静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

イルカ、いるか!

2015-06-21 19:01:08 | 日記

                   2015.06.20

(1)イルカは人気者

小学校の担任が休みで教頭が代役、イルカの話をしてもらった。イルカという名の船員がいて、船長が「イルカ、いるか!」と叫んだ・・・聞いている級友たちがみな笑ったものだった。

1938年、いわゆる「支那事変」、つまり日中戦争の2年目でのことである。「日の丸」(「国旗」ではない)と歓呼の声に送られて兵隊たちが中国大陸へ。そのためには海を渡らなければならない。上の話は、船員と船長の話ではなく、艦長と水兵のことだったかもしれない。そこの所ははっきりとは覚えていない。この話の要点はその船員なり水兵が「入鹿」や「居加」や「伊留家」などではなく、動物の「イルカ」であり、それが船員なり水兵のあだ名であることだった。悲しみを秘した可笑しみが今でも思い出させてくれる理由だろう。

日清戦争・日露戦争・第一次大戦・満州事変・シベリア出兵・支那事変(日中戦争)・アジア太平洋戦争・・・戦争と言わず「事変」とか「出兵」とか・・・将兵たちはみんな軍艦か輸送船で海を渡った。甲板で、飛び跳ねるイルカを見ただろう。

わが国では古い昔からイルカを捕獲し食してきた伝統があり、和歌山県太地町では、従来からイルカの追い込み漁を行ってきたという。捕獲されたイルカの一部は水族館に売られていって、そのイルカ・ショウは大人気だ。その追い込み漁が動物愛護に反するということで、2015年5月、日本動物園水族館協会が世界動物園水族館協会(WAZA)から除名勧告されという事件があった。

(2)イルカを愛したギリシア人

 イルカはギリシア神話でも人気者だった。イルカは海神ポセイドンの使いとされ神聖な生き物であり、のちには天に昇りイルカ座となった。デルポイ(Delphoi、ラテン語ではDelphi<デルフィ>)はアポロン神の神託所であり、アポロンとイルカとの関係についてもいろいろな物語がある。ギリシア人にとってイルカは心を持ち、人間と愛情を交わし、人間に助力さえする動物だった。ギリシアはエーゲ海やイオニア海に囲まれた国でありイルカに接する機会は多かったに違いない。ギリシア神話はわが国でもよく読まれているから親しみ深い。

同じギリシア人だが、哲学者アリストテレスの場合少し趣が違う。彼の『動物誌』は分析的で科学的と評されている。たとえば、動物の胆嚢・骨・乳頭・聴覚・声・睡眠・生殖器・交尾・食物等々、動物の器官などの分析に重点がおかれている。しかし生態などにも触れているのでそれを紹介する。(島崎三郎訳参照)。

イルカは胎生であり、乳房も二つあるが前の)方ではなく陰部の近くにある。子は親につきまとって乳を吸う。イルカやクジラ類は「えら」はなくて導水菅によって空気をとり入れて呼吸する。つまり肺がある。くちばしを水面から出して眠り、いびきもかく。本性上空気を取り入れるものを陸上動物、水を取り入れるものを水生動物とすれば、これらは両方の性質を兼ねている。現に海水を取り入れて噴水菅で排出し、しかも肺に空気を取り入れ空気を呼吸している。だからイルカは網で捕らえられ水中に置かれると呼吸できなくなり、すぐ窒息する。 

イルカはおとなしく馴れやすい。カリア地方で一頭のイルカが捕らえられて負傷したとき、イルカの大群がどっと港へおしよせ、漁師がそのイルカを放してやるまで去らず、放してやると、みんな一しょに出て行った。大きなイルカと小さなイルカが一しょに泳いでいたが、中に死んだ小さいイルカがいて、それが沈みそうになると、その下へ行って、背中で持ち上げているのが見られた。死んだイルカが他の肉食動物に食われないようにしているようだ。イルカの泳ぐ早さについても信じられないような話がある。大きな船の帆柱を飛び越えるが、これは彼らが魚を追いかけている時である。深い所まで追いすがるが、水面へ戻るのに長くかかりすぎるような時には、まるでその時間を計っているかのように息を止め、上昇距離をできるだけ速く通過しようとして,体を縮めて矢のように進み、たまたま舟でもいれば、帆柱を飛び越える。イルカがなぜ岸に乗り上げるのか、よく分からない。というのは、彼らは時々、ひょっと、何の理由もないのに岸にのり上げる、といわれているからである。

