静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

風のプリニウス(4)奢侈禁止令

2011-10-30 15:57:31 | 日記

(一)                                                                 
 フランスの古代ローマ史の泰斗ピエール・グリマールの『古代ローマの日
常生活』(北野徹訳)で描かれている共同浴場で楽しむローマ市民の姿を要約してみ
よう。

 ・・・確かに、ローマ市に住む大多数のローマ人は暇であった。暇を充分持ちあわ
せているのは、貴族、元老院議員、騎士身分の者だけでなく・・・皇帝から小麦・油
・ワインが支給されている市民全員である・・・浴場に長居する習慣が生まれた。共
同浴場は平民の別荘(ウィラ)である。朝の伺候が終わり食糧の購入やいくつかの仕
事を処理してしまうと、そのあと、なにもすることのない長い午後が待ち受けていた
。昼寝のあと共同浴場へ出かける。女性専用の浴場もあった。ない場合は女性専用の
時間帯があった。
 更衣室で服を脱ぐ。まずぬるま湯の温浴室、そして乾式サウナ室へ、汗に覆われる
と冷水室へ、次は熱湯の浴槽に、そこで垢擦りべらで全身を擦ってもらう。最後に冷
水プールで体を引き締めて終わる。浴槽が広いと少し泳ぐ。また、マッサージ師の世
話になる。
 時間があれば何人かの仲間と入浴し、とめどもなくおしゃべりをする。あるいは寝
そべって日光浴をしたりボール遊びをする。庭園の小徑で散歩する。ソーセージやケ
ーキの売り子、居酒屋のボーイたちが独自の調子で客を呼び込む・・・。

 ティトゥスの大共同浴場、トラヤヌス共同浴場、ディオクレティアヌス共同浴場、
ネロの共同浴場などが有名だが、カラカラ帝の浴場跡は今もなおその面影をいくらか
残している。とてつもなく巨大な浴場だ、信じられないくらい。まるで城塞の跡み
たいだ。それ以外に私人の経営による浴場もあった。これらの浴場はたんなる衛生施
設ではなく、娯楽場であり社交場だった。ローマ市民にとってこれは奢侈でも何でも
なかった。プリニウスも奢侈だとは言っていない。ローマ市民の日常生活の一部にな
ってしまっている。皇帝もしばしば入浴にやってきた。小説では、浴場のネロ帝をみ
て、市民たちがそのあまり美形でないネロの体型を笑っているという描写があるが(
モンテイエ『ネロポリス』)、皇帝が共同浴場に現れること自体は何らニュースで
もなんでもない、日常的なことだった。 こういう話は、書物やテレビやいろいろな
情報源で日本人には馴染みの話ではあるが、何度読んでみても、2000年前にこう
いう世界が展開していたことが信じられないくらいである。筆者も一度くらいはこの
ような浴場に入ってみたかった。戦後、日本のあちこちに「○○ヘルスセンター」と
か称するものができ、中には、「ローマ風呂」とうたって人気を博し、貸し切りバス
で団体客を呼び込んだりしたところもあったが、ローマにはおよそ程遠い。そもそも
ローマには貸し切りバスなどない。

(二)
 プリニウスは少なくともローマにいるときには、共同浴場に行かなかっただろう。
自宅の浴場で間に合わせた。彼の甥の小プリニウスの証言によれば、プリニウスの入
浴というのは実際に湯に浸かっているときのことを意味し、体をこすったり乾かした
りしてもらったりするときには、本を読ませたり書き取りをさせたりしていた。騒音
に包まれた共同浴場ではそれはできない。
 彼の食事はどうか、これも小プリニウスによる。「食事は、古いしきたりによって
軽く簡単なものでした」「彼は普通は冷たい風呂に入り、何かを食べ、短い睡眠を
とりました」「夕食のあいだ中、本を読ませ、手早く覚え書きをつくっていました」
 「古いしきたりによって、軽く簡単なもの」がどういうものか書いてないが、おそ
らくプリニウスが日頃尊敬していたカトー(前234-149)の食事に似たものだったと思
われる。カトーの食事は穀物スープ、豆類、野菜、果物などに若干の肉類や魚が加わ
る程度だったらしい。そもそもローマ人は根っからの農業民で、国王も将軍も自ら耕
していた。自由民はそれぞれ菜園をもち野菜を自給し、余ったものは市場に出して家
計の足しにした。しかし、プリニウスの頃にはすっかり様相が変わっていた。飲み水
にも、食べる野菜にも階級の差別ができたと彼は嘆いている。

