静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

モダン・ワールドの悪魔

2015-04-25 18:34:44 | 日記

(〇)はじめに

  ローマの詩人オウィディウスの『転身物語』はギリシア・ローマの神話・伝説をもとにした叙事詩である。古代ローマの人たち、それ以降の人たちにも広く愛読されたに違いない。その冒頭は「世界の創造」である。四つの時代が順に説明される。よく知られた話だが概略を書いてみる(田中秀央・前田敬作訳参照)。

黄金の時代・・・人々は自分の住んでいる近辺しか知らなかった。軍隊がなくても各民族は何の心配もなく、しずかな平和を楽しんでいた。大地は、鍬や鋤に掘り返されなくても、必要なものすべてを供給した。人間たちは、ひとりでに大地から生えでる食物に満足していた。

銀の時代・・・世界がユピテルの支配下になり、一年が四季に分けられた。人は家に住むようになり、穀物の種子が播かれ、牛たちがくびきにつながれて呻き声をあげるようになった。

青銅の時代・・・すぐに武器をとりたがったが、まだ凶悪というほどのことはなかった。

鉄の時代・・・純潔・正直・誠実さに代わって欺瞞・不実・裏切り・暴力・あくどい貪欲があらわれた。共有物だった土地に境界線が引かれた。人びとは、大地から食糧を貢がせるだけで満足せず、大地の内蔵に侵入し、大地が冥界に秘めていた財宝・誘惑的な宝物を掘り出した。有害な鉄と、さらに危険な黄金が白日の下に引きずりだされた。 

 このオウディウスの時代区分は、原始から古代にいたる時代の総括であり、人類の堕落の歴史、その没落を予告するかのようである。もしオウディウスが今日生きていたなら、彼はウランを地上に引きずり出す現在を何と評するだろう。鉄の時代は最悪だが、その後に「核の時代」という滅亡の時代がくると明確に予告しただろうか。ハンナ・アレントは、「一七世紀に始まった近代(モダン・エイジ)は二〇世紀初頭で終わっている。政治の面でいうと、今日私たちが生きている現代世界(モダン・ワールド)は最初の原子爆発で生まれたのである」と『人間の条件』のプロローグに書いた。一九五八年のことである。

 (一)  金鉱山とウラン鉱山

 鉱山業は各種産業の中でも近代化の遅れた分野の一つであることは知られている。今日でも坑内の落盤や火災による犠牲者が絶えることはない。世界各地の炭鉱では大きな落盤や爆発が今でもしばしば起きている。それだけではない、劣悪な労働条件、環境汚染、自然破壊・・・古代と何にも変わらない。それどころか、もっと深刻な破滅的な問題が生起している。

 昔は奴隷や囚人、あるいは植民地や半植民地からの連行した労働者による強制労働がおこなわれ、地域ぐるみの大気や水の汚染、自然破壊が行われた。今日、地下資源が豊富な中南米やアフリカ大陸などで原住民からの収奪・搾取がなされ、かつてない地球破壊が強行されている・・・・。

ペルーの金鉱山

中南米諸国は地下資源の豊富な地域である。その多くの鉱山は外国資本、なかでもアメリカ資本によって経営されている。かつて西欧人がこの地域の先住民から莫大な黄金を強奪したことはよく知られている。その昔から金の産出の多いところであり、 今でもペルーは世界屈指の金産出国である。とくにカハマルカ州やその隣のラリベルタ州にはいくつもの金山がある。ここも主として米国資本で運営されている。

エルトロ金山での話。坑夫の賃金は地下二〇〇―五〇〇メートルでの掘削作業七時間で四五ソル(約一三〇〇円)、五〇キロの鉱石をつめた袋を背負って採掘現場と地上を二〇往復して七五ソル(約二二〇〇円)とある(「毎日」12・1・31~2・2)。二千年前の金鉱山についてプリニウスは「人々は夜昼となく働き、暗闇の中でその鉱石を肩に担いで一人が次の者に渡すというようにして運び出す。その列の端にいる者だけが太陽の光を見るのだ」と書いた。一人一人が背に担いで地上に運び上げるのと、肩から肩へという違いはあるにしても、今になっても人間の肩に依存していることに驚きを禁じえない。

