静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

ミツバチとカラシナのある風景

2015-08-30 14:15:18 | 日記

 

(一)マクドナルディゼ                                           

  ある夏の日の昼下がり、ハワードと町田さんに誘われてメキシコ料理の店で少し遅い昼食。ハワードはアメリカ人だから呼び捨て、町田さんは日本人だからさんづけ。これが日本流。

 「ここは東京でいちばんボクの郷里に似ているんですよ」とハワード。大きなガラス窓のすぐ外は歩道で、行きかう人たちがテーブルを覗いてゆく。ときには目が合う。道路をはさんで向こうは公園の緑が視野いっぱいに、店内の壁面には大きなメキシコ風の壁画、そしてラテン音楽が静かに。

 「ハワードの故郷はたしかダラスでしたね」

 「そうです。あそこは五〇%がメキシコ系の住民なんですよ」

 「えっ、ほんとうですか」と町田さんは信じられない口ぶり。

「メキシコ料理というのはやはりスペイン料理の影響を受けているのでしょうね」

 「ええ、それとインディオの料理」とハワード。

 パリでメキシコ料理のレストランが急増したとか。伝統的なフランス料理店で昼食に二時間かけるのはもったいない、といってハンバーガーショップでは味気なさ過ぎるからだとか。ファーストフードが進出しシャンゼリゼが「マクドナルディゼ」(マクドナルド化)されると騒がれたこともあったなどと、他愛もない話をしているうちに料理が運ばれてきた。ウエイトレスがワゴンの上で手際よくアボガドをさばいて皿に盛りつける。

 ハワードは、「この店が好きな理由には、こういうサービスの良さもあるんです。メニューについてもいろいろ説明してくれますしね」とにっこり。「そういえば、イタリアではレストランの給仕は、たんなる料理の運び屋ではなくて、アドバイザーとして客の相談にのったり、テーブルで料理をさばいたり、専門職しての誇りを持っている、というようなことを聞いたことがありますね」と町田さん。

「そういう点では、ファーストフードの元祖であるアメリカとは違うような気がしますね。どうなんですか、ハワード」と顔を見ると「いや、ボクは日本料理も好きですよ」と突然方向転換。「それは、日本料理というより、奥さんの手料理でしょう」と、日本女性との結婚一年目のハワードをからかうのは町田さん。

 「イタリアでもギリシアでも、公務員などは午後二時頃に一日の仕事が終わり、家で昼食そして昼寝という生活習慣だったようだが、そのイタリアでも崩れてきているようですね。二十四時間動き回わる国際化の波に抗しきれないのでしょうか。南欧諸国のあのゆったりとした昼食の時間は失われていくのでしょうか。さっきのパリの話といい、さびしいですね」

「いや、千年も二千年もの長いあいだ続いてきた生活習慣はそうかんたんに崩れはしないでしょう」

すると町田さんは「日本では、戦後二〇年か三〇年のわずかな期間で、あっという間に食習慣が変わりましたね。一九五五・六年ころでしたかね、粉食礼賛論が広まったのは。著名な脳外科の先生が講演してまわって『日本が戦争に負けたのは米食だったからだ。米食では蛋白質の摂取が不足し、脳細胞の発育が不十分になるが、パン食だと牛乳・バター・チーズ・ハムなどを摂るので頭が良くなる』と説いて回りましたよ」と薀蓄を披露する。

 そして続けて、「食べ方も変わりましたよ。戦後間もなくの頃、駐留米兵が歩きながらものを食べているのを見てほんとにびっくりしました。私の子どもの頃の食事は正座、無駄口をしてはいけない、行儀が悪いとすぐ親父のかみなりが落ちるという調子で、まあ一種の行みたいなものでした」

 「食後すぐに寝ころぶと”牛になる”ともよくいわれましたね。それで思い出しましたが、外山さん、古代のギリシア人やローマ人は横になって食事をしたそうですね」

と町田さん。「それじゃ、最初っから牛ですね」とハワードがまぜっかえす。

 「家庭内での女・子どもの食事は丸いテーブルに椅子というのが普通だったようですが、宴会の席はそうですね。ベッドというよりむしろソファーに近い・・・臥台などと呼んでいますが。裕福な市民は毎晩のように宴会を開き、知人・友人を招くんですね」