(三)
 一世紀の頃、つまりプリニウスの頃の一般市民の普通の生活習慣によると、共同浴
場から帰ると夕食が待っていた。ローマ市民は、自宅に友人を招くか招かれるか、い
ずれにしても友人などと共にするのが普通だった。富裕者たちは豪華に、庶民はつつ
ましく。カトーのような質実剛健な典型的ローマ人でもその生活習慣は守っていたよ
うである。
 ローマの饗宴生活については数々の人が書き残している。誇張も多いのでそのまま
信ずるのは危険だが、信じられないほど豪華な食卓から至極慎しい食卓まで多様であ
る。それらはわが国でも詳しく紹介されている。
 中でも有名なのは、ネロの時代のペトロニウスの作品とされる小説『サチュリコン
』の「トリマルキオの饗宴の場」だろう。ローマの桁外れに贅沢な晩餐の描写では右
に出るものはない。ペトロニウスはプリニウスの少し前の人であり有名人だったが、
プリニウスは何も書いてない。
 プリニウスの少し後の風刺詩人マルティアリス、もちろんプリニウスは触れていて
ないが、参考にはなる。マルティリアスの、友人への招待文である。
 まず近所の浴場で入浴を済ませ、食卓についたらまず前菜としてレタス、リーク、
ゆで卵、ヘンルーダを添えたマグロ、チーズ、味つけしたオリーヴの実などを出そう
と書いてある。きわめてありふれた内容である。卵はローマの食事では定番。問題は
その後。君に来て貰うために嘘をつこうと言って、メインデッシュに豪華なメニュー
を並べ立てる。実際にそれらが出たかどうかは不明。だがその友人にとっての最大の
魅力は、マルティリアスが、私は何も朗読しない、だが君は気のすむまで自作品を読
んで聞かせてくれたまえと約束したことだった。
 宴会の席で、自作を著名人に聞いてもらうことは、文人にとっていかなるご馳走よ
り魅力的なことだった。ローマには各地から文筆で名を上げようとする人々が雲霞の
ように集まっていたに相違ない。マルティアリス自身がヒスパニアから青雲の志を抱
いてやって来た一人であった。彼は運よく皇帝の寵児となって、著書も売れ、農園も
ある家屋敷を構えることができる身分になった。そのマルティアリスに自作の朗読を
聞いてもらえるのはなんと幸運なことか。
 トリマルキオの饗宴は馬鹿げた乱痴気騒ぎだったが、このマルティアリスの食卓は
静かな落ち着いた宴だったのだろう。
 プリニウスの場合は先にも書いたように「夕食のあいだ中、本を読ませ、手早く覚
え書きをつくっていました」というものだった。本を読ませるとき、同席者もいるこ
とがあった。その友人の一人が、朗読者に、間違って発音したところまで戻ってもう
一度読むようにと言ったとき、プリニウスはその友人に「わからなかったのか」と聞
き、友人が分かっていたと答えたら、「それならなぜ、もとへ戻らせるのだ。君が邪
魔をして、少なくとも10行は損をした」と言ったという。これも小プリニウスが伝
える話である。
 そんな調子で食事をしていたら、料理が何で、いま何を食べているのかさえ気づか
ないのではないか。プリニウスは『博物誌』に食卓の模様を書いていない。日常的な
ことを、普通人が書かないようなことまで記録したが、食卓のメニューや宴会の情景
などは書いていない。
 プリニウスが敬意を表していたキケロは、ある友人に、来る日も来る日も、読書か
著作に没頭し、その後は、友人たちを少しは喜ばせる目的で彼らと食事をする。奢侈
禁止令を守っているのはもちろんのこと、たいていはずっと少ない出費で済ましてい
ると書き送っている。プリニウスと違って、食事中も没頭したとは書いていないが、
ローマの高官でも奢侈禁止令を守ろうとする姿勢があったことを教えてくれる。い 
や、高官だからこそ、かもしれない。トルマキオは成金の解放奴隷であり、その宴会
に招かれた客もほとんど成金の解放奴隷だったらしい。世の中は大きな変革を迎えよ
うとしていた。

(四)
 施政者の人民に対する奢侈禁止令や法は、古今東西を問わず随分昔からあった。日
本では1940(昭和15)年、東京市内に「贅沢は敵だ」の立て看板が立てられ、
婦人団体などが贅沢品全廃を訴え、「欲しがりません、勝つまでは」というスローガ
ンとともに全国に広がり、奢侈禁止令が出た。だがそれは、政財官界の支配層・高級
軍人などには関係ないことだったということはみんな知っている。
 古代ローマでも何回も禁止令が出されている。たとえば前366年頃のリキニウス
法は土地所有の制限を定めたことで知られているが、また、一回の宴会での経費の上
限を定めたという。
 プリニウスは、180年以上も前、クラウディウスが監察官であったとき、ヤマネ
やその他の、言うも愚かなくらい無意味でつまらぬ物を食膳に上すことを禁止した法
律をつくったと書いている。ヤマネというのはネズミに似た小動物である。これを特
殊な飼育室で丹念に育てる。以前、その当時は大変な馳走だったが、プリニウスの頃
には全く見向きもされなかった。プリニウスはこんな無意味な法律がまだ生きている
のに、大理石を輸入したりそれを求めて海を渡ったりすくことを禁止する法律が通過
したためしがないと嘆いている。
 また彼は、第三次ポエニ戦争の11年前、つまり前161年、執政官のガイウス・
ファンニウスの出した法律について触れている。それによると、飼育されない(つま
り野生の)メンドリだけの料理ならいいけれど、それ以外のどんな鶏料理も供しては
いけないとされた。この条項はその後も更新され、ローマのすべての奢侈禁止立法を
通じて生き続けたという。なぜメンドリが禁止されたか。プリニウスによると、デロ
ス島の人たちが、メンドリを肥育し、そのメンドリをその肉汁で照り焼きにして貪り
喰うという有害な習慣を始めたからだという。なぜ有害なのか、どうして食品の内容
や調理法まで制約を加えなければならないのか、現代の日本人には理解できない。プ
リニウスもその理由までは書いてない。
 いくら食用動物とはいえ、自分の肉を自分の肉汁で焼くということが許せなかった
と解釈すべきか? ローマでは法律は道徳から直接出発したといわれる。
 だがどこの世界でもあることだが、この禁制にも抜け道が考え出された。例えば、
オンドリに牛乳に浸した餌を与えて、もっと旨い鶏料理をつくる方法であった。フォ
アグラを発明したのもローマ人である。

