静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

個性の開花を

2012-02-19 00:51:21 | 日記

   (一)
 コレージュ・ド・フランスというとフランス最高の学院、いや、世界でももっとも
権威ある学院として知られている。ここの教授は、学会の最高峰をなす、とくに独創
的な業績をなしとげた人が、学歴、学位の如何を問わず任命されるのだそうだ。講座
の数は決まっていて50講座くらいらしい。この学院で講演したことのある宮崎市定
は面白いエピソードを書いている(『中国に学ぶ』中公文庫)。
 「某教授がたった一人の聴講者を前にして二時間にわたって熱弁を振るったが、ち
ょうど時間の終り頃に話の山場にさしかかった。そこで教授は聴講生に向かって、も
う少し時間をのばしてもよいかと尋ねたところ、それに応えて『実は私は車の運転手
でして夕方まで主人の伴待ちをしている所ですから、ご遠慮なくどうぞお続け下さ 
い』と返事した」。
 「故ベリオ教授の講席には定連の中に数人のお婆さんがいた。講義の題目は、マル
コポーロ東来の道筋の考証であって、ちょっと専門から外れた我々にも手の届きかね
るむつかしい話であったが、彼女らは熱心に聴講している。『さすがに文化の国フラ
ンスだ』と感心して友達に話したら、彼の曰く『なに、ここはスチームがよく通って
いるから、ただあたりに来ているのさ」と、こともなげに冷笑していた」。

 この最高の教授陣を擁するコレージュ・ド・フランスは、あらゆる市民に開かれた
無償の公共高等教育機関であり、しかもその講演・授業が公共放送の番組で聴講でき
るということである。
 レジス・ドゥブレはいう「『教育の大きな力が必要なのは、共和制においてであ 
る』と言ったのは、モンテスキューである。文字の読めない人間[無教養な人間]の
共和国というものはありえない。無知な人間は自由ではありえない・・・それに対し
て、たとえば人口の半数が文盲のデモクラシーというものは考えられないことではな
い」(『思想としての<共和国>』)。

 最近の政治家のだらしなさを見て、わが国には優れた指導者がいないと嘆く人が増
えた。宮崎市定は上掲の書でこう言っている。
「偉大な指導者を出すためには、国民に人物を見分ける明察がなければならぬ。現在
のわが国にとっていちばん大切な点は、政治界に限らず、何よりも本物かにせ物かを
見わけることである。一億近い人口の中に立派な人のいないはずはない。それを見出
せないないのは国民の方が悪い。人物を見る目がないためだ」。
 この発言は1967年頃のものらしいが、偉大な指導者などはそもそもわが国に生
まれるのだろうか。
 もし宮崎の言うことが正しいならば、なぜ「人物を見る目」のある国民が生まれな
いのだろうかか。ここでは彼はそこまで追求しているわけではないが、<共和国>の
思想から見れば、それは教育が悪いからということになるだろう。教育をめぐって以
前から議論は行われてきた。数年前には教育基本法改訂に関して激しい賛否両論がた
たかわされた。その議論は今ほとんど見ることができない。教育の専門分野では議論
されているのかも知れないが。

(二)
 折りから東京大学とそれに追随する大学がが「秋入学」を検討し始めたという。そ
れに関し毎日新聞は「東大よ!秋入学を考えている場合か」という特集を組んだ(12
・2・8)。論じているのは佐和隆光(志賀大学長)、尾木直樹(法政大学教授)、飯田
哲也(NPO法人環境エネルギー研究所所長)の三氏。三氏はそれぞれ「秋入学」につ
いて注文をつけているのだが、学力について次のような見解を示している。
 日本留学生が減った理由について「単に実力不足が原因・・・まずは、受験勉強で
は身につかない論理的思考力など、教育水準の底上げが最優先課題」(佐和)。
 「日本の受験勉強が昔ながらの知識詰め込み暗記型なのに、既に中国や韓国、イン
ドは近年の教育改革で、自ら課題を発掘し解決する能力を伸ばす方向に転換してい 
る」(尾木)、「現在は『知識詰め込み型』ですが、こんな試験で育った人間が、世
界の舞台で通用しないのは明白で・・・」(飯田)