 (3)イルカが追い込みをするローマ

ローマ人でイルカについて詳しく書いたのはプリニウスである。彼は『博物誌』執筆に当たってアリストテレスから多くを学んだと礼を述べている。プリニウスのイルカに関する記述は多いのでその項目だけでも載せよう。

彼はイルカの記述を泳ぐ速度の説明から始めている。すべての動物のなかで一番速く鳥より速い。口はほとんど腹の中ほどにある。でなければ一匹の魚もその速力から逃れられない。だがイルカはひっくり返らなければ獲物を捕らえられない。自然はイルカに手間をかけさせているのだ。

イルカの親子・成長―舌・音声・鼻頭―音楽の愛好・舟との遊戯などについて述べた後、少年との交流と愛について書き連ねている。(これについては、マエケナス・ファビアヌス・フラビウス・アルフィウスその他大勢が書いているとしている)。一匹のイルカが、愛した少年が死んだとき、喪中の人のように悲しげに海岸を訪れた。また、イアスス市の一少年にイルカが恋着した。少年が立ち去ろうとしたとき、そのイルカは砂上を追いかけて息絶えた。アレクサンドロス大王は、そのイルカの愛情を神寵のしるしと解して少年をバビロンにおけるポセイドンの神官の長にした。別の少年がイルカに乗って海へでて、嵐の波で落命したがイルカが岸へ連れ帰った。その死因を自身に帰したイルカは海へ帰らずに乾いた砂の上で死んだと、ヘゲシデモスは書いている。テオフラストスも同様な例を記録しており、プリニウスはそのような事例はたくさんあるとし、いろいろな話を紹介している。

また、イルカが人間と共同して漁をする有様を詳しく描いた。ナルボネンシス属州ノネマウスス地区にラテラという沼があり、決まった季節になると無数のボラが沼の狭い出口から海へ出ようとする。漁師たちが海のイルカたちに呼びかけると、イルカの群は急いでやってきて通路を塞いでボラを浅瀬に追い込み、漁師はそれを捕獲する。そのほかにも、珍しい漁の仕方が記述されている。日本では人間がイルカを追い込むが、ローマではイルカが魚を追い込んだ。

プリニウスは遠慮勝ちではあるがアリストテレスを名指しで批判している。プリニウスはいう、多くの学者が支持するアリストテレスの説によると、クジラが肺で呼吸するように、他の魚も内臓にある肺で呼吸をするというがそれは間違いだ。そして、もし造物主がその気になれば、動物は肺の代わりに他の呼吸器をもつことは可能である。多くの動物が血液の代わりに他の液をもっているのと同じだ。水の中にも空気は浸透している。クジラやイルカは菅で空気を肺に送って呼吸しているが、他の水棲動物はみんな彼ら独自の性質・条件によって呼吸しているのだと。

 (4)皇太子はイルカ

地中海人にとってイルカは友であり時には愛人でもあった。イルカを愛好する風習はその後も西欧に伝わった。美術工芸の材料として用いられたし、文学などにも多々登場する。フランスではずっと昔から、イルカが皇太子の称号とされていた。ルイ一四世は、皇太子(後のルイ一五世)のためにラテンの古典を編集して刊行させた。それはフランス皇太子文集に属するもので、扉の題字の下に in usum Serenissimi Delphini(皇太子殿下御用)とある。 Sereninitasが殿下、Delphin がイルカ(フランス皇太子の称号)と記されている。扉の前頁の口絵には、大きな船の舳が、その舳の前にこれまた大きな一匹のイルカが描かれている。一〇人ほどいる乗組員の一人が竪琴を弾きながら海に身を乗り出している。その竪琴からイルカの頭に幅の広いテープが流れ「魅惑する心地よい歌声」と記されている。

 この『博物誌』は膨大な注釈付きで、一六八五年にパリで発行された(本文・注釈ともラテン語)。皇太子用に編纂された書物だが一般にも頒布された。イエズス会員でプリニウスの研究者として高名であったアルドゥアン(1640-1728年 )の編集によるもので、多大の労力と勤勉によって製作された。四つ折版五冊の大部なもので、その各巻のほぼ三分の二は注釈、最後の巻の半分は索引である。歴史上、数ある『博物誌』のテキストの中でも飛びぬけて貴重なテキストである。もちろん今日でも西欧人にとってイルカは親しみ深く愛敬すべき動物であることに変りあるまい。ルイ一四世が皇太子に「イルカ、いるか!」などと呼びかけた・・・? 

