静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

「平和海」と「裏日本」の思想

2014-03-20 20:12:45 | 日記

(一)日本海と裏日本

ずっと以前、韓国や中国からの留学生と話し合ったとき、一人の韓国学生が、日本の領海でもないのに日本海とは不当ではないかと言い出した。20年以上前のことである。ではなんと呼ぶべきかと問うと、「東海」だという。そういう視点に立てば、ロシアからみれば「南海」、日本から見れば「北海」になる。それでは収まりがつかないと重ねて問うと、その学生は戸惑ったような顔をした。さらに、列国が納得できる案はないかと問うたが、名案は生まれなかった。今、この「東海」論は一層大きくなってきている。しかし、日本人自身からは改称の発意はほとんど聞こえてこない。

日本海という名称は幕末渡来した西洋人がつけたのが始まりらしい。従来日本人には大きな海に名前をつける習慣がなかったとう。古来この海は周辺地域・国家が交流流のため乗り出す場であった。ヤマトの国ができて奈良や京都が都になった頃、北方の大国渤海と200年にわたる深い交流があったことは知られている。この間、渤海からは34回使節が来日し、13回日本から使節が派遣された。1回の来日人数は100人を越えることが多く、時には17隻の船で325人が来日したこともある。単に物資の交換・貿易だけでなく、文化も伝道された。物資だけでなく、中国の古典、仏教、漢詩や漢文学、暦や建築様式なども伝えられ、平安時代の日本文化の形成に重要な役割を果たした。

来日航路には多説があってはっきりしないが到着地はほぼ明瞭である。主な来着地は東北・北陸・山陰で、中でも京への便がいい北陸の加賀・能登・越前などが多い。帰国の出航地も当然これらの地が多かった。

 その後も明治初頭まで日本海沿岸は日本列島の物流における大動脈だった。太平洋に較べて日本海は概して波穏やかで和船で航行するにも適していたこともあるが、基本的には経済の問題であった。北前船は蝦夷地(北海道)から東北・北陸・山陰などを経て天下の台所大阪と結ぶだけでなく、遠くは薩摩とも交流し、そのルートで琉球や中国大陸からの文物も齎らされた。この交易は幕末の商業資本の蓄積を齎し、各地に豪商が生まれた。だが、北前船による回船活動は明治以降衰退に向い、それまで「内日本」と呼ばれていた地域が「裏日本」と、「外日本」が「表日本」と呼ばれようになる。

「裏日本」という言葉は一説によると、日清戦争の最中、つまり1894・5年頃、『中学日本地誌』という教科書に載ったのが初めてだという。だとすれば、欧米列強に学んだ日本の明治政府が、東アジア諸国への政治的・経済的な進出を本格的に企てた頃にあたる。裏日本という言葉は学術用語として生まれ学者たちが用い始めたともいう。盛んに用いられたのは第二次大戦以後、論文などに堂々と用いられた。そして一般庶民の間にも、学校教育やマスコミなどを通して広まったと思うが手許にはその詳しい資料はない。今日、学校の教科書では裏日本・表日本の区別は使っていない。少し古いが、1972年発刊の『日本地誌』(藤岡他6名の共著、大明堂)は大学の教科書にも使われたらしい)にもない。だが、1981年度版の平凡社大百科事典には何の疑義も挟まず「裏日本」が使われている。最新版については知らない。

また、1984年刊の『田中啓爾と日本近代地誌学』(田村百代著、古今書院)では、ラウテンザッハというドイツの地誌学者が「日本列島における国民意識に大きな役割を果たし、普通裏側(裏日本)つまり日本海側は、表側即ち窓側(表日本)から区別されている」「日本人が裏側・表側という表現を通俗的に使用する場合には、当然とくに人文地理学上の意味が含まれている」と述べていることを紹介している。随分はっきりした物言いである。

(二)裏日本論

 たまたま、佐伯啓思氏(京都大学教授)の裏日本論を読む機会があり(「反・幸福論」(『新潮45』、連載36回「『有の思想』と『無の思想』」)、新しい知見を得た。以下要約する。

