな宝庫であることをよりはっきりと証明するものである。                                                                                           

 

魔術の源泉として

 『博物誌』は情報と偽情報の巨大な貯蔵所である。というのは、プリニウスの軽信性と、識別力の欠如が、歴史的事実や古代科学の小麦とともに、伝説や魔術というソラ豆もいっしょに彼の大きな穀物倉庫の中に取り込んでしまったからである。このことが多分、他の研究者たちにその記述を受け入れることを警戒させたのだろう。だがそのことこそがわれわれの目的にとって価値を増大させているのである。多分、古代科学の宝庫としてよりも、古代の誤謬の収集としての方がより価値があるのではないか。魔術の多様な種類をあげるとともにその特質のほとんどについて例証している。さらにそのうえに、プリニウスはしばしばマギ僧や魔術師たちに言及しており、また、第三十巻の第一章では相当の長さにわたって、とくに「魔術」について論じている。魔術を扱った古代のあらゆる著作家の作品のなかで、もっとも重要な文章のひとつである。

                                                                          プリニウスの生涯

 大プリニウスは、『博物誌』の中の彼自の説明や、養子にした彼の甥の小プリニウスが大プリニウスに関して書いた二通の手紙によれば、ローマの上流階級の出身者の一般的な経歴である軍隊・法廷弁論・公務の仕事を勤めあげ、また生活の相当部分を皇帝の側近として送った。彼は地中海世界の各地方、スペイン、アフリカ、ギリシア、エジプトを旅行し、ゲルマニアで戦った。彼が、イタリアの西海岸の艦隊の責任を負っていたとき、ウェスウィウス火山の爆発に伴うガスと蒸気の危険から住民を救出しようとして窒息し、五十六歳の生涯を閉じた。

 『博物誌』はプリニウスの著作では唯一の現存するものであるが、その他の著作の題名は伝えられており、それは、彼の偉大な文筆活動上の勤勉さとその関心の広さを示すのに役立っている。彼は、『騎兵の投槍の使用法について』、友人の『ポンポニウスの伝記』、二十巻におよぶ『ゲルマニアでのローマ人の戦記』、『学生』と名づけられたもっと長い雄弁術の本、『疑わしい言葉』と題した八巻の文法的・言語学的著作、アウフディウス・バッススの『歴史の続編』の三十一巻を書いた。

 だが、ティトゥスへの『博物誌』の献辞の中で彼は、日中は公的な仕事にとられて夜だけが文筆活動の時間であったことを述べている。この記述は、彼の甥が手紙の中で、プリニウスが深夜と夜明け前にロウソクの明かりのもとで勉強しているありさまを描いていることによって裏づけられている。小プリニウスはいくつかの具体的事例をあげて、彼の伯父が、ほんのわずかな余暇をもどんなに大切に有効に使ったかということを書きとめている。彼は、横になっているときも後述したり本を読ませたりし、また旅行のときは常に書物と書き台を持った秘書を伴うのがきまりであった。気候が悪いときには、書記は凍えて字が書けなくなるのを防ぐために、腕に覆いをしていた。プリニウスは、いつも読んだものの覚え書をした。死後、彼は甥に小さい字で書かれた百六十冊のノートを残した。

 

博物誌』についての彼自身の説明

以上が、プリニウスがどのような環境で、どのような方法で、自然に関する百科全書を完成したかを示すものである。彼が言うように、ギリシア人であれローマ人であれ誰もこのような広範な仕事を企図したものはいなかった。百人の著者の約二千冊の書物を読み、そこからほぼ二万の題目を選び出したことを彼はつけ加えている。(1) しかしながら、引用文献と引用から判断すると、彼は百人以上の著者を利用したように思える。だが、書誌に加えたすべての著作を全部読んだわけではないと思う。それらの研究者たちの著作を入手しはしたが利用したものは少ししかなく、古代の当時の著作者に知られていなかったものや、その頃発見されたところの多くの事実をつけ加えている。ときどき彼はガリア人とドルイドの信条と慣習についての知識を示している。このように、彼の著作は、他の書物以上の価値を持つ編集作品であると考えられる。だがしかし彼はいう、自分はたんに人間に過ぎないし、自分の時間もいろいろなことに使わなくてはならないので、おそらく多くのものを見落としてしまったであろうと。彼は自分の扱かった主題が無味乾燥(stelis  materia)であり、それ自体が文学的興味を呼び起こすものでないこと、また、会話や驚くべき事件や変化に富む出来事のような、書いて刺激を与えられ読んで楽しめるような内容を含んでいないこと、さらに、粗野な、外国の、野蛮人の用語さえもしばしば使わなければならなかったので、語法の純正さや品格が失われたことを認めている。それにつけ加えて彼は言う、「古いものに生気を、新奇なものに明確さを、平凡なものに光機を、曖昧なものに明確さを、陳腐なものに明確さを,疑わしいものに確実性を、そしておのおのにその本質を、本質に特性を与えることは困難な仕事であります」<1>。

