静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

プリニウスの金言

2010-10-24 00:56:05 | 日記
  
 「征服者のように自然の崩壊を凝視する」

 ヒスパニア(スペインの)金鉱山で、丸天井のアーチの上に積み上げた鉱石を、支柱を切り離して一気に谷底に崩壊させる、それを眺めている坑夫たちを描いたものである。

 ヴィルヘルム・ヴェヴァーは『アッティカの大気汚染』の序言の冒頭でこのプリニウスの言葉を掲げ、さらに本文で「その簡けい(「けい」は強いという意の漢字)にして的を射た隠喩によって、まさに永遠に残る金言となっている』(野田訳、鳥影社)と書いた。

 プリニウスは40歳代にヒスパニアほか数箇所でプロクラトル(皇帝代官)に任じられた。ヒスパニアにはローマ帝国の重要な金山が幾つもあった。彼はその金鉱山を直接観察したに違いない。

 ドイツの古典語学者ヴェーヴァーは、古典そのものに語らせるという手法で、古代(主としてギリシア・ローマ)の環境破壊を告発した。
 日本語訳の表題は「アッティカの大気汚染」、ドイツ語の原題は「アッティカ上空のスモッグ―古代における対環境行動」だそうだが、筆者の見る限りまことに当を得ない題である。

 主な内容は現代の人間にとっても決して無視できない課題を突きつけている。なかでもそのハイライトが「『われわれは大地から内蔵をつかみ出す』―採鉱の呪い」と題された章である。冒頭の「征服者のように・・・」の警句はそこに掲載されている。「われわれは大地から内蔵をつかみ出す」と言う言葉もプリニウスのものである。
 この章はほとんどが『博物誌』からの引用とそれに基づく解説・論評の展開である。見事な書きっぷりで、私が何かを言うこともないし、その内容をここで再現するつもりもない。だが、念のために採鉱の様子を描いたその一節は載せておこう。この書(野田訳)とは違う訳文を使う。

 プリニウスは当時の金の採掘法に三つあるといい順に説明しているが、なかでもアルギアと呼ばれる鉱山の掘削法を細かに説明している。その部分である。

 「第三の方法は巨人(ギリシア神話に出てくる巨人族のことか)の業績をもしのいだことだろう。長い距離を押し進められた坑道によって、山々は灯火を頼りに掘られてゆく。仕事の交代も灯火によって計られる。坑夫たちは何ヶ月ものあいだ日の目を見ない」「人々は夜昼となく働き、暗闇の中でその鉱石を肩に担いで一人が次の者に渡すというようにして運び出す。その列の端にいるものだけが陽の光を見るのだ」「突然割れ目が崩れて働いていた人々を押し潰す」「火打石の塊にぶつかると、火と酢を用いて砕くのだが、熱と煙のため坑道では息をつまらせるので破砕機で打ち砕くことがむしろ多い」「火打石にともなう仕事は比較的容易だと考えられている。というのは、ガンディアと呼ばれる砂を交えた一種の陶土から成っている土があって、これに出会ったらほとんど処置なしであるから。彼らは鉄の楔と上に述べた破砕機でぶつかっていくのだが、これは存在するもっとも困難な仕事だと考えられている」

 アグリコラは『デ・レ・メタリカ』第4巻でこの一部分を引用したが、彼はラテン作家のなかで「私がついて行ける人がたった一人ある。それはプリニウスである」と序文で述べていた。

 上の引用文の続きも載せよう。
 「仕事が完全に終わったら、最後のところから始めて、丸天井アーチの支柱をそのてっぺんで切り離す。割れ目ができるとそれは崩壊の警告である。それを目撃するのは山のてっぺんにいる見張り人だ。彼は叫び声と身振りによって労働者を呼び戻せとという命令を発し、彼自身はその瞬間に飛び降りる。割れた山は人の想像を絶する轟音と、同じく信じられないほどの烈しい爆風を伴って、広い谷間へと崩れ落ちてゆく。坑夫たちは征服者のように自然を凝視する(spectant victores ruinam naturae)」。

