静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

プリニウスつれづれ(9)ローマびとへの贈りもの

2016-11-20 20:03:41 | 日記

 

<「Z9 ローマびとへの贈りものープリニウス随想(9)」の改訂版>

                  

   

                (一) カメーナに捧げる新しい作品

                (二) 人は人のために

                (三) コンコルディアの心

                                              (四) ウェルギリウスのうた

 

 

  (一)カメーナに捧げる新しい作品

 

ティトゥスへの手紙 

 西暦七七年、プリニウスは『博物誌・三六巻』に献辞を付して皇帝ティトゥスに献呈した(注:後、この献辞と詳細な目次・典拠著作家の一覧表を第一巻にまとめ全三七巻とした)。そして新しい任地ミセヌムに向った。献辞といってもそれは手紙の形式をとっている。下はその出だしの部分である。

 

これは博物の書(Libros Naturalis  Historiae)でありますが、ローマ人(Quirites)の詩の女神カメーナ(Camena)に捧げたわたくしの新しい作品であり、またわたくしの最新作でもあります。

 

 カメーナというのはギリシア語でいうムーサ、英語や日本語では普通ミューズである。たんに詩だけでなく、あらゆる知的活動の女神とされてきた。一方、古来ローマの水のニンフだったカメーナは、リウィウス(『ローマ建国史』の著者)以降ギリシアのムーサと同一視されてきた。プリニウスは意識的にムーサではなくカメーナを使ったと思われる。ローマ市のカペナ門外にカメーナの聖なる森と泉があったという。

 プリニウスより一世紀前のウェルギリウスは、『アイネーイス』 でローマ建国を謳ったが、その冒頭の一句を紹介する。そこではカメーナではなくムーサである。散文訳の杉本正敏『アイネーイス』から引く。( )内は筆者の注、< >内は訳文のルビ。

 

   彼(アイネーイス)はまた、苛酷な戦いを耐え抜いて、ついに都を建設し、神々をラティウムへと運んだ人だった。

  そこからラティウムの一族が生じ、アルバ(ローマの母市となったアルバ・ロンガ)の父祖たちが生まれ、やがてはローマの高い城壁が築かれた。

  詩神<ムーサ>よ、わたしに理由<わけ>を話せ。

   

 プリニウスは逆にムーサではなく古い言葉カメーナを使った。同時に彼は、市民権を持つローマ市民を表すRomani を使わず、Quirites というローマ人一般を表現する語を使った。つまりそれは、ローマ社会の選ばれた人たちだけにではなく、広く一般大衆への贈りものという意を籠めたと思える。「農民や職人など一般大衆と、それに何もすることのない学問の徒のために書かれたものです」(序6)とも書いている。

 彼は毎日のように宮中でティトゥスに会っていたが、手紙のやりとりもしていたらしい。『博物誌』の執筆中なので、完成したら献呈すると約束していたようだ。だが、まだかまだかとティトゥスから催促されて、プリニウスは「このたびは、厚かましくも、その目的を果たそうと思います」と詫びを入れている。彼は、ローマ帝国の艦隊長に赴任する直前に一つの区切りとしてこの書をティトィスに献呈したのだろう。

 

ローマにおける出版とは

 プリニウスはこう言っている「作品を貴方に正式に献呈する人々は、単なる出版とは違った立場におかれる・・・」と。つまり、出版は出版でも、特別な出版になるということ。献呈は同時に出版なのである。 

 古代において出版の日付を探るのは困難ではある。今日のように、機械によって大量に印刷されて書店に並ぶのではない。一冊一冊手写され、できたものから順に書店に並ぶのだろう。多分、一冊目が出来上がると著者は先輩・知人・友人・パトロンなどを呼んで発表会を開く。著者が一部もしくは全部を朗読する。それが出版の時と考えられる。誰かに献辞をつけて贈呈すれば、それが今日で言う出版ということになる。ウェルギリウスは『農耕詩』を完成させたとき、パトロンのオクタウィアヌスの前でその全四歌を、四日間かけて朗読したという。疲れると同席していたマエケナスが代読したとも伝えられる。

 『博物誌』に関していえば、大プリニウスの死後甥の小プリニウスによって出版されたという説もあるが、この献辞を見る限りそれはありえない。当時ローマでは著作を出版するときには「審判人」の認可が必要だったらしい。プリニウスはこう言っている。「審判人を籤で得るか自分の選択によって得るかは重大なことがら」と。だがティトゥスがこの『博物誌』の審判人になってしまった。しかも途中から自ら望んで審判人の席に着いたという。プリニウスは驚いただろう。その時点でもう特別の出版ということになってしまった。彼は言う、ティトゥスのように才能ある人物が裁断するなら誰も自信をもって作品を評価することはできないと。ティトゥスに評価され認定されれば当然献呈という段取りになる。

 しかしここでプリニウスは言う。市民法によれば学者にもいくらか拒否権があると。そしてキケロやカトー、ルキウス・スキピオの事例などを挙げて審判人の選定の重要性を語っている。それは多分、他の人たちの嫉妬や中傷を気にしてのことだろう。だが結局拒否はできない。「自分で献呈することでそのような弁明をすることを差し控えております」と苦しい胸のうちを語っている。

 プリニウスがそのことを気にしていたことは次のような叙述でもわかる。「貴方に献呈されるものが、貴方にふさわしいものかどうかと注意が払われるのであります。しかしながら、田舎の人々や多くの外国人たちは、香料を持っていないので、牛乳や塩漬けのひき割りを奉納します。そして神々を崇めるのに、その力量に応じたどんな方法であっても、誰も責められることはありませんでした」と。香料が当時どれだけの貴重品だったかわからないが、奇妙な例を持ち出したものだ。つまり『博物誌』の内容が牛乳や塩漬けのひき割りのような平凡なものであっても我慢してくださいということなのだろう。

 さらに彼は、職務に追われて余暇にしか、つまり夜にしか執筆できないと弁解している。日中を貴方(ティトゥス)に捧げており、睡眠によって健康を保つように心がけている、だが、生きるということは目覚めていることだから、睡眠時間を削ればそれだけ多くを生きるということになるのであり、これが唯一の報酬であって、これに満足していると語る。睡眠時間を削ることが報酬だとは、まことに恐れ入る。このような生活ぶりは彼の甥の小プリニウスの証言によって追認されていることだが、まったく恐れ入ったことである。

 先ほど『博物誌』の出版年は七七年としたが、その大きな理由は、献辞のなかでティトゥスに対し貴方は六回の執政官を果たしたと書いているからである。六回目の執政官というのは七六年である。ウェスパシアヌスとティトゥスは共同で執政官を勤めていたので両者とも七七年は七回目の執政官だった。異説の代表は「さまざまな修正をほどこされて著者の死後にしか公にされなかったと思われる」(ジャン・ボージュ「大プリニウスの伝記」、ベル・レットル古典叢書)である。

 

博物誌に終わりはない

 「修正して死後公刊説」は次のようなことが根拠かもしれない。プリニウスは献辞で「ご父君やご兄弟、そして貴方につきましては、すべて『われわれの時代の歴史』(『アウフディウス・バッススの歴史書の続き 三一巻』のこと)という正規の本の中で取り扱いました。・・・その作品がどこにあるのか、とお尋ねになるでありましょう。その原稿はかなり前に完成して認可を得ています。いずれにしましても、それをわたくしの後継者に委ねることがわたしの決意でありますが、それは私の生涯が、何らかの野心で費やされたものだと思われるのを避けるためであります」と述べている。

 思うに彼は、同時代史であるこの書で皇帝一族のことも扱っていて、その記述がへつらいと看做されることを恐れたのだろう。死後とは書いてないが、甥で養子の小プリニウスに委ねる決意を披瀝しているのである。この書の手紙の二年後、彼は不慮の死を迎えているので、死後甥によって出版されたとしたらそれは『われわれの時代の歴史』の方だったろう。  

 このような記述のあとで彼は、私の作品にはまだ付加すべき点が大いにあり、自分の他の本もすべてそうであると告げている。それは酷評家ホメロマスティクス(ホメロスの詩を酷評した批評家ゾイルスのあだ名)から身を守るためだという。

 彼はその一〇年ほど前『文法について』という作品を公刊している。彼は、ストア派やアリストテレス派、エピクロス派の人々がこの『文法について』の批評を書くのに産みの苦しみをしており、相次いで流産していること、象でさえ子どもを産むのにそれほど長くはかからないのにと皮肉っている。彼はそれに関連して「自ら首をくくるための木を選ぶ」という諺のいわれを紹介する。「あの雄弁家として名高い人物で、『神聖な』という名称を得ているテオフラストス(ギリシアの植物学者)が、彼に対抗するものを書かせるために一人の女性を探し出してきたということを無視できましょうか。これが『自ら首をくくるための木を選ぶ』という諺の起こりなのであります」。

プリニウスの記述がこれだけなので、女性の名も、自殺したのかどうかもわからない。当時はよく知られた話だったのだろう。自分を批判する人物がいても、どうせなら立派な人物に批判されたい、というのが本意らしい。後にラブレーは次のように書いている(『パンタグリュエル物語・第四の書』渡辺訳参照)

