静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

自誌(4)夢よ破れな

2012-01-24 13:18:34 | 日記

(一)東洋平和?
 1月17日は不吉な日である。貫一がお宮を蹴飛ばした。イラク戦争が始まった。
阪神淡路大震災が起きた。この1月17日、無理にさそわれて「北京古宮博物院20
0選」展を見てきた。9時半の開門時間に間に合うように出かけたのだが、案の定す
でに数千人の行列。皆のお目当ては前評判の「清明上河図巻」。その展示室にたどり
着いたのは3時間後。5メートルほどの長さでガラスケースに納まっているのを1列
に並んで順に上から眺める。少し間が空くと係員から「詰めてください」。ほぼ4分
ほどの鑑賞であった。3時間並んで4分。見終ってそれ以外の展示を見て回る。9時
半に入門して退場したのが午後4時、その間20分ほど座って休憩した。それ以外は
立ちっぱなし、足が文字通り棒のようになり退散することにした。この長さは人生初
めての経験? やっぱり受難の日だった。絵の善し悪しを評する資格など私にはな 
い。ただ、感じたことを1つ2つ。

 ここに展示されている絵画は恐らく東洋の絵画を代表するような絵画だろう。私は
前にドイツの実術史家ザントラルの言葉をめぐっての絵画論の一端を紹介したことが
ある(ブログ「『影の歴史』に寄せて」)。も一度その要点を述べる。
 ザントラルはいう「中国人の絵は何ら陰影をもたない輪郭だけしか再現しない、量
感を生み出そうともしない、空間の奥行きを表現する方法をしらない・・・」。
 これに対しストイキツァーは「西洋美術と比べれば、中国美術は『その他の実術で
ある』、中国美術が『異なっている』理由は、それがヨーロッパの規範を無視してい
るからだ」と反論した。私はこれは「無視している」のではなく別の世界に、違った
価値観の世界を築いてきたのだ」と評を加えた。
 私は中国の国宝級の絵画をこんなに沢山一挙に見たのは初めてだ。私の見た限り確
かに影は描かれていなかった。私は同行者にそのことを指摘してみせたが、全く無反
応だった、というより怪訝な顔をされた。中国絵画を鑑賞するのに陰影などは問題外
なのだ。そもそも日本人は影のない絵画に親しんできた。東洋絵画は陰影をつけなく
ても空間の奥行きを描く方法を見いだしているのだ。
 西洋人から見ると、西洋の絵画の発展が正常な発展のように思えるかも知れない
が、われわれから見れば、東洋の絵画の方が正当な、まっとうな発達の歴史を辿った
のではないかと思えるのである。
 評する資格などないことははっきりしているが、「清明上河図巻」について1つだ
け感じたことを。この絵の写真などあちこちに出ていていたが、本物は全くと言って
いいくらい違った。本物と写真や複写が違うことは昔から明らかなことではあるが、
改めてそう思った。それなのにたった4分間、情けない。作者は張択端という人だそ
うだが、彼は何を考えながら描いたのだろう。推測はできるが、そんな推測はほとん
ど当たらないだろう。

 感じたことのもう1点は「図巻」のこと。わが国では「絵巻」というのだろうか。
「長江万里図巻」というのもあった。これは15から20メートルくらいはあったろ
うか。それ以外にも「図巻」はいくつもあった。「図巻」以外に「詩巻」というのも
ある。
 西洋でも古くから巻物はあった。しかし横ではなく縦に巻く。西洋の文字はは昔か
ら横書き、中国では縦書き。これが決定打になったのだろう。東洋の横巻きの絵画な
ら、長江を行く皇帝の大船団を一望に描ける。何百メートルに及ぶ軍団の入城をも俯
瞰できる。一巻に収めることができる。縦巻きならできない。そんなことは日本人に
はわかっていることだ。しかし西洋では考えられないだろう。絵巻の一部を切り取っ
てその部分を絵にして壁に掲げるか直接壁に描くしかない。縦長の絵巻に相応しい画
題は芥川の「蜘蛛の糸」とか「ジャックと豆の木」か? あるいは「天孫降臨図」か
? 私は「図巻」を見ながら改めてつくづく思った。空間的奥行きを描くのにどちら
が有利か・・・。

(二)満蒙開拓者
 たまたまドラマ「開拓者たち」の最終回を見た。そんなドラマがあることも知らな
かった。わたしはすぐ、ある詩人(加藤秀雄)の一つの作品を思い出した。