「そして、”食べては吐き、吐いては食べる”・・・」

「そうですね、”吐くために食べ、食べるために吐く”などといわれるほどの乱食ぶりですね」

「寝転んでものを食べて、ちゃんと喉を通るのですかね」と町田さん。「消化にも良くないし、血のめぐりも悪くなるのではないでしょうか」

 「これはギリシアの話ですが、プラトンの『饗宴』でも出席者たちは横になって食事をしていますね。遅れてきたソクラテスは、悲劇作家アガトンの隣に横たわるが、『互いの体が触れることによって、智恵が充満している者から空虚な人に移すことができるのだったら、君の側に座る特権を得たい』などとソクラテスは嫌みったらしいことをいったそうですね」

「やっぱり横たわっては食事をするのは窮屈だったのではないでしょうか」

などと各自勝手なことをいう。

 「外山さん、なぜ彼らは横になって食事をしたんでしょうね。」

「分かりませんね、みんながそうするから、そうしたんでしょうね」  

「 ギリシア人も案外自主性がありませんね」

「いやー、体をひっつけて智恵を分かち合ったのではないですか・・・?」

                                                                           

(二) 歴史の味                                                                     

                                                                       

 著名な調理専門学校の創設者で、また料理研究家としても知られていた辻静雄氏は、良い料理人になるためには料理の歴史を勉強しなければならないとくり返し言っていた。なるほどと感心する。

カトリーヌ・ド・メディシスがパリのアンリ二世(後の)に嫁ぐとき(一五三三年)フィレンツエから料理人をたくさん連れていき、それがフランス料理発展の基礎となったという、あの広く流布されている話のこと。それについて、『食卓の歴史』の著者スティーブン・メネルは、確証はほとんどないといい、『基礎イタリア料理』の著者ブナッシージ氏は、調理人ではなく一人の菓子職人を連れていったといっている。民俗学者の梅棹忠夫氏は、一式のナイフとフォークを持参したと語る。こうなると、筆者のような門外漢には何がなんなのか、さっぱりワカリマセーン。

 フォークについて言えば、これまた諸説ふんぷん。一節によると、一一世紀のベネツィアの支配者の妻が初めて使ったとか。辻静雄氏は、フォークを使いだしたのはコンスタンチノープルあたりからだろうとしている(辻静雄『料理に「究極」なし』)。だが一八世紀の終わりころ、ヨハン・ベックマンは「今でもトルコ人は誰もが指を使っている」と述べている(『西洋事物起源』)。コンスタンチノープルは言うまでもなくトルコ領である。やっぱり歴史というものは難しい、勉強する価値はある。

 このヨハン・ベックマンはまたこうも述べている。

 「現在フォークは、文明国では食事のときになくてはならぬものであり、フォークを使わずに食べるということは嫌悪感を抱かせる」

 梅棹氏は辻氏との対談で、カトリーヌ・ド・メディシス輿入の時のフォーク持参に関して、「フランス人はそれまで手づかみで食べていた・・・フランス人というのはそのころはまだ無知蒙昧で・・・」と話している(辻、上掲書)。つまり、ナイフとフォークは文明のあかしであり、手づかみは野蛮の証拠であるということらしい。この伝でいけば、さしずめソクラテスなんかは極め付きの無知蒙昧だ。

 孫引きで申しわけないが一つの文章を紹介する。

 「私は料理を学ぶために、各地に出かけたのですから、指で食べることまで教えを受けました。たびたびこれをくり返しているうちに、指先が唇にふれて味わう感覚のよさをつくづくと知りました。これらの国の人びと(筆者注、インド・東南アジアの)が昔ながらの風習を、いまだに捨てきれない意味がよくわかりました。それとともに、金属製のもので食べる味のまずさ、その冷たい感触が、料理の味をもの寂しくすることに気づきました。こうして物を味わう点からみると、指先が第一・・・これは口で感じる最初の一瞬にかかる、味の極致といえるでしょう」(江上トミ「世界の料理」、別府篤彦『世界の生活文化』より)

