静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

ベイコンと自然誌(3)

2010-04-28 20:38:53 | 日記
 

 ○三様の自然と三種類の自然誌

 それでは、ベイコンのいう自然誌は、彼の考える学問体系の中にどのような位置を占めるのだろうか。『大革新』第一部の一部分をなしているといわれる『学問の進歩』でみてみたい。
 彼によると、人間の能力には、記憶、想像力、理性の三つがあり、それぞれが歴史、詩、哲学に関係している。さらに歴史は、自然の歴史(自然誌)と世俗社会の歴史、教会の歴史、学問の歴史の四つに分かれるという。われわれにとって、このような分類の仕方は異様に感じるのだが、まあ、ここは我慢しよう。

 このうち、今とりあげようとしているのは自然の歴史,つまり自然誌であるが、ベイコンはこの自然誌をどのように位置づけていたのだろうか。彼は自然というものは三つの状態で存在すると考えた。
 1、正常な状態にある自然
 2、何かの事情で正常な状態から外れたもの
 3、人間の手で変えられ加工されたもの
それに対応して自然の歴史にも三種類ある、すなわち
 1、正常な自然の歴史(被造物の歴史)
 2、異常なあるいは型はずれな自然の歴史(驚異の歴史)
 3、人工によって変えられた自然の歴史(技術の歴史)

 彼はいう。この三つの歴史のうち、最初のものは完全に存在しているが、あとの二つは、取り扱い方がおざなりで、役に立たないものばかりだから、欠けているというべきだと。
 つまり、おとぎ話めいた実験や秘伝を書いたり、めずらしさで人を喜ばせようとくだらぬ嘘ごとを書いた書物はたくさんあるが、自然の異常なあるいは不規則な働きをきちんと収集したものは皆無であり、つくり話や流布している迷信をちゃんと打破したものもないのだという。

 彼が例としてあげているのは、プリニウス、カルダヌス、アルベルトゥス、そしてアラビアの「多くの学者」であるが、このうちカルダヌスは16世紀イタリアの自然哲学者、アルベルトゥスは13世紀ドイツの自然科学者であり、両者とも立派な業績を残している。このうちアルベルトゥスは、アリストテレスの学説を西洋の学問に導入したことで知られている。私は不勉強なのでなぜベイコンが彼らの名を挙げたのか分からない。アラビアの学者のことにも無知だから言いようがない。こういう並べ方は、きっと当時の常識だったのだろう。

 それにしても、なぜ異常な自然の歴史が必要なのか。
 それは、一般的な命題や学説は、ありふれた熟知の例だけにもとづいて書かれているのが普通で、そこには偏見が多く含まれており、その偏見を是正するのが必要だからだという。そしてまた、自然の驚異から出発するのが、人工の驚異を実演する術を見つける一番の近道であるからと。

 そして三番目の、人工を加えられた、あるいは技術的な自然の歴史についていえば、農業と手工業に関してはあることはあるが、ありふれた通俗的な実験はこれに含めていない。なぜなら、とくべつのもの以外は、技術的なことにまで下がって研究・考察するのは学問に対する一種の不面目とされているからだという。最も高尚な例証が最も確実な知識を与えるわけではない。卑しい小さなものによって、大きなものがいっそうよく分かることがしばしばある。彼は、アリストテレスの「すべての本性はもっとも小さな部分にもっともよく見られる」という言葉を引いて、彼の思想の裏づけに使っている。ちょっと苦しい理屈づけである。 

 ここで彼のいう「技術の歴史」とか「技術的な自然の歴史」についての彼の考え方はこうだ。
 技術の歴史の効用は、すべての歴史のうちで、自然哲学の研究のためにもっとも根本的で基本的なものである。その自然哲学というのは、人間の生活と幸福と利益とに貢献するものである。従って技術の研究はきわめて重要なのである。
 何よりも技術は自然の本質を捉えるには不可欠である。自然の経過や変化も、自然を自由気ままにさせておいたのでは十分に把握することはできず、技術によって自然を苦しめ悩ますことによって、それを十分に明らかにする道がひらけると主張する。