 (5)日本の食習慣

『古事記』にイルカの話がある。神話の世界だから極めてあいまいである。ホンダワケ太子が都奴賀(つぬが、今の敦賀)の浜でイルカを食した話がある。イルカは波に乗ってしばしば浜にやってくる。そのときも、鼻が傷ついたイルカが打ち上げられていた。古くから銛(もり)で鼻を突いて捕らえ習慣があった。だから鼻に傷があり、その血が臭かったのでその浜を血浦(ちうら)と名づけたが、それが後に「つぬが」になったという。イルカを食したのは禊(みそぎ)のためだというが、何のための禊かよくわからないのである。ともかく太子はイルカの肉を食して禊を済ませた。

わが国では、古くからイルカを食品にしてきた。太地町での追い込み漁はその伝統に基づくものだろう。その漁法をめぐって日本動物園水族館協会が世界動物園水族館協会から会員資格を停止されたのである。他所の国の人々がクジラを食そうとイルカを食そうと勝手じゃないか、ほっといてくれ!捕獲方法をどうこう言うな! 日本人は明治の文明開化の頃までは牛肉を食わなかったのだぞ! そういう声が聞こえてくるような気がする。だけど、人間が人間を食うのだけは止めて欲しい。戦中、南方のジャングルの中で、痩せ衰えた兵士と痩せ衰えた兵士が、互いに相手の死をじっと待っている・・・ときには待ちきれずに・・・そういう情景を書いた著者に会ったことがある。

日本が世界動物園水族館協会から除名勧告資格停止された日、「フォアグラの輸入と販売を禁じる」という提案も審議されていたが、これは反対多数で拒否されたという。フォアグラの是非については以前から国際的にも議論されてきて禁止する方向にあるのだが、逆に日本では消費が増加しているらしい。ガチョウをフォアグラ用に飼育することにプリニウスは批判的だった。古代ローマでは奢侈禁止法があり、いろいろな食品が禁止されてきたが、無理やりにガチョウに飼を詰め込む飼育法を今もって禁止しないのはけしからぬという口吻である。プリニウスは小鳥を籠の中で飼育することにも反対だった。彼は「自然が広々とした世界に住むように定めた生きた動物である鳥を、檻の中に閉じ込めるというローマの習慣」も批判した。プリニウスは、大洋を自由に泳いでいたイルカを狭いプールの中で飼育して曲芸をさせることを知ったら、多分怒るだろう。

以前、わが家に一羽の小鳥が貰われてきた。ピー子と名づけた。はじめなかなか懐かなかったが、やがて頭に止まり肩に止まり、耳たぶをつついたりして親密の情を示すようになり、部屋を自由に飛びまわって飽きると自分で籠の中に戻っていった。ある晴れた春の日、庭の小枝に籠を吊るして戸を開けてやった。地べたに降りて遊んでいたが、突然飛び立ち屋根の庇に止まった。その時点では、やがて籠に帰ってくるだろうと思っていたら思惑ははずれ、今度は大屋根のてっぺんに飛んでいった。あわててピー子と呼んだが知らぬ顔。そして、南の空に向って一直線に飛んで行ってしまった。春とはいえ夜は冷える、自分で餌をとったこともない。天敵もいるだろう、どこで寝るのか、どうやって生きていくのか・・・。籠の戸を開けたままで帰るのを待っていたが、遂に帰らなかった。ピー子は生まれて初めて大空を自由に飛ぶことができたのだ、幸せだったのではないか! きっとそうだ、そう思って自分を慰めるしかなかった。

 


国民が憲法を守らないのは自殺行為?(続・憲法は国民が守る)

2015-06-08 18:24:50 | 日記

 

(序)

「国民が憲法を作ったのだから、自ら護ることは余りにも明々白々であり・・・」と憲法制定議会で政府答弁があったことは前回の「憲法は国民が守る」で述べた(1971年1月号の『法学時報セミナー』参照)。その1年前の『別冊法律時報』(1970年1月号)に99条の解説がある(小林孝輔氏による)。これは憲法学界での通説である。その一部を紹介する。

