静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

「固有の領土」

2012-11-28 15:48:09 | 日記

(一)
 日中戦争たけなわの頃、母の友人が「満州」に住んでいて、ときどき素晴らしいも
のを送ってくれた。四角くて美しいい缶の中にチョコレートやケーキ、私たちの町で
は見たことも聞いたこともない、お伽ぎの国からの贈り物だった。あの感激は今も忘
れられない。「満州国」は子どもの私にはそういう国だった。
 当時、「『満蒙』は日本の生命線だ」などという言葉が日本帝国内で風靡していた
ようだがそれは記憶にない。ただ地図では日本列島は赤く塗られ「満州」はピンクだ
ったと覚えている。一つの国だが、日本の所有する国だという認識だったと思う。
 戦争が長引くにつれて「内地」では生活物資も欠乏し配給制が広がっていた。甘い
菓子などは店頭からも消えた。だが「満州」のチョコレートで象徴されるように、植
民地や占領地の一部では内地では見られない物質的な豊富さ、精神的自由や文化があ
ったようである。日本軍の占領下の上海でも、夜ごと交響楽団の演奏会やバレーの公
演が行われたりした。だから相対的な内地の貧しさが目だったのたろう。そういうこ
とはいろんな人が語っている。
 戦争に勝てば領土が広がり国民の生活も豊かになる、戦争を始める人たちにとって
は、国民を瞞着するのに好都合なキャッチフレーズである。日清・日露戦争、第一次
大戦、「満州事変」、日中戦争・・・どんどん領土を拡大してきた。今度は大平洋戦
争、アメリカに勝てばシカゴの富が日本にやってきて日本は金持ちになるという風聞
が広まった。心から信ずる日本人も多かったに違いない。なぜシカゴなのか、それは
わからないが、そういう風に聞いた。そして最後には、インドから西はドイツ、東は
日本と分け合うのだとまことしやかに語られた。まことに正気の沙汰ではない。思う
に、日本人は領土病にかかっていたのだ。まことに愚かなことである。
 
(二)
 「満州」からの贈り物に喜んでいたその頃、トルストイの「イワンの馬鹿」や「人
はどれだけの土地が必要か」を繰り返し読んだ。雨の日には遊びに行くところがなか
ったから仕方なく本を読んだ。しかし、「満州」とトルストイを結びつけて考える程
の知恵はなかった、まして送られてき菓子箱が植民地支配のおこぼれだなどというこ
とが小学生に分かるはずもなかった。
 同じ頃、火野葦平の『麦と兵隊』を読んだ。「泥水すすり草を食み」ながら進む兵
隊さんは偉い、だけど自分は絶対戦争には行きたくない、そういうことはあり得な 
い、そう思った。この書は百万万部以上のベストセラーになったという。当時として
は驚くべき現象だった。小学校では全校生徒が「徐州徐州と人馬は進む 徐州 いよ
いか 住みよいか・・・」と歌わせられながら校庭をぐるぐる回っていた。なぜ徐州
まで攻めていかなければならぬのか、納得できる説明をしてくれる人はいなかった。
だが、火野葦平は作品の中で日本兵と中国女性の恋も描いた。中国人を「シナ人」と
呼んで人間扱いしないのが当時の教育だったので、この話は深い印象を残した。いま
でも明瞭にその時の気持ちは覚えている。
 数年前、「満州」に住んでいたことのある人が同じ仲間と連れだってハルビンのツ
アー旅行に行ってきた話を聞いた。昔住んでいた家がそのまま残っていて懐かしくも
あり嬉しくもあり、感動したそうである。そういえば、私たちにチョコレートやキャ
ンデーを送ってくれた母の友人もハルビンからだったと思い出した。彼女たちは「満
州」でいい思いをした人たちだったのだろう。防衛の任務も課せられた「満蒙開拓 
団」の人たちの苦労話とはまた別のものかも知れない。
 戦後「満州」から引き揚げた人を何人も知っている。Aさんは「満州」時代のこと
を一言も語らなかった。B夫人は波瀾万丈の人生を語った。Cさんは全くの孤児にな
って親戚に預けられ寡黙な毎日を過していた。Dさんは・・・。みんなある過去を背
負ってしまっている。私は前に朝鮮から引き揚げてきた村松武司のことを書いた(『
私の討匪行』ほか)。かれは自分を「朝鮮植民者」と呼んだ。そういう言い方をすれ
ばAさんもBさんもCさんもDさんもみな「満州植民者」だ。