        移民
 祖先の墓の埋もれている/ふるさとよ。/帰る日 期せず/また ふたたび
  土地のない/水呑み小作/そのみじめさに/憧れる”大陸”/夢よ破れな
 はなやかに/テープはためき/やがて切水/船、いま岸壁を/ゆっくりと離れる
 顔も服も/よこなぐりの雨にズブぬれだ/それもかまわず/わかれの旗を- 

 「農家のおばさんがリアカーで野菜を売りにくる、だけど、どれも安くて安くてた
だみたい。あんまり気の毒で、たくさん買ってあげようと思うけど、そんなに沢山は
必要ないしね・・・」と困ったような顔をする。
 子どものころ、何回もそういう話を母から聞かされた。昭和3年の農業恐慌の頃の
話である。それから2年後、世界恐慌のあおりで、機織り工場を経営していた母の実
家が倒産した。工場も家屋敷も手放した祖父は、いわば下町の小さな家に引っ越し、
酒をあおって無為の日を送っていたらしい。
 昭和6年、いわゆる「満州事変」が起きる。「起きる」というのは庶民の感覚で、
「地震が起きる」というようなものである。政府の権力者・高級軍人は「起こした」
のである。「満蒙開拓団」がどんどん送り込まれてゆく。私は戦後「満州」から帰国
した人を何人も知っている。だが、一度も「満州」時代のことを聞いたことがない。
あえて聞かないせいもあるが・・・。
 一度だけ関東軍の兵士であったT氏に、兵士としての立場からの話を聞いたことが
ある(ブログ「タシケントの日本人捕虜」参照)。その一部を共通語に直して要約す
る。
 「満人は日本の兵隊が恐ろしい、だから小さくなっているんです。日本の兵隊は威
張っていて気の毒なくらいです」「日曜に町へ出るのにも、日本兵は5人以上でない
とだめですね、危ないので。それだけ日本に対して反感を持っているんです。満州国
を承認したのは日本だけ、他にどこも承認していません。はっきりいうと、満州国は
日本のものにしたようなものです。ほとんど日本人が支配しております」「満州には
兵隊の他に開拓団というのがあって、その開拓団も兵隊です。まあいうとね。日常は
畑で仕事をしておる。家に帰ってくると、そこにははちゃんと鉄砲があります。さあ
戦争というと、その人が出る。そういう訓練しています。そういう人たちも、いざと
なると、鉄砲持って出なければならないんです、命令が出ればね」
 T氏は普通の農家の人であり、当時一等兵だったと思う。特定のイデオロギーを持
った人ではない。だから、以上の感想は一般的・平均的な日本兵の感触だと思う。
 最近、大平洋戦争に乗り出したのは石油の供給を絶たれたのが原因だという論調を
、新聞や研究書などでいくつも見た。まことに微視的な見方である。T氏は、「満州
国」をでっち上げたがどの国も承認しなかったといっている。国際連盟の席を蹴って
出たのは日本である。その以前から孤立の道を歩みはじめた日本が、本格的な孤立へ
と進んでゆく。今日、イランの石油を買うなという圧力をかけている国がある。売ら
ないも買わないもともに圧力である。
 「満州」民族は大清帝国を築いた民族である。今回の「古宮博物院」展で清国の見
事な芸術作品に接することができたのは幸せなことであった。