 このあとを要約する。
 谷底に崩落した岩石はどうするか。実はあらかじめ大きな貯水池が山に作られてある。縦横とも200フィート、深さ10フィート。その水は遙か100マイルほどの遠くから引いてくる。高い山から引いてこないと落差がつかないので、そこから引いてくるのは鉱石を掘るよりも経費や労力がかかるほどだ。
 岩を切り取って、くりぬいた木の樋を乗せる場所を作る。人夫たちは綱でぶら下がっているので遠くから見ると鳥の群を見るようだ。彼らはぶら下がりながら水準器をもって道筋の線のしるしをつける。

 そうやって出来た貯水池の水が満水になると堰を開ける。その奔流は金を含んだ岩屑を押し流す。流れが平地にくると、そこには階段状に溝が掘られていて、その溝の底にはハリエニシダという植物が敷いてある。ざらざらしているので流れてくる金を食い止める。ハリエニシダは乾かして焼く。その灰を、底に芝生を沈めてある水中で洗う。するとそこに金が沈積する。(註:ストラボンは、野蛮人が急流で毛皮を使って金をとっているという。これが金羊毛皮伝説の源か)。

 そして、水流に運ばれた土砂は海中に滑り込む。
 プリニウスが言うには「今までにヒスパニアの土地はこういう原因で沖の遠くまで押し出されてしまった」。
 ヒスパニアの北東部では、この方法で年2万ポンドの金を産している。これほど長く継続的に金を産出したところは世界のどこにもないという。
 以前ローマの元老院は、乱開発から守るためイタリアでの採鉱を禁じたとプリニウスは再度にわたって伝えている。その禁令の内容や実効の成果についてはわからないが。

 アグリコラは『デ・レ・メタリカ』で「自然を破壊するという人がいるが鉱山はほとんど役に立たない野山で行なわれている」と自然破壊を否定した。先にも述べたように、彼は『博物誌』をよく読んで、たびたびプリニウスを引用しているほどだが、自然観については対極にあった。
 さらにアグリコラは「そもそも金属を非難する人々は神を非難していることになる。神は理由なしに事物を作ったのではないから」と、鉱山開発に免罪符を与えた。
 アグリコラの念頭にあったのは「神」であり、プリニウスの念頭にあったのは「自然」である。アグリコラによって地下開発は古代の呪縛から開放され、近代以降の鉱工業の発達に前途を開くことができたとたといったら言い過ぎになるだろうか?

 自然は大地を創り上げ、その母なる大地は人間の生みの親である。その生みの親である大地の奥深く掘り進み鉱物を取り出すのは、親の内臓をほじくり返すのに等しい・・・古代から多くの人が考えてききたことであるし、プリニウスの考えもそうである。しかもなお、それが金の採掘であることがいっそう彼を憤らせる。

 彼はローマへの金の大量流入、生産の増大が市民生活への金の普及を増進し、それが奢侈と退廃をもたらしたことを嘆く。だが、彼が挙げるその多くの事例はここには載せる必要もないだろう。以前述べた、フキヌス湖の排水工事の竣工式でクラウディウスの妻アグリッピナが金糸だけでつくったマントを着て座ってるのを見たという記述も、プリニウスの言外での批判ではあった。

 そして彼はいう。

 ①「人生における最大の罪は、初めて金を自分の指につけた人物によって侵された」
   (註:古くからローマ人には指輪をつける風習があった。当初
    は鉄製のものが使われたらしい) 
                                         ②「儲けの多い怠惰な生活の最初の源は貨幣の発明にあった。急速に、もはやただの貪欲というものではなく、金に対する絶対的な飢餓が、一種狂乱状態をもって燃え上がった」 

 ③「人生から金が完全に放逐できたらよいのだが。金は世界のもっとも賢明な人びとに毒づかれながらも、ただ人生を破壊するためにのみ発見されたのだ」 

 これこそまさにプリニウスの「金」言である。                                                                               

桝本セツとアグリコラ

2010-10-17 08:46:41 | 日記
 桝本セツ『技術史』(三笠全書、昭和13年)を読んでいちばん印象に残ったのは次の一節である。少し長くなるが載せる。

