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静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

天の声ー立憲主義の弱み

2014-05-07 22:36:52 | 日記

 

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      天の声

(一)

 質問・・・「国民は憲法を守らないといけません。これは「○か×か」・・・正解は×」。これは「明日の自由を守る若手弁護士の会」の協力で開かれた憲法学習の一コマだという(2014/5/2『毎日』)。つまり、守らなくて良いというのが正解。

「みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和二十二(1947)年五月三日から、私たち日本国民は、この憲法を守ってゆくことになりました」。

これは昭和二十二年八月に文部省が発行した『あたらしい憲法のはなし』の冒頭の句である。この書は全国の中学一年の教科書として作られた。これは守るが正解。

なんという隔絶か。この「明日を守る若手弁護士の会」は、戦後アメリカから日本の教育現場に持ち込まれた「○×方式」を用いて(この二者選択方式はブッシュが盛んに用いた)、国民に憲法は守らなくてもいいよ、と教え込む運動を展開しているらしい。多分この見解は憲法学界の通説なのだろう。

冒頭の記事は同紙26面の記事だが、1面には、「小さな集いで憲法学習会を開く弁護士」として一人の若手女性弁護士の活躍ぶりを写真入5段の記事で紹介している、それほど熱が入っている。

 この会ではさらに、憲法は国家が守らなければならないルールであり、国民からの注文なのですとも教えているという。国家とは一般的には「一定の領土と国民から成る」と言われるので、この説によると、憲法とは「国民」が「領土と国民」に出す注文書ということになる。ユニークな説明である。注文といえば、われわれがピザ屋さんやお寿司屋さんに出前を頼むようなものか。「売れ切れ」なければいいが。

 『あたらしい憲法のはなし』は発刊後二・三年してから、文部省自身が廃棄した。国民に守ってもらっては困る事情が生じたのだろう。

 一方、一般国民にとってメリットがないわけでもない。憲法を守らなくてもよければ、どういう利点があるか? まず納税の義務を免れる。教育を受けさせる義務もなくなる。憲法で定められた多くの基本的人権も互いにを守る必要はなくなる。国民は、ただ政府に注文すればいいのだ。なにしろ日本は自由主義国家の一員で、自由の国だから憲法など守る必要がない、自由なのだ。政府は徴税したいが、国民が憲法を守る必要がないと主張すれば強行できるだろうか。国民は憲法という縛りから解放されて自由なのだ! 

(ニ)

近年、政治問題を語る際、立憲主義という言葉が盛んに用いられる。立憲政治というのはそもそも西欧において国王の恣意的な政治を抑制するために始められたものである。近代化を目指す明治の日本において、そういう近代的立憲主義が輸入されたのは理の当然であった。立憲主義が近代化の証しであるとすれば、封建の遺制が強く影を落としていても、それを無視することはできない、当然といえば当然である。明治憲法はれっきとして立憲主義に基づくものだった。ただし立憲君主制である。「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とある。天皇の大権を冒すことは立憲主義に反することだった。

日中戦争が泥沼にはまり込み抜き差しならぬ状態になったとき、近衛文麿が挙国一致の大政翼賛会をつくろうとした。だが貴族院・衆議院の討議のなかで、「翼賛会」は立憲主義に反し憲法違反であるとの反対にあった。結局近衛は断念し、翼賛会は政府の外郭団体としてのいわば精神活動に従事するだけのものになってしまった。近衛自身が、一党独裁的な政治体制は天皇の政権選択を事実上不可能にするものであり、立憲主義に反するという認識をもっていて、政党とは違った形の挙国一致体制をつくろうとしたが足元をすくわれた。そして近衛が退いたあと東条英機が登場した。

明治憲法が立憲君主制なら日本国憲法は立憲民主制である。憲法に則って政治を行うという大義名分は双方とも同列である。だから、新憲法制定時には誰も立憲主義を政治理論として強調することはなかった。日本国憲法制定後でた何種類かの憲法書を調べてみたが立憲主義という言葉は見当らなかった。立憲君主国とか立憲君主制ならある。古い高校の社会科の教科書も見たが、やはり立憲君主はあっても立憲主義はなかった。当時としては過去の政治用語であった。だが様子が変わる。前世紀の終わり頃から、とくに今世紀に入る頃からこの言葉が流行しはじめたように思える。

 もともと立憲君主制は十八世紀における制限君主制に端を発した政治形態のことであった。わが国では明治憲法のもと立憲政治が始まったことは上記のとおり。「立憲」は当時の政治的流行語となり、立憲改進党、立憲改進党、立憲自由党など、立憲を冠する政党が続出した。しかし、国会開設に伴って誕生したのは薩長藩閥政権に過ぎず、公然と「超然主義」を標榜し政党を無視しようとしたことは歴史の教えるところである。だが立憲主義のもとで超然主義がいつまでもはびこることは不可能で、曲がりなりにも議会政治が定着してゆく。それはやがて、いわゆる大正デモクラシーを生み、近衛文麿の大政翼賛会設立運動が惹起させた憲法違反問題にも影響を及ぼす。