(三)                                                                     
 日清・日露戦争が終ったとき、獲得した領土が少ないとかいって暴動が起きたりし
た。今回はサンフランシスコ平和条約によって広大な領土を失ったにもかかわらず平
穏そのものだった。この条約は至って政治的なものだった。それは当然といえば当然
だ。中国や韓国は会議に参加できず、ソ連は署名しなかった。この三国が調印してい
ないのだから、三国との領土問題の解決が困難であることは最初から明白だった。
  先日『敗北を抱きしめて』の著者ジョン・ダワーの発言が載った(インタビュー「
なぜ、まだ領土問題なのか」朝日・12・10・30)。彼は言う、東アジアの領土問題は「
北方領土」「竹島」「尖閣諸島」「台湾」「南シナ海の諸島」と五つあるが、いずれ
もサンフランシスコ会議で検討されながら冷戦によって解決を阻まれたと、論旨は明
快。
 わが国をめぐる領土問題は、たんに対ロシア・中国・韓国という問題では捉えきれ
ないことは前から言われていた。ヤルタ協定、カイロ宣言、ポツダム宣言にさかのぼ
りそれらを紙背に徹して読みこむ必要がある。ダワー氏も恐らくそういうだろう。ル
ーズベルト大統領からトルーマン大統領へ、ダレス長官戦略、それらをも視野に入れ
なければ到底理解できない。そのような分析はわが国でも既に行われてきたところで
ある。ダワー氏の見解はなんら目新しいものではないが、このインタビュー記事を書
いた中井・真鍋両氏は「戦後、日本人がなるべく開かないようにしてきた胸の奥の『
秘密の扉』がノックされた。そんな気分になった」と解説している。だが新聞記者が
そのように書かざるを得ないのが今日の日本の現実なのだろう。
 戦後の領土問題を論ずるとき必ずといっていいほど出てくる言葉が「固有の領土」
である。広辞苑(権威づけるときに使う)によると、「固有」とは(1)[易経(益
卦)]天然に有すること。もとからあること。(2)その物だけにあること。特有。
「日本の-文化」とある。
 すると、わが国固有の領土というのは、わが国が天然に有する領土、もとから持っ
ている領土ということになる。当然「わが国」はいつから存在したかが問題になる。
 建国記念日というものがある。神武がヤマトの地において即位して国ができた。奈
良盆地の一部分である。それが固有の領土、それ以外は固有ではない。出雲の国はヤ
マトの国ではなかった。至る所に国があり、それらを支配・併合して大和朝廷になっ
た。政府の公式見解だろう。つまり日本列島のほとんどがヤマトの、そして日本の固
有の領土ではない。北方四島や竹島、尖閣諸島ももとより固有の領土ではない! 国
語辞典を見てそういうふうに考察した。
 アメリカ大陸には西洋から人間がわたってきて国をつくった。それが西洋人の固有
の領土か? 原住民の国家や共同体を滅ぼしてつくったのが今の中南米諸国である。
合衆国の固有の領土とは何か。そんなものは存在しない。世界中見ても存在しないと
判断出来るだろう。したがって今日の国際法でも「固有の領土」というものはない。
考えられないことなのである。最近中国が日本政府の真似をして、というよりパクッ
テ「固有の領土」と言う場合があるようだが滑稽だ。「日本固有の領土」というのは
多分「島国根性」、よく言えば「島国魂」が生み出した言葉だろう。同じ島国でもイ
ギリスは幾度も侵略・征服され、民族も混交して今日にいたった。日本の経験は蒙古
襲来のみ、それも「神風」のおかげで侵略をうけなかった。「固有の領土」などを問
題にしだすと今日の国際関係は崩壊する。日本政府は、一度も他国の支配下に入った
ことのない領域が固有の領土だと言っているようだが、なんと論理性のない支離滅裂
の理屈であることか。せっぱ詰まってむりやりこじつけた屁理屈だ。
                   