 私はかつて「大内力氏の嘆き」でこの問題を論じたことがある(09・11・21)。大内
力は1880年にエッセイを発表し、東大生が如何に学力が欠如し、日本語が弱く、問題
意識が欠如し、学問に無理解かを的確に描いた。1960年頃の東大のゼミで、討論が成
立しないゼミもあったことも紹介した。この問題は、天下の東大でさえもと考える 
か、東大生だからこそと考えるか、両面がある。東大生となれば一流企業や官庁での
就職は保障されたようなものだ、どうして勉強などする必要があるか・・・それが私
の実感である、失礼になるかも知れないが・・・。もちろん全部が全部ではないだろ
う。だが全体の風潮は大内氏が嘆くようなものであったらしい。
 再度大内氏の嘆きを載せよう。「ともかく学生がこうなってしまっては、これから
10年20年先の日本の学問はどうやら絶望的である。ここから創造的な経済学などが生
まれようとはとうてい思えない」。大内氏が嘆いてから30数年、苦肉の策でもとらな
いといけなくなったのだろうか。あまり効果はないと思うが。

(三)
 フランスでは18歳までに哲学を必修することになっているそうだ。そういう国は珍
しいとも聞いた。
 戦前のわが国でも旧制高校では哲学は必修だったし高等師範でもそうだと思う。本
心はどうであれ、少なくとも、うわべだけでも弊衣破帽であった。彼らの対話の内容
ももそれに見合ったものだった。戦後の新制高校ではそれがなくなった。
 戦後の学校教育の基本はアメリカに学んだ。「教育勅語」は廃止され「教育基本 
法」が制定された。このことは日本の民主化に極めて大きな役割を演じた。弊衣破帽
は民主主義では似合わない。
 作家の佐藤愛子が父佐藤紅録に叱られたただ一つの記憶が、何かの拍子に「わー 
い、もうかったあ」と言った時、「もうかったとか得したとか言うもんじゃない!」
と叱られたことであると語っていた(2004・12・20、「毎日」夕刊)。このような家庭は
佐藤家だけのものではなかったろう。これは戦前の、普通の家庭の一般的な風潮だっ
たに違いない。子どもたちはそういう風に教育されてきたのだ。戦後日本人は変わっ
た。敗戦と国土の焼土化が助長した。生きること、食べること、儲けること、得をす
ることが目標になった。焼け跡の闇市が象徴していた。その系列が尾を引き発展し今
日に至る。「哲学では飯は食えない」のだ。今や(戦後派のこの民主主義下では)「
儲けること」は決して恥ではない。

(四)
 1948年、国連総会は「世界人権宣言」を採択した。5か国語で書かれているが、邦
訳はほとんどが英語からである。典型的な訳は岩波文庫『人権宣言集』(高野雄一 
訳)のものである。その26条には教育の目的が述べられている。岩波訳によれば、「
教育は、人格の完全な発展と人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなくてはな
らない」である。六法全書もそうである。
 ピアジェはこの26条に関して解説を書いた。「現在世界における教育を受ける権 
利」である。手もとに2種類のフランス語からの訳がある。一つは竹内良知訳『ワロ
ン・ピアジェ教育論』、もう一つは秋枝茂夫訳『教育の未来』である。そこに上記の
「教育の目的」に関する訳も当然あり、竹内訳は「教育は人間的個性(ペルソナリ 
テ)の完全な開花と基本的な人権および自由に対する尊敬の強化とを目指さなければ
ならない」とある。一方秋枝訳はほとんど岩波訳に等しく、これがわが国での定訳に
なっている。この訳し方については以前「『人格完成』異論・正論・雑論(3)」で
論じたことがあるので再論はしない。訳によって解釈が違ってくるので注意しなけれ
ばいけない。
 