 金沢市から北20キロほどの日本海に面した宇ノ気が西田幾多郎の生地である。佐伯氏は西田の文の一節を紹介している。孫引きする。

「私の故郷は決して好ましいところではない。よい景色もにぎやかなところもない。深い雪に閉ざされ、荒れ狂う木枯らしの音だけが聞こえ、秋の日も鉛色の雲が立ち込め、地平線に入り日の光は赤暗く、まるで『死の国の入り口』のようにも思われる。しかし、私はこの故郷をこの上なくなつかしく思う(「或時の感想」)」。

幾多郎の二男外彦氏の、宇ノ気についての感想も引用されている。

「冬は雪に埋もれ、春から夏にかけては雨気を含んだ暗い雲に覆われ、夏は沈痛な海原、秋は氷雨のふる北陸のさびしいへき地である」

 ともに名文だ。佐伯氏はこの文に自分の宇ノ気や金沢訪問時の感想などをも加えながら裏日本の特質を論じた。その要点は次のとおり。

①表・・・「表」を代表するものは、東京、大阪、名古屋などの大都市であり、外洋に   面した出帆の場所であり、いわば近代化と文明化を暗示する。

裏・・・「裏」は、近代化に背を向け、文明から取り残されたもの、内向するものを暗示する。

②表・・・外延的発展を目指す。

裏・・・内向的な沈潜へとむかう。

③表・・・「陽」であり未来を志向する。

 裏・・・「陰」は過去を追憶する。

④従って、「裏日本」という精神風土は、どうしても、内向した情熱や自己規律を伴った忍従、寡黙な思索へと傾斜する、という印象をぬぐえない。

 ④最近はあまり「裏日本」といういい方はしなくなった。そのこと自体がまさしく   「裏日本」の特質である。中立的な用語ではない。「裏」が喚起するものは、いずれマイナス・イメージであり、日本の近代は「裏」を排して、ひたすら外を向き、変化を求め、都会をめざし、未来を志向してきた。

明快である。さらに敷衍して論じられるがその一つ。『日本書紀』は正史で「表」であり、アマテラスを軸にした天孫降臨によって天皇直系を示し、スサノオやオオクニヌシの出雲は「裏」である。その裏を描いた『古事記』は敗者の歴史であり、敗北してゆくものへの愛惜と贖罪が隠されている。その隠された心情がわれわれ日本人の精神的な源郷になっている・・・。

同様に「西洋的なもの」が勝者で「日本的なもの」は敗者である。この両者の葛藤と矛盾こそが日本の近代史なのだ・・・。以下略す。

(三)近現代の裏日本

一つの例は敦賀である。太平洋戦争が始まる頃までは、欧州に旅する人の多くがその「裏日本」から出航した。東京の新橋から敦賀まで「欧亜国際連絡列車」、通称「国際列車」が走り、敦賀港駅(当時は金ケ崎駅)から乗船、ウラジオストックからシベリア鉄道でヨーロッパへ。これが一般の訪欧行路だった。東京からパリまで17日かかったが、「表日本」からインド洋経由では約40日。著名な多くの学者や文人たちも敦賀から出入国した。1913年、プロコフィエフがアメリカ亡命の途上上陸したのも敦賀。1932年、国際連盟総会に出席して脱退を通告した松岡洋右一行もそうだった。日本には二ヶ所か三ヶ所しかなかったソビエト領事館の一つが敦賀にあり関税も設けられていた。1940年、杉原千畝による「命のビザ」で救われたユダヤ人たちの入国は敦賀であった。「満州」からの大豆輸入は戦争末期に至るまで続けられた。

戦後、舞鶴港は大陸からの引揚者66万人余を受け入れた。また「在日朝鮮人」10万人近くが故国に船出したのは新潟港からであった。

こういう経過をみると、やはり「裏」は表玄関ではなく裏口・勝手口なのだろうか。「裏」が喚起するものはマイナス・イメージであり、日本の近代は「裏」を排してひたすら「表」を目指し未来を志向してきたということか。

(四)北陸の海

西田幾多郎の生地宇ノ気はいま河北市に入っている。その生家から海岸まで少し遠いが歩けないことはない。その宇ノ気の海岸から50キロ近く北上した能登半島の西岸に渤海との交易で栄えた福浦港(石川県羽咋郡志賀町)がある。逆に南に10キロ余り南に下ると広大な砂丘で知られる内灘海岸である。夏は海水客などで賑わうが、春秋には人影も少なく静かに孤独を楽しむことが出来る。宇ノ気の海岸も、多分その内灘の雰囲気を持っていて、海が好きだという幾多郎もしばしば訪れたことだろう。

