プリニウスの章(1)
ソーンダイク『魔術と実験科学の歴史』の抄訳
訳者序
リン・ソーンダイクの『魔術と実験科学の歴史』 A HISTORY OF MAGIC AND EXPERIMENTAL SCIENCE DURING THE FIRST THIRTEEN CENTURIES OF OUR ERA.
は全八巻からなるが、うち五巻までが1923年に、残り三巻は58年に追加発行された。長い「序章=第一章)」があって「第一巻ローマ帝国」「第二巻 初期キリスト教の思想」「第三巻 中世初期」「第四巻 一二世紀」「第五巻 一三世」と続く。このうち「序章」つまり第一章の初めの部分と、「第二章 プリニウスの博物誌」(この章は「プリニウスの章」といわれてしばしば単独で読まれている)を訳出することにした。
自家用として訳出したので杜撰なものになった。判らない所はそのままにした。多くの原注があるが、その大方は参考文献であり、ほとんどを削除した。( )は原注、< >は訳注である。多くの訳注は原注への注なので、まとめて< >に入れた。『博物誌』からの引用箇所は漢数字が巻数、算用数字が節数である。例えば(三三55)とあれば第33巻第55節である。著者のリン・ソーンダイク(1882-1965)はアメリカの科学史家で、コロンビア大学教授、アメリカ科学史学会会長などを歴任した。
序章=第一章
この章の内容・・・ 扱う時代― 思想史の学び方― 魔術の定義- 原始人の魔術;魔術に起源をおく文明はあるのか?― 初期中国の占い(削除)― 古代エジプトの魔術― 魔術とエジプト宗教― 埋葬の魔術― 日常の魔術― 言語・象徴・お守り魔除け)の力- エジプトの医術における魔術- 悪霊(悪魔)と病気- 魔術と科学― 魔術と産業― 錬金術― 占い(予言)と占星術― アッシリアとバビロニアの魔術の起源- 占星術はシュメル人のものカルデリア人のものか?- 初期のバビロニアのナンバー・セブン(?)― 占星術のテキストより古い呪文のテキスト
― 占星術以外の占い― 魔法sorcery や悪霊(悪魔)に対する呪文― 呪文の例
― 魔術の材料と装置― ギリシア文明は魔術から自由ではない― 神話・文学・歴
史における魔術― 学問の進歩とオカルト科学の同時性― 魔術の起源はギリシア
宗教や劇を切望した― ギリシア哲学での魔術― 魔術と占星術に対するプラトンの
姿勢― 星と精神におけるアリストテレス― 『動物誌』における伝承― 古代の
東洋とギリシア文学における伝承の違い― ギリシア遺跡に直接伝わったより魔術的
性質― ギリシアにおける科学の進歩― アルキメデスとアリストテレス― ギリシ
ア時代の科学的成果の過大視。
「魔術はすべての人間とすべての時代に存在した」ヘーゲル(『宗教哲学講義』
この書の目的
この書の目的は、魔術と実験的科学の歴史、そして13世紀までのキリスト教の思
想、とくに12・13世紀の特殊な重要性をとりあげることである。この時代の魔術
や実験的科学の歴史についての概観は、十分ではないが存在する。だが、中世の研究
には、かなりの写本の使用が必要である。ここでは魔術は広い意味で取り上げる、すなわち、すべてのオカルト芸術、科学、迷信、伝説である。私は、これから利用する出典からの言語を正当化することに努力するだろう。私は魔術と実験科学はその発展において関連があると考える。魔術師は多分最初の実験者だろう。そして魔術と実験科学両者の歴史はそれらを一緒に調べるのが良策だ。それについては、ほとんどの中世のラテン学者の研究は一般に不正確であり、多分われわれの調査研究が必要になるだろう。魔術の大衆的実用主義、魔法・呪術の欺瞞と迫害はこの本の視野に入れない
扱う時代
私の研究計画は中世の生産性の高い偉大な12・13世紀に限定される。しかし、
私はこの時代が、ギリシア、ラテン、初期のキリスト教の著者たちに大きく負ってい