(四)
 「満州」であろうが朝鮮・韓国であろうが中国であろうが、互いに自由に往来し居
住できる世界が望ましい。『ファウスト』のメフィストは生あるものは滅びると言っ
たが、いずれの日にか、国家は消滅し国境は存在しなくなる・・・「いずれ」が何時
になるかわからないが・・・。今年のノーベル平和賞はEUが受賞した。EUの結成
が話題になっていた頃、日本国内でも大きな反対の声があった。主権を侵害し、加盟
国の農民や労働者を苦境に陥れるというのが主要な趣旨だったと思う。ヨーロッパ人
からみれば余計なお世話だったろう。今、ヨーロッパの空港でアジアのツアー客が列
をなして並んでいる横を、EU人がスイスイと素通りして行く。EUとはこういうも
のかと妙に感心する。フランスとドイツは戦争しなくなった、これも不思議。東アジ
アでは今にも武力衝突かという危機が発生する。筆者はトルストイを読んでから、国
とか国境に疑問を抱きつづけてきた。だから「固有の領土」は不思議だった。国際競
技で日本が勝とうが負けようがどうでもいい・・・そう思う、だがこんなことは大き
な声で言わない方がいいらしい。
 


.風のPL(11)ファーブルと地震

2012-11-12 18:26:08 | 日記

(一)博物学者ファーブル
 日本では三歳の子どもでもファーブルは知っている。親がファーブルの絵本を買い
与えたり図書館で借りてやったりするから。
 アンリ・ファーブル(1823-1915)は昆虫学者と言われている。手もとの『西洋人
名辞典(岩波)』をみても「フランスの昆虫学者」である。ファーブルの子ども向け
の啓蒙書『科学物語』(『新訳絵入 科学物語』1927年、冨山房)の翻訳者前田晁も
「昆虫学者」と言っている。だが、ファーブルの見事な評伝『ファーブルの生涯』(
平野威馬雄訳)を書いたG・V・ルグロは「当時文明世界のもっていたもっともすぐ
れたもっとも高い誇り、最大の博物学者」と表現し、ほとんど一貫して「博物学者」
と呼んでいる。どうも日本人の感覚とは合わない。ファーブルはいろいろな自然科学
の本も書いていて、『科学物語』の内容も動物だけでなく、植物、金属、天体、地 
球、気象、鉱工業、技術など多様な分野に及んでいる。むろん、第一次大戦勃発の騒
擾の中で静かに生を終えた彼が原子爆弾や原発を知る由もなかったが、地震について
はこの書でも強烈な記録を残しているので、その一部分を抜粋してみよう。この本で
ファーブルは、ポールおじさんという名を借りて近所の子どもたちに科学のお話をす
るという形をとっている。

 (二)ポールおじさんの地震話
 まずポールおじさんは、地球が球体であるのはどうして分かるかと設問し、一例と
して、入港する船を見ていると、はじめマストのてっぺんが見え、次に一番上の帆が
見え、次にその下の帆が見え、最後に船体の全部が見えるてくる、これは地球が球体
であることの証拠だと説く・・・この説明の仕方はプリニウスの『博物誌』での説明
と全く同じである。この話の後でファーブルは地球の大きさの話に移る。実はその前
に既に火山の話、エトナ山やヴェスヴィオ山の大噴火の話もしてあいるのだが・・・
そのとき彼はプリニウスの最後について詳しく書いた・・・そして地震の話へと移っ
てゆく。