内灘砂丘からさらに南に下ると砂丘は狭くなり、そのあたりで河北潟からの大野川が砂丘を割って日本海に入る。河口の大野の集落に第四高等学校のボート部のボート格納庫があった。その辺りは、松とニセアカシアの樹林が海岸近くまで迫っている。春先、まだ芽生えていないニセアカシアの小枝を通してまだ厚い雪を戴く白山連峰が見える。四高で学んだ中野重治は「とにもかくにも、北陸のへんの日本海は眺めてさびしい。それは荒涼としている」と書きながら、一方で「けれども、日本海は日本海として美しいぞ。とてもこの好さは、明るいだけしか知らぬものにはわかりそうにもないぞ」(「日本海の美しさ」)と書いている。彼は、河北潟から河口へかけての風景を写生に行ったことがあると言っている。ボートで河北潟に漕ぎ出すと、白く輝く白山の峰々が湖面に映えるが、その景色を楽しんだのだろう。中野の四高時代、クラス対抗ボートレースがあったらしい。そのレースにビールを持ち込むよう煽動したのが重治で、翌日校長からきついお叱りを喰ったという。重治は、「ビールは飲んだけれど、ドイツ語の先生(ウォールファールト)が、ビールは酒ではないと言いました」と抗弁した。だが、「バカを言え」とまた叱られたという(定道明『中野重治伝説』参照)。旧制高校の寮歌には、酒を酌み交わす情景が多く詠われているが、当時の四校では一時期飲酒が禁ぜられていた。だが彼の『歌のわかれ』にはしょっちゅう飲み屋に出かけていた話が出てくる。

金沢市内を流れる浅野川が大野川に合流して日本海に入るところが大野、もう一本の直接日本海に入るのが犀川で、その河口が金石である。この大野や金石には渤海との交易時代の遺跡が残されており、また北前船時代にも栄えたことも知られている。西田幾多郎はこういう風土の中で育ち学んだ。中野重治の生地はそこからさらに南に下った越前であるが、風土や気候はほぼ同じである。

(五)北の都

西田父子は自分たちの故郷、北陸の風土を悪しざまに書いている。だが本当の心情はどうだったか。西田の回顧的な文章には強い思念の裏打ちというか、屈折した観念とでもいうべきか、そういうものがあったように思う。  

佐伯氏は、第四高等学校生のモットーは「超然主義」だったとし、いくら超然を唱えても、その超然を唱えた日々はあの北陸の寒々とした風景や荒れた海の匂いと切離されるものではないと叙述している。

確かに北陸の気候は年間を通してみれば曇り空・雨天・雪の日が多い。それを寒々とした風景・荒れた海と見るかどうかはそこに住む人の主観による。多くの人が生まれて死ぬまでそこに住む。そこに住む人たちにとってはそれが普通の風景であり当たり前の風景でしかない。

超然主義というのは、大日本国憲法発布(1889 年)後大正初期頃までの藩閥・官僚内閣が、議会に対してとった唯我独尊的政治的立場をいう。黒田清隆や伊藤博文などが言い出した。「東京大学」の設立は1877(明10)年であるが、1886年には伊藤博文の専断で「帝国大学」になった。後に(1894年)第一高等学校と改名される第一高等中学校もこの年に設立された。この学校は帝国大学の予科という位置づけだった。校舎も大学に隣接してつくられた。旧制高校における「校風論」は1980年頃一高で発生したらしい。

