静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

名をとどむ

2010-03-28 18:49:36 | 日記
 サーヴァント

 日本国憲法第十五条は公務員について次のように定めている。
 「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」
 その原案になったマッカーサー草案第十四条は次の通り。
 
 all public officials are servants of the whole community and not of any special groups. 
 
 それを日本政府は、はじめ次のように訳した。
 「一切ノ公務員ハ全社会ノ奴僕ニシテ如何ナル団体ノ奴僕ニモアラス」(外務省仮訳)。

 サーヴァント(servant)を辞典で見ると次の通り。
 ①a召使い、雇い人、下男、下女、 b従業員、事務員、社員 c奴隷 ②家来、従者、奉仕者 ③公務員、官吏、役人、 ④役に立つもの(研究社:大英和辞典)。

 だからservantを「奴僕」と訳しても誤訳ではない。だがのちに「奉仕者」と改められた。理由は知らない。

 servantがserveする人、つまり、仕える人の意であり、serveがラテン語のservus(奴隷)に由来することは明らかである。
 公務員は奉仕者だから国民全体に仕え、国民全体は公務員に奉仕してもらう、これが日本国憲法の予定する解釈である。最近はあまり聞かれなくなったが、以前はよく「公僕」といわれた。
 
 アメリカと日本の「公務員」の違いは明瞭であった。アメリカ合衆国の公務員はサーヴァントだったのだろうが、明治憲法下の日本では、天皇の官吏であり臣民統治機構の構成員であり、臣民の上にたって支配していた。

 古代ローマにおいて、とくに帝政期において、広大な領地を統治するため官僚群が必要となった。その官僚には奴隷か奴隷上がり、つまり解放奴隷がなることが普通で、彼らはやがて帝国統治の実権を握るほどになった。文字通り、servusがservantという官僚になったのである。
 身分や階級が低いからといって相手を軽蔑したり蔑んだりしてはいけない。奴隷も人間である、どんな人間も尊重しなければならない、そのようなことをキケロはいっていた。

 古代社会において、教師の多くが奴隷であった。皇帝マルクス・アウレリウスは奴隷であったエピクテートスを師と仰いだ。
 日本国憲法では公務員である教師は、国民全体、つまり生徒の奉仕者である。よく、教師と生徒は対等なのに「仰げば尊し 師の恩」を押し付けると非難する人がいる。それを言うなら「奉仕者(サーヴァント)のくせにずうずうしい」と批判すべきだろう。


 名をとどめる

 宮崎市定『現代語訳 論語』を読んで驚いた。むかし学校で習った解釈とまるで違う解釈がいくつもある。その一例。「子曰く、吾れ十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず」のところを、「三十歳で自信を得、四十歳でこわいものがなくなり」としている。普通、「三十で独り立ちができ、四十で迷わなくなる」などと訳す。

 一方、唱歌の『仰げば尊し』の「身を立て」を多くは「独り立ちする」「社会に出て成功する」とか「出世する」などと解釈することが多い。孔子の「三十にして立つ」の立つの一般的解釈と同じような解釈も見られる。
 だが、孔子のこの一節は、彼の学問に取り組んできたその姿勢を言っているのであって、世間的な成功とか出世を語っているのではあるまい。

 司馬遷は『史記』列伝、伯夷列伝第一において、孔子の言葉を引用しながら、人間の本質的な捉え方について考察した。そこのところを宮崎市定はとても分かりやすい言葉で説明している。少し長くなるが拝借しよう。

 「中国人の考え方によると、名は身体の上に貼り付けられた名札ではない。正に人間その物なのだ。すくなくも人間その物と不可分離で、名と本質とをわけるべきではない。何となれば、人が人を知るのは、その肉体を知るのでなくてその名によってのみ知ることが出来るからだ。特に歴史的人間においては名が総てである。人はその名によって不滅たりうる。司馬遷はこのような意味において、堅く人間の不滅を信じた」(宮崎市定『史記を語る』。

 これは古代ギリシア人の思想に良く似ていると思う。神と違って死すべき定めにある人間がどうしたら永世を得られるか。アテナイなどの市民にとってそれは名をあげそれを後世に残すことであった。オリンピア競技で優勝して月桂冠を戴くことはその一つである。彼らはアゴラで知恵と雄弁を競いあった。富を得るためではない、栄誉をえるためである。労働をしていたのではその力量は養われないし、機会もない。それは奴隷の仕事である。貧乏はむしろ誇りである。哲学者ディオゲネスは樽の中に住んで誇りを失わず、名を残した。

