静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

教育は芸術?

2012-07-26 22:38:07 | 日記

(一)
 野坂昭如の「七転び八起き」連載135回「いじめ」を読んだ(12・7・17、毎日)。こ
の野坂という人はいつも優しい分かりやすい文章を書く。気取らない素直な文章であ
る。
 ガキ大将について、彼は、ガキ大将を世間は求めつつ、同時にその存在を許さない
という。ご自分の体験によるものである。かくいう筆者は「ガキ大将」に遭遇したこ
とがないので、なんとも言いようがない。ついでに言うと、宇宙人にも遭遇したこと
がない。
 野坂氏は、偏差値教育が盛んになり、その反発のあらわれとして、顕在化したと言
われたのが校内暴力だと。偏差値などという言葉はいつできたのだろう。われわれの
世代が上級学校を受験するにしても、偏差値はおろか、受験する学校の試験問題さえ
見たことがなかったから、どんな問題が出るか、皆目わからず、闇雲に受けたもので
ある。学校が卒業生の合格者名や合格者数を発表することもなかった。学友の受験・
合否は噂で知るだけ。もちろん予備校などはなし、週刊誌が毎週のように大学や高校
のランク付けをするなど、考えも及ばない珍事である。上級学校を受験することは、
いわば私事で秘め事であった。だから合否を学校に知らせる必要もなかった。
 戦後の新制高校に「進路指導」というものができたことに驚いたことであった。

(二)                                                                     
 野坂氏は言う「いじめは、学校や教育委員会のことなかれ主義、隠蔽体質、教師の
能力低下と関係する」と。テレビのコメコメンテーターなどは、嬉しそうに、あるい
は誇らしげに主張していることに似ている。カメラに向って座っている人たちは、割
合気楽にものが言えるテーマなのでくつろいで楽しそうだ。言っている内容は、その
あたりの井戸端会議(あるとすればのことだが)での、おかみさんたちの水準だ(失
礼)。
 だが野坂氏はそのあと続けてこう言っている「だが学校だけが悪いわけじゃない。
いじめが表面化するたび、学校側の対応は問題となる。これは子供をとりまく環境す
べてに責任がある」。そして親の責任も問う。教育は学校と塾に任せ、食事と寝床を
与えて良しとする」と手厳しい。
 あるコメンテーターが、「日教組はいじめの問題をどう考えているんでしょうかね
」という別のコメンテーターの発言に対して、「日教組はその問題には何も発言はし
ていない」と答えていた。日教組は毎年全国教育研究集会を開いているし、県や市の
段階でも教研集会を開いていることは周知のことである。新聞でも、研究会の内容も
含めて報道されてきた。「なにも発言していない」などとはあり得ない。しかもそれ
に誰も疑問を呈さない。これでは井戸端以下である。そういう疑問があるなら、現場
の教師を呼んで話を聞けばいいじゃないか。そもそもワイドショウーは、「労働者」
などの意見は聞かないのだ。これもあるワイドショウーで、ある人(国会議員だった
と思うが)の発言が紹介されていた。その人は、教師は労働者ではないと明言してい
た。労働者の定義は労働法(労働基準法、労働組合法など)で明確に定められてい 
る  。職業の種類を問わず、賃金、給料、そのほかこれに準ずる収入によって生活す
るものを指す。国会議員ともあろう者が・・・しかし、百も承知での発言かも知れな
い、この言葉が政治的に使われたことを思いだす。 教育委員会というのは戦後でき
た。戦前、戦後もしばらくは視学である。内閣総理大臣の任命だったのか県知事の任
命だったのか、それは知らない。とにかく教育界では神様みたいに偉かった。戦後に
できた教育委員会は選挙制だった。一般有権者の投票によった。だから政治行政から
の独立性が高かった。だが選挙制は長続きしなかった。自治体の首長による任命制に
変わった。激しい反対運動が起きたがそれは押しつぶされた。任命制になれば、教育
委員がどちらを向きたくなるか、大方は推測できる。「ことなかれ」は最初から目に
見えていた。時の政治権力がそれを期待して反対を押し切ったのは明らかである。そ
の教育委員が「ことなかれ」だと批判するコメンテーターもことなかれ主義に見えて
仕方ない。
 この任命制教育委員会制度のもとで、真っ先の行われた「教育改革」が、学習指導
要領の事実上の法制化である。それまで「試案」とされたものが、強制力を持つもの
とされた。教育現場の学問の自由、教育の自由は失われてゆく。今日では卒業式で教
頭が教員の口の開け具合を点検する時代になった。私の知人は、ある有名な私立の進
学校(高校)の教師だった(数年前に退職)。毎週、校長に授業の内容を報告しなけ
ればいけなかった。そんなことは当たり前と一般市民が思うようなら、もう、日本は
終りだ。いじめのあるなしや、教育委員会や学校の責任を問うなどの資格さえない。
 野坂氏は、「今の教師は、ほとんど戦後の誤った教育を受けている」という。「戦
後の誤った教育」というのは、そういう学校教育のあり方だと思う。学問の自由・思
想の自由・教育の自由など、雲散無消してしまっているとみるしかない。野坂氏も、
旧制中学の自由闊達さを思いだしているのかも知れない。
 ついでに言うと、戦後しばらくは、というより比較的長い間、公立学校の教員に管
理職というのは法律上なかった。何時できたか調べてみなければわからないが、とに
かくあるときから校長や教頭が管理職になったのである。給料表も改められ平の教員
と明確な格差が生じた。教員に厳しい定年制がしかれたのもその頃だったと思う。 

