静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

現代の行方

2011-05-29 12:03:04 | 日記

 (一)
 元東大学長・文部大臣有馬朗人氏は、阪神・淡路大震災後の浜岡原発の視察で、1
0メートルの砂丘が防波堤になるとの説明を受け、これなら大丈夫と思った。以後「
私の周りの研究者から津波の話が聞こえてきたことはありません」と言い切っている
(ブログ「現代の迷走」参照)。
 有馬氏には聞こえなかったかも知れないが、いろいろの声はあった。私のような門
外漢でも新聞などでいくつか知っている。共産党の吉井議員は2005年以降くり返し国
会で津波による原発事故に警告を発していた。産業技術総合研究所の岡村行信氏は09
年夏、原発に関する経済産業省の審議会で貞観地震(869年)の名を挙げて警告を発し
たが東電は無視した。経済産業省の原子力安全基盤機構は昨年(10年)の12月に津波
による原発の事故の危険性を分析して報告書をだした。もっとさかのぼれば、14年前
に、神戸大学教授で地震学者の石橋克彦氏が「原発震災」と名づけて大地震・大津波
による原発事故の発生に警告を発していたという。
 前に私はブログ「フクシマの悲劇」で、10年前ある週刊誌が「シュミレーション・
ノンフィクション・原発災害」という連載記事を載せたと書いたが、それは2001年3
月4日号の『サンデー・毎日』である。ルポライターの明石昇二郎氏は、気象庁地震
予知情報課の上垣内修課長補佐、京都大学原子炉実験所助手・瀬尾健氏、瀬尾氏の同
僚であった小出裕章氏、上記の石橋克彦氏などから情報を得てこの連載記事を書いた
。なお、この記事によると、石橋氏は99年11月21日号の『サンデー毎日』の「今こそ
『原発震災』直視を」の筆者でもある。なおまた、この石橋氏も加わり堺屋太一氏な
ども名を連ねて「共同研究・東海巨大地震が日本列島を分断する!」という記事が月
間『現代』1976年12月号に掲載されたという。そのほか、私の知らない事例は多数あ
るのだろう。
 よく分からなかったが、今になって考えてみると、上記の学者・研究者たちはおそ
らく「原子力村」から村八分された人々だったに違いない。
 
 『サンデー毎日』の「シュミレーション・ノンフィクション・原発災害」では、震
度は7、そして10メートルを越す津波が浜岡原発を襲ったという想定である。今回の
東日本地震のような沖合いのマグニチュード9は予想していない。それでも日本列島
崩壊に近い災害が起きると想定した。

(二)
  有馬氏の周辺の津波研究者、この人たちは津波の危険性には声を上げていなかった
。もう一方にはその危険性を繰り返し唱える研究者。
 つまりわが国の地震研究者には二種類の人たちがいて、互いに相い交わることもな
く、両者の間には断崖があった。
 地震や津波の原発に及ぼす災害を軽微に考える研究者たち、この人たちは基本的に
原発を推進し原発の安全性を主張する人たちである。原発推進は国策である。国策は
国会や政府が決める。長いあいだ圧倒的優勢な政権党だった自民党政権の下で決定し
、民主党政権が引き継いだ政策である。
 日本は民主主義国である。憲法によると、国政の権力は国民の代表者がこれを行使
するとある。国民の代表者は選挙で選ばれる。国会議員、そして国会議員が選ぶ総理
大臣がそうである。
 原発行政を支えるいわゆる「原子力村」の学者・研究者は国策の遂行者であり、国
家権力の一翼を担っている。一翼くらいではないかも知れない。
 最近の世論調査では多少の変化があったらしいが、今まで一貫して世論の多数は原
発を支持してきた。反対者は異端であった。したがって出世は望めない。中世ヨーロ
ッパでは異端者や魔女は火炙りの刑に処せられた。それに較べればいい。
 だが最近様相が変化したようだ。朝日新聞は5月25日から「神話の陰に」という
タイトルで連載を始めた。第一回目は「原子力村は伏魔殿」と題された。いまや原子
力村に悪魔が住むということになったらしい。