 ポールおじさんは言う。「ヨーロッパで感じられた全ての地震の中で、最も恐ろし
かったのは一七七五年の万聖節(11月1日)にリスボンを破壊した奴だ。・・・地面
が幾度か烈しく揺れて・・・このポルトガルの繁華な首府は見渡すかぎり壊れた家と
死骸との山になってしまった」
 「波止場に逃げた群衆も、ボートも船も(水のなかに)ひき込まれていった。人一
人、板一枚も再び水面へ浮かんでは来なかった・・・六分間に六万人の人が死んだ」
 「このとき、アフリカのモロッコ、フェッツ、メキネズなど幾つかの町も覆された
」。「一万人が住んでいたある村は閉じた穴の中へ全体が呑み込まれた・・・」。
 「一七八三年の二月に、南イタリアに地震が起き四年間つづいた。はじめの年だけ
でも九百四十九回もあった。地面は、まるで荒海の上のように大きく打った波で皺が
寄って・・・人々は・・・吐き気を覚えた」「二分間で、最初の振動が南イタリアと
シシリー島との町や村の大部分をひっくり返した。・・・大きな広い地面が・・・山
腹からすべり落ちて、はるかに遠くへ行って、まるで別のところにとどまった。丘が
二つに裂けた。・・・わんとあいた深い穴の中へ、家や、樹木や、動物を載せたまま
で、何もかも一緒に呑み込まれて、それきり見えなくなった・・・」「あるところで
はまた、ざらざらと動いている砂で一ぱいな深いじょうごが口を明いて、やがてそれ
が大きなむろ穴になると、間もなく地下水が侵入してきて湖水に変わった。実に、二
百以上の湖や沼がこうして不意に出来たという」「振動のひどかったことは、街の敷
石が道からひっこぬかれて空中へ飛んだほどだった。・・・地面が持ちあがって裂け
ると、家も、人も、動物も一時にぱくっと呑み込まれた」「この恐ろしい出来事のた
めに死んだ人は八万にのぼったといわれている」「そのうちの大部分は家の潰れた下
に生きながら埋められたもので、その他のものは、震動のあとで起こった火事のため
に焼け死んだり、逃げて行くうちに、ふと足下にできた深い穴の中に呑み込まれたり
したのであった・・・」。

(三)プリニウスの地震話(『博物誌』から)
 エトルリアのムティナ地区で大変な、そして凶兆的な地震が起きた(前91年)。
二つの山が大音響をたてて衝突し、前へせり出し、また焔をあげながら後ろへ退い 
た。両山の間から煙が空に立ち上った。イタリアの国土にとっては、あの内乱よりも
悲惨な事件であった。
 ネロ帝の最後の年68年に、ネロの地所管理人のウェティウス・マルケルスの領地
で、真ん中にに公道が走っている牧場とオリーヴの木々が、道の反対側へと乗り越え
た。
 地震には海の浸水が伴う。人類の記憶にある最大の地震はティベリウス・カエサル
が皇帝でのとき起きた。12のアシアの都市が一夜で転覆した。もっとも多く起きたの
はポエニ戦争中で、たった1年間で57回の報告がローマにとどいた。(以下省略)