 以上のように見てくると、ベイコンのいう自然誌がきわめて広い範囲を含むことに気づく。人間の手によって加工され、技術を加えられたもの、人間によって作り変えられたものまでも包含していることがわかる。今日一般にはそのようなものは自然と区別し、人為的・人工的なものとしてむしろ自然に対立するものとして考えるのが普通である。だからベイコンの自然誌はたんなる植物誌や動物誌ではない。

 技術を自然誌の中に含めるという点では、古代ローマの百科全書的著作家の自然誌の扱いと同じようにみえる。とりわけプリニウスの『博物誌』に似ている。プリニウスは、人工的に加工されたもの、建造物、絵画や彫刻はいうに及ばず、各種の生産用具、器具、衣食住のための各種消費財に至るまで、それらを天体や風雨、草木などと同じように自然の中に入れて考えている。

 プリニウスの『博物誌』が技術の書であると、日本人で最初に論じたのは恐らく三枝博音であろう。ジャン・ジャック・ルソーもそういう見方をしていた。プリニウス自身は36巻の巻末で「自然に見習った技術によって人間が作り得たすべてのものを叙述し終えた」と述べていた。
 ベイコンとこれらの人では認識の仕方が違うようである。ベイコンとプリニウスとでは自然についての見方・考え方がちがっている。ベイコンは、技術は自然を苦しめて、その本質を表出させるためのものであった。プリニウスの技術は、自然に学んだものであり、むしろそれによって自然をより豊かにするものと認識していた。

ベイコンと自然誌(2)

2010-04-24 21:11:58 | 日記

 


       ベイコンと自然誌(2)


 
 学問の誤謬と低迷の原因

 前述のようにベイコンはギリシア哲学を徹底批判したが、その主要な対象はアリストテレスであった。『ノヴム・オルガヌム』というこの書の題自体が、アリストテレスの「オルガノン」(研究機関・道具という意)に「新しい」が付け加わったに過ぎないことは周知のとおである。

 ベイコンは学問が誤謬をおかし、長く低迷していた原因を考える。
 第一は、学問の革新を遂げた時代は、ギリシア人、ローマ人、そして西欧諸国民の時代のたった三回で、それも各々が二世紀に過ぎないこと。第二は、学問が栄えた時代でさえも自然科学には最小の努力しか払われなかったこと。ギリシア人の間に自然哲学が繁栄した時代は短く、ことにソクラテスが哲学を天上から地上に引き降ろした後では、道徳哲学が流行して人心を自然哲学から切り離した。ローマ時代においても道徳哲学に関心が向けられたうえ、最良の知能は帝国のための公的事務に向けられた。西欧社会においては最高の知能の大部分が神学に身をゆだねた。

 ベイコンはこれらの原因を示す具体例を挙げていないが、どういうことを指しているかはすぐわかる。いわば周知のことだからあえて挙げる必要はなかったのだろう。 
 最良の知能が道徳哲学に関心を向けたという主張は、一見福沢諭吉の『文明論之概略』の見解に似たところもあるが、基本的な違いがある。そのことについては、機会があれば考察してみたい。

 ベイコンはさらに、科学があまり発達しなかった有力な原因に、目標が正しく置かれていなかったことがあるという。科学の真正な目標は、人間生活に新しい発見と力を与えて豊かにするということにある。それなのに、講義への利用や名声のため、あるいは思索と学説の変化の追及のため、あるいは精神と悟性の満足のためにしか目標がたてられてこなかったことである。

 また正しく目標が立てられたとしても、その目標へ到達するための道を誤った。つまり、秩序正しい経験とか実験によって、感覚から悟性への道を開く方法をとった人は誰もいなかった。それに、古代の権威が進歩を阻んでいる。真理は時代の娘であって、権威の娘ではないのに。
 また過去の人類の諸成果に対する根拠のない賞嘆も科学の進歩を妨げてきた。また、人びとの精神が微弱で、自己の仕事に対する課題が貧困であること。そして自己の貧弱さを自然の責に負わせている。それに自然哲学はいつも、迷信、盲目的な宗教的熱狂のような敵を抱えている。学校、大学、それに類似する諸団体の習慣や制度も科学の進歩に反するものばかりである。そこでは創造的な思索は許されない。 

