静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

空中権ー新東京駅の

2012-10-22 16:06:11 | 日記

(一)東京駅
 東京駅が改築された。「空中権」の売却費500億円を使って。
 「新しきことは常にアフリカから来る」ということわざが古代ギリシアにあり、そ
れはローマにも伝わりさらにアフリカ自体にも伝わった。アフリカでは今日でも使わ
れているという。だが現今、新しきことはすべてアメリカから来るらしい。例えば原
子爆弾、原子力発電、オスプレイ、そして「空中権」。

 ここで一つの年表を作ってみた。といっても、高校の日本史資料集の年表から適
宜抜粋して並べただけ・・・内容は、みんなが知っていることだ。
                                                                           
1904年 日露戦争始まる。
1905年 ポーツマス条約、日比谷焼打ち事件。第2次日韓条約調印伊藤博文総監に。
1906年 東京市電焼き打ち事件。各地で労働争議。漱石『吾輩は猫である』
1907年 ◆東京駅舎建築着手◆。戦後恐慌始まる。足尾銅山等で暴動、軍隊出動。
1909年 閣議、韓国併合の方針決定。伊藤博文射殺さる。生糸輸出高世界一に。
1910年 韓国併合に関する日韓条約調印(朝鮮と改称)。大逆事件の検挙始まる。
1911年  幸徳秋水ら12名の死刑執行。帝国劇場開場。
1912年  第一次護憲運動おこる。呉海軍工廠スト。美濃部達吉の天皇機関説。
1914年 ◆東京駅舎竣工◆・・・めでたしめでたし。第一次世界大戦勃発戦争景気。
   
 1938年(昭和13)7月3日から5日にかけて六甲山地から神戸市にかけて豪雨があ
り「阪神大水害」に。死者616名、家屋の倒壊3623、埋没854、半壊644
0、浸水家屋約8万戸とという記録がある。谷崎潤一郎『細雪』にも描かれている。
ちょうどその頃、私は東京駅に降り立った。小田急線に乗ったことは覚えている。親
戚に2・3日泊まってまた東京駅から今度は東海道線で下った。一家が転居するとい
う生涯の大旅行であった。つまり少なくとも2回は東京駅に行った筈である。だが、
この駅のことは全く覚えていない。おぼろげに覚えているのは大阪駅のだだっ広い(
そう感じた)駅構内だけである。列車が不通になって長い時間待たされた。辛い辛い
時間だった。日中戦争も2年目に入り、耐乏と空腹の時代が進行しつつあった・・・
この部分は余談。

(二)デジカメ
 大正時代にできた東京駅は日露戦争に勝って(もう少し続けていれば負けていた)
世界の強国になった大日本帝国の威厳を誇示することになった。政治経済的にも後れ
ばせながら列強に肩を並べる帝国主義国家成立と評されることになる。
 以前、東京駅丸の内側に降り立って見れば広く立派な道路が一直線に伸び、そのつ
き当たりの皇居の森が展望できた。その皇居から逆に真っ直ぐに戻れば駅舎の中央部
の、天皇「行幸」の折りの車寄せに至る。見事な都市プランであった。
 以前は駅前の丸ビルは確か8階建て、高さ30メートル程、今の新丸ビルは38建
て198メートルだそうだ。6倍以上の高さである。新丸ビルだけではない、そのへ
んのビルがノッポになった。相対的に道路は狭くなる。今は東京駅から皇居への道路
は昔のようには堂々としていない、むしろ貧弱。巨大なビルに負けている。駅前広場
の反対側から駅舎を眺めてみる。みんな(テレビや新聞、その他市民)が絶賛する復
元した赤煉瓦の駅舎の背後から四角くて巨大な、白っぽいマンモスみたいなビルが幾
つも、赤れんがに覆いかぶさっている。「なんだ、あれは!」と言いたくなるような
代物である。みんな新丸ビルみたいに東京駅から「空中権」を買って、それであんな
にのさばっているのだろう。マスコミは一様に東京駅の復元を賛美する。しかし、あ
の醜怪な建造物に触れることはない。
 ローマのコロセウムにもし空中権があれば高く売れるだろう。だがローマ人は決し
てそんなことはしない。買う馬鹿もいまい。
 「空中権」という思想はアメリカからやってきたそうだ。やっぱり新しいものはア
メリカから来るのだろう。コカコーラも、マクドナルドもアメリカからやって来た。
東京駅はこんなにビルの谷間に落ち込んだが、まあ、大日本帝国も滅亡したのだから
仕方ないか。アメリカのものはみんな良いものなのだから。
 新装なったこの東京駅を絵に描く人もいるだろう、どうか、醜悪な背後のビルは抹
殺してください。そう言ったら、知人が、デジカメなら自由に抹殺できますよ、とい
った。残念ながらデジカメはアメリカから来たものではないらしい。

