○三様の自然と三種類の自然誌
それでは、ベイコンのいう自然誌は、彼の考える学問体系の中にどのような位置を占めるのだろうか。『大革新』第一部の一部分をなしているといわれる『学問の進歩』でみてみたい。
彼によると、人間の能力には、記憶、想像力、理性の三つがあり、それぞれが歴史、詩、哲学に関係している。さらに歴史は、自然の歴史(自然誌)と世俗社会の歴史、教会の歴史、学問の歴史の四つに分かれるという。われわれにとって、このような分類の仕方は異様に感じるのだが、まあ、ここは我慢しよう。
このうち、今とりあげようとしているのは自然の歴史,つまり自然誌であるが、ベイコンはこの自然誌をどのように位置づけていたのだろうか。彼は自然というものは三つの状態で存在すると考えた。
1、正常な状態にある自然
2、何かの事情で正常な状態から外れたもの
3、人間の手で変えられ加工されたもの
それに対応して自然の歴史にも三種類ある、すなわち
1、正常な自然の歴史(被造物の歴史)
2、異常なあるいは型はずれな自然の歴史(驚異の歴史)
3、人工によって変えられた自然の歴史(技術の歴史)
彼はいう。この三つの歴史のうち、最初のものは完全に存在しているが、あとの二つは、取り扱い方がおざなりで、役に立たないものばかりだから、欠けているというべきだと。
つまり、おとぎ話めいた実験や秘伝を書いたり、めずらしさで人を喜ばせようとくだらぬ嘘ごとを書いた書物はたくさんあるが、自然の異常なあるいは不規則な働きをきちんと収集したものは皆無であり、つくり話や流布している迷信をちゃんと打破したものもないのだという。
彼が例としてあげているのは、プリニウス、カルダヌス、アルベルトゥス、そしてアラビアの「多くの学者」であるが、このうちカルダヌスは16世紀イタリアの自然哲学者、アルベルトゥスは13世紀ドイツの自然科学者であり、両者とも立派な業績を残している。このうちアルベルトゥスは、アリストテレスの学説を西洋の学問に導入したことで知られている。私は不勉強なのでなぜベイコンが彼らの名を挙げたのか分からない。アラビアの学者のことにも無知だから言いようがない。こういう並べ方は、きっと当時の常識だったのだろう。
それにしても、なぜ異常な自然の歴史が必要なのか。
それは、一般的な命題や学説は、ありふれた熟知の例だけにもとづいて書かれているのが普通で、そこには偏見が多く含まれており、その偏見を是正するのが必要だからだという。そしてまた、自然の驚異から出発するのが、人工の驚異を実演する術を見つける一番の近道であるからと。
そして三番目の、人工を加えられた、あるいは技術的な自然の歴史についていえば、農業と手工業に関してはあることはあるが、ありふれた通俗的な実験はこれに含めていない。なぜなら、とくべつのもの以外は、技術的なことにまで下がって研究・考察するのは学問に対する一種の不面目とされているからだという。最も高尚な例証が最も確実な知識を与えるわけではない。卑しい小さなものによって、大きなものがいっそうよく分かることがしばしばある。彼は、アリストテレスの「すべての本性はもっとも小さな部分にもっともよく見られる」という言葉を引いて、彼の思想の裏づけに使っている。ちょっと苦しい理屈づけである。
ここで彼のいう「技術の歴史」とか「技術的な自然の歴史」についての彼の考え方はこうだ。
技術の歴史の効用は、すべての歴史のうちで、自然哲学の研究のためにもっとも根本的で基本的なものである。その自然哲学というのは、人間の生活と幸福と利益とに貢献するものである。従って技術の研究はきわめて重要なのである。
何よりも技術は自然の本質を捉えるには不可欠である。自然の経過や変化も、自然を自由気ままにさせておいたのでは十分に把握することはできず、技術によって自然を苦しめ悩ますことによって、それを十分に明らかにする道がひらけると主張する。
以上のように見てくると、ベイコンのいう自然誌がきわめて広い範囲を含むことに気づく。人間の手によって加工され、技術を加えられたもの、人間によって作り変えられたものまでも包含していることがわかる。今日一般にはそのようなものは自然と区別し、人為的・人工的なものとしてむしろ自然に対立するものとして考えるのが普通である。だからベイコンの自然誌はたんなる植物誌や動物誌ではない。
技術を自然誌の中に含めるという点では、古代ローマの百科全書的著作家の自然誌の扱いと同じようにみえる。とりわけプリニウスの『博物誌』に似ている。プリニウスは、人工的に加工されたもの、建造物、絵画や彫刻はいうに及ばず、各種の生産用具、器具、衣食住のための各種消費財に至るまで、それらを天体や風雨、草木などと同じように自然の中に入れて考えている。
プリニウスの『博物誌』が技術の書であると、日本人で最初に論じたのは恐らく三枝博音であろう。ジャン・ジャック・ルソーもそういう見方をしていた。プリニウス自身は36巻の巻末で「自然に見習った技術によって人間が作り得たすべてのものを叙述し終えた」と述べていた。
ベイコンとこれらの人では認識の仕方が違うようである。ベイコンとプリニウスとでは自然についての見方・考え方がちがっている。ベイコンは、技術は自然を苦しめて、その本質を表出させるためのものであった。プリニウスの技術は、自然に学んだものであり、むしろそれによって自然をより豊かにするものと認識していた。