静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

プリニウス つれづれ (7)エッセネびととヤシの木

2016-10-24 20:20:50 | 日記

]       <「Z8 エッセネびと プリニウス随想(8))」の改訂版>

 

                    (一)(死海のほとり

                    (二)ユダヤ戦争

                                                         (三)ナツメヤシを唯一の友として    

                    (四)人の生と死 

 

(一)死海のほとり

 

死海に浮かぶ

 ヨルダンにある死海は独特の魅力を持つ観光地だ。かつて死海に遊んだとき、同行のU氏は一冊の書とパラソルを携えて水辺に降りてきた。昔、教科書に、死海の水に浮かびながら本を読んでいる人の写真が載っていた、前からそれをやりたかったのだという。左手にパラソル右手に本を持ち、バランスを取るのに若干苦労したが見事成功。岸辺の観光客は拍手喝采。Uさんはほんとうに嬉しそうだった。その日は空も晴れて・・・晴れて当然だが、空気も澄み・・・これも当然、気分のいい日だった。湖面に浮かんで西の方を眺めると、昔ユダヤ人が城塞を築いて抵抗したマサダの峰が望見できる。クムラン洞窟(後出)のある丘も見える。昔、湖畔に繁茂していたナツメヤシの樹影は見当たらない。今この地は、野菜や果物が豊富に採れる豊かな地だという。二千年前、この死海の様子はどうだったろう。

 

ヨルダン河の水源は、後に述べるカエサレアがそのまたの名をそれからとっているパニアスの泉である。それは心地よい流れで、その地方の流れが許すかぎり蛇行して、両岸に住む人々のご用をつとめ、あたかも、あの陰鬱な湖、死海(アスファルティテス湖)へと進んで行くのがいやでたまらぬというふうであるが、ついにそれに呑み込まれ、いたく賞揚されたその水はその湖の有毒な水に混入して姿を消してしまう(『博物誌』)。

 

 さらに次のような記述が続いている・・・死海の唯一の産物は瀝青で、そのギリシア語が、この湖がアスファルティテスというギリシア名をもつ所以である。湖水の中ではウシやラクダなどの動物も沈まない。沿岸にカリエロという医療価値のある温泉がある。死海の西側の沿岸の「毒気地帯」の外部に孤独な種族のエッセネ族が住んでいる。これは全世界の他のすべての種族以上に珍しい種族だ・・・。

濃い塩水が「有毒な水」であるというのも合点がいかないが、この「毒気地帯」が何を意味するかも不明で、今日でも議論がある。その死海の西海岸に沿って不毛の山岳地帯が連なっている。その北の方の湖岸から少し離れたところで”世紀の発見“という事件が起きた。

 

クムランの洞窟 
 第二次大戦後、国連での、アメリカ合衆国主導のパレスチナ分割案の採択によって、この地でのユダヤ人による建国が承認された。一九四七年一一月のことである。欧米列強の新型支配の始まりである。第一次中東戦争が始まったのはこの直後であるが、その前からすでにユダヤ人とパレスチナ人の対立が激化していた。そういう情勢の中で、その年の春、死海西岸の断崖にある洞窟で、ベドウィン族の少年が偶然亜麻布にくるまれた巻物を発見した。この洞窟はそのあたりの地名クムランから、クムラン洞窟と呼ばれている。それ以後もこの近くの洞窟から写本が続々と発見された。

 一括して「死海文書」と呼ばれるようになったこれらの大量の写本は、聖書の各書、外典書、宗団の文書などであることが分かり、世界に大きな衝撃を与えた。聖書やキリスト教の由来について大論争を巻き起こすことになる。
 そしてさらに一九五一年、このクムラン洞窟のある断崖と死海の間の海岸で、埋もれていた古い石造建造物や墓地などが発掘されたのである。調査の結果、石造建造物の方はいわゆるエッセネの人々の住居跡であったことが判明した。

 その後も遺跡の発掘は続けられ、それに伴い数多くの研究書も世に出た。発見された書類には未公開の部分もあって全貌が明らかになったとは言えないらしい。門外漢の筆者には深い霧の向うであり、言えることは何もない。このエッセネに関して伝えている人物は何人もいるが、主要な資料を残したのはユダヤの歴史家ヨセフス(23―79)、同じくユダヤ人哲学者フィロン(前30頃―後45頃)、そしてプリニウス(23<24>-79)である。

 

ヨセフスによるエッセネ

ヨセフスは『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』でエッセネについて相当詳しく述べている。それによると、ユダヤ人の間には三つの形の哲学があり、第一の派の者はパリサイびと、第二の派の者はサドカイびと、第三の派の者はエッセネびとと呼ばれる。最後にあげた派はもっとも高い聖性を目指して訓練するという評判である。翻訳者の秦剛平氏によると「哲学」は宗派のことである。だから一般には「エッセネ派」というように呼ぶし、ユダヤ教の一宗派と見なされている。『ユダヤ戦記』の執筆は後七五年頃から八一年頃まで、『ユダヤ古代史』の完成は九三年から九四年頃、いずれもプリニウスの『博物誌』の完成(七七年)の後である。

 ヨセフスの『戦記』では次のように書いてある。エッセネびとはユダヤ民族の者である。快楽を悪として退け、自制につとめ、情欲に溺れないことを徳とする。結婚は軽蔑するが、他人の子を引き取り、自分たちの慣習で型にはめる。結婚やそれによる後継者作りを非難しないが、奔放な性から我が身を守ろうとする。富を軽蔑する。財産は共有である。自分の所有物を全員のものにする規定がある。エッセネびとは一つの町に住んでいるのではなく、どの町にも大勢いる・・・。そして、エッセネびとの一日の生活ぶりが丁寧に描かれている・・・たとえば用便のために各自のスコップで穴を掘ってそこで用を足すなど・・・だがそれは省略する。

 『古代誌』は『戦記』と少し違う。いっさいのことを神の手に委ねる。霊魂を不滅のものと見なす。神の義に向って一歩でも近づくよう努力する。一般の人びととは異なる清めの儀式で犠牲を捧げる。ひたすら農事にのみ励む。財産は同志と共有する。その共同生活の中に妻を伴うことはなく、奴隷を所有することもない。手ずから働き、人のいやがる卑しい仕事も交代でおこなう。


