静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

プリニウスつれづれ(5)ラス・メドゥラスの金

2016-12-15 16:38:03 | 日記

   

 1616 プリニウスつれづれ(5)ラス・メドゥラスの金                                         

          <「Z5 ラス・メドゥラスの金 プリニウス随想(5)」の改訂版>                                                                                  

 

                                                       (一)  自然の崩壊を凝視する

                                                      (二)  世界遺産ラス・メドゥラス

                   (三)ローマにおける金と富

                   (四)エコロジスト、プリニウス

                   

  (一)自然の崩壊を凝視する

 

プリニウスの金言

「征服者のように自然の崩壊を凝視する」(spectant  victores  ruinam  naturae)・・・これは、ヒスパニア(スペイン)の金鉱山で、掘削してつくった墜道(トンネル)の丸天井アーチの支柱を切り離し、その上の山の岩石を一気に谷底に崩落させる・・・それを凝視する坑夫たちを描いたプリニウスの言葉である。

 ドイツの古典学者ヴィルヘルム・ヴェーバーは『アッティカの大気汚染―古代ギリシア・ローマの環境破壊』(1990年、野田倬訳、1996年)の冒頭でこの言葉を掲げ、さらに本文で「その簡勁にして的を射た隠喩によって、まさに永遠に残る金言となっている」と述べた。

かれは、古代人自身に語らせるという手法で、古代(主としてギリシア・ローマ)の環境破壊を告発した。それは現代の人間にとっても決して無視できない課題を突きつけている。なかでも同著の「『われわれは大地から内蔵をつかみ出す』―採鉱の呪い」と題された章がそうである。冒頭の「征服者のように・・・」の警句はそこにも掲載されている。「われわれは大地から内蔵をつかみ出す」と言う言葉もプリニウスのものである。この章はほとんどが『博物誌』からの引用とそれに基づく解説・論評の展開であり、プリニウスの思想を的確に伝えている。しかし、鉱山での採掘の手順を紹介しているわけではないので、筆者はそれとは別に、プリニウスの記述に沿って検討してみたい。

 一方、この書が発刊される一〇年ほど前、スペインの北西部にある古代ローマの金鉱山の採掘跡がラス・メドゥラスとして世界遺産に登録されて(1979年)一躍注目を浴びた。このラス・メドゥラスの鉱山跡が、はたして『博物誌』で伝える金鉱山の跡なのかということを含めて検討してみたい。

 

当事者としてのレポート

プリニウスは四五歳ころヒスパニアのプロクラトル(皇帝代官)に任ぜられた。ヒスパニアにはローマ帝国の重要な金山が幾つもあった。任地にあるそれらの金鉱山も当然彼の視察の対象だったに違いない。

 プリニウス によると、当時の金の採掘法に三つあり、なかで最も重要なのがアルギア(arrugia)だという。アルギアは、今日でもスペインでは深い鉱山を指す言葉として使われているらしく、ギリシア神話中の亡き妻を求めて冥界に赴いたオルフェウスの話に関係があるらしい。以下はプリニウスによるアルギアの説明である。

 

 第三の方法(アルギア)は、巨人(訳注:ギリシア神話に出てくる巨人族のことか)の業績をもしのいだことだろう。長い距離の坑道が掘削されてゆく。山々は灯火を頼りに掘られてゆく。仕事の交代も灯火による。坑夫たちは何ヶ月ものあいだ日の目を見ない・・・人々は夜昼となく働き、暗闇の中でその鉱石を肩に担いで一人が次の者に渡すというようにして運び出す。その列の端にいるものだけが陽の光を見るのだ・・・突然割れ目が崩れて働いていた人々を押し潰す・・・火打石の塊にぶつかると、火と酢を用いて砕くのだが、熱と煙のため坑道では息をつまらせるから破砕機で打ち砕くことがむしろ多い・・・火打石の塊に伴う仕事は比較的容易だと考えられている。というのは、ガンディアと呼ばれる砂を混じえた一種の陶土から成っている土があって、これに出会ったらほとんど処置なしであるから。彼らは鉄の楔と上に述べた破砕機でぶつかっていくのだが、これは存在するもっとも困難な仕事だと考えられている・・・

