<今日の伝言>
あの3・11がやってくる。全国のあちこちで集会やパレードなどが開かれること
だろう。千葉県市川市の知り合いの Clown (道化師)から、「みんなで歩こう 3
・11さよなら原発 市川パレード」のお知らせが届いた。主催は「3・11さよな
ら原発・被災地復興・支援 市川市民の会」。日時=3月11日(日)、開場12:
30、開会13:30、出発14:00。会場:市川大洲防災公園(市川市大洲1-
18)。行進コース(省略)約1時間、どこからでも参加可能。(連絡先:関根・0
47-356-8884、荒川・090-7721-5965)
筆者のできることはこの「お知らせ」をお知らせすることぐらいか、情けない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(一)
現代という時代は、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下で始まったとハンナ・アレント
が言ったことは前に書いた。ヨーロッパにおける産業革命が18世紀の中頃から19
世紀中頃まで、そしてその後100年、欧米の工業と産業が世界を支配してきた。その
揚げ句が核の支配する現代に突入した。だがその前に、世界はファシズムを生み出し
その脅威にさらされた。原爆が主としてドイツとアメリカ合衆国の先取り争いであっ
たことは周知のこと。ファシズムと反ファシズムの闘争の揚げ句誕生した原爆こそ、
産業革命の成果なのだと位置づけていいだろうか。
チェルノブイリとスリーマイルで我々は衝撃を受けたが、それで時代のエポックを
感じとるところ迄はいかなかった。しかしフクシマの大惨事は、原子力というものが
人類の歴史、いや地球の歴史のなかで異なった次元の段階に差し至ったのではないか
という予感を与える。そしてその始まりがヒロシマ・ナガサキであったことも事実で
ある。アイゼンハワーは軍産複合体の危険性を指摘したが、その彼が原子力の平和利
用という幻想を振りまいた。そしてすでに三枝博音は1952年の段階でこのように
述べることができた。
「原子力を支配し、これを使用するほどにはまだ技術文化も精神文化もその段階に
達していないのに、もう人類は途方もない原子力を所有してしまったのである。天上
から火を奪ってきたプロメテウスを繋縛するゼウスはいたが、今日人間の手から原子
力を一時でもとりあげる人間以上のものはいないのである」(「歴史の歩みと原子力
の問題」)。
西欧では、プロメテウスはしばしば自然の束縛から自由を勝ち取った英雄の姿とし
て描かれるが、三枝はそのプロメテウスの動きを野放途に放置させない力を要請して
しているように思える。いま、プロメテウスの役割を果たすとしてらそれは民衆の声
か? 皮肉な話である。
梅原猛は週刊誌で持論を展開した。
「日本は・・・西洋文明の暗黒面の被害にあいました。原爆と原発による被害で
す。科学技術文明は自然を奴隷のごとく支配する文明です。原子力という人類にとっ
て危険な悪魔と手を結んで生まれたものです。もはや悪魔と手を結ぶわけにはいきま
せん。自然、すなわち太陽と水の崇拝を取り戻し、森の恩恵を受けて生きるという文
明に戻らなければなりません。自然を支配する文明から自然と共生する文明に変えて
いく。これは人類の急務です」(『サンデー毎日3・11増大号』富士山鼎談「大震災後
の日本導く『信仰と芸術の山』」)。
三枝はチェルノブイリもスリーマイルもフクシマも知らなかったせいもあるのか、
原子力を悪魔と手を結んだとまでは言っていないが、早い時期にその本質を見抜いて
いた。だがその一方で三枝や梅原と違って、原子力エネルギーを人類を救うプロメテ
ウスの火と考えた人もいたし、今もいると思う。そういうのは「原子力ムラ」の人た
ちの中に多いのだろうか、いや、ああいう人たちにはそういう思想もないのだろう。
一方、三枝が上記の論文を書いた頃、ハーバード大学学長のJ・B・コナントは、太
陽エネルギーは1976年代にはすでに大きな役割を演じはじめ、今世紀終りには、工業
