静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

風のPL(13)ミューズ神への捧げもの

2013-01-30 23:05:03 | 日記

一)
 「この書は、ローマ市民の、詩の女神であるミューズ(Camenis Quiritium)に捧げたわたくしの新しい作品であります」
 これは『博物誌』の「序文」の冒頭の言葉である。ここでいう「ローマ市民(Quirites)は、ローマ市民権を持つ市民(Romani)ではなく、いわば公民の資格を持つローマ人一般を指す。ここでプリニウスは元来ギリシアの神であるミューズをローマ市民の神にしてしまった。ローマ帝国の艦隊長に赴任する直前に、プリニウスは『博物誌』をティトィスに献呈したと思われる(77年?)。軍港はナポリの近くのミセヌムにあったが常駐の必要もなく、献呈する機会はいつでもあっただろうが、彼としては一つの区切りとしたかったのだろう。
 プリニウスは皇帝の諮問委員をしていたようで、毎早朝宮廷に参上しウェスパシアヌス帝に伺候していた。長子ティトゥスはウェスパシアヌスの共同統治者だったので、おそらく毎日顔を合わせていただろう。にもかかわらず、二人はときどき手紙のやりとりをしていたらしい。それはプリニウス自身が書いている。彼は手紙で『博物誌』を献呈すると約束していたようだ。だがまだ約束が果たされていないとティトゥスから苦情が出た。そこで約束を果たそうと思ったとプリニウスは言う。
 今日序文(PRAEFATIO)とされているものは、『博物誌』を献呈するに当たってプリニウスがティトゥスにあてた手紙(epistula)である。プリニウス自身そう書いている。だが実際の中味は「献詞」という性格をもっている。一般読者対象の序文ではなく、ティトゥスに読んでもらうためのものである。
『博物誌』は現在37巻とされているが、本体は36巻である。プリニウス自身がそう書いている。37巻になったのは、その手紙とともに献呈した『博物誌』の目次・文献目録・その著者名の一覧などが後に一つの巻にまとめられて、合計37巻になったからである。
 この手紙でプリニウスはティトゥスに、貴方のお父上はお年を召しているので、貴方に皇帝という称号を用いることを許してくださいと言っている。ウェスパシニアヌスはそのとき多分68歳、その2年後の79年6月に亡くなっている。さらにその2ヵ月後にプリニウスは殉死した。 
 『博物誌』はプリニウスの死後出版されたと一部で言われている。だが、この手紙にあるようにウェスパシニアヌスはまだ健在であり、彼が健在ならプリニウスも健在である。この手紙のなかでプリニウスが言っていることだが、献呈は同時に出版である。したがって死後出版ということにはならない。プリニウスはこの手紙の中でローマにおける出版事情についていろいろ書いている。それはティトゥスに作品を正式に献呈する人々は、単なる出版とは違った立場に置かれることになると、自分の置かれた立場を恐れての気持ちもあったからだろう。同じ出版でも並みの出版ではないのだ。
 (二)
 当時ローマでは著作を出版するときには「審判人」の認可が必要だったという。プリニウスはこういっている。「審判人を籤で得るか自分の選択によって得るかは重大なことがら」と。だがティトゥスがこの書の審判人になってしまった。しかも途中から自ら希望して審判人の席に着いたという。プリニウスは驚いただろう。その時点でもう特別の出版ということになってしまった。彼は言う、ティトゥスのように才能ある人物が裁断するなら、誰も自信をもって作品を評価することはできないと。ティトゥスに評価され認定されれば当然献呈ということになる。
 しかしここでプリニウスは言う。市民法によれば学者にもいくらか拒否権があると。そしてキケロやカトー、ルキウス・スキピオの事例などを挙げて審判人の選定の重要性を語っている。それは多分、他の人たちの嫉妬や中傷を気にしてのことだろう。だが結局拒否はできない。「自分で献呈することでそのような弁明をすることを差し控えております」と語っている。
 プリニウスがそのことを気にしていたことは次のような叙述でもわかる。「貴方に献呈されるものが、貴方にふさわしいものかどうかと注意が払われるのであります。しかしながら、田舎の人々や多くの外国人たちは、香料を持っていないので、牛乳や塩漬けのひき割りを奉納します。そして神々を崇めるのに、その力量に応じたどんな方法であっても、誰も責められることはありませんでした」と。香料が当時どれだけの貴重品だったかわからないが奇妙な例を持ち出したものだ。つまり『博物誌』の内容が牛乳や塩漬けの引き割りのような平凡なものであっても我慢してくださいということなのだろう。
(三)
 このあとプリニウスは『博物誌』という著作の本質的な特長について語っている。この「手紙」のいちばん肝要な箇所である。この箇所は過去に数多くの研究者・学者によって引用され論議されてきた。だからここでくり返すこともない。ただその一部、ビュフォンが自己の『博物誌』の扉に掲げたプリニウスの言葉を載せておこう。
「古いものに生気を、平凡なものに光輝を、曖昧なものに明確さを、陳腐なものに魅力を、疑わしいものに確実性を、そしておのおのにその本質を、本質に特性を与えることは困難な仕事であります」
 彼はそのような困難な仕事に取り組んだと言いたかったのだろう。そしてリウィウスの『ローマ建国史』の一つの巻の冒頭の「著作することに生命の糧を見出すのだ」 
という言葉を引いて、リウィウスが個人的満足ではなく、作品への愛と、ローマ市民に尽くすためにたゆまず著作を続けたと賞賛した。
 そして彼自身は職務に追われて余暇にしか、つまり夜にしか執筆できないと弁解している。日中を貴方(ティトゥス)に捧げており、睡眠によって健康を保つように心がけている、だが、生きるということは目覚めていることだから、睡眠時間を削ればそれだけ多くを生きるということになるのであり、これが唯一の報酬であって、これに満足していると語る。このような生活ぶりは彼の甥の小プリニウスの証言によって追認されているが、まったく恐れ入ったことである。
(四)
 『博物誌』は77年に未完したがプリニウスの死後修正を施して公刊されたという説もある。その根拠は、以下のような記述によるものかもしれない。
 プリニウスはこの手紙で、ギリシア人に故意に敵対していると思われないように配慮したという。『博物誌』の中で、随分ギリシア人の悪口も書いているからそういうのだろう。次のように書いている。
 ギリシアの著名な画家や彫刻家たちが、彼らの完成した、私たちが賞賛してや止まない傑作にさえ暫定的に署名するのが常だった。たとえば「アペレスが」または「ポリュクリトスが製作中」などと。あたかも、芸術というものは、常に制作の過程にあるものだと言わんばかりに。これは、何らかの理由で修正を迫られたときに、どんな欠点でも修正するつもりだという仄めかしだ・・・芸術家としての避難場所を残すために・・・そういう話はこの本(『博物誌』)を読めばわかるとプリニウスは言う。完成を示す「誰々によって制作された」というサインのあるものは三品以上ないという記録があったと思うが、結果としては、これらの作品は大変評判の悪いものであったと付け加えている。