 フランシス・ベイコンは西洋の、キリスト教世界の知識人、思想家である。東洋人のわれわれから見れば、また違った感慨もある。しかし、近世の入り口でこのように鋭い反省をなしえたということは、彼の社会的地位の高さ、その影響力からみて、やはりその後のヨーロッパの科学の発達に果たした役割は無視できない。
 彼が「真理は時代の娘であって、権威の娘ではない」と言い、古代の権威と言うとき、その権威とは主要にアリストテレスを指しているとみていい。  


 
 実験を伴った自然誌を

 このように学問発達に対する障碍を並べ立ててきたベイコンは、最大の障碍を人間精神の中に見出す。 
 それは、人びとが研究対象の広大さに較べた人間能力の微弱さに絶望して、開拓は不可能だと考える点にあるとする。だが希望をわき立たせなければならない。希望をかき立たせる最良の方法は,人びとを個別なものに、とくにベイコンのいう「発見表」の中に分類・整理された個々のものに導いていくことである。

 ところが今までに、その個々的なものを、一切の学説や常識的観念を排し、公平で不偏な知性で再検討しようと固く決意し追及した人はいなかった。だから、質量ともに十分な個別的な資料は集められていない。優れた自然誌は一つもないという。

 自身が偉大であり、また偉大な国王の富に支えられたアリストテレスの『動物誌』その他があると考える人がいるかもしれないが、その人は論点を正しく理解していないのだ。なぜなら、純粋なそれ自身のための自然誌と、哲学の建設に材料を提供するための自然誌とは異なるからである。

 さらにスコラ学者についてこういう。「かれらの知識は少数の作家(主として独裁的支配者アリストテレス)の外に出ることはなく、自然誌についても歴史についても知るところが少なかったので、かれらはそのわずかばかりの材料から、際限なくその知力を働かせて、彼らの書物に現存しているような学問のクモの巣を苦心してわれわれのために紡ぎだした」(『学問の進歩』4・5)と。

 先の「純粋なそれ自身のための自然誌」と「哲学の建設に材料を提供するための自然誌」のもっとも異なる点は、前者は機械的実験を含んでいないことである。人間の素質や心や感情の秘めた働きは、その人が困難に直面したときもっともよく現れるように、自然の秘密も平常のときよりも技術によって苦しめられたとき、一層よくその姿をあらわすからである。

 知識の一層の進歩は、自然誌のうちに、原因や公理の発見に役立つような、種々の実験が取り入れられ寄せ集められたときに初めて希望がもてるようになる。したがって、そのようなまさにあるべき自然誌・実験誌を収集することは、重要で高貴な仕事であり、多くの労力と費用を要する仕事である。
 このようにベイコンは『ノヴム・オルガヌム』において、実験を伴った自然誌の編集の重要性を明らかにし、そのことが新しい学問の建設にとって緊要であると主張したのである。

 

 
 

 


ベイコンと自然誌(1)

2010-04-21 17:23:32 | 日記
 


      ベイコンと自然誌(1)


 はじめに
 「物理学と自然誌」と題して何回か続けるつもりが、それはできないことがわかった。筆者の能力では不可能。そこでテーマを「ベイコンと自然誌」に替えることにしたが、これまた大変。

 フランシス・ベイコンの『学問の進歩』と『ノヴム・オルガヌム』をむかし読んだ。今、ちょっと眺めてみたが、大方忘れている。一介の市井人がベイコンを論ずるなどということは、おこがましいにも程がある。やはり、そんなことはできない。だから、読書ノートみたいなものだ。(『学問の進歩』は服部・多田訳、岩波文庫版、『ノヴム・オルガヌム』は岡島亀訳の春秋社版、または桂訳の岩波文庫版を使った)。

 福沢諭吉は日本で高く評価されている思想家である。「近代日本のベイコンたる福沢諭吉」(佐々木力『科学論入門』)と、ベイコンと並び評されたりする。専門家の視点に立てばそうなのだろう。だが私にはどうしてもそう思えないところがある。ベイコンは16世紀から17世紀にかけての人(1561-1626)であり、21世紀の今日、いろいろな問題点も指摘されてされているが、しかしなお、その思想の深さにおいて福沢は到底及ばないだろう。私はそう思う。たしかに似た名の著書もある。『学問のすすめ』と『学問の進歩』。
 