(三)
 野坂氏は「学校は技術屋であればいい」という。算術、漢字、歴史、社会、科学な
ど、教える技術が大事だと。
 これはきわめて難しい問題だ。誰だか忘れたが、教師は俳優の才能がなければなら
ないと言った人がいた。ピアジェは、教師には教師としての才能が必要だといった。
私の知人のある主婦がパートで学童保育の指導員になった。児童を電車に乗せて美術
展などに連れて行くことがある。電車のなかで騒いで乗客に迷惑をかけないように考
えた。電車に乗る前に飴玉を一個ずつ与え、降りたときに口のなかに飴玉が残ってい
た人にはもう一個やると約束するのである。子どもたちは飴玉が溶けないようにじっ
と静かにしている。この話を聞いたとき、やっぱり教師には持って生まれた才能が必
要なのかなと思ったことである。
 戦中・戦後は教師不足だった。戦後わたしの通っていたT中学に、兵学校だったか
士官学校だったか忘れたが、軍の学校の教官だった人が二人やってきた。物理のI先
生と数学のT先生。ともに苦手な学科。だが、電気理論も微分積分もすぐわかってし
まったのである。これには自分でも驚いた。つくづく、教える技術の重要性を悟った
のである。しかし重要なのは野坂氏のいう技術だけだろうか。
 地理のS先生の授業は通常の「地理」をはみ出していた。T市は焼夷爆弾攻撃によ
って焼土と化していた。S先生の卒業試験の題は「T市の復興計画をたてよ」だっ 
た。歴史のY先生のは試験でなくレポートだった。題は「歴史とはなにか」。これに
は大いに困った。困ってクロォチェの『歴史叙述の理論及歴史』とベルンハイムの『
歴史とは何ぞや』などを参考にでっち上げた。私の家は郊外に強制疎開させられてい
たので蔵書は助かったが、そうでない人は真実困ったことだろう。
 歴史は暗記科目だなどと言われ始めたのはもちろん戦後だと思う。私は年号など絶
対覚えられない。自宅の郵便番号や電話番号さえ忘れそうになるくらいだから・・・
もっともこれは年のせいか・・・。 
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ここまで書いて、続きは後日と思っていたら、ある週刊誌を読んでしまった(8・
5号)ので予定を変更。
 記者2人による記事である。タイトルは「『無責任教育』と『劇場型いじめ』」、
これはもう劇場型のタイトルである。記事の内容を後追いする気はない。ただ気にな
ったことを1つ2つ。「教育委員会は戦後の民主化教育の流れで市長の権限が及ばず
閉鎖的で、教員同士でかばい合う体質もある」とある。この文の主要点は「民主化の
流れのため市長の権限が及ばない」である。今の教育委員会制度が、民主化運動を抑
圧し、反対を押し切って無理やり通過させたところの「反民主化」の流れから生まれ
たことは、私が上記した通りである。私はこの教育委員の任命制は、戦後教育を誤ら
せた第1号だと思っている。
 この文の続きの方に、ジャーナリストの斉藤貴男氏のコメンとが載っている。「大
阪市の橋下徹市長ら強権的な政治家は、これを機に権力から独立した教育委員会をつ
ぶし、教育行政を首長の思いのままにしたいと考えるでしょう」。おおまかに言って
斉藤氏の言わんとすることはわかる。しかし、斉藤氏も、今の教育委員会がどういう
役割を果たしているかあまりご存じないようだ。今の教育委員会が権力から独立して
いると思っているのだろうか。うわべは、表面的にはそう見えることもあるだろう。
しかしそれは真実を照らしていない。たとえば、大阪市の教育委員はどれだけ独立し
て市長に物言えるのだろうか。卒業式の教員の口パクパクまで市長が介入すること 
に、なんらの異議さえ申し立てたとは聞いていない。断固として反対できるのだろう
か。いや、もし市長と同じ考えだからと弁解するなら、そんな教育委員はいないほう
がいい・・・文化大臣に「視学」でも任命してもらったらどうだ!              
                                                                           
