<「Z9 ローマびとへの贈りものープリニウス随想(9)」の改訂版>
(一) カメーナに捧げる新しい作品
(二) 人は人のために
(三) コンコルディアの心
(四) ウェルギリウスのうた
(一)カメーナに捧げる新しい作品
ティトゥスへの手紙
西暦七七年、プリニウスは『博物誌・三六巻』に献辞を付して皇帝ティトゥスに献呈した(注:後、この献辞と詳細な目次・典拠著作家の一覧表を第一巻にまとめ全三七巻とした)。そして新しい任地ミセヌムに向った。献辞といってもそれは手紙の形式をとっている。下はその出だしの部分である。
これは博物の書(Libros Naturalis Historiae)でありますが、ローマ人(Quirites)の詩の女神カメーナ(Camena)に捧げたわたくしの新しい作品であり、またわたくしの最新作でもあります。
カメーナというのはギリシア語でいうムーサ、英語や日本語では普通ミューズである。たんに詩だけでなく、あらゆる知的活動の女神とされてきた。一方、古来ローマの水のニンフだったカメーナは、リウィウス(『ローマ建国史』の著者)以降ギリシアのムーサと同一視されてきた。プリニウスは意識的にムーサではなくカメーナを使ったと思われる。ローマ市のカペナ門外にカメーナの聖なる森と泉があったという。
プリニウスより一世紀前のウェルギリウスは、『アイネーイス』 でローマ建国を謳ったが、その冒頭の一句を紹介する。そこではカメーナではなくムーサである。散文訳の杉本正敏『アイネーイス』から引く。( )内は筆者の注、< >内は訳文のルビ。
彼(アイネーイス)はまた、苛酷な戦いを耐え抜いて、ついに都を建設し、神々をラティウムへと運んだ人だった。
そこからラティウムの一族が生じ、アルバ(ローマの母市となったアルバ・ロンガ)の父祖たちが生まれ、やがてはローマの高い城壁が築かれた。
詩神<ムーサ>よ、わたしに理由<わけ>を話せ。
プリニウスは逆にムーサではなく古い言葉カメーナを使った。同時に彼は、市民権を持つローマ市民を表すRomani を使わず、Quirites というローマ人一般を表現する語を使った。つまりそれは、ローマ社会の選ばれた人たちだけにではなく、広く一般大衆への贈りものという意を籠めたと思える。「農民や職人など一般大衆と、それに何もすることのない学問の徒のために書かれたものです」(序6)とも書いている。
彼は毎日のように宮中でティトゥスに会っていたが、手紙のやりとりもしていたらしい。『博物誌』の執筆中なので、完成したら献呈すると約束していたようだ。だが、まだかまだかとティトゥスから催促されて、プリニウスは「このたびは、厚かましくも、その目的を果たそうと思います」と詫びを入れている。彼は、ローマ帝国の艦隊長に赴任する直前に一つの区切りとしてこの書をティトィスに献呈したのだろう。
ローマにおける出版とは
プリニウスはこう言っている「作品を貴方に正式に献呈する人々は、単なる出版とは違った立場におかれる・・・」と。つまり、出版は出版でも、特別な出版になるということ。献呈は同時に出版なのである。
古代において出版の日付を探るのは困難ではある。今日のように、機械によって大量に印刷されて書店に並ぶのではない。一冊一冊手写され、できたものから順に書店に並ぶのだろう。多分、一冊目が出来上がると著者は先輩・知人・友人・パトロンなどを呼んで発表会を開く。著者が一部もしくは全部を朗読する。それが出版の時と考えられる。誰かに献辞をつけて贈呈すれば、それが今日で言う出版ということになる。ウェルギリウスは『農耕詩』を完成させたとき、パトロンのオクタウィアヌスの前でその全四歌を、四日間かけて朗読したという。疲れると同席していたマエケナスが代読したとも伝えられる。
『博物誌』に関していえば、大プリニウスの死後甥の小プリニウスによって出版されたという説もあるが、この献辞を見る限りそれはありえない。当時ローマでは著作を出版するときには「審判人」の認可が必要だったらしい。プリニウスはこう言っている。「審判人を籤で得るか自分の選択によって得るかは重大なことがら」と。だがティトゥスがこの『博物誌』の審判人になってしまった。しかも途中から自ら望んで審判人の席に着いたという。プリニウスは驚いただろう。その時点でもう特別の出版ということになってしまった。彼は言う、ティトゥスのように才能ある人物が裁断するなら誰も自信をもって作品を評価することはできないと。ティトゥスに評価され認定されれば当然献呈という段取りになる。
しかしここでプリニウスは言う。市民法によれば学者にもいくらか拒否権があると。そしてキケロやカトー、ルキウス・スキピオの事例などを挙げて審判人の選定の重要性を語っている。それは多分、他の人たちの嫉妬や中傷を気にしてのことだろう。だが結局拒否はできない。「自分で献呈することでそのような弁明をすることを差し控えております」と苦しい胸のうちを語っている。