 ・・・穴掘りの作業では、上方の山の重みを支えるために、ところどころ丸天井のアーチをつくる。穴掘りの仕事が完全に終わったら、奥のところから順次そのアーチの支柱をそのてっぺんで切り離していく。割れ目ができるとそれは崩壊の警告である。それを目撃するのは山の頂上にいる見張り人だ。彼は叫び声と身振りによって坑夫たちに退避するよう警告を発し、彼自身はその瞬間に飛び降りる。割れた山は人の想像を絶する轟音と、同じく信じられないほどの烈しい爆風を伴って、広い谷間へと崩れ落ちてゆく。坑夫たちは征服者のように自然の崩壊を凝視する。

 

さて、谷底に崩落した岩石をどうするか。実はあらかじめ山鼻にある滝頭に貯水池が掘ってある。縦横とも二〇〇フィート、深さ一〇フィートだという。その水は往々一〇〇マイルほどの遠くから引いてくる。遠くの高い山から引いてこないと落差がつかないのだ。そのための経費や労力は、鉱石を掘るよりもかかるほどだ。山の中腹にくりぬいた木の樋を乗せる水路を作る。その作業をしている人夫たちは綱でぶら下がっているので、遠くから見ると鳥の群れを見るようだ。彼らは水準器をもって道筋の線の印をつけているのだ。峡谷や地の割れ目には石積みの高架橋をつくる。硬い岩にぶつかったら、山腹を削りとってでもして木の樋をのせる通路をつくる。こういう作業が延々と続き、コルギと呼ばれる水路ができあがる。

水路を運ばれてきた水は貯水池に溜められるが、満水になると堰を開ける。その奔流は谷底の金を含んだ岩屑を押し流す。流れが平地に達すると、そこには階段状に溝が掘られていて、その溝の底にハリエニシダという植物が敷いてある。ざらざらしているので流れてくる金を食い止める。ハリエニシダは乾かして焼く。その灰を、底に芝生を沈めある水中で洗う。するとそこに金が沈積する。水流に運ばれた土砂は海中に滑り込む。プリニウスは「ヒスパニアの土地はそのために沖の遠くまで押し出されてしまった」という。

彼は、ヒスパニアの北西部ではこの方法で年二万ポンドの金を産したが、これほど長く継続的に金を産出したところは世界のどこにもないという。ローマの元老院は以前、乱開発から守るためイタリアでの採鉱を禁じたと、プリニウスは再度にわたって伝えている。その禁令の内容や実効の成果については分からないが。ヒスパニアにはその禁令は出ていなかった。後でそれに関連することを述べる。

 

  (二)世界遺産ラス・メドゥラス

 

水による山崩し 

世界遺産に指定されているラス・メドゥラスの金鉱山跡が、上記のプリニウスの描いた鉱山跡だというのが一般らしい。以前放映されたNHKの報道やウィキペディアなどの説明はじめいくつかの解説を見たが、それらは細部を除いて大同小異なので、ここではそれらをもって通説とし、それへの見解を述べてみる。

 ウィキペディアは『博物誌』のなかのプリニウスの叙述は十分ラス・メドゥラスに適用できるという。NHKの方は「適用できる」ではなく、プリニウスの記述そのものとして説明しており、さらにそれをパレンシア博士という人が権威づけていた。

 ラス・メドゥラスは、スペイン北西部レオン県のボンフェラーダという市の近くにある古代ローマの金鉱山跡である。削り取られたような鋭くとがった赤い岩肌が数多く突っ立った特異な景観である。

通説では、この鉱山では水を使って山を崩して鉱石を押し流すという方法をとっているという。この方法はルイナ・モンティウム<ruina montium>(山崩し)といわれ、これは、プリニウスが七七年に書き溜めたものだという。