さらにこのカマハル州の金山では、金山を不法占拠した人々が、プラスチックシートを敷いただけの無防備な作業場でシアン化合物を使った精製作業を行っているという。今日、金の精製にはシアン化合物を使用するのが一般だが、この化合物はシアン中毒を引き起こす危険な物質として知られている。古代の物理的方法に頼るだけのものに比べると危険性はまた別のものがある。

 この記事を書いた記者はさらに次のように言う。「まさにゴールドラッシュの西部劇の世界だ。皆が銃で武装している」「金山では数千人が働くが、安全基準も障害・死亡保険もない。事故死しても遺体を引き取る家族のいない独り者ならそのまま地中に埋められる」。ローマ帝国内で発掘された金はローマ帝国の富の蓄積に役立ったかもしれないが、ペルーの金はアメリカ合衆国の株主を潤す。これは二千年前の話ではない、現在進行形なのである。

 ウラン鉱山

 今日巨大な富を生み出すのは、悪魔の産業とも言われる原子力産業である。それはウラン鉱石の採掘から始まる。ウラン鉱山がいかに自然環境を破壊し、そこに働く労働者、周辺の住民に取り返しのつかない被害を与えているかはほとんど報道されない。そもそも、鉱山は何であれ、自然を汚染し、破壊してゆく。金山・銀山・銅山・鉄鉱山から始まり、ありとあらゆる地下資源の発掘は自然の破壊そのものである。自然を破壊するだけでなく人間の心を腐食する。発掘された地下資源の多くは殺人の道具、戦争の武器の製造に利用される。しかし人類史上、原子力ほど熾烈なものはなかった。

ウラン鉱開発の現場は信じられないほどの自然汚染が進み、住民を苦しめている。日本の人形峠でさえも環境汚染と住民の健康被害をひき起こし、今日に至るも解決の道は示されていない。インドやオーストリア、アメリカ合衆国、南アフリカなどでは先住民族の土地で大規模なウラン発掘が行われ、土地の収奪、自然破壊、労働力の搾取、健康破壊が恥知らずにも進められてきた。オバマ大統領もその現実から眼をそらしている。次はたまたま目に触れた新聞記事(2012,3,13,「毎日)からである。

 オーストラリアの先住民族アボリジニたちの土地・自然がウランの採鉱によって破壊されてきた様子をアボリジニの一人アイリーンさんが語る。

「昔はとても平和で幸福だった・・・。ところが七〇年代半ばに鉱山開発が始まり、広大な区域が鉄条網で囲われ、立入禁止になった。ここは私たちが先祖から受け継いだ大地。だが泉は枯れ、動物たちは姿を消し、大地は放射能に汚染されてしまった」。  

日本で使用されるウランの三分の一がオーストラリア産で、その多くがアメリカなどで加工されて日本に送られる。フクシマ第一原発でも使われたという。ギラード豪首相は原発不要論を唱えたが、同国政府は、ウラン採掘は国の基幹産業であり今後四年間で倍増すると豪語したという。

 アイリーンさんはこの地に生まれ野生のカンガルーを捕獲し、果物などを採集して

暮らしていた、樹木が屋根、大地が寝床、それでも「昔はとても平和で幸福だった」

のだ。「大地の表面から得られるものだけで・・・贅沢だと言ってもよいくらいの日々が送られる」というプリニウスの言葉が浮かぶ。黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』が思い出される。ウザーラはシベリアの原野の中で年中暮らしている。彼にとっては枯れ枝も、燃えるたき火も、川の水、魚もみんな仲間であり友達だ、だから人間に語りかけるようにそれらに話しかける。最期に、普通の人間生活の中に入れられた彼は不幸な死をとげる・・・黒澤の最高傑作だ。