(五)
 ローマ人はよく小動物、特に鳥類や魚を食べたらしい。今日は鳥類を中心に。鳥の
なかでもエゾライチョウ、ウ(鵜)、ベニハシガラス、ラゴプス(ライチョウの一 
種)、ノスリなどは珍品とされた。悲劇役者のアエソポスは10万セステルティウス
もする皿に、一羽六千セステルティウスで買い入れた鳥を盛って食べた。その鳥は人
間の言葉を喋る鳥で、アエソポスにとっては一種の食人種の感じに耽りたいという欲
望以外になかったし、自分のあり余る財産を大事にする様子はさらさらなかったとプ
リニウスは批判している。彼に言わせれば、奢侈禁止法なんていうものもいい加減な
ものということだろう。
 美食家といわれるアピキウスをプリニウスは、すべての放蕩者のなかでいちばん食
いしん坊と評している。そのアピキウスは、ベニヅルの舌は特別旨いと言ったらしい
が、クュジャクの舌とは言っていない。『吾輩は猫である』で、迷亭君が苦沙弥先生
にクジャクの舌をご馳走するといってからかった話(ブログ「クジャクの舌」参照)
は、漱石がどこからネタを仕入れたかは知らないが、ローマ人の奢侈ぶりを皮肉った
ものとも読み取れる。このアピキウスについては悪評ばかり高い。セネかは、アキピ
ウスが食卓に何百万セステルティウスも注ぎ込み、わずかな宴会に一元首の収入と国
家の財政に等しいような金を使い、揚げ句の果てに借金で首が回らなくなったと悪口
をあびせた。 
 いま日本には奢侈禁止令や法はない。そんな法律を提案した政治家はたちまち葬ら
れるだろう。「贅沢は敵だ」ではなく「消費は美徳」というモラルがアメリカから入
ってきたのも、もう随分前のことだ。いまや「贅沢は味方」なのかもしれない。

 


神学の侍女

2011-10-23 12:27:44 | 日記

(一)
 小生18歳のときの話。入学したばっかりの学校、S教授が「史学」の担当。「史
学」とはいえ授業の内容はすべてアジア史、教授はトルキスタンが専門で、しょちゅ
うトルキスタンの話。トルキスタンは遠い遠い親戚みたいな気持ちになった。前期の
試験が九月、五題出た。そのうちの一題が「神学の侍女について述べよ」だった。
 全くの「想定外」。いくら頭の中をかき回してみても、アジアやトルキスタンのな
かに「神学の侍女」は見つからなかった。当日の日記には「五問中一問は手も足も出
ず」とある。試験が終わって最初の時間、あちこちから不満の声、S教授はにやにや
笑うのみ。みんなはあきらめ顔。これはもう自然災害みたいなもので「想定外」。勉
強になりました。 S教授がなぜあんな出題をしたか、今でもわからないが、何か考
えがあってのことだろうとは思うが・・・。これは私にとって「事件」で、死ぬまで
忘れられない。
 ある地震学者の言うように「一つの考えにこだわってはいけない」のです。      
                                                                            
(二)
 人間はいろいろな神をつくり、新しい信仰を広めようとする。それには「神学の侍
女」が必要である。S教授にとって我慢のならぬ「神学の侍女」がいたのかも知れな
い。これは全く私の勝手な臆測でしかないが。
 万葉時代、天皇は神であった。明治以降、神としての天皇は復活し現人神(あらひ
とがみ)になった。つまり新陳代謝を行う神ということだろう。天皇神格化に多くの
学者が貢献した。そういう人たちは「神学の侍女」といってもよい。
 多神教の日本のなかで、天皇は真正の神、国家公認の神であった。それを否定すれ
ば国賊となりその身はどうなるかわからない。敗戦に伴う天皇自身の「人間宣言」で
天皇は神ではなくなった。しかし過去の天皇が祀られている例は沢山ある。「初代」
天皇神武を祀った神社は恐らく何百。明治神宮は初詣の人気神社のトップクラス。靖
国神社に祀られているのは250万神ほどか。
 佐高信氏のエッセイで知ったことだが、ある著名なタレント? のK氏は「どうせ
なら大政奉還をもう一度やって、一気に戦前の天皇制に戻すのはどうか」と提言して
いるそうだ。戦前の天皇制とならば、天皇は神として復活することになる。また新し
い「神学の侍女」が必要になる。
 同じ記事によると、ある夕刊紙の、「総理になってほしいと思う著名人TOP10」
という有識者900人へのインターネット調査では、このK氏が総理大臣になって欲
しい著名人の第1位になったとのこと。K氏を推挙した人たちが皆、戦前の天皇制、
つまり神としての天皇を期待しているわけではないと願いたいが、もしそうなれば、
K氏は学もあるらしいから天皇制という神学の侍女の第一候補になり得る。

(三)
 「原子力発電所は神様である」と言っていいのだろうか。いや、ほんとうは「原子
力は神様である」なのだろう。原子力発電所はその神様の現象形態である。そういう
視点に立てば、原爆も、原子力潜水艦も原子力空母もみんな神様の現象形態である。
神様は目に見えない、死なない、怒ると怖い、人間の手にはおえない。だから人間は
生贄を捧げて神様を宥める。すでに、ヒロシマ・ナガサキ、各種の核実験、原発事故
などで数知れない多くの人命を捧げ、心身を傷つけて奉仕の意を表してきた・・・原
子力という神への生贄だ。いままでに「原子力神社」というものがなかったのが不思
議なくらいだ。