 (一)  憲法学の通説であった

 「公務員の憲法尊重擁護義務を規定するが、『国民』については義務づけがない。なぜか。通常つぎのごとく説かれる。すなわち、国民はこの憲法の制定者である(前文第一節)。したがって、国民がかれら自身のために制定した憲法を尊重しないのは、「自殺行為」とも言うべく(和田秀夫・憲法体系1375-6ページ、注解1496頁)尊重擁護するのは、むしろ当然のことであるがゆえに、義務づけの明文がない(同上、宮沢・コンメタール821頁)」

 「まさにそのとおりであろうが、より本質的にいうなら、はじめにふれたように、近代民主主義憲法の本質は、国家権力の制限にある。国家権力の主体は公務員である。だから、この公務員の権力行使を拘束するのが、憲法である。そこで、憲法明文は、その尊重義務を公務員に課すことによって、国民のため、権力の過多、限界の逸脱を防ごうとするのである。この点よりみれば、権力の客体である国民に対し義務づけがないのは、当然といわなくてはならない」

 (ニ)最高の憲法解釈者は日本国民

 小林氏の説明を見てもわかるように、はじめの頃は、尊重擁護義務は国民にもあり、が世間常識であり、憲法学での通説でもあった。だが憲法解釈の変更は、社会事情の変動や国民意識の変化などによってありうる。憲法制定時には、ポツダム宣言、アメリカの対日政策、日本の諸階層の要求など、多様な価値観が存在し、それらが一定の妥協をしながら成立した。そのような多様な価値観を抱えながら成立した憲法が、多様な解釈を生み出すのも必然だったかもしれない。ゆえに、学説・立法・判例・行政実例などによって多様な解釈が生まれ、今もなお論議は続く。それらの論争は、その背景に国民各層の利害を反映している。憲法解釈というものはそういうものだろう。アメリカの世界戦略・対日政策と日本政府の改憲願望とには密接な関係があることは誰でも知っている。

このように多様な憲法解釈が存在しうるが、それを正しく、別の表現を使えば科学的に解釈することができるのは誰か。大學の先生か、法律の専門家か、マスコミのエリートか、あるいは政府や内閣総理大臣か。15年6月4日、衆院予算委員会で自民党などの推薦で参考人招致された憲法学者三人がみんな憲法違反との見解を述べた。これに対して政権側は直ちに反発した、「学者如きが」とか「学者の選定を誤った」とか「学者は字面しか考えない」とか「もう決まっていることだ」とか。つまり、憲法解釈の権限は内閣が握っていると信じて疑わないのである。

先に述べたように、たしかに、たんに条文の文字上の機械的な解釈だけで済ませていいわけではない。制定当時の国際的国内的諸事情・社会的問題点・主権者たる国民の意識や感情・・・それらを反映した制定当事者の見解・憲政国会での討論と決定の仕方、そして70年近くもこの憲法を尊重し擁護してきた多くの国民の意思・意見などが憲法解釈の基準とならねばならない。そして、最終の決定者は主権者たる国民自身の意思でなければならない。

 (三)「義務なし」のいろいろ

 新聞記事に載った「国民に義務なし」論の主張を下に掲げてみる。もちろん筆者の目に付いたごく僅かのもの。簡潔にまとめた。発言者の氏名や肩書きなどは一切省略(覚えのためイニシアルだけ記入)、掲載年月は参考のため入れた。

ア、「天皇・・・その他の公務員は・・・守らなければならないと書いています。このなかに国民は入っていないということが大事です。(国民は)これらの人たちが憲法を守っているかチェックすればいいわけです」(E、07/05)

イ、「『憲法を守るべきは誰か』と問うと、必ず『国民』『私たち』という答えが返ってきます。尊重擁護義務を負っているのは『天皇j・・・公務員』だと紹介すると驚くわけです」(M、13/03)

ウ、「憲法は国民が国家を縛るもの、法律は国家が国民を縛るもの」「天皇・・・公務員には憲法を尊重擁護する義務があるが、国民には課されていない」(A・T,13/4)

エ、「もとより憲法とは国民からの国家への命令であり、逆に国家からの国民への命令が法律である」(A・T、13/04)