ると確信している。もしビザンツ帝国の研究者ならば、古代ローマを知らなければならない。中世の教会の研究者であれば初期のキリスト教を知らなければならず、ロマンス語の学徒はラテン語を理解していなければならない。さらにまたプリニウス、ガレノス、プトレマイオス、オルゲネス、アウグスティヌス、アル・キンディ<9世紀後半のアラビアの哲学者、アブ・マシャル<9世紀のアラビアの天文学者>らに精通しているコンスタンティヌス・アフリカヌス<イタリアの修道士、ギリシァなどの医学書をラテン語に訳した>、ボヴェのヴァンサン<フランスの学者、百科全書を編纂>、グイド・ボナッティ<13世紀の占星術師>、そしてトマス・アクイナスをなどを読まなくてはいけない。だがそれらの間に何らかの線引きをするのは実際困難なことである。古代の著作物は通常中世の枠組みの中でしか存在しない。若干の場合、変更や追加されたと推測される理由がある。しばしば新しい作品が結びつけられる。多くの場合それらは中世において学ばれ大切にされたので、われわれに残された。そしてそれら自体が大きな広がりを持つようになった。私は紀元1世紀から始めよう。なぜなら、キリスト教の思想がそこから始まり、そしてプリニウスの『博物誌』が著わされたから。この書は古代の科学と魔術の概観には最良の出発点になるからである(1)。私は13世紀で閉じる。もっとはっきり言えば、14世紀のうちに。なぜなら、そこで中世の研究の復活はその力を使いつくしてしまったからである。西方ラテンの文学における魔術と経験科学に関心は集中するが、ギリシアとアラビアの作品はそれらに貢献したと思う。そして、その土地の言葉による文学は、ラテンの作品から引用されたものや無学で非科学的なものと同じく除外する。
(1)何人かの私の科学の友人は、プリニウスよりもより有能な科学者としてアリストテレスから始めることを主張する。しかしこれは時代をより遡ることになるし、また私はアリストテレスの per se(自分で)が本物の科学の処理とは同じだとは感じないから。だが、この書では時々彼の中世における影響について触れるし、ことに偽アリストテレスについて述べようと思う。
思想史の学び方
私は多分より広い分野を扱い、そして重要な欠落を埋めようと思う。政治や経済の
歴史に較べ、思想の歴史や芸術の歴史には、本原的な情報源に多くの空白があること
は恐らく事実だろう。しかし、真実や美の追求は、富や力の追求のようなごまかしや偏見・先入観の介入が少ないので幸いであり、より信頼がおける。また思想の歴史は、動揺性や変化の多い政治史に較べ、統一的で首尾一貫し、よりしっかりいており、系統的である。そして、そのため、限られた資料にもかかわらず、その研究は合理的な確実性を得ることができ、一般的な概観が可能である。さらに私にはこう思える。われわれの主題を完結させるには、個人による、あるいは短期間の徹底的な研究よりも、詳細で強力な新人の幅広い総体的な研究によって可能だろう。危険性は、あまりにも狭い視点から描くこと、過度に誇張されたある一人の人物や学説に依存しないこと、全歴史的事実を歪めたりしないこと。中世の著述家は誰も科学や魔術を自分自身では理解できなかった。しかし彼に先行する人たちへの尊敬心は持っていた。
魔術の定義
ある人々は、私が魔術を思想の歴史と結びつけることに違和感を覚えるだろう。し
かしこの世界はMagi (マギ)あるいはペルシアかバビロニアの賢人に由来する。この話や実際の名前は、ギリシア人やローマ人によって与えられた。もしくは、多分その少し前のシュメル人(Sumerian) あるいはトゥラン語族<ウラルアルタイ語族>(Turanian ) の言葉で深いという意味の imga または ungaに由来するものと思われる。すでに見たようにmagic という言葉の正確な意味は古代でも中世でも正しくは解らない。だが疑いもなく、それはたんに機能的な技術ではなく、思想もしくは教義の集積されたものであり、世界を理解する手段として出現したものである。魔術に対するこういう視点は歴史のなかで失われたし、現代の定義では魔術をたんなる儀式や芸当と見做すことを決め込んでいる。