プリニウスはヒスパニアに任官中(たぶん六七年~)膨大な手書きの資料を集めた。七〇年、彼四八歳のとき、ラルキウス・リキウスという人物がその資料を譲ってくれと申し出たがプリニウスは断った。翌年、彼はローマに帰った。七七年は、彼がティトゥスに『博物誌』を呈した年である。だから彼がこの鉱山について書いたのは七〇以前だと考えられる。また、ルイナ・モンティムという熟語は『博物誌』にはいっさい出てこない。

 通説では、プリニウスによるとしながら次ぎのように説明する。三五キロメートル離れた、少なくとも七箇所の水源から、七本の平行な水路によって水を引いてくる。その水はメドゥリオ山頂に設けられた貯水池に満杯になるまで溜める。この貯水池の水量は五〇メートルプールの七倍だったという。その貯水池跡とされる窪みが写真にあったが、それを見た限りでは決して山頂ではなかった。

 

貯水池の役割

プリニウスは、貯水池は山頂ともメドゥリオ山とも言わない。どこから何本とか平行してとかも言っていない。そして貯水池の所在地は先述のように、山の端っこにあって滝が落下するその頭のところに作られると書いている。その大きさは先述のように、縦横七〇メートル、深さ三メートルほどである。通説では山頂とあるが、どうやって水を揚げたのだろうか。モーターもポンプもない時代の話である。プリニウスの記事では、この貯水池には縦横とも三ペス(約九〇センチ)ほどの開口のある五つの堰が設けられてあり、そこから放流される仕組みだったという。だから必要に応じて開閉をくりかえしたのだろう。

 「あらかじめ掘っておいた総延長一〇〇キロメートルにも及ぶという山中のトンネルに一気に流し込んで人工的に斜面崩壊させる」。これが通説の説明である。一〇〇キロメートルといえば東京-熱海間に相当する。トンネル出口の部分の写真を見た。随分大きな穴である。削りとった岩石・土砂はどれほどの量になるだろうか、山の一つや二つはすぐできてしまうだろう。プリニウスは運ばれてくる水路の長さは書いたが、掘削した山中のトンネルの長さはただ「長い距離」と書いただけである。

 この貯水池の水量はどれくらいか。プリニウスのいう貯水池でおよそ一万五〇〇〇立方メートルである。NHKの説では五〇メートルプールのおよそ七倍ぐらい、それを一〇〇kmに及ぶ掘削したトンネルに流して山を崩すという。それがルイナ・モンティウムだとされる。

 通説では、遺跡のところどころ残るトンネルは、山を崩す水を流した跡だと説明している。しかしその地下水路は山の崩壊とともに崩壊した筈だ。では掘削中のトンネルか? NHKで説明していたパレンシア博士は、トンネル入口の岩肌に残るつるはしの跡を示しながら、地面から1メートルほどの高さまでの跡が、それより上の跡と違って浅いことを示しながら、流水が削り取った証拠だといっていた。では、水が通ったというのに崩れていないのはなぜか?

 プリニウスは上述のように、貯水池には五つの水門があるという。つまり、作業の進捗状況に応じて水門を開閉できる。貯水池の水が尽きたら門を閉めて再び水が溜るまで待つ。貯水池は何回でも使える。通説の方式だと、山頂の貯水池は崩壊し再度使うことはできない。一つの谷に沿って幾つかの鉱山があれば、適当な箇所に貯水池を設けておけば、それぞれの山崩しに使える。何度でも使用可能である。わざわざ崩壊させる山の頂上に作る必要はない。必要な分だけ水門を開閉して調節することができる、これは合理的である、山を崩すために水を流すのではなく、谷に崩落した鉱石の選別のために流すのだから。