 「採鉱に於いては人は全く無機物の環境に入り込む。そこは鉱石と金属のみの世界で、野も森も、流れも、海もない。地下の岩石の内部には生命がない。地下水を通してしか或いは人間が持ち込む以外には、バクテリア、原生動物さえもが居ないのである。鉱坑の内部には、何らの形もない。雲をうかべた青空は勿論のこと、眼を楽しませる樹木も、獣もない。鉱夫等は物の形態を見る目を失う。彼らの見るものは物体ではなく物質のみ。目は失われ,自然のリズムは破れている。外界にはあまねく太陽の光が降り注いでいるときにも、幽闇な坑内にはただかすかな蝋燭の光が青白く明滅するばかりだ。そしてアグリコラの『デ・レ・メタリカ』には当時の採鉱技術を集大成しながら,そして彼自身医者でありながら、鉱山労働者の受けている肉体的、精神的の殆ど破壊的な苦痛、それを如何にして解決するかの途は少しも述べられていないのである.そして、かかる労働者の状態は、産業革命期を通し、19世紀を通して、ひとり採鉱業のみならず,産業の全領域に拡大し、現代に於ける産業構造、ひいては社会機構の根本的矛盾にまで深化しているに拘わらず、技術者、工学者はもとより、実際政治家は少しもこれに本格的な解決を与えようとはしていないのである。だが、解決のみちは決して存在しないわけではない」。

 ゲオルグ・アグリコラは1494年ドイツのザクセン生まれ。ライプツィッヒ大学で学び、また同大学で教師もし、人文学者として有名になる。その後医学に転じてイタリアに留学、帰途ボヘミアの銀産地のヨアヒムスタールという町に7年間とどまる。その目的の一つは、彼の医学上の知識をこの鉱山で役立てること、もう一つは,彼が生来持っていた鉱山学・岩石学を深め、この両者を結びつけることだった。桝本が「彼自身が医者でありながら」と書いているのはそういうことである。
 アグリコラは多様な書を書いているが、畢生の大作が『デ・レ・メタリカ』(1556年)である。この鉱山町での経験が役立った。

 アグリコラと『デ・レ・メタリカ』を本格的にわが国に紹介したのは三枝博音である。この書の全訳も果たした(岩崎学術出版社、1968年)。桝本の『技術史』はその30年前にすでに出版されている。
 アグリコラの原文はラテン語だが、相次いでドイツ語版、イタリア語版が出た。よく読まれたのは、元アメリカ大統領フーバー夫妻の訳による英語版(1912年)とマチョッスたち訳のドイツ語版(1928年)だという。桝本はこのどちらかを見た可能性はあるが、三枝の日本語訳は見ることが出来なかった。

 『デ・レ・メタリカ』は桝本の言うとおり「当時の採鉱技術の集大成であり、近代鉱業、ひいては近代工業の発達に大きく貢献したとは大方の認めるところである。アグリコラは『デ・レ・メタリカ』全12巻の最初の第1巻全部を鉱業についての既成概念の打破に使った。彼は、鉱業は、自然を破壊するものだとか、自然に反する人間の貪欲から発生したものだという古代からある思想に対し種々の観点から反論した。そのうち興味ある視点・・・鉱山はほとんどが役に立たない山野で行なわれているのだから自然の破壊にはならないし、鉱業は戦争などという暴力ではなく平和な手段で富をもたらす・・・。 

 古代において、乱開発を批判した人はいろいろいるが、ここでは、鉱業というものが人間の欲望にもとづくものだと批判したセネカの一節を載せておく。

 「マケドニアのフィリッポス王の以前にも、銭を求めて地下の最も深い隠れ場まで下った者たちがいた。・・・そこには夜と昼の区別も決して届くことはなかったのである。・・・どんな大きな必要が、天に向かって直立している人間を屈めさせ、地下に送り込み、最も深い地の底に沈めたのか―黄金という、所有することにも劣らぬ、獲得することの危険な代物を掘り出すために。この目的のために人間は坑道を掘り、泥だらけの不確実な捕獲物の周囲を這い回り、昼の日も忘れ、また事物のよい本性も忘れて、そこから自らを他方に転じたのである」(セネカ『自然研究』茂木訳)。 