原始人や野蛮人の場合は、小さな思想が彼等の行動と結合していた。しかし彼等の行為はいくらかの想像、目的、理論的思考を基礎にしているとしても、まだ宗教、科学、魔術として確立することができなかった。ビーバーはダムを作り、鳥が巣を作る。アリは穴を掘る。しかし彼らは、科学や宗教を持たないのと同様に魔術を持たない。魔術は精神的な状態を意味する、従って思想の歴史の視点からみることが出来る。時間の経過や教育の普及に伴い魔術の信頼は失われて行く。それは無知で野蛮な低級な行為であり信条であると見做されてきた。この言葉は人類学によってとり上げられ、原始人や野蛮人の概念と同類に加えられた。しかしわれわれは魔術を種族社会での純粋な社会的産物であると考える。ジェイムズ・フレイザーの著作では、魔術師は低度の野蛮人においては「唯一の専門家であった」。しかし彼らは最初から学のある階級とされていた。ここでこの研究に占星術を含む占いの技術をつけ加えよう。それらは魔術として知られているので。私は二つの論理や事実を分けることは出来ない。私は個別のケースについて繰り返し述べよう(1)。
(1)同じような見解を持つ人がいることはうれしい。以下略。
原始人の魔術:魔術に起源をおく文明はあるのか
魔術は非常に古い。それはこの序章で読者に伝えた。その起源については多くの論争があったが、先行する時代にすべての観察記録は喪失したと思われ、それは少なくともローマや中世よりも幾世紀も前のことである。フレイザー は『金枝篇』のなかで、「魔法はすべての野蛮な種族にあることは知られているし、最も低い野蛮人でも・・・かれらは唯一の専門家として存在している」(1)と述べた。ルノルマン<フランスの劇作家>は彼の『カルディア人の Magic(魔法)と Sorcery (魔術)』で「すべての魔術は宗教的信念の体系の上にある」と断言する。しかし今日の社会学者と人類学者は、魔術は神への信仰より古いものとみなす傾向にある。いずれにせよ、最も原初的な歴史的宗教の形をしたもののいくらかは、魔術に起源をもつように思える。更に古代においては、宗教的崇拝・儀式・司祭職は魔術に劣るだけでなくその発生もそれに恩義を受けていると宣言された。コンバリュー<フランスの音楽学者> は彼の『音楽(Music)と魔術(Magic)』(3)のなかで、呪文は原始的生活のすべての環境のなかに見られ、宗教的詩、すべての現代音楽の媒介になったと主張する。魔術の呪文は、つまり「文明史における最も古い事実である」。しかし魔術師は美的な形式の考えや芸術的鑑賞眼なしで歌う。だが彼の呪文には後の音楽芸術を作り出すすべてのものが戸棚に仕舞われている(4)。ポール・フェヴリン<フランスの法歴史家、古代ローマ史に詳しい> は、詩に(5)、造形芸術に(6)、医術に、数学に、占星術に、化学に「容易に魔術の起源を認められる」と主張する。また、彼は法律においてもそうだと宣言する(7)。だがごく最近、この原始人の生活が完全に魔術を作り上げ、すべての文明の面で魔術に起源を求める傾向に対し反論が生まれている。だがR.マレット<イギリスの人類学者>は、原始人の交戦や彼の仲間同士の残忍な粗暴な行動よりも、魔術に高い価値を見出している。そして「実験のより高い局面は、それ自体一つのmana(超自然力)であり、その精神的発達はそれ自体によって評価される」という(8)。
(注1)~(注8)略。
古代エジプトの魔術
古代のエジプトの人についてBudge は、「魔術の信仰は彼等の精神に影響を与えた・・・彼等の歴史の最初から終りまで・・・ある意味では、世界の歴史の舞台で・・・これを理解するのは大変困難である(1)」と書いている。普通の歴史学者にとってこの断言はエジプト学としてはそんなに完璧なものだとは思えない。それは四千年も昔のことであり、それは医薬についてのアラビアの話、あるいは後期ギリシアの偽カリステネスの作り話、あるいはキリスト教時代初期のエジプトパピルス紙に関する写本で