オ、「(自民党の)改憲案には、『全て国民は、この憲法を尊重しなければならない』とあり、国家を国民の上に置こうとしている」(N、13/08)

カ、「憲法の尊重擁護義務は天皇や・・・公務員のみ課せられている。自民党は、国民一般にも課すべきだと主張した(A・S,13/05)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

キ、「『国民は憲法を守らないといけません。これは、○か×か』・・・正解は『×』。『憲法は国家が守らなければならないルール。国民からの注文なのです』」(O、14/05)

ク、「・・・本格的な入門書に仕上がった。(その書には)『憲法は誰を対象にしているの?』『その国の国民』『ではないのです』『えっ?』。憲法とは国家権力が守るべき法律とは反対向きだということが説明されている」(A・T、14/07)。

そのほかに、前回の「憲法は国民が守る」で3例挙げておいた、それは省略。

 (四)安倍さんは国民の公僕

 安倍内閣が提案している安全保障関連法案に反対する国民の声、運動が、より高くより深く拡がりつつある。人々は、自分たちに憲法尊重擁護義務はないと思いながら反対しているわけではいだろう。

だがしかし、そのうち「国家権力(政府)は、尊重擁護するのは憲法違反だと言い出すかもしれない。憲法に書いてないことをやろうとするのだからと。一方で、自民党の改憲案では、国民は憲法を尊重しなければならないとあるそうだが、これは、主権者であり憲法制定者である国民を虚仮(こけ=バカにする)にするものでしかない。そのうち、憲法改正して「兵役の義務」を設け、応じないものを憲法違反として懲罰することになることを狙っているのかもしれない。

前に私はこのブログで二回ほど、すでに日本はファシズムの段階に進みつつあるのでは?という危惧を表明しておいた。憲法を守り、軍国主義とファシズムの台頭を防ぐ力は「国民」にしかないと思うのだが、その国民の結集力を削ぐようなキャンペーンは止めてもらいたい。戦前、多くの国民が騙されたと思った・・・騙されるのも罪だともいわれる。盲従という言葉もあった。だが日本国民もいくらかは利口になったはずだ。9・11以来、米国はネオ・ファシズムへの道を歩んでいるように思える。宗主国がそうなら、従属国がそれに追従してゆこうとするのも理の当然か? しかし国民は前よりは賢くなっている。

明治憲法下での天皇の官吏は、戦後公僕となった。国民の「僕」である。天皇は象徴だが、内閣総理大臣は公僕である。安倍晋三氏も国民の公僕である。政府が国民に命令するのではなく、国民が政府に、安倍晋三に命令するのである。晋一氏が国民に命令などできない、これが新憲法の精神だった。戦争で心身ともに傷ついた国民の精神だった。 

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(本日のメモ 1)―オバマ、核不拡散条約を葬る―

 核不拡散条約(NPT)再検討会議(2015.4/27-5/22、ニユーヨーク、参加国約190)で、核軍縮・核不拡散・原子力の平和利用の三分野で全会一致の合意文書採択を目指したが米・英・加不同意で不採択。「核なき世界」でノーベル平和賞受賞のオバマ大統領が採択反対を指示したので決裂したといわれる。イスラエルを守るためだという。やっぱりノーベル平和賞は茶番である。ジョージア(旧グルジア)のサアカシビリ元大統領がウクライナのポロシェンコ大統領によって、ウクライナ南部のオデッサ州知事に就任したとか。おまけに、このサカシビリ元大統領をノーベル平和賞に推薦する動きもあるとか。お臍が茶を沸かすとはこのことか。

(本日のメモ 2)オバマさんからたんとご褒美

 15年6月5日の朝刊、朝日と毎日が同時に瓜二つの論陣を張った(社説。)米議会で審議中の貿易促進権限(TPA)法案に関してである。朝日;「オバマ政権や民主・共和両党の議会リーダーは指導力を発揮し、反対・慎重派議員を説得してほしい」、毎日;「オバマ大統領は指導力を発揮し速やかな成立に努めてほしい・・・政権と共和党幹部は今月中の法案を目指すが、残された時間は少ない・・・成立を野党に頼らず、足元を固めるべきではないか。与党の説得に全力をあげてほしい」。

両方とも「説得してほしい」「説得に全力をあげてほしい」と大声援。きっとオバマ大統領から山ほどご褒美がもらえるよ。