静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

タシケントの日本人捕虜(7) 帰郷

2009-10-30 09:55:24 | 日記
 タシケントにいたときはなあ、帰れるとは思わなんだ。ああいう遠いところやけ。ただな、みんなで話するとき「帰りたいなあ」って話ばっかりする。帰りたいという思いはみんないっしょや。
 収容所では新聞が出ていて、日本の情報も載っていた。印刷も兵隊<捕虜の>がやっているんやわ。ソ連の印刷機を借りてやったんや。活字で印刷して出ていた。普通の新聞といっしょや。一週間に一度やったかなあ、壁に貼ってある。大地震があったことなどもわかった。ほいで(それで)、帰れるとはわかっていた。帰すといっとったさかい。<前の話とは少し矛盾するようだが、どちらも真実だろう>。国際法で決まっているんやで、しばらくだけ辛抱せいって言うてくれた。
 ドイツ人もいっしょにいた。ドイツ負けたんやね。ドイツ軍が攻めていって、モスクワが陥落寸前やったやろ。そのとき、満州にいた日本軍がなんで来なんだ、なんで来んのや、と言ってドイツ人がわれわれに抗議したわの。あん時にわれわれは満州におったけね(いたからね)、百万から(百万も)。あそこからどーっと行けば、ソ連は手を上げてしまうんやったとね。それ、行かなんだんや。
 イタリア人もいたわ。三国同盟結んでいたけね。大体いっしょに働いていた。宿舎もいっしょやった。また、ソ連をやってしまおうと話していたんや。言葉は通じんけど、たいがい分かるんやわ。
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 タシケントには四年ほどいたの。<実際は三年足らず。一年間は後述のようにナホトカに抑留されていた>。そのあいだ誰も帰れん。それでも、体の弱い人は先に帰すんや。同じ県の人もいた。帰ったら家のものに知らしてくれと言ったら無事に着いて、知らせてくれていた。からだ固ういるさかいにって(からだも丈夫で元気にいるからといって)。家族は、それではじめて、中央アジアにいるってわかったんやの。
 あんな戦争はするもんやねえ。
 ソ連は前もって帰すとは言わんのや。前の日になって、「明日帰る」て発表するんやわの。名前呼ばるんや。明日帰る者の名前を呼ぶっていうもんで、みんな食堂に集まるんやの。ほやけど、なかなか呼ばなんだ。呼ばれた人は喜んで・・・あした帰れるというもんで。呼ぶのは毎日じゃないんや。ナホトカに日本に帰る船が迎えにくるんやの。船が来ると呼ばれる。そんなに、さいさいには(頻繁には)来んのやわの。冬はあかんのや、凍ってしまうで。十二月へいくとあかんの、凍ってしまうの。一年に五回くらい来るのかね。私は六月に帰ってきたんやの。そえでも呼ばれたのは早いほうやった。
 タシケントから帰るときお土産を貰った。いい帽子、毛皮二枚、オーバー二枚、タバコなどいろいろ貰って帰った。いっぺんに帰るのは二千人くらいかな。その二千人全員一人ひとりにさっきのような土産をくれる。給料の代わりや。その土産はしっかり持って帰った。日本に帰って毛皮を玄関に置いといたら、二枚の毛皮のうちいい方を盗まれてしもた。
   <注>「はじめに」で述べたように、以前T氏は、タシケントで貰った賃金   (ルーブル)は日本では使えないので、ナホトカでクマの毛皮やタバコなど    を買って土産に持ち帰ったと語っていた。中央アジアで毛皮、しかも二千    人全員にというのも不自然な気がする。
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 帰るのも、一ヶ月くらいかかった。ナホトカに着いて船を待っていた。ほたら、みんな帰るんでのう、友達はみんな嬉して、東京音頭やら何やら歌うてどんちゃん騒ぎしたんやの。ほたら、あかんていうんや。ソ連が、この部隊はあかんていうんや。ほいで一年残されたんや。また一年遅れてもたんや。他の部隊はおとなしかったんやろ。私ら、一年間ナホトカにいた。家ん中にいたんで、よかったんや。何もせんと(しないで)、ただ部屋にいただけや。食事は、タシケントと同じや。ソ連の黒パンて、旨うないんにや。三百六十グラム<前のタシケントでは三百五十グラム>や。仲間で死んだ人もいるが、そんなにひどうは(ひどくは)ない。寒さで凍えて死ぬなんてことはなかった。タシケントにいった人は、あまり労働しなかったんで体は弱っていなんだ。ちょうど一年、仕事せんと足止めくっていた。そして明日帰るというて、名前を呼ばれ、そのときは帰らせてくれた。残った人もいたけど、その年のうちに帰ってきたわ。船の定員の関係やな。
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 ナホトカから舞鶴まで一日で来てしもうた。舞鶴で二三日いた。一人ひとり検査するわの、体が丈夫か。悪い人は病院に入れにゃあかんさかいに。昭和二十四年に帰ってきたんや。舞鶴まで母ちゃん<妻>が迎えにきた。駅で降りた帰還兵は私一人だけや。小学校の生徒やらいっぱい迎えに来たんや。そりゃ大変なものやった。町長さんやらも来た。駅で高いところに上がってあいさつした。それから歩いて家に帰った。無事に帰れた喜びは大きかった。運がよかったんや。友達はみんな<一人残らずという意味でなくほとんどという意味か?>死んでしもたんや。年金貰わんかて、だんねんや(年金もらわなくても構わないだ)。<注:T氏は四ヶ月ほど足らないので軍人恩給は貰えなかった>。それまで辛いということはなかった。いちばん嬉しかったことは・・・あした帰れるとわかったときや。いっしょにいた友達は名前呼ばれなんで、遅れたわ。私はその家へ「元気でいるさけ」(いるから)と言いにいった。喜んでいた。