 ピアジェはどのような教育機関でも、次の2種類の教育機能のうちのどちらかを選
ばなければならぬという。1つは個性(ペルソナリテ)の開花、もう1つは先行世代
の集団的価値を保存することができる模範に諸個人を陶冶すること。
 ピアジェは未開社会における若者が大人のクランに入会する聖なる儀式を例に挙 
げ、それが、「個性の完全な開花ではなくて、反対に、個性を社会的画一主義に従属
させ、集団表象を全面的に保存することであることはきわめて明らかである」(竹 
内)としているのである。私はこれを「らしさ」を求める教師の姿にダブらせて見 
る。児童生徒に「子どもらしさ」を求めたり、「男らしさ」「女らしさ」「中学生ら
しさ」「高校生らしさ」を求める。教師の頭の中に「期待される人間像」が描かれて
いる。その人間像にまで陶冶することを目的とする。
 その「らしさ」を、文化省-教育委員会-校長-教員という統制システムで統一し
ようとするのが現今のわが国の教育界のあり方である。生徒に「らしさ」を求める教
師も「教師らしさ」が要求される。現場の教師を「らしさ」で統制することを校長に
求め、校長は職務命令を発する。教師に個性は不必要、個性的な教師は排除する他な
いということになる。
 ピアジェの言うことをもう少し聞いてみよう。
 彼は言う、教育学上の問題は、役所の方針や世論で解決できるものではないと。教
育の技術は医術と同じように特別な「才能」がなければ行えない。医学で必要なのは
解剖学的・生理学的知識だが、教師の場合は心理学的知識である。自発性を重んずる
教育を行おうとすれば種々の問題が生じ、その解決にはそういう知識が必要になる。
だがわが国ではこのピアジェのいうような認識は全くないといってよい。教育学や心
理学の専門書、哲学書を一冊も読んだことのないようなどこかの会社経営者がいきな
り校長になったりする世の中である。学校経営はいまや企業と同一視されている。国
立大学の学長にまでその能力が要求される。そして成果主義と競争主義が学校経営の
基本とされる。ある元中学校長は、現在の日本の学校教育、とりわけ義務教育は、誰
も責任を取らない無責任体制の世界だと思う、と述べているのを見て驚いた(1012・2
・3、「朝日」)。この元校長は、自校の学力テストの成績が区内23校中21くらいであ
ったのが、今やトップクラスになったことを自慢していた。その発言の結論は、首長
が意欲的な教育政策と目標設定を提示して教育長以下の教委事務局を指揮できるよう
にする、であった。
 現今の大新聞に掲載される教育論の多くはこのようなものである。ピアジェにいわ
せれば、教育の責任をとるのは現場で教育に携わる教員でなければならない。教壇に
立つ一人一人の教師が、一人一人の生徒に責任を負っている。「誰も責任を取らな 
い」とはどういうことだ。こういうことを平気で言わせる世論、民主主義の世論とは
何なのか。教壇に立つことを嫌って管理職になろうとする教員も多いと聞く。平の教
員が校長・教頭より偉かった時代もあったのだ。昔のように全国の校長・教頭に授業
を担当させるべきだ。全校生徒の名前を覚えていると自慢する校長がいるが、そんな
ことは教育の本質とは関係ない。クラーク博士が、学生全部の顔と名前を覚えていた
だろうか。
 世界人権宣言が出たのが1948年、ピアジェの上記「現在世界における教育を受ける
権利」はそれを追って同年執筆された。わが国の教育事情はますますその精神から遠
ざかっている。教育基本法の精神に人権宣言やピアジェの理論と乖離した点があると
した拙論を以前投稿したことがあるが、結局わが国では本格的な教育論が国民の間に
展開することはなかったと私は思うのである。                                 