提示されたものなどによって、辛うじて科学的にみえるだけである。そしてウエストカー・パピルスに書かれた話、それは何世紀も後に書かれたものであるが、その幾世紀の後に書かれたものは、「第四王朝ではすでに魔術の作用はエジプト人の間では技術として認められていたことは十分証明できる」(2)だけである。
(1)(2)・・・略。
魔術とエジプト宗教
とにかく、魔術に対する信念は王朝以前、そして歴史以前であったのみならず、「
エジプトにおいては神への信仰よりも古い」(1)というべきだろう。エジプト人の後
期宗教において魔術は、より高尚で知的な考えであり、まだ第一等の要素であった(2)。彼等の神話はそれによって影響を受けた(3)。そして彼等は魔術の式文で悪魔と戦うだけでなく、彼等を恐れさせる事ができると信じた。そして同じ方法で神々をすら威圧し、出現するよう強制し、奇跡によって自然のコースを邪魔し、あるいは人間の魂が彼ら自身と同等であると認めさせるようとする(4)。
(1)~(4)・・・略
埋葬の魔術
魔術は、地上に生存する者として、将来の生活に必要であった。全部ではないが多
くの儀式や目的は死体防腐措置や埋葬に関係していたが、それが魔術の目的であり手
術のための儀式であった。たとえば、「魔力の目は体の死体防腐措置者が腸を始末す
るための体の脇に注がれる」(1)。あるいは、キンバラ(鳥)と家の模型が死体と共
に埋葬される。死体防腐処置の過程では、魔術語の発声を伴いながらそれぞれの包帯
が巻かれる(2)。「人類の思想の最も古い一章である」・・・第五と第六王朝(c.2625-2475 B,C,)のファラオの墓地の墓のヒエログリフによるピラミッドテキストに書いてある。魔術について、幾つかは断言する「ピラミッドテキストの全体は魔術の呪文の単純なコレクション」に過ぎないと(3)。言葉と物が墓の壁に書かれていた。それは第五及び第六王朝の貴族の墓である。それらは魔術に従って将来の生活を実現させる意図を持っていた。そしてエジプト第十二王朝では棺の横に公式に実際になされた事を描くことが始まった(4)。エジプト王国の有名な『死者の書』は、それ以後死んだ者のための(5)、魔術の絵画・呪文・呪いのコレクションである。そして、これは初期の時代のものではなく、「魔術の力の言葉の本」は古王国のファラオとともに埋められた。Budge は「あらゆる宗教的テキストは墓、中心柱、お守り、棺、パピルスなどに書かれた。それらは死者の力のもと、神へもたらされた(6)。その一方、ブレステド(アメリカの歴史家)は、総合すると後代ではこの埋葬の魔術は、おおいに大衆や聖職者に影響を強めていると考える(7)。
(1)カイロのエジプト博物館の説明ではそう書いてある。
(2)Budge 略
(3)Breasted ブレステド アメリカの歴史家
(4)Budge 略
(5)略
(6)Budge 略
(7)History of Egypt
日常の魔術
ブレステドは、それにもかかわらず、エジプトの歴史の全過程を通じて魔術は日常の生活に大きな部分を占めていたと信じている。かれは「現代の思想では、魔術の信念がいかに生活や民衆の習慣を支配し、日常の決まりきった家事での単純な行為、寝たり食事の用意をするといったようなあたりまえの生活の中に常に存在し現れている。それは初期の東洋の世界に生きる人にぴったりの雰囲気を作り出している。そのような魔術を介して常に祈願し救済を求めるということなしに、古代東方の日常生活はありえなかった(1)。
(1)Breasted・・・ 略
言語・想像・お言守り(魔除け)の力
魔術の主な特徴や変化は、エジプトの長い歴史の過程で、他のところでもいろいろ
な時期、場所で知られるようになった。一つは、われわれは、魔術の力は言語と名前
であると見る。Budge は、言葉の力は実際に限界がない、そして「エジプト人は、彼
等の生活での最大の行事と同じように、最小のものに彼等の援助を祈願する」(1)。