 プリニウスは、私の作品にはまだ付加すべき点が大いにあると率直に告白すると述べている。自分の他の本もすべてそうであると。それは酷評家(ホメロマスティクス=ホメロスの詩を酷評した批評家ゾイルスのあだ名)から身を守るためだという。
 彼はその10年ほど前『文法について』という作品を公刊している。彼は、ストア派やアリストテレス派、エピクロス派の人々がこの書の批評の仕事に産みの苦しみ
をしており、相次いで流産していること、象でさえ子どもを産むのにそれほど長くはかからないのにとからかっている。彼はそれに関連して「自ら首をくくるための木を選ぶ」という諺のいわれを書いている。「あの雄弁家として名高い人物で、『神聖な』という名称を得ているテオフラストスが、実際、彼に対抗するものを書かせるために一婦人を探し出したということを無視できましょうか。これが『自ら首をくくるための木を選ぶ』という諺の起こりなのであります」
 テオフラストスはギリシアの人だが、もうそのころから激しい批判合戦、あるいは非難合戦が行なわれていたようである。
 ラブレーがこの話題を取り上げている(『パンタグリュエル物語・第四の書』渡辺訳)。
 アテナイ人のティモンは自分に対する市民の忘恩を怒り、人々を集めて、わが家の庭に大きく立派なイチジクの木があり、絶望した市民たちがこっそり来てこの木で首を吊るのを常としているが、今回、8日以内に切り倒す。だから首をくくる必要のある者はとり急いで処置をされたいと宣言したという。この『物語』に登場する一人物が、このひそみにならい、悪魔つきの讒誣者どもはみんな首を吊ってしまえ、首吊り紐は拙者が差し上げるが、期限が切れたら自分で縄を買って、首吊りに適した木を探せ、さもないと希代の博識を謳われた雄弁なテオフラストスを誹謗したレオンティオン姫と同じ目に会うだろう・・・ラブレーはこのように描いた。
 翻訳者の渡辺氏は注では娼婦レオンティオンとしている。プリニウスのいう「一婦人」のことである。プリニウスの話は簡略すぎてよくわからない。当時の人は皆知っていた諺なのだろう。どうせ自分が非難攻撃されるなら、立派な人に非難攻撃されたいという意味のようだ。それをラブレーは間違えて理解したのではないかと、訳注で
渡辺氏はいう。
 プリニウスは続けていう。あの著名なカトーでさえも非難攻撃を受けて「それがどうだというのだ。ある著作が出版されると、たちまち口やかましい人々の餌食になることを私は知っている。だがたいていの場合、そういう人々には、本当の栄誉などはないのだ。私としては、そういった人々の饒舌を勝手にさせておくまでだ」と。ローマ社会でも激しい猛烈な批判・非難合戦があったのだ。とくに一世紀のローマは、功を争った出版ブームで大変な競争だった。「皇帝」に献呈したら何が待ち構えているかわからなかった。
 そういう趨勢の中でプリニウスは、計画したことの残りを最後までやりとげるつもりでいると述べている。先のギリシアの芸術家の話といい、この話といい、先にも述べたように、彼はまだ付加すべき点が大いにあると感じていたのである。そもそも博物誌という分野に終わりとか完結などいうものはない。無限の世界・宇宙を対象とする分野なのだから。艦隊司令官になったプリニウスにとってさらに新しい分野の研究・探求に乗り出せるチャンスでもあった。事実彼は、海上からの火山噴火の観測という冒険に乗り出し命を失った。その前に『博物誌』を補筆する余裕があったかどうかはわからない。
 (五)
 先ほども述べたように、このティトゥスへのプリニウスの手紙は私信であって一般読者対象のものではなかった。ローマの社会事情なども既知のこととして書かれているから、われわれにとってわかりにくい点も多々ある。私は一部分を紹介したに過ぎないが、これは当時第一級の文明批評ともいえよう。残念ながら、この手紙は中途半端なところで終わっている。締めくくりの文章がない。私はこの続きがあったはずだと思っている。そんなことを言っている人にはまだお目にかかっていないが。
 プリニウスの書いた原本はその手紙をも含めて、すべて存在しない。中世以降の写本は200以上あるというが、それらの写本を照合しながら現在のテキストが出来上がった。ほぼ完全なものといわれるがそれはわからない。古い写本では途中で終わっているものもあり、後に発見されて補足された。第三七巻の76の199以降が、あるいは200以降が、そして最後に203の途中以降が後に発見されたものであり極めて大切な箇所である。この最後の発見によって『博物誌』は見事な完結を見た。最後の締めくくりはこうである(205)。
 「あらゆる創造の母なる自然に幸あれ。そしてローマ人のうちで、わたしのみがあらゆるあなたの顕現を賛嘆したことを心に留め、わたしに仁慈を賜らんことを」
 だから私はティトゥスへの手紙にも続きがあってしかるべきだと考えている。あるいは脱落している箇所もありそうだ。
  前回(「風のPL・12」)で、イタリアを賛美する一節の一部を載せた。「そこ(イタリア)には多くの男が、女が、将軍たちや兵士たち、そして奴隷がおり、卓越した芸術や工芸、素晴らしい才能の富をもち・・・」
 すでに当時、ローマ帝国は行政面でも経済面でも奴隷なしでは円滑な運営はできなくなっていた。プリニウスにしても『博物誌』を仕上げるには優秀な奴隷の秘書や書記なしには困難だったろう。奴隷はイタリアの富を形成していると彼は考えている。奴隷や外国人たちは、ローマ市民権はなくてもいわば公民権つまり万民権をもつイタリアの人々であり、ミューズはその人たちの詩の女神であると表現されている。
 プリニウスが無神論者であったかどうか意見が分かれる。キリスト教圏の人々は無神論者ではなかったと思いたがるようだ。だが、日本人からしてみればはっきりした無神論者だ。『博物誌』を読めばわかる。そのプリニウスがなぜミューズの神などを持ち出したのか。彼はしばしば叙述の中で神を持ち出す。だからといって神の存在を認めていたことにはならない。日本の多くの無神論者だって、年賀状に「○○をお祈りします」と書いたり、初詣に出かけたり、子どもの手を引いて七五三のお参りをしたり、合格祈願をしたり、地鎮祭をおこなったり・・・きりがない。プリニウスが修辞的に、あるいは文学上のアヤで「ミューズ神に捧げる」と書いても何らおかしくない。やっぱりプリニウスも神を信じていたなどと喜ぶ必要はない。注目したいことは、ティトゥスに献呈されたこの書はミューズ神に捧げたものだったということである。プリニウスによれば、万物の創造者は「自然」である。神も万物に含まれて当然・・・多分そう考えていただろう。だから最後に自然を賛嘆する言葉を残した。 
  