(四)
 原発村というのがあるらしい。「らしい」というのは、そういう村が現実に集落と
してあるわけでもないし、公認の存在でもない。ただ、そう言われているだけであ 
る。目に見えるわけでもないが、やっぱり存在する。放射能みたいなものだ。ただし
その村を形成している人物は多分に特定できるし、そのリストをつくった人もいると
いう。
 原子力発電所は原子力開発の華々しい成果であり、アイゼンハワー元大統領が最初
に言い出したのかどうか知らないが、原子力の平和利用は人類の勝利、自然に対する
勝利なのである。人類は原子力エネルギーという新しい神をつくりだした。当然その
ための「神話」とそれに奉仕する「神学の侍女」は必要である。堅固な「安全神話」
がつくられていき、その神話の普及に莫大な費用が用いられる。私どものように福島
から200キロ以上離れている地方都市の町内会の回覧板に、格安の福島原発の1泊
見学ツアーの勧誘が載り、出かけてみると盛大な宴会、持ちきれないほどのお土産と
いう歓待ぶりだったとか。みんなが原発神話の信奉者になって帰ってきたわけでもな
いだろうが・・・。このことは前にも書いた。

 「安全神話」を創作したのは、多くが日本を代表する大学・大学院の教授たちであ
る。古代天皇制の神話は『古事記』や『日本書紀』による。作者たちは、各地の民話
・伝説を寄せ集め、想像力と創造力、そして天皇に対する忠誠心(へつらい)をもと
につくりあげた。戦争中、ラジオでの大本営発表のなかで、しょっちゅう流されたの
が有名な「海ゆかば」である。大伴家持の詠んだとされるこの歌は、大仏造営に功労
があったとして聖武天皇が彼の位を上げてあげてやったとき嬉しがり、天皇にへつら
って詠ったものとされている。

 海ゆかば みずく屍(かばね)/山ゆかば 草むす屍/大君の辺(へ)にこそ死な
め/ かえりみはせじ
 
 電力会社から、研究費という名目であれ他の名目であれ資金を援助してもらった 
り、地位が保証されたり、あるいは家持のように出世コースに乗せられたり・・・そ
うすれば、忠誠心(へつらい)が生まれてくるのも自然の成りゆきだろう。       
 電力会社はもう神様みたいなものである。どうして逆らえようか。大仏造営は人民
を搾取し酷使して造ったという影の部分があったにせよ、いちおう、仏様を造ったの
である。原子力村の「神学の侍女」たちは、自然全体、野や山や、人や動植物、一匹
の虫に至るまでを破壊する暴挙に力を貸したことになる。仏様は一匹の虫にも憐れみ
もてと教えてくれたのに、なんと大きな違い。しかも原子力村の人々は「大仏」なら
ぬ「もんじゅ(文殊)」をつくった。恐ろしいあの高速増殖炉「もんじゅ」のことで
ある。厚かましいこと甚だしい。この「もんじゅ」は故障続きでまだ運転ができな 
い。それでも毎年厖大なお布施を飲み込んでいる。そして、一歩間違えば「文殊」が
たちまち「閻魔」に変身するだろう。「メルトダウン」は他ならぬ「地獄の釜の底」
を見ることだ。

 先の、総理になってほしい人物一位のK氏は原発大賛成で、「安全神話」の推進を
先頭になってやってきたという。この「総理になってほしいと思う著名人TOP10」
にはK氏以外に、現職知事2人、前知事1人が含まれている。この3人を入れて10
人のほとんどが原発賛成か反対を明言しない人であると佐高氏は説明している。私に
はよくは分からないのだが、ちらちら聞くところによると、超有名人、マスコミの寵
児に原発賛成派、運転再開派が割合多いようである。だいたい、マスコミが原発賛成
・促進の立場で記事をつくってきた。3・11以後、少し態度を変え、7か月経った
いま、少し反省らしき文章も載せるようになった。マスコミも原子力村の一員だった
のではないか。そのことは、他の国家権力機構に組み込まれてきた多様な分野におい
ても同列である。

 ここまで書いたところで河村湊氏の文にぶつかった(「毎日」10月19日、「戦後日本
の青春期16」)。「東大教授たちの権威主義や保身、その場しのぎの巧言令色や欺瞞
や恫喝や卑怯さに、私たちは『大学教授』『学者』『研究者』なるものの正体を見た
のだ。原子力村の学者たちが、いかに罪深い研究をプロパガンダを行っていたかが明
らかになった」。すごく直接的な文章である。私など「神学の侍女」などと間接的で
生ぬるい文を書いているというのに。
 そこでちょっと思い出したことがある。終戦直後の頃、一時、東大法学部出が日本
を滅ぼしたという説が生じ、相当流行した。東大法学部出の秀才が日本の政官財界の
中枢を握って間違った戦争と敗戦に導いたということ。かなり説得力があった。
 だが、原子力を神にまで祀り上げたのは、本来はもっと大きな力だったのだろう。
よくは分からないがアイゼンハワー元大統領だとか、中曽根元首相とか、正力松太郎
とかいうもっと上の人。この人たちが神をつくり、東大や東工大の先生は神学をつく
ったり、あるいはその神学侍女を演じたり。その過程で「安全神話」がつくられた。
「大仏」ではなく「もんじゅ」がつくられた。
 いま多くの国民がその神話の呪縛から逃れようとしている。しかし、政財界の首脳
は原発を断念していない。日本を支配する2大政党も、政府も、恐らく最高裁も、関
連地方自治体の長の多くも。財界の総本山も。労働組合最大の全国組織でさえも曖 
昧、つまりどうなるか分からない。政府高官は、日本は議会制民主主義の国だから、
議会の決定に従えという。国民投票やデモで国政を動かそうとするのははもってのほ
かなのだ。確かに日本国憲法では、国政のあり方として「権力は国民の代表者がこれ
を行使」すると定めてある。国民は行使される側ということか?

