静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

Z6 博物学者ファーブル-プリニウス随想(6)

2014-08-24 13:48:39 | 日記

   

                     (一)  貴重書

                     (二)  博物学者ファーブル

                     (三)  ファーブルと火山

                     (四)  海洋画家飯塚羚児

  

   (一)貴重書

 図書館炎上

 一九二三年九月一日、寺田寅彦は上野の二科展を見に行き、喫茶店で紅茶を飲んでいるとき急激な地震を感じた。かつて経験のない大地震だと思ったが、その建物は安全だと直感した彼は、直ちに強震の経過を観察し続ける。夜になって東京大学の様子を見に行く。書庫が燃え盛る様子をガラス越しに見る。あたりには人影もなく、ただ野良犬が一匹、そのあたりをうろうろしていた。この火事で専門書約七五万冊が焼失した。

 秦の始皇帝の焚書、カエサルのアレキサンドリア攻撃による同図書館の炎上、それぞれ貴重な書籍を失い取り返しのつかないことになった。東大図書館の炎上はそれほどの歴史的事件ではなかったにせよ、旧幕時代からの蔵書はもちろん和漢洋の貴重書を大量に失った。しかしすぐさま国内外から多くの援助が寄せられた。ヨーロッパ諸国、とくに日英同盟を結んでいたイギリスからも大量の図書の寄贈を受けた。その詳細は知らないが、その一例をプリニウスの『博物誌』で見てみる。『博物誌』のテキストが揃っていないものも含めて二〇数種類、解説書・研究書等が約五〇種類ほど・・・いずれも大まかな推測ではあるが。わが国で容易に入手できるものではない。その中の一冊にフィルモン・ホランドによる英訳の『博物誌』(THE  HISTORIE  OF  THE  WORLD)の初版があった。

 最初の英訳本で『ハムレット』同じ一六〇一年の出版である。翻訳者フィルモン・ホランドの本職は内科医だが、プリニウス以外にもスウェトニウス、リウィウス、プルタルコス、クセノフォンの全作品を英訳した。その『博物誌』は、エリザベス朝の馥郁とした文化的雰囲気を伝えていると評価され、自然科学だけでなく文化一般や思想界にも広く影響を与えた。このホランド訳は、数ある『博物誌』のテキストの中でも、その歴史的価値は屈指のものとされる。

東大総合図書館ではこの書を「貴重書」に指定している。扉の書名のあたりに四人ほどの署名とメモがある。歴代の所有者の署名だと思う。それらと並んで東大図書館の記号もある。英国から寄贈された旨のメモがあり来歴は明らかである。

 罪滅ぼし?

 長らく大学で科学史を講じていた橋本万平氏は、「講義をやめた今になって」(定年退職?)プリニウスの『博物誌』が欲しくなり、大枚をはたいて上記東大図書館蔵のものと同じホランド訳を井上書店で購入した。そのときの心中を氏はこう語っている。

「どうしてかプリニウスを『買え、買え』と心をつっつく奴がある。二十年近くいい加減な話をして、数千人の学生をあざむいた罪ほろぼしに、これくらいの金はなんだ。お墓一つ造るのにも百万から二百万の金がいる今の世の中だ。極楽往生の切符を手に入れるつもりで買ってしまえ、と執拗にささやく」。(『素人学者の古書探求』1992より)。

文部省の『百科全書』

明治のはじめ文部省から『百科全書』が刊行された。この書はイギリスのエフライム・チェンバーズ(1680-1760)の“Information  for the People”の全訳とされている。一八七三年(明治六)に計画・準備が始まり、発行は七四年から八〇年にかけてで、全九二冊である。多大の費用と多くの学者が動員された。どれも百ページあまりの小冊子である。天文・地質から始まって植物・物理・化学・鉱物・土木・建築・交通・農業・園芸・狩猟・漁業・食物・衣服・歴史・地誌・宗教・道徳・経済・教育・数学・文法・体育・絵画・彫刻など、まさに百科全般に亙っており、当時啓蒙の書として広く受け入れられた。焼失前の東大図書館にもあっただろう。橋本万平氏はこの書のために随分苦労したようだ。科学史家の三枝博人も一冊しか手に入らなかったと書いている。この全書の一冊に大井鎌吉訳の『羅馬史』があり、プリニウスについて「曰ク布里尼(プリニー)有名ナル○(注:一字不明)物学者ニシテ紀元七十五(七十九の誤り)年に威蘇威火山(ウェスウィウス)ヨリ巨大ノ火坑噴裂シテ非爾古拉尼府(ヘルクラニュム)ヲ破滅セシトキ此災ニ死セリ」と述べられている。

「プリニウス」というのは徳川時代に知られていた。だがそれが人名なのか書名なのか判然としなかったという。三枝博音はプリニウスを最初に知ったのは三浦梅園(1723―89)で、梅園が長崎への旅行記『帰山録草稿』で「プリニウス」に触れていることを紹介しているが、それによると梅園もわからなかったらしい。だから人名であること、ウェスウィウスで死んだことを明確に示したのはこの文部省『百科全書』が初めてかもしれない。それ以降、ポンペイやウェスウィウス山のことは広く知られるようになった。昭和初期に至るまで、多くの日本人がこの地を訪れ、旅行記をものした文人・学者も多い。例えば上田敏(明治四一年三月)、寺田寅彦(明治四二年五月)。浜田青陵(大正三年)、徳富蘆花(大正八年)、田中耕太郎(大正一〇年)、成瀬無極(大正一〇年)、斉藤茂吉(大正十二年)、土岐善麿(昭和二年)など。みんな個性的で魅力的な文章を残している。有島武郎は、明治三八年の旅行記録を大正七年に「旅する心」と題して発表し、そこで、小プリニウスの『書簡』にある伯父プリニウスの最期の一節を紹介している。

 一方、東大図書館の書籍も、昭和二年(1927)には、ほぼ消失前の蔵書数に回復した。この年に早稲田大学出版部蔵版『通俗世界全史第五巻・羅馬史下』(坪内逍遥監修・薄田斬雲編)が出た。そこでは小プリニウスの『書簡』から相当多くの部分を、「左に其大要を抄録せん」としてほぼ忠実に抄訳している。