 
 

 


 


風のPL(12)イタリア賛歌

2013-01-23 16:51:04 | 日記

 (一)

)プリニウスはなぜ『博物誌』を書いたのか、その問いは、わが国においても数限りなくなされてきただろう。わが国でのプリニウス研究の草分けである三枝博音の「プリニウスと自然誌」(『科学史研究』13号)には次のように記されている。

「”自然“についての観察と記述とを(ギリシア人と並んで)ローマ人も企てるのであるが、その企てを、更に人間生活、社会生活にまで引き戻して、その立場で自然を洞察し、人間的知識としようとしたのだと言っていいようである」     

さすがわが国でのプリニウス研究第一人者の言と感心する。

だが、もっとも端的に的確にその意図を表明しているのは、プリニウス自身の言葉だろうと思う。『博物誌』の序文(ティトゥスへの献辞)にこうある。

「(私の)扱う分野は・・・自然の世界であり、いわば生命に関するものであります」もちろん、これだけではわからない。『博物誌』の本文の中に彼の企図を探していく努力が必要になる。

(二)

『哲学の歴史』2、「帝国と賢者」(中央公論社、2007年)に、和泉ちえ氏の「大プリニウス『自然誌』-その執筆動機をめぐる一考察」というコラムがある。ずっと以前読んで一つの感想を持ったのだが、そのままうち過ぎた。いま思い出してそれを綴ってみよう。

和泉氏はいう「ローマ帝国主義に付随する文化史的任務を高らかに宣言した『自然誌』三・五・三九はすでに久しくローマ史研究において重要視されてきたが、それを作品論の中心に据える見取り図が、二一世紀を迎えたばかりの時期にイギリスのローマ史研究諸家によって相次いで提案された」と

『自然誌』三・五・三九というのは、便宜的に第三巻第五章第三九節と呼んだほうがわかりやすいが正式ではない。第三巻から第六巻までが地理で、うち三巻五が「イタリア」、その冒頭にイタリアの概略が述べられており、三九はその一部分で10行足らずである。だから特定することはすぐできる。その箇所は、かつてフンボルト(『コスモス』第2巻)やヒューム(『市民の国について』)などが取り上げた箇所である。

「すべての国(omnium terrarum)の秘蔵子であると同時に親(parens)である国(terra)、神々の摂理によって天空を一段と輝かしくし、分散した諸国を統合し、風俗を和らげ、言語を共通にすることによって、非常に多くの国民の耳ざわりで粗野な言葉を話し合えるものにし、人類に文明を与え、一言にしていえば、世界を通じてすべての民族の唯一の父となるよう選ばれた国(terra)・・・」

「すべての国」というように一応、「国」と訳した原語はterra である。その第一義は「土地」で、国家・地方・全世界・地球などの意もないではないが、近代国家的な「国」ではない。だから「すべての地域」とでも訳した方がいいかもしれない。ここでは、イタリアという地域が、ローマ帝国の領域すべての地域の秘蔵子であり親であると言っているわけで、ローマがそうだといっているわけではない。

