一)
「この書は、ローマ市民の、詩の女神であるミューズ(Camenis Quiritium)に捧げたわたくしの新しい作品であります」
これは『博物誌』の「序文」の冒頭の言葉である。ここでいう「ローマ市民(Quirites)は、ローマ市民権を持つ市民(Romani)ではなく、いわば公民の資格を持つローマ人一般を指す。ここでプリニウスは元来ギリシアの神であるミューズをローマ市民の神にしてしまった。ローマ帝国の艦隊長に赴任する直前に、プリニウスは『博物誌』をティトィスに献呈したと思われる(77年?)。軍港はナポリの近くのミセヌムにあったが常駐の必要もなく、献呈する機会はいつでもあっただろうが、彼としては一つの区切りとしたかったのだろう。
プリニウスは皇帝の諮問委員をしていたようで、毎早朝宮廷に参上しウェスパシアヌス帝に伺候していた。長子ティトゥスはウェスパシアヌスの共同統治者だったので、おそらく毎日顔を合わせていただろう。にもかかわらず、二人はときどき手紙のやりとりをしていたらしい。それはプリニウス自身が書いている。彼は手紙で『博物誌』を献呈すると約束していたようだ。だがまだ約束が果たされていないとティトゥスから苦情が出た。そこで約束を果たそうと思ったとプリニウスは言う。
今日序文(PRAEFATIO)とされているものは、『博物誌』を献呈するに当たってプリニウスがティトゥスにあてた手紙(epistula)である。プリニウス自身そう書いている。だが実際の中味は「献詞」という性格をもっている。一般読者対象の序文ではなく、ティトゥスに読んでもらうためのものである。
『博物誌』は現在37巻とされているが、本体は36巻である。プリニウス自身がそう書いている。37巻になったのは、その手紙とともに献呈した『博物誌』の目次・文献目録・その著者名の一覧などが後に一つの巻にまとめられて、合計37巻になったからである。
この手紙でプリニウスはティトゥスに、貴方のお父上はお年を召しているので、貴方に皇帝という称号を用いることを許してくださいと言っている。ウェスパシニアヌスはそのとき多分68歳、その2年後の79年6月に亡くなっている。さらにその2ヵ月後にプリニウスは殉死した。
『博物誌』はプリニウスの死後出版されたと一部で言われている。だが、この手紙にあるようにウェスパシニアヌスはまだ健在であり、彼が健在ならプリニウスも健在である。この手紙のなかでプリニウスが言っていることだが、献呈は同時に出版である。したがって死後出版ということにはならない。プリニウスはこの手紙の中でローマにおける出版事情についていろいろ書いている。それはティトゥスに作品を正式に献呈する人々は、単なる出版とは違った立場に置かれることになると、自分の置かれた立場を恐れての気持ちもあったからだろう。同じ出版でも並みの出版ではないのだ。
(二)
当時ローマでは著作を出版するときには「審判人」の認可が必要だったという。プリニウスはこういっている。「審判人を籤で得るか自分の選択によって得るかは重大なことがら」と。だがティトゥスがこの書の審判人になってしまった。しかも途中から自ら希望して審判人の席に着いたという。プリニウスは驚いただろう。その時点でもう特別の出版ということになってしまった。彼は言う、ティトゥスのように才能ある人物が裁断するなら、誰も自信をもって作品を評価することはできないと。ティトゥスに評価され認定されれば当然献呈ということになる。
しかしここでプリニウスは言う。市民法によれば学者にもいくらか拒否権があると。そしてキケロやカトー、ルキウス・スキピオの事例などを挙げて審判人の選定の重要性を語っている。それは多分、他の人たちの嫉妬や中傷を気にしてのことだろう。だが結局拒否はできない。「自分で献呈することでそのような弁明をすることを差し控えております」と語っている。
プリニウスがそのことを気にしていたことは次のような叙述でもわかる。「貴方に献呈されるものが、貴方にふさわしいものかどうかと注意が払われるのであります。しかしながら、田舎の人々や多くの外国人たちは、香料を持っていないので、牛乳や塩漬けのひき割りを奉納します。そして神々を崇めるのに、その力量に応じたどんな方法であっても、誰も責められることはありませんでした」と。香料が当時どれだけの貴重品だったかわからないが奇妙な例を持ち出したものだ。つまり『博物誌』の内容が牛乳や塩漬けの引き割りのような平凡なものであっても我慢してくださいということなのだろう。
(三)