その抄訳の前に、簡単な解説がある。現代表記に直して紹介する。「ティトゥス帝の治世中に一つの驚くべき地変が起きた。それは即位の年八月二十四日に、かの史上有名なヴェスヴィオ山が噴火したことで、その損害は極めて大きかった。中でもヘラクレイネム、ポンペイの二大都市は全く降灰の中に埋没してしまった。この惨禍に際して、前帝ウェスパスアヌスが特に保護を与えていた博物学者大プリニウスは噴煙の毒ガスにあたって斃れたが、その甥小プリニウスは、この惨事に関して興味深い記録を残した。左にその大要を抄録しよう」。そしてこの同じ年に、ファーブル著『科学物語』の邦訳が『図入新訳科学物語』(前田晁訳、冨山房)として出版された。この書の中に「プリニイの話」というのがある。ここでもプリニウスの最期が語られた。

       (二)博物学者ファーブル                                                                  

ファーブルの『科学物語』

 日本では三歳の子どもでもファーブルは知っている。親がファーブルの絵本を買い与えたり図書館で借りてやったりするから。その絵本はほとんどが昆虫の絵本だと思う。わが国では、アンリ・ファーブル(1823-1915)は昆虫学者と言われている。手もとの『西洋人名辞典(岩波)』をみても「フランスの昆虫学者」である。ファーブル『科学物語』の翻訳者前田晁も「昆虫学者」と言っている。だが、ファーブルの見事な評伝『ファーブルの生涯』(平野威馬雄訳)を書いたG・V・ルグロは「当時文明世界のもっていたもっともすぐれたもっとも高い誇り、最大の博物学者」と表現し、ほとんど一貫して「博物学者」と呼んでいる。日本にくるとどうして昆虫学者になってしまうのか。

幕末から明治初期にかけて普及した『博物新編』や『博物新編補遺』はイギリス人ホブソンの書によるものであり、後者は明治初期の小学校教科書にも使われたりした。前述した文部省の『百科全書』もその内容から見て博物の名がつけられてもいいものであった。小・中学校には「博物」という科目もできた。しかし「博物」は学校教育からも学問の世界からも消えてゆく運命にあった。ファーブルが博物学者と呼ばれる目はなかったということだろう。

ファーブルはいろいろな自然科学の本を書いているが、この『科学物語』の内容も動物だけでなく動植物、地学や化学・物理、天体、地球、気象、鉱工業、技術など多様な分野に及び、まさに博物学者にふさわしい。むろん、第一次大戦勃発の騒擾の中で静かに生を終えた彼が、原子爆弾や原子力発電を知る由もなかったが、もし一九四五年以降に生きていたら一家言を残しただろう。

 ポールおじさんの地震話

 『科学物語』に戻る。この書は、ポールおじさんが数人の子どもたちにいろいろな科学の話をしてあげるという構成になっている。そのなかで、ポールおじは、地球が球体であるのはどうして分かるかと設問し、一例として、入港する船を見ていると、はじめマストのてっぺんが見え、次に一番上の帆が見え、次にその下の帆が見え、最後に船体の全部が見えてくる、これは地球が球体であることの証拠だと説く・・・この説明の仕方はプリニウスの『博物誌』での説明と全く同じである。ポールおじは地球の大きさを論じ、そして火山、エトナ山やウェスウィウス山の大噴火の話を展開するのだが、そのときプリニウスの最期についても詳しく触れている。だが、それは後にしてまず彼が語る恐るべきヨーロッパでの大地震について述べてみよう。

 ポールおじは言う。「ヨーロッパで感じられた全ての地震の中で、最も恐しかったのは一七七五年の万聖節(一一月一日)にリスボンを破壊した奴だ。・・・地面が幾度か烈しく揺れて・・・このポルトガルの繁華な首府は見渡すかぎり壊れた家と死骸の山になってしまった」「波止場に逃げた群衆も、ボートも船も(水のなかに)ひき込まれていった。人一人、板一枚も再び水面へ浮かんでは来なかった・・・六分間に六万人の人が死んだ」「このとき、アフリカのモロッコ、フェッツ、メキネズなど幾つかの町も覆された」「一万人が住んでいたある村は不意に空いて不意に閉じた穴の中へ全体が呑み込まれた・・・」

 「一七八三年の二月に、南イタリアに地震が起き四年間つづいた。はじめの年だけでも九百四十九回もあった。地面は、まるで荒海の上のように大きく打った波で皺が寄って・・・人々は・・・吐き気を覚えた」「二分間で、最初の振動が南イタリアとシシリー島との町や村の大部分をひっくり返した。・・・大きな広い地面が・・・山腹からすべり落ちて、はるかに遠くへ行って、まるで別のところにとどまった。丘が二つに裂けた。・・・わんとあいた深い穴の中へ、家や、樹木や、動物を載せたままで、何もかも一緒に呑み込まれて、それきり見えなくなった・・・」「あるところではまた、ざらざらと動いている砂で一ぱいな深いじょうごが口を明いて、やがてそれが大きなむろ穴になると、間もなく地下水が侵入してきて湖水に変わった。実に、二百以上の湖や沼がこうして不意に出来たという」「振動のひどかったことは、街の敷石が道からひっこぬかれて空中へ飛んだほどだった。・・・地面が持ちあがって裂けると、家も、人も、動物も一時にぱくっと呑み込まれた」「この恐ろしい出来事のために死んだ人は八万にのぼったといわれている」「そのうちの大部分は家の潰れた下に生きながら埋められたもので、その他のものは、震動のあとで起こった火事のために焼け死んだり、逃げて行くうちに、ふと足下にできた深い穴の中に呑み込まれたりしたのであった・・・」

 あまりに長く引用しすぎた。だがこれはほんの一部でしかない。学術書でもないので、ファーブルはこれらの話の出所を示していないが、一八世紀後半の出来事であり古い過去の話ではない。とにかく信じられないほど怖い。プリニウスの地震話も若干載せておく(『博物誌』から)。