(三)
 古代や中世の人々が原爆投下をみたら、これぞ悪魔の仕業だと心から思ったであろ
う。だがアメリカ合衆国の人々の多くは今でも原爆はアメリカの勝利に貢献したと信
じて原爆投下を肯定しているらしい。そういう人たちは、悪魔の仕業ではなく神の御
業と思っているのかもしれない。
 原子力発電が原子爆弾から発達したことは誰でも知っている。
 原子物理学の研究は1930年代に急速に早まり、1932年に中性子が発見され
、核分裂の原理は世界の原子物理学者の常識となった。戦中に日本の陸軍・海軍がそ
れぞれ原爆の研究を始めたことも周知のことである。だがわが国では終戦までに原爆
はできなかった。ヒロシマ・ナガサキに原爆を落とされ、日本国民は人類史上最初の
犠牲者となった。しかし、日本の科学者たちは最初の「原爆悪魔」になることを免れ
た。軍から厳しく製造を命じられていた理化学研究所の学者たちは、戦後ほぼ全員が
非核運動に加わったという(保阪正康氏による)。かれらは「原子力村」を作ること
はなかった。                                                               
                               
 私はブログ「フクシマの悲劇」で、教師たちは原発をどう教えてきたのか? とい
う疑問を書いた。ところがこの疑問に答える一つの短い記事が見つかった(朝日・4
月某日<失念>)。東京都のある小学校での話。6年生に、資源エネルギー庁から届
いた副教材のDVDを見せた。福島第一原発が映っていた。発電施設は「五重の壁」
でしっかり閉じ込められていると教えたとある。・・・そして安全神話が崩れたいま
、先生は悩む・・・という流れの記事であった。この記事では、悩む先生の話はあっ
たが、翻弄される子供たちにはなんら言及されていない。おそらく、子供たちは教師
の「嘘」、文部省や教育委員会の「嘘」を見抜いていただろう。だいたい、下手な教
師よりも子供のほうが利口なのだ、率直にものを考えることができるから。
 しかし、虚偽を教える立場に立たされた教師の困惑はわかる。だがわれわれはその
困惑をどう考えたらいいのだろうか。すでに安全神話に対する反論が数多く存在した
し、教師がそれを知る機会はいくらでもあった。だが教師は資源エネルギー庁の副教
材を無批判に教えるしかなかっのだろうか。あの厳しい大平洋戦争中でさえ生徒を戦
場に送り込まなないよう工夫し努力した教師がいたことを前にブログで書いた。
 関西のある自治体では、君が代斉唱のとき起立しない教師を処罰し、処罰が重なっ
た場合馘首もありうるという条令が提案されるという。 そのような条令は憲法違反
だという法曹界からの批判もあるが、現場の教師は弱い。自治体の長といえども権力
の一環であり逆らうことは容易でない。国家にとって、体制に従順な教師や生徒を作
るための教育は極めて重要な課題なのだ。
 戦後六十数年、今回の大災害はその「戦後」を画する大変動のはじまりかもしれな
い。ハンナ・アレント流にいえば、原爆投下に始まる現代は、ここで終末を終えるの
だろうか。その後に来るのは超現代が来るのだろうか。                         
 


