静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

国家の死滅

2010-09-25 15:18:42 | 日記
 
 ルソーの警句を一つ。
 「政治体は、人間の身体と同様に、生まれたときから死にはじめ、それはみずからのうちに、破壊の原因を宿している」「最もよく組織された国家にも終わりがある」(『社会契約論』岩波文庫)。

 「盛者必衰」どころか「生者必滅」といいたいところ。 
 知人で20年ほど前から「日本は滅びる」と口癖のように言う人がいた。最近はとんと言わない。あの頃はまだ陽気だったが、最近は元気がない。20年前は警句に過ぎなかったが、今は現実化している、いや、もう滅びてしまったと思っているのかもしれない。
 以前、「自民党をぶっつぶす」と豪語した総理大臣がいた。どうせなら「日本をぶっつぶす」と叫んだ方が現実に合っていたのかもしれない。
 
 生まれたものは必ず死を迎える・・・常識である。ダークマター(暗黒物質)があるとかないとかいろいろ騒がしいが、宇宙だって生まれた限りやがて死す。ダークマターの存在が確認されれば、ニュートン以来のパラダイムが覆されると、先日テレビで嬉しそうに言っている知識人もいた。ニュートンのパラダイムなど、とっくに覆されていると思うのだが・・・。ニュートンだろうがアインシュタインだろうが、パラダイムは壊されるためにある。「記録は破られるためにある」みたいなことを言って申しわけないが・・・。

 ローマはなぜ滅びたのかと、昔から繰り返されてきた。逆に、なぜローマは千年以上も滅びなかったのかと設問する人もいる。過去、ルネサンスの時代、啓蒙主義の時代、近代市民社会成立の時代・・・ヨーロッパの知識人の多くは、ローマの政体から何らかの教訓を得ようとしてきた。マキャベリは『ローマ史論』まで書いてしまった。ルソーもこの本に影響されたらしい。このような傾向を見るとわれわれ東洋人は、恐れ入りましたというしかない。

 もっとも、アメリカのハリウッドでは、ローマ、といっても主としてローマ帝国のことであるが、残虐非道なロー皇帝とそれに立ち向かう英雄というスタイルのメロドラマ大作を量産して世界に配給してきた。ローマ帝国すなわち悪の帝国という図式である。そういう映画を見ていると、ローマは滅びるべくして滅びたと思えてくるから不思議である。
 
 そのアメリカは今、「帝国」と呼ばれたりする。「帝国」にどんな修飾文字を乗せるかは人によりけりだが。しかし、映画にするには、悪役の主人公とするに足る人物がいない。そのアメリカ「帝国」も今滅びの道を歩んでいるとある人はいう。

 話を先のルソーの警句に戻そう。彼は「政治体」といったり「国家」といったりする。厳密に言えば違うものだろう。
 前回触れたように、ルソーはヨーロッパの封建時代に人間が堕落し、政治も堕落したと考えた。ヨーロッパの中世ではキリスト教会が政治に大きく関与した。今日に見るよな主権国家は存在しなかった。古代ローマも今日の国家とは相当違っているし、世界市民という発想もあった。 

 ルソーが当面した国家というのは近代市民社会が生んだ民族国家だった。ジャン・ボダンが言うような主権を持つ国家であった。その主権国家をどう維持し発展させていくか・・・それが大きな課題になっていた。そのときルソーが一つの手本と考えたのがローマの共和制であったことは不思議なことではない。
 彼は「ローマ共和制は偉大な国家であり、ローマ市は偉大な都市であったと思う」という。その理由をいろいろ述べている。その一つが前回書いた人民の集会である。それ以外のものもある。だがこれ以上述べる必要もないだろう。

 パラダイムという自然科学の分野での用語を援用させてもらえば、ルソーの時代の国家論は、その時代に出来上がった一つのパラダイムに基づく国家論でしかない。それが21世紀に通用する、あるいは通用させるべきものかどうかは再考の要がある。そのパラダイムに疑問が生ずれば、そこに現存する政治組織が変化し、あるいは滅びることもありうるだろう。