プリニウスがそのことを気にしていたことは次のような叙述でもわかる。「貴方に献呈されるものが、貴方にふさわしいものかどうかと注意が払われるのであります。しかしながら、田舎の人々や多くの外国人たちは、香料を持っていないので、牛乳や塩漬けのひき割りを奉納します。そして神々を崇めるのに、その力量に応じたどんな方法であっても、誰も責められることはありませんでした」と。香料が当時どれだけの貴重品だったかわからないが、奇妙な例を持ち出したものだ。つまり『博物誌』の内容が牛乳や塩漬けのひき割りのような平凡なものであっても我慢してくださいということなのだろう。
さらに彼は、職務に追われて余暇にしか、つまり夜にしか執筆できないと弁解している。日中を貴方(ティトゥス)に捧げており、睡眠によって健康を保つように心がけている、だが、生きるということは目覚めていることだから、睡眠時間を削ればそれだけ多くを生きるということになるのであり、これが唯一の報酬であって、これに満足していると語る。睡眠時間を削ることが報酬だとは、まことに恐れ入る。このような生活ぶりは彼の甥の小プリニウスの証言によって追認されていることだが、まったく恐れ入ったことである。
先ほど『博物誌』の出版年は七七年としたが、その大きな理由は、献辞のなかでティトゥスに対し貴方は六回の執政官を果たしたと書いているからである。六回目の執政官というのは七六年である。ウェスパシアヌスとティトゥスは共同で執政官を勤めていたので両者とも七七年は七回目の執政官だった。異説の代表は「さまざまな修正をほどこされて著者の死後にしか公にされなかったと思われる」(ジャン・ボージュ「大プリニウスの伝記」、ベル・レットル古典叢書)である。
博物誌に終わりはない
「修正して死後公刊説」は次のようなことが根拠かもしれない。プリニウスは献辞で「ご父君やご兄弟、そして貴方につきましては、すべて『われわれの時代の歴史』(『アウフディウス・バッススの歴史書の続き 三一巻』のこと)という正規の本の中で取り扱いました。・・・その作品がどこにあるのか、とお尋ねになるでありましょう。その原稿はかなり前に完成して認可を得ています。いずれにしましても、それをわたくしの後継者に委ねることがわたしの決意でありますが、それは私の生涯が、何らかの野心で費やされたものだと思われるのを避けるためであります」と述べている。
思うに彼は、同時代史であるこの書で皇帝一族のことも扱っていて、その記述がへつらいと看做されることを恐れたのだろう。死後とは書いてないが、甥で養子の小プリニウスに委ねる決意を披瀝しているのである。この書の手紙の二年後、彼は不慮の死を迎えているので、死後甥によって出版されたとしたらそれは『われわれの時代の歴史』の方だったろう。
このような記述のあとで彼は、私の作品にはまだ付加すべき点が大いにあり、自分の他の本もすべてそうであると告げている。それは酷評家ホメロマスティクス(ホメロスの詩を酷評した批評家ゾイルスのあだ名)から身を守るためだという。
彼はその一〇年ほど前『文法について』という作品を公刊している。彼は、ストア派やアリストテレス派、エピクロス派の人々がこの『文法について』の批評を書くのに産みの苦しみをしており、相次いで流産していること、象でさえ子どもを産むのにそれほど長くはかからないのにと皮肉っている。彼はそれに関連して「自ら首をくくるための木を選ぶ」という諺のいわれを紹介する。「あの雄弁家として名高い人物で、『神聖な』という名称を得ているテオフラストス(ギリシアの植物学者)が、彼に対抗するものを書かせるために一人の女性を探し出してきたということを無視できましょうか。これが『自ら首をくくるための木を選ぶ』という諺の起こりなのであります」。
プリニウスの記述がこれだけなので、女性の名も、自殺したのかどうかもわからない。当時はよく知られた話だったのだろう。自分を批判する人物がいても、どうせなら立派な人物に批判されたい、というのが本意らしい。後にラブレーは次のように書いている(『パンタグリュエル物語・第四の書』渡辺訳参照)。
『パンタグリュエル物語』の主人公パンタグリュエルは次のような話をする・・・アテナイ人ティモン(前五世紀、人間嫌いとして知られていた)は、自分に対する市民の忘恩を怒り、ある策を考えた。彼は、人々を集めてこう宣言した。わが家の外庭に大きく立派なイチジクの木があるが、絶望した市民たちがこっそり来てこの木で首を吊るのを常としている。わが家を住みよくするため、八日以内にこの木を切り倒すことにした。だから首をくくる必要のある者はとり急いで処置をされたい、あのように便利な木はなくなるから・・・」と。さらに続けてグリュエルはいう。このティモンのひそみに倣って拙者も、これら悪魔つきの讒誣者ども(パリ大学ソルボンヌ神学者たち)はみんな今の月が下弦のうちに首を吊ってしまえと申し上げる。首吊り紐は拙者(パンタグリュエル)が差し上げるが、期限が切れたら自分で縄を買って、首吊りに適した木を探せ、さもないと希代の博識を謳われた雄弁なテオフラストスを誹謗したレオンティオン姫と同じ目に会うだろう・・・と。