  『パンタグリュエル物語』の主人公パンタグリュエルは次のような話をする・・・アテナイ人ティモン(前五世紀、人間嫌いとして知られていた)は、自分に対する市民の忘恩を怒り、ある策を考えた。彼は、人々を集めてこう宣言した。わが家の外庭に大きく立派なイチジクの木があるが、絶望した市民たちがこっそり来てこの木で首を吊るのを常としている。わが家を住みよくするため、八日以内にこの木を切り倒すことにした。だから首をくくる必要のある者はとり急いで処置をされたい、あのように便利な木はなくなるから・・・」と。さらに続けてグリュエルはいう。このティモンのひそみに倣って拙者も、これら悪魔つきの讒誣者ども(パリ大学ソルボンヌ神学者たち)はみんな今の月が下弦のうちに首を吊ってしまえと申し上げる。首吊り紐は拙者(パンタグリュエル)が差し上げるが、期限が切れたら自分で縄を買って、首吊りに適した木を探せ、さもないと希代の博識を謳われた雄弁なテオフラストスを誹謗したレオンティオン姫と同じ目に会うだろう・・・と。

 蛇足だが、漱石の『吾輩は猫である』に、首懸けの松、というのが出てくる。市川市国府台にあったという話。松の枝が具合よく道路の方に伸びている。つい首を吊りたくなるのだ。イチジクの枝に吊るよりは絵になるだろう。

 余談はさておいて、先の文に続けてプリニウスはいう。あの著名なカトーでさえも非難攻撃を受けてこう言った。「それがどうした。ある著作が出版されると、たちまち口やかましい人々の餌食になることを私は知っている。だがたいていの場合、そういう人々には、本当の栄誉などはないのだ。私としては、そういった人々の饒舌を勝手にさせておくまでだ」と。

 ローマ社会でも激しい猛烈な批判・非難合戦があった。とくに一世紀のローマは、功を争った出版ブームで大変な競争だった。「皇帝」に献呈したら何が待ち構えているかわからなかった。そういう趨勢の中で、計画したことの残りを最後までやりとげるつもりでいるとプリニウスは述べている。「計画したことの残り」が何であったか、それはわからない。三六巻で一応の完結を見たし、新しい任務に就くにあたっての決意があったのかもしれない。博物誌は無限の世界・宇宙を対象とする分野だから本来完結というものはない。新しい分野の研究・探求に乗り出せるチャンスでもあったし、その意気込みもあったろう。事実彼は、海上からの火山噴火の観測と住民救助という自らに課した任務を果たすため危険な海へと船を進めた。

 

手紙の結末はどこへ?

 現在「序文」とされるティトゥスへの手紙は、ローマの社会事情なども既知のこととして書かれているので、現代人にとってわかりにくい点も多々あるが、一個の文明論となっている。残念ながらこの手紙は中途半端なところで終わっていると筆者は考える。誰も言わないが結語があったはずである。今日の『博物誌』のテキストは、現存する二〇〇あまりの写本(部分的なものも含めて)を照合して出来あがった。ほぼ完全とはいわれるが後で発見されて補足された箇所もある。第三七巻(現在の)は宝石についてであるが、その最後近くの二か所がずっと後に発見されて充足された。そして最後のフレーズ。それは、各地における自然の恵みを論じた終章で、「少なくともヒスパニアの海に接する諸地区にあたえよう」と、そこで突然終わっていたのだが、残りの文章の発見によって『博物誌』は見事な完結を見たといえよう。最後の締めくくりはこうである。

 

  あらゆる創造の母なる自然に幸あれ。そしてローマ人のうちで、わたしのみがあらゆるあなたの顕現を賛嘆したことを心に留め、わたしに仁慈を賜らんことを。

  

このようにしっかり結語を述べているのだから、ティトゥスへの手紙にもちゃんとした結びがあって然るべきだと考えるのである。

 

   (二)人は人のために              

                                          

一般大衆のため

 始めに紹介した「農民や職人など一般大衆と、それに何もすることのない学問の徒のために書かれたものです」という言葉のうち、「一般大衆のために」というのは、具体的に言えば労働の各分野、すなわち農業、商業、各種の手工業、土木などで働く人たちへの手引書の役割を企図したものだった。いわば日々の実務的ハンドブックとしての役割を果たしたものだった。だから後世、ジャンジャック・ルソーは、孤島に一冊だけ持って行けるならばとして、プリニウスの『博物誌』をその候補に挙げたのである。中でも重要視されたのが医薬の分野である。中世においては、その部分が抜粋されて「プリニウス医学」として流布されもした。その内容から見れば、今日でいう民間療法の域を脱せず迷信としか言いようのないことがあるにしても、彼が「一般大衆のため」と考えたことは否定できない。だが同時に彼は、大衆の無知や迷信や軽信を諌め啓蒙に努めた。天体の運行を教え蝕の恐怖から解放させようとし、死後の霊魂について語り、心の平穏を説いた。そして奢侈を批判し勤勉を説いた。

 「何もすることのない学問の徒」というのは具体的にはわかりにくい。おそらくプリニウスの大いなる皮肉だろう。寝る間も惜しんで著作に励んだ彼にとってみれば、学問の徒は何もすることがなかったのだろう。彼はギリシアの芸術を高く評価し、学問にも敬意を表した。だがローマ人の学芸に対する姿勢については極めて批判的だった。もっとも、ギリシアの著作家たちにも、自著にもっともらしい題をつけるが、内容を見れば「表紙と裏表紙の間にあるもの」がなんと空虚なものであることかと、いろいろな事例を挙げて皮肉を言っている。

 

パナイティオスとキケロの『義務論』

 不満は他にもある。権威ある書を検索しているうちに判ったことだが、現代の著述家たちのほとんどが、謝辞を述べることもなく、古い著述家たちの一語一句を写し取っていることを発見した、貴方(ティトゥス)はそのことをお知りにならなければならない、これは借金を返すよりも窃盗の現行犯で逮捕される方がよいというさもしい精神を現しているとプリニウスはいう。今日でいうコピペだろうか。だが古代では、資料の出所を示さないのが当たり前だった。著作権などという観念はずっと後のことだ。プリニウス以後には出所を示す著作も現れたが。例えばヨセフスの『ユダヤ古代誌』では部分的に出所が示されている。タキトゥスも若干示した。だがそれは後の話。ちなみにプリニウスは『博物誌』に、参考にした書物や著作者の一覧表を作成して添付したし、本文においても多くの箇所でその権威者の氏名をあげて引用している。彼はそれを「わたくしの道義心の証し」だし「高潔な謙遜を示すものだ」と自画自賛している。そういう例は当時ではほとんどなかったらしい。

 そして、現代の著作家のずうずうしさに対置してキケロの誠実さを強調する。キケロは自分の『国家について』ではプラトンの『国家論』を手本にしたと、また『慰め』ではクラントルに追随しているし、『義務について』ではパナイティオスを借用したという。プリニウスはこのように典拠を示すキケロの誠実さを強調しながら、『義務について』は、貴方(ティトゥス)もご存知のように毎日手にとってみる、いや暗記さえする価値のある書物なのでありますと書いている。

 では自作の『博物誌』についてはどう言っているか。彼は、貴方のお時間をわずらわすことへの苦情を考慮に入れるのは私の義務だから、「この手紙に各巻の目次の表を添付いたしました」「全部をお読みになる必要がないように、非常な注意をはらいました」と述べている。また、他の方々も全巻を読む必要はなく、読みたいと思う特定のものを探しさえすればよく、それがどこに書いてあるかすぐ分かるようにした」という。そしてこれは、ローマの文献の中では「ウァレリウス・ソラヌスが彼の『伝授を受けた婦人たち』の中で採用したものであります」と書いて、そこで突然終っている。そんな終わり方があるだろうか。それはありえない。

 

人は人のために

 パナイティオスの『義務論』は歴史の中で散逸し、今日その断片しか残っていない。しかし幸いにキケロの『義務について・三巻』のうちの一・二巻がこのパナイティオスの作品を借用しているので、その内容をほぼ知ることができる。その基本的考え方を要約する。

 「本来、私有財産というものがあるはずがない。あるとすれば、せいぜい無人の土地に移り住んだ人が長く占有したとか、協定とか抽選によって得たかである。だがプラトンがいうように、われわれはただ自分のためだけに生まれたのではなく、祖国や友人たちのためでもある。一方、ストア派の人々が主張するように、地上に産まれたものはすべて人びとのために造られ、人は人のために生まれた。そのように互いに助けあうのが天意であるとすれば、当然、われわれは天意にしたがって、公共の利益を中心として、たがいに義務を果たしあわなければならない。互いに与え受けとり、互いにそれぞれの技術や努力や能力によって社会的結びつきをいっそう高めなければならない」「人間にはすべて、最も優れた人々にもその他の人々にも、何がしかの敬意を払わねばならない」(『ローマの政治思想』国原・高田訳から)。

 これにキケロ自身の発言一つ付け加えよう。

「身分のもっとも卑しいものたちに対しても、正義は守られなければならないことを、われわれは思いかえさなければならないであろう。最も低い状況と運命におかれているのは奴隷たちである。かれらを日雇者のように取りあつかい、仕事をするかわりにそれに相応した報酬を与えるべきだとわれわれに注意する人々の教えは、正しいとしなくてはいけない」(『義務論』、泉井訳)。

 

それぞれの義務

近代的な憲法はなかったが、元首は元首としての義務があった。まず民衆にパンとサーカスを与えること。現代では「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障するということだろうか。パンが値上がりしたと言って民衆に取り巻かれてパンくずを投げつけられた皇帝もいる。人気取りのため、公共浴場にゆき、あまり見事でもない肢体をさらすこともいとわない皇帝。宫殿の修復のためたえず宴会を開いたがそれは市場の小売商人を助けるため。カピトル神殿修復に当たっては人夫たちに混じって瓦礫を担いで運んだ皇帝もいる。貧困者の救済は義務と考えられていた。義務こそが国家(レス・プブリカ)を支える基本精神だったと考えられ、その義務は国家への責任の順に重かった。元首(市民の第一人者)こそ最大の責任者であり最大の義務を負うものでなければならなかった。