 アグリコラはいう。多くの人々は、鉱山の仕事は行き当たりばったりの、汚い仕事で、技術も学問も肉体的な骨折りもいらない仕事だと考えているが、鉱山師は多くの技術や学問を心得ていなければならないと。
 どんな学問が必要かというと、哲学・医学・天文学・測量学・算数・建築術・図学・法律とくに鉱山法だという。それはそうだろう。古代ローマ時代、『農業論』のコルメラ、『建築書」のウィトゥルウィウス、『ローマの水道』のフロンティヌスにしても、それぞれの書名からは想像もつかない広範な問題を扱っている。そういう百科全書的な著述法はローマでは伝統的なものであった。 
 だが、実際には『デ・レ・メタリカ』は鉱業と冶金にほとんどが充てられていて、それ以外の技術や学門にはほとんど触れていない。専門化が進み、近代科学的な方向へ途を開くかのように見える。

 彼は医学も大切だと書いているし、彼自身が医者だったにもかかわらず、医術のことにはほんの申しわけ程度にしか触れていない。たとえば、エーゲ海上にあるレムノス島で採取されるレムノス土については「人類にとって有用なもの(薬用に?)とは書いても、具体的には何も書いていない。プリニウスは『博物誌』で、レムノス土の絵の具としての使用法、薬品としての使用法や薬効について具体的に記述している。アグリコラにとって、寄り道などしている暇はなかったのだ。

 『デ・レ・メタリカ』を、たまに手にとって見ることがある。立派な本だと思う。とくに300近くの挿絵がいい。当時の採鉱の技術がわかりやすく描かれていて、とても貴重なものだといえよう。三枝がたびたび紹介しているように、ゲーテもこの書を高く評価した。三枝の引用したゲーテの言葉を、三枝とは別の訳で紹介する。 

 「古今の鉱業、鉱石学と岩石学の全体を包括し、貴重な贈物としてわれわれの眼前にある著作の主アグリコラをいまなお賛嘆する。彼は1494年に生まれ、1554年に歿した。つまり彼は、新たに生まれ出るやすぐさま頂点に達しようとしていた芸術と文学の最上かつ最良の時代に生きたことになる」(ゲーテ『色彩論―歴史編』南大路ほか訳、工作舎、1999年)。

 三枝はこのゲーテの一節に関して「約300の美しい挿絵」が考え合わされていることは間違いあるまいと述べている。だが私にはゲーテの言葉にも三枝の言にも判らない点があるのだが、それは保留としておこう。
 それにしても、美的であるかどうかは別にして、16世紀の鉱山を描いた此の挿絵を見る人は、そこに今日の鉱山の原型を見る思いがするだろう。

 このようなゲーテや三枝の称揚にもかかわらず、鉱山業に対して、冒頭に掲げた桝本のような鋭い批判もあった。桝本はさらにこう言っていた。概略を述べる。

  採鉱技術は古代以来最近までほとんど発達しなかった。他の産業に比べても遅れ、ほぼ2000年にわたって最も原始的な方法が持続されてきた。それと同時に、それに従事する労働者の地位は、最も低い階級に置かれた。最近まで、戦争俘虜や犯罪人、奴隷でもなければ鉱山で働こうとは思わなかった。そして(現代アメリカの文明批評家マンフォードの『技術と文明』1938年)から引きながら)、採鉱業はまともな人間の商売ではなく刑罰の一形式でしかなかった。人間の困難な、命がけの仕事のうち、旧式の鉱山採掘に比べられるのは恐らく近代戦争の第一線の仕事だけであろう。鉱山労働における事故による死傷は、それ以外の労働の四倍にものぼる。14世紀以来、主として軍事的要求によって、このような劣悪な労働条件での採鉱業が強行されてきたのである。(註:升本の『技術史』はマンフォードの多くを学んだのかもしれない)。

 桝本のこのような発想が三枝のアグリコラ論にないのは不思議だ。

 現代の物質文明の発達、大量破壊兵器(なかんずく核兵器)の開発のために人類は地下深く掘削を続けてきたし、今後も一層掘り進んでゆくだろう。地球の地下資源の獲得競争は激化の一途を辿り、国境紛争の止むこともない。
 一方で、掘削技術はますます向上するが、坑内での事故は絶えることがない。医術の発達にもかかわらず病気が地上から消えることがないように、地下の惨事も後を断つことがない。