現代の魔女、哲学を滅ぼす

2011-05-22 07:15:38 | 日記

 ◆今日のメモ◆
 (1)原子力安全基盤機構は、福島第1原発について、津波での炉心損傷を07年
度から想定し、報告書の中で公表していた。だが事故後、国や東電は「想定外の大津
浪が原因」と主張した。(毎日新聞<5・15>による)。
 (2)ヘリコプターによる放水の数日前、米首脳の「日本政府がこのまま原発事故
の対応策をとらずにいるなら、米国人を強制退去させる可能性がある」という発言が
秘密裏に首相官邸に報告された。(朝日新聞<5・15>による)。
              ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~               
    (一)
 1917年のロシア革命で現代が始まると考えた人は、以前には多かったと思う。
ハンナ・アレントはそいういう見方はしないで、原爆投下をもって現代の始まりとし
た。スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマの悲劇を見る前に彼女は亡くなったが
、まさにこれこそが現代の特質であり、それは彼女の予言だったのかも知れない。
 ナチスの迫害を逃れフランスから更にアメリカへ亡命したユダヤ系ドイツ人だった
彼女が、ファシズムに批判的であったことは当然として、原爆に代表される非人道的
な大量破壊兵器に嫌悪感を抱いたのも理の当然だろう。
 ナチの虐殺も、ついでに言えばスターリンのそれも、そして日本軍国主義の無謀な
戦争・・・これらはすべて家の、政治の為せるものであった。国家の存在が人々を不
幸にしてきた。国家は自国だけでなく他国の人民からもその自由を奪い生存を脅かす
存在に過ぎない、人々がそう考えるのも理の当然であった。大量核兵器はその仕上が
りみたいなものだ。
 原爆のような軍事技術はそもそも国家が開発してきた。国家が存在しなかったらこ
のような恐るべき軍事技術の発達もなかっただろう・・・ハレントはそのように言っ
ているように思える。
 原爆の核エネルギーを制御しながら軍事力に使おうとした最初の例がアメリカの原
子力潜水艦ノーチラス号であった。最初の原子力発電はソ連で。その間各地で原爆・
水爆の核実験と核兵器所有国の拡散、原発の乱立。いまや、あの広大な領地を持つア
メリカでさえも使用済みの核燃料の保管場所に困っている。人類は、今後気の遠くな
るほどの年月を核廃棄物と同居していかなければならない。いや、その前に、ホーキ
ング博士の予言のように、人類は滅亡するか他の天体に移住するしかないのかもしれ
ない。これが現代の人間に与えられた運命である。これは人間自身がつくりだした運
命だが、おそらく、目に見えない運命の女神の仕業だろう。                     
                               
(二)
 原子力は人類の輝かしい発明の一つであり、人類の明るい未来を保証するものだと
考える人もいる。ただ今のところ制御技術や使用済み燃料の処理方法に未熟な点があ
り、これらを解決すれば将来は明るい、必ずそれらは科学技術の発展が解決してくれ
ると、多くの科学者はそう考えているのだろう。科学者がそのように考えるのは自由
であるが、それを政治と結びつけて発言すると問題が生ずる。
 私は前に、人類は原爆を手に入れることによってその魂を悪魔に売ったと表現した
。21世紀の今日、悪魔などという中世期風な発想は通用しないが、原子力を使用す
るかしないかは科学の問題ではなく、哲学の問題だと思う。これも以前、何度か触れ
たことだが、科学者のなかには今や哲学は死んだ、用はないと考える人がいることは
事実だ。
 ハンナ・アレントが、科学者の政治発言に気をつけるよう忠告したのはそれかも知
れない。政治には正義や徳が必要なのである。正義や徳に欠ける政治は人間を苦しめ
るだけである。正義や徳のない政治の社会の中で、どうして科学だけが正常でありえ
ようか。

(三)
 人間が自然を征服するという思想の始まり、つまり近代科学の始まりはデカルト(
1596-1650)であるとよく言われる。デカルトの少し前にシェークスピア(1564-1616
)はいた。
 シェークスピアの作品のなかで自然はいきいきとしている。魔女も活躍する。『マ
クベス』での魔女は毒薬をつくる釜の中にはヒキガエルやヘビ、サソリなどを投げこ
む。
 一方シェークスピアは美しく自然をうたいあげる。『ヴェニスの商人』では「ジェ
シカ、お掛けよ、御覧、天の床は、まるで、燦然(キラキラ)した金の小皿を一ぱいに敷
き並べたやうだ。あのうちの一等小ちゃい星だっても、ああして空を回転する途途(
ミチミチ)、天使(テンノツカヒ)のやうな美しい声をして歌を唱ふんだとさ・・・」(坪内逍
遙訳、以下も)。
  『真夏の夜の夢』では次のようにうたう。                                   
 「覚えてるだろう、いつゥか、俺が、或る岬に腰を掛けてゐて、海豚(イルカ)の背に
 乗ッかかてゐる人魚が、奇麗な声で唄を歌ふのを聴いていると、荒海さへもそれを
聴いて穏順(オトナシ) くなり、大空の星があの海処女(オトメ)の音楽に聴き惚れて、気が
狂って、幾つも幾つも円座から射るように辷べり落ちたのを」
 また『ロミオとジュリエット』でフライヤー・ローレンスは大地の徳を称え。
 「万有の母たる大地は其の墓所(ハカドコロ)でもあり、又其の埋葬地たるものが其子宮
(コブクロ) でもある。さてその子宮より千差万別の児供(コドモ)が生れ、其の胸をまさぐ
りて乳(チ) を吸ふやうに、さらに何か一種(ヒトクサ) づつ霊妙(イミ)じい殊(コト)なる効能
のある千種万種を吸出(スイイ) だす。ああ、夥しい草や木や金石どもの其本質に篭れる
奇特ぢゃ。地上に存する物たる限り、如何な悪しい品も何らかの益を供せざるは無く
、又如何な善いものも用法正しからざれば其の性に悖り、図らざる弊を生ずる習い。