 手づかみで食べていたギリシア人・ローマ人は野蛮人、現代の西洋人は文化的、手づかみで食べるようなアフリカ人や東洋人は野蛮人、あるいは人間以下・・・だから奴隷に相応しい・・・西欧の近代以降広がった観念だった。あえて言おう。食卓の上で、金属製のナイフやフォークを使って切ったり刺したりして食べる西洋人こそ、野蛮ではないのか?と。

 手づかみで食べようとナイフとフォークで食べようと箸で食べようと大きなお世話だ。そこに住む人たちの自由だ。ほっといてくれ。王国であろうが共和国であろうがほっといてくれ。資本主義だろうと民主主義だろうと、社会主義・共産主義だろうが、他国を侵害しないのならほっといてくれ・・・自国の政体は自分たちで決める。ナチスや日本軍国主義みたいに他国を侵略するのはほっておけないが。革命でロシアが社会主義国になったとき、日本軍はたちまちバイカル湖の西岸まで占領し、シベリアに傀儡政権を作ろうと企んだ・・・西欧列強も同罪だ。ナイフやフォークくらいで威張ってはいけない。ギリシア人は怠け者だなどと勝手なことを言うな、ギリシア人だって懸命に働いていているんだぞ!

      

(三)オリーブの海

  ギリシアはオリーブ油の一人当たり生産量及び消費量において世界一。行けども行けども連なるオリーブ畑。平野を埋め、谷を覆い、山の頂上にまで迫る勢いでオリーブの林が続く。山の中腹にある、神託で有名なデルフィの遺跡の上に立つと、眼下のプレイトス峡谷から向こうのキルフィス山塊までを埋め尽くした「オリーブの海」に圧倒される。

 ミケーネの遺跡から見渡した風景も、クレタのクノッソス宮殿跡の周辺の丘陵もオリーブ一色。滅亡した中世の山岳都市ミストラの遺跡からスパルタに続くエヴロタス平野を展望すると、やはり視野の続くかぎりのオリーブの海。

 ギリシア人のガイドによると、デルフィはオリーブのお陰で経済的にも豊かであったとのこと。私は、デルフィが豊かであったのは、神託を授かるための金銀財宝などの奉納品のお陰だと思っていたので、意外だった。

 古代においては、オリーブはとても価値のある商品であったに違いない。食用のみならず、灯火用や体に塗ったりする衛生用、あるいは乳香料の素材など、多様な目的に用いられたので、極めて重要な商品であった。

 今日、たしかにギリシアはオリーブ油の輸出国だが、とうていこの国の経済を支えることはできない。オリーブ油の生産にはたいへん手間がかかる。古代ギリシアの絵に、長い竿でリーブの実をゆすり落としている図があるが、今も用いられる伝統的収穫法の一つである。最近は機械で幹や枝を揺すって落とす方法もあるらしいが、どうしても実が傷みやすい。いちばんいいのは手で摘み取る方法だ。はるかに続くオリーブ畑を眺めていると、その収穫の苦労が思いやられる。それに昔とあまり変わらない搾油方法。オリーブ油以外の食用油は主に種子油で、播種から収穫、そして搾油にいたるまで機械化が可能である。だからオリーブ油が相対的に高くつくのは当然だろう。

 しかしギリシアには近代的な大工場は似合わない。背伸びして“先進“EU諸国の               

 真似をする必要はない。 ギリシア国民にはギリシア国民としての平和と幸福への道があるはずだ。あなたたちには『旅芸人の記録』という素晴らしい映画を作った魂があるではないか。

