静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

ホーキングとヒューム

2010-12-19 17:07:01 | 日記


(一)
 手もと不如意なのだが最近2冊買った。村山斉著『宇宙は何でできているか』と佐藤克
彦訳の『ホーキング、宇宙と人間を語る』である。後者は2011年1月5日発行となっ
ているのに買ったのは2010年12月16日である。発行日前に本を買ったのははじめ
てである。

 村山氏は「『宇宙の根源』はかつて哲学者たちの考えるテーマでした。しかし、・・・
いまやそれを科学が解き明かそうとしているということが、よくおわかりになったと思い
ます」と最終章で書いている。
 ホーキング博士は世界・存在・創造主などについての疑問について、「これらは伝統的
な哲学の課題ですが、現代において哲学は死んでいるのではないでしょうか」(第1章の
冒頭)と語っている。
 どうやら「科学者」、とくに物理学者の一般的見解らしい。かつてマルクスは、哲学の
目的は世界を解釈することでなく変革することだと語ったそうだが、いまや哲学はすっか
りご用済みになり、物理学が世界・宇宙を解釈するようになったらしい。フランスの教育
は今でも、高校卒業までに哲学は必修となっているのだろうか、だとしたら、今や時代遅
れも甚だしいということになる。
 もっともホーキング氏は、そう言いながらこの書でご自分の哲学をつくりたいと思って
のではないか? 佐藤氏もそのうち新しい哲学を創設しようと考えていらっしゃるのでは
? 新しい解釈に基づく・・・穿ち過ぎか。 

 それはさておき、私は先日(11月13日)、「宇宙創造に神は要らない」という題で
ブログに投稿した。その冒頭で佐藤氏の文の一節を紹介した。それは、ホーキング博士が
「宇宙の創造者は神ではない」と述べ向こうで話題になっているという佐藤氏の説明であ
る。実はそのとき、ホーキング博士が何時どこで発言したのか知りたかった。今回、佐藤
氏訳のこの発行日前の著書を読んで納得がいった。この本でホーキング氏はちゃんとその
ように書いているのである。いつもそう思うのだが、西洋人はたいへんだなと。何かを考
えるとき、まず神と対峙しなければならないなんて・・・。

(二)
 とりあえず村山斉氏の『宇宙は何でできているか』を読んで感じたことを少しばかり。
 まず、日本の科学者たちの意気込みの高さに感心した。村山斉氏によると、宇宙や素粒
子の本を読み知識を深めることは「日本を豊かにする」ことになるとのこと。それは経済
的な意味もあるが、心、精神、文化の豊かさをも含めてであという。なかなか説得力があ
る。だから、韓国人がそれを行なえば韓国が豊かになるというのも道理だろうと思う。地
球上の人間がみんなそうすれば、世界の国がみんな豊かになる。 
 
 もう一つわかったことがある。物理学だけでなく自然科学一般だろうが、これらの研究
は理論と実験があざなえる縄のように絡みつきながら発展しているのだということ。ある
学者が新しい理論を生み出す。するとある学者がその理論を実験で証明してみせる。それ
が優れたものなら、時間の前後はあるにせよそれぞれにノーベル賞が与えられる。その経
過がとても分かりやすく説明されていて納得させられた。
 そして思ったことは物理学はまるで飛んでゆく矢のように、まっすぐに真理に向って進
んでいるのだなということ。人間の行なうことだから時に間違いや迷いがあるが、結局は
正しい道にもどり、「謎が解明される日も近ずくに違いありません」という確信に結びつ
いているのだということ。
 
 その矢はまっすぐ飛ぶのだ。その飛ぶ矢の尖端にいる人がノーベル賞受賞者だ。誰もが
それを目指すのだろう。同じ発見をしてもその発表は日本語では駄目だ。発表が一日でも
後になれば、尖端にいたことにはならない。
 古代の哲学では、たとえばストア哲学のように、すべて世界は循環過程にあると考えた
ものもある。歴史は一直線に進むというのはいうのは、中世以降の西欧の思想だと見ても
いい。それは進歩思想に繋がる。循環思想はもう「死んでいる」のだ。
  私は前に「進歩を疑う漱石」という題で投稿したことがある。疑っているのは別に漱
石だけでもないのだが。もし「進歩は悪だ」という思想に立ち、それを糾弾するような時
代が来れば、ノーベル物理学賞受賞者は軒並み賞を返上しなければならなくなるだろう。