 そしてシェークスピアはいう。
  「汝、自然、わが芸術の女神よ
  わが義務は汝が掟に従うこと」

 イギリスのある著作家はこう語る。「シェークスピアの時代の始めの頃、実際には
人は自分の目を、もっと知的に、そして自然の作用をもっとしっかりと分析するため
に用いた。現代科学が古代科学から離脱する前夜であった。誇張なしにシェークスピ
アは、過去の豊富な伝統が新しい可能性の世界への道を開く、まさにその分岐点に立
っていた」(ウェザーレッド『古代へのいざない』)。
 ゲーテが『ファウスト』を完成したのが19世紀初頭だった。ゲーテはニュートン
に代表される近代科学に批判的だったが、しかし彼の時代はもうシェークスピアの時
代ではなかった。ファウスト博士は悪魔に魂を売る他はなかったのである。

 現代の魔女は炉にウラニウムやプルトニウムを投げこんだ。                   


現代の迷走

2011-05-13 12:33:33 | 日記

 

(1)非核四原則
 政治思想家ハンナ・アレントが『人間の条件』を刊行したのは1958年。今年は2
011年、半世紀以上経った。彼女はこう書いている(以下、志水訳)。 
 「今日私たちが生きている現代世界は最初の原子爆弾で生まれたのである」。
 原子爆弾が投下されたのが1945年、アレント風にいえば、我々はもう60年以上
現代社会に生きているのである。日本国憲法の公布が1946年11月。日本国憲法は
現代の象徴となりうるだろうか。
 日本国憲法について思う。
 歴代内閣によって「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則は表
明されてきたが(実際は怪しい)、この三原則に加えて、原子力エネルギーを一切排除
するという原則を加えて、憲法にのせて貰いたかった。
 まだある。日本国憲法マッカーサー草案には「土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有ハ
人民ノ集団的代表者トシテノ国家に帰属ス・・・」とあったが、日本政府の働きかけに
よって削除された。(ブログ「都市というもの<5>」参照)。この条文案を活かして
ほかった。あの東北の海岸線に列なる町や村の復興には自助努力だけで済むものではな
い。これについては改めて考えてみたい。
 もう一つ。憲法25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権
利を有する」とあるが、「すべて国民は」を「すべての人は」に、「・・・有する」を
「有し、国はそれを保証する義務を負う」と追加して欲しい。

 人々の幸せと平和を願う観点から憲法をより民主的に改めて欲しい点はまだある。上
記3点は、とりあえず、今回の大震災・原発事故を反省しての、そしてよりよい復興を
願っての意見である。もっとも、憲法を改正しなくても、そに気になればそれに関する
法律を制定すれば間に合うことだが。何でも蚊でも憲法でなければいけないと思う人が
いるので・・・。

(2)技術的知識の奴隷
 ハンナ・アレントは随分辛辣なことをいう。少し長くなるが彼女の言うところを摘出
してみよう。
 「地球は人間の条件の本体そのものであり、おそらく、人間が努力もせず、人工的装
置もなしに動き、呼吸のできる住家であるという点で、宇宙でただ一つのものであろう