(三)「黄金狂時代」
 私は昭和17年4月、A中学に入学した。この中学は昭和2年設立、初代校長は退
役陸軍少将武川寿輔、乃木希典軍に加わり203高地で負傷したという触れ込みの人
物。203高地というのはいうまでもなく中国「満州」の領土。A中学は、A城本丸
跡に鉄筋コンクリートでゴチック式の威厳のある3階建ての校舎であった。校門近く
の道路脇に小さな公園があり、そこに山鹿素行の胸像が立っていて、近所の小学生は
その像によじ登ったりして遊んでいた。だが中学生は登下校の際その胸像の前で挙手
の礼をする。像に登って遊んでい小学生も、中学に入るともったいぶって敬礼する。
 昭和14年の職員録のコピーが手もとにある。全職員は校長を含めて31人。内訳
は教諭が14人、嘱託(6人)校医(3人)将校(2人)書記(1人)などが17 
人、計31人。うち教諭2人、その他で4人、計6人が応召中・・・随分高い比率で
はないか、日中戦争始まってすぐなのに。教諭が応召されるとすぐ後がまを探さなけ
ればならない、嘱託で我慢するということになる。その嘱託がまた応召される、また
その後がまの嘱託を探さなければならない。ほとんどが「満州」を含めた中国に出征
したのだろう。
 ついでに、職員の本籍をみてみる。全職員のうちA中学の所在県に本籍のあるもの
14人、県外は17人である。戦後の今日、教員の人事権は各自治体の教育委員会に
あるので他県にまたがっての転勤はない。他県に行きたいなら、一度退職して希望す
る自治体の採用試験を受けるしかない。運が良ければ合格と採用という関門をくぐる
ことができる。しかも多くの自治体で年齢制限(多分34歳か35歳)しているの 
で、他県への異動はとても困難。他県との交流はほとんどできない。
 戦前は違った。小学校のことは知らないが、少なくとも中学では他県への異動は自
由だった。だからA中学の職員の半分以上が他県出身者で占められていても不思議で
はない。よくは知らないが中等学校教員には奏任官待遇と判任官待遇があったようで
、すくなくとも奏任官待遇の辞令は内閣総理大臣の名で出されと思う。実際は校長が
全国の教員名簿から選んでうちへ来てくれないか、これだけ給料を出すからと交渉し
た。給料額は校長の裁量で決めることができる。各学校に予算の割当があったらし 
い。今で言えば、プロ野球選手のスカウトみたいなものか。先のA校の名簿を見る 
と、鹿児島県、宮城県、長崎県、新潟県、千葉県、島根県、広島県、大阪府など、全
国的規模で集まってきていることが分かる。
 戦前と戦後の、この教員採用の違いをどう見るか。教育の自由とどう関係してくる
のか。戦後の今日の、文部省(文科省?)の指導要領にがんじがらめになり、教育委
員会と管理職(校長・教頭)の顔色を伺わなければならない教育と比べて、戦前の教
師の教育における自由度はどうだったのか。表面的な「縛り」と実質の「自由」と実
体はどうだったのだろうか。そういう研究もあるのだろうが、一般には知られていな
い。
 それはさておき、この学校では生徒の四分の一、約100名が寄宿舎生で、彼らの
手で運営された。その寄宿舎で、土曜の夜ときどき映画鑑賞会が開かれる。予算の関
係だろう、無声映画ばっかりだった。小学生の私はときどきその映写会にこっそり潜
り込ませてもらった。弁士は国語の教師。伊丹万作の時代劇などや西洋の名画だった
と思う。雪の山小屋に閉じ込められたちょぼ髭の男が空腹に耐えかねて自分の靴を煮
て、そのひもをフォークでくるくる巻いて食べる・・・戦後何年もしてうす暗い映画
館の中でそのシーンに再会することができた。                                 


自誌(3)伊藤先生

2012-01-15 16:54:09 | 日記

   (一)日の丸
 大臣などが記者会見するため壇に上がるとき、正面に掲げられた日の丸に最敬礼す
る光景はすっかり見慣れた。日の丸は、赤い丸が描かれた布地である。つまり物質、
物体である。それに最敬礼する。その大臣がその日の丸に敬意を抱いているか、崇拝
しているかはわからない。しかし、ありていに言えば「物神崇拝」みたいなものであ
る。
 M小学校2年のとき日中戦争が始まった。教室で一人一人が小さな日の丸を作っ 
た。紙や棒は支給され、クレヨンで赤丸を書いた。それをかざしながら、先生に引率
されて駅に出世兵士を送りに行った。「勝ってくるぞと勇ましく」や「天に代わりて
不義を討つ」で始まる軍歌、「天皇陛下のためならば何の命が惜しかろう 死んで帰
れと励まされ」と歌いながら激しく日の丸を振る。ときどき旗が根元からち切れてし
まう。半年が経ったその冬は大雪だった。屋根下ろしされた雪が、道路いっぱいに一
階の軒の高さまで達する。その高みにできた細い道を、長靴に藁縄を巻いて歩く。手
に持った日の丸は学校に帰ってきてゴミ箱に捨てた。次に行く時にはまた作る。
 箱根駅伝で最終ランナーがゴールインする場面を見た。沿道に応援する人たちは手
に手に日の丸を振っていた。終わった後、あの日の丸はどうするのだろう。もし日の
丸が、大臣が最敬礼しなければならない程のものなら、あの日の丸の数ほど、人々は
最敬礼をしなければならない。それとも、あの大臣が上がる壇上の日の丸と、一般市
民がうち振る日の丸とは価値が違うのだろうか。