 (1) 序17

 <1> 序15

 

科学への傾倒

 だがしかし、この広範な仕事について、多くの人々が価値のないつまらないことに時間を浪費していると嘲笑したとき、プリニウスにとっての大きな慰めは、彼が軽蔑されているときは自然も軽蔑されているのだということであった。(1) 他の一節で彼は、軍隊の歴史の中の流血や殺戮と、天文学者が人類に与えた利益とを比較している。(2) また別の節では、(3) ギリシア人が、政治的不統一や争いを続けていた時代にもかかわらず、また異った場所の情報連絡が戦争と同じく、海賊によって妨げられているにもかかわらず、科学に大きな関心を抱いていたこと、これに反して現在、全帝国が平和でありながら、ひとびとは新しい研究に乗り出す事もなく、先人たちの仕事をすら充分に勉強せず、研究よりも金銭の獲得に没頭している始末だといっている。これらの章句は、プリニウスの科学に対する傾倒の例証となるものであろう。

 (1)二二15

 (2)二43

 (3)二117

 

 科学と宗教の葛藤について

 われわれはプリニウスの中に科学と宗教の葛藤についての徴候を見る。神に関してのある一つの章で、かれは教父たち<church fathers> についてそんなに多くはないが触れ、そのあとでもっと長く偶像礼拝と多神論についてくりかえし述べている。だがかれの論議がクリスチャンを満足させることは困難であろう。彼は「人にとって、ひとを助けることが神であり 、これが永遠の栄光への道である」と主張する(1)。だが彼はこの高貴な感情を、人類のために大きく貢献した皇帝の神格化を正当化する方向へ向ける。彼は、神が人間世界の出来事に介入しているかどうかを問う。そして、いたずらっぽく、もしそうであるにしても、神は忙しすぎてすべての悪事を敏速に処罰することができないと示唆する。そして、神にとっても実行不可能なことがあると指摘している。神は人間のように自殺することもできないし、過去の出来事を変更したり、十の二倍を二十以外のものにすることもできない。プリニウスはこのように結論づける、「これらの諸事実は明らかに自然の力を立証するものであり、われわれが神だと呼ぶものはこれだということを証明している」と。他の多くの章句で彼は自然の仁慈や摂理について叫ぶ。魂は肉体から離れては存在しないし(2) 、死後はもはや肉体を離れて感情もないし、生れてくる前から魂が存在することもない、と信じている。肉体の不滅という希望は、死にたいする恐れから生れた「幼稚なたわごと」と軽蔑し、彼自身は、肉体の復活などということはどんな可能性もないと信じた。要するに、自然の法、機械的な力、科学研究が可能な事実、これらが、彼の強い関心を充分に満足させたものであり、彼が認めたもののすべてであるようにおもえる。だがわれわれはのちに、彼が科学と魔術の区別に最大の困難を抱えていること、彼が否定したような神々を信じている偶像礼拝者と同じように、われわれにとってはまったく迷信と思われる多くのものに彼が科学としての信頼性を与えたことに気づくだろう。しかし、もし誰か読者が、これを理由にプリニウスを軽蔑する傾向があったら、それをやめてこう考えさせるがよい。プリニウスは一部の現代科学者たちの宗教的信心や、交霊術や心霊研究を軽蔑するに違いないと。

(1)  二18<"deus est mortaliiuvare mortalem">

 (2)七188

 

プリニウスは練達した博物学者ではないこと

 しかしながら、彼の著作がどれくらい正確に古代科学を描出しているかを判断するためには、その仕事に対するプリニウスの適性についての一定の評価をするのが望ましい。かれは、自然科学についての行き届いた訓練や経験を自身では持たなかったように見える。彼は、広く深く自然界の現象や作用を観察する博物学者のようではなくて、知識の大部分を書物や伝聞によって得るような乱読家やおびただしくノートを取る人のように著作した。しかしときどき彼は「彼らが言った」というかわりに「私は知っている」といい、自身の観測と経験の結果を示した。基本的には彼自身は科学者ではなく、科学または自然の歴史家にすぎない。結局、Natural History という題はたいへん応しいものである。もちろん、彼が過去の著作を正しく評価するための充分な科学的訓練を受けていたかどうかという疑問がおきる。彼は最良の部分をノートしただろうか、それらの意味を理解しただろうか、つまらない理論を取り上げて、何人かのアレキサンドリアの科学者たちの正しい見解を見逃したりはしなかっただろうか。それらの疑問に答えるのは難しい。それについては、彼は難解な科学的理論は少ししか扱わず、主として単純な内容や地理的場所や、かれにとって道に迷うおそれのないように見える問題を扱ったのだといえるだろう。科学の専門家は、当時はそんなに多くはいないし、なによりも科学はまだそう広くは広がってもいないし分化もしていないので、個人が全分野を網羅して充実した力量を充分に発揮することは望めなかったと思われる。小プリニウスの評価はたぶんえこひいきがあるだろうが、彼は『博物誌』について「自然そのものと同じくらい変化に富んだ、取り扱い範囲の広い、博識なすぐれた作品です」と述べている。(1)