 ソビエト連邦は20世紀における新しい政治的パラダイムの実験であった。しかし失敗に終わった。アメリカ合衆国の覇権は、しばらく前、つまり、いわゆる「ベルリンの壁崩壊」後には「パクス アメリカーナ(アメリカの平和)」と、しきりにもてはやされた。しかし、私の知る範囲では、パクス ロマーナ(ローマの平和)とは全く異質のものであると指摘する識者はいなかった。

 大洋の真ん中に、火山活動か何かによって幾ばくかの岩礁が波の上に顔を出したとしよう。それをいち早く発見した国がその岩礁の領有権を発表すると、その国の領土になる。これが現在の国際法らしい。たんにその岩礁だけでなく、その周辺12海里の領海、200海里(約370km)の排他的経済水域が主張できるようになっている。
 これは20世紀後半にできた国際間の条約(国連海洋法条約)に基づくものであり、その成立までには幾多の利害の対立があったし、今日でもある。これは、18世紀や19世紀から引き継がれてきた国際パラダイムの一端であるといえよう。

 自国の排他的経済水域に外国の漁船が無断で入ってきたということで、その漁船が拿捕されたりする。拿捕するほうは自国の国益が損なわれると主張し、国際紛争に発展しかねない。19世紀の哲人カントは、国益の主張に批判的であった。国益を優先すべきでないと主張した。永久平和を唱えた思想家にふさわしい発言である。
 「国益」「国益」と声高に言い張る国家の指導的な政治家や偉い人(わが国だけではない)、それは右から左までいるが、その顔を見ると(テレビなどで)、カント様に申しわけなくなる。まだ、国家や国境があるのか! といわれそうな気がする。

 ローマ帝国が滅びてその後に中世諸国が発生した。中国では諸国が興亡を繰り返してきた。日本では、国が滅びたという印象が薄い.敗戦で「国滅びて山河あり」と感傷的になった人もいただろうが、「日本帝国」は滅びても「日本国」は残った、憲法は「改正」されて。

 ルソーは政治体や国家も死ぬとか滅びるとか言っているが、国家という組織が地球上から消滅するとは言っていない。彼の思想も時代的制約を受けている。 
 しかし人類が消滅すれば国家も消滅するのだ。他の天体に人類が移住して国家をつくるなら別だが。

 マルクスだったかレーニンだったか忘れたが、共産主義社会になれば国家は死滅するといっている。共産主思想は古代ギリシアの頃から存在するのだが・・・。
 

人民の代表

2010-09-21 17:01:55 | 日記
 「共和国の原理は、人民の、人民による、人民のための政治である」とフランス憲法は定めてある。(フランス共和国憲法<1958年>、有信堂『世界の憲法』。ちなみに岩波文庫の『世界憲法集』<1972年版>には「人民の、人民のための、人民による」とある)。
 リンカーン大統領の演説として知られているこの有名な文言は、合衆国憲法には用いられていない。ただし「およそ人権宣言の先駆」ともいわれるヴァージニア権利章典(1776年)には「すべて権力は人民に存し、従って人民に由来するものである。行政官は人民の受託者であリかつ公僕であって、常に人民に対して責任を負うものである」〔『世界人権宣言集』岩波文庫)とある。

 リンカーン大統領はゲッティスバーグ演説で、of the people で一呼吸おき、それから by the people,for the people と続けたと、その演説を聞いた人が言っていたそうだ。
 この of the people を単純に「人民の」と和訳することには以前から疑問がもたれていた。 of にはいろいろの意味があり、最初の訳者が安易な訳をしてそれが定訳化したのだという。
 そうだとしても、この訳語にはもう長い歴史が積みあがり、日本語化しているのでどうしようもない。意味としては、ヴァージニア権利章典のいう「すべての権力は人民に存し、人民に由来する」というのが妥当だろう。
 この考えは多分、日本国憲法前文の「その権威は国民に由来し」に反映していると思われる。憲法はそのあとに「その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と続く。

 それはそれとして、日本国憲法の特徴は見てわかるように、直接「人民による」のではなくて中間に「国民の代表者」をおいて、その「代表者」が「権力を行使する」ことにある。
 この代表者については、有名なルソーの批判がある。(ルソー『社会契約論』桑原・前川訳、岩波文庫)。