 被災地の人たちの姿を見たり聞いたりするたびに思う。
 「すべての史書に見られるように、庶民にとってただひとつ重要なのは、家族とと
もに楽しく慎しく生活していけるだけのものを、最低限所有することである。そうで
あっていけない理由がどこにあろう? それ以外の何に関心を向けることができるだ
ろう? 重要な決定はほとんどいつも、見えない所で行われてきたのだから。支配者
や国家元首や政党は、いつの時代にも市民を国政に参加させると言葉では約束してお
きながら、それを実行しようとは夢にだも思わない」(リコッティ『古代ローマの饗
宴』武谷訳)。                                                             
 


「正しい独裁者」

2011-10-16 12:46:53 | 日記

(一)
 ある人(仮にM氏としておこう)の、次のような趣旨の文に出会った。
 昔から芸術には分業はないと言われていて、考え方やデザインはその表現手段と一
体不可分である。それと同じように、科学にも分業はあり得ない。優れた自然科学者
はあらゆる分野にその才能を発揮して生きている。天才レオナルド・ダ・ヴィンチは
芸術家でもあり科学者でもあった・・・。

 10年ほど前の文章だと思う。そんなに感心するほどの文章ではないし、首を傾げ
たくなる部分もあるが、オバマ大統領が、ステーブ・ジョブス氏はレオナルド・ダ・
ヴィンチみたいな天才だと称えたという報道を見て、ふと思い出したのである。ステ
ーブ・ジョブズ氏という人物について、私の意識のなかにほとんどなかったのだが、
派手なマスコミ報道で、否応なしに耳や目に入ってきた。しかし私には、その当否を
判断する材料はない。

(二)
 東京大学教授坂村健氏の「『正しい独裁者』の死」という論説を読んだ(10月9日
、毎日新聞「時代の風」欄)。
 氏は、トルコ革命の指導者で、トルコ共和国の初代大統領ムスタファ・ケマル・ア
タテュルクの話から始める。ケマルは、「私の提案に対し議会は討議なしに採決する
こと」という条件を飲ませて大統領になる。そして次から次へと近代的改革を成功さ
せる。坂村氏はこの改革の素描を行ったのち「今日の民主主義国の一般の評価基準か
らいって結果が『正しい』ものであったのは確かだ。『正しい』目的と、それを実現
できるだけの桁外れの能力、そしてブレない心・・・そのような稀有の資質を持った
『独裁者』が存在するなら、彼に社会を任せるのが多分人間社会の運営方法としてベ
ストなのだろう」と評する。ケマルは「あと10年たてば引退できるだろう」と述べ
た2年後に病に倒れる。坂村氏は、「絶対権力は、絶対に腐敗する」のだから、「そ
の早逝まで含めてまさにケマルは理想的な『正しい独裁者』だったとも言える」と論
じている。
 「正しい独裁者」というのはパラドックスであると思う。独裁は本来正しくない。
独裁を排除するために人類は多大の苦労をしてきた。そして民主主義が考案された。
やむを得ず臨時に独裁を認めた場合はあった。キンキナトゥスはいやいやながら独裁
官を引き受けたが、仕事を終えると10日足らずで辞職し、自分の土地の耕作に戻っ
た。共和制ローマの偉人として語り継がれてきた。

(三)
 坂村氏はスティーブ・ジョブズもまた「正しい独裁者」だったという。彼の為した
業績のどれ一つとっても、驚くほどの改革。それを一人の人間が短期間で実現したと
いうのである。株主におもねることなく「独裁」ができる強い立場を築いたこともケ
マルに迫る。オープン系の情報通信関係者からはまさに「独裁者」と非難されていた
・・・。「ケマル推定享年57。ジョブズ享年56。皆に惜しまれる速過ぎる死まで
含め、彼らはまさに『正しい独裁者』を全うした」と氏は述べる。早逝までもが功績
のようだが、早く死ななくても引退すればそれでいいじゃないか。だから任期制とい
うものをつくった。そもそもジョブズ氏の会社がそんなに儲ける必要はなかったし、
儲けてはいけなかったのだ。ジョブズ氏にはその意味が分からないだろう。これは倫
理の問題だ。ほんとうは、経済の問題でもあるのだが。私は、そのジョブズ氏を天ま
で持ち上げ賛美する風潮にはついていけない。
             
(四) 
 具体的な業績として坂村氏のあげるのは概略以下のとおり。ケマルは「政教分離か
ら始まり、メートル法やアルファベットベースのトルコ文字の導入、女性がベールを
必要としないという服装改革まで」おこなった。ジョブズは、史上最高の経営者とも
いわれるが一言でいうなら改革者。パソコンのコンセプトの確立、音楽流通の根本か
らの変革、携帯電話を個人の持つ基本的な情報端末として組み直し、タブレット端末
による紙や本やテレビといった既存メディアの置き換え・・・。
 
 ケマルの行ったのは政治改革、そのために国民は何らかの経済的負担をしたか? 
ジョブズの改革の恩恵を受けるためには大きな経済的負担に耐えなければならない。
私は今この原稿はワープロで作成している。このワープロはとっくに生産停止で、2
年前故障したときメーカーに問い合わせると、修理はできないという。街の修理屋さ
んに部品を探してもらい待つこと1年、ようやく修理できた。だが、今度故障したら
もう駄目だろう。パソコンも持っている。古いパソコンだ。このパソコンやワープロ
が故障したらどうしようと、それを考えると頭が痛い。       
 ジョブズ氏は経営に成功してとんでもない大金持ちらしい。私のように貧しい市民
に無償でそういう機械を分けて貰いたい。ジョブズ氏でなくてもよい、孫氏でもよい