 桝本は「解決のみちは決して存在しないわけではない」というが・・・。

                                                                                                              

                                                                                                                                                                                                                                       

フキヌス湖のトンネル

2010-10-10 10:32:05 | 日記
     

 1.枡本セツと三笠全書
 枡本セツは古代ローマ、フキヌス湖の排水工事について書いている。筆者は彼女についてはほとんど知らない。知っているのは、戦前の旧民法下、姦通罪で起訴されるのも恐れず、妻と子(三男三女)のある44才歳の著名な科学史家・岡邦雄と結婚したということくらいである。彼女22歳のとき。美しく情熱的な女性だったのだろう。澤地久枝の『昭和のおんな』を読むべきだろうが、そのうちに、そのうちにと思ってそのままになっている。 一冊だけ彼女の著作を持っている。三笠全書の中の『技術史』(1928年)である。三笠全書は縦17センチ、横15センチの小型で、箱入り、濃紺の布を張ったハードカバー、紙質は少し劣るが美しくかわいい本である。

 この著作は、旧石器時代から19世紀までの人類の技術の発達を概観したものである。「序」で著者は「技術史の卓れたものは西洋に於いても極めて少ない。まして日本に於いては、文字通り、まだ一冊も出ていないのである」と述べている。まさにわが国における技術史研究の草分けであり、価値ある書だと思う。ローマのフキヌス湖のトンネルの記述も恐らく最初だろう。

 2、イタリアのヘソ、フキヌス湖
 フキヌス湖はイタリアのアペニン山脈中の唯一の大きい湖であった。卵型をしていて、周りは山である。ほぼイタリア半島の中央に位地し、イタリアのヘソと呼ばれたりした。ローマから東へ約80キロ。
 この湖のある盆地は海抜約2200フィート、それを取り巻く山々はもっと高く、とくに北側の嶺は8000フィートを超えるという。その山麓から湖にいたる土地には古くから町や村があった。主要な住民はマルシ族である。

 このフキヌスの湖水の出口は見あたらなかった。だが、実際には湖の北辺に、水の下に隠れて流出孔があった。石灰岩の裂け目かあるいは穴である。普段は流入してくる水と流出する水の量が均衡していたが、過剰の水を流すには不十分だった。急激な増水があると湖の堤防を越えて平地を水浸しにし、大きな災害を招くのが常だった。

 このような災害を未然に防ごうと、カエサルが企画をたてたが、彼の死によって実現しなかった。アウグストゥスのときも、マルシ族が嘆願したが叶わなかった。そしてこの大事業はクラウディウスによって着手され、完成をみた。

 3、トンネル工事
 桝本セツは、トンネルあるいは坑道技術が、はじめは住居や墓として、次に石材の切り出し、採鉱のため、最後に給水、排水その他さらに高度の文明の要求によって取り上げられたと述べている。そしてエジプト、メソポタミアなどのトンネル技術を概観したあとにローマに移る。ローマに直接影響を与えたのはエトルリア人だった。だが、高度にその技術を発達させたのはローマ人である。
 彼女は、フキヌス湖排水のためのトンネル(桝本の表現)をその例としてあげている。ごく簡単に触れているだけだが、当時としては立派な記述である。こう書いている。
                                      

 「フキヌシ(フキヌス)湖の出路は、爆発物を使用せずして造られたロマ(ローマ)・トンネルの著しい1例である。それはユリウス・ケーザルによって設計せられ、クラウヂウスによって完成せられたもので、3マイル以上の長さのものである。その1マイル以上は、その頂上が湖面から1000フィートの高さにある山の下をつきぬいている・・・穴は・・・非常に硬質の石を通して穿たれたもので、1インチ、1インチと鑿によって掘り続けられたのである」。

 当時の人で、この工事の記録を残したのはプリニウス、タキトゥス、スエトニウスである。3人とも、この工事の目的については何ら触れていない。彼らにとってその目的は言わずもがなだったのだろう。要するに、水害を未然に防ぐということ。だが、湖面が下ることによって干拓地が生まれることも当然ではあった。
 クラウディウスは、排水によってできる干拓地を譲り受ける条件で費用を負担する者が現れたので、栄光と実益のために着手したと、スエトニウスは書いている。真偽のほどはわからない。だがいずれにしても、ローマにとってこの事業は長年の懸案であった。