蛇足だが、漱石の『吾輩は猫である』に、首懸けの松、というのが出てくる。市川市国府台にあったという話。松の枝が具合よく道路の方に伸びている。つい首を吊りたくなるのだ。イチジクの枝に吊るよりは絵になるだろう。
余談はさておいて、先の文に続けてプリニウスはいう。あの著名なカトーでさえも非難攻撃を受けてこう言った。「それがどうした。ある著作が出版されると、たちまち口やかましい人々の餌食になることを私は知っている。だがたいていの場合、そういう人々には、本当の栄誉などはないのだ。私としては、そういった人々の饒舌を勝手にさせておくまでだ」と。
ローマ社会でも激しい猛烈な批判・非難合戦があった。とくに一世紀のローマは、功を争った出版ブームで大変な競争だった。「皇帝」に献呈したら何が待ち構えているかわからなかった。そういう趨勢の中で、計画したことの残りを最後までやりとげるつもりでいるとプリニウスは述べている。「計画したことの残り」が何であったか、それはわからない。三六巻で一応の完結を見たし、新しい任務に就くにあたっての決意があったのかもしれない。博物誌は無限の世界・宇宙を対象とする分野だから本来完結というものはない。新しい分野の研究・探求に乗り出せるチャンスでもあったし、その意気込みもあったろう。事実彼は、海上からの火山噴火の観測と住民救助という自らに課した任務を果たすため危険な海へと船を進めた。
手紙の結末はどこへ?
現在「序文」とされるティトゥスへの手紙は、ローマの社会事情なども既知のこととして書かれているので、現代人にとってわかりにくい点も多々あるが、一個の文明論となっている。残念ながらこの手紙は中途半端なところで終わっていると筆者は考える。誰も言わないが結語があったはずである。今日の『博物誌』のテキストは、現存する二〇〇あまりの写本(部分的なものも含めて)を照合して出来あがった。ほぼ完全とはいわれるが後で発見されて補足された箇所もある。第三七巻(現在の)は宝石についてであるが、その最後近くの二か所がずっと後に発見されて充足された。そして最後のフレーズ。それは、各地における自然の恵みを論じた終章で、「少なくともヒスパニアの海に接する諸地区にあたえよう」と、そこで突然終わっていたのだが、残りの文章の発見によって『博物誌』は見事な完結を見たといえよう。最後の締めくくりはこうである。
あらゆる創造の母なる自然に幸あれ。そしてローマ人のうちで、わたしのみがあらゆるあなたの顕現を賛嘆したことを心に留め、わたしに仁慈を賜らんことを。
このようにしっかり結語を述べているのだから、ティトゥスへの手紙にもちゃんとした結びがあって然るべきだと考えるのである。
(二)人は人のために
一般大衆のため
始めに紹介した「農民や職人など一般大衆と、それに何もすることのない学問の徒のために書かれたものです」という言葉のうち、「一般大衆のために」というのは、具体的に言えば労働の各分野、すなわち農業、商業、各種の手工業、土木などで働く人たちへの手引書の役割を企図したものだった。いわば日々の実務的ハンドブックとしての役割を果たしたものだった。だから後世、ジャンジャック・ルソーは、孤島に一冊だけ持って行けるならばとして、プリニウスの『博物誌』をその候補に挙げたのである。中でも重要視されたのが医薬の分野である。中世においては、その部分が抜粋されて「プリニウス医学」として流布されもした。その内容から見れば、今日でいう民間療法の域を脱せず迷信としか言いようのないことがあるにしても、彼が「一般大衆のため」と考えたことは否定できない。だが同時に彼は、大衆の無知や迷信や軽信を諌め啓蒙に努めた。天体の運行を教え蝕の恐怖から解放させようとし、死後の霊魂について語り、心の平穏を説いた。そして奢侈を批判し勤勉を説いた。
「何もすることのない学問の徒」というのは具体的にはわかりにくい。おそらくプリニウスの大いなる皮肉だろう。寝る間も惜しんで著作に励んだ彼にとってみれば、学問の徒は何もすることがなかったのだろう。彼はギリシアの芸術を高く評価し、学問にも敬意を表した。だがローマ人の学芸に対する姿勢については極めて批判的だった。もっとも、ギリシアの著作家たちにも、自著にもっともらしい題をつけるが、内容を見れば「表紙と裏表紙の間にあるもの」がなんと空虚なものであることかと、いろいろな事例を挙げて皮肉を言っている。