 元首には元首としての義務があるように、元老院議員には元老員議員として政治参加の義務があった。元老院は政務官の総体であって閑居を放棄した人々の集合体である。だから閑居を要求するのは危険なことであった。騎士身分の者も政治参加を要求されたが閑居の権利を保持していた。もちろん一般市民には市民としての義務があった。

上述のように、最大の義務を負うのが元首(皇帝)であった。アラン・ミシェルはウェスパシアヌス帝が倹約という伝統主義の精神によって異彩を放つことになったと述べたうえで、このウェスパシアヌスやティトゥスの経済に着想を与えた主要な思想家はプリニウスであると述べている。だが経済にだけではなく、政治や思想における義務の観念、そういう政治家の姿勢をそれとなく諫言し、また同時に自己への箴言としたと思われる。献辞を添えて『博物誌』をティトゥスに献呈したのはちょうどティトゥスが元首に就く頃だった。

 

   (三)コンコルディアの心

 

ローマ生まれの女神

古代ローマにコンコルディア(concordia)という女神がいた。コンコルディアは、一致、調和、和合、協調、その他協和、平和、統一などと訳される。この女神はローマ生まれのローマ育ちである。ローマ社会では市民の数ほど神がいたという。「無数の神々、人間の徳のみではなく、悪にも対応する神々、謙遜、協和、叡智、希望、廉恥、慈愛、そして忠誠の女神というようなものがあると信じられた」という(『博物誌』)。だからコンコルディアも個人の神として生まれたのだろう。だが人気が出てくる。初めの頃、ローマ市内にいくつか祠があったらしい。何人かがそのことを書いているが不明な点が多い。

前三六七年、マルクス・フリウス・カミルス(ガリア人のローマ占領の際、独裁官としてローマを救い、ローマ第二の建国者とも言われた)は、平民でも執政官になれるリキニウス法を成立させて平民と貴族の間を調停し、その記念のためにこの女神に神殿を奉献したとオウィディウスはいうが(『祭暦』)、神話の域に過ぎないとも。それよりもプリニウスの方に信憑性がある。解放奴隷の息子グナエウス・フラウェウスはやがて造営官に選ばれ、護民官にもなった。彼は特権身分と平民身分の和解を試みが成功して、公約どおりブロンズの小神殿をコミティア(民会などの集会場)のグラエコス(ギリシアその他の使節団の特別席)の上に奉献したという(前三〇五年)。その後いくらかの変動があったのち、フォルム・ロマヌム西端の小高い地に神殿が建造され、またティベリウス帝のとき壮麗な神殿に建て替えられた。キケロが元老院議員を集めて、クーデターを企てたカティリーナ一派への弾劾演説を行ったのもこの神殿の階段の上からであった。階級間の協和(コンコルディア・オルディヌム)なくしてローマに未来はないと考えていたキケロにとって、この神殿は格好の舞台だった。

 

協調なくして・・・

 ローマ共同体のなかでの階級(身分)間の決定的な分裂を避ける智恵が働いたことについて若干付言する。よく知られていることだが、貴族たちの圧制に反抗した平民たちは何回も市の南にあるアウェンティヌスの丘に立てこもって反抗した。兵力の担い手である平民に背かれては困る貴族はそれに妥協したのである。ローマでは均衡を保ちつつ統一する政治体制が確立してゆく。各身分の内部においても微妙な均衡を作り出した。財産額、社会的責任、年齢、家柄、生活状況などに応じて職能的で開放的でもある階層秩序を構成していた。

 だが、コンコルディアの精神はローマ社会内での階級闘争を回避するための協和の精神だけではなかった。小さな氏族的共同体であったローマは、周辺の共同体との争いや協調のなかで成長した。サビニ人とのくり返される争いなどはその典型例だろう。サビニ人の女性たちを奪ったことから始まったと伝えられる戦争では、女性たちが両者の戟剣の間に割り入って和解させたという。そしてローマとサビニの二重構造の市(ウルブス)が出来上がったが、ローマ人はこの共同統治の都市の全住民の名を、サビニ人の市の名であるクレースにちなんでクィリテスと呼ぶことに同意した。それはローマ側の譲歩の証しでもあった。後にプリニウスは『博物誌』のティトゥスへの献辞のなかで、「ローマ人に捧げる」ではなく「クィリテスに捧げる」としたが、何百年後にもそういう配慮を行った。サビニ人との闘争と和解の話は伝説の域を超えないのかもしれないが、ずっとローマ社会で語り伝えられてきたには違いない。

 ローマの発展は絶え間ない内外における協調と統合の結果だった。協調なくしてはあれだけの地中海世界の統一を成し遂げることは不可能だったろう。彼らは征服あるいは統合した部族・民族・都市の人たちを同じ市民として抱え込み、カラカラ帝のときには帝国の全自由民に市民権を与えた。ローマと属州、ローマ人と非ローマ人の区別もなくした。帝政時代には多くの皇帝、いや、ほとんどの皇帝が旧属領から生まれた。人種や宗教の差別もことさらにはなかった。一神教のユダヤ人は皇帝礼拝を拒否し、自分たちを選ばれた民族と考えたが、そのユダヤ教徒はむしろ他に比べて優遇された。もちろんローマは諸種の問題を抱えていた。奴隷の存在を認めるなどはその明白な事象である。彼らの侵略的な軍事行動もそうである。しかしローマの支配層のなかに自らそれらの欠陥を自認し、自己批判・自省を加えていた者も多かった。例えばタキトゥスはブリタニアの支配において、原住民の指導者カルガクスの言を借りながら、ローマの与える自由が支配のカムフラージュに過ぎない、やがて反逆の惧れがあるとローマ人たちに警鐘を発していた。

そのようなわけで、一九世紀のフランスの歴史家ミシュレは次のように書くことができた。「歴史上のどんな時代にも、これほど人間の心が広く、寛大であったことはない・・・これほどまで階級や党派による区別・差別が忘れ去られたことはなかったと思われる」。そして、ユダヤ教から分岐したキリスト教は広大なローマのコンコルディアの土壌の中で花を咲かせた。そもそもユダヤ教もキリスト教もその信ずる神は同一だという。12世紀のフランスの神学者アベラルドゥスは、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒に共通な道徳を探求したと伝えられるが、そういう流れはあったのだ。だがそれがなぜ死闘を繰り返すことになるのか。すでに四世紀のギリシアの歴史家アンミアヌスは「キリスト教徒は仲間同士ではオオカミよりも残酷である」と表現したそうだが、それは三十年戦争の頃までも続くのだ・・・いや、もっと。

 フランス革命のスローガンは「自由・平等・フラテルニテ」であった。明治初期、フラテルニテを「友愛」とも「博愛」とも訳したことから、今日でも両方が用いられている。最初は「自由・平等」だけだったが、後からフラテルニテが加わったという。だがその後、一八四八年の二月革命でプロレタリアートはブルジョアジーに裏切られて大弾圧を受けた。プロレタリアートにとってフラテルニテは幻影に終わったという歴史がある。このフランス語のフラテルニテはラテン語のフラテルネ(fraterne、兄弟のように、睦まじく)からきている。それとは別にラテン語にはフィランスロピア(philanthropia)という語がある。一般的には博愛と訳される。つまり「兄弟愛」と「博愛」とは違った言葉であったが、日本語に訳せばともに「愛」という字が入る。ところがコンコルディアには「愛」は入らない。愛はなくても共同・協調・一致などはできる。愛するどころか憎んでいる相手とでも可能である。いや、むしろそのためにコンコルディアがある。前述のように、憎み烈しく戦ったサビニ人とも和解し統一した。ローマの歴史はコンコルディアの歴史であったし、その精神は一貫して人間関係の軌範となったのではないか。

 だからこそ、この女神はローマの偉大な神として祀り上げられるようになった。そして、ローマ帝国の崩壊と共にこの神殿も崩壊した。中世以降、コンコルディアは忘れ去られていたが、フランス革命のとき思い出されたらしい。パリの中心にある広場がコンコルドと呼ばれるようになったのは1795年頃とのことだが、女神として復活することはありえなかった、当然といえば当然である。遡れば、フランス革命の自由と平等の精神には古代ギリシア以来の自由と平等の思想が基盤にあったと思うのだが(ソクラテスとプラトンなどの)、だが肝心のギリシア自身にはコンコルディアの精 神は生まれなかったようだ。彼らは個人というものに目覚めたが、同じ民族同士いたずらに抗争を繰り返し、自分たちの統一した政治組織さえ作れなかった。その代わり、個性的で人間味のある神々と、『イリアス』や『オデュッセイ』のような神々の活躍する舞台を造りだした。そしてさらにその舞台を背景に絵画・彫刻・建築などで、人類が二度と創造し得ないような芸術を生み出した。

 ローマ人は文化や精神活動の多くのものをギリシア人に負っているが人間主義の精神もそうである。だがローマ人は、この点においてはギリシア人の精神を乗り越えた。ローマには人間主義の精神を現すものとしてhomo sum ; humani nihil a me alienum puto (私は人間だ。だから私は人間に関することは何一つとして私に無関係だとは思わない;紀元二世紀ローマの喜劇作者テレンティウスの言といわれる)という箴言があった。以前フランスの思想家サルトルが同じようなことを言っていたことを思い出す。そのような人間主義の精神は、西欧において、特にルネッサンス以降復活したかのように見えても、それは著しく普遍性を欠いてきたのではないか。どうしてアフリカの住民を奴隷として拉致できたのか。どうしてイスラム・ムスリムを差別できるのか。いや、それはアジア人に対してもそうである。