 文学賞や平和賞は進歩には関係しない。30年前の文学が今日の文学より進歩している
とか、30年前より平和思想や運動が進歩しているとか、そんなことは普通考えられない
。進歩・退歩の物差しでいえば、むしろ退歩している場合だってある。平和賞も長い歴史
があるのだから、もうとっくに世界は平和になっていてよい。だが一向に平和にはならな
い。平和賞をもらった大統領が何万もの軍隊の増強を行なうのである。まっしぐらに飛ぶ
矢などではない。まっすぐ飛ぶどころかブーメランのように逆戻りして返ってくる。

 物理学はまっすぐに進む、「日本を豊かにする」ために? 核兵器を作ったのはアメリ
カだが、戦後アメリカはいっそう豊かになった。日本は原爆を落とされてその結果豊かに
なった? 世界第二の経済大国になったではないか。
 
 なぜ、今でも毎年世界のどこかで鉱山の崩落や火災が起きて人々が死亡したりするのか
。世界の貧困は政治のせいだということはできる。ホームレスや自殺者の増加はどうか。
鉱山での落盤や火災は? 地震や洪水、津波などは・・・? 私はそういうことへの対策
こそが日本を富まし世界を豊かにするものだと思うのだが。

 (三)
 ホーキング博士にかかるとプラトンもアリストテレスも形なしだ。だが彼がこの書で唯
一賞賛している哲学者はヒュームだ。私の読み落としがあるかもしれないが。
 「イギリスの偉大な哲学者デイヴィッド・ヒューム」と書き、さらに「ヒュームは著書
の中で『私たちは現実が本当に実在していることを信じるに足る、道理にかなった理由を
持たないが、それでも私たちは現実が真実であると思って行動する以外に選択肢がない』
と語っています」と述べている。
 残念ながらヒュームのどの本のどのへんか書いてない。多分『人生論』のどこかだと思
うが、ちょっとぐらいでは私には探せない。そのうち時間をとって探すしかない。ホーキ
ング氏のこの本はヒュームの哲学的見解を現代物理学の成果をもとにして裏付けようとし
ているようにも見える。もう少しじっくり読んでみなければ・・・何しろ手にしたばかり
だから。

 少し古くなるが2005年、イギリスのBBCラジオが、20人の哲学者の名あげ、な
かで最も偉大な哲学者は誰かというアンケートを視聴者からとった。3万4千人の応募者
があったそうだ。順位は、1、カール・マルクス(27・3%)、2、ヒューム(12・
6%)、3、ウィトゲンシュタイン(6・8%)、4、ニーチェ(6・5%)、5、プラ
トン(5・7%)、以下略。

 私の記憶も古くなって曖昧だが、このBBC放送はずっと以前にも同じようなアンケー
トを行なったと覚えている。そのときもカール・マルクスが1位だったと記憶している。
日本では考えられない。マルクスが哲学者だと思っている日本人もあまりいないだろう。
それよりももっと考えられないのはヒュームである。たしかにヒュームはイギリス人で
ある。だがBBCの聴取者がそんなことで依怙贔屓することはないだろう。
 ホーキング氏はこのヒュームを評した文の直前で「アイルランドの哲学者ジョージ・バ
クリーは精神と観念以外には何物も存在しないとまで言いました」と書き、このバークリ
ーの発言に対しサミュエル・ジョンソンが大きな岩を蹴飛ばしながら「ほら、彼の主張は
間違いだろう」と言ったというエピソードを紹介している。
 夏目漱石は『文学評論』のなかで、18世紀の哲学者としてロック、バークレー(ママ)
、ヒューム3人の名を挙げ順に論じている。それぞれが面白いのだが、ヒュームについて
の書き出しはこうだ。「ここにスコットランドからデヴィッド・ヒュームなる豪傑が出て
来て研究に一層歩を進めて遂に心も神も一棒に敲(たた)き壊したのは痛快の至りである
」。いやー、漱石の文も痛快の至りである。

(四)
 古代のある思想家がこんなことを言っていたことを思い出す。
 ある人々が宇宙の広さについて研究して発表したり、さらに他の人たちが無数の宇宙が
あると主張するが、これらは狂気の沙汰である。この宇宙の内部に存在するものが全部す
でにはっきり知られてしまったかのように、この宇宙の外に出て行き、その外部にあるも
のを調査するというようなことは、狂気の、純然たる狂気の所業である。それはまるで、
自分自身の寸法も知らないものが、何かある物の寸法をとることができるというようなも
のだ・・・。