 「主権は譲りわたされえない。これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意思のなかに存する。しかも、一般意思は決して代表されるものではない。一般意思はそれ自体であるか、それとも、別のものであるかであって、決してそこには中間はない。人民の代議士は、だから一般意思の代表者ではないし、代表者たりえない。人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」
 「立法権において、人民が代表されえないことは明らかである。しかし、執行権においては、代表されうるし、またそうでなければならない」
 「人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民は存在しなくなる」

 それならば、議員を選出している日本人民(いや、日本国民)はすべてドレイ状態だということになる。もちろん日本だけではないが。マッカーサー憲法草案にはすでに、representatives of the people(人民の代表者)と明記してあった。これもちょっと不思議な気がする。

 ルソーが頭に描いていたのは古代の共和制、とくにローマの共和制であったことは注釈として加えておく必要があるだろう。彼は、代表者という考えは近世のもので、封建時代に人間が堕落し、政治が不正でバカげたものになったことに由来するという。

 しばらくまたルソーのいうことを聞いてみたい。

 政治体の生命のもとは、主権にある。立法権は国家の心臓で、執行権は脳髄である。心臓が機能を停止するやいなや、動物は死んでしまうように国家も死滅する。
 国家は法律によって存続しているのではなく、立法権によって存続している。 
 主権者は立法権以外の何らの力を持たないので、法によってしか行動できない。人民は集会したときにだけ、主権者として行動できる。人民の集会なんてとんでもないと思うかも知れないが、二千年前にはそうでなかった。
 ローマとその周辺の人民がしばしば集会するのは困難だと思うかもしれないが、ローマの人民が集会しなかった週はほとんどない。それどころか、週に数回も集会した。彼らは政府の諸権利の一部をも行使した。人民全体が、公共の広場では、市民であると同時に行政官だった。

 それだけではまだ十分とはいえない。特別の集会以外に、何ものも廃止したり延期したりできない定期の集会が必要である。人民が一定の日に、法によって合法的に召集される。招集日だけ決めれば合法で、後はどんな手続きをも必要としない集会である。非合法な集会でなされたことはすべて無効である。集会そのものが法に由来すべきであるから。

 このような趣旨のことを述べた後、彼は国家の規模について論ずる。彼は国家を適当な限界まで縮小することがいいと考えているようだ。だが、それができなければ、首都を認めない、つまり、政府を各都市に交互に置き、国家の会議を順番にそこで開くことを提案している。

 私は、ルソーの言い分に深入りしすぎたかもしれない。彼のローマ史に関する知識に誤りがあるかもしれない。そしてこの彼の提案は空想的・非現実的のように見える。だが、その理念・思想は今なお私たちに深い印象を与える。
 わが国では、国会で決めたことは決定的で、それが唯一といわんばかり。国民の代表が決めたのだから国民は異議を唱えてはいけない、反対してはいけない、反対すれば犯罪である・・・そういう風に見られがちである。念を押すが、ルソーは、人民が直接決めた法以外は無効であるといっているのである。

 ルソーはこうも言っている。ドレイは自由というものを知らず、それを欲しがりもしないと。これは、ドレイというものは常に自由を求めて戦うものだという通念とは異なる。つまり、国民は投票がすめばドレイになるのに、それに気がつかない。

 沖縄の米軍基地の是非も国会で決めればいい、国民の代表が決めたことだから沖縄県民もそれに従うべきだ・・・それが民主主義だ! そういう論理でものごとはすすむ。国民一般は、自分の自由が奪われていることに気づかない。主権が奪われていることも。

 こんにち、ルソーの時代とも、まして古代ローマの時代とも違う。交通手段・通信手段などの発達は比較を絶する。代表などによらず、人民が直接に法を定め執行できる可能性は高まっている。今や世襲的・職業的政治家、金権・カンバン・地盤に頼る選挙、利益誘導型の選挙に基づく議会は清算するときがきた、真に「人民による」政治を求めて・・・ルソーならばそいういうだろう。


 

代表と代表選び

2010-09-15 15:13:26 | 日記
 
 昨年9月15日、このブログを始めた。その翌日16日、たまたま鳩山民主党政権が発足した。最初のブログには、「オバマ大統領も急速に支持率を下げつつあります。『民主主義』も容易ではありません」と書いた。鳩山内閣は、もうとっくに崩壊した。そして第二次菅内閣。
      *          *