 

タシケントの日本人捕虜(6) 捕虜収容所の生活

2009-10-29 16:07:12 | 日記
 黒河から船で川を渡り、そこからシベリア鉄道に乗ったんや。そのうち二千人ほどが途中から別れてタシケントへ行ってしもたんや。タシケントまでは一か月ほどかかったわの。はじめ、どこへ連れて行かれるか、わからんかった。「帰る」「帰る」ということしかわからんかった。みんな、帰るものやと思っていたんや。みんな帰れると思って喜んでいたんや。乗ったのは客車で、ストーブがありました。案外過ごしやすかったんです。そやけど一か月も汽車に乗っているんやさかい、こりゃおかしいと思ったら、ひどいところまで行ってしもたんや。中央アジアやでのう。ここはタシケントやということはロシア兵に教えてもろた。

 宿舎は、ちゃんとした建物や、ソ連の兵舎や。捕虜の兵舎やから、そりゃ日本の兵舎に比べれば比べものにならんわの、お粗末で。服装は、軍隊で着ていたものを着ていっただけや。着ているものが破れると、わが身で(自分で)針で縫うんや。針や糸はくれるさかいの。

 仕事は土曜は半日休み。日曜は一日休みや。ソ連人と同じにしてくれるんや。起床時間というものがあるんや。八時には仕事せにゃいかんのでの。仕事は八時から五時まで。昼休みは一時間あるんや。午後五時、そんで終わりや。弁当はソ連がくれる。黒パンとスープと。黒パンての、こんな大きさで(両手で示す)、三百五十グラムじゃわ。そりゃ、ソ連人といっしょや。朝も昼も夜も同じものを食べていた。パンや。毎日同じや。

 仕事はな、ぎょうさんな(たくさんの)人やけの、そんな辛うなかった。農機具の部品作ったりのう、畑も行ったりのう、いろんな仕事したわいな。仕事は案外楽なかった。私ら楽でも、辛いと思う人もいる。体の弱い人なんかのう。軍隊でも、都会の人はもつけない(かわいそうな)んや。都会の人は気の毒な、うん。やっぱりわれわれとは違うさけいして(違うから)。仕事に慣れてえんさけえし(慣れていないから)、体が違うでのう。まちの人は弱いんや。耐えられん人もいる。

 給料なんかくれへん。ただ働くだけや。お菓子なんかも。甘いもの少しはくれるんや。休みの日は、部屋でねころんだり。風呂もあったが、一週間かな、シャワーで洗う、石鹸使って。湯の量は決まっていて、長くしていると止まる。街にも自由に出られた。脱走する人はいなんだ。逃げ出しても、あんな所ではすぐ捕まってしまう。
<注>「はじめに」で述べたように、ずっと以前、T氏は、賃金も労働時間もソ連の労働者と同じで、ノルマを超過達成すると割増賃金も貰った、日曜日には買い物にも出かけたと語っていた。今回の話とくいちがっている。