 「エトルリアのムティナ地区で大変な、そして凶兆的な地震が起きた(前九一年)。二つの山が大音響をたてて衝突し、前へせり出し、また焔をあげながら後ろへ退い た。両山の間から煙が空に立ち上った。イタリアの国土にとっては、あの内乱よりも悲惨な事件であった。ネロ帝の最後の年六八年には、ネロの地所管理人のウェティウス・マルケルスの領地で、真ん中に公道が走っている牧場とオリーヴの木々が、道の反対側へと乗り越えた。地震には海の浸水が伴う。人類の記憶にある最大の地震はティベリウス・カエサルが皇帝でのとき起きた。一二のアシアの都市が一夜で転覆した。もっとも多く起きたのはポエニ戦争中で、たった一年間で五七回の地震報告がローマにとどいた・・・」

 地震の発生因

 ポールおじは、寒暖計の仕組みを説明した後で、鉱山に話題を移して次のように語る。

深い鉱山の中では暑さがひどく、地下の温度は三〇メートル毎に一度ずつ高まる。だから地球は火で溶けたものと、その溶けた金属の大海の上をぐるっと包んでいる固い薄皮とで出来ていると想像できる・・・。地球の直径が二メートルとするとその薄皮は指の幅の半分の厚さに相当するし、卵の殻が地球の殻であるとすると、どろどろした中味は地球の中のどろどろした物である・・・と。

なかなか面白い比喩である。子どもたちは考える、殻がそんなに薄いならたびたび震動が起きるだろうと。その疑問に対してポールおじは、どこかで何らかの震動を受けない日はないが、恐ろしい地震がめったにないのは方々に火山があるお陰だ、火山は安全弁だと説明する。聞いている子どもの一人は言う、おじさんから前にエトナ山の噴火やカタニヤの災難のことを聞いた。火山は周辺を荒らす恐ろしい山だとばかり思っていたけど、大変ためになる必要なものだということが分かりました・・・と。

 ポールおじさんの話は秩序立って論理的である。面白くてやさしい。この書はフランスの小学校・中学・女学校などで教科書として広く用いられた。先述のように、明治の学制のなかで日本でも小・中学で「博物」という科目が生まれたが、ファーブルのこの書のような魅力的な教科書は存在しなかった。動物・植物・鉱石などの陳腐な羅列的説明か、道徳教育的な説話でしかないという状態であった。

 地震発生諸説

 現在では、地震発生の原因はプレートテクトニクス説で説明される、それ以外の説はないかのように。この説は一九六〇年頃に生まれたような気がするが、現在では完全な定説だろう。だが以前から異説も多々ある。ニ〇一一年三月一一日の東日本大震災の後でも新説が生まれたと報道された。たとえば、地震は太陽の黒点と関係があるという説である。湯元清文・九州大宇宙環境研究所センター長のチームの分析で、太陽の黒点数が少ない時期ほど巨大地震の発生頻度が高く、東日本大震災もその時期に起きた。また、黒点数が少ない時期には、太陽から吹き出す電気を帯びた粒子の流れ「太陽風」が強まった現象時に、M6以上の地震の七〇%が発生していたという(毎日・2011・9・26)。

 ローマの人セネカの結論は風が原因ということだった。プリニウスもおおよそ同じ見解だった。地震の原因に関する彼の見解を見てみよう。

 始め彼は当時の諸説を紹介する。たとえばバビロニアの学説では、地震は他のすべての現象の原因である三つの星(土星、木星、火星)の力によってのみ起きるという。ミレトスの自然哲学者アナクシマンドロスは霊感にうたれてスパルタ人に地震がさし迫っているから注意するよう警告した、その後間もなく彼らの市全体が崩壊した。ピュタゴラスの師であったフェレキュデスも霊感によって仲間に地震を予告したが、その霊感は井戸から水を汲んでいるとき得たと伝えられていた・・・。プリニウスはもちろんそんな話を信じていたわけではないし、そんな話は個々人の判断に任せればいいという。彼自身は、セネかと同じように原因は風だという。なぜなら、地震は、風が凪いでいて空が全く静かで、空気の動きがすっかり止まり、鳥が舞い上がることができないときに限って起きるという。そういうときには、風が地脈の中に閉じ込められ、その閉じ込められた気流が自由に飛び出そうともがくときに起きるから。

 そして彼は、地震の発生しやすい季節、時間帯、蝕との関係などについて語り、地震がさし迫ると、薄い雲の筋が広い地域の上に棚引き、井戸水がいつもより濁り幾分悪臭が生ずる。だから洞穴がそうであるように、井戸も閉じ込められた空気に出口を与えるという対策があるという。建築物の安全性については、地下室の上に建てられたものはずっと安全だし、いちばん安全な場所はアーチであり、また壁の隅や柱だと。風が出口を見出したときに地震は止まる・・・そのようなことをプリニウスは書き連ねているが、これらは古代人の科学観の限界を示している。

 だが、プリニウスは非科学的だと批判する科学者は多いが、その現代の地震学者が多大な研究費を受け取りながら(「この四〇年以上、何千億円も使ってきたのに予知に成功していない」長尾年恭氏)現代の科学者も東日本大震災を予知できなかった。地震予知など不可能と開き直る学者もいる。イタリアでは地震を予知できなかったからと、地震学者が有罪になった。確かに予知は難しいかもしれない。火星へ行くよりも難しいのだろう。毎年地球上で数多くの人たちが地震の犠牲になっているというのに。

 プリニウスはギリシア人が建てたエフェソスのディアナ神殿について述べている。

これはギリシア人の抱いた壮大な構想に基づくものだが現実的で、プリニウスの時代にもその建物は健在だったという。建設には一二〇年もかかった。地震によって損傷しないよう、また沈下の恐れがないようにと、建物の基礎が動くような土地を避け沼沢地に建てられた。沼沢地は、がっちりと踏み固められた木炭の層と、毛をつけたままの羊皮の層で固められた。神殿の全長は四二五フィート、幅二二〇フィート。一二七本の円柱があり、一本ずつが一二七の国王によってつくられた。この工事を監督したのはケルシフロンという人物。この工事で最も驚嘆すべきは、この巨大な建造物の台輪を持ち上げて正しく据えたことだったという。プリニウスはこの工法を詳しく述べている。                                                 