言語はいかなる場合でも用いられるがそれは「普通の声の調子で正しく資格のある人間によって発せられねばならない」し、あるいは書かれねばならない。これは重要な事である(2)。埋葬の魔術を語るにあたってわれわれはすでに絵画、モデル、人体模型、その他のイメージ、塑像、物体の使用に注目した。蝋の塑像はまた魔法(3)にも使われた。魔除けは最初から見受けられるのである。しかしそれらの特殊な形式は、後の時代に変更されたようにみえる(4)。スカラベはもちろん最も有名な例である。
(1)~(4)Budge 略
エジプト医学における魔術
エジプト医術は魔術と儀式に満ちている。その治療法は主として多くの「呪文と根っこやゴミなどを無作為に混合した奇妙な収集物」(1)から成り立っている。すでにわれわれは秘法や神秘的効能についての考えを検討してきた。elaborate polypharmacy と附随した奇術(呪い)には、プリニウスと中世の箇所でお目にかかるだろう。エジプトの医師は他国からの薬草を使い、そして何種類かの材料を混合した医薬よりも単純な医薬を好んだ(1)。すでにわれわれは、黒い子牛の毛は成長する葦毛から得られるという魔術の論理をみた。すでに動物の部分は医薬の調合において好まれる材料だった。ことに、生殖器と結び付けられた。彼等は多分それによって生命(生気)が与えられるとか、あるいは、それらは主としてその猥褻さが気に入られたり、あるいは恐らく不愉快なものによって病の悪魔を追い出すと考えられたのだろう。
(1)~(3)略
悪魔と病気
だが、古代エジプトにおいて、病気は 古代アッシリアおよびバビロニアで広がっ
ているような、悪魔の所有と同じものではない。ブレステドは「病気は敵対精神によるし、それに対しては魔術のみが役に立つ」(1)と主張する。Budge はもっと用心深
い意見で満足している。つまり「幾つかの病気は、体の中に悪い精神が入ってくることによって起きるということには理由がある。・・・しかしこの点に関しては、情報はそんなに多くを提供していない」(2)。確かに悪い魂と魔術の間にはいつも関連があるという信念があるわけではない。魔術は病気に対し常に用いられる、それが悪魔のせいであろうがなかろうが。
(1)~(2)略
魔術と科学
宗教での医薬についてブレステドは次のように述べている。中王朝・新王朝の魔術
は古王朝の魔術の数よりもずっと多い、これは現存する記録から計算される限りのも
のだと。しかし、この考えは早計に過ぎ、古王朝におけるより理性的で科学的な傾向を見落としている。だがブレステドが古王朝について書くとき、むしろ、多くのレシピは有用であり理性的であるという印象を与える。「医薬はすでに経験による智恵という地位にある。正確で厳密な観察を表明している」。そして「真の科学に向かうどんな進歩をも妨害しようというのは、魔術のすべての信念である。後者は、医師のすべての実践を威圧し始める」(1)。ベルトロ(フランスの化学者・政治家)が医術の本で次のように述べているが、それは多分より正しく強調したのだろう。「経験主義に基づく伝統的な処方は何時も正しいとは言えない。それは秘教の治療であり、最も怪奇な類似性をもととしており、そしてほんの少し古い時代に遡れるものでしかない」(2)。ゼーテ<ドイツのエジプト学者とウィルケン<ドイツの古代史家>の、エリオット スミス<イギリスの人類学者>、 ミュラー<ドイツの社会哲学者>、そしてフートン<アメリカの人類学者>の最近の研究によれば、古代の知識、また外科、歯科の技術はToddによって僅かであいまいな形で保存されたものに基づくものに過ぎない。実際、この証言の一部は、まだ文明化されないアフリカの部族によって行なわれた祭儀的行為に過ぎないことを示唆している。たしかに、古代エジプトにおけるそれ以外の実際的科学の発達は、魔術の普及の豊富さに較べると大変貧弱である(3)。
(1)~(3)略
悪魔と産業
初期のエジプトは豊富な芸術と産業の故郷であった。しかししばしば示唆してきた
ようにその舞台を広げることはなかった。たとえばblown glass(吹きガラス?)は
後期ギリシアやローマ時代には知られていなかった。そして初期に描かれたモニュメ