(四)地震の発生原因・・・ファーブル
 ポールおじさんは、は寒暖計の仕組みを説明した後で、鉱山に話題を移す。深い鉱
山の中では暑さがひどいこと。また、温泉の噴出にも言及する。地下の温度が30メ
ートル毎に1度ずつ高まる・・・だから地球は火で溶けた物と、その溶けた金属の大
海の上をぐるっと包んでいる固い薄皮とで出来ている球であると想像できる・・・。
地球の直径が2メートルとするとその薄皮は指の幅の半分の厚さに相当するし、卵の
殻が地球の殻であるとすると、どろどろした中味は地球の中のどろどろした物である
・・・と。子どもたちは考える、殻がそんなに薄いならたびたび震動が起きるだろう
というと。その疑問に対してポールおじさんは、どこかで何らかの震動を受けない日
はないが、恐ろしい地震がめったにないのは方々に火山があるお陰だ、火山は安全弁
だと説明する。聞いている子どもの一人は言う、おじさんから前にエトナ山の噴火や
カタニヤの災難のことを聞いた。火山は周辺を荒らす恐ろしい山だとばかり思ってい
たけど、大変ためになる、必要なものだということが分かりました・・・と。
 ポールおじさんの話は秩序立って論理的である。面白くやさしい。この書はフラン
スの小学校・中学・女学校などで広く用いられた。当時明治の学制改革のなかで日本
でも小・中学で「博物」という学科が生まれたがファーブルのこの書のような魅力的
な教科書は存在しなかった。

(五)地震発生諸説
 現在では、地震発生の原因はプレートテクトニクス説で説明される、それ以外の説
はないかのように。この説は1960年頃に生まれたもののような気がするが、もう
完全な定説である。だが以前から異説も多々ある。3・11の東日本大震災の後でも
新説が生まれた。地震は太陽の黒点と関係があるという説である。湯元清文・九州大
宇宙環境研究所センター長のチームの分析で、太陽の黒点数が少ない時期ほど巨大地
震の発生頻度が高く、東日本大震災もその時期に起きた。また、黒点数がが少ない時
期には、太陽から吹き出す電気を帯びた粒子の流れ「太陽風」が強ま現象時に、M6
以上の地震の70%が発生していたという(毎日・2011・9・26)。
 ローマの人セネカの結論は風がその原因ということだった。プリニウスもおおよそ
同じ見解だと述べたが、地震にまつわる彼の話を少し『博物誌』から引こう。
 バビロニアの学説では、地震は他のすべての現象の原因である三つの星(土星、木
星、火星)の力によってのみ起きるという。ミレトスの自然哲学者アナクシマンドロ
スは霊感にうたれてスパルタ人に地震がさし迫っているから注意するよう警告したが
、その後間もなく彼らの市全体が崩壊した。ピュタゴラスの師であったフェレキュ 
デスも霊感によって仲間に地震を予告したが、その霊感は井戸から水を汲んでいると
き得た。
 プリニウスはもちろんそんな話を信じていたわけではない。そんな話は個々人の判
断に任せればいいことだとし、彼自身は、セネかと同じように原因は風だという。な
ぜなら、地震は、風が凪いでいて空が全く静かで、空気の動きがすっかり止まり、鳥
が舞い上がることができないときに限って起きるという。そういうときには、風が地
脈の中に閉じ込められ、その閉じ込められた気流が自由に飛び出そうともがくときに
起きる。
 地震は電光と同じく秋と春に比較的多い。昼間より夜の方が多い。もっとも激しい
地震は朝と夕方に起こる。また月食日食の際に起こる。そのときは嵐が凪いでいるか
らだが、とくに雨の後に暑気が生じたり暑気の後に雨が降るときに起こる。
 地震がさし迫ると、晴天のとき、日中でも日没少し過ぎても、薄い雲の筋が広い地
域の上に棚引く。井戸水がいつもより濁り幾分悪臭があるのは、いまひとつの前兆 
だ。洞穴がそうであるように、井戸も閉じ込められた空気に出口を与えるという地震
からの救済方法があるのだ。
 排水のために道管を通された建物は揺れが少なく、なかでも地下室の上に建てられ
たものはずっと安全だ。いちばん安全な場所はアーチであり、また壁の隅や柱だ。こ
れらは相互に突き合うことで揺れ戻る。粘土のレンガで建てられた壁は揺れても被害
が少ない。たわみが波打ったり、大波のような動揺、または全運動が同じ方向に進む
ときは危険だ。風が出口を見出したときに地震は止まる・・・そのようなことをプリ
ニウスは書き連ねているが古代人の科学観の限界だ。
 ファーブルはさすが近代人だ、プリニウスとはずいぶん違う。だが、プリニウスは
非科学的だと批判する科学者は多いが、その現代の地震学者が多大な研究費を貰いな
がら(「この40年以上、何千億円も使ってきたのに予知に成功していない」長尾年
恭氏)東日本大震災を予知できなかった。地震予知など不可能と開き直る学者もい 
る。イタリアでは地震を予知できなかったと、地震学者が有罪になった。確かに予知
は難しいかもしれない。火星へ行くよりも難しいのだろう。毎年地球上で数多くの人
たちが地震の犠牲になっているというのに。
 プリニウスはギリシア人が建てたエフェソスのディアナ神殿について述べている。
これはギリシア人の抱いた壮大な構想に基づくものだが現実的でプリニウスの時代に
もその建物は健在だったという。建設には120年もかかった。地震によって損傷し
ないよう、また沈下の恐れがないようにと、建て物の基礎が動くような土地を避け沼
沢地に建てられた。沼沢地は、がっちりと踏み固められた木炭の層と、毛をつけたま
まの羊皮の層で固められた。神殿の全長は425フィート、幅220フィート。12
7本の円柱があり、一本づつが127の国王によってつくられた。この工事を監督し
たのはケルシフロンという人物。この工事で最も驚嘆すべきは、この巨大な建造物の
台輪を持ち上げて正しく据えたことだったという。プリニウスはこの工法について詳
しく述べている。今日、この工法を再検討する必要があるだろう。・・・人間は偉大
なのか愚かなのか?                                                         
 