 転校してきたA小学校には体育館も講堂もなかった。全校集会は校庭で行う。校舎
は南面、その前に校庭、生徒は校舎に向かって並ぶ。全校生徒が号令によって右を向
く、つまり東を向くと、そちらに奉安殿、つまり天皇と皇后の写真(御真影)の格納
庫と日の丸や校旗の掲揚台が設置してある。何のために東を向くかというと、東の方
角に宮城(皇居)があるからである。つまり、宮城遥拝のために向くのである。これ
が新潟県なら南を向くだろう。宮城には生身の、つまり写真でない本物の天皇がおわ
します。この儀式の時には当然のことながら奉安殿の扉は閉まっている。日の丸が掲
げられ君が代がスピーカーから流れる。一同は日の丸に最敬礼しているのではない。
御真影にでもない、遥か遠くの宮城にいます天皇に最敬礼をするのである。日の丸は
儀式のための飾り物にすぎない。A小学校の東は田んぼが広がりその向こうに民家、
その先遠くに低い山があった。これが、校庭の隣に高いビルが建っていたり質屋の看
板があったりしたら、宮城遥拝といっても、それらに礼拝しているようでさまになら
ない。
 私の記憶する限り、日の丸に最敬礼をしたことはない。日の丸はその場を飾り盛り
上げる道具に過ぎなかったのではないか。日の丸に文字を書いたり(出征兵士に贈る
日の丸に寄せ書きをするのは当たり前だった)、鉢巻きにしたり、最後は手ぬぐい代
わりに使ったりしたのだろう。

 ドラマ「水戸黄門」で、格さんか助さんか知らないけれど、葵の紋の入った印籠を
は高く掲げて「このご紋が目に入らぬか」というと、悪者どもがみんな跪く。葵の紋
は徳川権力の象徴であった。今日では大きな日の丸を背にして政府高官が「直ちには
健康に被害を与えるものではない」などと言う。日の丸を背負った偉い人が言うのだ
から間違いないだろう・・・。

 印籠は単なる物質に過ぎない。象徴は視覚で捉えられないものを、他の物質によっ
て視覚化する。校旗や校章などはその例である。現在、日本国・日本国民統合の象徴
は天皇という生身の人間である。明治憲法では、天皇は「元首にして統治権を総覧」
した。宮城はその象徴の一つだった。だから宮城礼拝には意味があった。敗戦時、何
人もの高級軍人が宮城前で腹を切った。御真影は象徴ではなく文字通り「真の影」で
ある。だから校長は死を賭してでも御真影を守らなければならない。日の丸を死を賭
して守った話など聞いたこともない。体育館で紀元節や天長節などの儀式をおこなう
とき、正面に安置された御真影に最敬礼し、校長の「教育勅語」朗読は鼻水をすすり
ながら聞いた。式場の真正面に日の丸が掲げられた記憶は全くない。むかし海上で国
籍を示す目印に日の丸を使った。目印であるからそうと決めれば何でも良かった。
 日の丸が最敬礼の対象になったのは戦後で、それはアメリカの影響だと思う。アメ
リカ合衆国で国旗がどのように扱われているか、どうしてそのように使われるように
なったか、そのいきさつはよく知られているところだ。

(二)伊藤先生
 伊藤先生は師範を卒業したばかりの、背の高い颯爽とした青年教師だった。卒業ま
で3年間受け持ってもらった。

 あるとき伊藤先生は国史の時間にこういう質問をした。「楠木正成と平重盛とどち
らが偉いか」。当時は、足利尊氏や平清盛は最大の逆臣であり、楠木正成は最高の忠
臣だとされていた。子どもにとっても常識だった。重盛は天皇への忠誠心が厚かった
ので、父清盛への孝行と天皇への忠義との間に挟まれて苦悩した話をした後の質問だ
った。私は大いに迷ったあげく、重盛の方に手を挙げた。重盛に人間味があると思え
ること、日本一の忠臣正成とあえて比較するのだから、先生に何か意図があるのでは
ないかと勘ぐったからである。
 重盛に手を挙げたのは私一人だけだった。実にバカなことをしたものだ。先生の腹
を探ろうなんて。こっぴどく叱られた。当然のことだ。重盛を評価しているなどと風
評が立てば、伊藤先生は苦境に陥ることは間違いない。先生のミスだ。こんな質問は
してはいけないのだ。