 和泉氏はこの文節を「ローマ帝国主義に付随する文化的任務を高らかに宣言した」と評しているが私にはそうは思えない。そもそもローマ帝国という言葉さえ出てこない。この文節に続くのは、イタリアの温和な気候、豊かな平野、日当たりのよい山々、安全な林間の空き地、陰深い森林、豊かな穀物・ブドウ・オリーヴ、羊の光り輝く毛、ウシのたくましい首、多くの湖水、豊かな川や泉、喜んで交易の行われる海・・・等々のイタリアにたいする地誌的な賛歌である。

(三)

先ほど少し紹介したように和泉氏によると、『自然誌』三・五・三九を作品論の中心に据える見取り図が提案され、新たな視点が21世紀を迎えたばかりのイギリスのローマ史研究諸家によって相次いで提唱されたという。 

氏によるとプリニウスは従来あまり高く評価されず、作品全体の意義を正面から再考する研究は少なかったが、帝国主義的文化政策の実態を炙り出すポスト・コロニアル文学理論の台頭とともにこのような新たな視点が提唱され始めたのだという。それによると、プリニウスの意図は自然万有すべてを統轄する偉大な支配者ローマ帝国の勝利を高らかに歌い上げることにあったという。だが、そういう解釈に対し和泉氏は異議を唱えている。

このポスト・コロニアル氏たちに代わって和泉氏が主張するのは、「『自然誌』随所に散見される婉曲的なローマ帝国批判の構図」という構想である。和泉氏は、プリニウスがローマ帝国を称揚しつつも自然の前では「ローマは世界の第二の母」(三七・七七・ニ〇一)に過ぎないことを示唆していると述べている。その和泉氏が指摘する箇所はこうである。

「私(プリニウス)はこう宣言する。全世界で、天空の穹窿が回転しているどこに行こうとも、イタリアの如く自然の栄冠をかち取るあらゆるもので飾られている土地はない。世界(mundi)の指導者(rectrix)であり第二の親(parens)であるイタリア」。

見るように、イタリア(Italia)であって決してローマではない。先にもそうだったが和泉氏は「イタリア」と原書にあるところを「ローマ」としていらっしゃる。ローマとイタリアは決して同一ではない。

このあとプリニウスは、先の第三巻39でのイタリア賛美を敷衍して称揚している。長くなるが面白いので書留めよう。

「そこには多くの男が、女が、将軍たちや兵士たち、そして奴隷たちがおり、卓越した芸術や工芸、すばらしい才能の富をもち、そしてさらにその地理的位置と健康的で温和な気候に恵まれ、すべての国民を容易に受け入れ、多くの港がある海岸をもち、穏やかな風が吹き渡るイタリア。・・・豊穣な土壌と牧場・・・農作物、ブド酒、オリーヴ油、羊毛、亜麻、布、若いウシ、ウマ・・・鉱石では金、銀、銅、鉄いずれにおいても、稼行が合法的に行なわれている限りは、イタリアを凌ぐ土地(terra)はない」

この続きに、インドの驚異的事物に言及したり、イタリアに次ぐ地位をヒスパニアに与えようといっている。先にも触れたように、プリニウスの頭にあったのはローマ帝国ではなくあくまでも地域としてのイタリアであった。

プリニウスの意味するところは、イタリアは万物の生みの親である自然、その自然に次ぐ第二の自然という栄誉を担っているとイタリアを称揚しているのだ。「第二の自然」に「過ぎない」と不満を言っているのではない。

(四)

「本来ならば皇帝あるいはローマ帝国への賛辞が記されてしかるべき作品末尾に自然礼賛が登場する事態は注目に値し、その背後には大プリニウスの執筆動機の一端が見え隠れするように思われる」という和泉氏の発言がこのコラム最大のポイントだろう。

事実『博物誌』37巻は自然への礼賛で終わっている。それを氏は「大プリニウスは自然礼賛を通して(筆者注:ローマ帝国への賛辞はない)『帝国権力を秘かに断罪したとの憶測も不可能ではないだろう」と述べる。和泉氏はプリニウスがローマ帝国に批判的であり、それを断罪しようとしていたという前提に立って語っている。「『自然誌』から看取されるローマ帝国批判は・・・(プリニウスの)批判精神の自然な吐露として解釈することも許されるかもしれない」と遠慮がちであるが意図は明確である。

このようなプリニウス観は次のように展開する。皇帝権力に従順な態度を示さなければ危険だったので、『自然誌』を完成させながらも、故意か偶然かそれを生前公刊することはなかった、この書は「彼の死後甥の小プリニウスによって公刊されたという」とこのコラムを締めくくっている。

和泉氏がイギリスのポスト・コロニアル文学理論派の意見を紹介しながらもそれを批判し、それに対比するかのように提案されたのがこの「帝国権力断罪論」とでも言うべき理論だろう。

 プリニウスの生涯についてわかっているものは少ししかない。甥の小プリニウスの手紙二通、『博物誌の中の自身の叙述の断片、若干の碑文などである。『博物誌』の出版年月なども明確ではなく、研究者はそれぞれ推測する。いろいろあって困る。多いのは「77年完成・ティトゥスに献呈」である。「75年完成・78年刊行してティトゥスに刊行」もある。あるいは「75年に完成・78年ティトゥスに献呈」というのもある。圧倒的に「生前完成・刊行」である。私が調べた限りでは、ジャン・ボージュだけが「77年完成、修正を施して死後公刊か」と書いている(『大プリニウスの伝記』。