 しかし当時にあっては極め付きの難工事であったことは確かである。山をくりぬいて水路を作り、リリス川という深い谷川に結びつけた。工事が完成したのは後52年、11年かかった。もちろん、言語に絶する費用と多数の人夫を要した。スエトニウスによれば、11年の間つねに3万が働き続けたという。水路の長さは、先の桝本によれば3マイル(4・8キロ)であるが、これは1825年のリベラという技術者が行った実測結果とほぼ同じである。

 プリニウスはこの事業を次のように描写した。
 「山の内部が土でできたところでは、掘り取った土を巻上げ機で縦坑のてっぺんまで引き揚げねばならず、堅い岩は切り出さなければならなかった。それが暗の中で行われた。目撃した者でなければ想像できるものではなく、どんな人間の言葉でも言い表せるものではない・・・」「クラウディウ帝のもっとも目覚しい業績のひとつ・・・」と。                                             プリニウスはこの工事の模様を「目撃」していたに違いない。完成は彼30歳のとき、タキトゥス3歳、スエトニウスの生まれる前である。
 プリニウスは完成という言葉こそ使っていないが、完成を前提とした文章になっている。タキトゥスは「フキヌス湖とリリス河を結ぶ地下水路が貫通した」と書いた。スエトニウスも「完成する」と書いた。

 だがプリニウスは「この排水路は彼の後継者には顧みられなかった」と伝えている。後継者とはネロのことである。徹底的にクラウディウスを憎んでいたネロは、このトンネルのメンテナンスを全く行わず、崩壊するがままに放置した。そこでハドリアヌスが修復しなければならなかった。
 その後の経過ははっきりしないが、衰退してゆく中世のなかで、岩石や土砂の崩落によって水路はふさがってしまった。その後何度も復旧の試みがなされたが成果はあがらなかった。19世紀後半になって干拓が行われ、現在は耕地になっているらしいが、私は見ていない。

 4、竣工式での見世物
 この水路の完成を祝って盛大に竣工式が行われ、プリニウスも参列した。
 「クラウディウスが海戦の見世物を催したとき、彼の妻アグリッピナが金の布だけで作った軍用外套をまとって、クラウディウスの側に座っているのをわれわれは見た」。
 ごく間近に見たのだろう。彼はすでにそのくらいの地位にあったと思われる。
 この模擬海戦は、湖の水を落とす直前に行ったもので竣工式の一大イベントであり、実際の海戦の規模で行われ、後世まで語り草になった。

 タキトゥスはそれを直接見たわけではないが、とても面白く、まるで見てきたように生き生きと描いた(『年代記』)。スエトニウスの文章も面白い(『ローマ皇帝伝』)。プリニウスは先に述べた、金ぴかの衣装をまとったアグリッピナの話だけである(『博物誌』)。それは金の生産やその贅沢な浪費への批判のなかでの一節でしかない。

 タキトゥスとスエトニウスの文章はよく知られており、しばしば引用される。しかもかなり粉飾されて。もっと後代の人は、もっと盛大に粉飾を行なって読者を喜ばせる。それらをここでいちいち引く必要はないが、もとになったタキトゥスとスエトニウスの一節を載せてみよう。

 「海兵が一斉に『最高司令官万歳、死んでゆく者たちの挨拶です』と叫ぶと、クラウディウスは、『そうとならないかも知れぬ』と答えた」「この発言のあと、兵らは恩赦が与えられたかのように、誰も戦おうとしなかったので、クラウディウスは、火や剣で皆殺しにしてやろうかと、しばらくためらったあげく、とうとう自分の椅子から飛び降り、よろめきながら不恰好な足取りで湖の周囲をあちこちと駆け回り、脅したり激励したりして、交戦へ駆り立てた」(『年代記』国原訳)。
 