 

  (四)ウェルギリウスのうた

    

詩の王侯ウェルギリウス

 プリニウスはウェルギリウスを「詩の王侯」と呼んだ。そして、ウェルギリウスの肉筆は日ごろから目にしているし、キケロやアウグストゥスなどの手書きの書も日常的に見ていたという。

 ウェルギリウスの最後となった作品は『アエネーイス』だが、自分で不満足だったかどうかは知らないが、彼は亡くなる直前、原稿を焼却するよう友人に遺言していた。だがアウグストゥスは焼却を禁じ、その命令によって友人が刊行し今日にある。つまり、この書こそ明らかに『博物誌』と違って著者の死後公刊されたのである。だから献辞などはない。この件についてプリニウスは次のように書いている。「故アウグストゥス陛下は、遠慮深いウェルギリウスの意思を無視して、彼の詩を焼くことを禁じた。かくして、ウェルギリウスは自分で自分の作品を推奨したとしても得られなかったような強い称賛をかち得たのだ」(『博物誌』)。ウェルギリウスの『牧歌』『農耕詩』はローマの伝統的な素朴な田園生活を描いているが、ローマ人にそういう古来の美風を思い起こさせるため、アウグストゥスがウェルギリウスに謳わせたという説もある。アウグストゥスが彼に肩入れし、『アイエーネス』の完成を心待ちにしていたことは事実だろう。だが、なぜウェルギリウスが焼却させようとしたのか、プリニウスもわからなかったのだろう。あるいは、もっと深い意味があったのかもしれない。

 『博物誌』のなかで、農業技術、農業経営、農産物と農業製品、市場、農業と天文などは極めて重要な地位を占めている。プリニウスは大先輩であるカトーやワッロなどの著作や、同時代のコルメラの作品を重要な典拠として用いたが、同時にウェルギリウスにも恩恵を受けている。『博物誌』本文でウェルギリウスの名は六〇箇所以上出てくる。名は出さなくても参照した箇所は他にもたくさんあるはずだ。

 プリニウスの最初の著作『馬上の投槍について』は、彼が騎兵隊長をしていた頃の観察から生まれたものだ。ウェルギリウスの『農耕詩』第三歌にウマの描写がある。プリニウスはそれを評して「もっとも好ましいウマの外観はウェルギリウスの詩にまことに美しく描写されている。だがわたしもまた『馬上からの投槍について』においてそれを取り扱った」(『博物誌』)と、珍しく自著に触れている。ウェルギリウスのウマの描写は長く続くが、そのごく一部を抜書きしよう。

 

  風との競争を挑ませよ。まるで手綱から放たれたように、開けた平原を、

  地表の砂に足跡がほとんどつかぬほどに疾走させるのだ。

  それはあたかも、強力な北風が極北の地域から襲ってきて、

  スキュティアの寒気と乾いた雲をあちらこちらに拡散させるときのよう。

                                                             (小川正廣訳)

 ウェルギリウスの生きた時代は共和制から帝政に移る過度期で、抗争や内乱が絶えなかった。小農経営、自作農経営は徐々に姿を消しつつあった。ウェルギリウス自身が土地を没収され故郷を離れる羽目になった。『農耕詩』の舞台はそのような変動の時期であり、この詩の断片にもその空気は反映されている。『牧歌』第一歌の劈頭はこうだ。

 

  ティテュルスよ、君は枝を広げた橅(ぶな)の蔽いの下に横たわって、

  森の歌(ムーサ)をか細い葦笛で繰り返し奏でている。

  だが私らは、祖国の土地と親しい畑を去っていく。

  私たちは祖国を逃げ出すのだ。ティテュルスよ、君は木陰でのんびりと

  美しいアマリュリスの名を響かせるようにと森に教えている。

                            (小川正廣訳)

 これは土地を失ったメリポエウスという人物(彼自身がモデルか)が、土地を奪われなかったティテュルスに呼びかけた歌である。プリニウスの故郷であるアルプスの南に広がるガリア・キサルピナがローマ共和国に編入され、コムム(現コモ市)が自治市に格上げされたのはその頃であった。

                            

イタリアの自然

 ウェルギリウスはイタリアの美しい自然を賛美した。『農耕詩』第二歌からその箇所を再び小川正廣氏の名訳を借りて紹介しよう(『西洋古典叢書』)。

  

  むしろこの地に溢れるのは、豊富な穀物の実りと、マッシクス山の葡萄

  の酒。オリーヴと、多産な家畜の群れはここをわが家とする。

4行略)

  ここでは永遠に春であり、夏は夏でない月まで続く。

  家畜は年に二度身重になり、木は年に二度果実をもたらす。

  それに凶暴な虎や、獰猛な獅子の種族は生息せず、

(3行略)

  さらに加えて、あれほど多くの傑出した都市と、労を費やした建造物、

  切り立った岩山に人手をかけて築き上げた多数の町々と、

  古い城壁の下を流れる川。

あるいは、上の岸辺を洗う海(ハドリア海)と、下の浜に寄せる海(テュレニア海)を、

  また、あの大きな湖を語るべきか。最も広いラリウス湖よ、おまえをも?

(以下豊かな農業・農業技術、農産物、家畜などが歌い上げられるのだが省略)

 

 次にプリニウスの文章を『博物誌』三七巻から。 

 

第二の母であるイタリア、そこには多くの男が、女が、将軍や兵士たち、そして奴隷たちがおり、卓越した芸術や工芸、素晴らしい才能の富をもち(略)、健康的で温和な気候に恵まれ、(略)多くの港がある海岸をもち、穏やかな風が吹き渡るイタリア。(略)その豊富な水の供給、健康的な森林、道の通じている山々、無害な野獣たち、豊穣な土地と牧場(略)ブドウ酒、オリーヴ油、羊毛、亜麻、布、若いウシなど・・・。鉱石では金、銀、銅、鉄いずれにおいても、稼行が合法的に行なわれる限りは、イタリアを凌ぐ地はない。

 

 実はウェルギリウスは上掲の詩句の前に、メディアの豊かな大地も、美しいガンジス川も、黄金で濁ったヘルムス川(小アジア西部の)も、バクトラ(バクトリアの首都)もインドも、パンカイア島(アラビア海の)もイタリアとは栄誉を競えないだろうとイタリアを誇っているのである。故郷を追われたウィルギリウスもそう詠う境地になっていたのかもしれない。

 一方、プリニウスの上記の「イタリアを凌ぐ地はない」の後にはこうある。

 

もしわたしがインドの伝統的な驚異的事物をさし措くならば、イタリアに次ぐ地位をヒスパニアに、少なくともヒスパニアの海に接する諸地区に与えよう。というのはこの地の一部分は荒い砂漠ではあるが、それでもその生産的な地域はすべて農作物、油、ブドウ酒、ウマ、そしてあらゆる種類の鉱石に富んでいるから。ここまではガリアも同じだ。しかしヒスパニアを有利にしているのはその砂漠である。というのは、この砂漠にはエスパルト草(ハネガヤ)、かがみ石、それに奢侈品(絵の具)すらある。そこには勤労に対する刺激物があり、奴隷が鍛錬され、人間のからだが強健で心が情熱的であるような場所がある

 

 ウェルギリウスの頃はまだガリア(フランス)の向こうの地はローマ人に広くは知られていなかった。プリニウスはヒスパニアで皇帝代官を務めただけあってとても詳しい。『農耕詩』にある「最も広いラリウス湖よ」のラリウス湖(現、コモ湖)はプリニウスの故郷の地だ。従ってウェルギキウスの郷里でもあったし、また詩人カトゥルスの郷里でもあった。プリニウスは『博物誌』の最初のところでカトゥルスを「わたしの放蕩仲間」と呼んでいる。これは「同郷人」の俗語らしい。そしてカトゥルスの詩から二行を、この献辞の冒頭に載せている。プリニウスは、ローマでも突出してすぐれたこの二人の詩人を、敬愛すべき大先輩と見なしていたのだろう。プリニウスはローマ最高の詩人の詩をなぞったと思われる文を飾ってイタリアの自然を賛美し、そのような美しい地を創造した自然を称えて『博物誌』をしめくくったのである。『博物誌』の、あとから発見された部分、ほとんど最後の部分に次のような一節がある。

 

私はこう宣言する。全世界で、天空の穹窿が回転しているどこに行こうとも、イタリアの如く自然の栄冠をかちとるあらゆるもので飾られている土地はない。世界(mundi)の指導者(rectrix)であり第二の母(parens)であるイタリア」(三七201)

 

 プリニウスが賛美しているのは地理上の概念であるイタリアであって政治的概念でのローマ帝国ではない。厳密に言えばプリニウスの生誕地はガリアなのだが、彼が賛美しているのはその生誕地ガリアでもない。ローマ帝国の基礎をなしてきたイタリアである。そして次のように続く。

 

そこには多くの男が、女が、将軍たちや兵士たち、そして奴隷たちがおり、卓越した芸術や工芸、すばらしい才能の富をもち、そしてさらにその地理的位置と健康的で温和な気候に恵まれ、すべての人々を容易に受け入れ、多くの港がある海岸をもち、穏やかな風が吹き渡るイタリア。・・・豊穣な土壌と牧場・・・農作物、ブドウ酒、オリーヴ油、羊毛、亜麻、布、若いウシ、ウマ・・・鉱石では金、銀、銅、鉄いずれにおいても、稼行が合法的に行なわれている限りは、イタリアを凌ぐ土地(terra)はない。

 