(三)ファーブルと火山 

エトナ山の噴火     

 ポールおじはエトナ山とウェスウィオ山の噴火について、そしてプリニウスの死について語る。

シチリア島の北東のエトナ山の南に古くからの都市カタニアがある。一八世紀のはじめ頃だろう。大地が猛烈に振動し家屋や樹木が倒れた。続いてエトナ山が爆発した。噴火口が幾つも並んででき、その七つがくっついて底知れぬ淵のようになって四ヶ月の間噴火を続けた。流れる溶岩は森や畑を覆った。海岸にあって堅固な塁壁で囲まれたカタニアにも迫ってきた。だが幸い流れは横に転じ、広さ一五〇〇メートル、高さ一二メートルの溶岩の流れは海に突入し、沖合に三〇〇メートルほど土地を押し広げた。しかしそれで終わらなかった。新しい溶岩の流れが合流して塁壁に押し寄せ、壁を四〇メートルほど倒して市内に流入した。その頃になると溶岩は表面が固くなり、その下に流動性を保った溶岩が流れている。勇敢な市民百人ほどが鉄棒を持ってエトナ山に近づき、その溶岩流の殻に穴を開けて流れをそらすことに成功した。にもかかわらずカタニア市内では三〇〇戸の人家、幾つかの宮殿、教会堂が烏有に帰した。郊外は一三メ-トルの溶岩で埋まり、二万七千人の家が壊された・・・ポール叔父の話は生き生きと続く。

 ウェスウィウスの噴火について

次はウェスウィウスの話。「不意に火の柱が噴き出して二三千メートルの高さにのぼる・・・何百万とも知れない火花が、燃えている柱のてっぺんの方へ稲光のように閃き散って・・・火の雨となって火山の斜面へと落ちる・・・これらの火花は・・・実は白熱した石の塊で・・・時には数メートルの大きなものもあって・・・」「山の底から・・・溶岩の流れがのぼって来る・・・ところが噴火口はもういっぱいである。そこで不意に地が震えて、雷鳴のような音と共に爆発して、その裂け目からと同時に噴火口の端の上から溶岩は川になって流れ出す・・・」

 プリニウスについて

「非常に勇気に富んだ人で、もし新しい知識を得るとか他人の助けになるとかいう場合があると、どんな危険からもしりごみしなかった。ヴェスビオ山の上に変な雲を見て驚いたプリニイは、すぐに艦隊を率いて出発して、脅かされている海岸の町を救ったり、この恐ろしい雲をもっと近いところから観察するために赴いた。・・・プリニイはみんなが逃げ出しているこの最も危険に見えた方面へ行った・・・」と続く。最期は「(スタビアの)海岸で、プリニイがちょっと休もうとして地べたに座ったときに、強い硫黄の匂いのする烈しい焔が落ちて、みんなを逃げ出させた。プリニイも立ち上がったが、すぐまた倒れて死んだ。火山から噴き出した焼灰だの、煙だのが窒息させたのである」

これは甥の小プリニウスの『書簡』の内容にほぼ忠実である。ところが今日でも、実は船のうえで死んだとか、逃げ惑う群衆に押し倒されて死んだとか、その他いろいろ言う人がいる。

(四)海洋画家飯塚羚児

  この話には二枚の羚児のカラーの挿絵が加わっている。一枚はプリニウスが艦隊を率いてナポリ湾をわたってゆく図である。黒く立ち上がる噴煙を背景に、大小五・六艘の軍船が、落下する火山礫の水しぶきの中を進んでゆく図である。沈没したと見える戦艦のマストも描かれている。二千年近く前の、しかも遠い異国の艦船隊を想像力豊かに描いてみせた。細部に不審な箇所があるのは致し方ない。しかし身の危険を顧みず突き進んでゆくプリニウスとその艦隊の意気込みを見事に描いている。

 もう一枚は、逃げる群衆からはぐれた小プリニウスとその母親が、降り積もる灰を払い落しながら、噴火を振り返って眺めている図である。前者の絵は暗く重苦しいタッチだが、後者は、線画の上に明るく色づけしてあり、まるで別の筆づかいだ。前者のサインは Reiji、後者は Mariano.Reiji なので別人かと思ったが、マリアーノというのは彼のクリスチャンネームだった。

 この書について訳者の前田晁は次のように述べている。原書を丸善で見つけたのは大正七年で九年前、今、飯塚羚児氏の美しい挿絵をたくさん添えることができたことをよろこびとすると。羚児の挿絵のうち約四〇点近くがカラーで、一ページ大の楽しい絵である。原書の挿絵と思われるものも多く総計五〇〇ページ。昭和初期にこんな楽しい子ども向けの科学書があった。 

飯塚羚児(明治三七年-平成一六年)の画業に関する資料や作品を展示してある「花の画房」の管理者高見みさ子氏に話を聞く機会があった。

 羚児は若い頃小学校の教師をした。ファーブルもそうである。だが羚児はやがて挿絵画家として出発、のち多様な美術作品を製作した。高見氏は、羚児はダ・ヴィンチに勝る天才だったとおっしゃる。羚児が書いたボートの精密な設計図を見せていただいた。その設計図に基づいて造ったボートに乗る羚児の写真もあった。彼は特に帆船画、艦船画を多く描いたので「海洋画家」とも呼ばれた。

 高見みさ子さんによると、羚児は布団に寝たことがないという。高見さんの家に泊まったときも、布団は要らないと断ったそうである。どうやって寝るのですかと聞いたら、寝ないで絵を書いているらしいとおっしゃる。恐れ入りました。

 『ファーブルの生涯』を書いたG・V・ルグロはこう言っている。「ファーブルにとって休養というものはない。とだえることのない、孤独な刻苦精励の生活だった。せいぜい寝るときから朝目が覚めるまでの短い時間が、休養といえばいえるだろう。夜明けにおきて彼は、パンをかじりながら台所を大股に歩きまわる。事実、彼にとって思索をすすめるためには、たえずからだを動かしていなければならなかった。ふつうの人のように、のんびりと食卓についている朝食ではない」。 プリニウスも「目覚めていることが生きていることである」と言っているが、凄い人たちがいるものだ。だがもっとすごい人がいる。ホイジンガーによると、聖フランソワ・ド・ポールという人は・・・ほとんどいつも立ったままか、なにかによりかかったまま眠ったという『中世の秋』