 ここまでは大方の人が肯定するところだろう。だがスティブン・ホーキング博士は、
人類は今後1000年以内に災害か地球温暖化のために滅亡すると警告、唯一の助かる
道は人類がどこか別の惑星に移住することだと訴えた。西暦2000年を迎えての発言
だ。彼は「宇宙でただひとつのもの」を肯定したくなかったのだろう。彼は「災害」の
内容や規模については語っていないようだが、しかし、今回の日本列島の大災害(まだ
進行中)を受けて、彼の発言はより真実味を帯びてきた。1000年を視野に入れれば
、「日本列島沈没」も想定外などと言っておれないだろう。
 アレント発言のつづき。
 「ここのところずっと、科学は、生命をも『人工的』なものにし、人間を自然の子供
としてその仲間に結びつけている最後の絆を断ち切るために大いに努力しているのであ
る。たとえば試験管の中で生命を造ろうとする企てがある」「科学者たちが百年もしな
いうちに造りだしてみせると豪語している未来人」「問題は・・・私たちが自分の新し
い科学的・技術的知識を、この方向に用いることを望むかどうかということにあるが、
これは科学的手段によっては解決できない。それは第一級の政治問題であり、したがっ
て職業的科学者や職業的政治屋の決定に委ねることはできない」
 アレントがここで挙げている例は人造人間だが、それは科学一般に当てはまる。彼女
はその理由を次のように言う。
 「現代の科学的な世界認識の『真理』は、たしかにそれを数式で証明し、技術的には
立証できるのだが、もはや普通の言葉や思想の形では表現できない」からだと。もしそ
れを普通の言葉や思想の形で言い表そうとすると「三角形の円」とか「翼のあるライオ
ン」というような無意味なものになるしかない。
 ベントとかシーベルトとか、そんな程度のことは説明を聞けばわかる。しかし原子炉の
奥底は聞いても分かるまい。アレントは、人間は宇宙の住人のように活動しはじめてお
り、本来なら理解できる事も理解できなくなり、考えたり話したりすることを代行して
くれる人工機械が必要となるだろうという。そして「技術的知識(ノーハウ)という現
代的意味での知識と思考とが、真実、永遠に分離してしまうなら、私たちは機械の奴隷
というよりはむしろ技術的知識の救いがたい奴隷となるだろう」と予言する。

(3)科学者の政治的判断は信じないほうが賢明
 原子核物理学者で元東京大学教授・文部大臣の有馬朗人氏は、文字通りの日本最高の
知識人、物理学の最高峰の人物だろう。氏へのインタビュー(毎日新聞、5月6日夕刊
)を行った山寺香氏も「日本のリーダーや科学者の育成を先導してきたこの人」と表現
している。ふと思うことは、このような立派な人が総理大臣であったなら福島原発のメ
ルトダウンを防止できたのではないかということ。
 このインタビュー記事によると氏は「科学技術の進歩によって地震や津波の被害は防
ぐことができる」と言い切ったそうだ。そして「ごく一部の研究者が津波の危険性をい
っていたけれど、それを地震科学者や防災科学者が虚心坦懐に聞いて、国を動かすくら
いまですべきだった」とも。他人事である。一部の危険性を説いた人は冷や飯を喰わさ
れている。そして氏は言う。地震や津波の被害を予測できなかったのは地震科学者のイ
マジネーション不足が原因であると。
 そしてさらに、ABC包囲網で石油の輸入が止まったことが第二次大戦の開戦につな
がったと非歴史的な発言の後、「エネルギー自給率を高めるために原発は必要です」と
。フクシマのあとでも原発推進の意見は変わらないかとの質問に「変わりません。天災
は技術で防ぐしかありません」ときっぱり。どうやら原発事故は天災の一種だと思って
いるらしい。そしてそれは技術で防止できると。だがそれはアレントに言わせれば、技
術的知識の救いがたい奴隷であり、技術的に可能なあらゆるからくりに左右される思考
なき被造物に過ぎないのである。
 そうだとすれば、やっぱりこういう人には総理大臣は任せられない。

 その先の議論をハンナ・アレントはこのように展開する。
 「今日、科学は数学的シンボルの『言語』を取り入れざるをえなくなっているが、こ
の『言語』はもともとは語られる言葉の省略記号として意味をもっていたものの、今で
は言論に決して翻訳し直すことのできない記述を内容としているからである。だから、
科学者が科学者として述べる政治的判断は信用しないほうが賢明であろう。しかしそれ
は彼らの『性格』の欠如- 彼らは原子兵器の開発を拒否しなかった- や彼らの素朴
さ- 彼らはこのような兵器がいったん開発されてしまえば、あとはその使い道につい
てはなにも相談を受けなくなるということに気がつかなかった- のためではない。科
学者の政治的判断を信じないほうが賢明なのは、科学者は、言論がもはや力を失った世
界の中を動いているというほかならぬこの事実によるのである」。