風のPL(10)羚児とファーブル

2012-11-04 16:34:26 | 日記

先日、画家飯塚羚児(明治37年-平成16年)の画業について、資料室ののある「花
の画房」を管理されている高見みさ子さんにお話を聞く機会をもった。
 羚児は戦前挿絵画家として出発、のち多様な美術作品を制作した。高見さんは、羚
児はダ・ヴィンチに勝る天才だったとおっしゃる。羚児が書いたボートの精密な設計
図を見せてもらった。その設計図に基づいて造ったボートに乗る羚児の写真もあった
。彼は特に帆船画、艦船画を多く描いたので「海洋画家」とも呼ばれることもある。

 『昆虫記』のファーブルは各種の科学関係の書も書いているが、そのなかに『科学
物語』というのがある。昭和二年に冨山房から『新訳絵入 科学物語』(前田晃訳)
が出た。この書の挿絵を担当したのが飯塚羚児である。ファーブルは相当長いあいだ
小学校の教員をしていた。羚児も挿絵画家になる前に短い期間であるが小学校の教員
をした。
 この『科学物語』というのはポール叔父さんという、ファーブル自身をモデルにし
たような人物が、数人の子どもたちにいろいろな話をして聞かせるという体裁の本で
ある。全部で80話、植物・動物はもちろん、地学や化学・物理、あるいは機械の話
まで及ぶ。普通彼を昆虫学者と呼ぶが、多くの人がいうように博物学者と呼んだ方が
いい。
 この80話のタイトルで個人名が使われているのは第38話の「フランクリンとド
・ロマ」と第47話の「プリニイ(プリニウスのこと)の話」だけである。ド・ロマ
は田舎の町長、フランクリンは有名なベンジャミン・フランクリン。ともに紙鳶を揚
げて雷と電気の実験をした。プリニウスは『博物誌』の著者。

