静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

『朝鮮植民者』を読む

2010-08-29 16:03:14 | 日記

 (1)
 村松武司は自分を三代目の朝鮮植民者だといっている。父方の祖父と母方の祖父はそれぞれ一代目の植民者である。この母方の祖父・浦尾文蔵は敗戦後故国に帰ってから村松武司に植民者時代のことを細かく語った。それを書にしたのが『朝鮮植民者―ある明治人の生涯』である(三省堂ブックス、1972年)。

 浦尾文蔵は1892(明治5)年、山口県壇ノ浦生まれ。村松の言うには「名もなき、とるに足らぬ男の一生である。一般に想像される植民者というイメージ、鞭とサーベルを持ち、残忍なものを内にかくし、開拓精神に燃えた男性像からは、およそ遠い存在」であった。

 庄屋の家柄だったが、文蔵の祖父の頃から家産が傾き始め、19歳のとき父が死亡。朝鮮の京城(ソウル)にいた姉を頼って渡航、内地ではうだつの上がらなかった文蔵もこの地では魚が水を得たように生き生きと活動を始めた。日本とは違った土壌がそれを可能にさせたのだと村松はいう。失敗も成功もあった。失敗して日本に舞い戻り、東京でおでんの屋台を出したこともある。だが再び朝鮮に戻り、苦労の末、太平洋戦争末期にはそれなりの資産と地位を築いた。

 (2)
 『朝鮮植民者』のはじめの方に、朝鮮の風俗・習慣についての文蔵の観察がある。
 科学(カハク)といわれる登用試験、論文に金が添えていないと通用しない。旅で、出立の前に一時間・二時間かけて化粧する男性。婦人は、男に顔を見られないようカツギ(チャンウィ=長衣)を着る、ようやく目と鼻が見えるほどの。官吏は階級に応じて耳の上に相応するボタンをつける。笠(冠)にも色々ある。冠の紐にも上下ある。最上になると琥珀の玉をつないだ長さ四尺(1メートル20センチくらい)、玉の数は何百個にもなる・・・。
 高級官吏、たとえば大監が出勤するときは、籠かき4人、助手4人、従者4・5人、印鑑持ち一人、タバコとキセル持ちが一人、先触れが4人、総勢20人ほどが大騒ぎする。先触れが下へ下へと大声で叫ぶ・・・。宮廷内の内侍、みな令監で位が高い。常に赤色の装束を着ていて睾丸のない人ばかりである・・・
 なるほど、なるほど、韓流ドラマがいっそう面白くなる。

 日清・日露の戦争の間の期間、文蔵はしばしば旅行した。日程が狂って金を使い果たしたときは、富豪または両班の家に行って事情を話すと喜んで何日でも泊めてくれご馳走してくれる。携行した薬をお礼の代わりに出すと、むしろむこうは赤面して薬の代価を払わしてくれという。
 見ず知らずの人にもそのように接するのが当時の朝鮮の人たちの矜持だったのだ。日本にもかつてこのような時代があったのだろう。

 当時、朝鮮と中国の間は自由に行き来していた。文蔵は一時中国の安東でカフェを経営していたが、安東は鴨緑江をはさんで新義州の対岸の町である。日帰りで通勤できる。またその周辺で材木取引を行ったりもした。文蔵は中国人のこともたくさん語っている。その断片をのせよう。

 「私たちは鴨緑江の上流に木材の買い付けに行った。その夜は中国人の木材問屋に一泊、米と缶詰を差し出すと、笑って受け取らない。お食事には不自由はかけませんという。一行4人に10人分くらいのご馳走と酒が出た。翌日の朝食もそうだった。帰途につくとき礼として20円を包んで差し出すと、真っ赤になって拒む。仲買人も、それはやらないのが礼ですという。ご馳走になりっぱなしで別れた。
 ちょうどこの家の前に組み立て式の大きな筏が流れてきた。筏の上に家を作り一家が住んでいる。ネギ畑もある。それに便乗させてもらう。文蔵は礼に持参の米と缶詰を差し出したが、筏主は幾度も合掌して喜んで言うには「私は物質を得んがために便船を諾したのではありません。ただ河の上の親友を得るために承諾したのです。このような商品を頂いては面目ありません」と。


 少し長くなるが文蔵の語り口を聞こう。 
 「またしても、このような言葉を聞いた。私たちは米を食い、彼らは高粱を食す、食せざるを得ない彼らである。にもかかわらず、彼らの友誼は、わたしの謝意をはるかに越えるものがあった。私と彼らのいだのちがいは、おそらく何もないのであろう。侵略さえなければ、四海は天国の如きもの、人情に国境なく、何のへだたりがどうして国境を成す力となろうか」
 「わたしは、こうして鴨緑江を幾度となく越え、川に沿うて流れてみた。ちょうど、日本紀州の筏夫が、国策のなかで、悲壮なる歌を歌いつつ筏を流したのと似ている。だが中国人の材木商も、筏師も、わたしのかたわらにいて、わたしとちがう世界にいた。われらは植民政策のなかで、彼らは大自然の一部として、生きていた。わたしは彼らと交わりたいと願った。にもかかわらず越えることのできない、わたしと彼らのちがいが本質的にあったようである」。
 