 アレントは原発についてこの書では何もいっていない。彼女の死は1975年、スリ
ーマイルは1979年、チェルノブイリは1986年である。そして2011年のフク
シマ。もちろん彼女はこれらの事件を知ることもなかった。

 東京電力顧問で元参議院議員の加納時男氏の「低線量の放射能は『むしろ健康にいい
』と主張する研究者もいる。説得力がある。私の同僚も低線量の放射線治療で病気が治
った。・・・むしろ低線量は体にいい、ということすら世の中では言えない。これだけ
でも申し上げたくて取材に応じた」(朝日新聞、5月5日)との発言が話題になってい
る。
 この「主張する研究者」の発言は、事故発生数日後(2・3日後?)テレビで偶然見
た。日付も研究者の名前も覚えていない。(放射線研究者といっていたと思う。このテ
レビに出演した人以外にもそのように主張する人はいるのだろう)。あの頃、出てくる
学者、研究者はこぞって「大丈夫」「大したことはない」「心配ない」を繰り返してい
た。その一連の研究者の発言の中でである。その研究者は嬉しそうに(私にはそのよう
に見えた)、「日頃人間は宇宙からの放射線を浴びている。福島原発からの放射線は大
したものではなく、むしろ健康に良い」というような話だった。聞いていて私はびっく
り仰天した。まさか、聞き間違いではないか! その発言を後追いする報道もなく、話
題にもならず、といって私の所には録画する機械もなしだから再見もできない。ネット
で探してみたがみつからなかった。あの、テレビに出た得意満面の研究者や東電顧問の
加納氏は、先頭にたって原子炉周辺の瓦礫のあと片づけをしてほしい、なにしろ健康に
いいのだから。病気が治るかも知れない。もう一つつけ加えておく必要がある。加納氏
はいう「東電をつぶせと言う意見があるが、株主の資産が減ってしまう」。これが日本
だ。「日本株式会社」だ。                                                     


瓦礫を運ぶ皇帝

2011-05-06 13:24:08 | 日記

                                                              
(1)ローマの元首
 よく知られた話だが、スエトニウスが伝えるローマ皇帝ウェスパシアヌスの話を一つ(
『皇帝伝』国原訳)。
 「都(ローマ)は古い火災(いわゆる<ネロの大火>)や破壊(ネロ死後の内乱による
?)によって、醜い姿に変わり果てていた。空き地はその所有者が何もしない場合、誰        でもそこを占有して家を建てることを許した。ウェスパシニアヌスは、カピトリウムの再         建にとりかかり、瓦礫をきれいに片づける作業に、自ら最初に手を下し、瓦礫を肩に担        いで運ぶ。カピトリウム神殿と同時に灰じんに帰していた青銅版三千枚(ローマの古来       の国家的記録)の復元を、自己負担で引き受け・・・」
 巨大な円柱をわずかな費用でカピトリウムへ運ぶと保証した工事技師にウェスパシア      ヌスは褒美を与えたが、彼は「私には貧しい労働者を養わせてくれ(賃金を与えたいと       いう意)」と頼んで技師の奉仕を辞退したという話もスエトニウスが伝える所であるが、こ     の話は以前ブログで書いたことがある。