山崩しで落下した岩石から金を採るにはどうするか。通説ではどれを見ても、砕けた岩石を篩(ふるい)にかけて金を採るのだという。先に紹介したプリニウスの方法とは全く違う。また、他にもプリニウスが書いてもいないことが述べられているが省略。結論的にいえば、プリニウスの描いた金鉱山と通説が語るラス・メドゥラスの金山は別個のものだとすれば割り切れる。両者の基本的違いは、プリニウス式はアーチの支え棒を切離して山を崩壊させるが、通説式は山中に掘ったトンネルに水を流して崩壊させるということである。冒頭に紹介した『アッティカの大気汚染』では「作業が完了すると、アーチの支柱は打ち倒される。・・・壊された山はどんどん崩れ落ちてゆき」と書いている。ヴェバーはまったくプリニウスの記述に準じて述べている。信頼のおける記述である。

 

(三)ローマにおける金と富

 

 プリニウスはある記事によるとと断りながら、アストゥリア、カラエキア、ルシタニアなどではこの方法で一年に二万ポンドの金を生産するという。この三つの地方はいずれもスペイン北西部にある。そのうちアストゥリアが最も多く供給しているという。ラス・メドゥラスはアストゥリア地方にある。通説は、ラス・メドゥラスだけで二万ポンドとしていて、これまたプリニウスの記述と違っている。そんなに容易に採れるものではないだろう。プリニウスは、彼が視察をしている間には、全く採れなかったと書いている。

「ローマ帝国はなぜ滅びたか」というのは、ずっと古くからある古びた設問である。

ラス・メドゥラスの金鉱の枯渇がローマ帝国滅亡の遠因になったというのが、判で押したように通説での定説となっている。

 ローマ帝国の経済的基盤が農業であることは常識であったし、古代史の権威ロストロツェフは帝政初期の経済活動の主要な要素は農業を別とすれば商業であったと述べている。そして、そこで扱われた商品目を見れば経済活動の一端が伺える。またその活動地域は、国外の地であるゲルマニア、ロシア、アラビア、エジプト、インド、セレス(中国)など広い地域に及び、ローマが提供した商品はもっぱらオリーヴ油、ぶどう酒、手工業製品であったという。ローマが受け取る商品の代価の一部はプリニウスの言うように金・銀貨で支払われたが、大部分は特にアレクサンドリアで生産された物資で支払われた。プリニウスは「インドがローマ帝国から吸い取ること五〇〇〇万セステルティウスを下らない年はない」と言ったが、それが帝国に経済基盤を揺るがすなどとは少しも書いていない。「大土地所有がローマを滅ぼす」とは言っているが。

彼が警告したのはその厖大な金額が主として奢侈品の輸入に当てられることに対する批判であった。

 ロストロツェフは、外国貿易より遥かに重要なのは帝国内の交易だったという。帝

国内での交易品は、穀物、ぶどう酒、オリーヴ油、木材、蝋、麻、各種金属や硫黄。

金属は主としてヒスパニア、ガリア、ドナウ諸国の産物であった。そして工業品、とくに奢侈品ではなく日常用品、亜麻、パピルス、毛織物、陶器、金属器、ガラス、ランプ、化粧品など。なかでも最大の品目はイタリアのぶどう酒とオリーヴ油であったという。もちろんヒスパニアやガリアにも送られたが、これらは外国ではない。(ロストロツェフ『ローマ帝国社会経済史』参照)。ついでに、プリニウスの話も載せておこう。

彼は、ぶどう酒つまりワインについて、その栽培過程はもちろん、ワインの保存法についても実に詳しく書いている。それによると、ワインは年数が経つほど美味になり価格も高くなるという。二〇年目までは、これほど大きく価格が上昇するものは他にないという。とくに前一二一年は天候に恵まれ極上のワインができ、この年のワインは二〇〇年近く経った当時でも残っていて、価格は暴騰したという。「我が国の酒蔵に蓄えられている金額はそれほどにも大きいのだ」とプリニウスはいう。ここで彼のいう「金額」は、直接国庫に入るわけではなく生産・運搬・販売などワイン産業に携わる人々の収入になった。そしてそれは国富の増強を支えるものでもあった。