パナイティオスとキケロの『義務論』
不満は他にもある。権威ある書を検索しているうちに判ったことだが、現代の著述家たちのほとんどが、謝辞を述べることもなく、古い著述家たちの一語一句を写し取っていることを発見した、貴方(ティトゥス)はそのことをお知りにならなければならない、これは借金を返すよりも窃盗の現行犯で逮捕される方がよいというさもしい精神を現しているとプリニウスはいう。今日でいうコピペだろうか。だが古代では、資料の出所を示さないのが当たり前だった。著作権などという観念はずっと後のことだ。プリニウス以後には出所を示す著作も現れたが。例えばヨセフスの『ユダヤ古代誌』では部分的に出所が示されている。タキトゥスも若干示した。だがそれは後の話。ちなみにプリニウスは『博物誌』に、参考にした書物や著作者の一覧表を作成して添付したし、本文においても多くの箇所でその権威者の氏名をあげて引用している。彼はそれを「わたくしの道義心の証し」だし「高潔な謙遜を示すものだ」と自画自賛している。そういう例は当時ではほとんどなかったらしい。
そして、現代の著作家のずうずうしさに対置してキケロの誠実さを強調する。キケロは自分の『国家について』ではプラトンの『国家論』を手本にしたと、また『慰め』ではクラントルに追随しているし、『義務について』ではパナイティオスを借用したという。プリニウスはこのように典拠を示すキケロの誠実さを強調しながら、『義務について』は、貴方(ティトゥス)もご存知のように毎日手にとってみる、いや暗記さえする価値のある書物なのでありますと書いている。
では自作の『博物誌』についてはどう言っているか。彼は、貴方のお時間をわずらわすことへの苦情を考慮に入れるのは私の義務だから、「この手紙に各巻の目次の表を添付いたしました」「全部をお読みになる必要がないように、非常な注意をはらいました」と述べている。また、他の方々も全巻を読む必要はなく、読みたいと思う特定のものを探しさえすればよく、それがどこに書いてあるかすぐ分かるようにした」という。そしてこれは、ローマの文献の中では「ウァレリウス・ソラヌスが彼の『伝授を受けた婦人たち』の中で採用したものであります」と書いて、そこで突然終っている。そんな終わり方があるだろうか。それはありえない。
人は人のために
パナイティオスの『義務論』は歴史の中で散逸し、今日その断片しか残っていない。しかし幸いにキケロの『義務について・三巻』のうちの一・二巻がこのパナイティオスの作品を借用しているので、その内容をほぼ知ることができる。その基本的考え方を要約する。
「本来、私有財産というものがあるはずがない。あるとすれば、せいぜい無人の土地に移り住んだ人が長く占有したとか、協定とか抽選によって得たかである。だがプラトンがいうように、われわれはただ自分のためだけに生まれたのではなく、祖国や友人たちのためでもある。一方、ストア派の人々が主張するように、地上に産まれたものはすべて人びとのために造られ、人は人のために生まれた。そのように互いに助けあうのが天意であるとすれば、当然、われわれは天意にしたがって、公共の利益を中心として、たがいに義務を果たしあわなければならない。互いに与え受けとり、互いにそれぞれの技術や努力や能力によって社会的結びつきをいっそう高めなければならない」「人間にはすべて、最も優れた人々にもその他の人々にも、何がしかの敬意を払わねばならない」(『ローマの政治思想』国原・高田訳から)。
これにキケロ自身の発言一つ付け加えよう。
「身分のもっとも卑しいものたちに対しても、正義は守られなければならないことを、われわれは思いかえさなければならないであろう。最も低い状況と運命におかれているのは奴隷たちである。かれらを日雇者のように取りあつかい、仕事をするかわりにそれに相応した報酬を与えるべきだとわれわれに注意する人々の教えは、正しいとしなくてはいけない」(『義務論』、泉井訳)。
それぞれの義務
近代的な憲法はなかったが、元首は元首としての義務があった。まず民衆にパンとサーカスを与えること。現代では「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障するということだろうか。パンが値上がりしたと言って民衆に取り巻かれてパンくずを投げつけられた皇帝もいる。人気取りのため、公共浴場にゆき、あまり見事でもない肢体をさらすこともいとわない皇帝。宫殿の修復のためたえず宴会を開いたがそれは市場の小売商人を助けるため。カピトル神殿修復に当たっては人夫たちに混じって瓦礫を担いで運んだ皇帝もいる。貧困者の救済は義務と考えられていた。義務こそが国家(レス・プブリカ)を支える基本精神だったと考えられ、その義務は国家への責任の順に重かった。元首(市民の第一人者)こそ最大の責任者であり最大の義務を負うものでなければならなかった。