 ホーキング博士がこれを聞いても、昔の人の言いざまだと言って気にしないとは思うが
、古代にもホーキング氏のように言う人がいたらしいとは驚く。上記の発言をした人は、
宇宙の外のことは当面どうでもいいから、足下の地震や洪水や火山対策の研究をしてくれ
よと言っているような気がする。


夜明け後・断片

2010-12-12 13:33:14 | 日記


 田中不二麿という人物を藤村の『夜明け前』で知ったという人も多いらしい。この小説
の中では、はじめさりげなく出てくる。
 たとえば「欧米視察の途に上った旧名古屋藩士、田中不二麿・・・。過ぐる四年(明治
)の十一月十日、特命全権の重大な任務を帯びて日本を出発した岩倉大使の一行がどんな
土産をもたらして欧米から帰朝するかは、これまた多くの人の注目の的になっていた時だ
」(592頁)
 「欧米教育事情の視察の旅から帰って来た尾州藩出身の田中不二麿が中部地方最初の女
学校を近く名古屋に打ち建てるとの噂もある」(610頁)
 そして1874(明治7 )年上京した青山半蔵が田中不二麿に接したことがはじめて語られ
る。
 「その日は、尾州藩出身の田中不二麿を文部省に訊ねることなぞの用事を済まし・・・
」(634頁)とある。そして次のようになる。
 「不思議な縁から、上京後の半蔵は、教部省御雇いとして奉職する身となった。・・・
この思いがけない奉職は、田中不二麿の勧めによる」(637頁)。

 田中不二麿は薩長政権のなかにあって極めて異例に政府高官に任ぜられていた(文部大
丞、その後文部大輔)。1873(明治6)年、岩倉視察団の一員として欧米視察を終えて帰
国した彼は、その前年制定されていた「学制」実施の中心人物となった。不二麿が帰朝す
る前に「学制」を起草した「学制取調掛」たちはほとんどが洋学者であり、その委員たち
が学びとって採用したのはフランスをはじめとする欧米の教育制度であった。

 実はそれ以前に、独立の学校であった開成学校と医学校はそれぞれ大学南校(南校)、
大学東校(東校)と改称され、大学校としての昌平学校(旧幕府の昌平坂学問の後身)の
分校とされた。この大学校は国学の講究を主とし漢学の講明をもって従とする学校とされ
、大学南校や大学東校は西洋の格物究理の学を授ける学校で、大学校に従属するものとさ
れたのである。そして大学校は「皇道を明らかにする」ことを重点とする「日本的な大学
」を目指すものであった。
 ところが1870(明治3)年に大学校(すぐ大学と改称)は閉鎖、さらに翌年廃校になる
。国文学者と漢学者の抗争が原因ともいわれているがそれだけでもないらしい。

 『夜明け前』の青山半蔵はそのような状況の中で、田中不二麿の世話で教部省に奉職す
ることになったのである(1874、明治7)年。
 半蔵は国学に心酔し、維新による王政復古によって古代の天皇親政が復活する世を夢見
ていた。新政府による封建制打破で、民衆の地位の向上を願ったその夢は裏切られたが、
国学に対する熱情は失われていなかったのである。
 本来、どこか古い神社へ行って仕えたい、そこで新生涯を開きたい、その手がかりを得
たいと上京した半蔵であったが、しばらく教部省に奉職して時機を待てと不二麿に言われ
てそこに奉職したのである。ところがそこでももう国学は時流ではなくなっていた。職場
で同僚たちが本居宣長のスキャンダルめいた話で大笑いしているのを目撃し、憤激した彼
は、教部省を辞めてしまう。約半年であった。半蔵のことを陰ながら心配していた不二麿
の斡旋によって、その後彼は飛騨の水無神社の宮司として赴任するのであるが、それ以後
の展開には触れない。 

 不二麿がその実施の任にあてられた「学制」では学区制を敷くことになったが、この学
区制はフランスにならったものである。これは近代的学校制度としては今日でも有効なす
ぐれた制度だと私は思う。だが明治の当初、それを実施に移す国力、とくに地方の経済力
と民衆の意識がそれに追いついていなかったことも事実だろう。京都は先進的なまちであ
る。その京都で先んじて学区制が展開されたことは京都市民の進取の気性を示したものと
いえよう。もっともこの学区制は後の「教育令」公布にともない廃止されたが。