 民主党の代表戦中、民主党には綱領がないという記事を一・二度みた。そういえば民主党の綱領など見たことがなかった。だが、別に気にもかからなかった。関心が薄かったということだろう。
 だが、代表が決まってから、妙に気になりだした。
 近代的政党なら、綱領の一つや二つあっていいだろう。いや、一つでいい。
      *          *

 アメリカ合衆国の民主党に綱領はあるか? 誰もが知っているように、無い。共和党は?やっぱり無い。”民主主義の本家”アメリカの政党に綱領はないのだからいいではないか、綱領がなくても立派に政党活動をしてきたではないか!
 もっとも、両党とも大統領選になると選挙綱領が作られる。選挙が終わればご用済み。まあ、日本の民主党でいうと”マニュフェスト”みたいなものか。マニュフェストは選挙用の幟が提灯みたいなものだから、政権を握ってしまえば、まあ、それは適当でいいのだ。
 正直に期待した沖縄の人びとにとっては大ショック。

 もっと不思議なことは、アメリカでは民主党も共和党も、党首というものがいないことである。日本で党首がいない政党はあるだろうか。
 オバマは民主党党首ではない。共和党は? もちろんブッシュでもない。大統領をしている人がその期間だけ、党首的な役割をしているが、党首ではない。
 党首もおらず、綱領もない、これがアメリカの二大政党である。

 アメリカは典型的な三権分立の国であるといわれる。モンテスキューの精神を体現していると褒め上げる人もいる。 
 実際は、北部を代表するブルジョアジー、南部の地主階級、西部で表現される農民・プロレタリアの三者の均衡を図ったものだという。
 だが歴史の過程で大統領の権限は次第に肥大化し、ブッシュに至っては議会の承認なしに戦争を始めてしまう始末。
 
 従って大統領の交代は場合によって大きな変革、チェンジをもたらす。大統領が執務不可能になった場合(病気・病死・暗殺・・)の次の大統領ははじめから決まっているので、改めて次の大統領を選出することはない。ほとんどの場合副大統領が昇格する、間髪を入れず。その結果、180度とまでは言わないまでも、極端に政策が変更された例をいくつもみてきた。最も典型的なのは、ルーズベルトからトルーマンへの悲劇的転換。
 日本のように、次の代表をのんびりと、マスコミのお祭り騒ぎを背景に選出するのとは大違い。日本のテレビは票を数える所まで映し出す。

 だからこそアメリカ大統領の身辺は危険に満ちている。合衆国の歴代大統領は、四人に一人が暗殺されるか、暗殺されかかったと、何かの本で読んだことがある。
 もうすでにオバマの大統領選のさなかに、オバマは暗殺されるのではないかと囁く市民(日本の)声を聞いた。先ごろ(8月)のある週刊誌は、11月の米議会の中間選挙を前に「”暗殺危機”が迫っていると述べたあと、国政政治学者である某党の参議院議員が(ここでは名前を伏せる)、黒人大統領を嫌う勢力によって暗殺の恐れは強まっている・・・オバマ氏は日本製防弾チョッキを着用して有事に備えている」と警鐘を鳴らしていると報道した。なぜ日本の議員が警鐘を鳴らすのだろう。
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 わが国は議院内閣制だからアメリカのような具合ではない。昭和憲法下では、政党政治もアメリカにくらべそれなりに近代的に機能できるようにはなっている。18世紀の仕組みを今なお引きずっている国とは違う。それに、憲法で市民が武器を所有し携帯することを保障する(有信堂『世界の憲法集』)ような国とは土台がちがう。「ケータイ」は携帯することが許されている?が。

 菅が小沢に勝ったのは、世論の力によると、もっぱらの評価である。地方の党員やサポーター(何のことかよく分からないが)の票が圧倒的に菅に傾き、地方議員は菅が優勢、国会議員はほぼ拮抗という構図。
 つまり、党員・サポーターが底辺、地方議員がその上、国会議員が最上部というようにピラミッド型になっていて、土台の最下部が菅支持、上に行くほど小沢が増えていくという構造。いうならば、庶民・大衆が圧倒的に菅支持ということになる。それは、政治とカネ、クリーンか否か、三ヶ月で首相を変えていいか、それらが判断の基準になったとマスコミは伝えている。