 「彼らは大自然の一部として生きていた」、なんとすばらしい言葉ではないか。


 (3)
 浦尾文蔵は日露戦争後の朝鮮についてこのように語っている。
 日本の豪商は朝鮮八道の経営に乗り出した。幾千万の商品が朝鮮に充満し、低いオンドルの家並みは鉄筋コンクリートの洋館建てに変わり、街を行く日本人は和服から洋服になり、伊藤博文統監が威風堂々と四隅を払うようになって、身分の低い文官の人びとまでが金筋の帽子をいただき、腰間の帯剣は、衣冠長袖・長キセルの朝鮮人を圧倒し始めた。
 中国の上海方面からの輸入は途絶、中国商人は全員が朝鮮から引き揚げ、朝鮮の財政は衰弱するばかり。日本は内地の保険会社その他が遊金を朝鮮の事業投資に回し、東洋拓殖は農地を買収しはじめる。本土の農民も父祖の水田を売って朝鮮の水田を購入すると、一夜で20倍の水田持ちになった。その投資額は想像も及ばぬくらいの巨額になった。
 
 朝鮮人の中で、自国の土地が全部日本人のものになるといって嘆くものがいる。当然だろう。しかし、悲観することはない、日本人が土地を日本に持っていくことはできないと、楽観的に言う人もいる。文蔵は言う、当時としては悲観論者の言は真実。楽観論者の言は、今(日本の敗戦)こそ真実と。そして、そのことを当時の私たち日本人は、いったいどこまで理解しえたであろうかと問う。

 
 (4)
 先にも述べたが、中国人も朝鮮人も粗食である。高粱に名だけの副食ということが多い。日本人のようにカロリーがどうのこうのと複雑なことはいわない。好んで貧しいものを食するのではない。栄養のある食物を食うことができぬからだ。それでもなお、贅沢をしている日本人より体格が勝るのはどういうことだろうか、と文蔵は不思議がる。朝鮮・中国は日本の支配下にあるが、亡国にあらず・・・このように彼はいう。

 中国人で口角アワを飛ばして争う現場を見受けぬ。それだけでなく、悠揚たる態度を包容して神経過敏ではない。家の周囲がいかに不潔をきわめようと、家の中がいかに暗くうっとうしくとも、はなはだしきに至っては、一食抜いて腹が空いていても、それを言語にあらわさぬ。家に妻なくとも、悠然としている苦力を見ると、とうてい日本人の真似のできることではないと思う。すべてを自然に任せて、求めんとして焦らず、古来の中国文明そのままがひとりの文盲の民衆の中に生きている・・・。

 文蔵の思索は深く沈潜してゆく。


 (5)
 村松武司が京城中学三年(昭和15年)のとき、級友のなかに金田、李家、張本という聞きなれない日本名が突然生まれた。担任の山口正之(『朝鮮西教史』の著者)が「今日からこれら創氏改名した学友たちを旧姓で呼んではならない。この人々は、親兄弟をあげて、名実ともに日本人である・・・」と宣言した。彼らは恥ずかしがって頭を垂れていた・・・。だが、悪意があったわけではないが、日本人生徒はひそかに笑っていた。

 そういうなかで、Sという級友が「夏山」という素敵な名前に変わった。村松はその名に羨望を覚えた。その夏山は、徴兵令が布かれると、まっすぐに「北支」の前線部隊へ入った。続いて村松も入営した。
 夏山は朝鮮人である。だが日本兵として中国大陸への侵略戦争に加担したことになった。不本意だったかもしれないが。軍歌「討匪行」にあてはめて考えると、本来「匪」の側にあったはずの夏山は、「匪」を討伐する側に立ったことになる。だが村松は、日本軍に不意打ちを食らって倒れた「匪」の側に自分を置くべきだと考えるようになる。かれは朝鮮を故郷と思う第三世代の朝鮮植民者であった。

 日本敗戦の翌日、8月16日、村松は、朝鮮人が歓声をあげながら、日章旗を改造した大極旗を掲げているのを見て深い感動に包まれる。
 村松はそのとき電波兵器士官学校の学生であった。19日、生徒を校庭に集めて隊長は「朝鮮人は帰すが、郷里が日本にない者(植民者のこと)は、朝鮮人と共に復員してよい。希望者はいるか」と聞いた。村松は隊列を離れて一歩前に出た。「帰りたいか? 村松候補生」「はい」。彼は戦友と別れ、軍装を捨て、「京城」行きの汽車に乗った。彼はこう書いている。「わたしは、やがて日本にかえるだろう。しかしわたしの心の中に、この日、死ぬものと、生まれるものが、ふたつあった。ひとつは日本、ひとつは朝鮮。わたしに永遠に解けない言葉が、ここで与えられる。
 「父の国と母の国」。

 村松の祖父浦尾文蔵は長年の苦労の末、この地で一定の産と地位を得た。そこで骨を埋めるつもりだった。村松武司もここが郷里だと思っていた。だが、それは甘い考えだった。どうして駄目になったか、複雑な事情を他人が推し量ることは難しい。米軍の占領下にあったことも原因の一つだろう。日本人の植民者は一斉に引き揚げることになる。望むと望まざるにかかわらず・・・。