 この続きでインドの驚異的事物に言及したり、イタリアに次ぐ地位をヒスパニアに与えようといったりしているのである。繰り返すが、プリニウスの念頭にあったのはローマ帝国ではなくあくまでも「全世界」のなかの一地域であるイタリアであった。だからそれがインドやヒスパニアでもあり得たのである。彼の知る世界の全地域を検討したうえでイタリアを称揚し、それに「第二の母」という栄誉を与えようと言っている。地中海世界やその周辺の地理を細かく分析した彼のいうことなので、今日のわれわれにそれを否定する根拠もない。

 そして彼はその第二の母を構成するローマびとたちの中に、わざわざ奴隷を含めた。

すでに当時、ローマ帝国は行政面でも経済面でも奴隷なしでは円滑な運営はできなくなっていたし、住民の過半数は解放奴隷かその子孫だとも言われた。プリニウス自身にしても『博物誌』を仕上げるには優秀な奴隷の秘書や書記が必要だった。だから奴隷はイタリアの富や文化の形成と栄光に大きな役割を果たしていると彼は考えている。奴隷や外国人たちは、ローマ市民権はなくてもローマびとであり、カメーナ(ミューズ)はその人たちみんなの詩の女神であると表現されているのである。だが、キケロもセネカもプリニウスも奴隷制の是非についてまでは論じていないようである。ただ、古典時代の奴隷制度が、基本的には人種や人種の差別を伴ってはいなかったとはいえる。古代ローマでは、アフリカ大陸から来た肌の色の濃い人をすべてエチオピア人と呼んだという。一羽のワタリガラスの葬儀が盛大にフォルム・ロマヌムで行なわれ、その棺を二人のエチオピア人が担いだとプリニウスは伝えている。その二人は奴隷だったかもしれないが、クィリテス(ローマ人)ではあったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 


プリニウスつれづれ(8)『影の歴史』に寄せて

2016-11-12 20:34:01 | 日記

 

      <「『影の歴史』に寄せて ―プリニウス随想(7)」の改訂版>

 

                   (一)プリニウスとストイキツァ     

                   (二)影と鏡

                   (三)  ブタデス伝説の伝承

                   (四)絵画の東と西                       

                   (五)プリニウスの絵画論から 

 

  序 

 ヴィクトル・I・ストイキツァの著『影の歴史』(1997年、邦訳、岡田・西田訳、2008年)が出て年数が経った。この著の訳者の「西洋文化における表象に関する言説の中心に、影に関する思想が占める場所を確立しようとする試み」というストイキツァ評に動かされて素人談義を試みることにした。

 

  (一)プリニウスとストイキツァ

 

絵画の起源

 『影の歴史』の出発点はプリニウスの伝えるギリシアの伝説である。そしてこの伝説がこの書の基本テーマになっている。ストイキツァは、古代ギリシア人の間では、影と魂と分身とは互いに象徴的に結びついていたというエルヴィン・ローデ(ドイツの古典学者(1845-98)の研究を紹介して、この結びつきがプリニウスに対しても通用すればとしながら論をすすめているのである。だがこれは、ストイキツァ自身の主張でもある。これは興味ある指摘だ。それは影のない絵は魂のない絵だという問題提起であり、その考えは絵画の起源から始まっているとされる。筆者はそのローデの研究は読んでいないのでそれを評価できる立場ではないが、ストイキツァの『影の歴史』をもとに若干の私見を述べたい。この書の冒頭はプリニウス『博物誌』からの引用である。

  

<引用A> 絵画芸術の起源の問題は定かでないし、本書の計画外である。エジプト人は、それは彼らの間で六〇〇〇年前、それがまだギリシアに伝わらないうちに発明されたものだと断言する。これは確かにいい加減な断定である。ギリシア人について言えば、そのある人々は、それはシキオンで発見されたといい、ある人々はコリントスで発見されたという。しかしすべての人々が一致しているのは、人間の影の輪郭線をなぞることから始まったということ、したがって絵はもともとそのような方法で描かれたものだということである。しかし、いま少し洗練された方法が発見されて第二段階に入ると、絵画は一色(monochromaton)で描かれる単色画となり、その方法は今日でもまだ用いられている。(『博物誌』三五151)。

 

 この後すぐ、「プリニウスはもう少し起源をさかのぼりこう語る」として次の<引用B>に移る。

 

<引用B> 絵画については十分に、いや十分以上に語られた。これらの言葉に彫塑について少々付け加えることは適当であろう。粘土で肖像をつくることが、コリントスでシキオン(コリントス近くの都市)の陶器師のブタデスによって発明されたのは、あの同じ土(注:不明)のお陰であった。彼は自分の娘のお陰でそれを発明した。その娘はある青年に恋をしていた。その青年が外国へ行くことになったとき、彼女はランプの光によって投げかけられた彼の顔の影の輪郭を壁の上に描いた。ブタデスはこれに粘土を押しつけて一種の浮き彫りをつくった。それを彼は、他の陶器類といっしょに火にあてて固めた。その似像は、ムンミウスによるコリントスの破壊までニンフたちの神殿に保存されていたという・・・(『博物誌』三五151)。

 

『博物誌』三五巻の主題は絵画・画家などである。<引用A>は絵画論の冒頭部分で、それに続いてローマとイタリアの簡単な絵画史、詳しい絵の具の話、そしてギリシアからローマに至るまでの主要な画家とその作品と続く。それが終わると「絵画については十分に、そして十分以上に語り終わった」と述べ、「付け加え」として塑像に移る。その冒頭に<引用B>がくるという構成になっている。プリニウスは、<引用A>と<引用B>の時間的な前後関係は書いていない。ただ、絵画論後に彫塑論を書き、それぞれに起源を書いただけである。

しかしストイキツァは、「プリニウスはもう少し起源をさかのぼりこう語る」としてBを先にする時系列を作った。しかも彼はこの二つの伝説を結び付けて一つの物語をつくりあげた。だから読者に混乱をもたらす。しかし、そんなことは些事に過ぎない。ストイキツァは、「芸術の再現表象は一般に,もとをたどれば原始的な陰影段階にまでさかのぼることができるのだということであろう」「プリニウスのねらいは、いかなる正確な年代にもとらわれない基本的な説明を通して、この『曖昧な』起源に光を当てることにあったのである」と所見を述べている。

だがやがて、ブタデスとその娘の話は「神話」になり西欧の絵画史に伝わったとされる。一方プリニウスは、この話を絶対視して伝えているわけではないし、それが歴史的真実であるとも言っていない。ただ、たんたんとその話を伝えているだけである。絵画の始まりに関して彼は、「すべての人々が一致しているのは、人間の影の輪郭線をなぞることから始まったということ」であるとしていて、自分の主張であるとも言ってもいない。しかし後世の西洋の人たちは、この説話の中に絵画や彫塑の誕生にまつわるある種の真実味を感じとろうとしていたのだろう。だからこそ、この伝説は今日まで西欧の絵画史の中に息づいてきたのであり、一個の精神として存在している、ストイキツァが言おうとしているのはそういうことだと思う。

 

旅立つ若者                                                                   

 そもそもブタデスとその娘の伝説は、きわめて古い時代の話で、おそらくプリニウスの時代をさかのぼること数百年にもなろう。あいまいな箇所が多いのも当然である。

娘が恋した青年は外国に行こうとしたとあるが、どこへ、どういう目的で行こうとしたのか、青年は帰ってきたのか、なぜ似像を神殿に納めたのか、納めたのはいつか? プリニウスは何も書いていない。そこでストイキツァは、危険を冒しているのだがと断りながら大胆に推測する。ストイキツァの解釈は、青年は戦地へ赴く、である。今日の多くの評者は最初から戦場に赴くことを前提としているが、それは違う。ストイキツァも最初からそう決めているわけでもない。大胆な推測だというのである。推測だが合理性がある。娘はその青年と永遠の離別になる可能性が高い・・・。

 ギリシアでは優れた卓越した青年は若くして死ぬのである。ギリシア神話では数多くの卓越した青年たちが死を免れ得なかった。そして、とくに初期においては、戦死した戦士は英雄神(ヘロス)として祀られることが普通だった。ペリクレスは、サモス遠征において戦死した戦士たちは神々のように不死になったと称えた(プルタルコス『英雄伝』「ペリクレス」8)。もしそういうことならば、娘の恋人は英雄神となって娘の所には帰ってこない存在なのである。父親のブタデスの作った塑像は最初から神殿に奉納する意図を含んでいたと考えてもいいだろう。娘が恋人の面影を壁に描くにあたっては、そのようなせつない思いが込められていたに違いないし、父親はその娘の気持ちを忖度してやるほかはなかったのだ。だが、プリニウスの生きた世界は、まだギリシアとローマの神話が混交し、伝説や言い伝えが人々の心の中に浸透していた時代だった。

 少し離れた所に置かれた灯火、壁ぎわに立つ若者、壁に写る影をなぞる乙女、傍らでそれを悲しげに眺める父親、多分母親も。こういう構図が思い浮かぶ。プリニウスの説明はいたって簡潔である。そもそも言い伝え自体が簡潔だったからでもあろう。だからその情景も推測する以外ない。だがプリニウスは、ブタデスの娘が書いた輪郭線が絵画の始まりだといっているわけではない。

 

(二)影と鏡

 