 「学制」にともなって翌月「小学教則」が公布された。この「教則」は当時の洋学者の
啓蒙運動を総結集してつくりあげられたもの」であった。だが、その教育内容は別として
、その教授方法が旧来の伝統的なものに過ぎないといういう批判が生まれた。師範学校が
すぐさま文部省の「小学教則」に代わってアメリカの教則をあてはめたような「小学教則
」ををつくったが、これが文部省(教部省から改称)のものに代わって全国に普及するこ
とになった。だがこれは、教育技術の進歩は見られるが最初の科学啓蒙の精神を忘れ、科
学教育の理想から後退したとの批評もうまれた。

 上述のような経済的問題や、アメリカ直輸入の教育内容に問題点を感じていた文部省は
1879(明治12)年、「教育令」を公布した。この「教育令」の制定にかかわったのが文部大
輔田中不二麿であり、アメリカ主義者の彼は、日本もアメリカとように地方の自主性を認
め、自由に任せるべきだと考えた。だがその背景には、当時の自由民権運動の思想があっ
たという。
 しかしこの「教育令」は公布されるや否や地方官僚やその他の人々の猛烈な反対にあい
、翌年不二麿はその任を解かれ、「改正教育令」が公布されるに至った。自由民権運動を
抑圧しようとしていた政府、地府官僚の力が働いたのである。
 これによって市町村のもつ小学校教則編成権は取り上げられてしまった。挙げられてい
る教科の順も最後にあった「修身」が筆頭に位置し、その授業時間も大幅に増えた。この
ように「皇道主義」が優先され、教育の根本精神は仁義忠孝ということになった。(以上
『科学史大系』8参照)。

 話をもとに戻す。
 先に述べたように明治初年、東京には大学南校(南校)と大学東校(東校)があった。
その後南校は開成学校を経て東京開成学校(専門学校)と、東校は東京医学校(専門学校
)と改名。この両校はそれぞれ新しい校地を探していた。
 当時東京には官立の学校だけでも工部省の工部大学校、内務省の駒場農学校、司法省の
法学校、私学では慶応義塾、仏学塾などがあり、それぞれが高い評価を得ていた。これらの学
校と競争して生きのびるために新しい校地が必要だったのである。いろいろの土地が候補
に上がっていた。なかでも上野の丘は最有力の候補地だったが、公園にすることが決定し
てこの案は消え他の地を探すことになる。
 そして1874(明治7)年、まず東京医学校と改称されていた東校が加賀藩上屋敷跡に移
り、その3年後、同じく東京開成学校と改称されていた南校も同地に移って両校が合併し
、東京大学という名称の学校が誕生した。「東京大学」と名づけたのにはそれなりの経過
があったのである。

 この東京大学ができる前に、欧米を視察でわが国にも西欧のような総合的な大学の必要
性を感じていた文部大輔田中不二麿は、1875(明治8)年、太政大臣三条実美あてに大学
校設立用地の申請を行なった。現代風に書き改めて示す。

 「大学校は小中学卒業生がいっそう高い学業に就くのだから、その場所の適否によって
健康に関係することが大きい。また、都会には紛争や雑踏などあらゆる点で生徒の心や思
索を攪乱するおそれがある。だから欧米各地の大学校は市街地の塵埃や騒音から離れた高
燥で幽邃の地に設置しているのである」

 この条件に叶うとして彼が候補にあげたのが千葉県市川市国府台(現在名)である。そ
してその7万300坪余を内務省から文部省に移管させ、それと並行して本郷への医学校移転
費も要求したのである。
 不二麿をはじめとする文部省の考えは次のようだった。つまり、国府台には真正の大学
をつくる、本郷につくる東京大学は外国人教師による一種の速成学校で、本当の大学は国
府台に作るというものだった。それは外国人講師に依存する学校ではなく日本人による日
本人のための大学であるとされた。

 しかしこの構想は途中で挫折した。理由ははっきりしない。田中不二麿の政治力の不足
かもしれない。東京大学がだんだん力をつけてきて、各種の官営の高等教育機関や研究所
などが本郷に集中するようになり、総合大学の道を歩み始める。
 1886には、総理大臣伊藤博文の発想に基づくものとされる「帝国大学令」が公布され、
東京大学は「帝国大学」になった。

 一方国府台には陸軍の砲兵連隊や陸軍病院などができてきて、国府台での大学構想は終
えた。関東大震災で東大のほとんどの建物が崩壊したとき、かねてからキャンパスの狭隘
が指摘されていたので、移転のチャンスだったが、都内には代替え地が見当たらなかった
。国府台はすでに陸軍の用地になっていた。