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 『朝鮮植民者』は絶版になっているが、村松武司『海のタリョン』に収録されている。上記拙文は、この書の書評でも、内容紹介でもない。とくに印象に残った箇所をあげ、筆者の感想を少し加えたにすぎない。今日8月29日は「日韓併合」100年にあたる。また、昨日8月28日は村松武司の命日であった。
 


「わたしの『討匪行』」を読む

2010-08-24 17:43:29 | 日記

 
 (1)
 きょうの主題は、村松武司の『海のタリョン』のなかの評論「わたしの『討匪行』」についてであるが、その前に「敵は幾万」について少し書き加える。

 戦前の小学校(国民学校)の運動会、騎馬戦で敵味方が隊形を組んで向き合う。そこで双方が示威的に歌うのが「敵は幾万」である。敵は幾万ありとても/すべて烏合の勢なるぞ/烏合の勢にあらずとも/味方に正しき道理あり/邪はそれ正に勝がたく/直は曲にぞ勝栗の・・・と続くあれである。

 その一節が歌い終わると一斉に突撃ということになる。小学生といえども歌の大意はわかる。なんであれ、自分たちが正であり相手側は邪なのである。騎馬戦に正も邪もヘッタクレもあったものではないが、そうやって歌う。小学校の先生もなかなかやるものだ。子どもたちは正と邪が相対的なものだということを学ぶ。なぜ日本が正で「支那」が邪なのか、その逆でもいいのではないか?


 (2)
 本題の「わたしの『討匪行』」に移ろう。といっても、ほとんど村松氏の言っていることをなぞるだけだが。
 1932年1月「上海事件」勃発、村松武司氏小学校5年のときである。彼は当時京城(ソウル)にいたが、師団司令部近くの三角地という町のレコード屋さんがレコードを持ってきた。片面が「討匪行」、片面が「亜細亜行進曲」、藤原義江が歌っていた。「討匪行」の作詞は八木沼丈夫、作曲藤原義江。第一五節まである。村松氏も全部は載せていない。第一節はつぎのとおり。
 
  どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ
  三日二夜を食もなく
  雨降りしぶく鉄兜(かぶと)
  雨降りしぶく鉄兜(かぶと)

 第二節以降も悲しい話が続く。愛馬も倒れ飢えと寒さが迫り「草生う屍(かばね)」も覚悟する。そこへ友軍機がやってきて食料品などを落としてゆく。「溢るるものは涙のみ」・・・。
 村松氏が次に引いているのが第八節。

  今日山峡(やまかい)の朝ぼらけ
  細く微(かす)けく立つ煙
  賊馬は草を食(は)むが見ゆ
  賊馬は草を食(は)むが見ゆ   (八)

 このあとの村松氏の文章を引く。

 「見よ、前方の敵がまだ眠っている。接近せよ。撃て。不意にこだまする銃声、野辺の草が血に染まる。『賊』は馬もろとも倒れ伏し、山の家に焔があがる。かくて・・・
 
  敵にはあれど遺骸(なきがら)に
  花を手向(たむけ)けて懇(ねんご)ろに
  興安嶺よいざさらば
  興安嶺よいざさらば   (一四)

 酒のせいだ、わたしは(八)(一四)の右の二節を歌うとき声がうるむ・・・」



 (3)
 村松氏は1944年秋、京城で召集され、朝鮮・満州・ソ連国境で従軍した。もう戦争末期である。氏は、この歌は自分の軍隊経験のなかでは一度も歌われることはなかったと語っている。
 「匪」とは何か、村松氏はこう考える。「満州事変」で関東軍は奉天を占領し、さらに満鉄沿線の要地を攻撃・占領。その前面に張学良の東北軍であり、武装した農民が現れたが、日本軍に圧迫され、次第に奥地へ荒野へと拡散してゆき、農と兵が混合しつつゲリラ戦を展開するようになった。氏はいう「わたしのみた中国民衆は、じつはストレートに『討匪行』の『匪』となった。それを匪に成さしめたのは、関東軍であった」

 氏は、小学一年生のとき、母親、兄妹とともに満州の入り口、安東(あんとう)の祖父を訪ねた。その祖父は豪勢なカフェーを営んでいた。そこで見た中国民衆の姿を氏は語っている。
 「民衆は半裸であった。服を着ている者は、夏であったが袖の長い青い綿服を着ており、ひとにぎりの日本人植民者だけ、白い服を着ていた。
 中国民衆は、荷を担ぎ、馬車を御した。黙々とアカシアの並木の下を歩いていた・・・」

 氏は、その満州で叔父の浦尾正行という人に会っている。当時は珍しいフリーのカメラマンで満州事変当初から従軍カメラマンになった。戦争写真をたくさん撮ったが、次第に「不許可」写真ばかりになってしまった。村松氏の父の京城の家は安全ということで、その叔父が送ってきた不許可写真が箪笥の引き出しいっぱいになるほどだった。どのような写真であったか、氏の言葉をそのまま写そう。