 あるとき先生は、「神棚のある家」「仏壇のある家」「両方ある家」それぞれ手を
挙げさせた。「どちらもない家」、これは私一人だった。先生は私の顔をじっと見つ
めたが、それきりで終わって何も言わなかった。どちらもない家など想定していなか
ったに違いない。先生は言いたいことも言えなくなった、私一人のために。みんなも
拍子抜けのような顔をしていた。申し訳ないことをした。
                                               
 あるとき先生は「歴代天皇の名を覚えてこい」と言った。それを点検する日がき 
た。伊藤先生は数人指名して言ってみさせた。全部言えた者は一人もいなかった。指
名されたらどうしようと思っていた私は胸をなで下ろした。天皇名の暗唱点検はそれ
で終わり、伊藤先生は二度とそれには触れなかった。

 あるとき、「視学」(今でいえば教育委員みたいなもの)(「視学」だったという
のは筆者の推測)の授業参観があった。伊藤先生は緊張していた。前日授業の予行練
習が行われた。先生の質問に挙手して答える顔ぶれも決まった。さて当日、何人もの
人たちが後ろに立っているのは気配で分かった。山場にきて先生が例の質問をする。
驚いたことに予定されていたメンバーが誰も挙手しない。再度先生が促しても同じ。
焦った先生の顔。仕方ない、私は低い声で「ハイ」と言って手を挙げた。そのときの
先生のほっとした表情。私は日頃から先生の顔色を伺うことに慣れていた。
 翌日授業開始前、教壇の傍にある先生用の机で何か整理しているような格好で、わ
れわれには横顔を向けたまま「外山(筆者のこと)は体は小さいが肝っ玉が座ってい
る。潜水艦乗りになるといいな」。そのあたりにいる生徒たちに聞こえるような声で
一人ごとを言った。私はおっ魂消げたが、悪い気持ちではなかった。シャイな先生の
精一杯の謝意なのかなと思った。

 あるとき、先生は私ともう一人の生徒を放課後に残し、天満宮の祭りに展示する絵
を描くよう命じた。そして自分は所用で出かけるので隣のクラス担任の指示に従うよ
うにと言って出かけた。隣の担任は花瓶に生けた百合の花を持ってきて、それを写生
するようにと言った。小学5年の時だったと思う。百合の花なんてとても難しい。単
純なものほど描きにくい。不満足だが仕方ない。
 それ以前に、慰問袋に入れる絵を画くよう言われていた。わが家の壁に飾ってあっ
た絵を模写した。荒波の洋上で難破しかかっている帆船の絵である。戦地に送るのだ
から模写でもいいだろうと軽んじる気持ちがあった。翌朝、百合の絵とこの難破船の
絵を伊藤先生に提出した。最初に百合の花を見た先生は渋い顔をしたので肝を冷やし
た。だが次に難破船の絵を見てにっこりして、ご苦労さんとか何とか言った。
 天満神宮の祭りの当日、展示されている絵を見に行った。どうだろう! 百合の花
ではなく難破船の絵が飾られていた。先生がこの絵を見てにこっとした理由が分かっ
た。百合の花は戦地に行ったのである。

(三)綴り方教室
 担任の先生が休みのときは、校長か教頭が話をしてくれることが多かった。みんな
面白かった。教頭先生の「イルカ」の話など今でも覚えている。
 伊藤先生も昼休みの時間を利用して本を朗読してくださった。猿飛佐助や太閣記な
ど。どうも講談本だったらしい。どういうわけか太閣記は途中で朗読を止めてしまっ
た。私は母に太閣記を買ってくれとせがんだ。買ってきたのは吉川英治の『新書太閣
記』第1巻だった。これしか売っていないという。不満だったが読み始めるととても
面白い。ちょうど『新書太閣記』が単行本として出版されたばかりの時だった。2巻
目からは本屋さんが順次配達してくれた。それがどれほど待ち遠しかったことか。本
を開くととてもいい匂いがする。香水でもつけているのかなと思った。今までの生涯
で、こんなすばらしい香りのする本にはお目にかかったことはない。
 戦後焼け跡ばかりで本がないとき、私がこの本を持っていると聞いたF中学のK校
長が貸してくれと言ってきた。私はそのころ、「本は絶対他人に貸してはいけない、
決して返って来ないから」と書いてある本を読んだ。誰の何という本だか忘れたが、
田中菊雄の本だったかも知れない・・・これには自信がないが。だから本は貸さない
ことにしていたが、どうしても断りきれない人もいる。結局、ついに返って来なかっ
た。