(三)斬新
 以上のような考え方は、保守的というか、いかにも旧態である。今、東京では地震
・火災・津波などなど大災害の恐れが警告されている。特に木造の密集地が危険だと
指摘されている。そこは後述する関東大震災後の復興計画の区画整理から漏れた箇所
が多い。
 そこで提案。
 皇居が将来的にも高層化する予定はないだろう。あの広い皇居の「空中権」を売り
払って皇居の周りに超高層ビル、摩天楼を建設するというのはどうだろう。オフィス
とかマンションとして。マンションには大災害が心配されている地域の住民に入居し
てもらうのだ。建築業者その他が潤うし、防災の面からも有意義。これこそ平成の大
事業、後藤新平もあっと驚くことだろう。
 戦後の日本は斬新なことを繰り返してきた。典型的な例は、お江戸の中心でありシ
ンボルであった日本橋の真上に首都高速道路を作ったことだ。あれを最初見たとき、
信じられない思いだった。忍ばずの池の周辺は高いビルもなく、江戸の風情を残す数
少ない場所だと思っていた。その池の端に突然ノッポビルが出現した。景観は一変し
た。これも信じられないことだった。その後何を見ても、信じられないものはないと
考えるようになった。つまり、何事も信じなければいけないということ。皇居の周り
を超高層ビルで囲んだって信じなければいけない。「空中権」売却で得た資金の使い
道は東京都知事が考えてくるだろう。尖閣諸島買取りなどケチなことを言わず、千島
列島や樺太を買い切って見たらどうだ。
 後藤新平は、わが国に近代的都市計画思想を持ち込んだ功労者といえよう。192
3年の関東大震災に当たっては、いわゆる帝都復興に貢献した。
 しかし彼の提案する都市計画法や帝都復興計画は大幅に痛めつけられた。彼の広げ
た大風呂敷は破れた。しかし、ハンカチくらいは成功した。彼の大計画の前にはだか
ったのは元老や貴族院、そして保守的な政党・代議士たち。この最後のものが一番手
ごわかったらしい。大正デモクラシーのなかでの代議士たちである。見ていると、多
くは私欲から反対している。昔も今も、禄でもない代議士たちが多過ぎる。風呂敷が
ハンカチになった典型的例は道路である。そんな広い道路は必要ないと大幅に削られ
た。だが今日の東京都の基本的骨格がこのときつくられた。大規模な区画整理が成果
をもたらしたといわれる。だが諸種の理由でこの区画整理から外れた箇所がある。今
日でも消防車も入れない曲がった小道の、木造家屋の密集地帯があると。これが先の
皇居を取り巻く超高層マンション群の構想に繋がる。この話もちょっとどこかおかし
い所があるが、我慢してもらいたい。
 後藤新平の復興計画に比し、戦後の復興計画にはほとんど見るべきものがなかった
ということ、いや逆に、後藤のチームたちの成果を食い荒らし打ち壊すような仕業ま
でやっていることが顕著である。
 確かに戦後の復興はアメリカの占領下という制約があったせよ(占領軍はしばしば
口を挿む、それは命令だ)、あまりにも無策、ご都合主義だった。それは今日まで続
いている。戦前、上野のお山の西郷さんの銅像の横の斜面は、帝都復興計画によって
見事な石組みと植え込みによって美観を呈していたという。だが、戦後削られて商店
街のビルになってしまった。
 あまり考証の確かでない時代劇をみても、江戸のまちがいかに水運によって支えら
れていたかがわかる。そこに情緒も生まれる。その多くは明治以降も生きていた。戦
後、瓦礫の処理に困った東京都はそれらの川に瓦礫を投げ入れて土地を造成して販売
して利益を得たたという。実に実利的である。それでもって東京の中心部の景観は大
変革した。
 ロンドンのテムズ川やパリのセーヌ川、ローマのティベレス川などの川べりは多く
が遊歩道や公園になっている。東京にはわずか隅田川言問橋両岸に、帝都復興の目玉
の一つ、三大公園の一つとして墨田公園がつくられ。それは戦前の地図でも確かめる
ことができる。しかし、戦後左岸の遊歩道は首都高によって潰されてしまい、今や地
図上そこには墨田公園という名もない。
 その他、後藤の帝都復興工事によって建設された施設や道路が、戦後いろいろな名
目のもと損傷を受けた。東京オリンピックと首都高建設がとくに大きなダメージを与
えた。そして高度成長、新自由主義のかけ声のなかで無秩序な開発が進められてきた
。その際、空中権は格好の材料となったのかもしれない。いまや東京は大災害にもっ
とも弱い大都市になってしまった。都心や副都心などに天をも制する勢いでビル群が
立ち並んでいるが、遠くから眺めてみると、あたかも墓石の羅列のように見えてくる