 「言葉でそれらを言いつくすことはできない。写真に撮られた中国人は、すべて、兵であるか、農民であるか、区別のつかない人たちであった。不規則に並べられてこちらを向いた顔。何コマかの続き物のように、彼らが跪かされ、頭をさしだす。その背後で軍刀をふりかざす日本兵。家畜のように転がされた死体。首の切断面。
 霜柱、また残雪の大地のうえにそれぞれ死体が転がり、不自然な形に凝固していた。逮捕から処刑までの事件の移行を、浦尾正行は、それぞれ何枚かずつ記録していった。まるで彼自身、死体を求めて荒野をさまよう野犬のようであった」

 敗戦で日本に引揚げるとき手荷物しか持てず、これらの写真などは行李に詰め後便に託したが、それらは朝鮮人の自警団に押収され行方不明だという。



 (4)
 先の「討匪行」に戻ろう。村松氏は(八)(一四)の二つの節は「いまもわたしの胸を圧する」という。この詩の全体のドラマに感動しながらも氏の胸を押さえつけるのは(八)から(一四)への飛躍である。その理由を筆者は上記(3)で要約した積りである。 
 氏は故郷の「京城」とか、「故郷」の朝鮮とかいう。氏は、植民者の家族の一員であり、自身も植民者であるという。氏はそういって生涯自分自身を責めた。

 村松氏はこの論評文の最後の方でこう書いている。

 「朝鮮においては、日本人で乞食はいなかった。馬車を引く人も荷担人もいなかった。この当然で奇妙な現象こそ、やがて後に敗戦を境に引揚げを迎えるにあたって、日本人の総引揚げという奇妙な現象と重なり、符合してくるのである。
 村松一族は、敗戦後朝鮮に残りそこで生を全うしたいと考えたらしい。しかしそれはかなわなかった。そのあたりの事情は氏の「朝鮮植民者」に記述されている。
 氏はいう「われわれのなかで、植民主義者はいた。植民者もいた。しかし『植民地人』だけを生むことができなかった。だからこそ、いっせいに植民地を捨てることができたともいえる。
 このような感慨は、経験していない私たちには、なかなかわかるものではない。氏は問う。
 「とすれば、われわれ日本人とは、いったいどのような国民であり、民族なのか?」
 
 さらにこのように問う。かつて歌った「討匪行」が、誰を討つための歌であったのか?その「敵」が存在していた民衆の海というものが、実は過去において私(村松氏)を取り囲んでいた朝鮮人、被植民者であったことを認識するまでの距離は遠い。青年時代、日本兵として中国の間島省を目の前に収める距離にいてさえ、「討匪行」が朝鮮支配強化の歌であったことを知ることもできなかったと、自分を責める。

 最後の一節である。 
 「あの『敵にはあれど・・・』の匪の遺骸に、わたしが合体を成就するまでは、長い長い行軍がある」

 
 



 
 

 


邪は正に勝ちがたし

2010-08-20 11:53:59 | 日記
 (1)
 諸橋轍次『中国人の知恵』を読んでいたらこんな話があった。『左伝』にある話なので広く知られてはいる。
 
 晋の文公には子犯(しはん)という賢臣がいた。楚と戦ったとき、相手楚軍に疲れた様子がみえたが、文公は軍隊の一時後退を命じた。軍部の連中が承知しない。そこで子犯が言った。
 「師は直を壮と為し、曲を老と為す」(戦争は、兵がこの戦いは正しいと信ずるときは強いが、正しくないと信ずるときは弱い)<老いる=疲れ果てる>。

 諸橋氏はこのように書いている。
 「これはまことに名言です。すべて戦争するばあい、正は邪に勝つ。すべての国民に正義の軍であるという自信があればこそ、その軍隊は強いが、これに反して、すべての国民が、こんどの戦いはなんのために戦うのかたからない、あるいは、ある人びとの野心からやっているのかもしれないと考えるようであれば、その軍隊はきっと負けるにきまっている。つまり、名分の立たない軍隊は必ず敗れるというのです」。

 「敵は幾万」という歌がある。山田美妙斉作詞・小山作之助作曲。明治24年「国民唱歌集」に入れられた。隣国清を仮想敵国として作られたという。明治27年、日清戦争は始まった。日本は大勝し、大方の国民は万歳、万歳と感激し、感涙にむせんだ人もいる。
 またアジア・太平洋戦争中、大本営陸軍部の戦況発表のテーマ音楽に使われた。3番まであるが、1番の最初の半分はこうだ。

 敵は幾万ありとても 
 すべて烏合の勢なるぞ
 烏合の勢にあらずとも
 味方に正しき道理あり
 邪はそれ正に勝ちがたく
 直は曲にぞ勝栗の
 (以下略)

 この作詞者が『左伝』の子犯の言をもとに作詞したことは明らかである。子犯の場合、軍部の暴走を防ぐための発言だった。ところがわが国では侵略戦争の旗印になり、軍はますます狂気の道に走り出す。上海や南京占領などのたびに大本営はこの歌を流しながら戦勝を発表し、国民の多くが、昼は旗行列、夜は提灯行列で「日本勝った、支那負けた」と熱狂した。実に愚かなことである。
 