 中学時代、王彦章(おうげんしょう)の「豹死留皮、人死留名」という言葉を習った。普通日本では「虎は死して皮を残し(留め)、人は死して名を留む(残す)などという。中学の先生はなんら解説しなかった。読めばわかる。説明など要らない。この言葉自体が、それぞれの生徒の胸にいろいろな形で沈んでゆくだろう。

 卒業式の季節は終わり、入学式の季節がやってくる。卒業の日を懐かしく思い出せる人は幸せだ。卒業式には生徒たちがいちばん歌いたい歌を唱うのがいい。

都市というもの(5)「赤い条文」

2010-03-22 15:56:40 | 日記

 日本国憲法制定時、マッカーサー草案では「土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有ハ人民ノ集団的代表者トシテノ国家ニ帰属ス・・・」(28条)「財産ヲ所有スル者ハ義務ヲ負フ 其ノ使用ハ公共ノ利益ノ為タルヘシ・・・」(29条)とあった。
 だがこの条項は、日本側の関係者達によって「赤い条文」と呼ばれ、日本指導層は「削りたい」とマ司令部に申し出たところ簡単に応じてくれたという。
 もしこの条文が生かされていたら、わが国の都市づくりに大きな影響を与えたに相違ない。いや、都市づくりどころか、政治・経済全体にもそれは及んだであろう。
 今日でも、日本国憲法は押し付け憲法だと主張する人も多いが、この「赤い条文」を撤回させた当時の日本指導者層は「押し付け」を押し返す力を持っていたのだ。もし他にも不満な条文があったのなら押し返せばよかったではないか!

 わが国の近代的・資本主義的土地所有の規定は、明治初年の地租改正を経、民法制定によって確立してきたが、全面的な封建的土地所有制度は消滅しても、地主小作制度による経済外強制による収奪は止まず、その収奪機構は敗戦時まで続いた。占領軍の指令による農地改革は拒否できない情勢にあったが、土地・天然資源の究極的国有化や、財産権行使に公共の利益のためという枠を設けた上記の条文には抵抗を示したというところか。

 同じ敗戦国であったイタリアの憲法では「法律は、土地の合理的開発を行い、衡平な社会関係を樹立するために、私的所有権に対し、義務及び制限を課し・・・」(44条)と、西ドイツ憲法は「所有権は、義務を包含する。その行使は、同時に、公共の福祉のためにすることを要する」(14条)と定めた。
 ちなみに、当時のソビエト憲法は「土地・地中埋蔵物・水域・・・は、国家所有すなわち全人民の財産である」(6条)であった。

 土地や地下資源の私有財産化は資本主義の発展とともに確立してきたことはいうまでもない。その結果、国土の隅々、富士山山頂、海中の岩礁一つにも所有権が厳然と存在するようになった。
 土地を持たない人間は、土地を借りて家を作るか、住居を借りるかしかない。大地はそもそも私たちが生まれ出た場所であり、やがて帰っていく所だが、その場所の確保さえ困難になってきた。だがその資本主義的所有制度も、社会的矛盾の拡大、ワイマール憲法やソビエト憲法などの影響によって修正を迫られてきた。マッカーサー草案の条文はその反映であろう。

 わが国の土地政策はなきに等しかった。土地の所有は自由放任、あるいは投機や蓄財の対象となり、その過程で所得や富の偏在が拡大した。農地法や食管法、大店法、終身雇用などの一種の保護政策は、そういう傾向を抑制し社会の平穏を維持する装置であったといえようが、新自由主義的な思想はその装置の破壊を招いた。だがその一方で、わが国のように民主的世論の形成力が弱い場合、強力な私的所有権が乱開発の歯止めとして働くことがあるのは皮肉なことである。

 マックス・ウェーバーは「東洋においては西洋と反対に固有の都市は存在しなかった」といった。ヨーロッパの伝統的都市は城砦で囲まれ、市民の広場・市庁舎のような公共の建造物が市の中核をなし、そこには市民権や自由を持つ市民が共同体をつくっていたといわれるが、ウェーバーの言わんとすることはそういうことだろう。そういう視点に立てば、アジア諸国には市民思想がなかったということになる。従って法治主義も生まれにくい、権利と義務の関係があいまいになる、そして人治知主義におちいり無責任主義に連なるとみなされるのである。もっとも、ウェーバーもアジアの都市を熟知していたとは思えないが。 
 前にも触れたかもしれないが、宮崎市定は中国古代封建制の基盤に都市国家があり、この都市での自由市民の生態を無視して中国古代史は理解できないとしていた(『史記を語る』)。

