静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

「ルービンの法則」

2009-09-30 14:30:48 | 日記
 アメリカの元財務長官、ロバート・ルービン氏(在任1995-99。20-21世紀の人)による「国際金融に関するルービンの法則」というものがあるそうだ。その第1条は「人生において唯一確実なことは、確実なものなどないということだ」である。
 モンテーニュ(16世紀の人)は『エセー』で「不確実ホド確実ナルモノナシ」(第2巻14章、関根秀雄訳)と書きのこしたし、さらに自分の書斎の天井にペンキでこれを銘記した。モンテーニュはこの箴言を古典から引いている。一等最初に言ったのは誰か知らないが、たいがいのことはもうギリシア人が言ってしまっている。どうやら呪術や占い、宗教を論ずるなかで生まれた言葉のようだ。モンテーニュはしばしば懐疑論者だといわれるが、まずすべてを疑ったらしい。つまり神の存在をも。当時としては勇気のいることである。
 デカルト(17世紀の人)はモンテーニュの懐疑論が気に入らなかったとみえて、モンテーニュ打破のために新しい実証的合理主義を確立しようとした。「われ惟う、ゆえにわれあり」。確実なものはあるのだ。彼はその方法で神の存在も分析的に立証できたと考えた。
 少し古くなるが、2005年イギリスのBBC放送が、人類史上もっとも偉大な哲学者は誰かアンケート募集したところ、カール・マルクス(19世紀の人)が27・5パーセントで第1位、第2位は12・69パーセントでスコットランドの哲学者デイビット・ヒューム(18世紀の人)であった。BBC放送は間隔を置いて同じようなアンケート調査をやっているようだ。そして前回も同じような結果だったような気がする・・・間違いかもしれない、記憶が薄れている。
 ヒュームもしばしば懐疑論者だといわれる。そうでないという人もいる。私には分からない。彼は新しい実証主義を貫徹させようとしたし、人間の感覚や経験を超えた存在を信ずる哲学的根拠などないとして、結果、神の存在は証明できないと主張した。
 一神教の世界で神を否定することは苦渋を味わうことになりやすい。その点、多神教世界では気楽だ。これが私の神だ、と主張すればいい。イワシの頭だって神にすることができる。19世紀のマルクスの時代になると、無神論者も大手を振って歩ける。やっぱり勇気は要るが。マルクスのとても有名な一節「宗教は、悩める者のため息であり・・・民衆のアヘンである」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)、これは抜粋であり、しばしば誤解をまねいているが、もともとこのような表現は、イギリス国教会の腐敗を批判する宗教者たちの表現であったらしい。貧民の病を根本治療しないで痛み止めの阿片を与えてごまかしているという比喩を用いて、国教会を非難したのであろう。国教会に痛めつけられたピューリタンの中核はカルヴィニストだったようだが、新大陸に上陸したピューリタンたちは神に選ばれたという自覚のもと、仲間以外には厳しく不寛容な掟をつくった。彼らの何世代か後の大統領は「私たちアメリカ人は、この世の罪と悪に立ち向かうよう聖書と主イエスに命じられている」と述べて、聖書に新しい1ページを加えた。マルクスは「人間が宗教をつくるのであって宗教が人間をつくるのではない」といったが,(上掲書)、この大統領はどうやら宗教を作り直したかったらしい。
 筆者の乏しい知見ではあるが、マルクスもエンゲルスも懐疑論者や不可知論者ではなかったが、それを頭から否定はしていない。レーニンは『唯物論と経験批判論』で不可知論を徹底批判したが、後に反省した。スターリンはこの書を天まで持ち上げた。
 話が横にずれたので元に戻そう。「国際金融に関するルービンの法則」を説いたルービン氏はなにも哲学や宗教を論じたわけではない。経済や政治での意思決定の質を、いかにして向上させるか、そのための法則である。こういう法則の存在を私は榊原英資氏の「通説を疑え」と題した書評で知った。(『エコノミスト』04・3・2)。マルクスは「通説を疑え」と似たような発言をしていたように思う.何ごともまず疑ってかかることが大切らしい!