 伊藤先生は「綴り方」の時間には「面白い本」ではなくて、真面目な「綴り方」を
読んでくださった。誰の書いたものか、今はわからない。だが、そこに書かれていた
のは私には想像もつかない極貧の、惨めな生活であった。ショックだった。これが生
活綴り方運動と関係があったのかどうかは知らない。だがこれは紛れもなくその運動
の中から生まれた文章であったと、私は今は確信している。周知のようにこの運動は
日中戦争勃発直後あたりから弾圧され逮捕者も出た。教室でそれを読むことは危険で
はなかったのか? もちろんその頃の私は、そんなことは露ほども知らない。
 昭和16年の夏、A町ではパラチフスが大流行した。秋になって下火になったが、
私はその秋になってから罹病してしまった。町はずれの田んぼの中に建つ僻病院に入
院した。広い病室に患者は私一人ベッドに横たわった。毎食与えられるのはリンゴを
すり下ろしたもの、それに梅肉エキス。それ以外は薬も何も与えられない。腹が減っ
て腹が減ってどうしようもない。医者は、パラチフス菌も兵糧攻めにして殺してしま
おうと思ったのだろうか。通知表を見るとそのとき35日欠席している。ほんの最後
の頃になってお粥が与えられ、少しずつ元気を回復した。しかし退院するまでベッド
から一歩でも下りることは許されなかった。
 病室に付添人の寝泊まりする部屋があり、祖母が来てくれた。祖母は林芙美子の『
放浪記』を持ってきた。中央公論社の分厚い文庫判だったと思う。祖母は子どもの読
む本ではないと取り上げようとしたが私は読んだ。驚くべきめちゃくちゃな貧困と混
濁の生活が展開していた。私がこの本を読み切ることが出来たのは、伊藤先生の綴り
方教室のお陰だと思った。
 退院後私は自分が変わったと感じた。もう子どもではない! 学校では中学受験志
望者対象に課外授業が始まっていた。私もその授業に出たが、場違いのような感じを
受けた。12月8日、朝礼があった。校長は日米の戦争が始まったことを告げた。あ
んな大きな国と戦って勝てるはずがないと瞬間思った。だが、続いて真珠湾攻撃で多
数の米軍艦を撃沈させたと聞いて、勝てるかも知れないと思い直した。今の言葉でい
えば、マインドコントロールされたのだ。課外授業はいつの間にか廃止された。筆記
試験ではなく口頭試問になったのである。私はA中学に入学した。               
                   


自誌(2)白いめし

2012-01-08 19:10:38 | 日記

    (一)白いめし
 今までの生涯でいちばん美味しくて記憶に残る食事は1943年の早春にご馳走になっ
た握り飯である。白いごはん、何も入っていない、ただ塩をつけて握っただけの握り
飯。
 勤労動員で近傍の山村に出かけた。春浅く山には残雪が。かねて切り倒してあった
丸太に縄をかけて引っ張り、林道を滑らせて麓に下ろす。その昼食に振る舞われた。
もう長い間白いご飯など食べていなかった。恐らく大きな釜で、薪を使って炊いたの
だろう。その一粒一粒の美味しいこと。それを腹いっぱいに。仕事が終わって帰ると
き、土産に余った握り飯を3個ほど貰った。中学2年の終わり頃か3年の初めの頃で
ある。