プラトンの洞窟

 ストイキツアーはここで、よく知られているプラトンの『国家』における洞窟の影の話を持ち出す。プラトンの説話の大筋は次のとおり。

地下の洞窟に、子どものときから手足も首も縛られたままの囚人たちがいる。首は後ろに廻せないので洞窟の奥の方しか見ることができない。彼らの後ろの高いところに火が燃えていて、囚人たちの背中と火の間に、あらゆる道具とか石や木、人間・動物の像などがあってそれが運ばれて行ったり来たりする。囚人たちは洞窟の奥の壁に映るそれらの像の影だけを見て生きてきた。あるとき囚人の一人が縄を解かれ、立ち上がって火のある方を見よと強制される。だが彼は、以前見ていたもの(影)の方が真実であると考えるだろう・・・。

プラトンはこの洞窟の話の直前で、人間の知の領域を四つに分けて分析している。知的思惟(直接知)、悟性的思惟(間接知)、実物(確信・直接的知覚)、そして影像知覚(間接知覚)である。彼はこのうち最後のものを「下位のもの」としている。囚人たちが見たものはその最下位の影像に過ぎないのだ。そして、「絵画とは・・・実際にあるものをあるがままに真似て写すことか、それとも、見える姿を見えるがままに真似て写すことか? つまり、見かけを真似る描写なのか、実際を真似る描写なのか」と問い、「見かけを真似する描写なのです」という答を得て、「真似(描写)の技術というものは真実から遠く離れたところにあることになる」と述べ、「真似の術とは、それ自身も低劣、交わる相手も低劣、そして産み落とす子供も低劣、というわけだ・・・」と断定する。プラトンの生きた時代はギリシア彫刻、ギリシア絵画の最盛期だったのだが。だが彼にとっては絵画も彫刻も論ずる価値、存在する価値さえなかったのだろう。絵画自体を拒否したプラトンは、絵画の中に占める影などは問題にもならなかった。ストイキツァは、「西洋のイメージに関する歴史の中で影は常に否定的な要素がつきまとった」という。

 

ストイキツァは「プラトンとプリニウスは異なったことがらについて語っていて、両者はともに起源にまつわる神話を扱っており、プリニウスは芸術の起源を、プラトンは知の起源にまつわる神話を取り扱っている。ともにその中心にあるのは投射というモチーフであり、芸術(真の芸術)と知(真の知)は、ともに影を超えたところにあるということだ」と評してる。しかしプリニウスの場合は伝説であり、プラトンの方は観念的な創作に過ぎず、神話を扱ったものではない。ストイキツァは自分で神話に仕立てたのであろう。 

ストイキツァは、プラトンのこの寓話以来、影は常に否定的な要素がつきまとい、それは西洋のイメージに関する歴史の中で払拭されることはなかったと述べているし、それを例証する事実もいろいろ挙げている。ストイキツァはプリニウスとプラトン両者を較べて、プリニウスの場合は、イメージ(影、絵画、彫刻)は同一物の別のものであるが、プラトンの場合はイメージ(鏡、反射像、絵画、彫刻)は写しの状態にある同一物、あるいは分身という身分での同一物ということにあると評している。

 

ナルキッソスの愛

 ストイキツァはさらに、オウディウスのナルキッソスの伝説に触れながら、『絵画論』(1435年)の著者レオン・バッティスタ・アルベルティの言説を紹介する。「絵画を発明したのは、花に変えられてしまったナルキッソスであった」「技芸という手段を用いて、泉の表面を抱擁する行為でないなら、絵画とは何であろうか?」「鏡を抱擁することは、影の輪郭を線でたどることと明確に区別されている。ルネサンス以来、西洋絵画というものが、同一者への愛によって生み出されたものであることは明白である」という言葉などである。このあとストイキツァは、ジョルジュ・ヴァザーリ(一六世紀の画家)が、上記の「鏡の抱擁論」と「影の輪郭論」二つを調和させようと試みたが失敗したという。ヴァザーリは絵画の起源に関してプリニウスをざっと読んで、次のようなシナリオをつくったとストイキツァはいう。

 

  しかし、プリニウスによれば、この技法はリディァのギュゲスによってエジプトに導入されたということになっている。ギュゲスは火によって映し出された自分の影を見て、壁に写った自分の輪郭をすぐさま一片の炭でなぞったのである。このことがあって以来しばらくのあいだは、輪郭を線でたどるだけというのが習慣となり、そこにどんな色もつけることはなかった。

 

ギュゲスという人物は、プリニウスのこの文だけで知られていると思うが、まことに奇妙な文章である。「プリニウスによれば」とあるが『博物誌』のどこにあるか示していない。捜してみたら、『博物誌』第七巻205の事物の発明者・創始者を列挙した箇所で、「格闘技はピュテオスによって、投球技はリュディアのギュゲスによって、絵画はエジプト人によって・・・創められた」という文章に出会った。先の<引用A・B>と比べてみるといい、偽造としか言いようがない。こういう文書を論拠とすれば過ちが生じても仕方ない。

 

(三)ブタデス伝説の伝承

 

愛の伝説に 

このプリニウスの説話は、その後の西欧絵画に大きな影響を与えたというストイキツィアの論拠は、豊富な資料や絵画の紹介や分析によって示される。

 プリニウスの物語では屋内での燈火による影絵であったが、それが屋外での、あるいは太陽光での影に変えられたり、男性が女性を描くことになったり、とくに中世ではキリスト教の説話の題材に用いられたり、果てはソビエト連邦で、壁際に座るスターリンの影を一人の女性が描く「社会主義リアリズム」のパロディーに使われたり、影絵が観相学に用いられたり。画面中央に巨大に描かれた黒い影・・・ピカソの「影」という作品など・・・とてつもなく広がっていく。

 そういうわけで、この著には、プリニウスの絵画の起源に関する説話や西欧人の影に対する多様な発想が紹介されているわけだが、それはあるいは宗教的信仰に伴うものであったり、邪悪や悪魔を象徴するものでもあったりした。だがストイキツァはそれが愛の伝説であると見なされたとも言う。その例として、ルソー(1712-78)の『言語起源論』から一節を紹介している。以下はその孫引きである。

                                

  愛は素描の発明者だといわれている。愛は言葉を使って話すことも発明したかもしれないが、不幸にも愛はそれに満足せず、それを軽蔑している。なぜなら、自分自身を表現するにあたっては、しゃべることよりももっといきいきした方法があるからだ。恋人の影の輪郭を愛情込めてたどった女性は、まさに彼に多くのことを語っていた。 

 ストイキツァは、これはプリニウスの神話が愛の伝説であるとはっきり見なされた最初の例であり、輪郭をたどった影が最初期の絵画表現ではなく、愛を表現する最初期の言語として見なされた最初の例でもあるという。これは一つの解釈である。なるほど、そういう理解の仕方もあるのか。そういう理解の仕方は西欧の絵画観に変容を与えていったのかもしれない。だが、筆者としてはルソーの考えには賛同できないし、従ってそれをわざわざ引用したストイキツァにも疑問を感じる。

 

ゲーテの『色彩論』から 

 ゲーテの最も重要作品ともいわれる『色彩論』、その第三部「歴史篇」は、単なる色彩論ではなく、広く絵画論、芸術論、果ては文明論にまで及ぶ大作である。そこには、古代ギリシアからゲーテの時代までの広範な展望がある。ゲーテはこの書のプリニウスに関する部分に、友人のヨハン・ハインリヒ・マイヤー(宮廷顧問官・画家)の原稿をとりいれた。より一層の専門的知識の必要性を感じたからだろう。ゲーテは、プリニウスの著作は「原典にせよ翻訳にせよ入手するのはむずかしくない」と書いているが、彼自身は一八〇六年、『博物誌』のドイツ語訳(178188)をワイマール図書館から借り出している。

マイヤーの論文は、歴史編第二部「ローマ人」のなかに「彩色の仮説的歴史―特にギリシアの画家に関して、主としてプリニウスの報告による」と題されて採録されている。これは歴史的にみても立派なプリニウス絵画論となっている。

 マイヤーははじめに意味深長なことを述べている。彼は、この論文に「仮説的歴史」と名づけたのは、プリニウスによる報告が多くの点で実に曖昧で不完全であり、推測による説明や補足が必要だったからであるという。推測というものは、自然に無理なく生まれてくることもあれば、事柄の成り行きからどうしてもそうしなくてはならないこともある。だから、こうした推測によって補われたものは、芸術の本質にほとんど、或いは全く馴染まない報告書よりも、遙かに信用のおけるものになる・・・(南大路・嶋田・中島訳参照)と論じている。もしこのマイヤーの説を肯定するならば、ストイキツァの先の<引用A>と<引用B>との結合、それから「青年は戦場に赴いた」という大胆な推測も肯定できることになる。だがマイヤーはこの二つのことには言及せず「我々が本物の人間の影や影絵ではなく、平面上に形態を記録しようとして初めて線描画を試みたのだとしたら、これは信憑性のある説である。というのも、線描画を描くことこそ絵画の基本なのだから」という。そして、「絵画の最初の試みはきわめて古い時代にまで遡る。これくらいが確実に言える唯一のことだろう」と書いて、ブタデス伝説には触れない、もしくは無視している。その代わり次のように言っている。

  

 古代の人々の作った作品がたとえ子どもたちの努力と比べられる程度のものであったとしても、古代の芸術の創始者を稚拙な精神や未熟な精神の持ち主だと非難するわけにはゆかない。平面上に置かれた球形状の物体を描写するようになった契機、絵画へといたる最初の契機は彼らから生まれたのだから。そして最初の一歩というものはいかなるものであっても、偉大にして大事な一歩とみなしうるのである。

 