 戦後65年、当時中国大陸に侵略した日本軍兵士たちももう80歳代後半から90歳代、あるいはそれ以上になっている。いままで口をつぐんでいた元日本兵のなかで、初めて重い口を開く人も増えてきたという。日本軍にとって正義の戦争だったのか。なぜ三光作戦(奪いつくせ、焼きつくせ、殺しつくせ)などという残虐無道を行ったのか。日本軍にどのような正しき道理があったのか。中国や中国人はなぜ邪なのか。


 (2)
 ジャン・ジャック・ルソーは、戦争は人と人との関係でなくて、国家と国家の関係であると主張し、それは、それぞれの国が敵とすることができるのは他の国家だけであり、人々を敵とすることはできないからだと論じている。さらにいう。
 「戦争の目的は敵国の撃破であるから、その防衛者が武器を手にしている限り、これを殺す権利がある。しかし武器を捨てて降伏するや否や、敵または敵の道具であることをやめたのであり、ふたたび単なる人間に帰ったのであるから、もはやその生命をうばう権利はない」(『社会契約論』桑原・前川訳)。
 
 ルソーはこれをローマ人の戦争観を語る中で論じている。彼は、ローマ人は,自分たちの法を犯すことがもっとも稀であった人民であると述べている。私たちはこのルソーの見解をみるにつれ、私たちの時代は何と彼の時代と異なった戦争観に陥っているのだろうと思わざるを得ない。もっとも、ローマ時代でも戦争観はそれぞれ違っていた。キケロとカエサルの戦争観の違いにみるように。そせぞれの立場によっても違う。
 
 スパルタクスの反乱は、スパルタクスたちから見れば奴隷の束縛から逃れて自由の天地を目指す正義の戦争だった。今日の研究者からもそう評価されている。ならばその反乱の鎮圧に向かったローマ軍にとっては不正義の戦争ということになる。しかし、ローマ軍の兵士たちは、ローマの国を滅ぼそうとしている反乱集団を殲滅して国家を守る正義の戦いだと考えていたのではないだろうか。どちらの側も「味方に正しき道理あり」「邪はそれ正に勝ちがたく」と思っていた可能性が強い。

 市民法にせよ万民法にせよローマ法は自然法にもとずくものと考えられていた。その万民法(jus gentium)では、市民が敵国の捕虜となったときは敵国の奴隷であるとされていたそうだ。確実なことは知らない。しかし敗者を殺す権利があるとは認めていないと思う。
 何しろ、古代の戦争は無残であった。都市が占領されると市民は殺されるか奴隷として売られるのが普通であった。ローマの都市が占領されればローマ人がそのような憂き目をみた。ローマ法では、何らかの理由で敵国から帰国できたローマ人たちは、もとの市民生活に戻ることができた。いわゆる「帰国権」である。

 先の「敵は幾万」の第三番にこうある。

 進みて死ぬる身の誉れ
 瓦となりて残るより
 玉となりつつ砕けよや
 畳の上にて死ぬことは
 武士の為すべき道ならず
 骸(むくろ)を馬蹄にかけられつ
 身を野晒(のざら)しになしてこそ
 世に武士(もののふ)の義といわめ
 (以下略)

 帝国軍人・兵士は捕虜になることを許されなかった。それどころか、一般市民だって投降は許されなかった。沖縄戦を見ればわかる。太平洋戦争末期、ラバウルやアッツ島、サイパン島などでの玉砕発表のときにもこの曲は流れたのだろう。そして一億玉砕へと突き進むことが強要される。


 (3)
 「人間にとって、たいていの災いは人間からくる」(homini plurima ex homine sunt mala)というのはプリニウスの言葉として知られている。二千年も前の言葉だ。
 確かに天災はある。しかし搾取や戦争は人災である。前世紀は地球規模の搾取・収奪、そして戦争の世紀であった。それに自然破壊が追い討ちをかける。それは21世紀に引き継がれる。
 原爆投下は米兵を守るためだった」として今でも合法化される。武装していない民衆を攻撃することは許されないとするルソーの思想など存在する余地はない。アメリカ独立宣言の精神はルソーやロックたちの自然法思想にあったというのに。

 キケロは、人間は自然によって正しい理性が与えられており、正しい理性である法律も与えられている。正義はすべてに人間に尊重されるだろうと述べた。
 帝国陸海軍にとって正義とは天皇のために命を捧げることであった。身を野ざらしにしてこそ義があったのである。それが武士道だというのである。
 
 米軍にとってそれはデモクラシーを護ることであった。だからベトナムで枯葉作戦を展開した。ようやくイラクから撤兵を始めたようだがアフガンではさらに派兵を増強している。遠く離れた机上でコンピューターを操って無人爆撃機をとばし、無差別に砲弾を発射している。アメリカの将兵は、自分たちは正義のために戦っているのだと信じているのだろう。
 正義の名においてこのような大量殺戮が行われることを、キケロやルソーは想像もつかなかっただろう。




 

人は人のため(つづき)