 第二次大戦後、戦争責任を問う声があちこちから起きた。そのとき、東大卒業生責任論
が起きて話題になった。とくに東大法学部の卒業生が日本を誤った方向に導いたという考
えである。深い科学的分析に基づくものではないと思うが、当時はなかなか説得力があっ
た。今日でも「大物の政治家」たちが互いに「東大の同期生」とか「先輩・後輩」を売り
物にしたりする。
 もし国府台に総合大学ができていれば、あるいは違った道を歩んだかも知れないと、少
しばかり思わせることである。もちろんその大学は「東京大学」ではなく「国府台大学」
だった可能性は強い。

 現在国府台の地には三つの大学をはじめ高校・中学、国立病院、野球場、グランド、公
園があり、またその周辺には住宅地などもある。
 坂本龍馬がこの地に国会議事堂をつくろうと言い出した話もあるが、眉唾物だろう。戦
後一部の市民がオリンピックを誘致しようと唱えた話もあるが、これは大風呂敷過ぎる。
その歴史的知名度から見ても、立地条件から見ても夢が生まれる余地のある土地柄であっ
たが、今はほとんど忘れられている・・・ちょっとした観光地にはなっているが。
△ △        △       △ 
 藤村がいう「夜明け前」というのは、ほぼ維新前ということだろう。夜明け前は暗い。
だが、夜が明けても青山半蔵(モデルは藤村の実父)にとっては夜明け前よりも暗かった
に違いない。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
主な参考書  文部省『学制百年』
日本科学史学会『日本科学史大系』第一法規    出版   
   寺崎昌男『東京大学の歴史』講談社学術文庫
百年史編集委員会『東京大学百年史』

土地はは元来無主である

2010-12-05 08:00:07 | 日記

   
 仮に太洋の真ん中に小さな無人島があったとしよう。たまたま通りかかった船人たちがそれを見つけ、自分たちが最初に発見したからとして、自分たちの所有権を主張することができるだろうか。私にはわからない。
 無人島ではなく昔からの住民がいたらどうか。船人たちはその島を自己のものと主張することはできないだろう。島ではなく大陸ならどうか。大航海時代にヨーロッパ人はいわゆる「新大陸」に上陸して、先住民が見ている前で国旗を立てて自国の土地と宣言し、先住民を追い払った。
 オバマ大統領はそれを「私たちのために、彼らはわずかな財産を荷物にまとめ、新しい生活を求めて海を越えてきた」と、アメリカ合衆国の栄光の歴史の1ページとして就任演説の中に取り入れた(ブログ「神の国アメリカ」参照)。
 過去の歴史だ。そういうことは地球上にいくらでも起こったことだろう。だが、21世紀の現代においてそれを誇示することの意味は何か。先住民から土地を奪い、反対するものを迫害し、西部の荒地に追いやった。多少とも良心のとがめがあれば大統領就任演説でそれを言うことはあるまい。

 尖閣諸島の所有について争いがある。だが、「わが国の固有の領土」という点ではほとんど国論が一致している。
 日本政府の公式見解は、日本が領有権を主張するまではどこの国の領地でもなく、つまり清国領でも台湾領でも琉球領でもない「無主の地」ということらしい。だから1895年1月14日の閣議決定で日本領に編入してはじめて「無主の地」ではなくなったというものである。
 この編入の措置は、「無主の地」を領有の意志をもって占有する「先占」にあたり、国際法で正当と認められている権利だという。なお、この閣議決定の日付は、下関条約の交渉が開始(3月29日)される2か月ほど前で、いわば滑り込みセーフというところか。

 土地の所有権というものの明確化は資本主義の発展に伴う。ホッブスやロックの時代、所有権の確立が個人の確立に繋がったという主張があるが、本当だろうか。
 藤村の『夜明け前』の青山半蔵は、御一新が封建制度を打破し民衆に希望をもたらすと信じていたが、出来上がった明治政権は、その民衆から山地の入会権を奪い、あまつさえ大方の山地が官有地となり民有地はごく僅かしか残らなかった。旧庄屋、旧戸長として木曽谷16か村の代表として旧に戻すよう県令に請願した半蔵はその地位を奪われ、その後悲惨な生涯を送らざるを得なくなる。

 民衆は明治維新で多くの入会権を奪われ、さらに戦後の農地改革でも奪われた。
 資本主義的所有権が確立していない地域では、元来近代的な意味での所有権は存在していない所も多い。その地域が先進国?帝国主義国?に支配されるようになると、所有権者が存在しないという理由で土地が奪われることになる。日本に支配されたときの朝鮮がそうである。