あの評判の悪いウィキペディアにはこう書いてある。「最初の10巻は77年発表、残りは死後おそらく小プリニウスによって刊行」。これは珍説である。

 和泉氏の文脈は、プリニウスは『博物誌』のなかでローマ帝国や皇帝権力を批判しているので生前には発行しなかっただろうという推測にもとづく。プリニウスが時の皇帝ウェスパシアヌスの側近であり、また皇太子ティトゥスの戦友であったことはみんな知っている。ローマ史の大家アラン・ミッシェルは、フラウィウス朝の諸皇帝の経済に着想を与えた主要な思想家は大プリニウスであると語っている(「ローマの政治思想」)。確かにプリニウスはギボンの言うように「考証好きで批判的な著者」であり、この書は批判に満ち溢れている。しかし「自然誌」という性格上、批判しているのは一個の人間としての批判の範囲に留まっている。例えばネロ帝を完膚なきまでに批判しているが、国家組織を批判したわけではない。個人としての人間の弱さ、偉大さを叙述するなかで、カエサルもアウグストゥスも批判の対象にはなった。だからといってプリニウスが出版を恐れる理由は全くなかっただろう。

故意か偶然か知らないが、和泉氏は『博物誌』が皇帝ウェスパシアヌスとの共同統治者で帝国の最高権力者であったティトゥスに献呈されたものであることには触れていない。ウィキペディアでも触れていなかったが。この書の序文(ティトゥスへの献辞)の中で述べられていることだが、ティトゥスはプリニウスに『博物誌』はまだできないかとしきりに催促していたらしい。プリニウスは遅れたことへの弁明を書いている。出版を恐れたのではなく、遅れたことを詫びているのである。彼はティトゥスが読み易いように、当時そんな事例はほとんどなかったにもかかわらず、目次をつけたから読みたいところから読んでくださいと言っている。多分プリニウスは、ローマ社会を批判した箇所を真っ先に読んでもらいたかったのだろう。かれは、奢侈と浪費、自然破壊、大衆の迷信・軽信などを厳しく批判していたから。

次に出版ということ。古代において出版がいつかを探るのは困難である。今日のように、機械によって大量に印刷され書店に並ぶのではない。1冊1冊手写され、できたものから順に書店に並ぶのだろう。多分、1冊目が出来上がると著者は先輩・知人・友人・パトロンを呼んで発表会を開く。著者が一部もしくは全部を朗読する。それが出版の時なのだろう。誰かに献辞をつけて贈呈すれば、それが今日で言う出版ということになる。だとすれば、献呈は生きているうちにするものだから、死後出版ということにはならない。ティトゥスに献呈できたのは最高の名誉だったに違いない。

プリニウスの作品全部が生前に出版されたわけではない。その献辞(序文)で彼はこういっている。「ご父君やご兄弟、そして貴方につきましては、すべて『われわれの時代の歴史』という正規の本の中で取り扱いました。・・・その作品がどこにあるのか、とお尋ねになるでありましょう。その原稿はかなり前に完成して認可を得ています。いずれにしましても、それをわたくしの後継者に委ねることがわたしの決意でありますが、それは私の生涯が、何らかの野心で費やされたものだと思われるのを避けるためであります」と述べている。

思うに彼は、同時代史であるこの書で皇帝一族のことも扱っていて、その記述がへつらいと看做されることを恐れたのだろう。死後とは書いてないが、甥で養子の小プリニウスに委ねる決意を披瀝しているのである。この書の献呈二年後、彼は不慮の死を迎えているので、死後甥によって出版されたとしたらそれは『われわれの時代の歴史』の方だったろう。  

(五)

ヨーロッパにおけるプリニウス再評価というならば、それは世界最初のエコロジストという位置づけだと思う。ローマの帝国支配とかローマ皇帝批判とかではない。先ほども述べたように、この書では彼は個人としての人間の評価を数多く重ねているが、国家や政治の問題を直接的には扱っていない。先述のような歴史書では扱ったかもしれないが。

冒頭に述べた三枝博夫音の 

「”自然“についての観察と記述とを・・・更に人間生活、社会生活にまで引き戻して、その立場で自然を洞察し、人間的知識としようとした」という穏当な解釈を、さらにプリニウス自身の「(私の)扱う分野は・・・自然の世界であり、いわば生命に関するものであります」という言葉で充実させながら新しいプリニウス像を作ってゆく必要があるだろう。

彼は生命体というものを地上の動植物だけでなく、自然が生み出した一切のものであると考えていたらしい。だから地球や他の天体も生命体である。しかし今日のいわゆる「ガイア理論」とは異なる。ガイア理論の提唱者ラブロック博士は、核エネルギーの平和利用を主張していたが、プリニウスから見ればとんでもないことである。プリニウスは、金・銀・銅だけでなく大理石などの乱掘などを徹底的に批判していた。このことは今までのブログでも書いてきた。現在は世界遺産となっているラスメドゥラス金山跡であるが、その開発に彼は完膚なきまでの批判を加えた(「風のプリニウス<7>ラスメドゥラスの金」など参照)。ウラン鉱石の発掘などを聞いたら激怒するだろう。ガイア理論とプリニウスには、自然についての考え方に根本的な違いがある。これについては、またいつか考えよう。

 (ブログに投稿するにはふさわしくない題材になった。だが一介の市井人にとって自分の考えを披瀝する場はほとんどない。読んでいただける人が一人でも二人でもあれはうれしいことである)  


公務員化する天皇

2013-01-07 21:00:48 | 日記

(一)

スウェーデン憲法では、国王または女王は元首だが、25歳に達したスウェーデン市民のみが元首としての職務を遂行することができる、と定め、第2章には、市民の基本的自由及び権利がこと細かく規定されている。つまりスウェーデン国王は基本的人権が憲法上保障されている。

日本国憲法には市民という概念はなく、すべて国民である。国民には基本的人権が保障されている。天皇(皇室)には保障されているのか? 天皇は象徴である。AはBの象徴であるというとき、A=Bではない、天皇は日本国民ではあり得ない・・・それに対して、いや、全体の一部分が象徴たりうる・・・シラノ・ド・ベルジュラックの象徴は「鼻」である・・・いろいろある。