プリニウスによるエッセネ族
 プリニウスはエッセネをgens=種族としていて、ロエブの英訳版でもtribe(種族・部族)と訳している。プリニウスはヨセフスと違って、エッセネをユダヤ民族に属するともユダヤ教の一宗派であるとも言っていない。人種・民族・宗教には全く触れていない。そしていう、
 

彼らは婦人というものをもたず、すべての性欲を絶ち、金銭を持たず、ただヤシの木だけを友として(socia palmarum)いる・・・日々、人生に疲れ、運命の波によってそこに追いやられた人々が多数、彼らの生き方を生きようと加わってくるので住民が補充され、同じ数を保っている。このように、何千年という年月―こんなことを言っても信じ難いことだが―、一人も生まれてこないのに一種族が永久に存続するのだ

 

 (二)ユダヤ戦争

 

プリニウスとヨセフス
 ローマ皇帝ネロの統治の晩年の六六年にユダヤ人が反乱し、いわゆるユダヤ戦争が始まった。その原因や戦争の経緯についてはヨセフスの『ユダヤ戦記』に詳しい。中国の『史記』や『三国志』を思い出させるところがある。ウェスパシアヌスは長子ティトゥスとともに六七年、大軍を率いてガリラヤに進軍してその地の反乱を鎮圧、六九年にウェスパシアヌスが帝位についてからはティトゥスが代わってローマ軍の指揮をとり、七〇年にはエルサレムを包囲し、半年の攻防戦のすえ攻略した。
 このイスラエル攻略の軍団にティベリウス・ユリウス・アレクサンデルという指揮官がおり、ドイツの歴史学者モムゼンによるとプリニウスはその副官であったという。
このアレクサンデルは、ユダヤの名門の出であり、先ほど述べたユダヤ人哲学者フィロンの甥で、ユダヤの皇帝代官、エジプトの総督を勤めた人物である。つまり、ローマの高官であったこの人物は、ユダヤ人でありながら、ローマのユダヤ反乱鎮圧軍の指揮官を勤めたことになる。彼はウェスパシアヌス帝の擁立にも功績があったといわれる。

このプリニウスに関するモムゼン説には異論があり、プリニウスがアレクサンデルの副官であったというのも確実ではない。プリニウスがティトゥスとテント仲間(戦友)であったことは知られているが、どこの戦場でであったかははっきりしない。ユダヤ戦争でと考えられないでもない。『博物誌』の中で、ユダヤに関する直接的経験に基づくと思われるような記述が多いことも、ユダヤ遠征に加わったことの裏づけとされている。だが彼は、ユダヤについて書いてはいるが、ユダヤ教やキリスト教についてはまったく触れていない。それなのに、エッセネ族については上掲のような短いが印象的な文章を残した。

一方ヨセフスの方だが、彼はユダヤ戦争のおりユダヤ方の指揮官としてガリラヤの町ヨタパタを死守しウェスパシニア軍を苦しめたが捕縛された。だが六九年ウェスパシアヌスが皇帝に推戴されるとすぐ釈放された。彼が、ウェスパシアヌスの即位を予言したからだという。以後ヨセフスはローマ軍に奉仕する。エルサレム攻撃のときに司令官ティトゥスに助言をしたり、エルサレム陥落の現場にも立ち会ったりしている。戦後もウェスパシアヌスやティトウスに保護・優遇され宮中に出入りしていたから、当然プリニウスとは面識はあっただろうし、語り合ったこともあろう。しかし『ユダヤ戦記』の完成はプリニウスの死後なのでプリニウスはそれを読んではいない。


 エッセネびとの共同生活

 ヨセフスはユダヤの名門の出だからユダヤに詳しいことは当然である。逆にプリニウスに曖昧さが残る。だが彼の記述にも有力な手がかりがある。それはエッセネ族の居住地である。先ほども述べたがそれは死海の西岸で、岸辺から少し離れたところにある。そして彼は以下のように述べている。そこから南へ行けば肥沃な土地とエンディゲの町があった。そこではエルサレムに次いで豊かにヤシが生い茂るところだったが、今はエルサレム同様死の灰の山にすぎない。そして、さらに南下すると岩の上の城砦マサダが死海から遠くないところにあると書いている。

このプリニウスの叙述は、後世の人たちに深い印象・感慨を与えた。たとえば『ローマ帝国興亡史』の著者ギボンは、「プリニウスの哲学的な眼は、死海のほとり椰子の木々の間に住むこの孤独な人々を驚きの念で眺めた」(朱牟田夏雄訳)と記した。
 プリニウスの記述にはあいまいな点も多いのだが、後世の人が感銘を受けるのは、その事実よりも、プリニウスの人生観を反映したようなその文章の茫洋さであったかもしれない。「金銭をもたず、ただヤシの木だけを友とし」という一節はとくに印象深かったのかもしれない。

 このように修道僧のような暮らしをしていたエッセネ族の人たちは、一切の私有財産・私物もない共同生活をしていたので、内部的には貨幣は必要なかったのだが、教団として外部と折衝するためには貨幣も必要だったのだろう。発見された貨幣と周囲の状況によって、この建物は紀元六八年に戦火に見舞われたと考えられている。つまり、エッセネの人々はこの年、ローマ軍と戦い敗れて消息を絶ったと考えられる。この年、ガリラヤに進軍したウェスパシアヌスが死海を訪れたという記録がある。したがってクムランにも来ている可能性がある。
 プリニウスが、岩の上に城砦があると記したマサダは、六六年に駐留ローマ軍を撃破してユダヤ人約千人が立てこもり、エルサレム陥落(七〇年)後も三年間ローマ軍に激しく抵抗し、ようやく七二年に滅ぼされたところである。だがプリニウスは城砦があると書いているだけである。

 

(三)ナツメヤシを唯一の友として

 