                                                                           
                                                                           
                                                                           
                                                                           
                                                                          


風のプリニウス(9)共存の心

2012-07-16 21:21:04 | 日記

 「シートン動物記から100年」というタイトルの京大教授・山際寿一氏の文を読
んだ(『毎日』12・6・24)。それによると、第二次大戦後京都大学で動物社会学とい
う新しい学問が始めたとき、欧米の学者から強く批判されたという。動物を擬人的に
見ることを強く戒める風潮があったためらしい。そういう記事を読んでいてプリニウ
スのことを思いだした。ひさしぶりに「風のプリニウス」(9)を書くことにした。

(一)
 山際氏の文では、西洋の昔話では動物は人間になれない、人間と動物の間には超え
ることのできない境界があるという。そして、動物は本能の働きに従って外界の刺激
に機械的に反応しているだけだと考えられていたという。対照的に日本の昔話は、動
物と人間が一緒に仕事をしたり結婚して子どもを創ったりする・・・とある。だが私
はこういう話は中国には無尽蔵にあるのだろうと思う。日本のはその影響だろう。こ
の問題は宗教観に大きく影響されていると思う。だが、そのことが今日の話題ではな
い。
 プリニウスの『博物誌』の動物についての記述は主として生態に関する第8巻から
第11巻と、動物から得られる薬剤に関する第28巻から32巻まで、合計9巻であ
る。『博物誌』37巻の三分の一に及ぶ。薬物にこのような比重を置いたことは、プ
リニウスがアリストテレスに大きく学びながらも、全く違った意図を持って編纂され
たことを明示してくれる。プリニウスの場合、動物と人間との関わりが重要な位置を
占める。アリストテレスが行った生物学的分析などにはほとんど興味を示していな 
い。
 シートンの動物誌はいわば小説であるが、プリニウスの場合科学として書こうとし
ている。しかし今日の科学水準と比較することは無意味である。彼の動物編ではゾウが真
っ先に取り上げられている。今日でもゾウは動物園での一番人気であるし、歴史上で
も重要な役割を演じた。だがそれは後にしよう。
 ここで最初に取り上げるのは百獣の王ライオンである。彼はライオンの項を、その
出産から始めている。ところがまずそのなかで興味あることを述べている。
 アレクサンドロス大王は動物の性質を知りたいという欲望に駆られ、その研究を科
学分野で最も優れたアリストテレスに委嘱した。大王は全アシアとギリシア中の数千
人の人びと、狩猟、鳥打ち、漁労で生計を営んでいるすべての人々、ウサギの飼育 
場、畜群、蜂蜜飼育場、養魚池、小鳥飼育場を管理している人々は、その種類・出生
地の如何を問わず、すべての動物についてアリストテレスが確実に報告を得られるよ
う、その指図に従えという命令を出したと。アリストテレスはそれらをもとにして、
ほとんど50巻からなる有名な動物学に関する書を著したという。アレクサンドロス
大王が、アリストテレスにこの大仕事を依頼し、そのために経済的援助を与えたこと
はフランシス・ベーコンやブルクハルト(『ギリシア文化史』)なども書いている。
大王がなぜ動物に興味を持ったかのか、それはプリニウスも書いていない。もし大王
が植物にも興味を持ったならば、大王はその資料の収集のためにも大金をはたいてア
リストテレスを援助し、アリストテレスは『植物誌』をものにしたであろうに。
 話をもとに戻して、このアレクサンドロスの援助のことを述べたあとでプリニウス
は、『博物誌』の著述においてアリストテレスの著作の恩恵にあずかっていているこ
と、アリストテレスの著作を要約したものに追加したが、このことを好意的に受け入
れてくれるよう読者にお願いすると書いている。確かに彼はアリストテレスからあち
こちで引用しているが決して要約にはなっていない。不思議だ。
 この叙述の少し前に彼は「アフリカは常に新種をつくり出す」というよく知られた
言葉を紹介している。アフリカは水が少ないのでわずかな川に動物が集まり、雑多な
雑種が生まれるということを示すもので、ギリシアからもたらされた言葉だとプリニ
ウスは言う。今日アフリカでは、「新種」を「新しきもの」と読み替え、アフリカの
未来に展望を與える言葉として使われているようだ。

