静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

軍国少年

2013-08-01 15:41:37 | 日記

 (一)

 ドーバー海峡は比較的狭い。泳いで渡った人がいた。朝鮮海峡や対馬海峡、あるいは東シナ海を泳いで渡る人はいない。

 イギリスも日本も島国である。イギリスは何度も外部からの侵略・支配を受けた。ローマ、アングロ・サクソン、ノルマンなどから。日本は一度だけ、蒙古の大軍が二度に亘って襲来したが二度とも”神風”が撃退してくれて、一歩も領土を奪われたことがない。その代わり、日本が侵攻した事例はたくさんあって覚えきれない。古代から中世かけてはさておき、それ以後大きいものだけでも秀吉の”朝鮮征伐“、薩摩藩による琉球支配、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争・・・。その前、明治維新直後には征韓論、征台論があった。なぜ日本は海外侵略が好きなのだろう・・・誰しもが抱く疑問である。今度はアメリカと手を組んで北朝鮮や中国に攻めて行くつもりなのだろうと勘ぐる向きもある。そのためには邪魔になる憲法を改正しなければならない。それは今だ!!

 秀吉の朝鮮侵略と薩摩藩の支配とを除いては、すべて明治以降である。薩摩藩が明治に至るまでの約300年間、浄土真宗を禁制にし、「かくれキリスタン」ならぬ「かくれ念仏」を生みだす原因になったことを知ったときは驚いた。薩摩は長州と組んで王政復古を果たした勢力である。おそらく日本列島でも最も旧来の陋習を維持してきた藩だったろう。西洋の兵式を習ったにしても、それは和魂洋才のうちの洋才を採り入れたに過ぎず、和魂は神としての天皇と頂く絶対支配の体制に役立てたものでしかなかった。いや、その洋才にしても、帝国主義的侵略思想であり、それに見習っただけかもしれない。

 しかし侵略戦争に関しては面白い見解があることを知った。比較文明史家の湯浅赳男氏は11世紀末からの十字軍は過剰なエネルギーの排出であった。十字軍であれ秀吉の朝鮮侵略であれ、エネルギーが溜まって、これを棄てるために軍事行動を起こすのだ・・・と語っている(石・安田・湯浅『環境と文明の世界史』)。この理論を基にすれば、薩長を中心とする明治政権は、政権成立直後からエネルギーを持てあまし、征韓論や征台論などを繰り返し、1895年には日清戦争でエネルギー放出を行い10年後の日露戦争では更にもてるエネルギーを爆発させたのだ。その後もせっせとエネルギーを蓄え、満州事変・日中戦争・太平洋アジア戦争へと持てる過剰なエネルギーを排出させたということになる。

 (ニ)

 徳川の300年近い治世、「徳川の平和」と呼ぶ人もあるが、この間、先の薩摩藩の「琉球処分」を除いては外国に軍事支配を及ぼすことはなかった。私たちの知っている戦争は、過剰なエネルギーの排出なんかではない。明治の地租改正と地主小作制度に苦しめられる農村の貧困、「女工哀史」や「職工事情」などにみられるようなプロレタリアートの劣悪労働条件と低賃金、その背景にある財閥の横暴、軍閥の支配と天皇制官憲の抑圧・・・これらがエネルギーの過剰なのだろうか。

 昭和の「十五年戦争」は、昭和初期の底知れぬ農業恐慌、それに追い討ちをかけた世界恐慌、それが農民と勤労者階級を襲う・・・その危機を戦争と侵略という手段によって糊塗しようとしたのが日本帝国の支配階級の意図ではなかったのか。「満州事変」はなぜ起きたのか? いや、なぜ起こしたのか