 先ほどのギボンの「椰子の木々の間に住む」の椰子はラテン語でいうpalmaである。英語ではpalmでヤシ科植物の総称らしい。日本語でもヤシはヤシ科の総称とされている。だからココヤシもナツメヤシも、またシュロもそこに入れている。「遠き島より流れ寄る椰子の実一つ」の椰子はココヤシである。ココヤシは主に太平洋上の島嶼などに生育し、その果実は直径三〇センチほどにもなる。表皮は硬く海流に乗って漂流もする。シュロは中国大陸やその周辺に多く生育している。日本では普通に見受ける樹木であるであって珍しくない。

 『博物誌』でいうpalma はナツメヤシである。地中海周辺の温かい地に自生する。ナツメヤシの果実は、昔から主要な食品とされてきた。聖書の生命の樹のモデルもこの木だという。もっと古くでは、ホメロスもとりあげている。帰国の途中、難船してスケリアの島に打ち上げられたオデュッセイアは乙女ナウシカアに出会う。そして、「その昔デーロスでこれに匹敵するものを見たことがある。それはアポローンの祭壇のそば近くにすくすくと生え出た椰子の若木です」と彼女に話しかける。そして、「いまだかってこのように立派な若木が地の中から生え出たことはなかったので、それを見た時、長い間わたくしは驚嘆していたが、同じように、あなたを見て・・・」(『オデュッセイア』第六巻、高津春繁訳)と続くのである。数多くホメロスを援用しているプリニウスがこの話を知らないはずはない。

 クセノフォン(前四三〇頃―三四五)の『アナバシス』にもナツメヤシの話が出てくる。クレアルコス率いる部隊が、増水した川を渡るためナツメヤシで仮の橋を作ったことや、進軍途中のあるでの椰子酒、椰子の実を煮て作った酢、食品としてのナツメヤシの実の話などである。ヘロドトスもすでに「(バビロンの)平野にはいたるところ棗椰子(ナツメヤシ)が生えており、その大部分は実を結び、彼らは木の実から食物や酒や蜜を作る」と書いていた(『歴史・第一巻、松平訳』)。

元来ナツメヤシの葉はいろいろに利用されてきた。プリニウスによると、アレクサンドロス大王がエジプトのアレキサンドリアを建設したときまで、この葉に文字を書いていたという。プルタルコス(46頃―120以後)はこの葉が冠に用いられたいう(プルタルコス『食卓歓談集』、柳沼訳はシュロとしているがすべてナツメヤシにした)。また実については、プリニウスは、このナツメヤシはヨーロッパ、イタリアやスパニアの沿岸部にもあるが、気温が低いので実がならないか、実を結んでも熟さない、地中海沿岸の本当に暑い国にだけ実を結ぶと指摘している。『食卓歓談集』でも、ギリシアのナアツメヤシの実はガリガリのままだから食べられないが、シリアやエジプトのものは見て楽しく、干した果物の中でこれほどうまいものはないと書かれている。さらにプルタルコスは、作中人物のテオンの言葉として「バビュロニア人は、この木は彼らに三百六十通りの仕方で役に立ってくれると称賛の歌を献じているが、我々ギリシア人にとってはこの木はおよそ役に立たない。しかし、この木に実がならないということも、体育の哲学でも考えるなら役にたつだろう」

ファーブルは、「ナツメヤシは雌雄異株の植物で、その実はアラビア人の主要食物である。砂漠の中の、水に恵まれ土地に生育する。アラビア人は雌株の木だけを植える。花盛りの時期になると、彼らは雄株の花粉を採るためにどこまでも出かけて行く」(『科学物語』)などと書いている。エッセネ人も同じようなことをしていたのだろう。

プリニウスは、ナツメヤシの栽培法やその種類・性質などを多岐にわたって説明している。幹は建材や用材としてはもちろん、燃料として、あるいは木炭の原料にもなる。葉は漆喰の代わりに壁の材料に、また編み物細工用などに用いられる。果汁は品種や栽培地などによって味も用途も多様である。酒造の原料にする地方ある。果汁の少ない椰子の実を乾燥させて粉に挽きパンを作たりする。もちろん果肉は食用である。彼はナツメヤシの種類は四九もあるという。中でも著名なのがユダヤのヤシで、香料のための軟膏作りに最適であり、また、果実がいちばん長持ちする種類だという。このように多様な用途をもち、日常生活に欠かせないナツメヤシだからこそ唯一の友だったのだろう。なお、友を意味するsocia には、女友達、女の仲間、女の配偶者の意もあったらしい。

 

(四)人の生と死

 

生きること

ヨセフスはユダヤ教の信者である。ローマ帝国は個人の信仰については自由に任せている。ローマ軍に降服したからといって信仰を変える必要はない。当時のローマでは人間の頭数ほどの神がいたとも言われた。人々は自分の好きな神々を礼拝する。 二千年ほど前のプリニウスは無神論者だと思われている。「人間にとって、人間を助けることが神である」という言葉はプリニウスよるものとしてよく知られている。彼は、神というものは人間の弱さや無知による産物に過ぎないといって、その論拠をいろいろ書き並べた。だから彼はローマの神々もユダヤ教の神もキリスト教の神も、そしてまた霊魂の存在も信じなかった。彼が霊魂について語った一節はいろいろな書が引いているが、長いからその最後の方の一部を引く。「霊魂は天上界にあって感覚を保持しており、幽鬼は下界に留まるなどということが事実だとしたら、同時代の人びとにはどんな安息が得られるというのか。たしかに、この甘美ではあるが軽々しい想像は自然の主要な恵みである死を打ち壊し、死に臨んでいる人に、今後にも来るべき悲しみまで考えて悲哀を倍加させるのだ」。

このようにプリニウスは、ヨセフスが説明しているような、霊魂が永遠に存在するとか一切を神の手に委ねるというエッセネびとの思想は無視している。真正面から批判することもなかった。それだけでなくエッセネびとの種族・民族とのかかわりにも全く言及しなかった。述べていることは、私有財産はなく共同生活を送り、女性との交わりを拒否し、人生に疲れ運命に追いやられた人々が参入することによって構成員の数が維持されているということだけである。そこに焦点を合わせた記述である。彼は『博物誌』の真の主題は「生命」であるといっていた。特に人間の生命は最重要な主題だったろう。