法的にはどうか。憲法第10条に、日本国民たる用件は、法律でこれを定めるとある。法律とは国籍法である。自治体の戸籍簿に登録されなければ国籍を取得できない。天皇はどこにも登録されていない。海外へ行く場合もパスポートは持たない。国民の持つ基本的権利は大幅に制限・禁止されている。わかりやすいのは政治活動である。選挙権もない。何事にも中立でなければならないということで、相撲好きだった昭和天皇も、大相撲観戦時、どちらの力士が勝とうが拍手をしなかったとか・・・。     こう重ねてゆくと、天皇は日本国民ではないというところに落ち着きそうだ。だがそれでは国民感情が許すまい。

スウェーデン憲法には、市民以外に国民という概念がある。第1条「すべての公権力は、国民から発する」とある。国民は国会選挙で投票権を持つ。つまり市民であっても国民でなければ投票権はない。だから国王は、国政には参加できないが基本的人権は保障されているのである。

(二)

日本国憲法第10条に「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみ行ひ、国政に関する権能を有しない」とあり、第7条にその国事行為10項目が掲げられている。この10項目の国事行為だけでも天皇にとって過重であることはずっと前から指摘されていた。そこへ「公的行為」が次から次へと加わる。天皇には拒否権があると思うが拒否できない。スウェーデン憲法はもちろん男女同権うたっている。憲法では国王・女王両方の存在を肯定している。皇室典範はそれを認めない。日本の首相や保守的政治家は、「男系男子」にこだわっている。「女性天皇」などもっての外なのだろう。皇室の成員に「公務」として仕事を手伝ってもらって、天皇の負担を減らそうとう発想も生まれてきた。皇室の、天皇の公務員化である。いっそのこと、勤務時間や給料表を定めて公務員になってもらったらどうか? 公務員法を適用して過重労働をなくすべきだ。天皇にだって基本的人権を保障すべきだ。

2004年、訪欧を前にした記者会見で皇太子は、雅子妃をめぐる報道にたいして「人格を否定するような動き」として批判した。波紋を呼び、政治的発言との批評もあった。このことを取り上げた評論家の関曠野氏は、戦後の新憲法下の皇室は官僚的国家機構の一部という『公務員』的な性格がより前面に出ることになった」と論じた(「朝日」2004/6/22)。あれから10年近く経ち、その傾向はいっそう強まっている。

(三)

そもそもマッカーサー草案が、内外の天皇制廃止論を排して、政治的利用目的で象徴天皇制を新憲法に盛ったのが発端である。吉田自民党政府以来続いた保守政権は、その初心どおり政治利用を図ってきた。いろいろな面での国民に対する人権無視の矛盾が、天皇(皇室)の人権という問題でその矛盾を拡大しつつあるように思う。「押し付け憲法」と多くの人が言う。世界で最初の共和国ともいわれる合衆国が共和制でなく天皇制を基本とする憲法を「押し付け」てきたことは押し付けとは言わないのだろうか。やはり、天皇を元首にしなかったことが不満の種なのだろう。

ところで、そのマッカーサー草案ではどうだったか。ネットで見ることができる(カッコ内が英文)。10条「日本国民たる(being a Japanese  national)要件は、法律でこれを定める」、11条「国民(the people)は 、すべての基本的人権の享有をさまたげられない」、13条「すべて国民(all the people)は、個人として尊重される」となっている。最初の日本語訳はすべてpeople は「人民」となっていたが、日本政府はそれをすべて「国民」と訳して政府案とした。総司令部は黙認したらしい? いや、議論があったのかもしれない。 

スウェーデン憲法と同じように、この案も、明らかにナショナル(国民)とピープル(人民)とを分けて考えている。スウェーデンの場合は「市民」であるが・・・。もちろんピープルには国民という意味もあるが、なべて国民とすれば、マッカーサー草案がわざわざ区別した意味がなくなる。こういういい加減さ、ごまかしが後にまで響く。日本の施政者が人民という言葉を嫌うなら「人びと」でも良かったはずである。そうすれば「人々は、すべての基本的人権の享有をさまたげられない」「すべての人々は個人として尊重される」になる・・・立派ではないか。いわゆる「在日」だって旅行者だってすべての権利を憲法が保障することになる。もちろん天皇も「すべての人々」のなかに入る。天皇が国民でないとしても人権は保障される。皇太子の「人格を否定するような」発言で学者やマスコミがあわてることも無かっただろう。

ついでに言うと、ベルギー国憲法では「国王は、両議院の同意なくして、同時に他国の元首になることはできない」とある。同意を得ればイギリス国王にもなれるわけだ。ヨーロッパ諸国では、外国から王を迎えることも何ら不思議ではなかった。英語をしゃべれない英国王も現実にいた。そういう視点に立てば、国民の総意があれば、韓国・朝鮮・中国から天皇を迎えてもいいということになる、場合によってはアメリカから呼んでもいい。だが現憲法下ではそうはいかない。皇位は世襲とあり、皇室典範がある。だが、世の中グローバリズム全盛、国技も外国力士に頼っている今日だ。考え直すチャンスだ。もう一つ思い出した。カナダもオーストラリアも国家元首はイギリスのエリザベス女王だ。兼業しているわけだ。

もう一つ思い出した。デンマーク王国憲法第九条。「王位が欠けた場合において、王位継承者が存在しないとき、国会は、国王を選び、かつ将来における王位継承順位を確定する」。