 中学3年の秋、学業は中止になり、市の外れにある大きな工場に毎日出勤? する
ことになった。私の割り当てられた仕事は旋盤。といっても素人、やっと慣れてネジ
を切ることが出来る頃には春になっていた。ここの昼食はお粗末ながら少しばかり干
物の魚などが出て、雑炊やすいとんなどしか食べていない家族に申し訳なく思ったこ
とを思い出す。
 4年の新学期からは、T市から汽車で2時間ほどのH町にある工場へ。大きな紡績
工場が軍需工場になっていた。正門を入ると広い前庭、その左右に寄宿舎、正面は本
部の建物。私たちT中学生2クラスは右の寄宿舎2階の部屋に割り当てられた。私た
ちはこの工場では働かず、ここから徒歩20分ほどの町はずれ、水田の中にある分工
場に通った。
 ここの食事は大豆だらけの黒い飯がアルミの皿に手のひら一杯分ほど、最初は漬物
なども出たが、戦局が悪くなるにつれてだんだん悪くなってきて、その「犬のめし」
に得体の知れない海草が少し浮いた塩汁だけ・・・。
 ある日誰かが「兵隊は白いめしを食ってるぞ」と言い出した。工場には兵隊がいた
。10人か20人か?。多分小隊くらいはいたのだろう。何をしているのかはわからない
。働いていないことだけは確か。まあ、工員や学徒の監視役だとは想像できたが。
 われわれは順ぐりに2・3人ずつ炊事場の傍の道を通って観察に出かけた。私も行
った。夏なのでドアは開け放し。ちょうど大きな釜から炊き立てを掻き出すところだ
った。ゆっくり歩きながら横目で眺めた。「白いめしだ!」、それは真実だった。話
によると兵隊は「肉」も食っているという。そして、「羊羮」も食っているぞという
ことになった。
 毎朝寄宿舎から分工場まで隊列を組んで通勤した。ときどき兵隊、多分下士官がつ
いてくる。軍歌をうたわせようとする。しかし誰も歌いたくない。口の中でもぐもぐ
言うだけである。到着すると工場前の広場に集合。兵隊たちは私たちに「動作が遅い
」とか「元気がない」とか「駆け足で集まれ」とか気合いをかける。我々はろくな飯
も食わさないし、いつも腹が減っている。「お前たち兵隊は腹いっぱい白い飯を食っ
ているくせに」と、心の中は不満だらけ。兵隊が敵に思えてくる。
 毎朝、演台に立って、どこかのおっちゃんが演説。勝利の日まで頑張ろうとか、一
億玉砕とか訳の分からぬことを言う。われわれはこの人に「ボルネオのタコ」という
綽名をつけた。誰かが「ボルネオのタコ」の弁当を覗き見したらしい。「これくらい
の弁当に(指で5センチほどを示し)白い飯がいっぱい詰まっていたぞ!」

(二)ブンガワンソロ
 ある朝、珍しく演台に工場長が立った。「現在この製品を作っているのは、この工
場を含めて全国で三箇所である。国の命運は諸君の双肩にかかっている」。ここで作
っていたのはエンジン用のゴム製の絶縁体と発電機の電磁石などである。私は電磁石
の検査係だったが、戦況が悪化するにつれて仕事が極端に少なくなり、手持ち無沙汰
に座っていることも多くなった。「全国で三つ?」、これで勝てるはずはない、もう
確信に近かった。毎日のようにB29が飛んできるようになった。高射砲を打ち上げる
が、白い煙がB29のはるか下の方で徒にはじけるだけだった。こんな状況で日本が勝
てると思った人はいるのだろうか。戦後、8月15日まで負けるとは思わなかったとい
う手記を沢山見たが、私にはそれこそ信じられない。
 隊列を組んで工場に通ったと先程書いたが、兵隊がついていないことが多かった。
すると軍歌など誰も歌わない。隊列の何人かが歌い出すのは「ブンガワンソロ」(イ
ンドネシア歌謡)とか「ラバウル小唄」とか「上海の花売り娘」などである。唱和す
る級友も増えてくる。とにかく彼らよく歌を歌った、力強くではなく、力弱く。特に
印象に強かったのがこの三曲だ。

「ブンガワンソロ」(クザン作詞作曲、松田トシ日本語作詞)
ブンガワンソロ 果てしなき 青き流れに 今日も祈らん 
ブンガワンソロ 夢多き 幸の日たたえ 共に歌わん
聖なる河よ わが心の母 祈りのうたのせ 流れ絶えず(以下略)
「ラバウル小唄」(若杉三郎作詞、島田駒夫作曲)                             
    さらばラバウルよ また来るまでは しばし別れの 涙がにじむ 恋し懐かしあ
の島見れば 椰子の葉かげに十字星(以下略)                               
            「上海の花売り娘」(川俣栄一作詞、上原げんと作曲)
紅いランタン 仄に揺れる 宵の上海 花売り娘 誰のかたみか 可愛い指輪 じっ
と見つめて 優しい瞳 ああ上海の 花売り娘(以下略)                            

 なんと退廃的、なげやり的な歌であり、また歌い方だろう・・・そう感じた。まる
で、死への、敗戦への道行きの歌のように思えた。一億玉砕への道行きだ。一億玉砕
とは、国民、いや日本臣民全部が死ぬことである。一億の中に天皇陛下は入っている
のだろうか?日本人がみんな死んだら天皇はどうなるのだろうか?