学校の壁

2012-02-04 13:09:20 | 日記

(一)民主主義を疑え
 ある新聞記者の「民主主義を疑え」という短文を読んだ(毎日・12・1・18「発進箱
」)。「ソクラテスを死に追いやったアテネの衆愚政治」というような、随分割り切
った表現だ。ソクラテスの死についてはいろんな説があり、私は未だに死に追いやら
れた本当の理由はわからない。「民主主義は長い間いかがわしい過激思想だった」と
いうのもわからない。地主やブルジョアジーにとっては確かにそうだったろう。その
立場に立てばそうである。世界では、民主主義は「冷戦終結後たかだか20年間主流
になったばかりだ」と書いてある。冷戦以前、冷戦中もソビエトが「民主主義」を看
板にしていたことを忘れているようだ。以前の教科書には民主集中制も民主主義の一
つとしていた。民主集中制を主張する人たちは、自分たちこそ真の民主主義を目指す
社会体制だと主張し、西欧の民主主義はまやかしだと批判していた。欧米の民主主義
を批判するという点では、この新聞記者は一歩も二歩も遅れをとっている。それはと
もかく、最近民主主義に疑問を呈する論者が増えていることは事実だ。
 フランスの思想家レジス・ドゥブレは1989年に『思想としての<共和国』を発
表した。そこで彼は英米式「デモクラシー」を徹底批判した。そしてデモクラシーの
対立概念として「共和国」を置いた。「これはフランス革命で確立されたこの国の政
治思想の基本概念である」と池澤夏樹氏は評価している。
 ドゥブレはフランスもデモクラシー化しており、EUは経済優先という点でデモク
ラシー化していると批判した。そのEUが今、その経済問題で危機に瀕していること
は周知のことだ。
 日本語の「共和」の語源は『史記』による。西周10代の「れい王」が内乱で出奔
して死亡、その子宣王が幼少なので二人の大臣が補佐し、宣王の名を用いず、共和し
て14年間政治を行ったのに由来するという。しかし世界史的に見れば共和制といえ
ばローマである。フランスの政治思想はローマの共和制の伝統を引いているのかもし
れない。

(二)無用な議会?
 「デモクラシー」社会では平等は法のもとの平等を指す。だから経済的平等は考慮
のうちではない。格差は是認されるというより奨励される。社会保障などを厚くする
ことは自由な競争を疎外し、成功のチャンスを奪いかねない。「アメリカンドリーム
」を妨げる。アメリカ合衆国の保守派の主張にそれははっきり見てとれる。オバマ大
統領もその主張と決別することはできない。主観的にも客観的にも。日本も「格差社
会」を目指してきた、とくに小泉改革以降はそうである。貧困も自己責任である。
 ドゥブレは言っている。デモクラシーで重視されるのは教会と証券取引所であり、
共和国で大事にされるのは議会と学校だと。
 いま民主党は衆院比例定数を80議席削減を主張、また、世論の相当多数もそれを
支持しているらしい。他の国を見てもわが国は人口比率で議員数が決して多いとは言
えない、むしろ少ない。だけど、議員数が少ない方がいいというなら、いっそのこと
議員などなくしてしまえばいい・・・突き詰めればそういうことになるだろう。代議
員をなくすれば直接民主制だ。それも結構なことだろう。衆愚政治に陥ると危惧する
向きもあるが、どうせ現在すでに衆愚政治なのだから心配は要らない。今日、日本で
は政治家はほとんど職業化しており、世襲化もすすんでいる。国民の代表という考え
は日増しに薄れている。