そもそも、荒地や奥深い山地などに所有権はなかったのである。もっとさかのぼれば、土地に所有権などある筈もなかった。アメリカ・インディアンに土地の所有権概念がなかったのは当然である。ヨーロッパからの移住民は、新大陸を「発見」し、「発見」した土地はすべて自分たちの土地だと信じた。

 大航海時代以降、ヨーロッパ列強の世界進出の過程で、海や島嶼にも所有権が張りめぐらされた。先住民の存否は関係ない。
 尖閣は1895年までは「無主の地」だったという点では異論がないらしい。与野党揃ってそう言っているようだ。1895年の閣議決定は伊藤博文内閣のときで、この年、朝鮮ソウルで日本軍がクーデターを起こし閔妃を殺害、また台湾を「平定」した。その前年にはフランスでドレフュス事件が起き、97年にはアメリカがハワイ合併し、ドイツが膠州湾を占領した・・・そういう時代である。
 
 尖閣諸島にも何千何万年の歴史があるだろう。海洋の民が、筏や丸木船の昔からこのあたりを航行してきたことは容易に察しができる。この近辺は好漁場でもあるというではないか。なのになぜ19世紀の終わりまで「無主の地」でありえたのか。琉球王朝も台湾も中国も領有権を主張してこなかったのはなぜか。その理由を解き明かした記事にお目にかかったことはない・・・。
 「無主の地」で平和にやってきたのに、誰かがその土地の所有権を主張すれば穏やかに済む筈はない。なぜ明治政府は閣議決定という手段で所有権を得ることができたのか。

 私はそのような土地は世界の共有地、いや、永遠の「無主地」にして、周辺諸国あるいは国際組織が協同で管理すべきだと思う。島嶼に所有権がなければ一帯は公海となり領海や経済水域もなく、どの国の漁船でも漁労ができる。巡視船が追いかけたり逮捕したりする必要はない。その自然環境を守るために周辺諸国が管理当番を決めるのもいい。私ども
の町内ではゴミ当番というものがあり、一か月交代である。
 そして少しずつ「無主地」を広げていく、とりあえず無人島などを。

 「北方領土」とは面白い名だ。戦前の地図にはもちろんない。講和条約後にできた名だ。それに対応する「南方領土」というものはない。だから北海道から沖縄までが「南方領土」なのかもしれない。戦前、千島列島全体が日本の領土であった。いまは他国の人が住んでいる。どいてくれというのは難しい。とりあえず「無主地」とする案はどうだろう。そして日本人もロシア人も住みたい人が住めばいいことにする。そしてその「無主地」を徐々に広げてゆく。やがて世界全体が「無主地」になるまで。
 こういう考えならトルストイ翁も賛成してくれるのではないか。

 近代的主権概念を確立したのはフランス人ジャン・ボダンだといわれるが、第二次大戦後のフランス外相シューマン宣言に基づいて西ドイツを含む西欧6カ国が欧州石炭鉄鉱共同体がつくられ、紆余曲折を経て今日の欧州連合(EU)が誕生した。この欧州連合の結成がすすめられているとき、わが国では、主権を害するものだと強烈に非難する人たちもいたが、今日、そういう声もあまり聞かれなくなった。
 たしかに欧州共同体も多くの問題を抱えている。だがそれは前向きに克服していくしかないだろう。昔の主権概念を切り崩してゆくなかから、土地の所有概念も消滅してゆくかもしれない。あまりにも楽天的かもしれないが。

 東アジアで、あるいは東南アジアをも含めて欧州共同体のようなものを作ることは理念的には可能だろう。だが実際問題としては困難だ。かつての覇権国家日本の現状が最大のネックになる可能性が高い。日本人には「欧州共同体」的発想は無理かもしれない。
 先日新聞にギリシアの一市民の声が紹介されていた。「国は国民の生活を守るためにある、それができないなら国は要らない」と。
 
 若い頃読んだマルクスの言葉を思いだす。「一社会全体、一国民、いな同時代の諸社会をいっしょにした全部といえども、土地の所有者ではない。彼等は土地の占有者、土地の用益者たるに過ぎぬのであって、boni patres familias (よき家父)としてこれを改良して次の世代に伝えねばならぬ」(『資本論』第三部、長谷部訳)。
 実に平凡な言葉だが、この平凡な考えさえ思い浮かばない人々が巨大な発言力を持っているのには閉口する。