 45話と46話でヴェスビオ火山とエトナ山の噴火の話したあとこの47話が出て
くる。ヴェスビオ噴火にあたっての行動をかれはこう記して期している。「非常に勇
気に富んだ人で、もし新しい知識を得るとか他人の助けになるとかいう場合がある 
と、どんな危険からもしりごみしなかった。ヴェスビオ山の上に変な雲を見て驚いた
プリニイは、すぐに艦隊を率いて出発して、脅かされている海岸の町を救ったり、こ
の恐ろしい雲をもっと近いところから観察するために赴いた。・・・プリニイはみん
なが逃げ出しているこの最も危険に見えた方面へ行った・・・」と続く。最後は「(
スタビアの)海岸で、プリニイがちょっと休もうとして地べたに座った時に、強い硫
黄の匂いのする烈しい焔が落ちて、みんなを逃げ出させた。プリニイも立ち上がった
が、すぐまた倒れて死んだ。火山から噴き出した焼灰だの、煙だのが窒息させたので
ある」と描いた。これは甥の小プリニウスが伝える状況にほぼ忠実である。ところが
今日でも、実は船のうえで死んだとか、逃げ惑う群衆に押し倒されて死んだとか、そ
の他いろいろある。中には、物好きにそんなところに出かけてゆくから災難に遭うの
だと嘲笑する学者もいる。奇妙なことだ。
 

この47話には二枚の羚児の挿絵がある。一枚はプリニウスが艦隊を率いてナポリ
湾をわたってゆく図である。黒く立ち上がる噴煙を背景に、大小五・六艘の帆船が、
落下してくる火山礫のためにできた大きな水しぶきの中を進んでゆく図である。沈没
したと見える戦艦のマストも描かれている。二千年近く前の、しかも遠い異国の艦船
隊を想像力豊かに描いてみせた。細部に不審な箇所があるのは致し方ない。しかし、
身の危険を顧みず突き進んでゆくプリニウスとその艦隊の意気込みを見事に伝えてい
る。ローマ艦隊が大波を蹴散らして進んでゆくこのような絵には、諸外国の文献でも
お目にかかったことはない・・・ヴェスビオの噴火を描いた図はいろいろ見たが・・
・。
 もう一枚は、プリニウスの甥の小プリニウスがその母親と二人が、噴煙を背景に見
ながら手を取り合って退避している図である。
 前者の絵は暗く重苦しいタッチの絵になっているが、後者は、線画の上に明るく色
づけしてあって、まるで別の筆づかいをしている。前者のサインは Reiji、後者は Ma
riano.Reiji となっているので別人の筆かと思ったが、マリアーノというのは彼のク
リスチャンネームだった。

 高見みさ子さんによると、羚児は布団に寝たことがないという。高見さんの家に泊
まったときも、布団は要らないと断ったそうである。どうやって寝るんですかと聞い
たら、寝ないで絵を書いているらしいとおっしゃる。恐れ入りました。
 『ファーブルの生涯』を書いたG・V・ルグロはこう言っている。「ファーブルに
とって休養というものはない。とだえることのない、孤独な刻苦精励の生活だった。
せいぜい寝るときから朝目が覚めるまでの短い時間が、休養といえばいえるだろう。
夜明けにおきて彼は、パンをかじりながら台所を大股に歩きまわる。事実、彼にとっ
て思索をすすめるためには、たえずからだを動かしていなければならなかった。ふつ
うの人のように、のんびりと食卓についている朝食ではない」(平野威馬雄訳)。す
ごいな!
 小プリニウスによると、プリニウスは最も睡眠時間が少なくて済む人だった。食事
の間も本を読ませ、手早く覚え書きをつくっていた。田舎にいるときは、仕事(読書
と著作)をしない時間は、入浴中だけだった。入浴中というのは湯舟に浸っていると
きのことで、体をこすったり乾かしてもらうときにも本を読ませたり書き取りをさせ
た。小プリニウスはぶらぶら歩きをしているのをみつかり、時間を浪費するなと叔父
にきつく叱られた。
 凄い人たちがいるものだ。私など朝から昼寝して、ぐうたらに日を過す。情けない
が仕方ない。それが私の人生だ。