彼はしばしば幻想的な話をする。たとえば、アフリカの内陸部に住む、人類の文明の水準以下に落ち込んでしまっているアトランテス族の話、言語も持たない穴居族の話など・・・これらはみなヘロドトスなど他人の話の受け売りであり、いい加減な話ではある。いい加減な話だとわかっていてそれを書いたのだろう。
 黒海の北の極北に住むヒュペルボレア人といわれる人々のことも書いている。彼らは不和とか悲しみを知らず非常に長寿だ。生に飽きると最後のご馳走を食べ、高い岩から飛び下りる。これは古くからギリシアに伝わる伝説であり、プリニウスはその出典も示している。

彼はまた、貨幣を持たず物々交換で暮らしているセレスの人たちのことを書いた。タプロバネ(スリランカ)については原始共同体の名残のある素朴な王政について描いた。また、北ドイツの北海に面した低地でささやかな漁業に従事するカウキ族というゲルマン人の生活を描いた。カウキ族ローマ帝国の支配に屈することを潔とせず、貧しくても誇り高い共同体の生活を送っている。これはプリニウス直接の見聞だ。
 エッセネ派についてのプリニウスの記述が相当あいまいだということは前にも述べた。だが故意に曖昧にしているのかもしれない。彼のように多くの情報源を持った人間にしては不可思議なことだ。彼はエッセネ人たちにベールを被せたのだろうか。日々の生活に疲れた人たち、運命にもてあそばされた人たちがやってきて、そのため何千年という年月にもわたって住民が補充されてきたなど誰が信じよう。プリニウス自身が、「こんなことを言っても信じがたいことだが」と書いていたように、ほんとうは彼自身が信じてはいなかったに違いない。だが、言いたいことを書こうと思ったのだ。

アキレウスのウマ

一九世紀の人ハイネは次のように述べているそうだ。「死ぬほうが生きるよりましであり、いちばんよいのは生まれてこなかったことである」と。だが、そういうことを言った人はたくさんいるに違いない。まずプリニウスはこのようにいう。人間のたった一つの過ちは生まれてきたということである。だから、受罰をもってその生涯を始める。人間は裸のままで生まれてきて、生まれるやいなや大泣きする。他の動物にそんな泣き虫はいない。そして、手足を邪魔もの(衣類など)に包まれて泣きながら横たわっているだけだ。・・・こんな出発をしながら、自分たちは誇りある地位に生まれてきたのだなどと考える者がいるとは、なんたるたわけたことだろう!人間は教育によらなければ何一つ知らない。ものを言うすべも、歩くすべも、食べるすべも知らない。生まれながらできる本能といえば泣くことだけだ。従って、生まれてこなければよかったとか、できるだけ早くこの世からおさらばした方がいいと信じた人々も多かったのだ・・・と。

たしかに、生まれてこなければ死の恐怖もなく、病気もなく、貧困もなく、人生を悩んだり不幸と感じたりすることもないのだ・・・共感者の多いことも頷ける。

トロイア勢と戦って討ち死したアテナイの将パトロクロスの死を、涙を流して悲しむアキレイスの馬たちを見ながらゼウスは、この不老不死の馬たちを死ぬべき運命にあるペレウスに贈ってしまったといって嘆くのである。そして、この地上で呼吸し、うごめいているありとあらゆる生類の中でも、人間ほど哀れで惨めなものはないと思うのであった(『イリアス』一七―446)。

ハイネは確かに短命だった。しかし彼の文章や詩はいかに多くの人に慰めや勇気を与えてくれたことか。プリニウスは死の間際まで人を救い自然の真実を探ることに自分自身をささげた。不死の馬たちが流す涙は、死を知らない自分たちの悲しみの涙であるかもしれない。

 

 


プリニウス つれづれ(6)博物学者ファーブル

2016-10-10 16:56:35 | 日記

KE 

     <「Z6博物学者ファーブル プリニウス随想(6)」の(改訂版>

                   

                                                                    (一)  図書館炎上

                                                                    (二)  博物学者ファーブル

                                                                    (三)  海洋画家飯塚羚児とプリニウス

                                                                    (四)  プリニウスとファーブル

 

(一)図書館炎上

 

一九二三年九月一日、寺田寅彦は上野の二科展を見に行き、喫茶店で紅茶を飲んでいるとき急激な地震を感じた。かつて経験のない大地震だと思ったが、その建物は安全だと直感した彼は、直ちに強震の経過を観察し続ける。夜になって東京大学の様子を見に行く。図書館の書庫が燃え盛る様子をガラス越しに見る。あたりには人影もなく、ただ野良犬が一匹、そのあたりをうろうろしていた。鬼気迫るような情景である。この火事で専門書約七五万冊が焼失した。旧幕時代からの蔵書はもちろん、和洋漢の貴重書も大量に失った。なんと軟な図書館だったのだろう。

しかしすぐさま国内外から多くの援助が寄せられた。ヨーロッパ諸国、とくに日英同盟を結んできたイギリス(一か月前に同盟は解消していたが)からは大量の図書の寄贈を受けた。その中にプリニウス関連の書も多く含まれていた。その詳細は知らないが、『博物誌』のテキストで、全巻揃っていないものも含めて二〇数種類ほど、解説書・研究書等が約五〇種類ほど・・・いずれも大まかな推測ではあるが、わが国で容易に入手できるものではない。その中の一冊にフィルモン・ホランドによる英訳の『博物誌』(THE  HISTORIE  OF  THE  WORLD)の初版本があった。最初の英訳本である。シェークスピアの『ハムレット』と同じ一六〇一年の出版である。この『博物誌』は、エリザベス朝の馥郁とした文化的雰囲気を伝えていると評価され、自然科学だけでなく文化一般や思想界にも広く影響を与えた。このホランド訳は、数ある『博物誌』のテキストの中でも、その歴史的価値は屈指のものであり、英国から寄贈されたこの書を同図書館では「貴重書」に指定している。