 (1)「マケルあての手紙」、『書簡集』3・5

 

 典拠した文献について 

 個人的な勤勉とか、衰えを知らない好奇心とか、手伝いをする書記に充分恵まれていたことがはっきりしていることと、そういうこと以上に、編集者としてのプリニウスによる恩恵は、多くの著作家達が謝辞を述べることもなく他人の著作を一語一句写していることを承知しているにもかかわらず、プリニウス自身は典拠した文献についての完全で忠実な記録を残したことである。しかしながら、彼はそれらの文献の多くに大きな賞賛の念を示し、道なき山頂から草の根にいたるまで、あますことなく試み探究した古人の注意深さと勤勉さに、再三再四感嘆の声を放っている(1) 。

 にもかかわらず、ときどき彼は彼らの主張に反論している。たとえば、ヒポクラテスは、熱病の七日目に黄疸が現われるなら命取りのしるしだと言っているが、「しかし私は、この状態からさえ回復した例をいくつも知っている」(2) と言っている。またプリニウスは、琥珀について嘘を書いたといってソフォクレスに文句をつけている(3)。 彼が劇や詩に厳密な科学的真実を期待したということは、驚くべきことのように思える。だがプリニウスは多くの中世の著者たちのように、詩はすぐれた科学的著作と見なしたようである。他の個所で彼は、ある植物の有毒性に関して、対立する他の著作家達の見解よりもソフォクレスの記述のほうを採用している(4) 。彼はまた魚についてのメナンドロスの考えを例にあげているし(5) 、ほとんどすべての古代人のように、ホメロスをあらゆる問題の権威者であるかのように扱っている。プリニウスはしばしばヌミディアのユバ王の著作を引用しているが、古代においてこの人物ほど大うそつきはいなかったように思う (6)。 とりわけ彼は、アウグストゥスの息子ガイウス・カエサルのために書いた書物の中で、六百フィートの長さで三百六十フィートの幅のクジラがアラビアの川に入ったと述べている (7)。だが、プリニウスはどこで冷静な真実に戻るのだろうか。ストア学派のクリュシッポスはお守りについてむだ話をしている(8)。偉大な哲学者デモクリトスとピユタゴラス(9) のものとみなされている論文は魔術にあふれている。キケロの作品の中に出てくる一三五マイル先が見える人のことについて彼は読んで知っていた。ウァロも、この男がシキリアの岬から出てくる船の数を数えることができたと述べている。(10)

 (1)七8 、二三112、ニ五1 、二七1

 (2)二六123

 (3)三七43

 (4)二一153

 (5)三二69

 (6)だが、C・W・キングは『宝石の博物誌』 Natural History of Precious Stons,p.2で、ユバの論文が失われたことを嘆きながら「彼が正確な知識を得るための地位と機会をもっていたことを考えると、多分この『願望』という悲しいカタログのなかでわれわれが遺憾に思うべき最大のものであろう」と述べている。

 (7)三二10

  (8)三二103

 (9)しかしBouche-Leclercq (1899)はp.519 でAulus Gellius(10,12)は、そのような著作を真実のものとして認めたことについて、プリニウスの信頼性に異議を申し立てて「コルメラ(7. 5)は確実な例として Bolus de  endes  をあげている。それはυπоμνηματαの著者をデモクリトスに帰そうとして」と述べ、しかしながら「デモクリトスは魔術の大博士であると言ってもよい何かをもっている」とつけ加えている。

 (10)七85

 