嗚呼玉杯に花うけて  緑酒に月の影宿し  治安の夢に耽りたる 

栄華の巷低く見て 向ヶ丘にそそり立つ 五稜の健児意気高し

と歌いだされるこの寮歌は1902年に作られている。治安の巷を低くみる風潮は全国の高校に広がったともいうが、よくはわからない。全寮制の一高の校風は「籠城主義」だがむしろ「超然主義」の方が相応しい。四高の「超然主義」は高山樗牛の「吾人の須らく現代を超越せざるべからず」からとったとして喧伝された。四高における校風刷新運動は、ごく少数の生徒と教師によって始められが、発起人たちが期待したような支持は得られなかった。四校は一高と違って全寮制でなく、寮生はせいぜい四分の一程度だった。当時四の教官だった西田幾多郎はそういう運動を苦々しく思っていたという。彼はむしろ四高の前身石川県専門学校で薫陶を受けた北条時敬(後、四高校長。西田は彼の家に書生として住み込んだことがあった)の「学校は家庭、校長は父兄」という考えに同感を抱いていた。校風問題がおきた1990年頃には学校公認の下宿である塾が九か所もあったという。民家を借り上げて生徒が共同生活を行なった。そのうちの「三々塾」は西田が主宰していた。この家族主義的な考えは生徒からではなく、むしろ学校側から提起されたようだが、それが生徒に支持されるか否かは別にして、おそらく四当局の教育方針に一貫して流れていたようにも思える。戦後金沢大学発足に伴って新しい寮ができた。この寮は、金沢大学、金沢高等師範学校、第四高等学校の学生・生徒の合同寄宿舎であったが、その開寮コンパで、大学当局の代表(学長?学部長?)が、「私は君たちの親父だから、大いに脛を齧ってください」と挨拶した。学生の間から「よーし、齧るぞ」と声がかかり、あちこちから笑い声があがった。

 明治維新時、金沢は東京・大阪・京都に次ぐ第四の都会だった。だが、中央集権化が進むなかで、その相対的な地位は低下した。栄華の巷を見下ろす必要も必然性もなかった。金沢城址に「そそり立った」のは軍隊であり、第四高等学校はその下の街の中にあった。籠城主義も超然主義も四生を惹きつけることはできなかった。街中に小さい塾や下宿生が散らばり、おのずから市民との交流が生まれる。寮自体が繁華街香林坊のすぐ傍にあった。空いているときには講堂は一般市民に開放され、夏休みにはプールも市民に開放された。(一〇)

 特に愛唱された寮歌「北の都に秋たけて 吾ら二十の夢数う・・・」では、丘の上から栄華の巷を見下ろすというような雰囲気はない。「自由のために死するちょう」というフレーズはある。その北の都から「表日本」の高校との対抗戦(各種のスポーツ)に遠征するときの応援歌が「南下軍の歌」である。対抗試合で勝利して帰ると市民は熱狂して迎えたと伝えられる。

(六)学都

2014年6月、岡山大学社会文化学研究科(平野正樹教授)が、「全国学都ランキング」を発表した。1位が京都、次いで東京・石川の順。学都の3大要素は、「歴史・文化」「大学の教育研究力」「地域と大学の共同(連携)」で、関連する指標は18とのこと。「歴史・文化」の総合点で石川と福井が並んで1位につけ、富山は5位。平野教授は、金沢は、抱えている課題をクリアすれば世界に冠たる学都となる可能性もあると評価した。

 『歌のわかれ』に、主人公の四高生が正門前の泰文堂という古書店に入り、そこの抜け目ないおやじと蔵書の売り値を交渉する一部始終があった。この泰文堂の並びには古書店が軒を並べ、その所々に九谷焼のどっしりした店があった。その広阪通りが兼六園にぶつかるあたりから小立野台地にかけて各種の学校が軒を連ね、時間帯によって街の中心部が学生や生徒で埋まり、兼六園には男女の学生がたむろした(以前は無粋な入園料はなかった)。

 戦後は金沢城址にあった軍隊もなくなって大学本部やいくつかの学部がそこに移り、一層学園都市の雰囲気が濃くなった。金沢は軍服の「兵隊さん」と弊衣破帽の「学生さん」の街から、弊衣破帽の「学生さん」の街になった。岡山大学の研究室は18の指標で評価したというが、細かいデーターは別にして、街の雰囲気がそうであり、アルトハイデルベルクを思い出させるものがあった。だが今は、大学の中心が郊外に移転して雰囲気が変わったと嘆く卒業生もいる。

(七)西田と中野

 西田幾多郎は1870年生まれ、石川県師範学校を経て石川県専門学校に入学(1886年)、ここで先に述べた北条時敬の薫陶を受ける。北条は自由民権運動に共感した進歩的思想の持ち主だったという説があるがよくはわからない。       