 ベイコンは『学問の進歩』のはじめのほうで、ソロモンの「真理を買え、これを売ってはならない」という言を引きながら、そこには、財産を学問に費やすべきであって、学問を財産の獲得に用いるべきでないという判断があると評している。この一節では、学者と貧乏を論じているのだが、こうも言っている。「財産の乏しいことが、ローマ国家において、ある期間、どんなにあがめられ、とうとばれたことであったか」と。一身一家の富と名誉のために学問をすすめた福沢とはずいぶん違う。



 学問の革新へ向けて
 ベイコンは、学問というものが、単なる講義や、理論のための理論であってはならないと考えた。そして学問のあるべき道を探求し、近世における新しい学の体系を作り上げようとした。

 彼によれば、学問・科学は人間生活の向上に役立つものでなければならなかった。ところが、それまでの学問はそうではない、だから学問を革新しなければならないと考えた。それが彼の六つの部からなる「大革新」という構想となったのである。

 だがそのうち第一部と第二部だけが一応まとまった形で公表されただけで、彼の雄大な構想は完成されずに終わったことは広く知られているところである。その構想の第二部にあたる『ノヴム・オルガヌム(新しい機関)』は彼の科学論・学問論を示すもので彼の主張をもっともよく表している。そのなかで彼は新しい学問を準備するための自然誌の重要性・必要性を力説した。
 まず、この『ノヴム・オルガヌム』でのベイコンの主張を聞いてみることにする。


 
 ギリシア哲学批判
 ベイコンは、科学の大部分はギリシアからもたらされたとする。ところがギリシア人の知恵は教授的であって多くが論争に向けられた。ゴルギアスやプロタゴラスたちに与えられた詭弁学者という名はむしろプラトン、アリストテレス、ゼノン、エピキュロス、テオフラス、クリュシッポス、カルネアデスその他のすべての学者にふさわしい。彼らの知恵は真理の探究にもっとも反するものである。 

 しかし、エンペドクレス、アナクサゴラス、レウキッポス、デモクリトス、パルメニデス、ヘラクレイトスなどの初期のギリシア哲学者たちは黙々と純粋に真理の探究に従ったので成功した。だが彼らの仕事も時の経過とともに軽薄な人たちによってその光を覆われてしまった。時の流れはあたかも川の流れのように、初期の哲学者たちのような重いものを沈ませ、プラトンやアリストテレスのような軽く体積の大きいものだけを我々にもたらした。

 実に辛らつな評であるが、さらに重ねて、後者の人たちも学派を興して一般の反響を得ようとする野心と自負心とに、あまりにも傾いていた、こういうたぐいの空しいものに道がそれると、真理の探究は絶望的だという。

 さらにベイコンはいう。初期哲学者たちも含めてギリシアの哲学者たちは、エジプトの僧侶の「彼らは子供のようにおしゃべりだが生産することはできない」という批判をかわすことはできないと。
 
 さらに批判する。ギリシア人は時間においても場所においても狭隘で貧弱な知識しか持たなかった。歴史の名に値するような歴史は一つも持たず、あるのは伝説と噂だけであり、世界の諸地域についてもごくわずかの部分を知っているに過ぎなかった。それに較べてベイコンの時代においては、新世界の多くの部分も、旧世界のはずれの地方も知られており、経験の量も無限に増大している。デモクリトス、プラトン、ピュタゴラスの旅行は何か偉大なこととして語られているが、郊外散歩程度のものでしかなかったと。
 

 

物理学と自然誌(1)

2010-04-15 17:58:01 | 日記
 

      物理学と自然誌(1)

 福沢諭吉は、徳川250年は経済の労症(肺結核)だといい、経済の高度成長が果たせなかったことを批判した。彼の近代化の判断基準は西欧である。

 しかし西欧のような形態の進歩だけを進歩とみなす立場を放棄すれば、様相は全く違って見えてくる。徳川の平和は鳩時計は発明しなかったかも知れないが、優れた美術工芸を生み出した。からくり人形ひとつとってみてもその技術の高さがわかる。衣・食・住に関する各種技術においても高度のものを生み出した。ただ大規模な分業と協業、水力や石炭を動力として使うことに遅れをとったことは事実である。また、実験や分析による研究方法の開発が遅れたことも。