 整理と分類の不備

  『博物誌』は整理がまずく、科学的に分類されていないと批判されてきた。しかしこのような批判は古代の多くの著作について言えるのである。彼の表現は、理論的・組織的にというよりも漫談的であり散漫であるという傾向がある。アリストテレスの『動物誌』でさえもLewes (1) によれば、整理は分類的ではなく素材の選択も不注意であるという。私はときどき、スコラ哲学の世紀は人類に少なくとも一つの貢献をしたと考えた。それは講演者や著述家たちに素材をどのように分類すべきかを教えたことである。プリニウスが、忙しい皇帝のための便利さを考えて、内容の全一覧表をつけ加えたことは、当時にあってはむしろ進んでいたといえよう。ローマの著作家の中ではただ一人ウァレリウス・ソラヌスだけがこの件では先立っていたと考えられる。構成を急ぎすぎたとか、題材の取捨と比較に失敗したとかのひとつの徴候は、プリニウスが時々矛盾した記事を書いたり含めたりしていることに現われているが、多分違った著作からとったからであろう。一方彼は、往々、前にかいた文章の一部に言及しているが、このことは彼が自分の素材をたいへんよく掌握していたことを示すものである。

(1)G.H.Lewes, Alistotle; a Chapter  from the Historytry of  Science, London 1868.

 

 無神論<懐疑論>と軽信性                                                

 プリニウスはかって、何も得るものがないような悪い本はない、と言った。(1) 現代の読者にとっては、彼は信じがたいほど軽信的であり、題材の選択も無秩序だし、真実と虚構のあいだに何の基準も見出せない。だがしかし、彼はしばしば懐疑主義的態度をとり、他の著作家の信憑性と誇張性を鋭く批判している。彼は狼に変えられて九年か十年を狼の群の中で過ごした人間の話にふれて「ギリシア人の妄信はどこまでいくことやら、驚きいる次第である。どんな破廉恥な虚誕も支持者にこと欠かないのだ」(2) と評している。彼はある個所で、承認できる著作家だけを含めるという決心を表明している。(3)

 (1)Letters of Pliny the Younger3.5,ed.Keil,Leipzig,1896.

 (2)八81-82

  (3)二八2

 

 古代科学の案内人

  今日の我々にとってみれば、『博物誌』は事実と虚構の無秩序・乱雑な集積と思えるのだが、全体としてみれば、それらの欠陥は、多分、扱った年代や著作家たちがあまりに広範であったことからくるものであろう。もしそれが、古代最良の科学者たちの最高度の業績ともっとも明析な思考を照らし出すものではないとしてプリニウスガ書き残してくれなかったら、多くのヘレニズム時代の科学者のうち相当部分が知られずに終っただろうと言われている・・それは、たぶん、彼自身の時代とそれに先立つ時代における、自然に関しての科学と誤謬の、まったく忠実な概要であるだろう。いずれにしても、それは、われわれの手元に届いた最良の記述である。この書からわれわれは、ヘレニズム時代の魔術と科学に関してわれわれが混乱した背後事情を知ることができるし、また、ローマ帝国と中世への二つの発展の道の背景をも明らかにすることができるのである。プリニウスはいろいろな点で豊富な話題を提供したし、古代や中世の科学書の水準よりずっと豊饒なので、自然に関する後世の著作家の記述との重複を見つけ出すことが期待できる。そういう個所をかなり含んだ参考書として残してくれた。もちろん、そのような記事は後世の著作家の独創によるものではないが、かと言ってプリニウスを写したものだという確かな証拠もない。両者が同じ著作を利用したのだろう。帝国の後代におけるプリニウスの作品を知らないギリシア人の著作家によるものではなかろうか。

 

  中世への影響

  だがしかし、プリニウスは疑いもなく中世に直接の影響を与えた(1) 。『博物誌』の写本は数多くあるが、確かに読みやすい状態ではない。それは訂正や修正が不正確さを高めたことによるし、また多分、他の点においてもプリニウスについての重要で不適当な扱いがあるからだろう(2)。 また、多くの写本がわずかの巻だけであったり、テキストの断片であったりするため、多くの中世の研究者たちがプリニウスの一部分だけしか知らなかった(3)。 しかしながら、このことは、間違って彼らの著作の中にプリニウスから多くをとりいれたのだと論ずることは難しい。なぜなら、彼らは『博物誌』についてはよく知っていたから、その内容をとり上げて彼ら自身の著作の中に他の素材を盛り込むことを容認したり試してみたりしたのであろう。後の章で『博物誌』からひきだした論文である『プリニウス医学』について述べよう。プリニウスのrerum naturaという言葉は、いくらか似た視野をもった中世のいくつかの百科全書のタイトルとなった。そして、かれに起因する「賢者の石」の上で仕事をすることから免れるには、彼の名は中世においてあまりにもよく知られていた。(4)