2010-08-13 09:46:24 | 日記
 4、ローマ側の人
 たまたまネット上(ブログ?)で、安井俊夫という方が中学校でスパルタクスを題材にした授業を行って話題になったこと、歴史教育協議会内でも論争になったことなどを知った。もう相当古い話ではあるが。それにしても、うかつというべきか、当然というべきか、一般市民にはこういうことを知る機会は多くない。この授業は、土井正興氏の『スパルタクスの蜂起』と『古代奴隷制』の内容をベースに構成されていたという。

 どのように授業が展開し、どのような議論がたたかわされたか、詳しいことはわからないし、分かったとしてもここで論ずるつもりはない。ただ一つ気になったのは、安井先生の授業を受けたという卒業生の発言をも含めて、「ローマ側」「奴隷側」という言い方である。
 土井氏の国家観はいわゆる階級国家論だと思うが、それによれば、国家は支配する者と支配されるものとからなっている。だからどちらが欠けても国家は成り立たない。奴隷が被支配階級ならば、その奴隷がいなければ国家は存在しなくなる。つまり奴隷も国家の一構成要素であり、双方あいまってローマ国家を形成しているのではないか?

 スパルタクスの一団はアルプスを越えてガリアに逃れようとした。土井氏はそれを、奴隷制社会以前の原始共同体的生活への復帰を考えるよりほかはなく、そのための主体的闘争を激しく行ったのであり、そこに重要な意味があるという。「ローマという奴隷制的帝国の支配と抑圧にあえぐ奴隷大衆が、奴隷を物とみ、こうした搾取を当然とするローマの支配層にたいする、人間的な抗議とそれから解放されるぎりぎりの方法として提起されていた」。
 土井氏は「原始共同体」→「奴隷制」→「封建制」→「資本主義」→「共産主義」という発展段階説を頭に描きながらそう考えたのだろう。

 ローマの支配層としてしばしば土井氏の批判にさらされているキケロは、また偽善者だと言われたりする。彼は守旧派であり共和制の擁護者でありながら政治力に欠けており、時代の変化に対応できなかった人物だと一般に評価されている。
 それに比べてカエサルは進歩的で改革派とされ人気がある。かれは、その20年前にスパルタクスが復帰を目指したそのガリアを征服して英雄になった。

 キケロが擁護しようとしたローマ共和制は、古代の共同体という性格を持っていたと私は考える。いわゆる「原始共同体」ではない。ローマ共同体の呼び名は「res publica」、つまり「公のこと」であり「共同体」の意もある。
 キケロは政治的には敗北したが、共和主義者、人道主義者としての評価を長く持ち続けてきた。主に西欧社会において。


 5、キケロの自然法思想
 ギリシアに起源をもつ自然法思想をまとめあげ後世に伝える役割を演じたのがキケロである。この自然法思想は、人類は一つの普遍的な共同体または世界国家をなすもので法はその表現であり、それは永久不変のものであると考える。

 彼の自然法思想の基本は彼の『国家について』や『法について』に示されている。

 人間は正義のために(justitiam)生まれた。正義(jus)は、人間の考えによるのではなく「自然」に基づくものだ。それは、人間同士の交わりや結びつきを考えてみればすぐ分かる。
 私たち人間は、みんな互いに似ており、こんなに似ているものは外にはない。悪い習慣や誤った考えが人を惑わさない限り、すべての人が似ている。
 だから、人間をどのように定義するにしても、ただ一つの定義が万人に当てはまる。それは、人間はみな同じだということ、人間の種族に(in genere)異なるところはないということだ」(『法について』)。

 正義(jus)はすべての人に尊ばれるだろう。なぜなら、人びとは「自然」から理性を与えられているのだから、正しい理性も与えられている。法(lex)というものは、正しい理性が命令したり禁止したりするときに適用されるものである。
 したがって、人びとに法(lex)が与えられているならば正義(jus)も与えられているわけである。すべての人には理性が与えられている、したがってすべての人に正義(jus)が与えられているのである(同書)。

  もう少し続けよう。

 真の法(lex)は「自然」と調和した正しい理性(ratio)である。それはすべての人に当てはまり、永久不変である。それは人びとを義務に従わせたり、悪行を禁じたりする。
 この法(lex)を改変するのは罪悪であり、どの部分をも無効にすることは許されない。そしてその全部を廃止するなどということは不可能である。
 われわれは、元老院によっても民会によってもこの条件から(hac lege)解放されることは出来ないし、その解説を他者に求める必要もない。この法はアテナイとローマで異なるものでもはなく、現在・未来、永遠不変の存在である。(『国家について』)。

 以上は筆者の我流のまとめなので、おそらく誤認があるだろう。仕方ない。ここでは「jus」を「正義」と、「lex」を法と、「hac lege」を「この条件から」と訳した。正統な訳ではないかもしれない。また、「自然」とカッコの中に入れたのは、万物の創造者としての自然という意味である。


 6、人間主義と普遍主義
 キケロの最後の著作が『義務について』である。その要点は前回のブログの冒頭に掲げた。彼は義務については大いに語った。上記の文でも「義務に従わせ」とは出てくるが権利について触れることはない。古代においては権利思想はなかったといわれる所以である。
 ローマの自然法思想を端的にまとめてみれば次のようであろうか。