このままでは男系男子の皇統が絶えると多くのおじさんたちが心配しているが、デンマークのように、国会で天皇を選んだらどうか。国会に任せるのが不安なら、立候補制の国民投票というのはどうだろう。立候補は自薦・他薦による。現在なら間違いなく圧倒的に皇太子が推薦され、対抗馬なしに当選確実だろう。これなら問題なく「日本国民の総意に基づく」としていいのではないか。将来は複数の立候補者が現れ適任者が選ばれることになろう。憲法が改正されて天皇が無くなれば別だが。

(四)

ところで昨年の憲法記念日の新聞(「朝日」)によると、アメリカの法学者2人が成文化されている世界188カ国の憲法すべてを分析し、データ化して発表したそうだ。ご苦労なことである。それによると、世界最古の成文憲法である合衆国憲法も世界の流れに取り残され、「孤立」傾向がみられるという。そもそもアメリカ合衆国の憲法には弱点があった。前に触れたが、最初できた憲法は国家の組織や運営を定めただけだった。後にあわてて? 権利章典を加えたがとってつけたようでしかも内容は貧弱、銃の保持を権利と認めた第2条だけが光っているという感じ。この分析結果に見るように、米国憲法が時代遅れになっていることは事実。だがその時代遅れをカバーしてきた法律があったことも事実。たとえば、労働者の権利を保障しようと制定されたワーグナー法は、日本の労働基本法のお手本になった。日本では憲法で労働基本権は保障されていても、現実はほとんど無保証に近い。法の表面面だけでは判断できない人権問題がある。

近代的な人権思想を文書化したのはイギリスのマグナ・カルタ、それを嚆矢として権利請願、権利章典、そしてヴァージニア権利章典、アメリカ独立宣言などに受け継がれてきたとされるが、上述のおうになぜか合衆国憲法は貧弱だ。憲法を改正した方がいいのはアメリカ憲法だ。先の2人の法学者も日本国憲法については、「経済発展と平和の維持に貢献してきた成功モデル。それをあえて変更する政争の道を選ばなかったのは、日本人の賢明さではないでしょうか」と、珍しく日本人を褒めている。そのデンに従えば、安倍首相などは「非賢明』「不賢明」の代表だろうか。そういう首相を選んだ日本人は賢明なのか「不賢明」なのか? その際、選出制度が悪いとか良いとかの問題ではない、その選出制度を作った政治家・マスコミ、支持した国民、その全体を含めて、日本人の資質が問われている。

 

 

 

 

 

 

 


鉄砲と民主主義

2013-01-01 11:13:34 | 日記

(一)

 昔、鉄砲から政権が生まれると誰かが言った。アメリカの民主主義も鉄砲から生まれた。鉄砲は合衆国にとってとても大切なもの。この頃は鉄砲といわずに銃という、するとスマートに聞こえ、そんなに怖いものでもなくなるから不思議である。

 合衆国憲法の成立は1788年、7か条からなるこの憲法は、国家の組織や運営に関する規定であり人権規定は無かった。そこで後から(1791年)、「合衆国憲法修正箇条」として22か条が追加されたことは周知のことである。

 この修正第二条に「人民が武器を所有し、また武装する権利は、これを損なうことができない」(岩波文庫『世界憲法集』)とあり、ゆるぎない権利とされている。恥ずかしながら私の所有する憲法集は、この岩波文庫版、そして有信堂の『世界の憲法集』

だけで、世界170カ国以上のうち20カ国くらいの憲法しか見ていない。ある法律家(弁護士)が、日本国憲法は世界最高の憲法だと紙上で語っていたが、すばらしい! 世界中の憲法は国会図書館にでもいけば和訳で見ることが出来るのだろうか? コスタリカやブータン、あるいはサンマリノやアフリカのマリ、古くはルソーが作ったコルシカ憲法草案・・・見てみたい。

 アメリカ以外に銃の保持を権利として認めている国の有無は知らないが、あの超大国の人民が、人口の倍以上の銃を保持しているとは! 戦時中日本では上陸してきた米兵に竹槍で戦うのだと、竹槍でわら人形を突き刺す訓練をさせられたが、アメリカ人民の場合は鉄砲で抵抗できる! 空から原爆を落とされたらいかんともしがたいが。

(二)

 アメリカのNPOの調査では、今の議会では共和党議員の88%、民主党の11%が全米ライフル協会(NRA)から献金を受けているという。そのライフル協会は会員以外に銃メーカーからも献金を受けているとのこと(「ニュースがわからん」朝日・12/12/31)。 単なる? 銃のメーカーでさえこうである。あの巨大な軍需産業、オスプレイだって莫大な利潤をもたらす・・・かつてアイゼンハワー大統領は軍産複合体と呼んだ・・・その頃に比しても比較にならぬくらい肥大化したと思うが・・・が、議員たちに捧げる献金はいかばかりなのだろう。世界のどこかで戦争が無ければ米軍需産業は困る。アメリカ経済も困る。オバマ大統領も困る。だから国際紛争がなければ起こせばいい。あるいは起きると思わせることも必要。日本政府はオスプレイを購入して配置するつもりらしい。アメリカのメーカーも喜ぶし、アメリカ政府も胸をなでおろす。理由はいくらでもつく。中国や北朝鮮の侵略に備えなければならないのだ。オスプレイは攻撃用兵器、先を制するが勝ち。

 帝国陸海軍は、先制攻撃、不意打ち、闇討ちが得意だった。宣戦布告などという悠長なことはしない。ある日、朝起きたら戦争が始まっていた。自衛隊の戦力は中国をしのぐと喧伝されている。問題は若者たちである。彼らが戦場に赴く気にならなければ戦争はできない。前の安倍内閣のとき教育基本法が改訂されたが生ぬるい、やはり教育勅語に戻さなければならない、喜んで「お国のために」死んでゆく青年を育てるのだ。そして「日本をとりもどす!」のだ・・・政権は取り戻したぞ!