 先日テレビを見ていたら、ジョブス氏の特集をやっていた。ほんのちょっとしか見
てないので不正確だと思うが、それによると、ジョブズ氏は、パソコンは人の心を豊
かにし、世界を良くすると言っていたそうだ。今日(10月14日)また西川恵とい
う人が新聞で「民主主義のツール」というタイトルで書いているので驚いた。ジョブ
ズ氏の逝去後、カラスの鳴かない日はあってもジョブズ氏追悼の報道がない日はない
のではないか? 
 西川氏はこういう。「本来パソコンは大勢(筆者注:「体制」ではない)に抗した
対抗文化の申し子として・・・米国で生まれた」。パソコンは「出発点において『民
主主義の実現』という理想主義的な理念と思想に支えられていたことは押さえておい
ていい」。
 大勢とは「人数の多いこと」と辞書にあった。つまり民衆である。大勢に抗するこ
とがなぜ民主主義に繋がるのか私には良く分からない。

(五)
  
 パソコンというのは凄いんですね! 人の心を豊かにし、世界を平和にし、民主主
義を実現させる! こんなにいいものはめったにない。ノーベルはダイナマイトを発
明して「ノーベル賞」をつくった。ジョブズ氏が生前「ジョブズ賞」をつくらなかっ
たのは残念至極。ジョブズ氏をレオナルド・ダ・ヴィンチになぞらえたオバマ大統領
もさぞかし残念がっていることだろう。  
 ジョブズ氏はアメリカ人だし、パソコンはじめアイポッドとかアイフォーンとかそ
の他それに類した商品(私にはさっぱりわからないのだが)が一番普及しているのは
アメリカだろう。なにしろそれらの先進国だ。ジョブズ氏の発明したものが民主主義
を実現させ、世界の平和、人々の心の豊かさを保証してくれるとしたら、真っ先にア
メリカにおいて実現しなくてはいけない。
 民主主義のモットーは「自由・平等・友愛」である。アメリカの億万長者バフェッ
ト氏の昨年の課税可能な年収は3980万ドル、この円高で計算しても約280億 
円。その所得税額は690万ドルで17・4%、一方でバフェット氏の会社の従業員
の多くの税率は30%台なのは不公平だと氏が表明したというニュースは拡がってい
る。バフェット氏は不公平だと言っているそうだが、アメリカの支配的な富裕層はそ
れが公平なのだと主張しているのでは? きっとそうだろう。アメリカでは民主主義
と資本主義は同義語になっており、平等を追求すると資本主義に反し民主主義に反す
ると考える勢力が多数を占めるらしい。                                       

 アメリカにおける貧富の差を弾劾し「ウォール街を占拠せよ」と呼びかける抗議デ
モが全米各地に拡がっているというニュース。ジョブズ氏の意図では、彼の商品の普
及によって真っ先にアメリカは民主主義になる筈だった。大規模なデモが全米に波及
しているということは、その民主主義の成果なのかもしれない。さらにバフェット氏
の息子のハワード氏はこのデモを擁護し「この国で所得格差がこれほど広がったこと
は今までなかった」「政府が貧困者層向けの支援プログラムを信じられないほどの規
模で削減しようとしているのは、私の人生でこれまでなかった」と語ったそうだ。私
の読んだニュースではこれくらいしか書いていなかったので詳しくはわからない。
 まとめてみると、格差が生ずるのは民主主義、つまり資本主義だから当然、という
よりそうでなければならない。格差を無くすのは共産主義。デモは民主主義の象徴、
だから格差をなくせよとデモを行うのも民主主義の現れ。そういうことだから、アメ
リカはどの面から見ても民主主義、万歳。

 テレビが出現、白黒からカラーテレビへ、ブラウン管から液晶パネルへ、立体画面
のテレビ、匂いの出るテレビ? アナログから地デジへ(わが家ではまだアナログを
見ているが)。団扇から扇風機へ、炭火の火鉢・炬燵から電気炬燵、石油ストーブ 
へ、そしてエアコンへ。冷蔵庫には無縁だったのが氷の冷蔵庫へ、そして電気冷蔵庫
へ。そうやって便利なものの発明を探していけばキリがない。それぞれが民主主義の
発展に貢献したんだろうな。電気炊飯器は女性の地位向上に役立った。電気掃除機も
・・・。さあ、民主主義だ、民主主義だ!
 自衛隊の次期戦闘機購入に1兆円ほどかかるとか。世の中進歩する! 昔は「神 
風」などという戦闘機が人気だったがな・・・今思えばおもちゃだ。

 これで三度目になるが、漱石の『行人』の兄さんの言葉をここでもう一度引こう。
 「人間の不安は科学の発展からくる。進んで止まることを知らない科学は、かつて
我々にとどまる事を許して呉れた事がない。徒歩から車、車から馬車、馬車から汽 
車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、何処まで行っても休まし
て呉れない。何処迄伴れて行かれるか分からない。実に恐ろしい・・・」         
                                                                           
                                                                           


風のプリニウス(3)インド航路

2011-10-09 16:16:47 | 日記

   <本日のメモ>「思い出せ『足るを知る』」
 橋田寿賀子さんの言葉から。「経済成長のために原発は必要だと言いますが、説得
力に欠けます。だって、原発に頼った成長の”成果”が、格差と失業、年間3万人を
も超える自殺者じゃないですか。企業とごく一部の人がもうけているだけ。原発に頼
る生活に慣らされて生まれた欲望が人々の絆を奪い、原発が生み出す電力が労働者の
仕事をも消し去ってしまった」(毎日新聞夕刊、9・30)。

(一)
  先にも書いたが、プリニウスは奢侈を徹底的に嫌った。のみならず金、つまり黄
金自体を嫌っていた。 「人生から金が完全に放逐できたらよいのだが、実際はそれ
は世界のもっとも賢明な人々に毒づかれ罵られながらも、ただ人生を破壊するために
のみ発見されたのだ。品物が品物と直接に交換されていた時代は、現代に比べてどん
なに幸福な時代であったことか」。そして奢侈を憎悪することは正当なことだと理解
するために、頭のなかで極東への旅行を描いてみたらどうかと説くのである。彼の頭
のなかには、セレス(中国)人とタプロバネ(スリランカ)人の物々交換があったの
だろう。
 だがそれは彼の幻想だったかも知れないし、よくは知らない世界のことを理想化し
すぎたようにも思えるのではあるが。