 西欧では17世紀以降物理学を基盤とする学問が発達したが、同時に18世紀から19世紀後半にかけて博物学の隆盛を見た。ベイコンは分析と実験の方法を学問に取り入れデカルトとともに近代科学の誕生に理論的貢献をなしたといわれるが、往々にしてベイコンが自然誌の編纂に最大の目的をおいたことは忘れられがちである。ベイコンのそういう思想は18世紀に引き継がれ、ビュフォンやフンボルトなどの偉大な博物学者を輩出し、国王から庶民に至るまで博物に熱中した時代もあった。

 わが国では徳川時代、古来の本草学が発達し、西洋の医術が伝えられ、西洋の博物学も紹介されるようになった。対外的にも誇れるような測量技術も生まれた。そして物理学が無視されていたわけではない。

 貝原益軒(1530-1714)はその学問領域が非常に広い人であった。医学や本草の書物はもちろん、中国の『天工開物』のような技術書に至るまで目をと通し、彼の代表作の一つの『大和本草』でも、自然の産物の豊かさ、産業の尊さ、人民の生活のこと、「物理の学」の必要性などを論じた。彼の著述の内容は、すべて「民生の日用に便ある」もので、ことごとく庶民の啓蒙のため、産業の助成のためとされた。

 もちろん彼のいう「物理の学」は今日の意味での物理学ではなく、自然についての学といった程度であったが、それが観念的な思弁にのみ耽ってた儒教の程朱の学に対する強烈な批判であり、民衆への啓蒙の書であった。福沢の『学問のすすめ』は、この益軒の思想に西洋の衣を着せたようなものかもしれない。しかもそれは鎧のように硬い服だ。金創(刀創)を防ぐことのできる防具だ。

 今日でもわが国で自然誌とか博物誌とかいうのは、主として本草学かそれの発展したものをいう。本草学は元来中国や朝鮮から渡来したのだろう。戦術の益軒の『大和本草』(1709)はその代表的な本草書とされる。一方、西洋の自然誌も幕政時代にもたらされた。
 
 ベルギー生まれの植物学者ドドネウス(1517-85)の『草木誌』や、ポーランド生まれでヨーロッパ各地で活躍した動物学者ヨンストン(1603-75)の『動物図誌』が、益軒の『大和本草』が出る半世紀前にオランダ商館から幕府に献上された。平賀源内もこの二冊をはじめ数冊の西洋の博物学の書を手に入れている。

 ドドネウスの書はそのほかに数冊日本国内にもたらされたようである。そしてこの二冊は、とくにわが国における自然誌の研究に大きな影響を与えた。このうちヨンストンの『動物誌』は、多くはアリストテレスやプリニウス、コンラード・ゲスナーなどからの引用であるという。
 また、直接来日してわが国の博物学の発展に貢献したケンペル、ツュンベリー、シーボルトなどの影響もあって、徳川中期から後期にかけて伊藤圭介とか宇田川よう庵など多くの博物学者も輩出した。

 だが、わが国で見られたのは、西欧の伝統に見るような自然誌ではなかった。プリニウスにしてもベイコンにしても、自然の一部を切り取るようなことはしないで自然を全体として、統一的なものとして捉え努力をつねにしている。またビュフォンやフンボルトにしても、動植物だけを対象としているように見えるときでも、自然の全体の中での位置を考え、その統一的な追及の姿勢を保持している。わが国ではそういう意味での自然誌は発達しなかったといっていいだろう。

 いずれにせよ、わが国において、あるいは中国において、西洋でのような近代科学や技術が発達しなかったことは事実である。その原因については今までも限りなく論じられてきた。科学史家の三枝博音はそれを、東洋諸国では学問が政治に従属してきたことによるとした。福沢は儒教に惑溺したことに原因を求めた。意識が存在、あるいは歴史を決定するというような考え方なのだろう。
 

学問のススメ(つづき)

2010-04-10 21:29:40 | 日記
 福沢諭吉が物理学にのめりこんでゆく理由は先の通りだが、別の面から学問の効能をわかりやすく説いたものがある。「慶応義塾学生諸君に告ぐ」という講演である。

 西欧社会では、誰それが、何かの工事をしたとか商売をしたとかで何十万、何百万の資産を築いたとかいう話を聞く。そういう人は、必ず学校を出た者で、教育で得たものを大人になって殖産のために利用し、それによって一身一家の富や名声を得ている。だが、若いときから政府の役人になり月給を貯めて富豪になった者がいるとは聞いたことがない。 