元首には元首としての義務があるように、元老院議員には元老員議員として政治参加の義務があった。元老院は政務官の総体であって閑居を放棄した人々の集合体である。だから閑居を要求するのは危険なことであった。騎士身分の者も政治参加を要求されたが閑居の権利を保持していた。もちろん一般市民には市民としての義務があった。
上述のように、最大の義務を負うのが元首(皇帝)であった。アラン・ミシェルはウェスパシアヌス帝が倹約という伝統主義の精神によって異彩を放つことになったと述べたうえで、このウェスパシアヌスやティトゥスの経済に着想を与えた主要な思想家はプリニウスであると述べている。だが経済にだけではなく、政治や思想における義務の観念、そういう政治家の姿勢をそれとなく諫言し、また同時に自己への箴言としたと思われる。献辞を添えて『博物誌』をティトゥスに献呈したのはちょうどティトゥスが元首に就く頃だった。
(三)コンコルディアの心
ローマ生まれの女神
古代ローマにコンコルディア(concordia)という女神がいた。コンコルディアは、一致、調和、和合、協調、その他協和、平和、統一などと訳される。この女神はローマ生まれのローマ育ちである。ローマ社会では市民の数ほど神がいたという。「無数の神々、人間の徳のみではなく、悪にも対応する神々、謙遜、協和、叡智、希望、廉恥、慈愛、そして忠誠の女神というようなものがあると信じられた」という(『博物誌』)。だからコンコルディアも個人の神として生まれたのだろう。だが人気が出てくる。初めの頃、ローマ市内にいくつか祠があったらしい。何人かがそのことを書いているが不明な点が多い。
前三六七年、マルクス・フリウス・カミルス(ガリア人のローマ占領の際、独裁官としてローマを救い、ローマ第二の建国者とも言われた)は、平民でも執政官になれるリキニウス法を成立させて平民と貴族の間を調停し、その記念のためにこの女神に神殿を奉献したとオウィディウスはいうが(『祭暦』)、神話の域に過ぎないとも。それよりもプリニウスの方に信憑性がある。解放奴隷の息子グナエウス・フラウェウスはやがて造営官に選ばれ、護民官にもなった。彼は特権身分と平民身分の和解を試みが成功して、公約どおりブロンズの小神殿をコミティア(民会などの集会場)のグラエコス(ギリシアその他の使節団の特別席)の上に奉献したという(前三〇五年)。その後いくらかの変動があったのち、フォルム・ロマヌム西端の小高い地に神殿が建造され、またティベリウス帝のとき壮麗な神殿に建て替えられた。キケロが元老院議員を集めて、クーデターを企てたカティリーナ一派への弾劾演説を行ったのもこの神殿の階段の上からであった。階級間の協和(コンコルディア・オルディヌム)なくしてローマに未来はないと考えていたキケロにとって、この神殿は格好の舞台だった。
協調なくして・・・
ローマ共同体のなかでの階級(身分)間の決定的な分裂を避ける智恵が働いたことについて若干付言する。よく知られていることだが、貴族たちの圧制に反抗した平民たちは何回も市の南にあるアウェンティヌスの丘に立てこもって反抗した。兵力の担い手である平民に背かれては困る貴族はそれに妥協したのである。ローマでは均衡を保ちつつ統一する政治体制が確立してゆく。各身分の内部においても微妙な均衡を作り出した。財産額、社会的責任、年齢、家柄、生活状況などに応じて職能的で開放的でもある階層秩序を構成していた。
だが、コンコルディアの精神はローマ社会内での階級闘争を回避するための協和の精神だけではなかった。小さな氏族的共同体であったローマは、周辺の共同体との争いや協調のなかで成長した。サビニ人とのくり返される争いなどはその典型例だろう。サビニ人の女性たちを奪ったことから始まったと伝えられる戦争では、女性たちが両者の戟剣の間に割り入って和解させたという。そしてローマとサビニの二重構造の市(ウルブス)が出来上がったが、ローマ人はこの共同統治の都市の全住民の名を、サビニ人の市の名であるクレースにちなんでクィリテスと呼ぶことに同意した。それはローマ側の譲歩の証しでもあった。後にプリニウスは『博物誌』のティトゥスへの献辞のなかで、「ローマ人に捧げる」ではなく「クィリテスに捧げる」としたが、何百年後にもそういう配慮を行った。サビニ人との闘争と和解の話は伝説の域を超えないのかもしれないが、ずっとローマ社会で語り伝えられてきたには違いない。