(三)学校の壁
 ドゥブレはいう。デモクラシーでは学校が社会に似なければならないが、共和制で
は、社会が学校に似なければならない。デモクラシーでは学校は「社会に対して開か
れて」いることが要求されるし、教育は各人好きなように選ぶことができる「アラカ
ルトな教育」でなければならない。それに比べて共和国では、学校は囲い壁の背後に
あり、固有の規則をもった閉ざされた場所以外の何ものでもないと。
 デモクラシーでは学校は社会に開かれ、労働市場に見合った生産者を養成するが、
共和国の学校は知性豊かな失業者を生み出す。デモクラシーの学校は競争力のある馬
鹿者を育成しているのだという・・・なるほど、国会では二大政党が互いに意地の悪
い批判の応酬をやっている。
 この学校が壁をつくるとという考えは、明治維新からの発想であったと思う。ただ
し、日本の場合には、それを政治権力が掌握してしまった・・・と、樋口陽一氏はい
う。
 思想の自由や信教の自由はは憲法19条や20条で、学問の自由は23条で保障さ
れている。これらの自由は当然高等学校以下の学校でも当てはまらなければならな 
い 。その壁に守られて思想の自由や学問の自由が生かされている。
 君が代や日の丸にどう対するかは、この自由の問題に関わる。起立しない、歌わな
い教師を処分するという発想は共和国にはない。そういう考えはそれはデモクラシー
社会のものでしかない・・・ドゥブレはそう言うだろう。
 ナチスは、ワイマール憲法下において国民の選挙を経て肥大化し、ヒトラーのファ
シズムを生み出した。最近「ハシズム」というのが人気だそうだが、これも市民の多
大な支持を得ている。この主義は、典型的に学校教育に攻撃を加えるのが特徴らし 
い。「デモクラシー」である日本では学校の壁は小さく薄くなり、3・11の大津波
ほどではなくても容易に押し流され、乗り越えられてしまう。
  囲い壁の中では世事に邪魔されない、真理・真実に奉仕する学問が尊重される。
富や金銭、支配や欲望はお呼びでない・・・これが本来の姿であり、学問の規範を教
えることになっている。大平洋戦争中でも、公民の時間にヘーゲルばっかり(多少誇
張があると思うが、習った卒業生はそういう)教えた中学の教師、教科書を横におい
て『愚管抄』を教えた教師の話を前に書いた気がする。こんな話を聞くと、戦中の方
が今日よりも壁に守られていたのだあという気がしないでもない。私の知人はある著
名な高校の教師をしていたが(近年退職)、一週間毎に、教えた内容を校長に報告す
ることになっていたと、しきりに愚痴をこぼしていた。こんなことは戦前の教師、す
くなくとも中等学校の教師には信じられないことだろう。この話はここで打ち切ろ 
う。次の機会に再論する。
 ずっと話題を変えて、民主主義における集団の意思決定の手続きについて愚見を述
べてみようと思う。

(四)集団の意思決定
 直接民主制と間接民主制とでは集団の意思決定方法は根本的に異なる。今日の各国
の憲法にも、直接民主制の手段は若干取り入れられているが日本国憲法のは薄い。ア
ングロサクソン系の国では小選挙区・二大政党制が主体である。二者択一の方法であ
る。いわば○×式である。
 学校教育では選挙制度の特徴を比較検討し分析する。生徒はそれぞれの長短を認識
することができる。だが現実の政治世界ではそんな書生っぽい議論は無視され、党利
党略によって選挙制度は決定されてゆく。塀の内側と外とでは価値観が違ってくる。
原子力発電所に関しては政府の教育方針は「安全安心」だった。その思想は壁の外か
ら学校の中へやってきた。そういうやり方が民主主義社会でのことだということは肝
に銘ずる必要がある。 
 採集や狩猟を主体とする原始共同体社会では、その共同体の意思決定は恐らくその
集団の全員集会においてであった。そういう決定方法はその集団、社会、国家におい
て長らく踏襲されたに違いない。アテナイの民主主義もその延長上にあっただろう。
だがそれが衆愚政治に陥るかどうかは別の問題だ。

(五)会議の運営
 会議を開き何らかの方法で決定する・・・これは何も民主主義社会の特許ではな 
い。古代でも封建社会でもそれなりの会議は存在した。近代民主主義ではそれなりに
洗練された方法が考え出されたということだろう。
 会議の方法が法律で定められているわけではない。長年の経験、慣習によって自ら
形作られてきたといっていい。会議の進め方は、恐らく小学校から高校まで、いろい
ろな場面で教えられていると思う。学校では日常的に多くの会議が開催されている。
生徒の諸会議(生徒総会、各委員会、クラブ、学年、ホームルーム、班等)、PTA
(総会、理事会、委員会、学年など)、教職員(職員会議、学年、委員会、部、科そ
の他)。
 これらの会議が無秩序な運営で開催されれば、学問の自由や思想の自由が保障され
にくくなる。従って教師たちは、少なくとも学校においては諸会議の運営は民主的に
行わなくてはいけないと思うだろう。生徒にはそれを教えなければならない。PTA
にも範を示さなくてはならない。生徒会やホームルームを指導する教師たち自身が会
議の進め方に習熟していなければ生徒指導に差し支える。職員会議で、全職員が議長
を持ち回りで行うことは、議事の運営に慣れ、生徒の指導に役立てるという観点から
も重要なことである。
 PTAの会長・理事長などをまちのボスが占め会議の議長を独占するようならば、
そのPTAは死んでしまう。壁の外のやり方を学校内にもち込んではいけない。文科
省や自治体の長が、学校に政治のやり方をもち込んではいけない。重役会議や閣議の
やり方をもち込んではいけない。
 教師の間には上司・部下の関係はない。すべて同僚である。定年間近の教師も新卒
の教師も対等である。テレビドラマなどをみていると、小中学校などでは教師同士が
互いに「先生」呼ばりをしているが見苦しい。しかし呼び捨てはしていないと思う。
民間会社では上司や先輩が部下や後輩を呼び捨てにするのが普通らしい。これもドラ
マなどでよく見るが、教師が生徒の前で自分のことを「先生は・・・」などという。
滑稽だ。「私は」とか「僕は」とか「俺は」とか言えばいいじゃないか。
 教師が対等ならば、教師と生徒も人格として対等でなければならない。