 今、東日本大震災・原発大災害から復興する手だてを考えるのに、関東大震災と戦
災からの復興行政のあり方は重要な教訓を与えてくれるように思う。私にはそこまで
考えを及ぼす力はない。まあ、少しばかり皮肉を呟くのが精一杯。今回の災害は一都
市の首長や議会だけでの責任で片付く問題ではない。国家の総力を挙げて対策を講じ
なければならないのに、政府や議会は政争に明け暮れ、「復興資金」の横取りに専念
している。実に暗い。                                                       


ハイネよ!生きることとは?

2012-10-14 14:27:56 | 日記

(1)                                                                     
 19世紀の人ハイネは、ユダヤ人だったのかドイツ人だったのか知らないが、つぎ
のように書いているそうだ。「死ぬほうが生きるよりましであり、いちばんよいのは
生まれてこなかったことである」(マイヤー『彼らは自由だと思っていた』265頁)。

 プリニウスはいう、人間のたった一つの過ちは生まれてきたということである。だ
から、受罰をもってその生涯を始める。人間は裸のままで生まれてきて、生まれるや
いなや大泣きする。他の動物にそんな泣き虫はいない。そして、手足を邪魔もの(衣
類など)に包まれて泣きながら横たわっているだけだ。・・・こんな出発をしなが 
ら、自分たちは誇りある地位に生まれてきたのだなどと考える者がいるとは、なんた
るたわけたことだろう!人間は教育によらなければ何一つ知らない。ものを言うすべ
も、歩くすべも、食べるすべも知らない。生まれながらできる本能といえば泣くこと
だけだ。
 従って、生まれてこなければよかったとか、できるだけ早くこの世からおさらばし
た方がいいと信じた人々も多かったのだ・・・と。
 