前に一度紹介したことがあるが、満蒙開拓団を見送る情景を描いた加藤秀雄の詩一篇をもう一度載せよう。

     移民

 祖先の墓の埋もれている/ふるさとよ。帰る日 期せず/また ふたたび

 土地のない/水呑み小作/そのみじめさに/憧れる“大陸”/夢よ破れな

 はなやかに/テープはためき/やがて切水/船、いま岸壁を/ゆっくりと離れる

 顔も服も/よこなぐりの雨にズブぬれだ/それもかまわず/わかれの旗を・・

救いようのない貧困が都市や農村の勤労者たちを襲っていた。それは半封建的な土地制度と、非人間的な劣悪労働条件の上に築かれた独占資本が国民に強いたものだった。そしてより大きな戦争の危機の予感が国民の心の深奥をよぎっていたのかもしれない。満蒙開拓団は、ソビエトに対する防衛の役割をも担っていた。団員の住所には銃が常備されていたというではないか。挙句の果ては国に棄てられ棄民となった。

敗戦後の占領下で、連合国から財閥解体、農地改革、労働基本権の確立等が指示されたのは当然だった。もちろん男女同権も含めて。残念ながら日本人自身の発声は微弱なものだった。

 (三)

自他共に許すトルストイアン武者小路実篤、小説家であり思想家であり、社会事業の実践家でもあった。彼は幾つもの伝記本を書いているが、1936(昭和11)年、『トルストイ』を上梓した。随分苦労して書いたらしい。570頁に及ぶ大著である。大人向けの本だが、全漢字に振り仮名がふってあって子どもでも読める。もっとも、当時の子どもは振り仮名なしでも読めただろうが。反戦思想家・平和主義者として社会的影響力も大きかった実篤のこの書は広く読まれ、読者に深い感動を与えただろうと思われる。それは今読んでもそうである。

 この書の出版の少し前、前田曙山の『落花の舞』(1925年)という小説がでた。ここに名を出す特別の理由があるわけでもない。たまたま見つけたからである。ありふれた「大衆小説」、しかし何回も映画化されて評判も良かったらしい。それは『女工哀史』が刊行された年でもある。『落花の舞』は、美形の剣士が自分を慕う女性に、実は私は女だと告白する・・・その場面はこうだ。

 「お前,麿が其の方を伴うて、同じ旅枕を重ねても、八幡大菩薩の罪も咎めも中らぬというのは、斯様な仔細があるからじゃ・・・・まあ此手を此処へ入れて合点いくまで、いろうて見てくりゃれ。

 少将は顔をサッと赤らめながら、お絹の手を持ち添えて、芳醇蕩けるばかりの内懐へ入れさせた。

 長襦袢の襟を分け、白絹の肌を透して、お絹のときめく指先に触るるものは、暖かき餅のように柔らかく、羽二重の絹よりも滑らかな雪白の快き双つの隆起よ。花の蕾の花押(かきはん)を据えたような乳首の仄きは、人の命を吸い取る玄妙な道筋へ、遊神漂蕩として流れゆくのである」

 この『落花の舞』の一節はブログで発見した。ブログの投稿者(仮にAさんとする)がこの書を読んだのは、「欲しがりません、勝つまでは」(このスローガンができたのは1942年)の時代、小学4年か5年だったという。Aさんはそれが懐かしくて、図書館を探して発見したという。きっと全国の多くの少年が胸をときめかせながら読んだのだろう。

 私は今、この2冊の本を並べて論評しようというわけではない。ただ、日中戦争から太平洋戦争にかけての頃、全国の多くの子どもたちが読んでいた可能性があること、もちろん大人たちも読んだだろうことを指摘しておきたい。

 今も、「私は戦前戦中、軍国少年だった」と語る人が多い。先日読んでいたエッセイにも「もうちょっと早く生まれていたら、熱烈な軍国少年になっていた」(宮崎駿氏)との発言にぶつかった。野坂昭如氏は前に「ぼくらの世代は軍国少年と呼ばれる」(「七転び八起き」(13/2/2)と書いた。それらの言明をいちいちメモしたりはしていない。だが、これほど多くの無名・有名人がそう言っているのを見ると、軍国少年でなかった人たちは肩身が狭いだろう。一方上述のような、反戦・平和主義者のトルストイに関する書を読みふけったり、『落花の舞』のような子どもの官能までもくすぐる小説を読んでいた少年たちがいる。『少年H』の世界とは隔絶の世界だ。それが同時に存在した。林文子の『放浪記』は日本社会の底辺にうごめく貧民の生活を描いて社会に衝撃を与えたが、それだって子どもたちが読んでいる、太平洋戦争下で大杉栄や中江兆民を読んでいた中学生もいた。