 大日本帝国憲法は、専制国家が纏った近代国家という外被に過ぎなかったかもしれないが、それでも立憲主義という近代国家の路線から大きく脱線することは不可能であった。現行の日本国憲法は、同じく専制国家が纏った「民主主義」という名の外被かもしれないが、立憲主義を放棄することはできない、それは近代国家ではないことを世界中に宣伝することになるのだから。政党にしてもいまさら「立憲」を名乗る意味を失っている。戦後「立憲○○党」などという政党が出現しなかったのもむべなるかな。

(三)

 憲法九条を守ってきた日本国民が本年度のノーベル平和賞の候補に推薦されたという。ノーベル委員会に推薦状を書いた一人である石川旺氏(上智大学名誉教授)が次のように語っているという。「憲法は国家がしてはいけないことを書いた制限規範です」。新聞報道が氏の発言を正確に伝えているかどうかは分からないが、その通りだとすればそれは興味深い理論だ。

 憲法第九条には「日本国民は・・・国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は・・・永久にこれを放棄する」とある。この場合、国家がしてはいけないことを書いているのでもなく、国家に対し何かを制限しているわけでもない。日本国民は戦争を放棄すると宣言している文章であると同時に法律である。世界に宣言したわが国の最高法規なのだから、国民はみんなで守っていかなければならない。『あたらしい憲法のはなし』の精神はそういうことだったろう。すべての国民が、憲法を守らねばならないというのは国民の共通認識となり、当然憲法学の通説ともなった。このように国民すべてに憲法尊重擁護義務があるが、第九十九条には特別に、天皇以下すべての公務員の憲法尊重擁護義務が規定されている。これは、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」という憲法前文の精神を真正面から受け止めた国民全体の決意である。もう戦争を企てたり戦争に加担したりする政府は絶対につくらないという強い決意の表明である。政治家や公務員だけに義務があると主張する学者・有識者の発言は、その決意を覆すものだといえよう。そういう学説や見解が流布すれば、日本国中での憲法擁護運動が弱まってくるのは当然の成り行きといえよう。憲法学習会や研究会などが、護憲でも改憲でもない会だなど喧伝するのが不思議だ。国民みんなが守る義務があるのだから護憲でなければならない。なぜ「九条を守る会」ではなく「九条の会」なのかこれも不思議である。権力に遠慮しているのか自主規制しているのか? 各地の自治体などで、九条を演題にした講演会などに会場を貸さないという傾向にあるという。公務員は真っ先に憲法を守る義務がある。貸さないというような公務員は憲法違反の疑いがある。内閣総理大臣が先頭に立って憲法を改正したがっているこの日本、現場の公務員には陰に陽に圧力が加わるのだろう。もちろん内閣総理大臣は憲法違反の現行犯である。それにくらべて、現憲法の精神を尊重する旨の発現を繰り返す天皇や皇太子の方によほど憲法遵守精神がある。

(四)

 立憲主義というのは、歴史的に見ても現状をみても、国民にとっては受動的な政治思想でしかない。それで国民の基本的人権が守られると確信するのは安易である。立憲主義が牙をむき出して国民に襲いかかることだってありうる。

 憲法改正は、現憲法では国会の発議と国民の承認によると規定されている。明治憲法でさえ国会の三分の二という壁を設けていたのに、現内閣はその壁さえ取っ払おうとした。国民には憲法尊重擁護する義務はない、政府に注文すればいいなどと嘯いていては、国会の三分の二の壁もやがては突破されるだろう。

 本来、国会に憲法改正の発議権があること自体が民主主義に反する。憲法制定会議によって作成すべきだろう。しかしこの問題は複雑で困難を伴う。憲法制定会議というものの組織やその選定方法をどこでどう決めるか、国会で決めるとなれば自己矛盾である。明治初期、自由民権運動の広まりと並行して私擬憲法草案が全国各地で作成された。それは、ドイツ人医師ベルツのいう「絹布の法被(けんぷのはっぴ)」の役割を果たした大日本帝国憲法の立憲主義によって粉砕された。

 戦後の占領下、GHQは日本政府に新憲法の制定を急がせた。だが政府案は直ちに粉砕された、日本国民にも知らさないまま。各政党や団体、有志の憲法草案も発表されたが、それらを検討する場も組織もなかった。対日理事会や極東委員会開催が迫っており、アメリカ占領軍はそこで承認が得られる憲法草案を準備する必要に迫られていた。したがって新憲法案は、当時の世界における民主政治の最高水準でならなければならなかった。そしてそれは、日本国憲法の基本的人権の尊重、平和主義、国民主権という三原理に結実した。この憲法草案は貴族院・衆議院で討議を繰り返し、削除や追加など修正もほどこし、満場一致に近い賛成で可決された。日本政府も占領軍も象徴とはいえ天皇制を維持することができて安堵した。

 憲法改正もしくは新憲法制定の仕事を現在の国会が為すのは民主主義的ではない。金権にまみれた議員、世襲化し職業化した議員、不公平な選挙区制度で選出された議員たち、彼らに任せることができるだろうか。これらの議員たちが真に民意を反映した憲法制定議会を創り運営してゆくことができるだろうか、はなはだ怪しい。極めて困難な問題だ。仮に新憲法改正のための体制が出来たとしても、今の三原理を否定するような憲法案は不可能だろう。それは、憲法以前の問題、西洋流にいえば、自然法の問題だ。それは人智を超えている。東洋風にいえば天の声である。