 そやけど、どこでも行かれた、遊びに。集落があるさけ、そういう所へ遊びにいくんや。ちっと手伝いしてやると西瓜やらをくれるんや。言葉通じんけど、ここまで食べっていうんや(胸の上まで手をあてて)。ここまでというんは、腹いっぱい食べれっていうことや。ロシア人もかわいらしい(人情が厚い)んじゃ、人は。みんな「露助け」「露助け」<「ロスケ」日本人がロシア人を侮蔑して言った言葉。アメリカ人が日本人をジャップというが如し>ちゅうけど、みんな人間はかわいらしいわ。人はいいわね。むしろ日本人とは(よりも)いいわね。
 
 あそこは砂漠地帯やね。野菜なんかはあんまり作っておらんの。小麦も何も作っていなんだわね。ただ、綿が多いんや。綿はぎょうさん作ってありました。綿の木も大きいしね。やっぱリあこは(あそこは)集団農場や、コルホーズいうてね。今でいう団地みたいな住宅に住んでいました。行って手伝いしてやると、食べるくらいはいくらでもくれるんや。食べるのには不自由せんの。あこは西瓜しかないの。リンゴはあった。黄色いリンゴやわ。そんなに大きいないな。ごぼうやほうれん草は道端に自然に雑草みたいに生えていた。日本人はあれを食べていた、岩塩で味付けして。ソ連の人は食べんもん。ほうれん草もごぼうも食べん。

タシケントの日本人捕虜(5)  ソ連の落下傘部隊が

2009-10-28 13:13:40 | 日記
 兵舎の中は内地の兵舎と同じ造りで二階建て、立派な兵舎です。真ん中に廊下があってね、部屋の中は見とうしで、寝台が二段になっているんです。鉄砲があるでしょう。鉄砲も掃除せにゃあかんのや。わたしらは運転手やから朝起きるとすぐ車庫へ行くんです。車の点検。自分の車ってあるんです。二人で一台やね。ちゃんと名前書いてある。交代で運転するんです。助手もいます、乗るときには五人も六人も。運転できん人がいっぱいいるんです。二人は車の責任者でね、自分の車やけね、それはきれいにする。毎日朝晩点検する。足回りの点検、シャフトやスプリング、エアがあるかどうか、いつも点検、そればっかりや。それから燃料があるか、オイルが定量あるかどうか、全部点検、絶えずそればっかり。そりゃ厳しいです。もうそれは鉄砲と一緒ですさけ。自分の車は兵器やでね。少しでも傷つけたりすると処罰されます。営倉に入れられます。それくらい厳しいんです。銃も持っていますからこれも掃除します。いつも持っていたのは六十発くらいでしょう。歩兵じゃないから、いざっというときの弾しかないんです。
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 そんなわけで、楽したんです。悪いことも覚えましたざ(覚えましたよ)。公用で出かけるとき、何か運ぶとき、古い兵隊が、まあいえば古だぬきが一緒に行くんや。行くとね、満人がおるでしょう、車からガソリン抜いて満人にやるんです。そこでお金などと交換するんです。私らそれをちゃんと知っているしね。満人は闇かなんかで売るんでしょう。軍隊のガソリンは燃料庫へ行くといくらでもあります。無うなると補給するだけでね。
 道中に饅頭とか卵とかね、売っておるんです。それを買ってくるんですね、おやつに。軍隊でちゃんと食事は出るんですけどね。そんなに不自由しないんやけどね。中にはね、焼酎じゃなくて・・・チャンチュウね、それを買うんです。軍隊にも酒、日本酒はありました。だけど毎日は出ません。何か行事が無ければあかんのです。行事があれば出ます。行事があると赤飯と酒が出て、どんちゃん騒ぎするんです。それ以外は出ません。タバコは配給で、私は吸わんで、周りから毎回わけてくれといわれました。
 軍隊もはじめは訓練するところですけど、慣れると、古くなるんですね、二年も三年もいたらほんとに楽です。ほんとに、そりゃ楽です。なーんもすることはないんやけにね(ですからね)。
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 満州が戦場になったのは一週間だけです。ソ満国境からソ連が攻めてきたさかいにね。八月八日かね、九日かね、兵舎で寝ていたら非常呼集があってね。そのとき私らは逃げました。作戦命令で、今度は軍用列車に乗ったんです。トラック全部貨車に積みました。無蓋車に。そして奉天まで行きました。そして奉天に留まっておったんです。
 そしたら、終戦が十五日かね、天皇陛下の放送があったという話を貨車の中で聞きました。「もう日本は負けたんやぞ」と。そしたらね、ほーっと楽になってしもたんです。その二日後にソ連の飛行機が来てソ連兵が落下傘で降りてきました、戦車やなうて。そしてすぐ満鉄<満州鉄道>の駅や鉄道を占拠したんです。
 私ら逃げられんようになってしもうた。そして全部武装解除。ソ連兵は短い自動小銃もってね。我々はどうすることもでけん。全面降伏でしょう。上官がね、放送があったからもう駄目や、完全に負けたんやから、みんな銃を捨てにゃあかんのやと言って、ソ連軍の言うとおりになった。抵抗しても駄目やって。鉄砲も弾もあるんやさかい、抵抗できるんです。そやけど上官はそれはしてはあかん、状況が悪くなるというんです。
 そういうわけで、汽車止められてしもたんですけね、どうにもならんです。上官で逃げたものもいません。逃げる暇もありません。あんな広いところで逃げられもしません。八月やったから寒くはないんです。我々はそこの奉天の日本軍の兵舎に連れて行かれたんやね。そしてソ連兵がちゃんと警戒してます。そこに約一ヶ月いました。毎日飯食ってふらふらしてました。ソ連のいうとおり。私らのところへはソ連の兵隊は来んですけど。捕虜になって、兵隊の上下はなくなりました。
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 そして、汽車に乗せられてソ満国境の町、黒河に連れて行かれました。客車に乗って。九月かな、十月かな。寒かったね、朝晩冷えるんです、あそこは。たくさんの日本兵がいて、黒竜江を渡ってソ連に入る順番を待っていました。幕舎、つまりテントに寝泊りして。そこにしばらくいました。輸送がうまくいかず、なかなか果てんのですわ、あの国は。日本のように順調にはいかんのですわ。
 日本兵は何万どころか、たいへんなものでした。結集所ですからね。ずーっと天幕張ってね。結構寒いんです。暖房はありません。軍隊の天幕です。私ら天幕なかったでね、一晩外で寝とった。自分の外套にくるまって。起きてみると帽子が白うなっていました。着替えもなくて、着ているものだけ。