このあとプリニウスは『博物誌』という著作の本質的な特長について語っている。この「手紙」のいちばん肝要な箇所である。この箇所は過去に数多くの研究者・学者によって引用され論議されてきた。だからここでくり返すこともない。ただその一部、ビュフォンが自己の『博物誌』の扉に掲げたプリニウスの言葉を載せておこう。
「古いものに生気を、平凡なものに光輝を、曖昧なものに明確さを、陳腐なものに魅力を、疑わしいものに確実性を、そしておのおのにその本質を、本質に特性を与えることは困難な仕事であります」
彼はそのような困難な仕事に取り組んだと言いたかったのだろう。そしてリウィウスの『ローマ建国史』の一つの巻の冒頭の「著作することに生命の糧を見出すのだ」
という言葉を引いて、リウィウスが個人的満足ではなく、作品への愛と、ローマ市民に尽くすためにたゆまず著作を続けたと賞賛した。
そして彼自身は職務に追われて余暇にしか、つまり夜にしか執筆できないと弁解している。日中を貴方(ティトゥス)に捧げており、睡眠によって健康を保つように心がけている、だが、生きるということは目覚めていることだから、睡眠時間を削ればそれだけ多くを生きるということになるのであり、これが唯一の報酬であって、これに満足していると語る。このような生活ぶりは彼の甥の小プリニウスの証言によって追認されているが、まったく恐れ入ったことである。
(四)
『博物誌』は77年に未完したがプリニウスの死後修正を施して公刊されたという説もある。その根拠は、以下のような記述によるものかもしれない。
プリニウスはこの手紙で、ギリシア人に故意に敵対していると思われないように配慮したという。『博物誌』の中で、随分ギリシア人の悪口も書いているからそういうのだろう。次のように書いている。
ギリシアの著名な画家や彫刻家たちが、彼らの完成した、私たちが賞賛してや止まない傑作にさえ暫定的に署名するのが常だった。たとえば「アペレスが」または「ポリュクリトスが製作中」などと。あたかも、芸術というものは、常に制作の過程にあるものだと言わんばかりに。これは、何らかの理由で修正を迫られたときに、どんな欠点でも修正するつもりだという仄めかしだ・・・芸術家としての避難場所を残すために・・・そういう話はこの本(『博物誌』)を読めばわかるとプリニウスは言う。完成を示す「誰々によって制作された」というサインのあるものは三品以上ないという記録があったと思うが、結果としては、これらの作品は大変評判の悪いものであったと付け加えている。
プリニウスは、私の作品にはまだ付加すべき点が大いにあると率直に告白すると述べている。自分の他の本もすべてそうであると。それは酷評家(ホメロマスティクス=ホメロスの詩を酷評した批評家ゾイルスのあだ名)から身を守るためだという。
彼はその10年ほど前『文法について』という作品を公刊している。彼は、ストア派やアリストテレス派、エピクロス派の人々がこの書の批評の仕事に産みの苦しみ
をしており、相次いで流産していること、象でさえ子どもを産むのにそれほど長くはかからないのにとからかっている。彼はそれに関連して「自ら首をくくるための木を選ぶ」という諺のいわれを書いている。「あの雄弁家として名高い人物で、『神聖な』という名称を得ているテオフラストスが、実際、彼に対抗するものを書かせるために一婦人を探し出したということを無視できましょうか。これが『自ら首をくくるための木を選ぶ』という諺の起こりなのであります」
テオフラストスはギリシアの人だが、もうそのころから激しい批判合戦、あるいは非難合戦が行なわれていたようである。
ラブレーがこの話題を取り上げている(『パンタグリュエル物語・第四の書』渡辺訳)。
アテナイ人のティモンは自分に対する市民の忘恩を怒り、人々を集めて、わが家の庭に大きく立派なイチジクの木があり、絶望した市民たちがこっそり来てこの木で首を吊るのを常としているが、今回、8日以内に切り倒す。だから首をくくる必要のある者はとり急いで処置をされたいと宣言したという。この『物語』に登場する一人物が、このひそみにならい、悪魔つきの讒誣者どもはみんな首を吊ってしまえ、首吊り紐は拙者が差し上げるが、期限が切れたら自分で縄を買って、首吊りに適した木を探せ、さもないと希代の博識を謳われた雄弁なテオフラストスを誹謗したレオンティオン姫と同じ目に会うだろう・・・ラブレーはこのように描いた。
翻訳者の渡辺氏は注では娼婦レオンティオンとしている。プリニウスのいう「一婦人」のことである。プリニウスの話は簡略すぎてよくわからない。当時の人は皆知っていた諺なのだろう。どうせ自分が非難攻撃されるなら、立派な人に非難攻撃されたいという意味のようだ。それをラブレーは間違えて理解したのではないかと、訳注で