(1)Ruck , Die Naturais Historia  des Plinius im Mittelalter,inSitzb.Bayer.   Akad.Philos-Pilol.Classe (1908) pp.203-318. 後期ローマ帝政時と中世初期のプリニウスの引用については、Panckouke, Bibliotheque Latini-Francaise, vol. CV1.を見よ。

(2)写本の研究にはDetlefsen の最初の五巻の各序文があり、より充実したものとしてはJahn の Neue Jahr.,77,653ff, Rhein.Mus., 15,265ff;18,227ff,327. の中の彼の論文を見よ。

  デトレフセンは英語の写本は利用しなかったようだ。だが、Coxe  が「たいへん立派に書かれ保存された」と述べた十二世紀末、オックスフォードの New Collegeでつくられた『博物誌』の最初の十九冊の本は利用したらしい。

  また、デトレフセンは十二世紀のLe Mans 263 に言及していない。これは、全三十七冊で、最後の一冊だけは不完全である。一頁を使って自分の著作をウェスパシアヌスに献呈しているところが細密画(fol.10 ) で描かれている。Escorial<1> Q-I-4 とR-I-5 は、デトレフセンが使用し損なった十四世紀のもう二冊の実際的テキストである。

(3)次を見よ。 M.R.JamesのEton Manuscripts, p.,63,MS 134, BL.4.7., Roberti Crikeladensis Oxoniensis excerpia ex Plini Historia Naturali,12- 13 thcentury,in a lage English hand, giving extracts sxtending from Book 2to Book9.

  Balliol<2>124, fols,1-138,cosumografhia mundi. 著者 John Free  はブリストルかロンドンで生まれ、オックスフォードのベェイリャル・カレッジの評議員(特   別研究員)を勤め、のちパドゥアで医学の教授、ローマで医者となった。また大変   市民法とギリシアに明るい。Coxe  は「この著作は二巻から始まって二十巻で終っ   ているプリニウスの『博物誌』の一連の抄録でしかない」と言っている。John  Fr   eeが、先の註であげたThe first nineteen booksの写本を利用しなかったのが不思議だ。それ以後『博物誌』の第二巻がしばしば第一巻とされてきた。Balliol 146A; 15th century,  fol . 3-,『博物誌』の要約が、「キリストの下僕、私、Regina   ld(Retinaldus)がこのプリニウスの書を通読せり・・・・・・」 という巻頭の序文付きであらわれた。

 (4) Bologna,952,15th century,fols. 59-60,"Tractus oputimus in quo expsuit

     et aperte detlaravit plinius  philosophus quid sit lapis  philosophicus et  ex qua materia  debet fieri et quomodo"

 <1> エスコリアル。スペインのエル・エスコリアルの町にある有名な建造物で宮殿・礼拝堂・僧院などを含む。

 <2>Ballial はオックスフォード大学のもっとも古くて有名な寮( college )の一つ。

 

初期の印刷本

 少なくとも中世の終りごろには、『博物誌』全巻がよく知られていたということは、多量の版の存在がそれを示している。それらのうちいくつかは非常に良い状態で印刷されている。それは印刷技術が発明されるとすぐにイタリアの印刷機でつくられたものである。1476年と1489年にベニスで出版されたイタリア語訳は言うにおよばず、フロレンスのMagliabechian 図書館だけでも、1469年と1472年にベニスで、1473年にローマで、1481年にパロマで、1487年・1491年・1499年にふたたびべニスで印刷された版がある。それらの版には、プリニウスの主張についての、公表された若干の評論が添えられている。それ以後、1492年にはフェルラーラ<ポー川河口に近い都市、古い大学や大聖堂がある> に、ビチェンツァ<イタリア北東部の都市> のニコラス・レオニケヌス<Nicolas Leonicenusの現した『医学におけるプリニウスその他の誤りについて』が出た(2)。 これはポリツィアーノへの献題がついている。だが二年後プリニウスには Pandulph Collenuciusという擁護者が現われた(3) 。

だが,プリニウスの後世への影響については後の章でくりかえし述べよう。今は、まず第一に、彼が経験科学についてどんなしるしを残したか、あるいは過去から何を引き出し、かれ自身は何をつけ加えたかを問おう。第二に、魔術に関して彼がどういう立場を示し、どう述べているか、第三に、彼が自然科学だと考えたもののうち、どれだけをわれわれは重要な魔術として重視したらよいのだろうか、ということを問題としよう。

(1) Fossi『フロレンスのマグリアベチアナ公立図書館に保存されている一五       世紀に印刷された文書の目録』(1793-1795 )2、 374-81。

  (2) De errorebus Plini et aliorumin medicina,Ferrara,1492.

  (3)  Pliniana defensio,1492.