 長らく大学で科学史を講じていた橋本万平氏は、「講義をやめた今になって」プリニウスの『博物誌』が欲しくなり、大枚をはたいて上記東大図書館蔵のものと同じホランド訳を購入した。そのときの心底を氏はこう語っている。                                          

  どうしてかプリニウスを「買え、買え」と心をつっつく奴がある。二十年近くいい加減な話をして、数千人の学生をあざむいた罪ほろぼしに、これくらいの金はなんだ。お墓一つ造るのにも百万から二百万の金がいる今の世の中だ。極楽往生の切符を手に入れるつもりで買ってしまえ、と執拗にささやく。そして井上書店で買ってしまった。(『素人学者の古書探求』1992より)。

橋本氏がこの書を購入したのは一九九〇年の頃、つまり、いわゆるバブルのころだろう。そのころ、海外から貴重な書、稀覯本などの多くが我が国に流入したものと思われる。

明治のはじめ、文部省から『百科全書』と呼ばれる全集が刊行された。この書はイギリスのエフライム・チェンバーズ(1680-1760)の“Information  for the People”の全訳とされている。一八七三年(明治六)に計画・準備が始まり、発行は七四年から八〇年にかけてで、全九二冊である。多大の費用と多くの学者が動員された。どれも百ページあまりの小冊子である。天文・地質から始まって植物・物理・化学・鉱物・土木・建築・交通・農業・園芸・狩猟・漁業・食物・衣服・歴史・地誌・宗教・道徳・経済・教育・数学・文法・体育・絵画・彫刻など、まさに百科全般に亙っており、当時啓蒙の書として広く受け入れられた。多分焼失前の東大図書館にもあっただろう。

橋本万平氏はこの百科全書の入手のために随分苦労したようだ。科学史家の三枝博音も一冊しか手に入らなかったと書いている。この全書の一冊に大井吉訳の『羅馬史』があり、プリニウスについて「曰ク布里尼(プリニー)有名ナル○(注:一字不明)物学者ニシテ紀元七五(七九の誤り)年に威蘇威(ウェスウィウス)火山ヨリ巨大ノ火坑噴裂シテ非爾古拉尼府(ヘルクラニュム)ヲ破滅セシトキ此災ニ死セリ」と述べられている。

「プリニウス」というのは徳川時代に知られていた。だがそれが人名なのか書名なのか判然としなかったという。三枝博音はプリニウスを最初に知ったのは三浦梅園(172389)で、梅園が長崎への旅行記『帰山録草稿』で「プリニウス」に触れていることを紹介しているが、それによると梅園も人名かどうかは判らなかったらしい。だから人名であること、ウェスウィウスで死んだことを明確に示したのはこの文部省『百科全書』が初めてかもしれない。

それ以降、ポンペイやウェスウィウス山のことは広く知られるようになった。昭和初期に至るまで、多くの日本人がこの地を訪れ、旅行記をものした文人や学者も多い。例えば上田敏(明治四一年三月)、寺田寅彦(明治四二年五月)。浜田青陵(大正三年)、徳富蘆花(大正八年)、田中耕太郎(大正一〇年)、成瀬無極(大正一〇年)、斉藤茂吉(大正十二年)、土岐善麿(昭和二年)など。みんな個性的で魅力的な文章を残している。有島武郎は、明治三八年の旅行記録を大正七年に「旅する心」と題して発表し、そこで、小プリニウスの『書簡』に綴られている伯父プリニウスの最期について、その一節を紹介している。

 一方、東大図書館の書籍も、昭和二年(1927)には、ほぼ消失前の蔵書数に回復した。同じこの年に早稲田大学出版部蔵版『通俗世界全史第五巻・羅馬史下』(坪内逍遥監修・薄田斬雲編)が出た。そこでは小プリニウスの『書簡』から相当多くの部分が、「左に其大要を抄録せん」としてほぼ忠実に抄訳している。その抄訳の前に、簡単な解説がある。現代表記に直して紹介する。

ティトゥス帝の治世中に一つの驚くべき地変が起きた。それは即位の年八月二十四日に、かの史上有名なウェスウィオ山が噴火したことで、その損害は極めて大きかった。中でもヘラクレイネム、ポンペイの二大都市は全く降灰の中に埋没してしまった。この惨禍に際して、前帝ウェスパスアヌスが特に保護を与えていた博物学者大プリニウスは噴煙の毒ガスにあたって斃れた・・・

そしてこの同じ年、つまり昭和二年、ファーブル著『科学物語』の邦訳が『図入新訳科学物語』(前田晁訳、冨山房)として出版された。この書の中に「プリニイの話」というのがある。ここでもプリニウスの最期が語られた。

 

  (二)博物学者ファーブル

                                                                       

ファーブルの『科学物語』

 日本では三歳の子どもでもファーブルは知っている。親がファーブルの絵本を買い与えたり図書館で借りてやったりするから。その絵本はほとんどが昆虫の絵本だと思う。わが国では、アンリ・ファーブル(1823-1915)は昆虫学者と言われている。手もとの『西洋人名辞典』でも「フランスの昆虫学者」である。ファーブル『科学物語』の翻訳者前田晁も「昆虫学者」と言っている。だが、ファーブルの見事な評伝『ファーブルの生涯』(平野威馬雄訳)を書いたG・V・ルグロは「当時文明世界のもっていたもっともすぐれたもっとも高い誇り、最大の博物学者」と表現し、ほとんど一貫して「博物学者」と呼んでいる。

幕末から明治初期にかけて普及した『博物新編』や『博物新編補遺』はイギリス人ホブソンの書によるものであり、後者は明治初期の小学校教科書にも使われたりした。前述した文部省の『百科全書』もその内容から見て博物の名がつけられてもいいものであった。小・中学校には「博物」という科目もできた。しかし「博物」は学校教育からも学問の世界からも消えてゆく運命にあった。ファーブルは昆虫学者でおさまった。だが彼は若いころは数学に熱中したし、その後も各種の自然科学分野の研究には余念がなかった。そして彼はいろいろな自然科学の本を書いているが、この『科学物語』の内容も昆虫を含む動植物、地学や化学・物理、天体、地球、気象、鉱工業、技術など多様な分野に及び、まさに博物学者にふさわしい内容である。