1887年、石川専門学校は官立に移管されて第四高等中学校に。帝国大学設立に伴って各地の高等中学(後の高等学校)を、明治政府主導の国家主義体制に組み込み政府の直接管理下に置かれた。伊藤博文首相、森有礼文部大臣のときである。四高にやってきた校長や主要幹部はみな薩摩人だった。従来北陸は浄土真宗の王国である。一方で薩摩の島津藩は、16世紀末以来浄土真宗を禁制にし信徒を弾圧した。天保の法難では14万人を捕縛したという。四高開校式では、幾多郎たち生徒は、森文部大臣や柏田校長(ともに薩摩出身)らを金沢市から5,6キロ離れたところまで迎えに行き、雨の中半日あまり立たされたという。加賀藩の藩校の伝統であった師弟関係はくずれ、規則ずくめの学校に変わった。四高に居場所を失った幾多郎は退学した。やむを得ず帝国大学文科大学哲学科選科に入学したが、そこでは選科生として徹底的な差別を受けた。幾多郎はそれを縷々と書いている。

西田は晩年を鎌倉に居を構え、そこを、そしてその海を愛した。彼は家庭的に度重なる不幸に見舞われ、学業と職歴では不遇だった(後半ば別として)。故郷を「死の国の入り口」と評しながらも「なつかしく思う」と言った。

中野重治の学生生活はそれに較べるとはるかに良かった。しかし彼は郷里に戻ることはなかった。丸岡城の天守閣を望む高椋村一本田(現在、坂井市丸岡町)に生家があった。その所有田を年老いた妹の鈴子が耕していた。鈴子は詩人でもあった。

   「わたしは深く兄を愛した」

  わたしはひとりの兄を愛していた   兄は革命的働き手として 多くの仲間とともに牢獄の壁の中にいた  面会に行くと青ざめたむくれたかおで立っていた  破れた着物がめだった  ただ目だけは常にうるおいをたたえて  

  しずかに光っていた  わたしは彼のまなざしの中につよい精神の力をかんじた  わたしは深く兄を愛した             (以下 略) 

重治は郷里には戻らなかったが、講演や座談会のためにしばしば福井を訪れた。三国の海は近い。彼は郷里の海を「美しいぞ」「なんともいえぬ暖かいもの」と感じていた。そして彼が唯一作った校歌が、郷里の竜北中学校校歌である。

  耳はかたぶけよ 吹雪のこえに そこに生まれし ゆたかなる 野の子

(八)海の共同体

下は近年発表された都道府県別生活ランキングである。

○学力テスト(2013年、文部科学省全国学力テスト)

1位 秋田県、2位 福井県、3位 石川県、4位 青森県、6位 富山県

○体力・運動能力、運動習慣調査。

1福井、2秋田、3千葉、4新潟、5茨城、6石川、7宮崎、8岡山、10富山

○全国幸福度調査(法政大学、2011年)

1福井、2富山、3石川、4鳥取、5佐賀、6熊本、7長野、8島根、9三重、

10新潟

人々は疑う。「裏」は近代化に背を向け、文明から取り残されたもの、内向するもの、マイナス・イメージであり、日本の近代は「裏」を排してひたすら外を向き、変化を求め、都会を目指し、未来を志向してきたのではなかったのかと。

多分その通りだろう。その結果が上記のランキングに具現したのだろう。いろいろな解釈が行なわれ、また批判もある。ある人はこう言っていた。福井の幸福度が高いのは、ブータンのように民度が低いからだと。合理的・近代的解釈というべきか観念的というべきか。

2014年2月、「表日本」は記録的な大雪になった。人々は誰いうともなく自発的に除雪道具、中には塵取りを持って表に出て、協力して雪かきを始めた。すぐ近所なのに始めてお目にかかる人が何人もいた。車が通れるほどに道が開けられ、人々は顔を合わせて嬉しそうだった。そういう風景を眺めていて、北陸の人たちには、まだ共同体の心根が残っているのだろうなと思った。

 国家間にも共同体があればいい。現在の欧州連合は欧州共同体から発展した。まだいろいろな問題・課題を抱えている。だが、武力を用いないで問題解決を図ろうという共通意識は生育しつつあるように思える。アジアにはまだ共同体もない。とりあえず、東アジア共同体をつくろうではないか。日本、韓国、(北)朝鮮、ロシアでまず作る。これらの国が囲んでいる海は日本海ではなく、「平和海」でなければならぬ。