原動力の生産における支配的要素となっているだろうと予見したという(上記・三枝
論文による)。つまり20世紀末にはエネルギー問題は解決していると楽観視したので
ある。
現実はいろいろな要素がそれを裏切ってゆく。予想は悲観的な方向に進んでしまっ
た。その背景にあるのは、なんといっても産業資本の力である。原子力産業が世界的
に見てどういう機構のなかに組み込まれているのかは知らない。だが、素人の推測に
よってみても、それが巨大な、世界的規模の魔王のような権力を保持していることは
想像がつく。それはおそらくわれわれの眼からは隠されていて計り知ることもできな
い。そのしくみを産業資本が大衆に示すことはありえないだろう。今度の原発事故
で、ようやくその一端が民衆の眼の前にさらされるようになったとはいえ、まさにそ
れはほんの一端に過ぎない。
原発が核兵器から派生して生まれてきたことに見られるように、原爆産業から切り
離して考えることは不可能だが、その実体は隠されたままである。
その悪魔の産業は、その作業は、ウラン鉱の採掘から始まる。ウラン鉱山がいかに
自然環境を破壊し、そこに働く労働者、周辺の住民に取り返しのつかない被害を与え
ているかは、ほとんど報道されない。そもそも、鉱山は何であれ、自然を汚染し、破
壊してゆく。金山・銀山・銅山・鉄鉱山から始まり、ありとあらゆる地下資源の発掘
は自然の破壊そのものである。自然を破壊するだけでなく人間の心を腐食する。発掘
された地下資源は殺人の道具、戦争の武器の製造に利用される。あるいは貨幣に鋳造
されて至富の手段として用いられ、その富による支配と被支配の構造を生み出す。
だから、地下奥深く潜り込んで鉱石などを採掘する人間の行為を、母なる大地のは
らわたをえぐり取る行為だと、古代の人は激しく非難した。このことは、私はしばし
ば論じてきたからここでは繰り返すまい。
(二)
鉱山業は各種産業の中でも近代化の遅れた分野であったことは知られている。今日
でも坑内の落盤や火災による犠牲者が絶えることはない。
中南米諸国は地下資源の豊富な地域である。その多くの鉱山は外国資本、なかでも
アメリカ資本によって経営されている。かつて西欧人がこの地域の原住民から莫大な
黄金を強奪したことはよく知られている。その昔から金の産出の多いところでもあっ
た。
少し前に、ペルーでの金鉱山の話が載っていた(「毎日」12・1・31-2・2)。今でも
ペルーは世界屈指の金産出国である。とくにカハマルカ州やその隣のラリベルタ州に
はいくつもの金山がある。ここも主として米国資本で運営されている。エルトロ金山
の話が載っていた。この記事では「作業員」とあるが、わかり易く言えば「鉱夫」
だ。その鉱夫の賃金は地下200-500メートルでの掘削作業7時間で45ソル(約1300
円)、50キロの鉱石をつめた袋を背負って採掘現場と地上を20往復して75ソル(約22
00円)だと書いてあった。
今日でいうラスメドゥラスの金山の、その二千年前の様子を描いたプリニウスは、
当時の労働の状況を次のように述べた。「人々は夜昼となく働き、くらやみの中でそ
の鉱石を肩に担いで一人が次の者に渡すというようにして運び出す。その列の端にい
る者だけが太陽の光を見るのだ」(「ラスメドゥラスの金」参照)。その「人々」と
いうのは operatos(労働者) あるいは fossor(鉱夫) と表現されている人たちで
ある。ペルーの方は作業員一人一人が担いで地上に運び上げ、ローマの金山の場合は
肩から肩へと渡すという違いはあるにしても、21世紀の今になっても2000年前とほ
とんど変わらない方法をとっていることに驚きを禁じ得ない。さらにこのカハマルカ
州の金山では、金山を不法占拠した人々が、プラスチックシートを敷いただけの無防
備な作業場でシアン化合物を使った作業を行っているという。今日、金の精製にはシ
アン化合物を使用するのが一般だが、シアン化合物はシアン中毒を引き起こす危険な
物質として知られている。古代ではこのような化学的精練法は知られておらずせいぜ
い物理的方法に頼るだけだったので、その点での危険性はまた別のものがある。