(二)ライオンの威厳
 さてそのライオンの話、続きを少しばかり紹介しよう。
 動物のうちライオンだけが、慈悲を乞う人に情けを示す。自分の前に平伏する人に
害を加えない。極度に飢えているとき以外は子どもを攻撃しない。ユバ(前50頃-後
23頃、マウレタリアの王。歴史書その他の著作あり)は、ライオンには懇願の意味が
通ずると信じているとプリニウスは書いている。だからこのあたりはユバからの引用
だろう。次の話もユバから引いたらしい。捕虜になったけど逃亡したある女性が森の
中で一群のライオンに襲われた。彼女は、自分がか弱い女性で逃亡者であること、動
物の王者に嘆願しているのだが、自分は王者の名誉にとって相応しくない獲物だと訴
えた。そしたらライオンは襲撃を止めたというのである。
 シラクサ人メントルがシリアで、嘆願するような素振りで寝ころがっているライオ
ンに出会った。恐ろしくなって逃げようとした。どちらへ逃げようとしてもそのライ
オンは立ちふさがり、彼にへつらうようにその足跡をなめた。メントルはライオンの
足に腫物と疵があるのに気づき、とげを抜いて苦痛から救ってやった。シラクサにそ
れを描いた絵がある。
 またエルピスというサモス生まれの男がアフリカに上陸したとき、威嚇するように
大口を開けている一頭のライオンに出会った。木に登って難を避け、リーベル・パテ
ル(イタリアの生産と豊饒の神、古い時代からギリシアのディオニュソスと同一視さ
れている)に助けを求めた。ライオンは、彼が逃げようとしたとき行く手に塞がるこ
ともできたのに木の傍に横たわり、大口を開けたまま憐れみを乞いはじめた。みると
一本の骨が歯の間に刺さっていた。ライオンが声も出さずに助けを求めたように見え
たのは、獲物を貪欲に噛んだ罪だけでなく、空腹が彼を悩ましていたのである。男は
ついに木から下りてきてライオンの口からその骨を抜いてやった。ライオンは片足を
男に差しのべた。男の船が停泊している間、ライオンはその恩人のために獲物を運ん
できて謝意を表したという。エルピスは故郷に帰ると神殿を建てリーベル・パテルに
捧げた。ギリシア人はこの神殿に口を開けたディオニュソスの神殿という名を与え 
た。プリニウスは言う、野獣がほんとうに生類のひとつからの援助を望んでいるとき
には、彼らは人間のやり方を認めるものだという事実がある、これも驚くほどのこと
はないと。この話をどこから仕入れたか彼は書いていないが、現にギリシアにそうい
う神殿があったのなら、広く流布している話なのだろう。
 この三つの話、話の内容というより、ユバ王、絵、神殿などが物語るというその事
実、それをプリニウスは書いている。彼自身の小説や創作ではない。その話の内容が
仮に作り話であったとしても、そういう話が存在したこと、当時の人たちのライオン
観、そういう話を生み出すような社会、それをわれわれは知ることができる。それを
分析するのが科学だろう。

(三)イルカの愛情
 プリニウスは、イルカは人間に親しみやすい動物であるだけでなく、音楽の愛好者
だという。また人間が好きだ。船が現れると周りで遊んだり競争をしたりする。竪琴
の名手アリオンが船旅の最中、彼を殺して金を盗もうとする船頭の企みを知ったアリ
オンは、一曲弾かせてくれと頼んだ。その音楽が一群のイルカを引き寄せ、彼は海に
飛び込み、イルカによってマタバン岬の海岸に無事に連れていかれたという。
 アウグストゥス時代に、一匹のイルカがある少年に恋をした。彼の手から食べ、背
に乗せて湾を横切って学校に連れて行き連れて帰った。それは少年が病死するまで続
いた。少年が死ぬと、イルカは喪中の人のように同じ場所に通いつづけたが、ついに
恋いこがれて死んでしまった。このことは多くの人(3人は実名をあげている)が書
いているからいいようなもの、さもなかったらこんな話は恥ずかしくて書けない・・
・そうプリニウスは言う。
 イアスス市のある少年に、あるイルカが恋をしていた。ある日、その少年が海岸か
ら去ろうとしたとき、そのイルカは岸の方に向って懸命に追いすがって砂の上にのし
上げ息絶えてしまった。アレクサンドロス大王は、そのイルカの愛情を神の恩寵のし
るしと解してその少年をバビロンのポセイドンの神官の長にした(この話をアリスト
テレスが書いているかと思って探したが見つからなかった)。
 同じイアスス市にハルミアスという少年がイルカに乗って海を横切っていたとき、
突然波にさらわれ命を落したが、イルカはその少年の死体をを岸へ連れ帰った。だが
イルカは責任を感じて海へ帰らず、乾いた砂の上で死んだ。
 ヒッポクラテスも同じことがナウパクトゥスでも起きたと記録しているが、そうい
う事例は限りなくあるとプリニウスは書いている。また、イルカが人間と共同して漁
をする話を詳しく書いている。
 イルカと人間の交流については甥の小プリニウスも詳しく書いているが省略。アリ
ストテレスも「イルカの愛情深い性質」という一節を設けているが「タラスやカリア
ヤスやその他の地方での少年に対する愛情や欲情の実例さえあげている」とはっきり
しないことを1行記しているだけである。彼の『動物誌』には人間との交流に関する
記事は極めて少ない。