 太平洋戦争の始まる頃、近衛文麿や東条英機はかなりの国民の人気の的であった。東条が、庶民の家のゴミ箱を覗いている大きな写真を新聞に発表するなど、マスコミを使って人気取りを行い、それで結構高まった。 
 戦争に熱中したのは、案外庶民中の庶民であったのかもしれない。上部には懐疑的な者もいたのではないか。戦前・戦中も権力とマスコミは結託して世論操作を行った。大手新聞社は、なべてそれを反省したはずであった。

 しかし民主主義においては世論は国家の骨格にもなっている。膨大な費用を用いて世論は形成される。それは何気ないテレビの番組の中に巧みに隠されていたりする。 

 
      

 
 

だまされる罪

2010-09-12 15:18:58 | 日記
 今でも小・中・高の学校では、校内での映画館鑑賞会をやっているのだろうか。小学校のとき見たチャンバラ映画、あるいは、一人のちょび髭男が山小屋に閉じ込められ、空腹のあまり靴を煮て、その靴紐をフォークでくるくる巻いて食べるあのシーン・・・。
 後年、薄暗い映画館で、それが伊丹万作のチャンバラ映画であり、チャップリンであったことを知り、ハタと膝を打ったことであった。それ以来、伊丹万作とチャップリンは私にとって神様である(ブッシュと違って私には神様はたくさんいる)。
      *           *
 佐高信は以前「だまされた責任をだます側の罪で消すことはできません」という文章をある週刊誌に書いたことがあった。
 佐高は1ページしかないこの文で、伊丹万作の「戦争責任者の問題」というエッセイから、相当の行数を引用している。私はこのエッセイを読んでいないので、孫引きをすることを許してもらいたい。
 それは、戦後、日本人のほとんどが「だまされて」戦争に加担したと責任逃れをすることへの批判であった。

 「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」「だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意思の薄弱からもくるのである。我々は昔から『不明を謝す』という一つの表現をもっている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである」

 さらにまだ続く。
 「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失ってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」

 (伊丹のこの文を引いたこの佐高の文は、当時のある政党代表への手紙という形のものであるが、そのことはいま問題にしない)。

 伊丹万作のこのような考えは、今となれば別に新しくもなく、むしろ平凡といえるだろう。だが、たしかに「だまされない」ことはとてつもなく難しいことである。ソクラテスだってお釈迦さまだって一度や二度はだまされているのではないか? 神様ならだまされることもないだろう。ならば、だまされないために神様になればいい。さいわい、戦前では神になるのは比較的容易であった。戦場で倒れれば、戦死であろうが、戦病死であろうが、餓死であろうがそれはかまわない、押しなべて靖国の神として祀られる。神になればすべてお見通し、ものごとにだまされることもない! さすれば、だまされて戦場に赴くこともない。ならば戦死することもない! しからば神になることもない・・・? 
       *           *
 伊丹万作の言葉を読んですぐ思い出したのは、竹本源治の「戦死せる教え児よ」という有名な詩である。
 念のため書き記すが、竹本源治は高知県の池川青年学校卒業後、1944年地元の瓜生野国民学校の教員に、翌45年6月応召。戦後は池川中学教諭などを歴任、片岡小学校校長で定年退職。
 彼のこの詩は、ウィーンでの第一回世界教員会議(1953年)において、羽仁五郎がドイツ語で紹介して大きな反響を呼んだといわれる。

 「嗚呼!/「お互いにだまされていた」/の言訳が/なんでできよう/慙愧 悔恨 懺悔を重ねても/それがなんの償いになろう・・・」(15行中の6行)。

 竹本はさらに「私の手は血まみれだ!」「今ぞ私は汚濁の手をすすぎ」とうたいあげた。多くの人がこの詩を読んで涙したと述懐している。

 竹本源治が優れて詩才に恵まれていたことは明らかである。彼は、実際には自分の教え子を戦場に送ってはいないのに(履歴をみればわかる)、それだけの豊かな情感をこめた詩を創り得た。だが私はここで彼の詩才を論じようというわけではない。
 論題にしたいのは「お互いにだまされていた」の一行である。