タシケントの日本人捕虜(4)  戦地へ行きたかった

2009-10-25 12:44:17 | 日記
 軍隊は長いあいだ一か所にはおりません。次から次へと作戦命令で絶えず移動しています。移動ばっかしています。私らはハルピンから奉天(瀋陽)に行きました。作戦命令で。ソ満国境で三か月、ハルピンで三か月くらいです。ハルピンの郊外の山で伐採の仕事をしていました。材木は鉄道の枕木に使うんでしょう。満州には鉄道部隊というのがありましたが伐採の仕事はしないで、その部隊は運転ばかり。私らは、大きいのこぎりで、あちらとこちら二人で挽いて、それを長さ五メートルに切っておく。そしてそれを運ぶ人がいるんですわ。なんで自動車の運転せなんだかというと、仕事が暇やったんやね。その山に一か月二か月おりましたね。 そこには、ちゃんと炊事場があるんです。軍隊のアルミの茶碗で食べました。そこでは風呂場もこしらえてありました。その頃は寒かったんや。山では零下二十度・三十度になってました。風呂の湯気が真っ白色にに凍ってしまいます。お風呂の洗い場は全部凍ります。風呂に入っても寒い、暖房してないで。ただお湯があるちゅうだけです。お湯に入らんとシラミがわくんで、必ず入らせるんや。そこで、やっぱり風邪をひきます。風呂場は兵舎の外に、小屋みたいになっている。要するに、ほんの一時的なバラック小屋です。

 山ではそうやったけど、ハルピンにいたときはね、ペーチカで暖房してました。兵舎は赤レンガ造りで、窓は二重窓、そりゃきれいにしていました。最初から兵舎として作ったんでしょう。そりゃ立派なもんです。
 だけど山では石炭ありませんでしょう。私ら木切るでしょう。それで私ら生活する薪も作らにゃあかんのや。炊事場の燃料も。宿舎も暖房せにゃならん、それでストーブで薪を焚く。中も寒いんでさあ。満州生活ではここが一番悪かったです。そこだけです、悪かったのは。山に入ったのは部隊の一部だけです。それから山を下りてハルピンに帰ったんです。もとの輸送部隊へ。