 都市の共同体的性格は、個人の自由放任を許してはいない。
 イギリスでは、土地取引はだいたい100年とか150年とかの長期の借地取引だという。基本的には土地は女王陛下のものだからという。固定資産税を地代に切り替える。借地権は使用権であり、それが個人の財産とみなされる。 
 西ドイツでは1952年に「住宅貯蓄割増金法」が成立。勤労者が住宅取得を目的に貯蓄をすると、国が25~45・5%の「割増金」をつけてくれる。首尾よく新築すれば10年間すべての不動産関係の課税が免除される。61年には、さらに割増金や付加金が付け加わる法律ができた。これには条件があり、一戸建てなら最低100年、集合住宅なら最低200年耐えられることが要求される。このような住宅は個人の住宅でありながら「社会的住宅」と呼ばれる。
 アメリカや日本でなら、これは社会主義だ、といわれるだろう。

 本来土地の私有というもの、所有というものがありうるのか。あっていいのか。旧ソビエト憲法にしても「国家所有すなわち全人民の財産である」として所有権の存在を前提としている。マッカーサー憲法草案にしてもそうである。
 マルクスは、土地所有というのは名義の所有に過ぎず、名義そのものも販売によって生み出されるものではなく、移譲されるにすぎないという。そして、一社会、一国家、いな同時代の諸社会をいっしょにした全部といえども、土地の所有者ではない、彼らは土地の占有者、土地の用益者たるにすぎぬのであって「よき家父としてこれを改良して次の世代に伝えねばならぬ」(『資本論』第三部、青木文庫)と述べていた。これはマ草案の「赤い条文」に比し何といえばいいのだろう。「桃色の思想」とでもいうべきか。

 都市は住居や生産の場を与えてくれるだけでない。それは総合芸術の作品である。古代のある人は、都市は第二の自然であるといった。
 建築自体が一個の芸術でありうるし、道路、河川、空き地、公園などと一体になって立体的な総芸術を構成する。優れた芸術は優れた芸術家(個人であろうと集団であろうと)による計画によらなければ誕生しない。土地が細分された個人所有に固定されている限り、総合的な都市計画は不可能である。
 日本における景観の優れた都市の多くは、中世・近世につくられた都市景観を維持している町である。「素朴で絵のように美しい日本」(チェンバレン)の面影を残す町なのである。
 都市景観が人間精神・身体に及ぼす影響についてはいろいろ論じられてきた。優れた芸術作品が人間の精神を豊かにしてくれるのと同じように、優れた都市景観はわれわれの人生を豊かにしてくれる。美しい環境は人生にとって極めて重要な財産である・・・私はそう思う。
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 「都市というもの」は、これでいったん打ち切り。
  


 
 

 

都市というもの(4)水とともに

2010-03-17 21:32:42 | 日記
 城郭をめぐらした都市の人口が増えると、その城郭を拡大するか、建築物を高層化するしかない。後者のほうがてっとり早い。高層といってもエレベーターのない時代は5~6階止まりだろう。古代ローマではしばしばその建物が突如として崩壊した。

 水洗便所のない時代、汚物の処理はどうしたか。昼間はともかく、夜、とくに冬の夜など億劫なことはなはだしい。昔、寮生活の頃、二階の窓から黄色い液体が降ってくる。まあ、色はわからないが間違いない。「窓しょん」である。
 ある夜、延々と落ちてくるので、たまらなくなって一階の男が階段を駆け上がって怒鳴り込んだ。すると、二階の部屋の男の一人が窓際で、大きなやかんを一生懸命傾けていた。

 ロンドンでも他の都市でも、バケツかなんかに溜め置いた汚物を夜窓の外に放り投げる。歩行者は気をつけないと頭からかぶることになる。道の真ん中を歩くのがコツである。古代ローマは水洗便所があったというが、どこにでもあったわけでもない。
 ペストなどが流行すると堪ったものではない。いや、逆かもしれない。そんな状態だから悪疫が蔓延する。