 竹本の詩では、だまされていたのだから自分には罪はないと自己弁護する人間のいることが背景にある。伊丹も同じ土壌の上にその主張を述べているのだが、それを「悪」と断定した。そのように断定しながらも、結局は、「国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本質」として糾弾するのである。
 おそらく竹本は、直接自分が教え子を戦場に送ったわけでなくても、「国民全体」の一員として、自己の悪を反省したのだと解釈するのが正しいのだろう。そしてこれだけの反省さえも為し得ない多くの国民がいたことも眼前の事実としてあったのだろう。
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 一方で、永井潔(画家・評論家)のような、「戦前の教育が軍国主義一色で塗りつぶされていたと見なすのは、公教育についてならともかく、教育の全体については正しい見方ではないだろう。社会の底には常に、さまざまな伝統とニュアンスをもった多様な教育の流れが脈々とつづいているのである」という見解もある。私は「公教育」においても永井のいうとおりだと思うのだが。
 
 永井が「軍国主義一色」という考えに疑問を呈したのは相当前のことで、その後の検証によって「一色」というのは見直されているとは思うが、そのことについては、私は十分には把握していない。
 それを検証する目的で書いたわけではないが、私は以前ブログ「坊ちゃんと河村重次郎」で戦前の中学教員生活の一端を、「国民学校の理科教育思想」で文部省の指導方針を検討してみたが、図らずも、永井の主張を裏付けるささやかな材料の一端となったかもしれない。
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 今年の夏も戦争体験記が数多く新聞や雑誌に掲載され、またテレビで放映された。私が見ることのできたものはほんの九牛の一毛でしかないとおもうが、それでも感ずるところはあった。
 その一つが、戦前の教員養成制度についてである。戦後、教員不足で、臨時教員の大量採用、免許証のない中学卒業生を助教としたり、国民学校高等科卒業生を「豆訓導」として教壇に立たせたことはブログ「でもしか先生」に載せた。しかし、うかつにも、教師不足が戦中から始まっていたことを見逃してしまった。

 今年の戦争体験記には、今までになく多く、師範学校教育や臨時教員のことがあったと感じた。
 少し前に、ある大新聞の投書に、生徒に戦場に行くことをすすめるのなら、教師は自らすすんで戦場に行くべきだったとあった。一理はある。だが実際、戦中の教師不足は深刻化していたのである。私は遅ればせながら、戦時中、臨時あるいは代用教員になる道がいろいろあったことを知った。臨時教員養成所を終了して17歳で国民学校教員になった話。小学卒業後、約半年、初等科准訓導養成講習を受講、国民学校教員になった例などの経験がなまなましく伝えられた。とくに女性が動員された実態が分かったような気がする。

 まだ年端もいかない若い女性が、ほんの短い期間の講習を受けただけで教壇に立つといったことがいかに厳しいことか。今日、4年制大学を出て教師になった人でさえ困難な道である。講習で押し込まれたこと、教科書にあることを、ただただそのまま教えるという羽目におちいる。
 正規の師範学校での教育が、これまた徹底した軍国主義教育を現場で実践できる教員を養成するためのものだったことも分かった。小学校での教え子がすぐ戦場に直結したわけでないとしても、教師たちが慙愧の念に襲われる結果になったこともうなずける。

 ただ私が眼にした記事の範囲では、高等師範学校での教育について書いたものはなかった。夏目漱石もはじめ東京高等師範学校の教員をしていたことがあった。どんな教育をしたのだろうか。だがそれは明治の時代で、戦前とはいえない。中学における軍国主義教育については見あたらなかった。
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 軍国主義教育を行ったと教師が後悔し懺悔しても、実のところ、子どもたちは意外に健全で理性的であったかもしれないのだ。小学上級生ともなれば、理性や判断力は十分に発達する。下手に洗脳された大人たちよりは素直にものごとを見ることができる。
 子どもたちは、教師や大人たちの前ではだまされたふりをしながら、実際はだまされてはいないということもありうる。
 天皇は神である・・・これをどれだけの子どもが信じていたか。腹の中ではそんなことをいう大人を馬鹿にしていたかもしれない。天皇が神でないことを実証するものは、すでに修身や国史の教科書のなかにある。大人たちは、全く理性に反する、ばかげたことを教科書の中に書いている。それを教師はもっともらしく、もったいぶって教える。教師はそれに気づいていない。