(四)怜悧なワタリガラス
 現在でもそうだが、古代においても鳥類の観察はきわめて困難だった。だからいろ
いろな神話や伝説が生まれる。それは洋の東西を問わない。数多くのプリニウスの叙
述の中から一つだけ選ぼう。
 ティベリウス帝のとき、一羽のワタリガラスが郊外のある靴店に舞い降りた。この
ワタリガラスは間もなくものを言う習慣を身につけた。毎朝広場の歩廊に飛んでい 
き、ティベリウスに、それからゲルマニクスとドゥルスス・カエサルにその名を呼ん
で挨拶し、次に通りかかった公衆に挨拶し、それが済むと店に帰るのが常だった。と
ころがこの鳥を靴屋の隣の借家人がある詰まらぬ理由で殺してしまった。それを聞い
た市民たちが騒ぎだし、その男はその地区から追放された。そして、そのワタリガラ
スの葬儀が盛大に行われ、大変な数の会葬者が集まった。美しく覆いをされた棺台は
二人のエチオピア人によって担がれ、先頭に笛吹きが立って葬列が進んだ。アッピア
街道の右側、レディクルス原と呼ばれるところにある第二の里程標石のそばに築かれ
た火葬壇には、あらゆる種類の花輪が添えられた。
 プリニウスはこの話の出所を書いていない。だが、彼は後35年(多分12歳)の
ころ勉学のためローマに出てきていた。この葬儀は後36年3月28日だと彼は書い
ている。ティベリウスの死は翌37年である。好奇心旺盛なプリニウスはその葬儀に
参列したのだろう。いや、彼はフォルム・ローマヌムのバシリカで、このワタリガラ
スと朝の挨拶を交わしたことがあったに違いない。
 この話の後で彼は書いている。ローマの指導者でも全然葬式をしてもらえなかった
人も沢山いるのだと。                                                       
                                                                           


ヒッグス粒子に思う

2012-07-09 20:26:43 | 日記

   (一)
 新聞に載った作家の藤原新也氏の文(「私たちは国土と民を失った」『朝日』12・7
・4)の一節を、読んだ証しに記しておく。
 「福島では多くの悲惨を見てきた。しかし私が一番ショックを受けたのは、千葉・
房総の自宅付近のドライブインで昼食をとっている時、目の前のテーブルに一週間飲
まず食わず(比喩でなく事実として)で逃げ回り、憔悴しきった福島県浪江町からの
避難民家族がおられたことだ。私はその家族の悲劇を目の当たりにした時、この国は
有史以来初めて、自ら”国土を失い””民を失った”のだなと実感した」。