 江戸時代の町はほとんどが平屋。殿様が通るとき、上から見下ろすことになるから、町家では二階は禁止だったとか。それでも天井を低くしたり窓も目立たないよう小さくして二階を造ることもあったらしい。まあ、二階くらいならそう不便しない。地面に近く生活しているぶん、衛生的になる。排泄物の処理はかんたんである。溜まった糞尿は近郷の農民が買っていってくれる。優秀な肥料になる。
 西洋人が日本に来て、町がきれいだという、その理由の一つがこれだろう。しかもそれぞれが家の前の道をしょっちゅう掃除している。

 産業革命の進展にともなって都市に人口が集中する。ますます高層化(といっても今日から見れば中層化)する。それが隙間もないくらい密集する。粗悪なj建造物、狭い部屋に小さな窓、陽も差さず昼でも暗い。工場の煙、石炭ストーブの排煙とスモッグ、エンゲルスが『イギリスの労働者階級の状態』で書いたあの世界だ。
 エンゲルスは、空気、水、土地の有毒化は都市と農村の融合によってのみ除去されるという。そして、都市と農村の融合によってのみ、都市の衰弱しつつある大衆は、彼らの糞尿が病気を生むためにではなく、植物を産むために利用されるようなところまで到達しうるのだと説いた。(『反デューリング論』)。

 江戸の町は百万の人口を擁していたが、どこまでが町でどこからが村なのか判然としない都市であった。だから村の中に町がある、町の中に村があるという様相を呈する。もともと「都市と農村」は融合していたのかもしれない。

 強力なモーターの開発によって高層建築に水洗便所ができ、文字通り糞尿を水に流すことが出来るようになった。都市はその面では清潔になり住みやすくなった。だがそれでいいのか。「糞尿が・・・植物を産むために利用される」ことから逆の方向に遠く進んでしまった。

 水に流すためには下水道の完備が必要である。もちろん下水道の歴史は古い。有名なのは古代ローマのもの。フォルム・ロマヌム(フォロ・ロマーノ)の地下には二千年以上前に造られたといわれる大きな下水道の跡が今もあり、ティベル川にその口を開いている。
 
 ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』(1862年)にパリの下水道が詳しく説明されている。ユゴーは「パリの下水道は古い恐るべきもの」であり、疫病はそこから発生し、専制君主等はそこで死んだと述べている。その作品でのパリの下水道の詳細な描写は、ディドロの『ラモーの甥』に通ずる一個の文明批評といっていいだろう。この書が書かれた1860年頃のパリの下水道は整備されてずいぶん良くなっていたらしいが、小説の舞台となった1832年頃は、まだ極めて危険で恐ろしい下水道だったらしい。

 ユゴーはパリの下水道を論ずるに当たって、最初に、「パリは年に2500万フランの金を水に投じている」と書いている。彼は言う「科学は長い探求の後、凡そ肥料中最も豊かな最も有効なのは人間から出る肥料であることを、今日認めている」と。そして、人間から出る肥料のお蔭で中国の土地は今日なおアブラハム時代のように若々しいと評している。
 さらに言う。もしわれわれの黄金が肥料であるなら、逆にわれわれの出す肥料は黄金である。統計によるとフランス一国で毎年5億フランの金、歳費の四分の一に当たる金を大西洋に注ぎ込んでいる、パリだけで2500万フランをどぶの中に厄介払いしている(以上、豊島与志雄訳による)。

 この16年後に『反デューリング論』がでている。
 だが「人間から出る肥料」が有効に使われることはそれ以後もなかった。今後もないだろう。世界の人口はこうしてお宝を無駄に捨てているのだ。

 戦後焼け跡から新しい町が近代都市として復興した。とある大きな旧城下町の話。広い道路を格子状に配置し、本格的な下水道を造った。東京や大阪はいざ知らず、地方都市では恐らく初めてだったろう。全国の自治体から見学者がひっきりなしにやってきた。市中から蝿や蚊が一掃され網戸など要らなくなった。確かに清潔になった。
 だが、広い道路に面して建つのは西部劇の書割みたいな安っぽい建物だけの戦後風景だった。そこに、まことに大きく横に広がった映画の看板が立った。題して「風と共に去りぬ」。そして「市民から出る肥料」は「水と共に去りぬ」。     

 
 