 福沢はそう言い切る。そしてさらに、教育や学校は俗世界を卑しいものと考え、自分達はあたかも塵俗外の仙境にでもいる気になっている。つまり、世の教育家という者が学問を尊び俗世界を賤しむことはなはだしい。だから今のままでは国じゅう教師を作るだけになって実業につく者がいなくなる。

 彼は、徳川250年の平和の間に経済上の長足の進歩を果たすべきなのに、なぜそれが出来なかったかを問い、天下泰平も効能が薄いものだという。戦争は恐れ憎むべき禍だけれども一国の経済にとっては金創(刀傷)のようなもので、案外早く治り命とりにはならない。だが恐ろしいのは労症(労咳=肺結核)のように月に日に衰弱する病である。徳川250年は経済の労症である(『文明論之概略』)。

 要するに彼は、経済的に見れば徳川の平和より、むしろ戦争の方がましだといっていることになる。映画『第三の男』で、「スイスの平和は何をつくったか、鳩時計をつくっただけではないか」というような台詞が出てくるが、それに似ている。戦後日本は65年の平和が続いて労症がすすんでいると、福沢なら診たてるだろう。それを思えば「日清」「日露」の時代は良かった!と。
 私は前にブログ「進歩を疑う漱石」で、進歩を疑う何人かの発言をメモしたが、福沢は実に幸福な、ハーバート・スペンサー流の進歩主義者であった。

 福沢は、慶応義塾は創立以来実学を中心に西洋文明の学問を重んじてきたと強調し、一切万事を学問の中に包み込み、学問と俗事を結びつけ、学問を神聖化しないで通俗の便宜に利用してきたと自賛している。そして慶応義塾を卒業すれば「銭なき者は即日より工商社会の書記、手代、番頭となるべく・・・官途の営業も容易なるべく・・・資本のある者は新たに一事業を起こして独立活動をみんべく・・・」というように次々と修学の効能を述べ立て、貧富ともに学問に励むべきだと訴えた(「慶応義塾学生諸君に告ぐ」)。
 そして、今の学問は目的ではなく生計を求めるための方便であると断言している。

 その福沢は、慶応義塾の初学をもっぱら物理学に置くとしている。そして、物理を度外視する人間は、人であって馬にも劣る罪だと言われても返答できまいと鼻息は荒い。(「物理学の要用」)。彼一流の比喩だろうが、その論法によれば、物理学を尊重しない国の住民はみんな馬以下ということになりそうだ。

 その上で彼は、初学の輩にはもっぱら物理学を教えるが、義塾の生徒は年上でも二十歳前後、二十五歳以上の者はまれである。弱冠の年齢と言わざるを得ず、「無勘弁の少年」と評しても不当ではないだろう。そんな少年に政治・経済の書を読ませるのは危険ではなかろうかという。二十歳でも少年扱いとは恐れ入る。武家は十五歳で元服したのに。

 これは「物理学の要用」の続きの「経世の学、また講究すべし」の冒頭の一節であるが、この文章の最後で、「今の民権論の特にかしましきは、とくに不学者流の多きがゆえなりといわざるをえず」とし、無知な連中が騒いでいるだけと言わんばかりである。そしてわが義塾では、生徒は卒業するまではただ勉学に専念して判断力をつけることになっているのだ、卒業後は干渉しないが軽率にならないことを祈る、という趣旨で結んでいる。

 この二つの論文は、先に彼が講演した内容を、1882年3月22・23日の『時事新報』に社説として掲載したものである。『学問のすすめ』が世に出て10年目である。この頃、自由民権運動は全国に広がり、伊藤博文が憲法調査の名目で憲法作成準備のため欧州に渡った年であった。福沢が、慶応義塾が自由民権運動に巻き込まれることを恐れていたことを如実に示している。いうまでもなく、伊藤たちが原案を作った明治憲法は「人の上に人を造った」ものであった。いや、「人の上に神を造った」というべきか。福沢の警戒ぶりは、慶応義塾の経営者という立場もあったのかもしれない。なんといっても彼はイギリス流の功利主義の信奉者だった。だがその問題には立ち入るまい。それにしても、『学問のすすめ』の精神からみて感無量と感じるか、妥当なところと見るか、それは人によりけりである。