 

ポールおじさんの地震と火山の話

『科学物語』は、ポールおじさんが数人の子どもたちにいろいろな科学の話をしてあげるという構想になっている。そのなかで、ポールおじは地球の形状や大きさを論じ、そして火山、エトナ山やウェスウィウス山の大噴火の話を展開するのだが、そのときプリニウスの最期についても詳しく触れている。だが、それは後にしてまず彼が語る恐るべきヨーロッパでの大地震について。

「ヨーロッパで感じられた全ての地震の中で、最も恐しかったのは一七七五年の万聖節(一一月一日)で、地面が幾度か烈しく揺れて・・・このポルトガルの繁華な首府(リスボン)は見渡すかぎり壊れた家と死骸の山になってしまった・・・波止場に逃げた群衆も、ボートも船も(水のなかに)ひき込まれていった。人一人、板一枚も再び水面へ浮かんでは来なかった・・・六分間に六万人の人が死んだ・・・このとき、アフリカのモロッコ、フェッツ、メキネズなど幾つかの町も覆された・・・一万人が住んでいたある村は不意に空いて不意に閉じた穴の中へ全体が呑み込まれた・・・

 一七八三年の二月に、南イタリアに地震が起き四年間つづいた。はじめの年だけでも九百四十九回もあった。地面は、まるで荒海の上のように大きく打った波で皺が寄って・・・人々は・・・吐き気を覚えた」「二分間で、最初の振動が南イタリアとシシリー島との町や村の大部分をひっくり返した。・・・大きな広い地面が・・・山腹からすべり落ちて、はるかに遠くへ行って、まるで別のところにとどまった。丘が二つに裂けた。・・・わんとあいた深い穴の中へ、家や、樹木や、動物を載せたままで、何もかも一緒に呑み込まれて、それきり見えなくなった・・・」「あるところではまた、ざらざらと動いている砂で一ぱいな深いじょうごが口を明いて、やがてそれが大きなむろ穴になると、間もなく地下水が侵入してきて湖水に変わった。実に、二百以上の湖や沼がこうして不意に出来たという」「振動のひどかったことは、街の敷石が道からひっこぬかれて空中へ飛んだほどだった。・・・地面が持ちあがって裂けると、家も、人も、動物も一時にぱくっと呑み込まれた」「この恐ろしい出来事のために死んだ人は八万にのぼったといわれている」「そのうちの大部分は家の潰れた下に生きながら埋められたもので、その他のものは、震動のあとで起こった火事のために焼け死んだり、逃げて行くうちに、ふと足下にできた深い穴の中に呑み込まれたりしたのであった・・・」

 これは彼が挙げたほんの一部でしかないが、事実に恐ろしい。このあと、ポールおじは鉱山に話題を移して次のように語る。深い鉱山の中では暑さがひどく、地下の温度は三〇メートル毎に一度ずつ高まる。だから地球は火で溶けたものと、その溶けた金属の大海の上をぐるっと包んでいる固い薄皮とで出来ていると想像できる・・・。地球の直径が二メートルとするとその薄皮は指の幅の半分の厚さに相当するし、卵の殻が地球の殻であるとすると、どろどろした中味は地球の中のどろどろした物である・・と。 

火山は安全弁?

それを聞いていた子どもたちは考える、殻がそんなに薄いならたびたび震動が起きるだろうと。その疑問に対してポールおじは、どこかで何らかの震動を受けない日はないが、恐ろしい地震がめったにないのは方々に火山があるお陰だ、火山は安全弁だと説明する。聞いている子どもの一人は言う、おじさんから前にエトナ山の噴火やカタニヤの災難のことを聞いた。火山は周辺を荒らす恐ろしい山だとばかり思っていたけど、大変ためになる必要なものだということが分かりました・・・と。

ポールおじの語ったカタニアの悲劇とは以下のようなものだった。シチリア島の北東のエトナ山の南に古くからの都市カタニアがある。一八世紀のはじめ頃、大地が猛烈に振動し家屋や樹木が倒れた。続いてエトナ山が爆発した。噴火口が幾つも並んででき、その七つがくっついて底知れぬ淵のようになって四ヶ月の間噴火を続けた。流れる溶岩は森や畑を覆った。海岸にあって堅固な塁壁で囲まれたカタニアにも迫ってきた。だが幸い流れは横に転じ、広さ一五〇〇メートル、高さ一二メートルの溶岩の流れは海に突入し、沖合に三〇〇メートルほど土地を押し広げた。しかしそれで終わらなかった。新しい溶岩の流れが合流して塁壁に押し寄せ、壁を四〇メートルほど倒して市内に流入した。その頃になると溶岩は表面が固くなり、その下に流動性を保った溶岩が流れている。勇敢な市民百人ほどが鉄棒を持ってエトナ山に近づき、その溶岩流の殻に穴を開けて流れをそらすことに成功した。にもかかわらずカタニア市内では三〇〇戸の人家、幾つかの宮殿、教会堂が烏有に帰した。郊外は一三メ-トルの溶岩で埋まり、二万七千人の家が壊された・・・。

ポールおじさんの話は秩序立っていて論理的、易しくて面白い。この書はフランスの小学校・中学・女学校などで教科書として広く用いられた。他にも何冊もの教科書を書いている。      

 

ウェスウィウスの噴火

「不意に火の柱が噴き出して二三千メートルの高さにのぼる・・・何百万とも知れない火花が、燃えている柱のてっぺんの方へ稲光のように閃き散って・・・火の雨となって火山の斜面へと落ちる・・・これらの火花は・・・実は白熱した石の塊で・・・時には数メートルの大きなものもあって・・・」「山の底から・・・溶岩の流れがのぼって来る・・・ところが噴火口はもういっぱいである。そこで不意に地が震えて、雷鳴のような音と共に爆発して、その裂け目からと同時に噴火口の端の上から溶岩は川になって流れ出す・・・」とポールおじは続ける。そしてプリニウスについて語る。             