(二)
 ローマから極東への旅のルートは大きく分けて二つあった。一つは凍てつく氷の岩
山を踏破し熱砂と渇きに耐えて砂漠を越える命がけの大陸横断のコース。もう一つが
地中海-ナイル川-紅海-エリュトラ海(アラビア海)と繋ぐ海のルート。これだっ
て命がけの冒険だった。いずれも莫大な人命をその途路で失っている。セレスの国(
中国)に到達するのはほとんど不可能だった。
 プリニウスは、アレクサンドロス大王の艦隊が辿った航路を詳しく説明している。
それはそれで興味ある話だがそれは省略。ここでは、プリニウスの頃の一般的な航路
についてのみ紹介する。それは次のとおり。
 ローマの外港オスティアから出発するとして、ナイル河口のアレクサンドリアまで
到達するのだって決して安楽なものではなかった。運が悪ければ嵐に見舞われ海の藻
くずと化した。アレクサンドロスは繁栄を誇った、ある意味では享楽の都市であっ 
た。そのアレクサンドリアから2マイルのところにユリオポリスの町があり、そこか
らエジプトの古都テーベの近くのコプトスまでナイルを船で遡航する。貿易風が吹い
ている夏至の候でも12日かかる。                                           
  コプトスで上陸、そこから真東へ紅海西岸の港町ベレニケまではラクダによる砂漠
の横断、これまた12日間の旅程である。いくつもの宿駅に泊まるが、なかでもトロ
ゴデュティクムという隊商宿は2000人もが宿泊できる大きな宿駅である。暑いの
で昼は宿で過し夜歩くから時間がかかる。夜の行程は星が道しるべ。このルートはア
レクサンドル大王死後エジプトを支配権に入れたラゴスが作らせたものであるという。
 港町ベレニケから紅海を南下する海路は、夏至、シリウス星が現れる前か、現れた
直後に始める。すると、当時「幸福のアラビア」と呼ばれたアラビア半島の南東部、
現在のイエメンのオケリスあるいはカネ(乳香を産する)までが海路30日。そのオ
ケリスからインドへ向かうのが最も都合がいい。季節風が吹いていればインドの最初
の交易港ムジリス(現在のケララ州コーチン付近)まで40日である。つまり順調に
いっても片道94日かかることになる。
 インドからの復路は冬、インドから北東の風に乗って出港し、紅海に入った後は西
南風あるいは南風に乗って航海してその後も同じ道を帰る。
 上記はアレクサンドリアからインドに至る最も一般的な通商路をおおざっぱに示し
たにすぎない。この航路を示した地図は高校の世界史の教科書にも載っているいるら
しい。『博物誌』にはインド、パキスタン、イラン、サウジアラビア、エチオピアな
ど、ローマ帝国圏外の事情について詳しく興味ある報告が盛り沢山にあるが、ここで
のテーマではない。
 インドに単純に往復するだけで200日近くかかる大旅行である。インドの海岸近
くやアラビア近辺には海賊が出没していたらしい。「アラビアン・ナイト」を思い出
すがそれはもう少し後の話。そのような航海に成功すれば一挙に巨万の富を得るが、
それは死と背中合わせ? 隣り合わせ? の冒険だった。先のはっきり見えない航海
である。無事帰ってくるにしても、何年もかかる大冒険を覚悟しなければならなかっ
た。航海術の発明者は呪っても呪いきれないとプリニウスが言うのにも一理ある。 