都市というもの(3)わがまち

2010-03-15 18:19:14 | 日記
 近代日本の都市は大半は徳川の封建都市をそのままで受け継いだ。ものの本によると、明治初年、人口1万以上の都市数99のうち城下町は63、そのうち5万以上の都市は横浜を除く全城下町だったという。「十五年戦争」が始まった翌年(1932年)でも、市数111の6割以上、70近くが旧城下町だった。米空軍の爆撃によって87市が罹災し、都市人口の約33%が住宅を失ったという。細かく調べたわけではないが、旧城下町の大半が被爆したと見ていい。

 城下町は、領主が防衛上の必要を考えて造ったので、それぞれが特徴があり個性的であった。戦後復興した都市は旧城下町の不便さを克服しようと、近代都市を目指して造られた。比較的成功した都市、失敗した都市などまちまちではあろう。だが結果的には、一般論だが、日本の都市はどこへ行っても構造と景観を同じくして個性もなく面白みがないと言われる。個人の価値と個性を尊重する新憲法のもとで、どうして個性のない町が生まれたのだろう。

 先(前々回)にミュンヘンの町が戦前と同じ街並みに復興したことに触れたが、ポーランドでもワルシャワやグダニスクの町をほぼ戦前の原形どおりによみがえらせた。市民が崩れた瓦礫の中からレンガ一つ一つ拾い集めたというではないか。日本の都市で、戦前どおり復興させようとしたような話は聞いていない。

 ローマ市長であったルテリ氏は「ローマは東京やニューヨークのような町になるつもりはない。ローマは永遠にローマなのです」といったそうである。そして、都市の魅力は何かと問われて、それは「個性」だと答えたという。イタリアを訪れた人は口をそろえて、地方都市がみんな個性的で魅力的だという。
 「イタリア料理」という料理はイタリアにはなく、それぞれの地方の名がついているという。だが日本には「イタリア料理」はある。「イタ飯」などという名まである。本にそんなようなことが書いてあった。もちろん日本にも郷土料理はあるが総称して「日本料理」である。ところがイタリアには「イタリア料理」はないというのだから、これはまた妙だ。

 イギリスの小説家ギッシングは1897年、三度目のイタリア旅行を果たした。南イタリアのコトローネという小さな町の小さなホテルの食堂での話。ギッシングはイタリア人の食事ぶりは見ているだけで面白いという。まず給仕に自分の要求する食事の概略を説明、次にこまごまと注文をつける。調理法を微に入り細を穿って説明する。思いもよらぬ珍奇な料理を持ち出したりする。山盛りのスパゲッティは本番のためのたんなる序曲、食欲増進のための料理に過ぎない。食事のあいだじゅう,料理に文句を言い続ける・・・(小池訳『イタリア旅行記』。このあとまだ続くがこの辺で打ち切ろう。なにしろ、イタリア人が極めて個性的だということはよくわかった。

 私の話は、いつも脇に脇にへとそれてしまう。

 私は鮫島有美子のうたう「ウィーンわが夢のまち」というのが好きだ。他の人の歌うのも聞いたが、やっぱり鮫島さんのが一番いい。あらかわひろし訳の歌詞を勝手に掲載させてもらう。

  喜びも悲しみも
  みんなこのまちに
  夜でも昼でも  
  心のなぐさめ
  誰にでも愛される
  わたしのふるさと
  いつもこのまちに

  遥か聞こえてくる楽しい歌声
  ウィーン ウィーン
  お前はこころのふるさとよ
  古びたまちかど かわいいう娘たち
  ウィーン ウィーン
  お前はわたしの夢のまち
  しあわせあふれる夢のまち ウィーン

 ある旧城下町でのこと。徳川時代か明治時代かは知らないが、何しろ古びた家並みが残っているそんな街角。歩いていたら突然ひとりの娘さんが横から飛び出してきた。飛び出したというのはこちらの感覚、出てきたのだ。家と家の間に、やっと一人通れるくらいの通路がある。向こうの道路に通じている秘密の通路。直線ではなくクランクになっている。だから見通せない。敵が攻めてきたときの隠れ道だ。「古びたまちかど」にかわいい娘さんが突如として現れる「夢のまち」だ。




  
 
  

都市というもの(2)石の家

2010-03-12 18:43:37 | 日記
 アテナイの近傍の山々は乱伐がたたって禿山状態になっていたらしい。プラトンがそんなことを書いている。もう自然破壊が始まっていた。一方、ギリシアで大理石が建材として使われるようになったのは、それが堅牢で建材に適していたからだとプリニウスはいう。美しい石だからとは言っていない。大理石だって、乱雑な採掘は自然破壊につながる。これもすでにローマ時代から始まっていた。
 ローマ時代には大理石は大量に使用された。大金を使って美麗な石が遠くから(といっても地中海周辺だが)運ばれてくる。奢侈のための乱用がとめどもなく進む。プリニウスははそういう状態を厳しく弾劾した。