(三)霧の雨
 ある日、隣のクラスの級長Y君が、工場でふとしたことで大火傷をした。近くのF
市の病院に運ばれた。その一か月ほど後、F市は大空襲によって消失した。2日後彼
の遺体が丸い縦長のお棺に入れられて私たちの寄宿舎に運ばれてきた。彼の家のある
T市はすでに廃墟となっていた。お棺の蓋がきちんと閉まらず、彼の頭が少し覗いて
見えた。遺体は町はずれの火葬場に運ばれ、読経の声のなかで荼毘に付された。
 霧のような細い雨が降っていた。その霧雨のなかを、紫煙が這うように流れて行っ
た。彼は三度も火に焼かれてしまったのだ・・・。
 
 この年は冷夏だった。Y君を見送ったのは日曜、この日も肌寒かった。工場は日曜
は休日、何をする気にもならず、部屋の壁にもたれてぼんやり過す。この寄宿舎のこ
の部屋に割り当てられて入ったのは4月初旬。部屋に入ってすぐ分かった、これは『
女工哀史』の女工たちの部屋だったと。だが、女性の匂いなど何もなく、殺風景な四
角の部屋だった。窓外には高いコンクリートの塀がみえる。こんなに高ければ女工た
ちが逃げ出せないのも当然だ。俺たちだって逃げ出せやしない。逃げても行くところ
など何処にもない。
 梅雨はもう上がってもいい季節なのによく降る、それも細かい雨が。なんの気力も
沸かず、外を眺める。同室の級友も今はほとんど話もしない。黙り込んだまま。誰も
が戦争の行く方が気にかかる筈だが、みんなそんなことはおくびにも出さない。お互
いに何を思っているのかも分からない。そういう中でのY君の死だった。自分の家が
灰になった友も沢山いた筈だ。誰も語らないが家族や親族に死傷者も出たかも知れな
い。
 そんなある日、コンクリートの厚い塀を眺めながら、ふと自殺を思った。こんなと
き人は自殺するんだろうな・・・。幸いなことに自殺の手段が見つからない。
 我々が通っている分工場では、男女合わせて100人余りが東京から機械とともにこ
の地に疎開してきて、近所の農家に分宿していた。ある日曜日、従業員の一人が工場
の裏手にある池の魚を捕ろうとして池に工場の電線を入れ電気を流した。魚が浮く、
それを拾おうとして手を伸ばす・・・感電して死んでしまった。翌日出勤してその話
を聞き、なんとバカなと思いながらも、哀しい、哀し過ぎる。そのうち、みんな死ぬ
のだろうが、それにしても・・・。
 
 夜半、毎夜のようにB29が頭上を飛んで行くようになった。枕元にズックのカバ
ンと靴を並べて寝た、今夜か明日の夜か。H町は小さいが大きな工場がある。米空軍
が見逃すはずはない。父母や弟妹ともう会えないかもしれない。空襲警報のサイレン
が鳴ると工場の前の道路に集合した。ある夜も飛び出して道路上に整列した。点呼を
とったがY君がいない。その週の担当教諭は隣のクラス担任のY先生だった。すぐY
君を呼びにやった。
 Y先生はY君を整列している我々の前に立たせた。月明かりで姿形はみえる。Y先
生は何か大きな声で叫んで一発げんこつを食らわせた。Y君は柔道部の猛者である。
背も高く頑丈な体つき。小柄なY先生は飛び上がるようにして、もう一発、もう一発
、何かを叫びながらげんこつをふるう。だんだんその声が涙声になる。その声とY君
の頬に叩きつけるその響き、20回ほど、あるいはもっとかも知れない、シーンと静
まった道路いっぱいに響いていった。
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(補)野坂昭如はこの年7月31日このH町に赤ん坊の妹を連れて西宮から疎開して
きた。私たちが夜半空襲に怯えながら道路に整列していた頃である。野坂はそこで妹
を飢え死にさせてしまった。もちろん、私はそんなことを知る由もなかった。