 さしづめ、ハイネはプリニウスの見解に感応しているように見える。ハイネに限ら
ない、プリニウスのように考える人々は、長い歴史のなかできっと「多かった」に違
いない。いや、プリニウスはよく読まれていたので、しばしば利用される。ハイネも
そうだったかもしれない。確かに、生まれてこなければ死の恐怖もなく、病気もなく
、貧困もなく、人生を悩んだり不幸と感じたりすることもないのだ・・・共感者の多
いことも頷ける。
 だが、毎日毎日が、そして毎年毎年が幸福だったら、生まれてきたことを悔やむこ
ともないだろう。ブータンの国民の幸福度が高いことは前から知られていた。昨年、
国王夫妻が日本を訪れたときには、「ブータンの幸福」がマスコミ等を通じて全国に
知れ渡った。幕末から明治初期に日本を訪れた多くの西欧の人たちが、日本の子ども
たちがほんとうに無邪気に楽しそうに遊んでいる姿に驚きの声を挙げている。私たち
がブータンの子どもたちを眺めるような眼で彼らは日本の子どもたちを眺めたのだろ
うか。
 幕末や明治初期だけではない、昭和になってからでも、大平洋戦争が始まる頃まで
は、全国の町々でそのような子どもたちがあったのだ。土門拳が撮った遊ぶ子どもた
ちの姿はそんなに昔ではない。「毎日毎日、こんなに楽しくっていいのだろうか」と
自問する子どもたち・・・。乗用車など、町に数台しかない時代のことである。町中
をのんびり歩く牛車の空き荷台に、御者の目をかすめて後ろから飛び乗る・・・。御
者は知って知らぬふりをして牛を曳く・・・そしてときどき後ろを振り向いて「コラ
!」と怒鳴ってみせる。子どもたちは慌てて飛び降りるが、様子をみてまた飛び乗る
・・・。
 学校へはみんなわら草履を履いていく。登校途上でときどき鼻緒が切れる。自分で
直せるが面倒だとばかり捨ててしまう。各家の前に置いてある木製のゴミ箱に投げ入
れる。そして裸足。舗装などしていない土の道だが、そのうち足裏が丈夫になり、な
んら痛ようを感じない。毎日が裸足の生活になる。なんてのどかな・・・そのような
世界がつい先ごろまであった。
 去年(2011年)、法政大学の研究チームの「47都道府県の幸福度に関する調査」で
福井県が第1位になって話題になった。ところがそれに対し、それは福井県民の民度
がブータンのように低いからだと批判する声の紹介もあった。その発言をそのまま是
認するかのような記事を書いた人物の見識も自ら伝わってきた。昔「太ったブタとな
るより、痩せたソクラテスとなれ」と卒業生を送り出した大学学長がいた。経済的な
力と民度とは違う。ブータンの人々や福井県民を民度が低いからと片付けてしまう人
間たちは余程民度が高いのだろう。思いめぐらせば、日本の政財界を牛耳っているお
偉方はみんな民度が高く、「原子力ムラ」の人たちはもっと高いのだろう。       
                               
 子どもはたんに大人への準備期間ではない。子どもも立派な、いや、最も重大な人
生をその瞬間に生きている。一人一人が人格をもった個人として。「楽しくて楽しく
てしょうがない毎日」を過す人生とそうでない人生と・・・。昔は塾もお習いごとも
、宿題もなかった。遊ぶことが人生であり、生を豊かにし、将来の健全な社会人とし
て生きていく術を知らず知らずのうちに学ぶ場でもあった。バレーのボールも、バス
ケットのボールも、サッカーボールも、ましてラグビーボールなど、聞いたことも見
たこともなかった。小さなゴムボールがあれが、それで草野球をし、広場があればボ
ール蹴り(今思えばサッカーだった)をした。ボールがなくても、空き缶一つで遊び
ほうける事ができた。お寺の境内でカンカンを蹴り、缶が蹴飛ばされるとみんな大急
ぎで墓石の後ろに隠れる。鬼がその墓石の後ろを探し回る。お寺の住職はそんなこと
にいちいち文句は言わない。そういう情景が人生なのだ。

 戦争が日本人の日常の生活を変え、人生観を変えた。だが日常使う言葉まですっか
り変えてしまったわけではない。
 戦後、偉い大学の先生などが、戦中は敵性語の使用は禁止されたとおっしゃる。東
京の大学のキャンパスの中ではそうだったかも知れないが、田舎町の子どもには全く
無縁のこと。ボールはボールである。ストライクはストライク。ガラス、コップ、ナ
イフ、サイダー、カレーライス、、マッチ、シャツ、ズック、セルロイド、コンパス
、(消し)ゴム、クレヨン、ビーカー、フラスコ、ガス、アルカリ、アルコール、ボ
タン、ランドセル、リュックサック、カバン、オルガン、ピアノ・・・キリがない、
みんな敵性語に見えてくる。ある日突然、音楽の時間、「ドレミファソラシ」が「ハ
ニホヘトイロ」になった。理由は全く分からない。なぜアメリカと戦争を始めたのか
分からない、それと同じだ。多分敵性語だというのだろう。ドレミファは元来イタリ
ア語だ。イタリアは同盟国だ。嗤わせるではないか。支離滅裂だ。そうして子どもた
ちの「楽しい生活」は失われて行く。