 高度成長期の日本に、大量の大理石が輸入された。多くは地中海周辺国からスエズ運河やマラッカ海峡を通ってきたのだろう。新しい東京都庁舎ができたとき、2階分ぶち抜きのワンフロアーを知事室が独占した。知事室には大理石造りの風呂場も造られたといううわさも飛び交った。風呂場はさておいて、内壁にも立派な大理石がふんだんに使われたのだろうと邪推する。だが、そんなことで驚くことはない。地方都市の公民館のトイレに大理石が使われたとかいう話も聞く。2000年前のローマのエコロジストに恥ずかしいことだが。

 ヨーロッパの都市は石造り、これが一般の認識。そこで、大都市は別として、地方都市はその町ごとに色合いが違ったりする。近くの山から採れる石が黄色っぽければ、その町全体が黄色っぽく、灰色の石が採れれば全体が灰色っぽくなる。建物だけでなく、道路も広場もその石で敷き詰められるので、町中じゅうがその色になり、それがその町を象徴する色彩になる。近くに山がなければ、地面を掘って地下の石を切り出してくる。石があればの話だが。そういう町では、町の下に空洞がある。空洞というべきか地下室というべきか。

 ヨーロッパの町もずーっと昔から石造りだったわけでない。ネロ帝のときローマに大火が発生し、放火の汚名をきせられたネロは名誉回復とばかりローマ市の復興にとりかかり、不燃化にも力を入れたというではないか。
 1666年、ロンドンで大火があったが、クリスト・ファーレンという人物が都市計画案を作り、それを市民が支持し、木造を禁止して不燃都市を造った。
 その少し前、1657年に、江戸に「明暦の大火」(俗称・振袖火事)がおき、江戸の大半を焼いた。火災後都市改造も行われたが、防火線として広小路(たとえば上野広小路)をつくったり、土蔵造りや瓦葺屋根を奨励したり、消火隊の再編などを行ったりしたが、ロンドンのような不燃都市への抜本的対策は講じられなかった。(都市学者たちはわが国の都市政策の不在を批判する)。火事は江戸の「華」でありつづけ、明治初年来日していきなりその「華」を見せ付けられたドイツ人医師ベルツを驚かせた。(「無欲淡白」参照)。

 第二次大戦末期、アメリカ政府は日本家屋の弱点に気付き、爆弾ではなく焼夷弾で都市全体を消失させる作戦をとった。1945年3月10日、東京下町一体は一夜のうちに10万人にも及ぶ犠牲者を出した。その後、わが国の主要都市はおろか、中小都市も無防備のまま焼夷弾の攻撃にさらされ、全土が焦土と化した・・・つらい話はやめよう。

 石造りの都市では、建造物に囲まれた空間が道路であり広場である。考えようによっては道路や広場は建造物の付属物である。広場というのは、それを取り巻く建造物を含めて広場というのだろうか、私にはよくわからない。
 シチリアのパレルモ、大きな噴水のある広場に面して市役所(日本的表現)がある。忘れてしまったが、なんでも、300年とか400年とか経った建物だが、今日も立派に市役所として現役だという。その中は大理石で飾られたすばらしい大広間や部屋が並んでいるのだろうと、勝手に想像する。今のローマ市の市役所も古代ローマの建造物の上に建てられているというではないか。

 旧東京都庁舎は1957年完成の、丹下健三氏の代表作の一つといわれる建造物であった。だが、わずか30年余りで新宿に巨大なバベルの塔のような新庁舎をつくって引っ越した。旧庁舎は解体された。その新庁舎も丹下健三氏の設計だそうだが、早くもタイルが剥げ落ちたり雨漏りしているそうだ。修繕には莫大な金がかかるので、また引っ越すという話は、まだ聞いていない。今度引っ越すとしたら誰が設計するのだろう。
 ローマでは2000年も前につくったコンクリートの建造物が今も残っている(例、パンテオン)。どうして日本のコンクリート造りの建物はこうもやわなのだろうか。いや、やわなのは日本人の精神かもしれない。きっとそうなのだろう。