 「教え子を再び戦場に送るな」というある団体のスローガンがある。再びということは、一度は送ったということである。だが、送ったのはこの団体の全員では決してなかった。もちろん、このスローガンは個人のものではなく団体としての決意を表明したものだろう。だが、団体として戦場に送ったのではないのだから、団体として自己批判するのもおかしい。やはり個人か。
 戦場に教え子を送らなかった教師、軍人や兵士になることを阻止しようと努力した教師もいた。彼らはこのスローガンをどのような気持ちで受けとったのだろうか。
 
 そもそも「送った」とか「送らなかった」とかいうのは僭越ではないのか。先にも意見を述べたが、小学生も上級になれば十分批判力や判断力を持つ。まして14歳、15歳の生徒たちがそれに欠けるなどということはない。
 教育の目的は、児童・生徒が自分で考え判断できる人間、容易にはだまされない人間、自立した市民を育て上げることにあるのではないのか。戦場に行くべきか、行くべきでないか、それは子どもたちが自主的に判断することではないのか。その判断ができるようにしてあげるのが教育の役割ではないのか。「教え子を再び戦場に送らない」というのは教師の傲慢ではないのか。
 
 
      
 
  
 
  

「15歳の志願兵」を出さなかった教師たち

2010-09-05 13:57:50 | 日記
 きょうの内容は、M氏の回顧談である。文中では少年Mと呼ぼう。それ以外の人物・固有名詞はイニシアルだけにする。
         *           *

 少年Mは1930年生まれ。1941年12月太平洋戦争勃発、11歳のときである。翌42年A小学校(国民学校)卒業、A中学に入学。同じクラスから何人中学に進んだかは知らない。担任も誰も教えてくれないし、話題にもならない。約50人中多分4人か5人。当時は色々な条件を満たさないと進学できない時代だった。少年Mは近所の遊び友達に隠れるようにして中学に通った。

 1943年5月、2年生のとき、父親の転勤に伴いT中学に転校、13歳の春である。戦局はますます厳しくなっていた。はっきりとは覚えていないが、多分2年の終わり頃からだったと思うが、ときどき勉強はそっちのけで、勤労奉仕として農家の手伝いや港湾の荷揚げの仕事などにかり出された。辛かったという。3年の秋遅い頃からは毎日、町の軍需工場に「出勤」するようになった。にわかに兵器工場になった所である。4年になると父母のもとを離れて遠くH町の軍需工場に泊り込みで勤労動員され、そこで敗戦を迎えた。

 というわけで、記憶ははっきりしないのだが、多分3年生の1学期だと思う、ある日突然全校生徒が剣道場に集められた。T校には体育館も講堂もなかった。あるのは剣道場と柔道場だけ。1学年2クラス、全校で10クラス、剣道場に全員収容できた。当日の集合は全校生徒ではなく3年以上だったかもしれない。全員座らせられると、見慣れない軍人が現れた。

 これも記憶が定かでないが、多分陸軍中尉だったと思う。軍から派遣されて、あちこちの中学を巡っているのだと容易に推測できた。
 激烈な演説であった。みんな息をのんで聞いていた。あんなすごい演説は後にも先にも聞いたことがないと、いまでも「少年M」氏はいう。話の内容は、要するに、国のため、天皇陛下のため立ち上がれ、軍人になり戦場へ赴き一身を捧げよ、靖国の英霊となれということであった。さすが軍が選りすぐった弁士だと思ったという。
 ついでに言うと、そのしばらく後にもう一度軍人がやってきてアジ演説を行った。海軍の軍人だったかもしれない。記憶は定かではない。だが、印象は一回目に比べて薄い。

 それまで少年Mは、ただの一度も軍人になろうと思ったことがなかった。中学1年のとき親しい友人に「天皇は豪族のなりあがりだ」と語ったらしい。戦後その友人が、お前はそんなことを言っていたというので思い出したという。
 その少年Mが、この演説を聞いてはじめて気持ちが動かされたというのである。少なくとも、校長や担任から強くすすめられれば、そういう道に進まねば、という気持ちになっただろうという。
 
 翌日、校長が全校生徒を集めるだろうという予測ははずれた。担任のN先生もこの演説のことには一言も触れない。隣のクラスの担任で「物象」を教えているY先生も。その他国語の先生、数学の先生、英語の先生そのほか誰もこの演説を話題にする人はいなかった。級友のだれもが口にしない。少年Mももちろん沈黙を守った。