ローマの発展は絶え間ない内外における協調と統合の結果だった。協調なくしてはあれだけの地中海世界の統一を成し遂げることは不可能だったろう。彼らは征服あるいは統合した部族・民族・都市の人たちを同じ市民として抱え込み、カラカラ帝のときには帝国の全自由民に市民権を与えた。ローマと属州、ローマ人と非ローマ人の区別もなくした。帝政時代には多くの皇帝、いや、ほとんどの皇帝が旧属領から生まれた。人種や宗教の差別もことさらにはなかった。一神教のユダヤ人は皇帝礼拝を拒否し、自分たちを選ばれた民族と考えたが、そのユダヤ教徒はむしろ他に比べて優遇された。もちろんローマは諸種の問題を抱えていた。奴隷の存在を認めるなどはその明白な事象である。彼らの侵略的な軍事行動もそうである。しかしローマの支配層のなかに自らそれらの欠陥を自認し、自己批判・自省を加えていた者も多かった。例えばタキトゥスはブリタニアの支配において、原住民の指導者カルガクスの言を借りながら、ローマの与える自由が支配のカムフラージュに過ぎない、やがて反逆の惧れがあるとローマ人たちに警鐘を発していた。
そのようなわけで、一九世紀のフランスの歴史家ミシュレは次のように書くことができた。「歴史上のどんな時代にも、これほど人間の心が広く、寛大であったことはない・・・これほどまで階級や党派による区別・差別が忘れ去られたことはなかったと思われる」。そして、ユダヤ教から分岐したキリスト教は広大なローマのコンコルディアの土壌の中で花を咲かせた。そもそもユダヤ教もキリスト教もその信ずる神は同一だという。12世紀のフランスの神学者アベラルドゥスは、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒に共通な道徳を探求したと伝えられるが、そういう流れはあったのだ。だがそれがなぜ死闘を繰り返すことになるのか。すでに四世紀のギリシアの歴史家アンミアヌスは「キリスト教徒は仲間同士ではオオカミよりも残酷である」と表現したそうだが、それは三十年戦争の頃までも続くのだ・・・いや、もっと。
フランス革命のスローガンは「自由・平等・フラテルニテ」であった。明治初期、フラテルニテを「友愛」とも「博愛」とも訳したことから、今日でも両方が用いられている。最初は「自由・平等」だけだったが、後からフラテルニテが加わったという。だがその後、一八四八年の二月革命でプロレタリアートはブルジョアジーに裏切られて大弾圧を受けた。プロレタリアートにとってフラテルニテは幻影に終わったという歴史がある。このフランス語のフラテルニテはラテン語のフラテルネ(fraterne、兄弟のように、睦まじく)からきている。それとは別にラテン語にはフィランスロピア(philanthropia)という語がある。一般的には博愛と訳される。つまり「兄弟愛」と「博愛」とは違った言葉であったが、日本語に訳せばともに「愛」という字が入る。ところがコンコルディアには「愛」は入らない。愛はなくても共同・協調・一致などはできる。愛するどころか憎んでいる相手とでも可能である。いや、むしろそのためにコンコルディアがある。前述のように、憎み烈しく戦ったサビニ人とも和解し統一した。ローマの歴史はコンコルディアの歴史であったし、その精神は一貫して人間関係の軌範となったのではないか。
だからこそ、この女神はローマの偉大な神として祀り上げられるようになった。そして、ローマ帝国の崩壊と共にこの神殿も崩壊した。中世以降、コンコルディアは忘れ去られていたが、フランス革命のとき思い出されたらしい。パリの中心にある広場がコンコルドと呼ばれるようになったのは1795年頃とのことだが、女神として復活することはありえなかった、当然といえば当然である。遡れば、フランス革命の自由と平等の精神には古代ギリシア以来の自由と平等の思想が基盤にあったと思うのだが(ソクラテスとプラトンなどの)、だが肝心のギリシア自身にはコンコルディアの精 神は生まれなかったようだ。彼らは個人というものに目覚めたが、同じ民族同士いたずらに抗争を繰り返し、自分たちの統一した政治組織さえ作れなかった。その代わり、個性的で人間味のある神々と、『イリアス』や『オデュッセイ』のような神々の活躍する舞台を造りだした。そしてさらにその舞台を背景に絵画・彫刻・建築などで、人類が二度と創造し得ないような芸術を生み出した。
ローマ人は文化や精神活動の多くのものをギリシア人に負っているが人間主義の精神もそうである。だがローマ人は、この点においてはギリシア人の精神を乗り越えた。ローマには人間主義の精神を現すものとしてhomo sum ; humani nihil a me alienum puto (私は人間だ。だから私は人間に関することは何一つとして私に無関係だとは思わない;紀元二世紀ローマの喜劇作者テレンティウスの言といわれる)という箴言があった。以前フランスの思想家サルトルが同じようなことを言っていたことを思い出す。そのような人間主義の精神は、西欧において、特にルネッサンス以降復活したかのように見えても、それは著しく普遍性を欠いてきたのではないか。どうしてアフリカの住民を奴隷として拉致できたのか。どうしてイスラム・ムスリムを差別できるのか。いや、それはアジア人に対してもそうである。