 ファーブルはフランスの博物学者レオン・デュフールやレオミュールの影響で昆虫の世界に入り込んだらしいが、フランスは元来昆虫の研究者に恵まれた。ファーブルも多くの先輩たちに敬意を表している。だがそれらの人の多くは片田舎でひっそり研究を続けながらも世間にも注目を浴びずに終った人も多いとルグロは伝えている。そもそも昆虫というのは下等な動物と見なされその観察や研究に没頭する人たちも重んじられることは少なかったのである。今日でもヨーロッパではそういう傾向があるらしい。昔から昆虫が愛されてきたわが国とはいささか違う。といってフランスでファーブルが全く無視されたわけでもない。文部大臣が表敬訪問をしたり、レジオン・ドヌール賞を授与されたり、晩年にはポアンカレ大統領が自らセリニアン村のファーベルの農園「アルマ」の自宅を訪れたりもした。やっぱりフランスは文化の国だ。

 そのファーブルがプリニウスの『博物誌』の熱心な読者であったことはあまり知られていない。『科学物語』ではプリニウスの生きざまを書いただけだったが、『昆虫記』ではプリニウスの昆虫に関する観察眼の鋭さを、具体的に諸例を挙げながら描き、深い敬意を表している。プリニウスの「自然はそのもっとも小さな創造物において自己の完全な姿を表現している」という名言は後世の人たちに大きなインスピレーションを与えてきた。もちろんファーブルにも。

 わが国では古来昆虫のすがた・かたちや鳴き声を愛でる慣わしがあった。それは欧米にはない感性だと評価されてもきた。しかし、昆虫の生態や機能を分析するという伝統はほとんどなかった。プリニウスは自身の観察によって昆虫の生態や機能を分析した結果、「自然はそのもっとも小さな創造物において自己の完全な姿を表現した」という結論を導き出した。もちろん顕微鏡一つない古代においての観察だから今日から見れば幼稚であり観念的である点は否定しようもないし、不明な点は想像力と思索、直感によって補う以外はない。ファーブルはプリニウスについて「この古い時代の博物学者は今度はなんというよき霊感を与えられていることだろう」(『昆虫記』山田・林訳)と評価した。プリニウスは決して昆虫を最下等の動物だとは見做さなかった。自然のもっとも完全な自己表現だと断言した。彼のような思想は人類史のなかでも極めて希なものだと言わざるを得ないし、ファーブルはもっとも良きプリニウスの理解者の一人だったといえよう。最期にファーブルの言葉を載せておこう。

 「多くの見せかけの幸福や不必要な浪費をすてて、簡素な生活にかえるがいい。かしこいあこがれに燃えていた太古の節度のある生活にかえるがいい。富源の山であるいなかの生活、野辺、川辺、海辺の健康な生活にかえるがいい。永久の慈母なる大地にかえるがいい。さもなければ人間は、あまりにもすすみすぎた文明に疲れ、調子が乱れて、はてはよわよわしいからだとなり、消滅してしまうであろう! そうした場合、人間よりもずっとさきにこの地球にやってきた昆虫どもは、さらにまた人間よりもあとまで生き残り、人間のいなくなった世界で歌をうたいつづけることだろう!」  (G・V・ルグロ『ファーブルの生涯』平野訳から)。                                                        

 


Z5 ラス・メドゥラスの金-プリニウス随想(5)

2014-08-10 14:40:58 | 日記

 

                    (一)  自然の崩壊

                    (二)  世界遺産ラス・メドゥラス                  

                    (三)ローマにおける金

                    (四)世界遺産の意味は?

                    (五)その後 

 

   (一)自然の崩壊

 「征服者のように自然の崩壊を凝視する」(spectant  victores  ruinam  naturae)・・・これは、ヒスパニア(スペイン)の金鉱山で、掘削してつくった墜道の丸天井アーチの支柱を切り離し、その上の山の岩石を一気に谷底に崩落させる・・・それを凝視する坑夫たちを描いたプリニウスの言葉である。 ヴィルヘルム・ヴェヴァーは『アッティカの大気汚染』の序言の冒頭でこのプリニウスの言葉を掲げ、さらに本文で「その簡けい(「けい」は強いという意の漢字)にして的を射た隠喩によって、まさに永遠に残る金言となっている」(野田訳、鳥影社)と述べた。

 プリニウスは四五歳ころヒスパニアほか数箇所でプロクラトル(皇帝代官)に任じられた。ヒスパニアにはローマ帝国の重要な金山が幾つもあった。任地にあるそれらの金鉱山も当然視察の対象だったに違いない。プリニウスの言葉は、その観察・考察の結果を後世にまで遺す金言となった。

ドイツの古典語学者ヴェーヴァーは、古代人自身に語らせるという手法で、古代(主としてギリシア・ローマ)の環境破壊を告発した。それは現代の人間にとっても決して無視できない課題を突きつけている。なかでも同著の「『われわれは大地から内蔵をつかみ出す』―採鉱の呪い」と題された章がそうである。冒頭の「征服者のように・・・」の警句はそこにも掲載されている。「われわれは大地から内蔵をつかみ出す」と言う言葉もプリニウスのものである。この章はほとんどが『博物誌』からの引用とそれに基づく解説・論評の展開である。筆者はそれとは別個に、プリニウスの描いたローマ帝国の金鉱山開発の状況の概観を試みる。

  プリニウスは当時の金の採掘法に三つあり、なかで最も重要なのがアルギア(arrugia)だという。アルギアは、今日でもスペインでは深い鉱山を指す言葉として使われているらしく、ギリシア神話中の亡き妻を求めて冥界に赴いたオルフェウスの話に関係があるらしい。以下はプリニウスによるアルギアの説明である。

  「第三の方法(アルギア)は巨人(訳注:ギリシア神話に出てくる巨人族のことか)の業績をもしのいだことだろう。長い距離を押し進められた坑道によって、山々は灯火を頼りに掘られてゆく。仕事の交代も灯火によって計られる。坑夫たちは何ヶ月ものあいだ日の目を見ない」「人々は夜昼となく働き、暗闇の中でその鉱石を肩に担いで一人が次の者に渡すというようにして運び出す。その列の端にいるものだけが陽の光を見るのだ」「突然割れ目が崩れて働いていた人々を押し潰す」「火打石の塊にぶつかると、火と酢を用いて砕くのだが、熱と煙のため坑道では息をつまらせるから破砕機で打ち砕くことがむしろ多い」「火打石にともなう仕事は比較的容易だと考えられている。というのは、ガンディアと呼ばれる砂を交えた一種の陶土から成っている土があって、これに出会ったらほとんど処置なしであるから。彼らは鉄の楔と上に述べた破砕機でぶつかっていくのだが、これは存在するもっとも困難な仕事だと考えられている」