 今の人たちは、戦前の教育をなめている。当時の少年・少女たちは平均して今の大人たちが想像するよりずっと読解力があったのではないか。もっとも今日では裕福な家庭の子女には特別な教育を授ける塾・学校が存在するらしいが・・・。

 以前、日本国憲法を方言(お国ことば?)で読む運動があると報道された。最近、口語に書き換える運動をしている人がいるようだ。これらの一部を見た。滑稽である。憲法は法律である。法律の文章は、その一語を変えただけで意味が違ってくることがある。安易に言い換えてはいけない。この人たちは法律を、憲法を何だと思っているのだろう。難しければ学べばいい、子どもには教えてあげればいい。スマホンとやらいうものに熱中する暇があるなら学習すればいい。野坂昭如氏は「毎日、教育勅語を暗誦させられ、覚えさせられた」と書いているが、他にもそんなことを書いている人が何人もいた。私などからみると信じられない。あるとき(修身の時間だと思うが)担任が、教育勅語を覚えてこいと全員に言い渡した。覚えることはそんなに困難なことではなかった。次の時間、担任はクラスでできる生徒三人ほどに暗誦させた。それでおしまい。以後、一度も暗誦のことは口にしなかった。暗誦させられまいかとビクビクしていたわたしは胸をなでおろすと同時に物足りなさを感じたことを覚えている。ものごとの記憶というものは、そういう特別の感情と結びつくときに覚えやすいものだ。小学校の頃の記憶に残るものの多くは、このように感情にまつわるものが多い。おそらく脳の中の扁桃体の働きによるのだろう。あるとき、歴代天皇の名を覚えろといわれた。これは困難だ。勅語のように意味があるものなら覚えやすいが、天皇の名の縦列に意味があるとは思えない。どうせほかの級友も覚えられないだろうと高をくくった。担任の先生だって覚えて点いないのではないか? 結局一回も生徒に歴代天皇の名を暗誦させることはなかった。私たちは担任と暗黙の共同戦線を張っていたのではないかと、後年、考えたこともある。そもそも、教育勅語を丸暗記したから軍国少年だということには決してならない。何か勘違いしている人がいるのではないか。

  戦前の大日本帝国憲法や教育勅語は相当難しい漢字の使用と言い回しをしている。にもかかわらず小学校ではきちんと教え、子どもたちは理解していた。現憲法ははるかに易しく明快な文章である。それが難解だというなら、日本人の学力は戦前に比べて遙かに劣化したことになる。小学校で英語を必修科目にする前になすべきことはあるだろう。先ほどのAさんはこういっている。日常的にやることがなかった、ラジオもテレビもゲーム、遊び道具もなく、父親の本棚からわけもわからず『落花の舞』を引っ張り出して読んだ・・・と。前に私は同じようなことを書いた。違うのは、私の場合帰宅後は友達と毎日野外で遊びほうけていたことだけだ。それが日常的に(雨の日と夜を除いて)私のやることだった。

 ・・・挙句の果て私は軍国少年になり損ねた。戦争が進むにつれて、兵隊・軍隊に対する反感と憎しみは募る一方だった。これは私だけではない、私の中学同級生たちのほとんどがそうだったと思う・・・口には出さないが・・・いや、とこどき思わず口から漏らす級友もいた(このことは前にブログで少し書いた)。識者たちが戦前を軍国主義一色に塗りつぶすのは止めて欲しい。どうして今の識者には、戦前・戦中に軍国少年になった人が多いのだろう。

(付) その後の前田曙山のことは知らない。武者小路実篤のことは広く知られている。実篤は突如変節し、反戦思想を翻して戦争賛美・戦争協力に向かった。戦後公職追放になったが、のち文化勲章を授与された。林文子はみんなが知っている通り。