 (二)  現代という時代

 グランド・ゼロ

 二〇〇一年九月一一日のいわゆるアメリカ同時多発テロ事件のワールド・トレード・センター跡地が、しばしばグランド・ゼロと呼ばれる。この事件を現代社会の始まりとする見解もある。この見解も今後十分検証する必要があるかも知れないが、ここでは触れない。

史上初めて原爆実験が行われたニューメキシコ州トリニティ・サイトでは毎年四月と一〇月の二回、一般公開が行われるらしい。今年四月の模様が「根強い原爆正当論」と題して報道された(2015.4.6、毎日)。この日(4月4日)、過去最多の約五千五百人が参加していたが、「原爆投下は間違い」という人には出会わなかったし、入場パンフレットには、どこにも原爆被害の実態は記されていなかったという。爆心地「グラウンド・ゼロ」には「一九四五年七月一六日に世界で最初の核兵器が爆発した地点」と記された記念碑が建ち、写真撮影の列ができてごった返していたという。アメリカ帝国「栄光の地」ということなのだろう。また新聞報道によると、米調査機関ピュー・リサーチ・センターが発表(2015.4.7)した世論調査では、米国の広島・長崎への原爆投下が「正当だった」と考える米国人は56%、「正当ではない」は37%だったという。「正当」派は、終戦直後の調査では八五%、九一年では六三%だったのに較べると徐々に下っているが、いまなお五六%の人々が投下を支持しているという。

今日、投下を是認する日本人は少ないと思うが、一方で、アメリカの為すことは常に正しいと信じている日本人も少なくないだろう。ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下直後の日本人の反応も曖昧なものだったと記憶している。かく言う筆者も極めて曖昧だったことを自省している。ここで私事を少し挿入する。

戦後二年半、進学先の学校で、生徒たちの自主企画による一般市民向け展示会が開かれた。テーマは「原子爆弾(あるいは原子力)」だった。新米の私に割当てられたのは、原爆の社会的意義という、荷の重いテーマだった。考えてきた文章を模造紙に書いていると、見ていた一人の上級生が、原爆を科学の進歩だとか文明の発達だとかというのはおかしいと批評した。私は、マスコミや社会の風潮に阿るような文章を書いていることに気づき、直ぐ書き直した。その六年後(1954年10月)、就職した職場で「水爆展」が開かれた。このときは京都大学同学会の京大水爆問題協議会からスチール(パネル)一式を借りた。そのときの「原水爆に反対する『水爆展』を全国民の力で作ろう」(1954年5月23日)というチラシによると、この水爆展を成功させるため教授諸先生の協力の下に全学的に取り組んでいる。中間発表の形として今のスチール展が作られたが、さらにこれを充実させたい。六月一八日から京大で第一回水爆展を開催し(湯川博士の講演も行う)、その後各地に持って回り、運動の大きな力にしたい・・・という趣旨だった。一〇月の職場での展示会開催直後、下宿に警官がやってきて私の指紋をとっていった。未熟な私は、そのときは、その意味がよくわからなかった。今でも気持ちが悪い。

 (三)  悪魔の手

 ゼウスはいない

チェルノブイリとスリーマイルでわれわれは衝撃を受けたが、それで時代のエポックを感じとるところ迄はいかなかった。しかしフクシマの大惨事は、原子力というものが人類の歴史、いや地球の歴史を異なった次元に誘い込んだと思わせるものがある。そして、その始まり、つまりスタートが、ヒロシマ・ナガサキであったことを改めて認識するのである。アイゼンハワーは軍産複合体の危険性を指摘したが、その彼が原子力の「平和利用」という妙手を考案した。

だがすでに、哲学者三枝博音は一九五二年の段階でこのように述べることができた。「原子力を支配し、これを使用するほどにはまだ技術文化も精神文化もその段階に達していないのに、もう人類は途方もない原子力を所有してしまったのである。天上から火を奪ってきたプロメテウスを繋縛するゼウスはいたが、今日人間の手から原子力を一時でもとりあげる人間以上のものはいないのである」(「歴史の歩みと原子力の問題」)。