 ネロの大火についての話。これもよく知られた話ではあるが書いておこう。この大火(
西暦64年)について書いているのはタキトゥス(『年代記』)とスエトニウス。スエト
ニウスはネロが火をつけたと断言している。タキトゥスは慎重に、偶然だったのかネロ        の策略だったのか不明、両説あるとしている。
 出火当時ネロはアンティウム(アンツィオ)の別荘にいたが、報を聞いてすぐローマに
戻った。そのネロがどんな手を打ったか、タキトゥスの説明を肝要にまとめてみた。
 まずすぐにマルスの公園やアグリッパ(ローマの高官)記念建築物、また自分の庭園(
ともに相当広い)を開放した。そして応急の小屋を被災者に作って、無一物となった群衆
を収容した。またローマの外港オスティアや近郊の自治市から食糧を運ばせ、市価より      ずっと安く売らせた。(注:第二代皇帝ティベリウスの時代、穀物価格が高騰し民衆がこれ
を非難した。ティベリウスは、交易商人に報償金を与えて小売り商人の買い値を一定にす
ると約束した。そのためティベリウスは以前と同じく「国父」をいう尊称を贈られたとタ
キトゥスは伝えている。非常の場合、皇帝が穀物価格を下げる例)。
 ネロは、都市再建のために、区画整理をして道路を広げ、建物の高さを制限し、共同住
宅には中庭を作らせ、建物の正面にはネロ自身の費用で柱廊を設けて防火対策とすると    約束した。また、一定期間内に邸宅や共同住宅を建てる者には所有者の社会的地位や財  産に比例した金額を貸し付けた。建物の一部を石を使って堅固にするよう命じた。水道水    が横取りされないように監視人を置いて広く公共の目的に使えるようにした。邸宅所有者    にはみな、消火用器具を備えることを義務化した・・・。あとは省略する。
 ローマ史家の弓削達氏はこう評価した。「ネロのこれらの民衆救護措置や、火事場の後
始末、将来に備えての様々な予防措置は、きわめて合理的であり整然としていて、過不     足のないものであったと言うことができる」(弓削達『ローマ』)。                   

 上のウェスパシアヌスに関するスエトニウスの文章と、このタキトゥスの文章の間には
いくらか符合しない点があるが、よくは分からないので気にしないことにしよう。

(2)人間の資格
 アリストテレスは奴隷についていろいろ述べているが、こうも言っているそうだ。奴隷
に欠けているのは、熟考して決断する能力と予見し選択する能力である。奴隷が人間で     ないのはその欠陥のためだと。
 アリストテレスは随分きついことを言う。すると日本人の大多数は人間ではないことに
なりそうだ。               

(3)不条理
 「ネロの放火」は多分濡れ衣だろう。ローマの復興に彼なりに努力したが、放火の風評
は収まらなかった。やがて悪評の限りを尽くした彼は、身の危険を感じて宮廷を逃れるが
、追手が迫る。覚悟した彼は「この世から、なんと素晴らしい芸能人が消えることか」と
泣き言を繰り返した。「今や足早に駆けてくる馬の蹄の音が、わが耳を打つ」と『イリア
ス』の一節を震えながら呟き、剣で喉を刺し従者が介錯する。その遺骨はマルスの公園     から望むことのできる「庭園の丘」に大理石の棺と大理石の祭壇に葬られたという。 
 タキトゥスが伝えるネロの最後である。とても有名な情景、私も一度書いてみたかった
。たくさんの人が書いている。もちろんみんなタキトゥスの受け売りだが。
 
 タキトゥスはウェスパシアヌスについてもよく知られた情景を残した。
 ウェスパシアヌスは命とりの病気に襲われたとき、「おお、どうやら私は神になるらし
い」と言った(事実彼は死後元老院によって神に祀られた)。次第に病状は悪化し、気絶
するほどの激しい下痢をおこした。「最高司令官は立ったまま死なねばならぬ」と一生懸
命立ち上がろうとしたがかなわず、側近の腕に抱きかかえれれたまま息絶えた。

 ジェロニモと仇名された男は、ヘリコプターから降下してきた兵士たちによって銃撃さ
れ、その死体は山に囲まれた大地からはるばる海に運ばれ、空母の甲板から海に流され    た(「下ろされた」と表現した記事もあった)という。
 
 三陸海岸の津波で数知れぬ人たちが海に流された。その多くが海を愛し、海とともに生
きてきた人たちであった。その人たちの救助に原子力空母から飛び立ったヘリコプターが
「ともだち作戦」の一環として数多くの人たちや遺体を救い上げて陸に運んだ。そして遺
体は大地に還った。だがまだ還れない多くの人たちがいる。
 なんという不条理。                                                           
 私はこの原稿を、チャイコフスキーのピアノ三重奏「ある偉大な芸術家の生涯」を聴き
ながら書いている。人間というもの、人間の社会・・・のなんという不条理さ。