(二)
 同じ日の夕刻、「ヒッグス粒子発見か」というニュースにマスコミは興奮し、物理
学者たちも歓喜していた。
 ヒックス粒子に関する本を読めば詳しく解るのだろうが、そんな余裕のない市民は
新聞記事などで知るのが精一杯である。それも、なかなか難しくて理解するのに難儀
する。
 私も数種の新聞を眺めてみた。だが、微妙に説明が異なったりして・・・多分こち
らの理解が不十分なのだと思うが・・・納得というところまで行かない。高い購読料
を払っているのだから、も少し庶民でも解るように解説してもらいたいものだ。まず
第一に、質量がないのになぜ「粒子」なのだ? 質量があるから「粒子」なのではな
いか? この粒子は誕生するとすぐに消滅するというが、なぜ今でも存在するのか?
 素粒子というのは17あるのか18あるのか? こんなことをいちいち知ろうと思
っていたら日が暮れる。
 新聞記事の見出しのいくつかを並べてみた。
「ヒッグス粒子発見か」「ヒッグス粒子候補発見」「ヒッグス粒子か 発見」「発見
競争に王手」「ヒッグス粒子発見 最後の検証へ」「物理新時代開く」「質量の起源
追い40年」「国内外の研究者数千人」「”新粒子”世界が興奮」などなど。
 私の周辺の人たちの様子を見たら、「興奮」している人は一人もいなかった。ほと
んど関心もなさそう。どこの世界が「興奮」しているのだろう。きっとその記事を書
いている人が興奮しているのだろう。
 今回見た新聞記事には研究費のことに触れたものはなかったが、昨年末の記事(11
・12・15)にあった。それによると、ヒッグス粒子発見に使用される大型加速器の建設
費と検出器あわせて約5000億円。日本は約167億円を拠出し、運用費として年間約2
億円負担しているという。そんなに費用がかかるけど、「人々を楽しませ勇気づけ」
るとその記事は結んでいた。そういう効能があるのだろうな、人の心を豊かにし、つ
いでに国をも豊かにするのだろうな・・・。
 LHC(大型ハドロン衝突型加速器)・・・新聞やテレビなどで紹介されているか
ら皆知っているけどメモしておこう。
 フランスとスイスにまたがってある欧州合同原子核研究所の加速器。地下(100メ
ートルくらいか)のトンネルに設置してある円形加速器。周長は約27キロメートル(
東京・山手線の路線距離=34・5キロ)。
 これほど大規模な穴掘りを行ったにも関わらず、この大加速器建設に関する記述に
おいて、掘削の問題点や課題などに触れたものに一度もお目にかかることのないのが
不思議だった。掘削技術が進んだ今日では、穴を掘ること自体は、宇宙創造の話に比
べればどうってことはないのだ。私はかつて(一昨年の秋)、ブログで4回にわたっ
て、穴掘り4態とでもいうべき文章を書いた。人類は古くから地中に穴を掘ってき 
た。いまや人間は巨大な穴を掘って宇宙のことを調べるのだ。
 いろいろな考え方があるだろう。昔は、地下は死者の安息所だった。三途の川を渡
ってはじめて到達する永遠の休息所・・・。

(三)
 上記の穴掘りの話の後で「宇宙創造に神は要らない」というブログを書いた。最先
端を行く物理学者たちが、今や宇宙の創造も物理学に従っており、この物質世界の運
動を物理学が宇宙の始まりから確実に支配していることがある・・・と考えているら
しいことがわかった。ホーキング博士もその一人のようで、「宇宙は物理法則によっ
て生まれ」と書いていた。そのホーキング氏が、ヒッグス理論の提供者ヒッグス氏を
ノーベル賞候補に推薦しているという記事を見た。50年ぶりに自分の理論が証明され
たとヒッグス氏は喜んでいたが、まことにそうだろう。
 私ははじめ、物理学をそのように解釈するのは寓意なのだろうと思っていたが、だ
んだんそれは真実なのだろうと思うようになってきた、この2年の間に。つまりこの
宇宙は物理学者がつくるのだ! 神様ではない! だったら、もっともっと立派な宇
宙、そして地球を創ってほしい。神様は忙しくて、人間個々人のこと、そのような瑣
事には配慮している余裕はないだろうから。
             
 だがそんなことを願うのは場違いというものなのか。
 ヒッグス粒子のお陰で今日の地球があり、われわれ人間も誕生した、みんなこの粒
子のお陰だ・・・というような話をしている人がいた。新聞で読んだ。なるほど、だ
から地上には地震や津波が多く、そして原爆や原発が生まれたのだな。一週間も飲ま
ず食わずで放浪してさまよっている一家、彼らもヒッグス粒子のお陰でこの世に生を
享けたのだな? 人間の怒り、哀しみ、憐れみ、同情・・・みんなヒッグス粒子のお
陰なのだな。ソクラテスも孔子(光子)も、釈迦もイエス・キリストも、ムハマンド
も、石川五右衛門も。