 人はみな平等で、誰にでも尊敬の念をもたなくてはいけないし、正義を実現させるのが人間の義務である。法はそのために存在する。 

 人間主義(ヒューマニズム)、普遍主義にもとづく古代ローマの自然法思想は、ヨーロッパの中世、近世・近代を通じて深い影響を与え続けたが、その中味はその時代によって大きな変動をみた。その変動の特徴的なことは、その後の自然法思想において普遍性や世界性を欠いてきたということである。
 詳しくは論じられないが、たとえば、なぜ異端者とか魔女という存在がつくりあげられて迫害されなければならなかったのか。

 ヘールは「ヨーロッパは奴隷の国である」という。少なくとも十世紀以来、西ヨーロッパは商品として奴隷を東方から輸入した。ヴェネチアは重要な輸入市場だった。奴隷にされた捕虜や異教徒は、キリスト教貴族の手で奴隷として売られた。トマス・アクィナスなどの指導的神学者は、アリストテレスを引き合いに出しながら、奴隷制を経済的に不可欠であり道徳上許されると弁護した。クロムウェルさえアイルランドの少年少女をジャマイカに売り飛ばした。近代人権思想の樹立者であったジョン・ロック自身、植民地に黒人奴隷を供給する王立アフリカ会社(1663年)の株主であった。アメリカ建国の父でさえ良心の痛みを感じなかった・・・(フリードリヒ・ヘール『われらのヨーロッパ』杉浦訳、参照)。

 もう一つ、モンテスキューの傑作な発言を紹介しよう・・・といっても、これも有名な話である。「これらの連中が人間であると想像することは不可能である。なぜなら、もしわれわれが彼らを人間と考えるならば、人々はわれわれのことをキリスト教徒ではないと考え出すであろうから」(『法の精神』、中央公論社『世界の名著』)。
 その他、ヘーゲルがこう言ったとか、だれそれがこう書いているとかいろいろある。こういう歴史的著名人の発言を集めることも面白いが、もう、このへんで止めよう。

人は人のため

2010-08-07 19:02:49 | 日記

    1、『義務について』

  「人は人のために生まれて、人はひとのため、たがいに助けあうのが天意であるとすれば、当然、われわれは天意にしたがって、公共の利益を中心として、たがいに義務を果しあい、たがいに与え、たがいに受け、たがいにその技術により、努力により、能力によって、人と人との社会的結合をさらに高めなければならないではないか」(キケロ『義務について』泉井久之助訳)。

 キケロが『義務について』を執筆したのは、カエサルが暗殺された年(前44年)だった。彼はローマの外交についてこう述べている。

 「古人は、自分が武力をもって征服した国家や民族を信義をもって取り扱い、祖先からの風習に従って、みずからその保護者となったほど、かつてのローマでは正義があつく守られていた」「かつてローマ国民の命令が不法によらずに恩恵によって行われている間、戦争は単に盟邦のためかローマの覇権の維持のために行われ、終戦の条件は温和であり必要な程度にとどめられ、元老院は諸方の王や民族・国民の港であり避難所であった」(上掲書)。

 この習慣と秩序を破ったのがスラでありカエサルであったと彼は言う。カエサルは「その戦争の名目もいまわしく勝利はなおも汚かったにもかかわらず、個々の市民の財産を公売に付したのみか、全面的に州や地方を、一挙に破滅の権力をふるって、合併したのである」(同上)と糾弾する。わが国(日本)のカエサルファンや作家はこのような言い回しに憤慨するだろうが仕方ない。それに不満な方は、キケロが翌年、マルクス・アントニウスの手先の一隊によって暗殺されたことで鬱憤を晴らしてほしい。

 なお、キケロは、カエサルの財産は少数の、野心は多数の、それぞれ暴民の手に遺産として伝えられたと書いた。少数の暴民というのはほとんどアントニウスのことを指すと考えていい。
 キケロは『義務について』の他の箇所でこういっている。 
 「われわれは人に対する尊敬の念を、もっともよき人に対してのみならず、その他の人びとに対しても、持たなくてはならない。なぜならひとの自意識を無視するのは傲慢の業であるばかりか一般に放恣の人のすることである。他人との関係を顧慮するとき、正義と敬虔の間に区別があることを知らなくてはならない」。

 「さてまた身分のもっとも卑しいものたちに対しても、正義は守られなくてはならないことを、われわれは思いかえさなくてはならないであろう。もっとも低い状況と運命におかれているものは奴隷たちである。かれらを日雇者のように取りあつかい、仕事を課するかわりにそれに相応した報酬を与えるべきだとわれわれに注意する人びとの教えは、正しいとしなくてはならない」(上掲書)。


 2、古代ローマの奴隷 
 奴隷の解放手続きは5つか6つあった。形式的なものが多く、それもだんだん緩やかになった。したがってローマでは解放奴隷の人口が増え続けた。
 ネロ帝のとき、元老院で解放奴隷の忘恩行為(旧奴隷主に対する)が取り沙汰され、保護者に解放奴隷の自由を取り消す権利を与えるべきだとの意見が出た。ネロは少数の助言者にその是非を諮った。賛否両論が出たがネロは「解放奴隷全体の権利は、これを毀損してはならない」と元老院宛に書いた。