 そのハルピンで、作戦命令によって、戦地に行く命令が出るんです。たくさん行きましたざ(行ったんですよ)。南方とシナ<ここでは満州を除く中国>とかに行かされました。輜重隊も。事務室の方で誰が行くのか決めます。個人個人が指名されるんです。この部隊が全部戦地に行くちゅうことはせんのや。隊長から名前が発表されるんです。ほいで(そこで)、私の友達も行くことになったんです。村から一緒に来た友達が。ほいで、やっぱ自分も行きとうなるんやね。事務室へ行って、どうでも行かして欲しいちゅうたら、「待ってくれ」といい、身上調査ちゅうのがあるさかいにね(あるからね)、私のを見て「お前、家に妻子があるやろ、いま行くのは命がないにゃぞ、それでもいいんか」ちゅう。それでも行かしてくれというた。そしたら「今行く人は戦地に行くんやで、お前はここに残れ」ちゅうんや。
 なんでそんなに行きたかったかというと、やっぱりね、家族と別れてきてしもたんやさけに、もう帰ると思いませんさかいにね。人間ちゅうものはおかしなもんで、もうそういう覚悟すると恐ろしも何もないですわね。人間、命を出してしまうと、もう恐ろしいちゅうこともなくなるんやね。友達が行くとなると、やっぱ行きたいんです、どんな危ないとこでも。ほやけど事務室の偉い人がね「まだ、いつでも行かれるわ、時がある、まだ待て」ちゅうんです。ほんで私ら黙っていたんや、「はあーん、そうか」と思うて。
 事務室の仕事は下士官がやっているんです。その下士官が決める。経歴を見て。それとね、だいたい軍隊では成績の悪いものほど送ってしまうんです。わかるんです。上官から見て、操行の悪い人とか、なんていうか、言う事を聞かんとか・・・ちょっとそんな人がいるんやね・・・その部隊で間に合うわんと思われたり。そういうことで、成績の悪い人は戦地に行くんや。
 行くときは私らも見送ります。行くときはちゃんと新しい服装で行くんです。新品の。上から下まで、帽子までね。私らそこにおる者は汚い軍服着てるんですけどね。私らも行きたかったんです。そしたらね、上手なもんで(うまいことしたもので)、その人ら戦地にいったんですが、帰ってきたのは私らより二三年早かったんです。私らのこされたばっかりにソ連にいってもた。その人ら、戦地に行って、シナの方に抑留されたから早く帰ってきたんです。内地へ。

 私らは、満州にいた兵隊六十五万かね、その兵隊が全部ソ連へ行ってしもたんやさかいね。誰もこれも言わんですけどね。そんなもんです。戦地へ行ったものが、かえって早く帰り、私ら一番遅れてしもたんです。私の村でも、私と一緒に行ってね、三人ほど、私はその人らと一緒におったんですけど、その人ら戦地に行ったんで私も一緒に行きたかったんです。いっしょな村やさかいに。ほたら、あかんと言うんや、行かんとけと。同じ村やから行きたかったんやけどね。

 

タシケントの日本人捕虜(3) 航空士官学校で楽を

2009-10-24 13:16:14 | 日記
 そこには航空隊もいました。私はね、輜重隊だったけれど、航空隊に自動車乗る人がおらなんだんやね、そんで私らをそこへ向けたんです。輜重隊からはずれて。そんで航空隊に勤務していたんですわ。陸軍の航空士官学校の航空隊に勤務したんですわ。そこの生徒は地上の訓練はしません。飛行機に乗る人は乗るだけ、整備兵は整備するだけで、飛行機には乗りませんざ。飛行機乗る人は、故障してもどこが悪いかわからんのです。そういう任務になっているんです。この士官学校の生徒はこの満州で訓練をしていた。生徒やから戦争に行かない。四十九期生やった。まだ若いんやも。十八とか・・・の学生やね。赤トンボと呼ばれた飛行機で訓練していた。その人らは終戦後すぐ帰ったんや、もう。捕虜にならんと(ならないで)。なんでかというと、学生やで(だから)・・・ソ連がね、学生は帰したんや。<注:ソ連政府が、兵隊と生徒を区別していたことがわかる。兵士たちが、自分たちが捕虜だという意識を持つのは当然といえよう>。

