静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

友愛について

2009-09-17 10:57:07 | 日記

 「友愛」で思い出したことがある。7・8年前の話である。呉智英氏が言っていたこと・・・。学校や書物やマスコミでフランス革命の理念の三つ目を「博愛」と教えているが原語では博愛ではない。フラテルニテ(兄弟のように仲よくする)である。他人同士なのに仲よくすることを日本語では義兄弟という。売春や麻薬に手を染める犯罪集団の閉鎖的で独善的な組織原則「義兄弟」こそ、まさしく民主主義の三理念の一つである。意図的に誤訳されて「博愛」として定着した・・・。これが呉氏の論旨でる。(02・04・01、毎日新聞)。
 松葉祥一氏の意見。ギリシア・ローマ時代以来、友愛は一貫して人間関係のモデルとされてきた。フランス革命以来のスローガン、自由・平等・友愛のうち、友愛と訳されている語(フラテルニテ)も、実は兄弟愛という意味だ。これは当然、女性と血縁でないものを排除している。さらに理想的な友愛・・・兄弟愛は、言語、文化、民族、思想などを異にする者を排除していく。だからこそこの概念は、国民国家という、排除に基づく共同体を支える理念となりえたのである。(「エコノミスト」2002.4.9)。
 手近の辞典(クラウン仏和辞典)でみると、fraternite 兄弟愛、友愛、同胞愛とある。呉氏の、「博愛」として意図的に誤訳されて定着してきた・・とはどういうことなのか。手元の古い教科書数冊を見たが、「友愛」とした教科書はあっても「博愛」はなかった。松葉氏は、友愛は実は兄弟愛だ、と断言する。理由は書いてない.呉氏は義兄弟愛のことで犯罪者集団の愛であるという。
 この当時このような論調がはやった。おそらく一部の講壇で流布されたのであろう。一般的に、このような論調は、フランス革命への批判・非難・否定につながってゆく。呉氏は「ヴァンデの虐殺」を博愛精神のかけらもない義兄弟集団による暴虐であり、この暴虐こそ民主主義の第一歩であったと主張してその裏づけとする。そのような主張は明治初期の自由民権運動への批判、やがては日本国憲法への否定へとつながってゆく。ここにあげた二人とも日本語への翻訳をもとに論理を展開している。相当苦しい展開である。松葉氏の「ギリシア・ローマ以来友愛が一貫して人間関係のモデルとされてきた」という説には一行の説明もないし、説得力はない。
 鳩山氏の「友愛」についてはすでに批判も出ている。大方は雰囲気的な批評である。だがこれからは「学問」を装った批判が現れることも覚悟しなければならない。鳩山氏の「友愛」が何らかの政治思想・哲学に基づくように見えないだけに危うさを伴う。                      (今日はここまで)