 アグリコラは『デ・レ・メタリカ』第四巻でこの一部分を引用したが、彼はラテン作家のなかで「私がついて行ける人がたった一人ある。それはプリニウスである」と序文で述べていた。

  プリニウスの文は次のように続く。

 穴掘りの作業中、上方の山の重みを支えるために、ところどころ丸天井のアーチ(注:日本的表現なら「迫持」、いかにも天井を持ち上げているという感じでいい)をつくる。穴掘りの仕事が完全に終わったら、最後のところから始めて順次アーチの支柱をそのてっぺんで切り離していく。割れ目ができるとそれは崩壊の警告である。それを目撃するのは山の頂上にいる見張り人だ。彼は叫び声と身振りによって労働者を呼び戻せという命令を発し、彼自身はその瞬間に飛び降りる。割れた山は人の想像を絶する轟音と、同じく信じられないほどの烈しい爆風を伴って、広い谷間へと崩れ落ちてゆく。「坑夫たちは征服者のように自然の崩壊を凝視する」

 まさに永遠に残る金言である。

さて、谷底に崩落した岩石をどうするか。実はあらかじめ大きな貯水池が山に作られてある。縦横とも二〇〇フィート、深さ一〇フィート。その水は往々一〇〇マイルほどの遠くから引いてくる。高い山から引いてこないと落差がつかないので、そこから引いてくるのは鉱石を掘るよりも経費や労力がかかるほどだ。岩を切り取って、くりぬいた木の樋を乗せる場所を作る。人夫たちは綱でぶら下がっているので遠くから見ると鳥の群れを見るようだ。彼らはぶら下がりながら水準器をもって道筋の線のしるしをつける。峡谷や地の割れ目には石積みの高架橋をつくる。くり抜くことのできない岩がある場合は山腹を削りとって何としてでも木の樋をのせる場所をつくる。こういう作業が延々と続く。そうやってできた貯水池が満水になると堰を開ける。その奔流は谷底の金を含んだ岩屑を押し流す。流れが平地に達すると、そこには階段状に溝が掘られていて、その溝の底にハリエニシダという植物が敷いてある。ざらざらしているので流れてくる金を食い止める。ハリエニシダは乾かして焼く。その灰を、底に芝生を沈めてある水中で洗う。するとそこに金が沈積する。(注:ストラボンは、野蛮人が急流で毛皮を洗って金をとっているという。これが金羊皮伝説の源か)。

そして、水流に運ばれた土砂は海中に滑り込む。プリニウスがいうには「今までにヒスパニアの土地はこういう原因で沖の遠くまで押し出されてしまった」と。彼は、ヒスパニアの東北部ではこの方法で年二万ポンドの金を産したが、これほど長く継続的に金を産出したところは世界のどこにもないという。ローマの元老院は以前、乱開発から守るためイタリアでの採鉱を禁じたとプリニウスは再度にわたって伝えている。その禁令の内容や実効の成果については分からないが。ヒスパニアにはその禁令は出ていなかった。後でそれに関連することを述べる。

    (二)世界遺産ラス・メドゥラス

山崩し

世界遺産に指定されているラス・メドゥラスの金鉱山跡が、上記のプリニウスの描いた鉱山だというのが通説となっている。以前放映されたNHKの報道やウィキペディアの説明を代表例とみなして、それへの見解を述べる。

 ウィキペディアは『博物誌』のなかの金の採掘作業の話は十分にラス・メドゥラスに適用できるという。NHKの方は「適用できる」ではなく、プリニウスの記述そのものとして説明しており、さらにそれをパレンシア博士という人が権威づけていた。ネットで調べると以前と較べても随分世間的関心が高まったものだと感心するが、なにしろ世界遺産である。富岡の製糸場も二〇年ほど前には見渡しても三人程度の見学者だったものが、今はどうだ!

 ラス・メドゥラスは、スペイン北東部レオン県のボンフェラーダという市の近くにある古代ローマの金鉱山跡である。削り取られたような鋭くとがった赤い岩肌が数多く突っ立った特異な景観である。ウィキペディアでは、この鉱山では水を使って山を崩して鉱石を押し流すという方法をとっていて、ルイナ・モンティウム<ruina montium>(山崩し)といわれ、これは、プリニウスが七七年に書き溜めたものだという。

プリニウスはヒスパニアに任官中(たぶん六七年~)膨大な手書きの資料を溜めた。七〇年、彼四八歳のとき、ラルキウス・リキウスという人物がその資料を譲ってくれと申し出たがプリニウスは断った。翌年、彼はローマに帰った。七七年は、彼がティトゥスに『博物誌』を呈した年である。だから彼がこの鉱山について書いたのは七〇以前だと考えられる。また、ルイナ・モンティムという熟語は『博物誌』にはいっさい出てこない。

 ウィキペディアは、プリニウスによるとしながら次ぎのように説明する。三五km離れた、少なくとも七箇所の水源から、七本の平行な水路によって水を引いてくる。その水はメドゥリオ山頂に設けられた貯水池に満杯になるまで溜める。NHKの説明ではこの貯水池の水量は五〇メートルプールの七倍だったという。その貯水池跡とされる窪みが写真にあったが、それを見た限りでは決して山頂ではなかった。

 プリニウスは、貯水池は山頂ともメドゥリオ山とも言わない。どこから何本とか平行してとかも言っていない。そして貯水池の所在地を、山の崖っぷちから滝の落下する所とし、縦横七〇メートルほど、深さ三メートル余りという。ウィキベディア説では山頂とあるが、どうやって水を揚げたのだろうか。プリニウスによれば、この貯水池には縦横とも三ペス(約九〇センチ)ほどの開口のある五つの堰が設けられてあり、そこから放流される仕組みだった。