素人と黒人<くろうと>

2012-07-02 21:52:09 | 日記

(一)
 古代ギリシアの哲学者メネデモスの言葉としてブルクハルトが伝えているものがあ
る(『ギリシア文化史』第3巻、新井訳)。
 アテナイには外国人が殺到していたが、「多くの人たちは賢者(ソポイ)としてや
って来る、やがて彼らは哲学者(ピロソポイ)と自称し、次には弁論家(レトレス)
と自称し、ついにはかろうじて素人(イデイオタイ)と自称することになり、識見を
具えるようになればなるほど謙虚になる」。
 面白い言葉だが平凡といえば平凡、他にも聞いたような気もする。大昔の話、しか
も筆者には出典の確認ができていない。
 この素人(イデイオタイ)というのは、おそらくアマチュアということなのだろ 
う。ギリシア語の愚者という意味から生まれたのではないかと推測。
 前々回のブログ「アマチュアとカリスマ」で、アメリカの分子生物学者シャルガフ
が、いい世の中を作るのは専門家ではなくアマチュアだと強調していたことを紹介し
た。私も3・11を引き起こしたのはアマチュアではなくて、その筋の専門家だとい
う見解を婉曲に述べた。
 そしたら、経済評論家・内橋克人氏の「原発の呪縛・日本よ! この国はどこへ行
こうとしているのか」(『毎日』夕刊「特集ワイド」6・29)を見た。少し長くなるが引
く。
 「福島第一原発事故に、政治が素早く反応したのがドイツだった。大震災発生から
2日後の3月13日夜、首相府に政権幹部が集まり・・・対応を協議。翌14日には
『原発維持』からの路線転換をメルケル首相自ら発表した。翌月にはエネルギー政策
転換のため、有識者による倫理委員会を発足させた。委員は、『リスク社会論』で世
界的に知られる社会学者、ウルリッヒ・ベック氏のほか、政治、科学、哲学、宗教界
などから17人。メンバーには一人として、日本で言うところの『原子力専門家』と
称する人はいない。そしてもうひとつ大事なことは、その提言に数字はほとんど含ま
れていない。技術者が数字をもてあそんだり、一般国民にわかりにくい専門的な言葉
で事実を糊塗するようなことは一切ない」
 
 日本では専門家が次々にテレビに出て、嬉しそうに専門用語を使って「大丈夫」「
大丈夫」と安全性に太鼓判を押す。専門語の羅列、「ベント」などその最たるもの。
「ベント」をやれば大丈夫ですよ! 「放射能は体にいいんですよ」とか言って国民
を煙に巻く。何が「ベント」だ! そのうち「タテヤ」「タテヤ」というから何だろ
うと思って手もとの国語中辞典を引いてみたがない。広辞苑を見てそれが「建ててあ
る家、建物」だと知った。「建ててない家」なんてあるのか? その「タテヤ」が爆
発して、テレビを見ている国民は煙に巻かれた。
 ドイツでは専門家を除外してアマチュアだけで政策転換のための「倫理委員会」を
つくった。日本では専門家だけが集まってで原発の再稼働にお墨付きを与えた。
 アジア・大平洋戦争だって、軍人を排して文民だけで御前会議を開いたなら、日本
は戦争に負けなかったであろう・・・戦争はしなかっただろうから。ドイツ国民は今
でもナチスの罪悪を追求している。日本では極東裁判での戦争犯罪者を神として祀っ
ている。

(二)
 以前(2010・11)、今日の物理学者は、宇宙の創造者は神ではなく自分たちだと思っ
ているのではないかと書いた(「宇宙創造には神は要らない」「偉大な哲学者」)。
彼らは、現代においては哲学は死んでおり、この物質世界の運動を物理学が宇宙の始
まりから確実に支配していると思っていると。

 先ほどの、ドイツでつくられた、エネルギー政策転換のための有識者による倫理委
員会は社会学、政治学、科学、哲学、宗教界などから選ばれた。ドイツではまだ哲学
が生きている証拠だ。
 いまや先端科学者や技術者は、神でさえこの地上に原子力エネルギーを作らなかっ
たのにそれを作り、人工授精で生命をつくり、それを人工人間にまで発展させ、果て
には宇宙までつくろうと野心を抱く。それが現代の賢者なのだろう。アテナイでは、
賢者から哲学者へ、弁論家から素人へと降りていく。識見を具えた人が素人になるの
だ。
 古来中国ではまず聖人がおり、次に賢人(賢者)、そして愚者がいる。だが「愚者
のなかにこそ、この世の大多数である愚者の心を知ることができるものがいるのだ。
その意味では、愚者のなかの研鑽を重ねたものこそが、賢人よりも聖に近い。何故な
ら彼らは賢であり同時に愚であることができるが、賢人はただ賢でしかあり得ないか
ら」(手代木公助『夷客有情』より)。
 2012年6月29日夜、首相官邸前の広場に、15万人とも20万人ともいわれ
る民衆が集まった。ほとんどが素人(イデイオタイ)や「愚者」、「アマチュア」だろ
う。だが彼らが賢者にならないと断言することもできない。研鑽を積んで賢人にそし
て聖になる可能性はある。この抗議集会集を評して「より賢い市民をつくる場になる
はずです」と語った人もいる(高千穂大教授五野井郁夫教授、政治学、『サンデー毎
日』7・15)。
 官邸前での抗議集会はこれが13回目だそうだ。だが大手メディアは”黙殺”して
きたが、それを指摘されて、ある全国紙デスクが「現場の取材記者から原稿が入って
こなかった」と弁解し、民放キー局のディレクターは「市民軽視でした・・・市民の
やむにやまれず街頭に出る直接行動の意味を理解できていなかった」と反省したそう
だ(前掲誌)。
 わが国のマスコミはこんな程度のものだということをはからずも告白してくれた。
だけど、こんな言い訳を誰が信じるだろうか。