非常に勇気に富んだ人で、もし新しい知識を得るとか他人の助けになるとかいう場合があると、どんな危険からもしりごみしなかった。ヴェスビオ山の上に変な雲を見て驚いたプリニイは、すぐに艦隊を率いて出発して、脅かされている海岸の町を救ったり、この恐ろしい雲をもっと近いところから観察するために赴いた。・・・プリニイはみんなが逃げ出しているこの最も危険に見えた方面へ行った・・・

その最期については「(スタビアの)海岸で、プリニイがちょっと休もうとして地べたに座ったときに、強い硫黄の匂いのする烈しい焔が落ちて、みんなを逃げ出させた。プリニイも立ち上がったが、すぐまた倒れて死んだ。火山から噴き出した焼灰だの、煙だのが窒息させたのである」。そして聞いている子どもの一人ジュールに「まあ、可哀そうに!恐ろしい山のためにそんなに窒息させられて死ぬなんて。あんなに勇気に富んだ人だったのに!」と言わせている。

 

(三)海洋画家飯塚羚児とプリニウス

 

 ファーブルの『科学物語』にプリニウスに関する二枚の飯塚羚児の挿絵が載っている。一枚はプリニウスが艦隊を率いてナポリ湾をわたってゆく図である。黒く立ち上がる噴煙を背景に、大小五・六艘の軍船が、落下する火山礫の水しぶきの中を進んでゆく。沈没したと見える戦艦のマストも描かれている。二千年近く前の、しかも遠い異国の事件を想像力豊かに描いてみせた。細部に不審な箇所があるのは致し方ない。しかし身の危険を顧みず突き進んでゆくプリニウスとその艦隊の意気込みを見事に描いている。

 もう一枚は、逃げる群衆からはぐれた甥の小プリニウスとその母親が、降り積もる灰を払い落しながら、噴火を振り返って眺めている図である。前者の絵は暗く重苦しいタッチだが、後者は、線画の上に明るく色づけしてあり、まるで別の筆づかいだ。前者のサインは Reiji、後者は Mariano.Reiji なので別人かと思ったが、マリアーノというのは彼のクリスチャンネームだった。これらの挿絵の何枚かにはポールおじさんと思える人物が描かれているが、どれも、つばの広いフェルトの帽子を被っている。ファーブルは常にフェルト帽をかぶっていたという。彼の肖像写真もそうだ。

 この書について訳者の前田は次のように述べている。「原書を丸善で見つけたのは大正七年で九年前、今、飯塚羚児氏の美しい挿絵をたくさん添えることができたことをよろこびとする」と。羚児の挿絵のうち約四〇点近くがカラーで、一ページ大の楽しい絵である。原書の挿絵と思われるものも多く総計五〇〇ページに及ぶ大著である。もちろん昆虫の話も出てくる。ミツバチの話は特に秀逸だ。昭和初期こんな楽しい子ども向けの科学書があったのだ。 

飯塚羚児(明治三七年-平成一六年)の画業に関する資料や作品を展示してある「花の画房」の管理者高見みさ子氏に話を聞く機会があった。羚児は若い頃小学校の教師をした。ファーブルもそうである。だが羚児はやがて挿絵画家として出発、のち多様な美術作品を製作した。高見氏は、羚児はダ・ヴィンチに勝る天才だったとおっしゃる。羚児が書いたボートの精密な設計図を見せていただいた。その設計図に基づいて造ったボートに乗る羚児の写真もあった。彼は特に帆船画、艦船画を多く描いたので「海洋画家」とも呼ばれた。

 高見さんによると、羚児は布団に寝たことがないという。高見さんの家に泊まったときも、布団は要らないと断ったそうである。どうやって寝るのでしようかと尋ねたら、寝ないで絵を書いているらしいとおっしゃる。恐れ入りました。『ファーブルの生涯』を書いたG・V・ルグロはこう言っている。

ファーブルにとって休養というものはない。とだえることのない、孤独な刻苦精励の生活だった。せいぜい寝るときから朝目が覚めるまでの短い時間が、休養といえばいえるだろう。夜明けにおきて彼は、パンをかじりながら台所を大股に歩きまわる。事実、彼にとって思索をすすめるためには、たえずからだを動かしていなければならなかった。普通の人のように、のんびりと食卓についている朝食ではない。

プリニウスも「目覚めていることが生きていることである」と言っているが、凄い人たちがいるものだ。

 

(四)プリニウスとファーブル

 

ファーブルはフランスの博物学者レオン・デュフールやレオミュールの影響で昆虫の世界に入り込んだようだが、フランスは元来昆虫の研究者に恵まれたという。ファーブルも多くの先輩たちに敬意を表している。だがそれらの人の多くは片田舎でひっそり研究を続けながらも世間にも注目を浴びずに終った人が多い。そもそも昆虫というのは下等な動物と見なされその観察や研究に没頭する人たちも重んじられることは少なかったのである。今日でも西欧ではそういう傾向があるらしい。昔から昆虫が愛されてきたわが国とはいささか違う。といってフランスでファーブルが全く無視されたわけでもない。文部大臣が表敬訪問をしたり、レジオン・ドヌール賞を授与されたりしたこともある。だが、彼が望んだ大学教授の席は与えられなかった。教科書も最初のうちは売れたがすぐ真似をする教科書が現れた。『昆虫記』の売れ行きも芳しくなく生活も苦しかった。五六歳の時、南仏オランジュにほど近いセリニアンの村はずれに居を移した。古い家屋とそれに続く一ヘクタールの荒れ地を購入したのである。石ころだらけのその土地に手をいれ、各地から植物を集めて農園に仕立て、残りの生涯をそこで過ごした。だが最晩年、体が不自由になって車いすに乗らなければならない頃になって、彼の名声は一挙に高まり諸国にもその名は広まった。経済的にも不自由はしなくなった。そしてポアンカレ大統領が自らセリニアン村のファーベルの農園「アルマ」の自宅を訪れたりもした。だが、すべてが遅すぎたともいえよう。

ファーブルがプリニウスの『博物誌』の熱心な読者であったことはあまり知られていない。『科学物語』ではプリニウスの生きざまを書いただけだったが、『昆虫記』ではプリニウスの昆虫に関する観察眼の鋭さを、具体的な事例を挙げながら描き、深い敬意を表している。その一端を紹介する。プリニウ彼が木々の病気について論じた箇所から。