(四)ウェルギリウスのうた
詩の王侯ウェルギリウス
プリニウスはウェルギリウスを「詩の王侯」と呼んだ。そして、ウェルギリウスの肉筆は日ごろから目にしているし、キケロやアウグストゥスなどの手書きの書も日常的に見ていたという。
ウェルギリウスの最後となった作品は『アエネーイス』だが、自分で不満足だったかどうかは知らないが、彼は亡くなる直前、原稿を焼却するよう友人に遺言していた。だがアウグストゥスは焼却を禁じ、その命令によって友人が刊行し今日にある。つまり、この書こそ明らかに『博物誌』と違って著者の死後公刊されたのである。だから献辞などはない。この件についてプリニウスは次のように書いている。「故アウグストゥス陛下は、遠慮深いウェルギリウスの意思を無視して、彼の詩を焼くことを禁じた。かくして、ウェルギリウスは自分で自分の作品を推奨したとしても得られなかったような強い称賛をかち得たのだ」(『博物誌』)。ウェルギリウスの『牧歌』『農耕詩』はローマの伝統的な素朴な田園生活を描いているが、ローマ人にそういう古来の美風を思い起こさせるため、アウグストゥスがウェルギリウスに謳わせたという説もある。アウグストゥスが彼に肩入れし、『アイエーネス』の完成を心待ちにしていたことは事実だろう。だが、なぜウェルギリウスが焼却させようとしたのか、プリニウスもわからなかったのだろう。あるいは、もっと深い意味があったのかもしれない。
『博物誌』のなかで、農業技術、農業経営、農産物と農業製品、市場、農業と天文などは極めて重要な地位を占めている。プリニウスは大先輩であるカトーやワッロなどの著作や、同時代のコルメラの作品を重要な典拠として用いたが、同時にウェルギリウスにも恩恵を受けている。『博物誌』本文でウェルギリウスの名は六〇箇所以上出てくる。名は出さなくても参照した箇所は他にもたくさんあるはずだ。
プリニウスの最初の著作『馬上の投槍について』は、彼が騎兵隊長をしていた頃の観察から生まれたものだ。ウェルギリウスの『農耕詩』第三歌にウマの描写がある。プリニウスはそれを評して「もっとも好ましいウマの外観はウェルギリウスの詩にまことに美しく描写されている。だがわたしもまた『馬上からの投槍について』においてそれを取り扱った」(『博物誌』)と、珍しく自著に触れている。ウェルギリウスのウマの描写は長く続くが、そのごく一部を抜書きしよう。
風との競争を挑ませよ。まるで手綱から放たれたように、開けた平原を、
地表の砂に足跡がほとんどつかぬほどに疾走させるのだ。
それはあたかも、強力な北風が極北の地域から襲ってきて、
スキュティアの寒気と乾いた雲をあちらこちらに拡散させるときのよう。
(小川正廣訳)
ウェルギリウスの生きた時代は共和制から帝政に移る過度期で、抗争や内乱が絶えなかった。小農経営、自作農経営は徐々に姿を消しつつあった。ウェルギリウス自身が土地を没収され故郷を離れる羽目になった。『農耕詩』の舞台はそのような変動の時期であり、この詩の断片にもその空気は反映されている。『牧歌』第一歌の劈頭はこうだ。
ティテュルスよ、君は枝を広げた橅(ぶな)の蔽いの下に横たわって、
森の歌(ムーサ)をか細い葦笛で繰り返し奏でている。
だが私らは、祖国の土地と親しい畑を去っていく。
私たちは祖国を逃げ出すのだ。ティテュルスよ、君は木陰でのんびりと
美しいアマリュリスの名を響かせるようにと森に教えている。
(小川正廣訳)
これは土地を失ったメリポエウスという人物(彼自身がモデルか)が、土地を奪われなかったティテュルスに呼びかけた歌である。プリニウスの故郷であるアルプスの南に広がるガリア・キサルピナがローマ共和国に編入され、コムム(現コモ市)が自治市に格上げされたのはその頃であった。
イタリアの自然
ウェルギリウスはイタリアの美しい自然を賛美した。『農耕詩』第二歌からその箇所を再び小川正廣氏の名訳を借りて紹介しよう(『西洋古典叢書』)。
むしろこの地に溢れるのは、豊富な穀物の実りと、マッシクス山の葡萄
の酒。オリーヴと、多産な家畜の群れはここをわが家とする。
(4行略)
ここでは永遠に春であり、夏は夏でない月まで続く。
家畜は年に二度身重になり、木は年に二度果実をもたらす。
それに凶暴な虎や、獰猛な獅子の種族は生息せず、
(3行略)
さらに加えて、あれほど多くの傑出した都市と、労を費やした建造物、
切り立った岩山に人手をかけて築き上げた多数の町々と、
古い城壁の下を流れる川。
あるいは、上の岸辺を洗う海(ハドリア海)と、下の浜に寄せる海(テュレニア海)を、
また、あの大きな湖を語るべきか。最も広いラリウス湖よ、おまえをも?