ある日私は、クレタ島の小さな町の、海のほとりのとある美術工芸品店で、直径が五〇センチほどもある大きなクラテル(混酒器)のレプリカを眺めていた。古代ギリシアやローマでは、クラテルの中でワインと水をまぜ、勺で汲んで豪快に飲む。レプリカとはいえ、現代のギリシア職人の心意気を示す、素晴らしい作品。壷絵から抜き出たような小柄な女店主が「安くしておきますよ」とすすめる。心は動いた。だが私の手には負えない、心残りだが、さよならした。ヘルマン・ヘッセの短編『大理石工場』では、工場主ランバルトは客には葡萄酒をもてなすのが常だったが、いつも一杯だけ。その娘ヘレーネに恋心を抱く主人公の「私」は、一杯の赤葡萄酒を干し終わる頃やっと話の糸口をつかもうとするのだが、ランバルト氏は決して二杯目を注いではくれないのだ・・・。今の私たち?には、ワイン一杯で十分なのだ。

 (四)ミツバチとカラシナのある風景     

                           

                                                 

 四月上旬のある日、朝露のまだ乾かない道をデルフィ(ギリシア)の遺跡に登っていった。太いドーリア式の石柱が建つ神殿跡の石垣に沿って、カラシナ(sinapis)かと思われるまっ黄色な花が一面に咲き乱れ、ミツバチの大群が圧倒するように飛び回っている。目の前の谷には「オリーブの海」が朝霧の中になかば沈んで見える。この神殿が建てられた二千数百年前にもこのように黄色い花が咲き乱れ、ミツバチが舞っていたのだろうか。プリニウスは、ミツバチはカラシナの花は大好物なのに、オリーブの花には触りもしない、これは奇妙なことだという。まことに奇妙だ。

 聖書にもしばしば出てくるように、カラシナは古くからの馴染の植物である。野生だが移植すれば改良されるし、繁殖力が強く、いちど種をまくと根絶することがほとんど不可能であるというような性格も知られていた。カラシナは、その刺激性の味と強い作用によって健康にたいへん役立つと考えられ、多くの薬効が伝えられている。種子を煮つめて薬味をつくったり、菜は煮たりサラダにする。庭に植えて、その種からなたね油に似た油をとったりと、一般庶民にとって重要な植物だった。

 一方、蜜を集めてくるミツバチが昆虫の中でもっとも高い評価を得ていたのは当然だろう。だがその生態は実に不可思議なものと思われ、古くから観察や研究も行われてきたけれど、正確には理解できなかった。そこで、迷信にまとわれることになる。

ミツバチは神聖で予言力を持つと信じられ、プラトンが子どものころ、その口のうえにミツバチが止まったのは、雄弁力の前兆であったなどとされた。『動物誌』のアリストテレスも、女王バチのことなどはまったく解っていない。

 古代においてハチ蜜は豊饒の象徴でもあった。エジプトを脱出したイスラエルの民は「乳と蜜の流れる土地」を求めて何十年もさ迷い歩いた。砂漠の民にとっては乳と蜜のしたたる地は理想郷だった。日本人の目から見ると、ギリシアなど痩せた土地でしかないが、砂漠の民にとってはそれでも「乳と蜜のしたたる」理想の土地として見えていたことだろう。

 ハチ蜜は甘味料としてだけではなく、「ハチ蜜水」や「ハチ蜜酒」の原料に、またいろいろなものと混ぜて薬剤をつくったりもした。ブドウ酒が普及する前のアルコール飲料はハチ蜜を発酵させた「ハチ蜜酒」だった。ブドウ酒にとって代わられても長らく製造されていたようだ。 カラシナとハチ蜜は相性が良いらしく、一六~一七世紀のイギリスでは、粉にひいたカラシをハチ蜜で丸めたものがチュウクスベリ・マスタードという名で広く売り出されていたという(『英米文学植物民族誌』)。チュウクスベリというのはカラシナの産地の名である。

 ヨーロッパ人にとってデルフィは心のふるさとだと誰かが言った。東洋人の私にはその心はわからない。だが、オリーブの谷の向うから昇ってくる太陽、その陽を浴び長い陰を落とす神殿の石柱、まっ黄色に咲き乱れるカラシナに羽音も高く舞うミツバチの群れ、これらは私の脳裏に焼きつき、心まで揺さぶられるような世界だった。