ントのガラス吹き工は、実際初めの頃の鍛冶屋が粘土でもって尖端をつけた葦笛で吹
いて火をおこしている(1)。一方、ブレステド博士は、これはベルトロの「化学過程
のすべての種類は医術の処方と同様に、祈祷師や占い師によって宗教的に公式化されたものの附属物として実行された。そしてそれは疾病の治療と同様に手術を成功させるために必要なものと信じられていた」(2)との発言を元にしていると述べている。
(1)~(2)略
錬金術(Alchemy)
錬金術は一面で、恐らくエジプト人の金細工師と金属加工業者の仕事が起源だろう
。彼等には合金の経験があった(1)。その一方で世界規模の考察、第一物質、元素に
関してのギリシアの哲学理論があった(2)。錬金術、化学は結局エジプトそれ自身の
名前からもたらされた。Kamt あるいはQemt は文字通り黒を意味し、ナイルの泥に当てはめられていた。この言葉はまたエジプの冶金工程で水銀によって作られる黒い粉に適用された。Budgeが言うには、この粉はすべての金属の基礎となり、驚くべき効能を可能にする。「そしてそれは神秘的なほどオシリスが下界で持っていた体と似て
いる。そして両方は生命と力の源泉であると考えられる」(3)。大量のサクラメント
(秘儀)と驚くべき力の類比は、ブルボン家のステファン一世のような医薬の宣伝師によって辛うじて注目されたにすぎない。ギリシアの錬金術について、後世の著者はエジプトの神官から記号と専門語を借用したことは明らかで、エジプト王と神官の独占技術であり、その秘密は古代の石碑やオベリスクに刻まれているとして語ることを好んだ。12王朝の日付のある文書に、ある書記が自分の息子にCemiと名づけられた仕事を勧めている。しかし、それには化学あるいは錬金術と考える根拠はない(4)。パピルスに書かれている錬金術はキリスト紀三世紀のものである。
(1)~(3)略
占いと占星術
占いと占星術の一般的な証拠は初期のエジプトの記録には、とりわけ、たとえば他
の各種魔術のようには現れてこない。だが、初期のエジプトでは占星術的な関心が明
らかに見られる。そしてそこでさえ、チグリス・エウフラテス川で確立した七つの惑
星は、キリスト前の最後の千年紀に至る迄否定されていた。それはエジプトでは古王
朝の最も古い時代に認められるが、彼等は天文学の科学あるいは占星術の技術の存在
は否定していた(1)。
Thotmes 4.の夢は紀元前1450年かそのころからあった。そして呪文は、魔術師に
よって顧客のための夢占いのため、占いと魔術の密接な関係の証明のために利用され
た(2)。幸運な日、不幸な日の信念は約紀元前1300年のパピルスカレンダーに示
された。そしてわれわれは後に、中世で人気のあった迷信「エジプト人の日」を見つ
けることになる。星が昇るテーブル、そこには占星術的意味が刻まれていて、毎月の
神、毎日の神、毎時間の神が示されている(4)。そのような七とか十二とかいう数に
はしばしば墓場などで強調されている。そしてもしセトスの墓の一〇個の角とりをした丸天井が実際に彼の時代のものであったなら、第19王朝での黄道帯の印をみつけたことになる。ポルは、黄道帯が動物神の天空への移動にその起源としているなら(5)、その移動はエジプトほど不適切な場所はないとを示唆してそれを糺した。しかし
エジプトではまだ、チグリス・エウフラテス川の文学ややローマ史のなかで見受ける
ような災害の日の予兆や星座(星位)のリストは発見されていない。Budgeは次のよ
うに説明している。七つのハトル神、この神々は死を予言し、幼児はしばらくしたら
(そのうち)死ななければならないという、そして「エジプト人は、人間の運命は・
・・彼が生まれる前に決まっている、そして彼はそれを変える力はない」(6)と主張
していると。しかし私は納得できない。「エジプトを占星術の発祥地とする立派な根
拠がある」(7)。というのは、大英博物館にあるほとんど中世の偽カリステネスとギ