 西欧では、プロメテウスはしばしば自然の束縛から自由を克ち取った英雄の姿として描かれるが(例えばマルクス『資本論』)、三枝はそのプロメテウスの動きを野放途に放置させない力を要請している。いま、プロメテウスを牽制する役割を果たすとしたらそれは誰か? 民衆の声か? だとしても、その人間の声は弱々しくゼウスはいない。

 悪魔と手を結ぶ

 梅原猛は週刊誌で持論を展開した。

 「日本は・・・西洋文明の暗黒面の被害にあいました。原爆と原発による被害です。科学技術文明は自然を奴隷のごとく支配する文明です。原子力という人類にとって危険な悪魔と手を結んで生まれたものです。もはや悪魔と手を結ぶわけにはいきません。自然、すなわち太陽と水の崇拝を取り戻し、森の恩恵を受けて生きるという文明に戻らなければなりません。自然を支配する文明から自然と共生する文明に変えていく。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       これは人類の急務です」(『サンデー毎日』2012.3.11、増大号』富士山鼎談「大震災後の日本導く『信仰と芸術の山』」)。

 三枝はチェルノブイリもスリーマイルもフクシマも知らなかったせいもあるのか、原子力を悪魔と手を結んだとまでは言っていないが、早い時期にその本質を見抜いていた。だがその一方で三枝は梅原と違って技術文化や精神文化発達がそれを可能にすると考えていた節がある。その三枝も、今日の実情を見れば決して容認はしないだろう。彼が上記の論文を書いた頃、ハーバード大学学長のJ・B・コナントは、太陽エネルギーは一九七六年代にはすでに大きな役割を演じ始め、今世紀終わりには、工業原動力の生産における支配的要素となっているだろうと予見したという。(上記・三枝論文による)。つまり二〇世紀末にはエネルギー問題は解決していると楽観視したのである。

 現実はそれを裏切ってゆく。予想は悲観的な方向に進んでしまった。その背景にあるのは、なんといっても産業資本・金融資本の力である。原子力産業が世界的に見てどういう機構のなかに組み込まれているのかは知らない。だが、素人の推測によってみても、それが巨大な、世界的規模の魔王のような権力を保持していることは想像がつく。それはおらくわれわれの眼からは隠されていて計り知ることもできない。そのしくみを産業資本や金融資本が大衆に示すことはありえないだろう。東京電力福島第一原発の事故で、ようやくその一端が民衆の眼の前にさらされるようになったとはいえ、まさにそれはほんの一端に過ぎない。原子力発電所は核兵器から派生して生まれてきた。そしてその基底にはさらに遙かに大きい巨大な資本が横たわっているが、その実体は世界のほとんどの人たちには隠されたままである。

 理念のない開発

 三枝は、戦後わが国にアメリカ的な教育概念が注入されて、科学と技術がきっぱりと区別されず、ごちゃまぜに受けとられてしまったと論じた(「科学教育と人間性」)。アメリカでは大学にも街にも工事現場にも、どこにも理念などというものはない、ということになる。理念とは思想なり哲学なりをいうのだろうが・・・。運河やダムを作るにしても、あるいは原爆・原発を造るにしても、そこにはそれを作る理念などはない、政治の課題としてあるだけ、ということらしい。こういう社会はプラグマティズム発祥の地アメリカらしい発想ではないか。もっともプラグマティズムも哲学だと言ってしまえばそれまでだが。

 元電力中央研究所主任研究員という肩書きのM氏へのインタビュー記事を最近読んだ。それによるとM氏は次のように結論付けた。「原子力エネルギーそのものは、やっぱり夢のエネルギーだと思うんですよ」「人類が本当に放射能汚染の心配なく、安心して使用できるように技術開発を進めていかなければならない。その完成は五〇年、百年先かもしれない。そのためにも今の原発は廃止すべきです。今の原発の廃止が遅れれば遅れるほど、その完成は遅れることになります」。