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本日のメモ:FM放送で、マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーニ』とレオンカヴァッロの『道化師』を聞いた。主演はマリオ・デル・モナコ。いつまでも平和で、美しい音楽が聴けますように。2015年8月30日。

 

 

                                                  

 

 

 

 

 

 

 


抵抗権は国民みんなに

2015-08-10 18:22:13 | 日記

 (1)私は神様ではない

 高校社会科(今もこんなものがあるのかどうか知らないが―ない)の教科書に抵抗権について述べられていたことは前回の「日本ハ法治国家デアル」で紹介した。文部省検定教科書らしく、「安易に乱用されてはならない」という注釈がついている。欄外注には、アメリか独立宣言、バージニア憲法、フランス人権宣言での抵抗権、第二次大戦後の若干の抵抗権規定について触れている。

 世界史での著名な法典は、ハムラビ法典、ローマ法(十二表法などを含む)、ナポレオン法典、ワイマール憲法などである。だが、王権神授説の典型であるハムラビ法典に抵抗権がある筈もない。王権神授説の一九世紀版が大日本帝国憲法であった。その告文は「皇祖皇宗ノ神霊」に捧げるものであったし、第二条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定めた。教室で先生が姿勢を正しながら「恐れ多くも」といえば、その後に「天皇陛下におかれましては・・・」などとくる。「恐れ多くも」は予告である。

ある著名な作家が戦後語っていた。天皇は本当に神様なのかどうか確かめたかった。そこで、天皇の写真の載った新聞でお尻を拭いてみて、バチがあたれば神様、当たらなければ人間と心に決めて、便所で実験してみたという。私は大正天皇が軍服姿で白馬にまたがっている写真の載った新聞を持っている。だが、今まで一度もそれでお尻を拭こうなどと思ったことはない。

 終戦翌年の正月元旦、昭和天皇はラジオ放送で人間宣言を行った。それ以後天皇は公私ともに神ではなくなった。少し寂しい。日本ではお狐さんだって神様である。子どもの頃、近くの公園の池のほとりにお稲荷さんの小さな祠があって、ときどき油揚げが供えてあった。そのお供え物を、後から来た人が頂いてゆく姿もときどき見た。太平洋戦争が始まる4年ほど前。あのころは、子どもたちにとっては平和な楽しい日々だった。日中戦争が始まって、それぞれが小さな手作りの日の丸を掲げて駅頭に出征する兵士を送る日がやってこようとしていたが、子どもには知る由もない。

   蓮の葉の みどりなす池のほとりに

   小づくりの祠ありて 祠ありて

   お狐さまは口の辺に かすかな笑みを含みながら

   この柔らかき日々が 柔らかな日々をと

   問いかけたまふ

 

(2)ダメなものはダメ

近代の抵抗権とは違うが、広い意味での抵抗権があったのはローマ法である。ローマ法といっても十二表法を除くと大方が不文法なので、その成立過程や正確な内容については不明な点が多い。抵抗権の思想や機構についてもそうである。

ローマが貴族的氏族国家としての王政から共和政、つまり全住民に何ほどかの政治的権利に与えることができる国家へと大きく踏み出したとき、法は大きな役割を演じた。十二表法は貴族と平民の通婚こそはまだ禁止していたが、身分の相違という従来の特権は保持されなかった。権利主張の承認、法の保護、量刑、何れの場合も、貴族や平民の区別は失われ、あるのは市民だけということになり、ひとしく個々独立の人格とされる各市民が住居と社会的地位に従って区分され、特定氏族への帰属は顧慮されなかった。しかし事実上、国政は依然として旧来の貴族だけが掌握していた。そういう状況で確執や対立も生まれたが、互いの利益のために妥協せざるを得なかった。このことは前にブログ「コンコルディア」で若干触れた。貴族たちも自分たちの身分的利害よりも国家の全体を優先させることを選んだのである。その過程で生まれたのが、わが国で護民官と一般に訳されているトリブーヌスである。ローマ史家E・マイヤーの解説の一端を引く。