 タキトゥスもクラウディウスが嫌いなのである。次はよく読まれた20世紀の著作から。

 「2万の死刑囚が動員され、湖上に軍船を浮かべ紅白軍に分かれて実際に殺しあうのだ。『おお皇帝よ、死に行く者たちが陛下にご挨拶をつかまつる』と叫びながら、かれらは敵船にへさきをぶつけ、沈没して行った。周囲の観客席は熱狂で渦巻いた」(モンタネッリ『ローマの歴史』藤沢訳)。

 この陛下に挨拶するという台詞は人気があって、いろんな人が利用している。
 もう1つ付け加えておく。今まで述べてきたように、ほとんどの人は、この排水路は完成したと書いているが、失敗としている人も多い。ここでは2例だけ。
 「・・・大事業だったが、惨憺たる失敗に終わった」(クリス・スカー『ローマ皇帝歴代史』)。「フィチーノ湖を干拓し、耕作地に一変させる工事である。ただし、この工事は失敗に終わった」(塩野七生『悪名高き皇帝たち・ローマ誹との物語』)。

 惨憺たる失敗というのはタキトゥスの次のような記述による。
 「摸擬海戦が終わって水路を開くと、その水路が湖の底まで、いや中程の深さまでも掘り下げていなかったことがわかった。そこで時間をかけて掘りなおし、今度は剣闘士の見世物が提供された。そのとき、排水口付近で宴会を催した。その最中、排水の勢いが強く、近くのものをみな吸い込み、遠方のものを根こそぎひったくり、その轟音と爆音であたりが震がいした」

 スエトニウスは竣工式やり直しのことは書かず、ただフキヌス湖の排水溝のすぐ上で宴会を催し、そのとき水があふれ皇帝が危うく溺死するところだったと伝えている。タキトゥスとは異なる。塩野も、死者が出たと書いたし他にも死者多数とした書もある。 

 塩野は「古代ローマにもエコロジストがいたとしたら、とてもできなかった事業であったろう」と書いたが、ローマ時代に湖が一面の耕地になったと考えてのうえだろう。しかしながらローマにもエコロジストが何人もいたし、この事業を偉大な事業と評する者はいても、貶める者はネロぐらいだったと思われる。
 タキトゥスにとっては、工事そのものにはあまり関心がなく、あったのは竣工式での見世物や、そこでのアグリッパと工事監督のナルキススとの口論であったようだ。

 桝本セツの話をするつもりが、とんでもなく横道にそれてしまった。  
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               
 
                       

勲四等の穴掘り

2010-10-03 16:51:02 | 日記
 1945年(昭和20)2月25日、京都大学文学部教授・勲四等瑞宝章受賞の宮崎市定は45歳で充員召集を受けた。予備役陸軍少尉だったと思う。見送り人もいない雨の京都駅から単身富山に向かう。富山連隊では何の用もなく、犬山に移駐、地下工事を見学、続いて豊橋の中部第百部隊教育部で地下工事の教育を受ける。教育終了後千葉県市川市の東部19097部隊付き将校として地下航空隊の格納庫建設の工事にあたる。地下施設部隊付将校という資格で(宮崎市定『自跋集』)。

 そのときの宮崎の感想がある。
 穴掘りの兵隊の多くは戦地の経験済みで、すれ枯らしの印象を漂わすものが混じっていた。現役の将校は我々を招集将校といって見下したが、彼らはなんとも無能らしく見えた。ことに最上層の偉い閣下級の腐敗が甚だしかった。・・・こんな状況で戦争しなければならぬとしたら、どんな結果になるか空恐ろしく思われた・・・。

 宮崎教授もずいぶんてこずったらしい。
 穴掘り作業は、土地が脆弱で砂が混じっており、掘る度に崩落した。作業の場所は市川のどこか書いていないが、私は市川の西端の国府台ではないかと思っている。
 井上ひさしは長年市川に住んでいたが、彼の戯曲「きらめく星座」で、正一が脱走して憲兵隊に追われるのは、市川国府台の砲兵大隊からの脱走だった。市川国府台は帝国陸軍の重要な軍事拠点のひとつであった。

 宮崎が穴掘りの監督をしたその場所が国府台ではないかと考える理由の一つは、終戦直前に軍隊を使って地下に格納庫と思われる施設を作ろうとしたこと。多分秘密の作業だったろう。民間所有地でそのような作業をすることは考えられない。
 もう一つは、その作業期間中に、東京の夜間大空襲を望見したと彼が書いていること。上野の山から国府台までの間は沖積平野の低地である。昔は一望できたという。展望は極めてよい。