 ソ満国境で何をしていたかというと、輜重隊やでね、はじめは自動車の訓練ばっかり。それが終わると荷物を運ぶ訓練とかね、まあ運送屋の訓練やね。食料、兵器、被服、米俵とか、それから燃料。航空隊やから燃料・タイヤ、そういうものを運ばにゃいかん。そういう任務があるんや。満州は戦争地区ではなかったんや。そこで訓練して戦地にいったんや。シナ<ここでは満州を除く中国>とか南方とか。それから兵隊がシナから内地へ帰るとき、満州にいっぺん寄ってね、そして休養して内地の方に帰りました。あそこは休養(?)場所やね。
 ソ満国境はずーっとトーチカです。ずーっと山の中、トーチカです。ソ満国境はそりゃー全部トーチカです。私ら車で通っただけですが、トーチカが続き日本兵でいっぱいです。それはひどいですわ。

 私らは歩兵じゃないでね、飯盒炊飯じゃありません。大きな炊事場があって、そこでご飯を食べました。飯盒炊飯など、そういうことはしません。歩兵と違って。同じ軍隊でも楽したんです。そして歩かんのです。そして給与、つまり食べ物がいいんです。食べ物はありました。そりゃ家<自分の>にいるよりいいんです。家に残った人は、ひどいもの、じゃがいもみたいなものを食べていたけど、私たちは羊羹を食べていました。ご飯は麦を混ぜたご飯でした。満州は大豆の生産地やけど、豆ご飯などは食べません。腹こわすでね。

 私らは軍隊に入っても楽したんです。ふだん暇なときは野球してるんやで。あそこは航空隊やでね、戦場地区じゃないし、航空隊に学生がいるだけやからね。
 航空隊の飛行場の周囲には満人(中国人)がおりますんや。それを警備せにゃいかん。そこを警備するのが警備中隊で、それは歩兵と同じや。自動車には乗らんし、私らとは全然違う。任務が違うんや。飛行場を警備しているんです。絶えず回っていました。だけど満人が攻めてくるなんてことはない。普通の農家の人やさかいね。日本の兵隊が恐ろしいんです。日本の兵隊が行ったら小ちゃくなるんや。日本の兵隊は威張っていて、気の毒なくらいです。威張っているのがいるさかいにね(いるからね)。

 私ら乗っている車はカーキ色でした。内地から徴発した車は全部カーキ色です。星のマークがついています、前と後や横にね。それで、日本の軍が来たったら全部止まってしまうんです。そこを日本の車がずーっと通るんです。私らの部隊は輜重隊でしょう。そういうマークつけてゆく。一台二台じゃない、隊を組んで行きますさかいね。ときには二百台くらいがずーっと行きます、車間距離七メートルほどとって。それも訓練や。満州の道は何も舗装してないです。ハルピンの街の中はしてあったけど。新京(長春)という街があるでしょう。あれは立派な街です。電車も通っておりました。今は名前が変わっています。

 満州は夏暑く冬寒いんです。朝晩冷えます。コーリャン、大麦、小麦、そして米も作っていました。内地のような田植えではなくて、ばら播きですね。見渡す限り平野、どこへ行っても畑ばっかり。満州の太陽は赤いんです。想像以上に真っ赤です。楽しみといえば、日曜の休みです。外出もできます、街へ。
 街へ出るんでもね、五人以上でないとだめですね。危なうて。満州ではね、それだけ日本に対して反感を持っているんです。満州国を承認したのはね、日本だけです。誰も承認しておりません。はっきりいうと、満州国は日本のものにしたようなものです。ほとんど日本人が支配しております。鉄道にしろ、いろいろ事務関係にしろ、ずーっと日本人がやっている。満人は、何も認めんのです。満州の皇帝おりましたね、ほんの名前だけで、もう日本が全部やっています。
 満州には兵隊のほかに開拓団ちゅうのがあって、開拓団も兵隊です。まあいうとね。日常は畑で仕事しておる。農産物の生産にいそしんでいる。帰ってくるとちゃんと家はあります、鉄砲持って。さあ戦争ちゅうと、その人が出る。そういう訓練しています。そういう人たちも、いざとなると、鉄砲持って出にゃならんのです。命令が出ればね。