 貯水の用途

 「あらかじめ掘っておいた総延長一〇〇kmにも及んだといわれる数多くの地下水路に一気に流し込んで人工的に斜面崩壊させる」。これがウィキペディアやNHKの説明である。一〇〇kmといえば東京-熱海間に相当する。写真で見ると随分大きな穴である。削りとった岩石・土砂はどれほどの量になるだろうか、山の一つや二つはすぐできてしまうだろう。プリニウスは水路の長さは書いたが、トンネルの長さはただ「長い距離」と書いただけである。

 この貯水池の水量はどれくらいか。プリニウスのいう貯水池でおよそ一万五〇〇〇立方メートルである。NHKの説では五〇メートルプールのおよそ七倍くらい、それを一〇〇kmに及ぶトンネルに流して山を崩す、それがルイナ・モンティウムだとされる。都内の学校は一斉にプールの放水をしてはいけない。東京都が崩壊する恐れがある。

 ウィキペディアなどの説明では、遺跡のところどころ残るトンネルは山を崩す水を流した跡だと説明している。しかしその地下水路は山の崩壊とともに崩壊した筈だ。では掘削中のトンネルか? NHKで説明していたパレンシア博士は、トンネル入口の岩肌に残るつるはしの跡を示しながら、地面から一メートルほどの高さまでのつるはしの跡が、それより上の跡と違って浅いことを示しながら、その流水が削り取った証拠だといっていた。では、水が通ったというのに崩れていないのはなぜか? 筆者の推論だが、これは山を崩壊させる水路ではなく、貯水池に水を送る水路の一部である。そう考えれば、トンネルと水流の跡が残っているのも不思議ではないのだが。

 プリニウスは貯水池には五つの水門があるという。つまり、作業の進捗状況に応じて水門を開閉できる。貯水池の水が尽きたら門を閉めて再び水が溜るまで待つ。貯水池は何回でも支える。ウィキペディア方式だと山頂の貯水池は崩壊し再度使うことはできない。つまり、一つの谷に沿って幾つかの鉱山があれば貯水池は共同に使うことも可能。だからその谷に水を流すのに最適な場所に作ればいい。崩壊させる山に限定することもない。プリニウスはそこまでは書いてないが。

ウィキペディアでは砕けた岩石を篩(ふるい)にかけて金を採るとしている。プリニウスの方法とは全く違う。さらに別の箇所で、「彼(プリニウス)はまた、重い金の粒子が集められるようにと、浅瀬でより細い水流を使って鉱石を洗い流す方法についても叙述している。それに続くのは地下での詳細な話である。ラス・メドゥラス周辺では、沖積層の漂砂鉱床が枯渇した後、主脈が探査・発見された。そうして深い鉱脈が周辺の山々で発見されたことから、それらの鉱脈の上に水路や水槽類が建設され、採鉱がはじまったのである」と説明している。

 筆者の頭では理解不可能。結論的にいえば、プリニウスの描いた金鉱山と、ウェキペディアやNHkが語るラス・メドゥラスの金山は別個のものだということ。最大の相違点は、プリニウス式はアーチの支え棒を切離して山を崩壊させるが、通説式は、トンネルに水を流して崩壊させるということ。冒頭に紹介した『アッティカの大気汚染』でも「作業が完了すると、アーチの支柱は打ち倒される。・・・壊された山はどんどん崩れ落ちてゆき」と明確に書いている。『博物誌』ではそうなっているのである。

   (三)ローマにおける金

 ローマの富

 プリニウスはある記事によるとと断りながら、アストゥリア、カラエキア、ルシタニアなどではこの方法で一年に二万ポンドの金を生産するという。この三つの地方はいづれもスペイン北西部にある。そのうちアストゥリアが最も多く供給しているという。ラス・メドゥラスはアストゥリア地方にある。ウィキペディアはラス・メドゥラスだけで二万ポンドとしていて、これまたプリニウスの記述と違っている。そんなに容易に採れるものではないだろう。プリニウスが視察をしている間には、全く採れなかったという。

NHKもウィキペディアも、この金鉱の枯渇がローマ帝国滅亡の遠因になったと語っている。その外の多くの解説もそう書いてある。観光客向けのパンフにそうあるのだろうか。

ローマ帝国の経済的基盤が農業であることは常識であったし、古代史の権威ロストロツェフは帝政初期の経済活動の主要な要素は農業を別とすれば商業であったと述べている。そこで扱われた商品目を見れば経済活動の一端が伺える。またその活動地域は、国外の地であるゲルマニア、ロシア、アラビア、エジプト、インド、セレス(中国)など広い地域に及んだ。ローマが提供した商品はもっぱらオリーヴ油、ぶどう酒、手工業製品であったという。一部はプリニウスの言うように金・銀貨で支払われたが、大部分は特にアレクサンドリアで生産された物資で支払われた。プリニウスは「インドがローマ帝国から吸い取ること五〇〇〇万セステルティウスを下らない年はない」と言ったが、それが帝国に経済基盤を揺るがすなどとは少しも書いていない。彼が警告したのはその厖大な金額が主として奢侈品の輸入に当てられることに対する批判であった。

 ロストロツェフは、外国貿易より遥かに重要なのは帝国内の交易だったという。帝国内での交易品は、穀物、ぶどう酒、オリーヴ油、木材、蝋、麻、各種金属や硫黄。金属は主としてヒスパニア、ガリア、ドナウ諸国の産物であった。そして工業品、とくに奢侈品ではなく日常用品、亜麻、パピルス、毛織物、陶器、金属器、ガラス、ランプ、化粧品など。なかでも最大の品目はイタリアのぶどう酒とオリーヴ油であったという。もちろんヒスパニアやガリアにも送られたがこれらは外国ではない。(ロストロツェフ『ローマ帝国社会経済史』参照)。

 ウィキペディアは「ラス・メドゥラスの金鉱はローマ帝国によって根こそぎ持ち去られ、土地の人々にはほとんど何も残らない跡地が返された」と書いている。この文句はとても愛好され、多くの人が同じように書いている。だが、ヒスパニアは属領とはいえ立派にローマ帝国の一部、いやむしろ中核部分を形成している。これでは、自分が自分を根こそぎ持ち去ったと書いているようなものだ。イタリアから各種物産を購入する場合、ヒスパニアにとって金は重要な交易品の一つだったことには違いないが同じ国家内での交易でしかなかった。プリニウスもロストロツェフも、ローマ帝国の興亡に影響を与える特別の商品としての地位を金に与えてはいないのだ。