 その三陸海岸の一角に建つ原子力発電所、その暴発によって、自分の住む町・村にも     足を入れられない人々。
 新聞がわが国の原子力発電の発端について書いていた。読んでいない人も多いと思う    のでそのさわりを。タイトルは「米国の『冷戦』戦略受け、導入」「『国策民営』・日本の
原子力、戦後史のツケ」「政治主導で推進、議論尽くさず」とあった(毎日・4月20日
)。米国から日本への原子力導入の働きかけには米国の政策転換があり、アイゼンハワ     ー大統領の国連総会演説「原子力の平和利用」がその転換点だったという。日本側の受     け皿が正力松太郎氏や中曽根康弘氏らであったと。
 そして福島第一発電所の設備や技術がアメリカ直輸入であったことは今では周知の事    実。なるほど、これが「ともだち」というものなのか。
 正力氏も中曽根氏もジャーナリズムがもてはやしてきた有名人、日本の国策を左右でき
た実力者。
 中曽根氏はこの期に及んでもこういう。記録しておこう。
「不幸なことだが、原発推進(姿勢)が揺らいではならない。エネルギー事情や科学技術
の進歩を考えると、この苦難を突破し、先見として活用すれば、日本の原発政策葉より強
固なものとして発展すると思う。そうして行かなければならない。今回は地震より津波の
被害が主だ。津波の対策が出来ていなかった」。
 ジャーナリズムは中曽根氏を「大勲位」と呼び、国の元老扱いしている。毎日新聞は4
月18日(東京朝刊)でほぼ一面を使って、氏へのインタービュー記事を載せた。ありが
たい宣託である。上記はその一節である。
 同紙は本日(5月6日)夕刊にも元東大学長の有馬朗人氏のインタービューを載せた。
この人も原発推進派の主張を展開している。これはこれで日本最高知能の宣託である。
                                                                             
 熟考して決断する能力と予見し選択する能力に欠ける者は人間ではなく奴隷であると   アリストテレスは言う。原子力政策を推進すると決断できる者は「奴隷」ではなく「人間」
なのであろう。                                                                 
 

 

 

 

 


ジェロニモの死

2011-05-04 12:12:32 | 日記

 

 秘儀の部屋のような小部屋に男女十数人が座ったり立ったり、みな一点に視線を集めて  いる。息をのむような真剣な面持ち。神の代理人たちかもしれない。
 そこへ「ジェロニモ、作戦により殺害」という報告が入る。しばらくの沈黙、そして秘
儀の主催者と思われる人物が「我々は彼を仕留めた(We gpt him) と声を発した。ア     パ ッチ族の英雄的な戦士の名を冠せられた人物は滅ぼされたらしい。アパッチは最後ま   で合衆国、白人支配に抵抗したインディアンの部族である。昔「アパッチ族の最後」と いう  映画を見たことがある。それを思い出した。

 神の代理人たちがどんな顔つきだったか、伝えられた報道だけではわからない。きっと   嬉しそうな顔をしたのだろう。歓喜した市民が夜通し「USA」を連呼して敵の死を祝ったと   いう。提灯行列はしなかったらしい。日本軍が南京を占領したときは日本中が旗 行列・提  灯行列で沸きかえった。
 神の代理人たちにとってジェロニモは悪魔だったのだろう。悪魔を退治して、神は彼         らを嘉し給うたに違いない。ジェロニモの死体は原子力空母の上から海中に下ろされ         たという。「下ろす」とはどういうことか? 捨てたということと、どう違うのか?

 このブログを始めたばかりの頃、私は「神の国アメリカ」と題してオバマ大統領の就任
演説を分析した拙文を数回にわたって投稿した。アメリカは「神の国」であるという考え
は今も変わっていない。ただしカッコつきの「神の国」である。こういういい方をすれば
日本は「仏の国」かもしれない。死ねば誰でも「仏」になる。死体は「仏さま」である。
「悪人もってなお救わる」の国である。もっとも、日本の総理大臣で「日本は神の国であ
る」といった人はいたが、それで人気を落として辞任に追い込まれる羽目になった。

 USAの神はキリスト教の神である。大統領は就任式で聖書に片手をおいて誓った。         その聖書には「汝の敵を愛せよ」というイエス・キリストの教えがあるというではないか。
イエスは敵の死体を海に抛れとは言っていないだろう。魚の餌にしろとは言っていない    だろう。

 ああ、ジェロニモの死に歓喜し涙を流すUSAの市民たちよ! ジェロニモの魂は君た
ちを許しているだろうか。