 民主主義的な会議のためには当然自由で理性的な討議が必用であり、討議自由の原
則は守られなければならない。成員各々の主張のあいだに価値上の優越関係はなく、
それぞれの意見は同価値をもち、平等の権利をもつというのが前提になる。多数決は
便法であり、少数の多数への服従ということになるが、少数意見は尊重されなければ
ならない。少数派の意見を無視することは許されない。少数意見が無視されれば、そ
れは民主主義とはいえない。
 ここで会議運営方法を述べるが、これはその一例に過ぎない。

(六)会議のあり方
 1、成員
 民主主義においてその会議の成員はすべて平等を原則とする。上下関係・支配隷属
関係があれば民主的な討論は困難。
 2、議長
 単数か、複数か。副議長を設けるか、議長団を編成するか、任期はどうするかかな
どはその組織がきめることである。
 議長は議題に関する討論には加わらない。議長は提案者になれない。発言したい議
題のときには議長にならない。あるいはその議題のときだけ副議長に代わってもら 
う。
 3、議事
  ア、提案・・・議事提案者が議題を提起しその内容を説明する。
  イ、質疑応答・・・提案された議題に対しての質疑、それに対する提案者の応 
     答。ここでは意見は言わない。双方要点を要領よく。国会では質問者が延々
      ・と自己の意見を陳述する場面を見ることがあるが、意見は討論の段階で行う
      ・べき。
  ウ、討論・・・成員は挙手などで議長に発言を求め議長の許可を得て発言する。
      ・議長は可能な限り多数に発言させる。できれば全員に。会議の予定時間を考
      ・慮しながら、はじめの発言時間を制限したり、発言のない人に発言を促すの
      ・もいい。
      ・ 参加者が身分制度や隷属関係、あるいは上下関係にある場合は当然民主主
      ・義的会議は望めない。
     ・ 討論とは文字通り論をたたかわすことである。なんら意見も言わず、討論
      ・も行わず、たんに自分の活動の報告だけに終わる会議もある。それで民主主
      ・義の会議といえるのだろうか。
      ・ また、議長の発言許可も得ず勝手に喋りまくり、しかも複数の人がそれぞ
      ・れに大声で喋るという「会議」を見たことがある。これでは民主主義は生ま
      ・れない。                                                            
  エ、修正提案・・・上記の討論を受けて修正案の提案が行われる。提案理由の説
   ・明、それに対する質疑応答がなされる。
  オ、修正案採決・・・まず、修正案の採決をおこなう。複数の修正案があるばあ
   ・い、原案から遠い順に採決する。修正案が可決された場合、その修正部分を
   ・原案に取り入れる。                                                  
  カ、原案採決・・・修正案を取り入れた原案を採決する。一般的には、多数決が
    ・採用される。議長は採決の結果を発表し、会議は終了する。
      ・
 議事運営など、詰まらないことを書いてしまった。学校の囲いの壁を越えてやって
くる波浪を防ぐ一つの手段としての民主主義的な会議のあり方を記しておこうと思っ
ただけである。