  特定の木は多かれ少なかれ虫にやられる。ほとんどすべての木がやられるおそれがある。そして鳥は樹皮を突いて、虚ろな音によって虫に食われた木を見分ける。今日では、その虫でさえ奢侈品の部類に入り始めた。そして特にカシの木の中にいる大きな木喰い虫が―その名はコッセス(あるいはコッススcosses)であるが―特別な珍味としてメニューに登場する。そして現にこれらの生物は食卓用に太らせるために麦粉で飼育さえするのだ。

『博物誌』でコッススに触れたのは三か所だが、食品に関連づけたのはこの箇所だけ、これだけである。自分も食したとは書いていない。言外に「あきれ果てた」というようなニュアンスである。このコッススとはなにか、今でも異論はある。手元の羅和辞典によると「木喰い虫」とある。ファーブルはいろいろ検討してこれはウスバカミキリの幼虫だと結論づけた。これは実際美味だそうで、ファーブルはしばしば来客にこれを料理してもてなした。もちろんこの幼虫についての講釈づきで。彼はいう「私の孤独を慰めるこうした会合の席上、今日の午餐会が計画された。ご馳走としては、古代にその名をうたわれたコッススを材料とすることになった。つまりカミキリムシの幼虫だ」(『昆虫記』)。

ファーブルは、麦粉の中で飼育すればコッセスは窒息死するだろうと思っていたが、実験してみたら自分の考えが間違いであったとわかり、プリニウスの慧眼に脱帽したという。コッススを太らせようとして彼も麦粉の中で飼育してみたのだろう。ファーブルは、肉料理は一切摂らなかったし、ましてフォアグラなどはもってのほかだったという。だけど虫は食べたようで、まことにユーモラスな話である。彼の食生活の一端を書いた一節を引こう。

ファーブルは万事についてひじょうに質素な人であった。・・・その食事はひと切れの肉さえも食べず、もっぱら野菜とくだものだけであった。・・・食卓はいつも季節のつつましい香りでいっぱいであった。たとえば、イチジクとかナツメの実とか、そういった季節のくだものだけで食事する人だった。考えてもみなさい。人間はけっして、猛獣どものように肉食するように生まれているのではない。その証拠に、歯や胃や腸の構造のどの点から見ても、人間は本来くだものをとるに適した生物だということがあきらかではないだろうか?(『ファーブルの生涯』)

 先述のように、彼は晩年セリニアンの農園で過ごした。だから自家製の野菜、果樹、周辺での山菜や木の実などで食事を済ますこともできたのであろう。誰にでもできる生活ではないが、その精神は理解できる。

 プリニウスはごく小さな動物、例えばカ(蚊)のような昆虫の生態においても鋭い観察眼をしめしている。彼の「自然はそのもっとも小さな創造物において自己の完全な姿を表現している」という名言は、後世の人たちに大きなインスピレーションを与えてきた。

 わが国では古来昆虫のすがた・かたちや鳴き声を愛でる慣わしがあった。それは欧米にはない感性だと評価されてもきた。しかし、昆虫の生態や機能を分析するという伝統はほとんどなかった。プリニウスは自身の観察によって昆虫の生態や機能を分析した結果上記のような箴言を導き出したのである。もちろん顕微鏡一つない古代においての観察だから今日から見れば幼稚であり観念的な面もあること点は否定できないし、不明な点は想像力と思索、直感によって補う以外はなかあった。ファーブルはプリニウスについて「この古い時代の博物学者は、今度はなんというよき霊感を与えられていることだろう」(『昆虫記』山田・林訳)と、その直感をも評価した。プリニウスの、最も小さい創造物が「自然のもっとも完全な自己表現」いうような思想は人類史のなかでも極めて希なものだと言わざるを得ないし、ファーブルはもっとも良きプリニウスの理解者の一人だったといえよう。ファーブルの言葉を載せておこう。セリニアンで植物や動物たちと静かな晩年を送ったファーブルの言葉を載せて置こう。

多くの見せかけの幸福や不必要な浪費をすてて、簡素な生活にかえるがいい。かしこいあこがれに燃えていた太古の節度のある生活にかえるがいい。富源の山であるいなかの生活、野辺、川辺、海辺の健康な生活にかえるがいい。永久の慈母なる大地にかえるがいい。さもなければ人間は、あまりにもすすみすぎた文明に疲れ、調子が乱れて、はてはよわよわしいからだとなり、消滅してしまうであろう! そうした場合、人間よりもずっとさきにこの地球にやってきた昆虫どもは、さらにまた人間よりもあとまで生き残り、人間のいなくなった世界で歌をうたいつづけることだろう!(『ファーブルの生涯』から)。

 ファーブルは第一次世界大戦のさなか死を迎えた。だから第二次大戦も、原爆投下も、地球温暖化も、地球規模の放射能汚染も、そして核戦争の危機も知らない。昆虫といえども逃れられないこれらの危機、人間の為す業(わざ)によって、人も昆虫もともに滅びるのだろうか。ファーブルはプリニウスの『博物誌』も小プリニウスの『書簡』をも読んでいた。だからプリニウスの生き方を知っていたし、プリニウスの自然観にも同感だっただろう。プリニウスは、大地にかえるがいいとまでは明言してはいないが、共和制初期の農業を中心とした時代を懐かしみ、そして貨幣のない社会、物々交換の社会を夢見た。一九世紀フランスは世界一の文明を誇る国であった。だがその文明にファーブルは背を向けていた。彼は若いころオペラ『ノルマ』を見に行ったとき、その舞台のあまりのけばけばしさに驚き腹を立てて、途中で帰ってしまった。 そして、それ以来そのような観劇には振り向きもしなかったという。だが彼は音楽には関心を持ち、自分の古ぼけたピアノで素朴な曲を弾いていた。だが一番好んだのは鳥や虫の鳴き声、木々のざわめき、風の声など自然の声、そして村の子供たちの吹く葦笛・草笛などであったという。