 ファーブルはフランスの博物学者レオン・デュフールやレオミュールの影響で昆虫
の世界に入り込んだらしいが、フランスは元来昆虫の研究者に恵まれた。ファーブル
も多くの先輩たちに敬意を表している。だがそれらの人の多くは片田舎でひっそり研
究を続けながらも世間にも注目を浴びずに終った人も多いとルグロは伝えている。そ
もそも昆虫というのは下等な動物と見なされその観察や研究に没頭する人たちも重ん
じられることは少なかったのである。今日でもヨーロッパではそういう傾向があるら
しい。日本人ではファーブルの名を知らない人はほとんどいない。昔からわが国では
虫は愛されてきた。といってファーブルが全く無視されたわけでもはない。文部大臣
が表敬訪問をしたり、レジオン・ドヌール賞を授与されたり、晩年にはポアンンカレ
大統領が自らセリニアン村のファーベルの農園「アルマ」の自宅を訪れたりもした。
 そのファーブルがプリニウスの『博物誌』の熱心な読者であったことはあまり知ら
れていない。『科学物語』の第47話ではプリニウスの生きざまを書いただけだった
が、『昆虫記』ではプリニウスの昆虫に関する観察眼の鋭さを、具体適例を挙げなが
ら敬意を表している。プリニウスの「自然はそのもっとも小さな創造物において自己
の完全な姿を表現している」という名言は後世の人たちに大きなインスピレーション
を与えてきた。もちろんファーブルにも。

 わが国では古来昆虫のすがた・かたちや鳴き声を愛でる慣わしがあった。それは欧
米にははない感性だと評価されてもきた。しかし、昆虫の生態や機能を分析するとい
う伝統はほとんどなかった。アリストテレスは動物を飼育している農民たちから資料
を得て著述を残したが、自身の観察によるものかどうかわからない。プリニウスは明
らかに自身の観察を述べていると思える。そしてその昆虫の生態や機能を分析を行っ
た結果、「自然はそのもっとも小さな創造物において自己の完全な姿を表現している
」という結論を導き出した。もちろん顕微鏡一つない古代においての観察だから今日
から見れば幼稚であり観念的である点は否定しようもない。その不明な点は想像力と
思索、直感によって補う以外はない。ファーブルはプリニウスについてこのようにも
評価している。「この古い時代の博物学者は今度はなんというよき霊感を与えられて
いることだろう」(『昆虫記』山田・林訳)。
 プリニウスが『博物誌』という巨大な作品を手がけた最大の目的は何か。いろんな
人が推測を語っている。だが結局は、彼が意図したのは、自然の偉大さやその恵みを
賛美することにあったと見做すのが妥当だろう。かれは『博物誌』最後のところで「
あらゆる創造の母なる自然に幸いあれ。そしてローマ人のうちで、わたしのみがあら
ゆるあなたの顕現を賛嘆したことを心に留め、わたしに仁慈を賜わらんことを」と述
べた。彼は、昆虫を最下等の動物だとは決して見做さなかった。自然のもっとも完全
な自己表現だと断言した。彼のような思想は人類史のなかでも極めて希なものだと言
わざるを得ない。
 そして、ファーブルの考えもプリニウスによく似ていた。彼の生活感・自然観を示
す言葉を最後に載せておこう(G・V・ルグロ『ファーブルの生涯』平野訳から)。
 「多くの見せかけの幸福や不必要な浪費をすてて、簡素な生活にかえるがいい。か
しこいあこがれに燃えていた太古の節度のある生活にかえるがいい。富源の山である
いなかの生活、野辺、川辺、海辺の健康な生活にかえるがいい。永久の慈母なる大地
にかえるがいい。さもなければ人間は、あまりにもすすみすぎた文明に疲れ、調子が
乱れて、はてはよわよわしいからだとなり、消滅してしまうであろう!
 そうした場合、人間よりもずっとさきにこの地球にやってきた昆虫どもは、さらに
また人間よりもあとまで生き残り、人間のいなくなった世界で歌をうたいつづけるこ
とだろう!」。