マイヤーも最初の一歩を探ろうとしている。もちろん最初に絵画とは何かという問題が立ちはだかっている。それを追求すれば困難な問題にぶつかる。原始人が洞窟に描いた狩の図を絵画と呼んでいいのかそれも疑問だ。平面に置かれた球形状の物体を描写しようとする意識の発達までには、遠い道のりがあったことも間違いないだろう。『影の歴史』は、そういう問いに一つの解答を示すことになった。プリニウス自身が絵画における影の役割に気づいていたわけではない。マイヤーはプリニウスを論じながらブタデス伝説には無関心だった。ストイキツァ自身がいうように、西欧においても、学問や芸術の起源に関する表象としての影の系統的な研究はほとんどなかったのだろう。

 ストイキツァはこの問題に関して、ドイツの画家・美術史家のヨアヒム・フォン・ザントラルト(Sandrart1606-88)の言葉を紹介している。ザントラルトは、中国人の絵は何ら陰影をもたない輪郭だけしか再現しない、量感を生み出そうともしない、空間の奥行きを表現する方法をしらない・・・と述べている。だがこの批評自体が中国絵画に対する無理解を示している。中国絵画の素材は絹布や澄心堂紙(ちょうしんどうし)のような高質紙であり、それに適った筆に墨、そこから生まれる墨画は、墨の濃淡、筆遣い、複数の線、そして対象物の配置・・・などによって量感や奥行きを表している。決して輪郭だけしか表現しないのではない。ただし中国の伝統的絵画は、形を描くのであって影を描くものでないことは事実である。ザントラルトは中国清朝の康熙帝の頃の人であり、ドイツ人としては初めて美術史を著した人だという(『西洋人名辞典』による)。彼が中国絵画に陰影がないことを指摘したことは一つの問題提起かもしれない。だが実際は、その頃には中国では影を描く手法も広がりつつあったのである。

 このザントラルトの評に対しストイキツァは「西洋美術と比べれば、中国美術は『その他の美術である』、中国美術が『異なっている』理由は、それがヨーロッパの規範を無視しているからだ」と論じている。規範とは何か、それを彼は明確に示しているわけではないが、彼の論調から言えば、影を描かないことが規範を無視しているのである。だが、そうであろうか。無視したのではなく、異なった価値観、世界観をもって生まれた絵画なのである。

 伝統的な中国の絵に西洋絵画のようなか影がないことは、ザントラルトの言うとおりである。しか上述のように、立体感や遠近感を描く方法はもっていた。その描き方は、中国人や日本人には何ら違和感をも与えなかった。ストイキツァは中国の絵は「ヨーロッパの規範を無視している」というが、絵画の規範をヨーロッパ人がつくるものでもない。アジア史家の宮崎市定によれば、むしろ規範は中央アジアに生まれたのである。だから「その他の美術」が西洋の美術であるのか中国の美術であるのか、容易に判断できるものでもない。

 

(四)絵画の東と西

 

美術史の流れ

ザントラルトにせよストイキツァにせよ、果して彼らが中国の絵画史や絵画にどれほどの造詣があったのかは知らないが、どうしても西欧中心的な見方に陥ることを避けられなかった。ずいぶん前のことになるが、宮崎市定は論文「東洋のルネッサンスと西洋のルネッサンス」で次のように論じている。人類社会を東洋、ペルシア・イスラム世界、西洋の三つと名付けるとすると、それぞれ数世紀の間隔をおいてペルシア・イスラム世界、東洋、西洋の順に文明は発展してきた。文芸復興(ルネサンス)も同じ順で経験されたが、最後に発展した西洋での文芸復興が最も成果を挙げ今日に至っている。その文芸復興の最大の成果は芸術であり、なかんずく絵画であると宮崎はいう。そして次のように論ずる。

絵画の出発はペルシア・イスラム世界である。それがやがて東は中国へ、西は西洋へと伝えられることになった。だが、絵画の技術が最初に完成したのは東洋においてである。それが後イスラム世界に入り、さらにこれとほとんど同時に西洋にも入って、やがてイタリアのルネサンス期の絵画に影響を与えた。その東洋画の初期つまり六朝から唐にわたる頃、ペルシア世界、特にササン朝ペルシアの末期は文化の爛熟時代で、絵画も中央アジア・インドから中国に影響を与えた・・・このように推測できるという。宮崎のルネサンス論の一部を引く。

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチの人物の背景たる風景画が東洋的霊感を以て書かれたであろうことは、既にドイツ人ミュンステルベルグが、その名著『シナ美術史』の中に述べており、英人マルチンもその大著『ペルシャ・インド・トルコの密画及び画家』の中でレオナルドの東洋趣味を問題にしており、ラ・ツウレットや、ブウジナもこれに賛成している。余はこの時代の風景画の中に、東洋画家の皺法(しゅんぽう)を模した所があるかと疑い、特にドイツのデューラーの水彩画中には確かに存在していると信ずるものである。

 

そのほか宮崎は、ルネサンス以前には、しばしばマリア像が東洋人の顔立ちで描かれていることなど、いくつもの事例も挙げている。しかし宮崎は、西洋の絵画が東洋に影響を受けたことが、西洋の絵画が東洋の絵画に劣っているわけでは決してないという。西洋人には東洋人が持たない独特の技法をもったが、そこには幾何学的遠近法があり、光学的陰影法があり、解剖学の応用があったと評価している。そして西洋人が芸術眼を開き、芸術的霊感を受けたとすれば、それは東方との交通によってもたらされたものであると考える。更に宮崎は次のようにもいう。

文芸復興期のイタリア絵画史は二期に分けられ、前期の一四世紀ではジオットなどが清新な画風を吹き込んだが後継者が模倣に堕し、後期の一五世紀に入ってマサッチオ、フラ・アンジェリコなどによって清新さを取り戻し、やがてレオナルド・ダ・ヴィンチにつながってゆくと。更に、この一五世紀前半にはチムール王朝の君主シャハ・ルクのもとにいわゆるヘラット絵画といわれるイスラム密画の黄金時代が築かれ、それがイタリアの文芸復興期の時代と重なり、両者が並行して継起したと。

 

気を描くのが中国画

 旧来、中国絵画は「気」を描くのが主眼だったことを、宇佐美文理氏の『中国絵画入門』で学んだ。気は日本人にも馴染み深い。元気、気力、気分、天気、生気・・・など。だから判ったような気になりやすい。

 中国絵画は気を描くことから始まったというが、気は目に見えるものではない。当初はそれを具象化して絵のなかに現そうとした。しかしやがて、見えないものは見えないとして描くようになった。見えないものをどうやって描くのか。たとえば、見えない気の周りに、見えるものを描いて取り囲むとによって気を描くのである。西洋の都市には広場がある。本当は広場でもなく公園でもない。広場は道路も兼ねているから広場の周囲に道路はない。周囲にはそれに面して建造物があり、通常広場と称するものは建造物と建造物の間の隙間である。中国絵画に表される気は、たとえば周囲の山水のはざまにある空間で示される。建造物のはざまに広場を作った西洋人が、山と山とのはざまにある空間に気があることに気づかない不思議である。

 西洋画は、なるべくものに似せて描こうとする。プリニウスはある絵の競技会の様子を伝えている。ウマを描く競技会で、アペレス(前325年頃のギリシアの画家)はその審判員を人間からウマに変えることを要求した。競争相手の画家たちの陰謀を察知したからである。数頭のウマが連れてこられた。ウマたちはアペレスの描いたウマの絵を見て嘶き始めた。その後、競技会の審査にはその方法がとられるようになった。それが芸術家の技量を試す正しい方法であることが証明されたからだという。それに似た話は他にもある。ただしその方法が正しいとプリニウス自身が言っているわけでもない。彼はこのウマの絵を見たことがあるのだろうか? 彼はこういっている「ある絵の競技会で彼が描いたウマの絵がある。或いはもう失われたかも知れないが」。ある絵の競技会というのは、上記の競技会のことである。プリニウスはその絵を見たことがあるが、『博物誌』でそれを書くときには無事存在していたかはわからなかったのだ。そのウマの絵には影はあったのだろうか、知りたいところだ。

ところが中国人にとって大切なことは、先述のように気を描くことであったという。だから絵の対象物は、必ずしも実存物に似せて描く必要性を感じなかった。山水画を見ても、ありえない山容を描きそこに気を漂わせる。その山容や水、樹木などは、それを描く人の気によって生まれたものである。人物を描けば、その形ではなくその人物の気品あるいはその精神性、つまり気を描くのである。

山水画を例としてもう少し考えてみよう。西洋人は描く人(画家)の目で、その本人の視点で得た情景を描くが、中国人は違う。近景、向こうの山、そして遠く山、それぞれを異なった眼で眺めたように描く。西洋画は一個のレンズで写した絵だ。中国画は標準レンズ、望遠レンズ、そして超望遠レンズを使ってそれぞれの山を別々に写し、それらを一つの画面に上下あるいは左右に繋いだような絵を描く。繋ぐといってもぴったり繋ぐことはできない、だから先述のように、それぞれの山景の間に隙間ができる。どのように隙間をとるか、それは画家の手腕である。そこに白く霞を描くか、淡い霧を描くか、何も描かないか・・・。それが気を象徴する。気は本来物質ではないから表すことはできないのだが、絵の鑑賞者はその無の中に気を感じ取ることはできる。その空間に讃を書いたりする。画と書が一体となって一個の思想を形成する。画面の隅々まで絵の具を塗りたがる西洋の絵画とは大違い。だからザントラルのいう「その他の美術」ということになり、西洋人の精神とは違ったところに存在することになる・・・これは筆者が宇佐美氏の著書を読んで感じた全くの独善的な解釈に過ぎない。

 