M氏の発言の背景にもプラグマティズムが存在している。物理学の最先端の研究者間には、物理学こそが哲学に代わって世界を解明することができると語る人もいる。物理学者が数学を駆使して宇宙を解明し原子の世界の支配方法を発見してくれる! その資金調達方法は近代経済学者が得意の数学を応用して考案してくれる・・・? 少し時間をおけば、少し歴史の間を抜いて考えれば、事物の解決は容易である・・・? そういう発想なのだろうか。

福島第一原発のあの悲惨な現状、地獄の果てのようなウラン鉱採掘現場の情景は、人間の欲望が自然をあのように削り取ったラス・メドゥラスの赤茶けて尖った山肌のように、将来、人間の愚行の証しとして世界遺産に登録されるのだろうか。いや、それだけでなく、フクシマの破壊された原子力発電所もあるいは世界遺産になるのかも・・・二千年先、三千年先にまだ人類が生きのびていることが前提になるのだが。使用済み核燃料の始末にも数十万年かかるというではないか。そしていま、地球上至る所にその使用済み核燃料が蓄積されつつある。遠い将来、ホモサピエンスに代わる放射能に免疫をもった人類が地上に誕生して、われわれがペルーのマチュ・ピチュの遺跡を眺めるような眼でそれを彼らが眺めるのだろうか。

 古来、黄金は富の蓄積手段あった。今日ではウランは黄金より遥かに大きな富を生み出しているのだろう。ウラン採掘から始まる巨大な原子力産業は、信じられないほどの富を資本の所有者にもたらした。「原子力村」の人たちはその富の分配にあずかり、悪魔に魂を売り払い、人間性を投げ捨ててしまったと評されても仕方ないだろう。

(四)  地上資源文明論

 新聞に「ヒロシマ・フクシマ ”地下”から”地上資源文明”へ」という論説が載った(12・3・25、「朝日」ザ・コラム)。論説委員の吉田文彦氏は宇宙物理学者・池内了氏の見解を紹介しながら次のように表現した。「新たな文明―それは、自然の恵みとも言うべき太陽、風、水、森林、海流などの再生可能なエネルギー源が支えとなる文明・・・」、そして、フクシマが、そして日本人が地上資源文明の先駆者となり、地球人を変えていく力になれば・・・と。 

 この「地上資源文明論」の数日後の新聞コラム欄に、足尾銅山鉱毒事件に関して勝

海舟が「文明の大仕掛けで山を掘りながら、その他の仕掛けはこれに伴わぬ・・・元

が間違っている」と述べ、田中正造の「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」という言葉が紹介された(「朝日・天声人語」12・3・27)。

このように地下資源の無闇な開発に対する疑問が新聞論調にも現れるようになった。これはフクシマ以来のことだと思う。

 もっと徹底していたのは安藤昌益だった。『自然真営道』で安藤昌益は、地下資源の採掘は自然を拷問にかけて資源をしぼり取るものだとして厳しく強く批判した。           

 最期に、オーストリアのアボリジニ、アイリーンさんのこと、プリニウスの言葉も、そして黒澤明の映画のことももう一度述べよう。

アイリーンさんはこの地に生まれ野生のカンガルーを捕獲し、果物などを採集して

暮らしていた、樹木が屋根、大地が寝床、それでも「昔はとても平和で幸福だった」

のだ。そしてプリニウスの言葉「大地の表面から得られるものだけで・・・贅沢だと言ってもよいくらいの日々が送られる」。黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』。ウザーラはシベリアの原野の中で年中暮らしている。彼にとっては枯れ枝も、燃えるたき火も、川の水、魚もみんな仲間であり友達だ、だから人間に語りかけるようにそれらに話しかける。普通の人間生活の中に入れられた彼は不幸な死をとげる・・・。

(今回、二年前の草稿に若干手を加えて投稿した。2015/4/25)