(三)

 一家に何丁も銃があり、母親の銃射撃練習に子どもがついてゆく。家では母親の銃の手入れの様子をみて過ごす。ハローウィンで仮装した子どもを撃ち殺しても有罪にならない、それが民主主義の教師を自認する国の実態だ。ライフル協会は、悪い銃所持者を退治するため各学校に良い銃所持者を配置したがっている。もっともっと銃が売れるだろう。以前、生徒が銃を持って登校するので、教師も銃で武装して出勤するようになったという記事を読んだことがある。夜中に物音がしたので、父親が銃で撃ち殺したら自分の息子であったという話も読んだ。

敗戦直後、日本はアメリカの一つの州になるべきだという意見があった。すれば、合衆国憲法が適用され、今頃は日本人もコンビニで銃が買える社会になっていたかもしれない。

世界で、なぜアメリカ合衆国だけがこのような国になったのか、納得ある説明を聞いたことがない。カナダも南米諸国も、西欧人がやってきて原住民を支配してつくった国であることに違いはない。なぜ合衆国だけが? 私があるいはと思いつくことは、合衆国をつくったのはプロテスタント、それもカルビン派のピューリタンだったが、中南米は主としてカソリックだったということくらいだ。だがこれはアメリカ大陸だけでの話しで、世界のどこにでも通用するものではないし、あまり論理的でもない。

9・11の同時多発テロのとき、アメリカの言語学者ノーム・チョムスキーは、アメリカ合衆国は今の世界で最大のテロ国家であると論証した(『9・11 アメリカに復讐する資格はない』)。1980年代のアメリカによるニカラグアに対する武力攻撃一つとってみてもわかる。私も、このニカラグア攻撃のときは全く驚いた。日本のマスコミはほとんど真実を伝えなかった。だから今でも日本人はその事実を知らない。アメリカはチリ政府転覆には成功したがキューバ支配には失敗した。だから今でも世界の大勢に背いて経済封鎖を続けている。チョムスキーは「今の世界で」と云っているが、その「今」は今も続いている。別にチョムスキーに言われるまでもなく、アメリカの国家機関によるテロ行為の事実は数限りなくある。たとえばウイリアム・ブルムは、アメリカの政府・軍・CIAが世界中でテロを支援し、麻薬製造にかかわり、生物兵器などを使用し足り虐殺を繰り返している世界一のならずもの国家であると指弾している(『アメリカの国家犯罪全書』)。

アメリカがテロ国家である限り銃社会であることを終わりにすることはできないだろう。

(四)

 日本国憲法は世界に冠たる平和憲法である。それで多くの国の信頼を得てきた。とくにアジア諸国の。ところが今回の総選挙で衆議院議員の8割? が憲法改正論者だそうだ。その大方の意見は、アメリカの押し付け憲法だからだと。そもそも安倍総理が真っ先にそういっている。すると、世界に冠たるテロ国家のアメリカが日本に平和憲法を押し付けたわけか。そのアメリカガ、警察予備隊から自衛隊に至る今日までの再軍備を要求してきたということか。いまや自衛隊は世界屈指の軍隊だ。それでもまだ足りない、アメリカがアジアで戦争したら日本も一緒に戦えるようにしようと、今の政府は企画している・・・公約にするらしい。ならずもの国家の仲間入り、いや、その弟分? 子分? 

 姜尚中氏は日本の平和主義についてこう言ったことがある(ブックレット『アジアから読む日本国憲法』)。「ほんとうの平和主義というものは、軍事力が行使されないというだけではなく・・・平和憲法の理念を生かしながら、経済的な正義と公正を日本の国及びアジアの国に、あるいは国際秩序の中で日本がどのようにつくり出していくかということを真剣に考えていかなければならない」と。

 姜氏が恐れていることは、「日本の国民の大多数の中に平和主義というものをムードとして肯定したいという気持ちが根強くあるのは、どこかで繁栄というものと結びついているからだと思います」「これほどまでに経済的能力や力量というものがふくらんだがゆえに、それを守るためには、場合によっては、軍事力の行使もいたし方がないというような議論に乗っかりやすいものになりかねない」という言葉に表れている。その上で、「平和主義というものを理念的に突き詰めていけば、たとえ経済的な繁栄がなくても平和をめざすとう立場があっていいはずです」と語っている。

 繁栄といっても勝ち組と負け組みがあって、繁栄しているのは一部だけだが、その一部、アメリカで言えば1%が、軍事力で利権を守ることに必死になっていることは明瞭である。大衆はそのおこぼれに預かれるかどうかで必死になる。

 民主党が大敗したとき、民主党には裏切られた、だまされたというような言葉をたくさん聞いた。戦場に教え子を送った教師が、戦後、私も騙されていたと弁解、それに対し、騙されるのも罪だという声があがった。よく似たものだ。騙されたのは罪なのだ。誰に騙されたか、それは民主党自体だけではない、他のいろんなものに騙されている。誰に騙されたかは、騙された本人が胸に手を当てて考えてみなければならない。民主主義の基本原則などというものはみんな学校で学んでいる。どういうことが民主主義の原則に反していたか、基本から考えてみる必要があるのではないか。「精神の牙」を研きながら。

 若いころ、清水幾多郎氏の話を聞いた、「精神の牙を研け」と。感銘を受けた。のち彼が変節したと聞き、精神の牙は常に研いておかなければならないものだと感じた。

 

 元旦から陰鬱な話をしてしまった。