(以下豊かな農業・農業技術、農産物、家畜などが歌い上げられるのだが省略)
次にプリニウスの文章を『博物誌』三七巻から。
第二の母であるイタリア、そこには多くの男が、女が、将軍や兵士たち、そして奴隷たちがおり、卓越した芸術や工芸、素晴らしい才能の富をもち(略)、健康的で温和な気候に恵まれ、(略)多くの港がある海岸をもち、穏やかな風が吹き渡るイタリア。(略)その豊富な水の供給、健康的な森林、道の通じている山々、無害な野獣たち、豊穣な土地と牧場(略)ブドウ酒、オリーヴ油、羊毛、亜麻、布、若いウシなど・・・。鉱石では金、銀、銅、鉄いずれにおいても、稼行が合法的に行なわれる限りは、イタリアを凌ぐ地はない。
実はウェルギリウスは上掲の詩句の前に、メディアの豊かな大地も、美しいガンジス川も、黄金で濁ったヘルムス川(小アジア西部の)も、バクトラ(バクトリアの首都)もインドも、パンカイア島(アラビア海の)もイタリアとは栄誉を競えないだろうとイタリアを誇っているのである。故郷を追われたウィルギリウスもそう詠う境地になっていたのかもしれない。
一方、プリニウスの上記の「イタリアを凌ぐ地はない」の後にはこうある。
もしわたしがインドの伝統的な驚異的事物をさし措くならば、イタリアに次ぐ地位をヒスパニアに、少なくともヒスパニアの海に接する諸地区に与えよう。というのはこの地の一部分は荒い砂漠ではあるが、それでもその生産的な地域はすべて農作物、油、ブドウ酒、ウマ、そしてあらゆる種類の鉱石に富んでいるから。ここまではガリアも同じだ。しかしヒスパニアを有利にしているのはその砂漠である。というのは、この砂漠にはエスパルト草(ハネガヤ)、かがみ石、それに奢侈品(絵の具)すらある。そこには勤労に対する刺激物があり、奴隷が鍛錬され、人間のからだが強健で心が情熱的であるような場所がある
ウェルギリウスの頃はまだガリア(フランス)の向こうの地はローマ人に広くは知られていなかった。プリニウスはヒスパニアで皇帝代官を務めただけあってとても詳しい。『農耕詩』にある「最も広いラリウス湖よ」のラリウス湖(現、コモ湖)はプリニウスの故郷の地だ。従ってウェルギキウスの郷里でもあったし、また詩人カトゥルスの郷里でもあった。プリニウスは『博物誌』の最初のところでカトゥルスを「わたしの放蕩仲間」と呼んでいる。これは「同郷人」の俗語らしい。そしてカトゥルスの詩から二行を、この献辞の冒頭に載せている。プリニウスは、ローマでも突出してすぐれたこの二人の詩人を、敬愛すべき大先輩と見なしていたのだろう。プリニウスはローマ最高の詩人の詩をなぞったと思われる文を飾ってイタリアの自然を賛美し、そのような美しい地を創造した自然を称えて『博物誌』をしめくくったのである。『博物誌』の、あとから発見された部分、ほとんど最後の部分に次のような一節がある。
私はこう宣言する。全世界で、天空の穹窿が回転しているどこに行こうとも、イタリアの如く自然の栄冠をかちとるあらゆるもので飾られている土地はない。世界(mundi)の指導者(rectrix)であり第二の母(parens)であるイタリア」(三七201)。
プリニウスが賛美しているのは地理上の概念であるイタリアであって政治的概念でのローマ帝国ではない。厳密に言えばプリニウスの生誕地はガリアなのだが、彼が賛美しているのはその生誕地ガリアでもない。ローマ帝国の基礎をなしてきたイタリアである。そして次のように続く。
そこには多くの男が、女が、将軍たちや兵士たち、そして奴隷たちがおり、卓越した芸術や工芸、すばらしい才能の富をもち、そしてさらにその地理的位置と健康的で温和な気候に恵まれ、すべての人々を容易に受け入れ、多くの港がある海岸をもち、穏やかな風が吹き渡るイタリア。・・・豊穣な土壌と牧場・・・農作物、ブドウ酒、オリーヴ油、羊毛、亜麻、布、若いウシ、ウマ・・・鉱石では金、銀、銅、鉄いずれにおいても、稼行が合法的に行なわれている限りは、イタリアを凌ぐ土地(terra)はない。
この続きでインドの驚異的事物に言及したり、イタリアに次ぐ地位をヒスパニアに与えようといったりしているのである。繰り返すが、プリニウスの念頭にあったのはローマ帝国ではなくあくまでも「全世界」のなかの一地域であるイタリアであった。だからそれがインドやヒスパニアでもあり得たのである。彼の知る世界の全地域を検討したうえでイタリアを称揚し、それに「第二の母」という栄誉を与えようと言っている。地中海世界やその周辺の地理を細かく分析した彼のいうことなので、今日のわれわれにそれを否定する根拠もない。
そして彼はその第二の母を構成するローマびとたちの中に、わざわざ奴隷を含めた。
すでに当時、ローマ帝国は行政面でも経済面でも奴隷なしでは円滑な運営はできなくなっていたし、住民の過半数は解放奴隷かその子孫だとも言われた。プリニウス自身にしても『博物誌』を仕上げるには優秀な奴隷の秘書や書記が必要だった。だから奴隷はイタリアの富や文化の形成と栄光に大きな役割を果たしていると彼は考えている。奴隷や外国人たちは、ローマ市民権はなくてもローマびとであり、カメーナ(ミューズ)はその人たちみんなの詩の女神であると表現されているのである。だが、キケロもセネカもプリニウスも奴隷制の是非についてまでは論じていないようである。ただ、古典時代の奴隷制度が、基本的には人種や人種の差別を伴ってはいなかったとはいえる。古代ローマでは、アフリカ大陸から来た肌の色の濃い人をすべてエチオピア人と呼んだという。一羽のワタリガラスの葬儀が盛大にフォルム・ロマヌムで行なわれ、その棺を二人のエチオピア人が担いだとプリニウスは伝えている。その二人は奴隷だったかもしれないが、クィリテス(ローマ人)ではあったのだろう。