 では配属将校は何をしていたか? 配属将校は上級生担当で、少年Mの学年は予備役の年配将校が担当していた。H氏である。同じクラスのH君の父君である。この人も何も言わなかった。息子の前で戦場へ行けとは言えないからという者もいたが、そうでもないだろう。配属将校は何をしていたか知らないが、とにかく、全校生徒を前にアジ演説などはしなかった。

 H氏について一言。温厚な人であった。しかし怒るときは怒った。叱られるのは決まって柔道部の猛者2~3人であった。少年Mには、どういう理由で彼らが叱られているのかよく分からなかったが、心の中にいい気味だと思う気持ちがあった。
 H氏はあるとき突然いなくなった。戦場に引っ張られたのだと噂が飛んだ。そういうことは軍の機密であった。

 H氏の後任に近所の農家の子息がやってきた。下士官で、戦傷のため少し歩行が不自由であった。教練の時間、はじめおざなりの「訓練」をしたあと、校庭の脇の草むらに円陣に座らせ、戦場の話などをしてくれた。三八銃はどれくらい威力があるかなどと。どちらかというと楽しい時間であった。

 話を戻そう。その陸軍将校の名演説がおこなわれてから少し経った頃、父兄会(保護者会)があった。出席した母親は帰ってきて少年Mにこう報告した。
 「N先生は、お宅の息子さんは高等師範にお入れになるのでしょうね、と言った」
 少年Mはびっくり仰天した。思いもよらぬ担任の発言である。少年Mは、将来上級学校に進もうと漠然とは思っていたが、戦争が激化する中、とてもそんな細かく考えたことはなかった。それになぜ高等師範なのだ。当時高等師範は東京と広島にしかなかった。露ほども考えたことはなかった。

 だが少年Mは直ちに理解した。担任のN先生や大人たちはわれわれが戦場に行くことを望んでいないのだ! たちまちそれは確信となった。少年Mの父は中等学校の教員だった。そこで、教員養成学校への進学をアドバイスする形で戦争に行かせないようにしているのだと。
 布団屋の級友の母親には「お宅の息子さんは将来店を継がせるのでしょうね」とか、銀行マンの息子の母親には「将来お父さんの後をついで銀行員になさるのでしょうね」とか言ったのではないか。これは少年Mがとっさに考えたことであるが。
 とにかく、軍人になれとか、戦場に赴けとか、N先生は絶対に言わなかったに違いない。少年Mの頭から軍人・兵隊・戦争が完全に消えた瞬間であった。再び思うことはなかった。

 上級生や下級生のことはよく分からない。だが、自分のクラスのことは完全にわかる。終戦のときまで、誰一人として軍に志願したり軍人の学校に入るものはいなかった。隣のクラスのことはほぼ分かる。ここでも誰もいなかっただろう。
 上級生で、あるいは個人で進んで志願した生徒はいたかもしれないが、校長を始めどの教員・教官も「教え子を戦場に送る」ようなことはしなかった、少なくとも学校ぐるみでそんなことはしなかったと、元「少年M」氏はいう。
       *            *

 あの激烈な将校の演説の後で、T中学ではなにがあったのだろう。職員会議で何か論議されたのだろうか。校長はどういう態度をとったのだろうか。習っていないからよく分からないが、N校長はとても温厚で、大正デモクラシーの洗礼を受けたリベラリストではなかったかとM氏は言う。
 教頭は京都大学文学部卒、国語はずっとこの人に習ったからよく知っているが、この人もオールドが付くかもしれないがリベラリスト。誰もが丸刈り、国民服姿になった時代に、最後まで長髪、背広にネクタイの姿を変えなかった。今は市であるが当時は町。M氏が言うには、この町で出会う人で最後までそういうスタイルを崩さなかった人は2人しか知らない、そのうちの一人だという。『坊ちゃん』の赤シャツなどとは格が違う。
 担任のN先生は謹厳な人で、冗談もめったに言わない、言っても生徒に気づかれないようにいう。生徒の一人ひとりに気を配ってくださった・・・、とM氏は語る。

 T中学は田舎の平凡な学校、近くの高校に数人でも入れれば良しとするような普通の中学である。全国で三本の指に入るような進学校とはわけが違う。
 だがM氏は思う、T中学の先生方はみんな素晴らしかったと。