プネウマ

西洋のギリシア・ローマの哲学、特にローマに影響を与えたストア哲学ではプネウマという概念がある。日本語に訳し難い。気息などとも訳されたりするが、日本語にある気息は息(いき)や呼吸のことであって、同じではない。無理に訳さないでプネウマとそのままにした方がわかり易いということになる。ではプネウマとは何か。ある哲学者はこういう。ストア学派によると、それは内在的なものであり世界の根源的な力である。また根源火・根源のプネウマ・世界霊とも呼ばれ、同時に世界理性(ロゴス)、世界法則(ノモス)、予見(プロノイア)、運命(ヘイマルメネ)などと言い現わされる。プネウマによって質料に形が与えられ、軌範と法則にしたがう運動が起こされる。もう少しわかりやすく表現すれば、プネウマは、無機的自然においてはただ存在するだけで、植物界においては成長の段階に高まり、動物界では魂として現れ、人間においては理性として現れる。だが、根本的にはプネウマは至るところにあり、それは物体的なものの側面に他ならない。すべては物質であり、いわゆる生命力も物質である・・・ということになる(ヒルシュベルガー『西洋哲学史』1古代、高橋憲一訳より)。これはヒルシュベルガーが、プリニウスの世界観に関連づけて説明した文章の一部である。それは中国における気とは異なる。中国人は気を描こうとしたが、西洋人はプネウマを描こうとはしなかったし、プリニウスもそんなことは書いていない。彼は輪郭の線描は描いたというが、影自体を描いたとも言っていない。影の役割などは書いていない。ギリシアの絵は多くが失われて壷絵ぐらいしか残っていない。しかしローマの絵はある程度残っている。それらの絵を見ると、巧まずして影が描かれているものがある。たとえば、先のマイヤーは「アルドブランディーニの婚礼」(前一世紀ローマの作品)を高く評価しているが、そこでの見事な陰影について言及している。だが、その陰に何か特別な精神的なものを与えようとはしていない。

 しかし宇佐美氏がいうように、「世界は気でできており、その気のはたらきによって、花が咲き葉が色づく。人間もまた気からできている。人間の心もまた気の働きにすぎない」というのが中国人の思想ならば、プネウマの思想とどう違うのだろうか。さらに氏は、中国の自然観では、現代の我々がいう自然観、つまり自然は人間に対立するものという自然観とは違い、自然の中に人間もすっぽり含まれると説明している。

古代ギリシアやローマの思想の多くはそれと同じく、人間も自然の一部分であったという。『博物誌』はそういう思想のもとで編集された。では、プネウマと気はどう違うのか。西洋の「影」は鑑賞者の誰にでも見えるし、それがその絵の主人公になったりする。しかし、中国画の「気」は士大夫・文人でないと見てとれない、感じとれないとも言われてきたが、果たしてどうなのだろうか。

 

(五)プリニウスの絵画論から

 

ブタテス伝説の真偽

 プリニウスは、自分が報告したブタテス伝説が、絵画の出発点のように扱われているのを知れば、きっと当惑するに違いない。 彼は、最初の<引用A>のように、絵画芸術は人間の影の輪郭線をなぞることから始まったとは言っている。あくまでもそれは線なのであり、影ではない。プリニウスは、これが第一段階だという。いま少し精巧な方法が発見された第二段階では一色で描かれ、それは単色画と呼ばれる。それは今日(プリニウスの時代)でも行われているという。一方で「線描はエジプトのフィロクレスあるいはコリントスのクレアンテスによって発見された。しかし最初にこれを実行したのはコリントス人アリデイケスとシキオン人テレファネスであった。これらは色彩を用いない時代の人々だ。とはいっても、輪郭内のあちこちに線を加えたという。そして、コリントスのエクファントゥスは、これらの線画に土器を粉末にしてつくった絵具を塗りつけた最初の人であるといわれている」と述べている。

 彼はこの後すぐ思い切ったことを言う。つまり、上記のような絵画技術はすでにイタリアでは完成していた、アルデア(ローマ南方の町)の諸神殿にはローマ市よりも古い絵画が今でも残っていて、たった今描いたような新鮮さを保ってきたと彼はいう。ローマ市の建設は、伝説であるが西暦前七五三年である・・・これは驚きだ。とにかくプリニウスの叙述には乱れがある。

 一方、線画ということになると、中国の伝統絵画は線画が中心だ。彩色をしても一色か二色程度、線が最重要な要素である。プリニウスは線画の重要性を下記のようなエピソードで伝えている。

 コス島出身のアペレスは、彼に先立つすべての画家、彼の後に来るべきすべての画家を凌ぐ画家だとプリニウスはいう。『博物誌』に登場する人物の中で最も多くの紙幅を費やしたのがアペレスである。そこにあるエピソードのひとつ。アペレスは日ごろからロドス島のプロトゲネスの手腕に敬意を表していた。彼は海を渡ってプロトゲネスの仕事場を訪ねたが留守だった。留守番の老女が、あなたは誰ですかと聞くと、そこにあった新しい画板に絵の具で極めて細い線を描き,この者だと告げなさいと言って去った。帰宅したプロトゲネスは、こんな完全な仕事はアペレス以外に出来るものではないと言い、今度は別の絵具を使ってアペレスが引いた線の上にさらに細い線を引いた。そして老女に、その客が引き返して来たら、それを見せなさいと言って立ち去った。引き返してきたアペレスは、自分が負けたことを恥じ、また別の絵具で、前の二線を横切って、もうこれ以上細かく書きようのないような線を描いた。再び戻ってきたプロトゲネスはそれを見て、自分が負けたことを認め、その客を捜しに波止場へ飛んで行った。そしてプロトゲネスは、この画板をそのまま後世に伝えることに決めた。

 プリニウスはこうも言っている。この画版は、カエサルの宮殿の火災のとき焼失したと聞いているが、それ以前にはわれわれは大いに鑑賞したものだ。広い画面には目にもとまらぬほどの線以外には何も描いていないので、他の多くの作品の中で一つの空白のように見えた。そして、どんな傑作よりも重んじられていたと。またプリニウスはアペレスについて次のようにも書いている。「彼は絵では表せない事物をも描いた。雷鳴、電光、雷電などで、その絵はそれぞれプロンテ、アストラベ、ケラウノボリアというギリシア語の題で知られている」。このような話を聞くとわれわれは、中国の伝統的な画法を思い出さざるを得ない。

さらにプリニウスはいう。「四つの絵の具だけが、あの高名な画家たち、アペレス、アエテティオン、メランティス、そしてニコマコスによって、彼らの不滅の作品を作り上げるのに用いられた。白はメリヌム、黄土色はアッティカの、赤はポントスのシノピス、黒は油煙である。彼らの絵はどれひとつでも一つの町全体の富くらいの値で売れるのに・・・実際、資源が今よりも乏しかった時代には、すべてが今より優れていた。その理由は、人々が今日探し求めているものは材料の価値であって、天才の価値ではないということだ」と。彼は他の箇所で、ローマの彫刻が作品の内容よりも、その素材の高価なことが自慢の種になってきたと嘆いている。絵画についても同じなのだ。

 

現代の考察

 中国でも清時代の後半になれば西洋絵画の手法が導入され、影、陰影、遠近法などを用いた絵が生まれていた。端的にいえば気を描くという伝統的な画法が凋落したようにも見える。だがしかし、今も観光客相手の土産店の店頭には、伝統的な山水図の掛け軸などがところ狭しと飾られていた。それを中国絵画の沈滞とか発展・進歩とかに結びつけることはできない。そもそも芸術に直線的な進歩というものがあったのだろうか。「古代の人々の作った作品がたとえ子どもたちの努力と比べられる程度のものであったとしても、古代の芸術の創始者を稚拙な精神や未熟な精神の持ち主だと非難するわけにはゆかない」というマイヤーの言葉を思い返してみよう。

 

人類がもっともすばらしく発育したその歴史的幼年時代は、二度とかえらぬ一つの段階として、なぜ永遠の魅力を与えてはならないだろうか? わんぱくな子供もいればませた子供もいる。古代民族の多くはこの範疇にぞくしている。正常な子どもはギリシア人であった。彼らの芸術が吾われにたいしてもつ魅力は、それが生い立つ基礎をなした未発展な社会段階の結果であって、むしろ芸術がそのもとで発生し、しかもそのもとだけで発生しえた未熟な社会的条件がけっしてふたたびかえってこないということと、不可分に結合しているのである」(カール・マルクス『経済学批判』)。

 

西洋で発達した科学は一直線に発展しているように見える。「徒歩から車、車から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機へ」、まさに止まることをしらない。今はこれに宇宙船を加えなければなるまい。

だが芸術はその限りではない。一直線に発展するわけではない。人間のつくった社会構造もその文明もそうである。ホメロスの時代も、史記の時代も、源氏の時代も、浮世絵の時代も帰ってはこない。「影」で陰影を深めた近代西洋絵画も役割が終わったかのように退いてゆく。縦三メートルほどもある大きなキャンバスに、白の絵の具をただ塗っただけの現代絵画を展示会で観たことがある。近年では影のない西洋画も見受けるが、この絵には「影」も「形」もない。この現代の先端を行く絵は、新しい世紀を切り開く象徴なのだろうか。「出来事の一つの周期が終わると、世界火はすべての出来上がったものを再び消し去り、それを莫大な量の燃える霧にして根源火に返し、次いで根源火は新たにもう一度それを自己の許から解き放つ」(ヒルシュベルガー前掲書)。このストア学派の理論を肯定するわけでも信ずるわけでもないが、近年の事象を見ていると、世界にとって、一つの周期が終わりつつあると思わせるものがあることも事実である。