(三)                                                                     
 中国から中継ぎ貿易で運ばれてくる絹は別にして、インド・アラビア周辺からロー
マへ運ばれてくる贅沢品の最たるものは真珠であった。インド洋や紅海に多く産す 
る。沖合い50マイルほどのところで採取が行われている。真珠はローマのご婦人た
ちを喜ばせ見栄と虚栄の虜にさせる。サンダルの紐にさえ真珠をつけたりする。男ま
でが真珠を身につける。「何たることだ!」とプリニウスは慨嘆するが時世には逆ら
えない。真珠採りの海女たちが命がけで深い海の底に潜ってくるのだ。そんなものに
まで手を伸ばす必要があるのか。
 もう一つ海の底に潜って採ってくるものにアクキ貝など紫染料をとる貝類である。
紫染料は元老院議員や高い身分の人間の着るトーガを染めたりするのに使った。クレ
オパトラが自分の戦艦の帆を紫色に染めたことは前に述べた。プリニウスはそんな危
険な海の底からとった品物を、はるばるローマに運び込まなくても、紫色の染料がと
れる植物がちゃんとあるのにと、その無駄な消費を批判する。
 陸上の産品でローマにもたらされた高価な商品はまず胡椒、これは説明の必要がな
い。それから香料の原料となる各種の植物、シナモン、カシア、乳香、没薬、バルサ
ム、ストラックス、ガルバヌム・・・と次から次へとその産地やその特性などの解説
が続くが、そんなことをいちいち取り上げてはおれない。ただ乳香についてだけ少 
し。
 プリニウスによれば、乳香のとれる乳香樹の外観はギリシア人もローマ人も誰もは
っきりとはわからないのだ。生産地の人が秘密にしている。秘密といえば、セリスの
絹も、蚕や繭、桑の木、その他製法はおろか、産地でさえも当時のローマ人にとって
摩訶不思議で、何がなんだかわからない状態で、ただ絹への欲求だけが肥大化してい
た。しかし乳香については、プリニウスはその採取方法については具体的に述べてい
る。これはわかっていたらしい。乳香は乳香樹からとれる樹脂である。それが先に書
いた通商路を辿ってアレクサンドリアに運ばれてくる。アレクサンドリアはいうまで
もなく、すでにローマ帝国の領域になっている。ここでのプリニウスの描写はいろん
な書物に引かれている有名な箇所だ。私も真似て少し引こう。
「乳香が商品に仕上げられるアレクサンドリアでは、まあ、何たることぞ。どんな不
寝番をおいても十分に工場を守ることができない。工員のエプロンには封印がおさ 
れ、彼らはマスクをかけ、あるいは頭から目のつんだ網をかぶらなければならない。
構内を離れることが許されたときには全裸にならなければならない・・・」。現在の
アメリカの空港では、衣服を透視できる機械を使ってこれに近い身体検査をしている
らしいが、それは爆薬や武器の有無を検索するためだ。世の中、ずいぶん進歩したも
のだ。
 香料は、上記した各種の材料を混ぜ合わせて一つの匂いを作ることだという。誰が
最初の香料発見者かは記録はないとプリニウスはいう。彼は発見者を探すのが好きな
のだが、わからないことはわからない、だが、ペルシア民族だというのは正しいとい
う。そうは言っても、まあ、これもそんなに正しくはないだろう。アレクサンドロス
大王がペルシアのダリウス王を破ったとき、ダリウス王の所持品のなかに香料箱が発
見された。その後、ローマ社会でも、香料の楽しみは最も優雅で立派な人生の享楽の
一つとして取り入れられたのだという。だがプリニウスは皮肉屋である。「香料はあ
らゆる奢侈のうち、もっとも無駄な目的に奉仕するものだ。なぜなら、真珠や宝石は
髪の毛につけることができるし、衣裳はしばらくの間もつ。しかし香料にいたっては
たちまちに香気を失い、使用するとその途端にもう死んでしまうのだから」。     
  さらに、香料に用いられる香木などが、死者に相応しい捧げ物になりはじめたとい
う。死者への捧げ物というのは、棺を香木で焼くことをいう。こんな贅沢は高度成長
期の日本でも聞いたことがない。プリニウスは「アラビアは1年間で、ネロ帝がその
妃ポッパイアの葬儀にあたって一日のうちに焚いただけの香料も生産していない」と
伝えている。本当なら呆れ果てたことである。

(四)
 プリニウスは、インドがローマ帝国から富を吸い取ること5000万セステルティ
ウスを下らない年はないと断言する。ローマではインドでの仕入価格の100倍で売
られていることを考えると重大問題だという。
 また別の箇所では「最小限に見積もっても、インド、せレス、アラビア半島はわが
国から毎年1億セステルティウスを得ている。それがわれわれが贅沢と婦人のために
費やす金額である」と。
 セステルティウスというのはローマの貨幣の基本的計算単位であり、それが具体的
に金貨なのか銀貨なのか、あるいは青銅貨かはわからない。それに当時インドその他
で貨幣経済がどれくらい浸透していたのか、それもはっきりしない。実際にインドで
はどのローマ貨幣も発見されている。貨幣に用いられた金・銀・青銅もそれぞれが金
属としての一種の商品であり、現地人にとっては物々交換に過ぎなかったのかも知れ
ない。タプロバネ(スリランカ)で見た、相互が顔を合わさず言葉も交わさない物々
交換とは違うが、貨幣を交換手段として用いる商品交換ではない商取引である。事実
インドあたりでは、金貨に穴を開けて飾りにしたり、鋳つぶしたりする例も多かった
らしい。金属としての使用価値を使用しているのである。つまり鉄の交易と同じであ
る。プリニウスはローマが輸入する鉄のうちでセレス(中国)のものが最高で、ペル
シアのがその次だといっている。あんなに重いものをどういう経路で運んだのか、プ
リニウスは書いていない。セレスとあるのは中国ではなくインドだという説もあるが
不明である。
 プリニウスは、東方からの輸入品がローマでは100倍の値段で売られていると嘆
くが、反対にインド人は金が100倍の値段をしていると嘆いているかも知れない。
 ローマには戦勝の賠償として莫大な金が流入したし、領土内、たとえばスペインで
は豊富な金鉱山もあった。それにイタリア周辺のぶどう酒生産などは相当の利益を生
み出していた。従って、ローマ帝国の経済力からいえば1億セステルティウスといっ
ても国を傾けるほどの負担ではなかった筈である。ただプリニウスにとってはそれほ
どの金額がローマ人、ローマのご婦人たちによって浪費されていること、そしてその
奢侈がローマ人に与える影響を危惧しているのだが・・・。

 だが彼がそう嘆いている古代ローマの時代では、それらの商品を運搬する船は彼の
言うように風と波だけを頼りにしたのである。石炭も石油も電力も、原子力も一切使
っていない。陸に上がってからも人力と家畜の力に頼るだけだった。それであの古代
文明を築きあげた。
 だがしかし、そのローマ帝国の繁栄やその浪費や奢侈も、南極やアマゾン川、シベ
リアのツンドラにとっては何の意味も持たなかった。産業革命以後、少しは変わった
だろう。だがしかしそれもほんの針の一刺しくらいなものである。ところが今、地球
全体が、自然全体がそのすみずみまで隈なく変えられつつあるのだ。自然は死を迎え
つつあると人は言う。それが、世界のほんの一部における近々半世紀余りの間の営為
のなせる業だ。二酸化炭素の増大やオゾン層の破壊もそうだが、フクシマの放射線だ
って地球にくまなく拡散し自然の死に加担しつつあるのだ。