 通説では、筆者の見る限りすべては「ラス・メドゥラスの金はローマ帝国によって根こそぎ持ち去られ、土地の人々にはほとんど何も残らない跡地が返された」と書いている。この文句はとても愛好されているようだ。だが、ヒスパニアは属領とはいえ立派にローマ帝国の一部、いやむしろ中核部分を形成している。これでは、自分が自分を根こそぎ持ち去ったと書いているようなものだ。イタリアという地域から各種物産を購入する場合、ヒスパニアという地域にとって金は重要な交易品の一つだったことには違いないが、同じ国家内での交易でしかなかった。プリニウスもロストロツェフも、ローマ帝国の興亡に影響を与える特別の商品としての地位を金に与えているわけでははいないのだ。

 

(四)エコロジスト、プリニウス

 

 山と海の荒廃

プリニウスは、「こうやってその水流に運ばれた土は海中へ滑り込む。そして砕かれた山は洗い去られる。今までにヒスパニアの土地はこういう原因で海中遠く侵入してしまった」「われわれは前に古い元老院の禁令によってイタリアが開発から守られていることを述べた」と述べていた。彼は、このように自然を破壊する金鉱山の開発に反対だった。

彼が金山の開発を批判したもう一つの大きな理由は、金が人間の奢侈と貪欲を助長するからと考えたからである。彼は金自体に疑いの念をもっていた。「人生における最大の罪は、初めて自分の指に金をつけた人物が犯した罪である」それに次ぐ罪は「初めてデナリウス金貨を作った人物が犯したその罪である」。フキヌス湖の排水路の完工式に列席したアグリッピナの金のマントにこだわったのもその延長である。もちろん、ネロの黄金宮などはもっての外であった。

 厖大な労働力を使い、自然を破壊し、そして得た金を奢侈品に投ずるローマの市民

たちの生活態度を批判して止まなかったプリニウスである。『博物誌』は七七年に詳細な目次をつけてティトゥスに献呈された。しかしそれ以前に、ヒスパニアでの任務遂行中のいずれかの時点で、ウェスパシニアヌスやティトゥスにその状況を報告していると考えるのが妥当だろう。ティトゥスが『博物誌』の完成をプリニウスに催促していたということは、『博物誌』がどういうものか、ティトゥスがある程度知っていたからだと推測できる。

彼がいうように、イタリアではすでに金の採掘は禁ぜられていたが、ヒスパニアではまだ行われていた。ローマにおける金の採掘ははじめ操業賃借人制度で行われていた。鉱山の所有地は国であるが、その試掘権・採掘権を徴税請負人(publicani)に賃貸した。契約時に一定金額が国に支払われ国家の安定した収入になった。国は管理費・人件費を支払う必要はない。だが、契約請負人は、契約期間内に最大限の利益をあげようとして、系統的な採掘をしないで豊かな鉱床開発に専念し乱獲を招いた。安全性も無視され、労働者の健康・生命もないがしろにされた。

 皇帝たちは、紀元一世紀末以降、操業賃借人制度から手を引いていき、鉱山の管理を皇帝の役人に委ね、関連法案を新しく整理したという(『アッティカの大気汚染』参照)。その際、プリニウスの錬言が効を奏したのかどうか、それはわからない。

 ラス・メドゥラスが世界遺産に登録された(1979年)のは、それが古代の鉱業によってできた産業遺産であり、優れた文化的景観を形成しているからだという。二千年近く経った今もなお、樹木一本ない、赤く切り立った山肌を眺めて(筆者は写真でしか見てないのだが)、人間の愚行を見るような気がする。それが優れた文化的景観なのかどうか、それは見る人の主観によるだろう。