(三)
 日本の政治家、とくに政権政党の幹部級の議員のなかに、”俺たちは政治のプロだ
から政治のこと、法律のことは任せておけばいいのだ”と有権者の市民の頭越しに言
う人がいる。いちいちメモしていないので具体的に今ここで名を挙げることができな
いが・・・彼らは自己を政治のプロ、専門家と自認し市民を見下している。彼らは日
本国憲法前文の国政は国民の信託によるもので「その権力は国民の代表がこれを行使
し」を錦の御旗みたいに振りかざす。確かに国会議員は「国民の代表」なのだろう。
それを言われると、大方の国民は、「ハハッ」とかしこまる他はない。首相はプロ中
のプロを自認しているのだろう。その政治のプロたちが原子力のプロたちのお墨付き
を高く掲げて「そこ退け、そこ退けおウマが通る」。葵の紋所みたいなものだ。
 だがその紋所を怖れない人々が集まりはじめた。
 世論調査(これもいい加減なものではあるが)を何回やっても消費税の増税反対の
意見が多いのだが、国会では賛成意見の方が絶対的に多数を示す。上記の政治家たち
は言うだろう、君たちは愚者なのだ、俺たちは賢者だ、賢者に任せればいいのだ! 
何回も言うようだが大新聞の社説執筆者もほとんどがそういう傾向だ。新聞のデスク
や放送局のディレクターが上ばっかり見ていれば「ニュース価値を見誤った」とか、
「(街頭に出る)意味を理解できなかった」とか、とぼけたことばかりを言うことに
なる。

 漱石に「素人と黒人<くろうと>」というエッセイ風の評論がある。彼自身の言う
ように、これは一種の芸術観ないし文芸観にすぎない。だがこの短い評論は単なる芸
術論の域を脱している。彼は言う。
「素人は固<もと>より部分的の研究なり観察に欠けている。其代わり大きな輪廓に
対しての第一印象は、此輪廓のなかで金魚のやうにあぶあぶ浮いている黒人<くろう
と>よりは鮮やかに把握出来る。・・・ある芸術全体を一眼(ひとめ)に握る力に於
て、糜爛<びらん>した黒人<くろうと>の眸<ひとみ>よりも慥<たしか>に溌溂
としてゐる。富士山の全体は富士を離れた時のみ判然(はっきり)と眺められるので
ある」。(<  >内は筆者)。
 ただこの後で漱石はこうもつけ加えている。・・・ここでいう黒人は只の黒人を指
し、素人というのは芸術的傾向を帯びた普通の人間を言っているのだ。偉い黒人にな
れば局部と同時に輪郭も頭に入れている筈で、詰まらない素人は局部も論客もめちゃ
くちゃだから、そんな人々を論じているわけではない・・・。「俗にいう通人という
のは黒人の馬鹿なのよりずっと馬鹿なのだから、これも評論の限りではないことを断
って置く」と締めくくった。どんな人たちが漱石のいう「通人」なのか、私見はある
が省略。
 それにしても、漱石にはいつも恐れ入る。

 余談というか蛇足というか・・・
 私は読んでもいないし知りもしなかったが、ずっと以前の『朝日ジャーナル』(19
98・7・1)に小出昭一郎という人の小論が載ったそうだ。佐々木力『学問論』で知っ  
た。そこで小出氏の言葉が紹介されている。以下は孫引きである。
「敢えて東京大学の病を言えと問われるならば、薬害や放射能の危険性を含めた『公
害問題』に取り組んだ人達を、万年助手や講師として冷遇し、すぐれて学際的ともい
えるこれらの問題をまともに扱う人が学内に極端に少ないということを挙げておきた
い・・・東大アカデミズムのもつ問題点なのではなかろうか」。
 私は「小出」と聞いて一瞬「小出裕章」助教のことかと思ったが違った。ついでに
高木仁三郎氏、湯川秀樹氏のことなどを思いだしてしまった。