渡辺氏はいう。
プリニウスは続けていう。あの著名なカトーでさえも非難攻撃を受けて「それがどうだというのだ。ある著作が出版されると、たちまち口やかましい人々の餌食になることを私は知っている。だがたいていの場合、そういう人々には、本当の栄誉などはないのだ。私としては、そういった人々の饒舌を勝手にさせておくまでだ」と。ローマ社会でも激しい猛烈な批判・非難合戦があったのだ。とくに一世紀のローマは、功を争った出版ブームで大変な競争だった。「皇帝」に献呈したら何が待ち構えているかわからなかった。
そういう趨勢の中でプリニウスは、計画したことの残りを最後までやりとげるつもりでいると述べている。先のギリシアの芸術家の話といい、この話といい、先にも述べたように、彼はまだ付加すべき点が大いにあると感じていたのである。そもそも博物誌という分野に終わりとか完結などいうものはない。無限の世界・宇宙を対象とする分野なのだから。艦隊司令官になったプリニウスにとってさらに新しい分野の研究・探求に乗り出せるチャンスでもあった。事実彼は、海上からの火山噴火の観測という冒険に乗り出し命を失った。その前に『博物誌』を補筆する余裕があったかどうかはわからない。
(五)
先ほども述べたように、このティトゥスへのプリニウスの手紙は私信であって一般読者対象のものではなかった。ローマの社会事情なども既知のこととして書かれているから、われわれにとってわかりにくい点も多々ある。私は一部分を紹介したに過ぎないが、これは当時第一級の文明批評ともいえよう。残念ながら、この手紙は中途半端なところで終わっている。締めくくりの文章がない。私はこの続きがあったはずだと思っている。そんなことを言っている人にはまだお目にかかっていないが。
プリニウスの書いた原本はその手紙をも含めて、すべて存在しない。中世以降の写本は200以上あるというが、それらの写本を照合しながら現在のテキストが出来上がった。ほぼ完全なものといわれるがそれはわからない。古い写本では途中で終わっているものもあり、後に発見されて補足された。第三七巻の76の199以降が、あるいは200以降が、そして最後に203の途中以降が後に発見されたものであり極めて大切な箇所である。この最後の発見によって『博物誌』は見事な完結を見た。最後の締めくくりはこうである(205)。
「あらゆる創造の母なる自然に幸あれ。そしてローマ人のうちで、わたしのみがあらゆるあなたの顕現を賛嘆したことを心に留め、わたしに仁慈を賜らんことを」
だから私はティトゥスへの手紙にも続きがあってしかるべきだと考えている。あるいは脱落している箇所もありそうだ。
前回(「風のPL・12」)で、イタリアを賛美する一節の一部を載せた。「そこ(イタリア)には多くの男が、女が、将軍たちや兵士たち、そして奴隷がおり、卓越した芸術や工芸、素晴らしい才能の富をもち・・・」
すでに当時、ローマ帝国は行政面でも経済面でも奴隷なしでは円滑な運営はできなくなっていた。プリニウスにしても『博物誌』を仕上げるには優秀な奴隷の秘書や書記なしには困難だったろう。奴隷はイタリアの富を形成していると彼は考えている。奴隷や外国人たちは、ローマ市民権はなくてもいわば公民権つまり万民権をもつイタリアの人々であり、ミューズはその人たちの詩の女神であると表現されている。
プリニウスが無神論者であったかどうか意見が分かれる。キリスト教圏の人々は無神論者ではなかったと思いたがるようだ。だが、日本人からしてみればはっきりした無神論者だ。『博物誌』を読めばわかる。そのプリニウスがなぜミューズの神などを持ち出したのか。彼はしばしば叙述の中で神を持ち出す。だからといって神の存在を認めていたことにはならない。日本の多くの無神論者だって、年賀状に「○○をお祈りします」と書いたり、初詣に出かけたり、子どもの手を引いて七五三のお参りをしたり、合格祈願をしたり、地鎮祭をおこなったり・・・きりがない。プリニウスが修辞的に、あるいは文学上のアヤで「ミューズ神に捧げる」と書いても何らおかしくない。やっぱりプリニウスも神を信じていたなどと喜ぶ必要はない。注目したいことは、ティトゥスに献呈されたこの書はミューズ神に捧げたものだったということである。プリニウスによれば、万物の創造者は「自然」である。神も万物に含まれて当然・・・多分そう考えていただろう。だから最後に自然を賛嘆する言葉を残した。