 穴掘りは動物だってやる。人間も原始時代から穴掘りはやってきた。だが、この戦争末期、日本国民は一斉に穴掘りに従事した。防空壕である。沖縄戦では天然の横穴で多くの悲劇が生まれた。
 軍隊も率先して穴掘りに熱中した。その傷跡は全国に散らばって今もある。長野県松代の洞窟はものすごいと観光地化しているとか。
 陸軍は国府台に何の目的で作ろうとしたのか。宮崎は「地下航空隊の格納庫建設」と書いているが、これだけでは分からない。彼の全集に収録されている「随筆」に、それに関して書いてある可能性もあるが、いま私にはそれを調べる余裕がない。

 国府台は下総台地の西端に位置する。この台地は長い期間に火山灰が堆積した洪積台地である。岩石はない。掘れば当然崩れる。宮崎教授としては、はなはだ厄介な事態に直面したことになる。
 どのように工事を進めたかは分からないが、一般的に考えられるのは、まず縦穴を掘り、そこから横穴を掘っていく方法。

 だが私はこう考える。『里見八犬伝』の挿絵を見たことのある人なら思い出すかもしれない。国府台はこの小説の重要な舞台の一つであり八犬伝の古戦場である。国府台の崖は江戸川に向かって切り立っている。江戸川沿いにはもちろん道路がある。その崖を、江戸川から奥に掘り進めば竪穴を掘る必要はない。それに、船を使えば物資を秘密裏に運び込むことも可能である。

 以上は私の全くの推測である。明確な根拠があるわけではない。これも推測だが、敗戦に伴い、手がけたばかりの穴掘りは中止して掘り起こした土は埋め戻したのだろう。作業に従事した兵士たちも皆故郷に帰ったに違いないし、こんな中途半端な話を語り継ぐ人もいなかったのだろう。陸軍の記録にもないと思う。ただ、指揮官であり歴史家でもある宮崎教授にとっては記録しておくべきことだったと思われる。

 配色農耕となったとき、宮崎教授は最後の決戦の前に家族と決別せよといわれて休暇を与えられた。彼はまず信州の実家に向かったが、その汽車の中で降伏の報に接する。実家に数日滞在したのち帰隊、その後9月末日に京都に帰着した。
 
 このような話を聞くと、誰しも不思議に思うことがある。
 ○ 勲四等瑞宝章まで受けた大学教授、しかも45歳、そういう人物まで動員しなければならなかった日本の軍隊とはなにか。
 ○ 敗戦も間近いのに、なぜ、泥縄式に泥穴を掘らなければならなかったのか。次のように軍の幹部は敗戦を必至と考えていた。
 ○ 敗色濃厚だから家族と決別せよと休暇を貰った話。こんなことは一度も聞いたことはない。一下級将校でさえそうなのだから、上級将校や将官たちはどうだったのだろうか。どのように敗北に備えていたのだろうか。ほとんどの国民が、敗戦はない、決して日本は負けはしないと信じ込まされていたというのに。

 戦後日本の穴掘りの技術は格段に発達した。日本列島には縦横無尽に穴が掘られている。各種鉱山、鉄道用のトンネル、地下鉄、上下水道やその他のインフラ用に、ビルの建築・・・。それらは文明の証なのだろうか、あるいは。自然破壊なのだろうか。

 ところで、敗戦後宮崎市定は京都に帰ってすぐ『アジア史概説』正編・続編を上梓した(昭和22-23年)。実にお粗末な紙と製本だったが、多分多くの人に読まれたことだと思う。彼はその結語で「前後二回の世界大戦は、ナショナリズムの超克が世界人類にとって如何に必要なるかを訓えた」と述べた。そして、ナショナリズムは排他のためではなく新たな再統一のために生まれたのであり、新たな大統一のために自らを制約することこそ、その本然の姿でなければならぬと説いた。 
 偏狭なナショナリズムはいま再び隆盛を極めていると思うのは筆者だけだろうか。