「貴族のみに限られていた国家公職者の行為、命令によって、圧迫を受け、権利を侵害されたと考えた市民のためにトリブーヌス自身の意思で、あるいは、救援の叫びに応じて、保護の手を差しのべる権限であった。そのために、トリブーヌスには干渉(インテルケッシオー)の権限が認められた。これは右に述べたような公職者の行動を阻止する拒否権(ヴェトー)で、トリブーヌスが介入を押し通すのに必要な強制手段を含む」「疑いもなく平民トリブーヌス職は、およそ何らかの国制に存した特異な制度のうちでも最たるものである。それは同じ国の他の公職者が行おうとする適法の国家行為を阻止すべく国家的に公認された公職に他ならない。その眼目は自らの国家権力に対する市民の組織的反抗と自力救済にあり、人民の革命的蜂起に由来し、モムゼン<ドイツの歴史家>の名づけた如く、合法化された永続革命である」(『ローマ人の国家と国家思想』36頁、鈴木一州訳)。

 つまり、たとえば、適法に制定されたとする安全保障法案であっても、護民官という公職にある人が、ダメといえばダメなのである。選挙で選ばれたのだからと威張って強行することは出来ないということである。もともとトリブーヌス(護民官)という役職は平民の利益を擁護するために設けられた役職である。アベなどという人物がいくら大声を出しても、ダメなものはダメなのである。共和制ローマにおいては、枢要な役職はみんな複数制だった。執政官(コンスル、日本でいえば総理大臣か)も二人である。それぞれ対等・独立である。一人の執政官が法案を出したり命令を下したりしても、同僚の執政官がそれを認めなければ無効である。しかしその二人の執政官が口をそろえて適法と言ってもダメなものはダメなのである。

憲法学者が口をそろえて憲法違反だというのを完全無視、共和制ローマでは信じられない暴挙である。これをファッショと言わないで何と言うか。もっともローマ共和政もその末期には執政官と護民官を兼ねる厚かましい人物がでてきたりして、紛争や内乱が続発、帝政へと転落? してゆくが・・・。ただし、古代ローマにはファシズムはなかった。当然である。ファシズムは資本主義社会に発生する民主主義政体の変種・・・つまり異体であるから。

 封建的身分制議会の力量が増す中で王権を制約するマグナカルタや権利の章典などが生まれ、市民階級の台頭に伴って市民革命が発生する。アメリカ独立革命やフランス革命の過程で人民の革命権思想が広がる。

 民衆が自身でつくった憲法ならば、それを自分たちで守ろう、憲法を無視して独裁・専制政治が行われれば、とりあえずは憲法で規定してある抵抗権(請願や陳情、訴訟など)を使うが、それでも解決しない場合は別途の抵抗権を行使する以外にはない。それは憲法を制定した国民の当然の権利である。それはモムゼンのいうごとく、合法化された永続革命なのである。当然のことだから憲法にわざわざ書く必要はない。

 (3)新しい空気を

 日本人にとって抵抗権という権利は馴染がない、というよりは知らない。マスコミにも出てこないし、憲法学者も言わない。政治家も言わない。だが、以前の教科書には明確に述べられている。敗戦直後の頃、日本人は盲従民族だとか、よく言われた。上の者、権威には従う・・・そういう規範が伝統としてあったのだろう。それは、わが国では個の確立が遅れたせいかもしれない。「すべて国民は、個人として尊重される」は、ほとんどの人は「個人として」ではなく「人として」と頭の中で読み替えてしまう。「個人」と「人」との区別がつかない、違いがわからない。自民党の憲法改正案は、その弱点を突いている。世間の体制からの逸脱者、反抗者は異端として退けられる、それが世の風潮である。空気を読んで行動しなければならないのである。しかし今、空気は憲法護持の方向に動いている。若い人たちが、そして女性たちが、新しい空気を作り出そうとしている。抵抗する権利は、まず、あなたたちにある。