(2)
 学友2人が自殺した。もちろん戦後のこと。一人は列車への飛び込み。も一人は深
夜教室に入り込んでそこで薬を飲んだ。もうひとつ、親友の経験談。ある日一人で寮
の部屋にいたら一人の上級生が入ってきて押入れを貸してくれという。昼間他人の部
屋に来て押入れを借りるなど、これはおかしい。だが友人は黙って貸した。おおかた
分かっていたと友人は言う。先輩は押入れのなかで毒を仰いだ。オレは自殺幇助にな
るのだろうかと悩んでいた、おまえだけに話すが・・・と。
 上級生になって寮を出て下宿した。ある日、玄関の式台にかけて少し考え事をして
いたら、下宿のおばさんが「外山さん、自殺などしてはいけませんよ」と声をかけて
くれた。 ここの学校のキャンバスの隣に公園がある。その広場を見下ろすように大
きな銅像が立っている。日本で最初に作られた銅像だとも言われている。その像の下
にたって鼻の穴を覗くと、立ち位置がよければ頭の天辺の穴を通して空が見える。覗
けた者は合格する、つまり「通る」という伝説があり、みんな受験日の前に覗きにく
る。みんなというのは嘘である。そんなばか話を信じていたら近代の学問の府に入れ
る筈がない。しかし、みんなこっそりと覗きに来たりするのではないかと思う。特に
地方から来た受験生にとっては一つの思い出になる。このまちの心の豊かさはこんな
ところにもあると思うのだが・・・。それなのに、せっかく「通ることができた」学
生生活を自らの手で絶ってしまう学生もいるのだ。

 人間はすべて死す運命にある。だが神は不死であり、自殺もできない、気の毒に。
なのに不死を願う人間は絶えない。なにも始皇帝だけではない。だが一方で人間は死
ぬことができるから幸せだ・・・古代からそのように考えて来た人たちもいるのだ。
誰もがそのように考えたわけではないが・・・。
 神風特攻隊員による攻撃は、自死が目的のように見える。神になれるのだ、靖国の
神に・・・。神になれば死ぬことはない、永遠の生命を与えられる。
 多くの兵士が飢えと病の揚げ句異国の地で自死した。それでもやはり靖国の神には
なれる。サイパン島、沖縄を始め多くの地で民間人も集団自殺に追い込まれた。この
人たちが神になることは難しい。
 学校でいじめに遭って飛びおり自殺する子がいる。日本帝国陸軍内のいじめは有名
だ。「いじめ」などというものではないかもしれないが。軍隊はひどい所とは、子ど
もながら若干気づいていたが、戦後山本薩夫の『真空地帯』を見て驚いた。あのいじ
めは全国の学校にも影響を与えていたと思う。戦後、軍隊風ないじめはなくなった筈
だ。憲法には全て国民は個人として尊重されると書いてあるではないか。誰によって
尊重されるか明言されていないが、他人によって、自分によって、社会によって国家
によって・・・尊重されねばならぬことは明白である。新旧の教育基本法はともに「
人格の完成」を教育目標のトップに掲げているが、人格など完成していなくてもいい
、他の人を、それぞれの人を、一歳の子どもであろうと三歳の子どもであろうと、七
歳、十二歳の子どもであろうと、身体障害者であろうがなかろうが、それぞれを一個
の人間として尊重しなさいと、人類の歴史は教えてきた。

 私はハイネがどういう状況のなかで冒頭の言を吐いたのか知らない。晩年の長い病
の中でなのか、若い頃の、あの柔らかな数々の詩を作っていた頃なのか。人々が、醜
い人生、賎しい人間を目の当たりに見ながらも生きていけるのは、美しいもの、ハイ
ネの詩のような、素晴らしい人間たち、偉大な芸術、絵画・彫刻・音楽、文学、思想
・・・そして美しい夕焼け、満天の星空・・・それらが生の喜びに繋がっているから
かもしれない。プリニウスもしばしば人間の生に疑問を投げかけるが、自己の書のな
かで人間の偉大さ、美しさをうたうことを忘れなかった。そして彼自身が人間の生き
ざまを示してくれた。