 反対理由の中心は、ローマ市民の中に占める解放奴隷、あるいはその子孫の数が多いことであった。騎士や元老院議員ですらその祖先の多くが解放奴隷であった。「もし解放奴隷が別け隔てられてしまうなら、自由市民がいかに少ないかは明瞭となるであろう」(タキトゥス『年代記』)。 
 ローマ帝国の高級官僚の多くも奴隷や解放奴隷で占められ、彼らなしに帝国の運営もおぼつかなくなった。

 帝政時代の奴隷の地位向上の一端をみてみる。
 ネロの時代、奴隷を主人の非道から守るための警察法発布。
 ハドリアヌス帝の時代、主人による奴隷の殺害を罰することにする。
 アントニウス・ピウス帝の時代、奴隷に対し、神々の祭壇のもとへ逃れる権利をあたえる。 
 マルクス・アウレリウス帝の時代、剣技士による見世物を禁ず。 
 一世紀、主人の命令で奴隷を野獣と戦わせること、重病の奴隷を遺棄することが禁止に、       男の奴隷を去勢することが禁止に。 
 二世紀以降、奴隷を虐待したため処分された主人たちが知られている。 
 三世紀、国家奴隷は遺言によってその財産の半分を自由に処理できるようになる。
 四世紀、奴隷が自分の主人を告訴できるようになる。                                  (ヒルシュベルガー『西洋哲学史』ほか参照) 


 3、スパルタクスの精神 
 剣闘士奴隷スパルタクスが仲間とともに逃亡し、そして反乱を起したのはキケロが『義務について』を書く30年ほど前である。キケロは一面で評判が悪い。とくに日本ではそうであり、その先頭に立つのは、スパルタクス研究の第一人者土井正興氏かもしれない。
 当時、剣闘士奴隷を養成して貸し出す商売があったらしい。キケロは友人アッティクスに「あなたは見事な一隊の剣奴を買い取ったが、それを貸し出しだしたら、2回ほどの貸し出しで元はとってしまえただろう」という趣旨の手紙を送った。 

 土井氏はこのことを取り上げ「キケロの手紙にみられるようなことを、平気で良心の呵責なしに書けるローマの支配階級自身も・・・唾棄すべき存在であることは、たしかであろう」という。キケロは、彼の『書簡集』を見てもわかるように大の皮肉屋であった。
 土井氏はスパルタクスの反乱を、ローマの自由民に対する奴隷の階級闘争という視点から論ずる。そして彼らの蜂起はローマの「奴隷制社会」から奴隷たちの故郷の「原始共同体社会」への復帰という解放の思想によるものとした。

 土井氏のスパルタクス観を示す一節を引く。
 「この蜂起は・・・奴隷のなかのアウトローであった剣闘士奴隷によって指導されていた。このことは、ローマにとっては・・・貪欲な侵略戦争であり、奴隷にとっては、抑圧からの解放を求める正義の戦争であることに由来する・・・」「そして、このこと自身を、ローマの支配階級の一員であるプリニウスすら、『何と、われわれの逃亡した奴隷が、心情の偉大さにおいて、われわれを顔色なからしむることよ』と容認せざるを得なかったのである」(『スパルタクスの蜂起』)。

 さらに岩崎充胤氏は土井氏のこの主張を援用しながらプリニウスのこの一文が、100年経ってなおローマの支配階級のあいだに彼らを苦しめた奴隷に対する畏敬の念の残存を示す証拠であると論じている(岩崎充胤『ヘレニズム・ローマ期の哲学』)。

 だが、プリニウスは「正義の戦争」が「われわれを顔色なからしめた」とは書いていない。プリニウスはこういっている。「われわれはスパルタクスが彼の陣営に、だれしも金または銀を所有することを禁ずる命令を出したことを知っている。してみると、われわれの逃亡奴隷のなかにかえって多くの精神があったということだ」

 ここでプリニウスが追求しているのは金貨を発明した人物の犯した罪であった。それによって金に対する絶対的な飢餓が、一種狂乱状態をもって燃え上がったと批判した。このプリニウスの一節を引用しながらカール・マルクスはいう「貨幣は至富欲の一対象であるばかりではない。それはその唯一の対象である。致富欲は本質的には金に対するのろわれた渇望である」と(『経済学批判』)。
 プリニウスはスパルタクスの反乱自体についてはまったく触れていない。彼が恐れたのは奴隷反乱ではなく、人びとの金への渇望が人間社会を滅ぼすのではないかという怖れであった。
 
 『博物誌』での一貫した主張は、奢侈への批判であり、なかでも金や銀への欲望に対する弾劾であった。彼は金山での乱開発の模様を極めて写実的に描写しながら、それが自然への挑戦であるとして、自然を征服したと誇り顔の人間たちを告発した。
 これはキケロほかの、ローマのコモンセンスを代表する人たちの自然観の反映でもあった。