 P・L・レヴィスとG・D・B・ジョーンズという二人の人物がスペインの三つの

ローマ金鉱の廃墟をかなり詳細に調査し、その結果を『北西スペインにおけるローマ

金鉱』という書にして出版した(1970年)。この二人のフィールドワークによって、ローマ人が大がかりな送水路網をつくり金の洗浄に必要な水を供給したことが確認された。今日「配管結合機構」と呼ばれるその送水路網はおそらく七本以上含んでいて、それらの管は部分的には直線距離にして二〇キロ隔たったところから始まり、個々の水道は五〇キロ以上の長さだったこと。およそ三四〇〇万リットルの水が毎日流れ込んだこと。大部分はタンクや貯水池に導かれたが、それらはまだはっきりと跡が保たれていることなどが報告された。これは二〇世紀での調査の結果である(『アッテイカの大気汚染』参照)。

 二人の水路網についての報告のこの部分はプリニウスの記述とほぼ符号が合っているし、通説の記述ともそんなに矛盾がない。今まで述べてきたように、それ以外の

説明に関しては疑問が大きすぎる。

 

その後

プリニウス以後も、この地方の金山は二百年ほど続いたらしいが詳細な記録はない。概して古代・中世の鉱業についての記録はごく僅かである。一六世紀のドイツの鉱山学者アグリコラは『デ・レ・メタリカ』を書くに当たって、あまりにも資料が少ないので困惑した。プリニウスの『博物誌』は彼が頼れる唯一の資料だったらしい。

かれは『デ・レ・メタリカ』で鉱石の選別・粉砕・洗鉱について何種類もの方法を詳しく書いている。それによると、アグリコラの時代にはもはやローマ時代の山崩し的な採掘法はとっていなかった。だが、水流を利用して選鉱するという方法は基本的にはプリニウスの時代から変っていない。彼もプリニウスの記述を引いて叙述している。ただ違うのは水流の作り方である。アグリコラの頃にはもはや数十キロ先から水路を引いてくるなどということはない。選鉱に必要な水は主に水車を何段階にも連結して近くの川から汲み上げた。水車についていえば、プリニウスの時代にはローマでも水車はあったし、プリニウスは製粉に水車が使われていた例を挙げている。ウィトルウィウスやルクレティウスも水車に触れている。だが、鉱山での使用については記録がない。

 石炭や石油の存在は古代から知られていたが、それを産業用や生活に使われることはなかった。アグリコラの時代に至ってもまだ化石燃料は用いられておらず、水車が主要な動力源になりつつあった。産業革命の初期においては水車が最重要なエネルギー源であったことはよく知られている。一七世紀には科学に対する新しい考えが生まれた。いわゆる科学革命である。なんら違和感もなく自然界は人間の開発の対象となってゆく。動力エネルギーは石炭にとって代わられ、本格的な産業革命が怒濤のように押し寄せてくる。

 現今、西欧の思想は人間中心主義であるという見解が一般である。自然と人間を対

立的にみなし、自然は人間のために存在し、人間が自然を征服することが進歩だと信

じられていると。もちろん反論もある。だが、神の似姿をしている人間は他の動物とは異なると考え出すと、そのように理論は発展してゆく。古典古代においては、自然はまだ畏敬の対象だった。だから、大地の奥深く掘り進んで金を取り出すというような行為は、自然のはらわたを抉り出すようなものだというプリニウスの思想は、現代では理解できないし、また受け容れられることもないだろう。最後に『博物誌』弟三三巻の冒頭の部分を載せておこう。

 

  さて今度のわれわれの題材は金属、そしていろいろな日用品に対する支払のために利用する資源そのものである。いろいろな方法で、大地の内奥に入り込み、せっせと探し求める物質である。あるところでは、生活が金・銀、それらの合金・銅を求めていて、富を目当てに地中にもぐる。ほかの場所では宝石や、壁や梁を彩る顔料を求めて、贅沢のために地面を掘り下げる。またあるところでは戦闘や殺戮の場で金よりも貴ばれる鉄を求めていて、逸り立つ武勇のために地中にもぐり込むのだ。われわれは大地のあらゆる性質を探し求め、大地の中につくった穴の上に住む。そして時たま大地がぽっかり口を開けたり振動したりすると驚愕する。・・・われわれは大地の内部へはいりこみ、死んだ人々の魂の棲家で富を求める・・・。

 

 

 

 

 

 

                                  

                         


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