この記事を書いた記者はさらに次のように言う。「まさにゴールドラッシュの西部
劇の世界だ。皆が銃で武装している」「金山では数千人が働くが、安全基準も障害・
死亡保険もない。事故死しても遺体を引き取る家族のいない独り者ならそのまま地中
に埋められる」。ローマ帝国の領域で発掘された金はローマ帝国の富を築くのに役立
ったが、ペルーの金はペルーの富を増やすわけではない。
(三)
世界各地のウラン鉱開発の現場は信じられないほどの自然汚染が進み、住民を苦し
めている。日本の人形峠でさえも環境汚染と住民の健康被害を引き起こし、今日に至
るも解決の道は示されていない。インドやオーストリア、アメリカ合衆国、南アフリ
カなどでは先住民族の土地で大規模なウラン発掘が行われ、土地の収奪、自然破壊、
労働力の搾取、健康破壊が恥知らずにも進められてきた。オバマもその現実から眼を
そらしている。
あの地獄の果てのようなウラン鉱採掘現場の情景は、人間の欲望が自然をあのよう
に削り取り取ったラスメドゥラスの赤茶けて尖った山肌のように、将来、人間の愚行
の証しとして世界遺産に登録されるのだろうか。いや、それだけでなく、フクシマの
破壊された原子力発電所もあるいは世界遺産になるのかも・・・二千年先、三千年先
にまだ人類が生きのびていることが前提になるのだが。使用済み核燃料の始末にも数
十万年かかるというではないか。そしていま、地球上至る所にその使用済み核燃料が
蓄積されつつある。遠い将来、放射能に免疫をもったホモサピエンスに代わる人類が
地上に誕生して、われわれがペルーのマチュ・ピチュの遺跡を眺めるような眼でそれ
を彼らが眺めるのだろうか。
古来、黄金は富の蓄積手段あった。今日ではウランはウランは黄金より遥かに大き
な富を生み出しているのだろう。ウラン採掘から始まる巨大な原子力産業は、信じら
れないほどの富を資本の所有者にもたらした。「原子力村」の人たちはその富の分配
にあずかり、悪魔に魂を売り払い、人間性を投げ捨ててしまったと評されても仕方な
いだろう。
(四)
先にあげた三枝博音は、戦後わが国にアメリカ的な教育概念が注入されてきたと
き、科学と技術がきっぱりと区別されず、ごちゃまぜに受けとられてしまったと論じ
た(「科学教育と人間性」)。戦前の理科教育について私は「国民学校の理科教育」
で少し論じたことがある。だがその理科教育と戦後の理科教育を比較する余裕もない
し、三枝もここでそういう比較をしているわけでもないので、あいまいな話になるが
・・・。
三枝に言わせると、アメリカでは大学にも街にも工事現場にも、どこにも理念など
というものはない、ということになる。理念とは思想なり哲学なりをいうのだろうが
・・・。運河やダムを作るにしても、あるいは原爆・原発を造るにしても、そこには
それを作る理念などはない、政治の課題としてあるだけ、ということらしい。こうい
う社会はプラグマティズム発祥の地アメリカらしい発想ではないか。まさに、18歳
までに哲学を教え込むというフランスとは対照的である。もっともプラグマティズム
も哲学だと言ってしまえばそれまでだが。
前にも書いたことがあるが、アメリカや日本の物理学の最先端の研究者間では、今
日では物理学こそが哲学に代わって世界を解明することができるのだと公然とその自
負心を語るらしい。圧倒的多数の市民もそれを是認しているのだろう。
一方で、今回の大震災・大事故に直面した人たちの多くが、人生観が変わったと言
っていると聞いた。それは先に紹介した梅原猛の発言に通ずるものかもしれない。被
災地に近いところに住んでいる私の知人のSさんは、お年を召しているのだが、改め
て荘子・老子を学んでいるという。そういう話を聞くと、まだわれわれに望みはある
のかなと思ったりする。若い人たちの間でも、自己を見つめ直す人たちが出てきたに
違いない。
若い友だちよ、女の友だちよ、男の友だちよ
胸のなかの、その胸につきあげてくる 深い思いを 放て
不条理な世界に 道理のある道筋を開け
あなたのいのちを あなたの人としての心を
広く自由な道に 解き放て