 乱開発への批判

 前述のようにプリニウスは、「こうやってその水流に運ばれた土は海中へ滑り込む。そして砕かれた山は洗い去られる。今までにヒスパニアの土地はこういう原因で海中遠く侵入してしまった」「われわれは前に古い元老院の禁令によってイタリアが開発から守られていることを述べた」と述べていた。彼は、このように自然を破壊する金鉱山の開発に反対だった。

彼が金山の開発を批判したもう一つの大きな理由は、金が人間の奢侈と貪欲を助長するからと考えたからである。彼は金自体に疑いの念をもっていた。「人生における最大の罪は、初めて自分の指に金をつけた人物が犯した罪である」それに次ぐ罪は「初めてデナリウス金貨を作った人物が犯したその罪である」。フキヌス湖の排水路の完工式に列席したアグリッピナの金のマントにこだわったのもその延長である。もちろん、ネロの黄金宮などはもっての外であった。

 厖大な労働力を使い、自然を破壊し、そして得た金を奢侈品に投ずるローマの市民たちの生活態度を批判して止まなかったプリニウスである。『博物誌』は七七年に詳細な目次をつけてティトゥスに献呈された。しかしそれ以前に、ヒスパニアでの任務遂行中のいずれかの時点で、ウェスパシニアヌスやティトゥスにその状況を報告していると考えるのが妥当だろう。ティトゥスが『博物誌』の完成をプリニウスに催促していたということは、『博物誌』がどういうものか、ティトゥスがある程度知っていたからだと推測できる。

彼がいうように、イタリアではすでに金の採掘は禁ぜられていたが、ヒスパニアではまだ行われていた。ローマにおける金の採掘ははじめ操業賃借人制度で行われていた。鉱山の所有地は国であるが、その試掘権・採掘権を徴税請負人(publicani)に賃貸しした。契約時に一定金額が国に支払われ国家の安定した収入になった。国は管理費・人件費を支払う必要はない。だが、契約請負人は、契約期間内に最大限の利益をあげようとして、系統的な採掘をしないで豊かな鉱床開発に専念し乱獲を招いた。安全性も無視され、労働者の健康・生命もないがしろにされた。

 皇帝たちは、紀元一世紀末以降、操業賃借人制度から手を引いていき、鉱山の管理を皇帝の役人に委ね、関連法案を新しく整理したという(『アッティカの大気汚染』参照)。その際、プリニウスの錬言が効を奏したのかどうか、それはわからない。

   (四)  世界遺産の意味は?

  ラス・メドゥラスが世界遺産に登録された(1979年)のは、それが古代の鉱業によってできた産業遺産であり、優れた文化的景観を形成しているからだという。二千年近く経った今もなお、樹木一本ない、赤く切り立った山肌を眺めて(筆者は写真でしか見てないのだが)、人間の愚行を見るような気がする。

 P・L・レヴィスとG・D・B・ジョーンズという二人の人物がスペインの三つのローマ金鉱の廃墟をかなり詳細に調査し、その結果を『北西スペインにおけるローマ金鉱』という書にして出版した(1970年)。この二人のフィールドワークによって、ローマ人が大がかりな送水路網をつくり金の洗浄に必要な水を供給したことが確認された。今日「配管結合機構」と呼ばれるその送水路網はおそらく七本以上含んでいて、それらの管は部分的には直線距離にして二〇キロ隔たったところから始まり、個々の水道は五〇キロ以上の長さだったこと。およそ三四〇〇万リットルの水が毎日流れ込んだこと。大部分はタンクや貯水池に導かれたが、それらはまだはっきりと跡が保たれていることなどが報告された。これは二〇世紀での調査の結果である。そして、プリニウス自身の報告はまじめに検討しないで、これらの調査結果から推測して、今日のラス・メドゥラス伝説ができあがった。この伝説からはプリニウスの悲痛な声は聞こえてこない。

   (五)その後

 プリニウス以後もこの地方の金山は二百年ほど続いたらしいが詳細な記録はない。概して古代・中世の鉱業についての記録はごく僅かである。一六世紀のドイツの鉱山学者アグリコラは『デ・レ・メタリカ』を書くに当たって、あまりにも資料が少ないので困惑した。プリニウスの『博物誌』は彼が頼れる唯一の資料だったらしい。

かれは『デ・レ・メタリカ』で鉱石の選別・粉砕・洗鉱について何種類もの方法を詳しく書いている。それによると、アグリコラの時代にはもはやローマ時代の山崩し的な採掘法はとっていなかった。だが、水流を利用して選鉱するという方法は基本的にはプリニウスの時代から変っていない。彼もプリニウスの記述を引いて叙述している。ただ違うのは水流の作り方である。アグリコラの頃にはもはや数十キロ先から水路を引いてくるなどということはない。選鉱に必要な水は主に水車を何段階にも連結して近くの川から汲み上げた。水車についていえば、プリニウスの時代にはローマでも水車はあったし、プリニウスは製粉に水車が使われていた例を挙げている。ウィトルウィウスやルクレティウスも水車に触れている。だが、鉱山での使用については記録がない。

 石炭や石油の存在は古代から知られていたが、それを産業用や生活に使うことはなかった。アグリコラの時代に至ってもまだ化石燃料は用いられておらず、水車が主要な動力源になりつつあった。産業革命の初期においては水車が最重要なエネルギー源であったことはよく知られている。一七世紀には科学に対する新しい考えが生まれた。いわゆる科学革命である。なんら違和感もなく自然界は人間の開発の対象となってゆく。動力エネルギーは石炭にとって代わられ、本格的な産業革命が怒濤のように押し寄せてくる。

 現今、西欧の思想は人間中心主義であるという見解が一般である。自然と人間を対立的にみなし、自然は人間のために存在し、人間が自然を征服することが進歩だと信ぜられていると。もちろん反論もある。だが、神の似姿をしている人間は他の動物とは異なると考え出すと、そのように理論は発展してゆくのだ。古典古代においては、自然はまだ畏敬の対象だった。だから、大地の奥深く掘り進んで金を取り出すというような行為は、自然のはらわたを抉り出すようなものだというプリニウスの思想は、現代では理解できないし、また受け容れられることもないだろう。