リシアの星占いは、生徒が注意深く古代エジプト人を学んでいることを強調している
一人の占星術師の手紙に触れている。後のギリシアやラテンの伝承によれば、占星術
は実際はエジプトとバビロンの占い師の創案によるものだろう。しかし、より新しい
証拠では、エジプトがバビロンからこの技術の先行について苦情を申し込まれることになるだろう。
(1)~(7)略
アッシリア及びバビロニアの魔術の起源
バビロニアとアッシリア文明で書き残されたものでは(1)、魔術の楔形文字の板が
大きな役割をしている。そして悪魔への恐怖は、アッシリアとバビロニアの宗教の主
要な特徴となっている。従って日々の考え方や生活は常に魔術に影響されていた。宗
教と魔術のテキストの大半はアッシュールバニパル王(アッシリア最後の王、668-62
6B.C.)の図書館に保存されている。しかし彼はその図書を古代の寺院都市から集めてきた。筆者人は、それらは大変古いテキストのコピーで、シュメール語はまだ広く使
われていると言っている(2)。初期のシュメールの文明の中心のひとつであるエリドゥ
は「記憶にないほど程古い古代の智恵の発祥地である。それは魔法と呼ばれる」(3)。し かし、それはアッスールバニバルの図書館がバビロニアからもたらされたのか、アッシリアからか、シュメールからか、セム族のものなのか、それの判断は難しい。そういうわけで、こういう風に考えよう。「幾つかの非常に古いテキスト、シュメール人
の文学、それは賛歌、呪文のような宗教的材料の集積であるが、それはセム族の借用語でセミ風文法を用いており、全部ではないが多くの場合、ほとんど明らかに、セムの司祭がセムの考えを、正式の宗教的シュメール語に翻訳したものである」(4)。
(1)~(4)略
占星術はシュメール人のものかカルデア人のものか?
最近ドイツの学者の間で大きな論争を巻き起こした。それは、天文学的知識と占星
術の教義のどちらが古いかという問題である。そこにはチグリス・エウフラテス地方
の住民の間にある星の進学も含まれる。簡単に言えば、ウィンクラー<ドイツの考古学者>、シュトゥケン<ドイツの作家>、イェレミアス<ドイツのプロテスタント神学者>たちは次のように主張する。初期のバビロニアの宗教は大きく占星術に基礎を置き、すべての彼等の思想はそれによって出来上あがっていた。したがって彼等は多分早い時期に天文学的観測を行ない、天文学的知識を得た。その知識は彼等の文明の滅亡と共に失われた。この見解に対してクーグラー<ドイツの美術史家、ベーツォルト<ドイツのセム・アッシリア学者、ポル<前出>、スキャパレリ<イタリアの天文学者> などの学者たちは、カルデア人の遅い出現までは、チグリス・エウフラテス川流域に天文学もしくは占星術の理論がなかったことは明らかであると主張した。七つの惑星が早い時期に名高くなったということは否定されるし、黄道宮や惑星による週(1)の証拠はより少ない。天文学のどんな実際の進歩もギリシア時代まで保留されたという。
(1)略
初期バビロニアの「七つ」
だが、われわれ以前三千年期における神話、宗教、魔術における「七つ」の卓越性は疑い得ない。たとえば、古いバビロニア人の天地創造の叙事詩には七つの風、嵐、七つの魂、七つの悪い病気、七つのドアで閉ざされた下界の七つの部門、上空の世界と天界の七つの区域などなど。だがバビロニアの段状の塔は、聖なる七(sacred Hebdomad)千年のシンボルであるといわれるが、常に七つの舞台をもつものではない(2)。しかし七は間違いなくしばしば使われた。聖なる、神秘な特質を持つものと
して。そして道徳と完璧性はそれによるものとされた。そして頭上にある七つの惑星
の規則による説明よりも満足に説明できるものはなかった。これはまた旧約聖書にお
いて七の神聖さに適応されている。それはまたヘシオドス、オデュセイその他の初期
のギリシアの資料に利用されている。
(1)~(3)略
(続く)
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